奥日光編(7):イタリア大使館別荘(15.10)

 それでは中を見学させていただきましょう。竣工は1928(昭和3)年、設計はアントニン・レーモンドです。玄関から入った瞬間、まずその広々とした明るい室内に驚きました。居間、書斎、食堂を一室とし、湖を臨む西面にはサンルーム風ベランダを設けられて、壁面はすべてガラス戸になっています。そこから差し込む自然光に、思わず♪やさしさに包まれたなら♪と口ずさむ私。♪目にうつる全てのことはメッセージ♪と合いの手を入れる山ノ神。ベランダからは、美しい中禅寺湖と山なみを手に取るように一望できます。ぶんだばー!
 そして圧巻は内装です。地元の木材・日光杉の杉皮と杉板を割り竹で固定し、市松、網代、亀甲、矢羽など、ありとあらゆる意匠で壁面や天井を飾っています。凄い… これほど心愉しく、心地良く、心落ち着く空間には、めったにお目にかかれるものではありません。
 レーモンドの建築は、これまでもカトリック新発田教会聖パウロ教会東京女子大学聖路加国際病院群馬音楽センターを訪れたことがありますが、この別荘が最高傑作です。ここを整備し公開にふみきってくれた日光市(なのかな)の英断と見識に、衷心より感謝いたします。ほんとうに来てよかった。

 本日の八枚です。
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# by sabasaba13 | 2019-03-22 06:24 | 関東 | Comments(0)

奥日光編(6):イタリア大使館別荘(15.10)

 そして数分走ると、イタリア大使館別荘記念公園に着きました。ここの存在を知ったのはテレビ東京の『美の巨人たち』という番組のおかげです。設計はわが敬慕するアントニン・レーモンド、杉皮をふんだんに使った見事な意匠に息を呑みました。いつの日にか必ず訪れるぞと♪空に灯がつく通天閣におれの♪闘志を燃やしていたのですが、やっと夢がかないました。
 まずは彼のプロフィールを、エアスケープ建築設計事務所の「houzz」というサイトから引用します。簡にして要を得たすばらしい紹介です。
 チェコに生まれ、のちにアメリカ国籍を取得したレーモンド(1888-1976)が、フランス生まれのアーティストである妻のノエミ・ペルネッサンとともにライトのもとで働き始めたのは、1916年のことだった。1919年、帝国ホテル建設に携わるライトを手伝うため夫妻は東京にやって来る。それから40年以上にわたり日本で過ごすなかで、400件を超える設計を手掛け、レーモンド自身の仕事だけでなく、彼の事務所で働いていた吉村順三や前川國男らの仕事をとおして日本のモダニズム建築に大きな影響を与えることになる。
 師のライトと同じく、レーモンドも建物内で使う家具や照明すべてをノエミとともに設計しており、その土地の伝統や風土を尊重することが重要であると理解していた。1921年に独立して事務所を構えると、帝国ホテルと同じ現場打ち鉄筋コンクリートを使いながらも、その中に伝統的な日本の木造建築を思わせるディテールを加えるなど、ライトの影響下から脱する試みを始めている。またレーモンドは、1923年の関東大震災で多くの建物が崩壊してしまった東京で、フランス大使ポール・クローデルなどのために小規模な木造住宅をいくつか設計している。
 イタリア大使館別荘プロジェクトを引き受けたレーモンドは、ともに帝国ホテル設計にも携わっていた内山隈三、そして伝統的工法だけでなく新しい技術を取り入れることにも抵抗のなかった日光大工の名棟梁・赤坂藤吉と協働して作業を進めていった。赤坂は、オープンプランの間取りにも伝統的な尺貫法による間(けん)を用い、建材選びを助けたほか、天然の木材の扱いにおいて驚くべき能力を発揮した。モダンでありながら日本建築の伝統を反映したレーモンドのデザインは、用いた自然素材と絶妙に一体化しており、永久的に建物が周囲の環境に溶け込んでいるようだ。レーモンドはのちにこう記している。「日本は美しい国だ。ここでは、家のなかに自然を取り込んで人間がその恩恵を受け、身近に自然と触れながら健康的で現代的な生活を送るべきとされており、またそれが可能なのだ。」

