2020年 01月 15日 ( 1 )

御殿場編(9):秩父宮記念公園(16.5)

 さて、秩父宮に関して、『昭和史発掘』(松本清張 文春文庫)の中に、気になる一文があります。

 宮廷の内部を知悉し、ときどきの情報を木戸より得ていた西園寺の云うことだから、いい加減な話ではない。しかも「賢い方だらうがとにかくやはり婦人」である皇太后に西園寺はそうする。
 どういう「憂慮するやうなことが起り」そうなのか内容は分らないが、およその推測はできる。その一つの参考となるのに、皇太后は秩父宮を溺愛していたという通説がある。
 二・二六事件発生後、弘前より急いで上京参内した秩父宮に対し天皇が大いに不機嫌だったこと、宮中からまっすぐ大宮御所に入った秩父宮が皇太后のもとにかなり長い時間とどまっていたということ、また、天皇が「叛徒の撃滅」に異常なほど熱心だったことなども、一つの示唆となろう。(⑧p.429~30)

 昭和天皇と秩父宮の関係、たいへん気になります。手持ちの歴史書を紐解いたのですが、詳しく分析したものはありませんでした。いたしかたない、論拠は不分明ですが、いくつかのサイトを参考にして、私なりにまとめてみました。

 兄の昭和天皇と一歳年下の弟の秩父宮は気性や性格が対照的で、幼少のときから意見の相違や対立があり、あまり親しいとはいえませんでした。研究者肌の天皇とは対照的に秩父宮はスポーツ万能の爽やかな長身の青年であり、かつて兄を"鈍行馬車"と評したように、俊敏で豪気な秩父宮には、"ゆっくりのんびり"で、「食事に一時間もかかるような」兄を、内心軽侮する気持があったようです。そして陸大を優秀な成績で卒業し、歩兵第3連隊時代には兵と共に泥まみれになりながら軍務に励むなど、軍人の信望を集めていたのは、昭和天皇ではなく秩父宮でした。
 そして昭和恐慌、満州事変、その前後に起きたクーデター未遂事件(三月事件・十月事件)など、激動の時期を迎えると、総力戦体制構築のための国家改造の動きが、軍部や青年将校の一部からわきおこります。秩父宮も西田税北一輝,さらには歩兵第3連隊の青年将校らの影響を受け、国家改造へと考えが変わっていきました。こうした動きを警戒した昭和天皇は、1935(昭和10)年に秩父宮を青森県弘前の連隊に異動させてしまいました。
 そうした中、二・二六事件が起こりました(1936)。中心となった青年将校たちは、秩父宮を擁立して国家改造・昭和維新を決行しようとし、秩父宮もこれに協力する意思があったようです。この際、昭和天皇は侍従に「決起したのは歩兵第3連隊か?」と尋ねました。侍従がそうです、と答えると「それは、かつて秩父宮が勤務していた部隊だな」と言ってから、「秩父宮は弘前の連隊にいるはずだが所在を確認してくれ」と命じました。
 ところが決起を知った秩父宮は、翌日の2月27日に弘前から上京の途についていました。この上京を知った青年将校たちは自分たちの維新がいよいよ果たされるのだと奮起します。しかしその動きを予め警戒していた天皇は秩父宮を監視していました。この時も秩父宮と将校たちを合流させないよう、憲兵を派遣して天皇の御所へと連れてきました。昭和天皇と会い、恫喝された秩父宮はここでクーデターを諦め、将校たちを裏切ります。後ろ盾を失った将校たちは意気消沈し、二・二六事件は鎮圧されることになりました。
 後日談です。秩父宮は1940(昭和15)年以降、長期療養生活に入りますが、昭和天皇はただの一回も見舞っていません。実は秩父宮が頑なに、見舞いを断りつづけていたのだと言います。そして1953(昭和28)年1月4日に逝去、享年50歳。その直前、秩父宮は「遺体は解剖するように」と言い残していました。これは毒殺されたと自身も思っていたからこその発言でしょう。この解剖結果は公表されていません。その葬儀に昭和天皇は出席しなかったことも付記しておきましょう。

 というわけで、何分研究書を読むことができなかったので、真相について確言はできません。ただ荒唐無稽の与太話でもなさそうです。いずれにしても、岸信介、松岡洋右、秩父宮といった戦前日本のキー・パースンたちがここ御殿場に別荘を構えていたことは興味深いですね。
by sabasaba13 | 2020-01-15 06:28 | 中部 | Comments(0)