 余談ですが、フランス大使ポール・クローデルは彫刻家カミーユ・クローデルの弟ですね。また関東大震災に際して、次のように述べていることも記憶に留めましょう。
 災害後の何日かのあいだ、日本国民をとらえた奇妙なパニックのことを指摘しなければなりません。いたるところで耳にしたことですが、朝鮮人が火災をあおり、殺人や略奪をしているというのです。こうして人々は不幸な朝鮮人たちを追跡しはじめ、見つけしだい、犬のように殺しています。私は目の前で一人が殺されるのを見、別のもう一人が警官に虐待されているのを目にしました。宇都宮では16人が殺されました。日本政府はこの暴力をやめさせました。しかしながら、コミュニケのなかで、明らかに朝鮮人が革命家や無政府主義者と同調して起こした犯罪の事例があると、へたな説明をしています。(『孤独な帝国 日本の1920年代』 草思社)

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2019-03-20 06:21 | 関東 | Comments(0)

奥日光編(5):奥日光(15.10)

 イタリア大使館別荘に向かう途中で、イギリス大使館別荘の整備し工事をしていました。中禅寺湖畔には、各国大使館の別荘が蝟集していたのですね。当時の日光には中禅寺湖畔に数ヵ国の大使館別荘があり、「夏には外務省が日光へ移る」といわれたそうです。今では整備も終わり、公開されています。わが敬慕するイザベラ・バード女史も滞在し、友人あての手紙に「山荘から眺める風景の素晴らしさ」を綴っているそうです。いつか訪れてみたいなあ。

 後日談。朝日新聞「be」(2016.5.14)に載った「みちのものがたり」という記事に、以下の記述がありました。
 1872(明治5)年3月、まだ雪が残るこの寂しい山道を、奥日光を目指して歩く外国人青年がいた。後に駐日英国公使となる書記官アーネスト・サトウ(1843~1929)だ。
 1872年、奥日光を旅した後、サトウは英字新聞に日光案内記を連載した。3年後には英文では初の『日光ガイドブック』(ジャパン・メイル社)を出版。すでに有名だった箱根を引き合いに、中禅寺湖をこう絶賛している。「箱根の湖よりずっと絵のように美しい」 外国人として奥日光観光の口火を切っただけでなく、ほかの外国人に、その魅力を伝える役割も担った。
 それに応じ、多くの外国人が奥日光を訪れ、魅了されたことは、様々な文章から今に伝わる。たとえばベルギー公使夫人メアリー・ダヌタンは、アルプスの名勝を連想したと日記に書き留めている。「イタリアのコモ湖の風景が私の心の中に浮かんできた」…
 この湖畔の外交官らの別荘ブームを先導したのもサトウだった。日本を一時離れた後、95年に全権公使として12年ぶりに赴任したサトウは翌年、最も眺望が良い湖の南岸に別荘を建てた。英国人法律家に続く別荘だった。この公使時代の約5年間に、サトウは奥日光を31回訪れ、滞在期間はのべ218日に達した。…
 中禅寺湖に浮かべたボートに初老の男と、学生服の青年が乗った一枚の絵が残っている。サトウは日本人女性の武田兼と結婚し、2男1女をもうけた。描かれた二人は、サトウとその次男の姿だ。
 日本の後、清国の公使に転任したサトウは1906年、その職務を終えて英国に戻る途中に立ち寄ったのが、最後の日本訪問となった。船が出航延期になると、サトウは次男と連れ立ってつづら折りを登り、奥日光に向かった。絵はその1シーンだ。
 次男とは、日本山岳会の創始者の一人として知られる武田久吉(1883~1972)。サトウの勧めで英国へ留学して博士号を取り、尾瀬の高山植物保護に力を尽くして、「尾瀬の父」とも呼ばれている。
 「父は周囲の好奇な目から私たちを守ろうと英国人だった祖父の話を一切しなかった」。そうふり返るのは、久吉の孫の林静枝さん(86)だ。自分が外国人の孫であることを知ったのは、大学時代に戸籍を取り寄せてから。その後で母に、祖父が奥日光を愛した英国外交官だったことなどを教えられた。
 「サトウが険しい中禅寺坂を何度も往復し、山歩きと植物採集への情熱を傾けたことは、父にしっかりと受け継がれていたのですね」
 『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫)の著者、アーネスト・サトウの知られざる顔ですね。だから人間は面白い。
# by sabasaba13 | 2019-03-18 09:54 | 関東 | Comments(0)

奥日光編(4):奥日光(15.10)

 湯川に沿って40分ほど歩くと、華厳滝、湯滝とともに奥日光三名瀑の一つと称えられる竜頭の滝に着きました。男体山の噴火によってできた溶岩の上を210mにわたり流れ落ちる渓流瀑で、滝壺付近が大きな岩によって二分されており、その様子が龍の頭に似ていることからこの名が付けられたそうです。きれいな紅葉とあいまって、見事な景観を堪能することができました。
 それではイタリア大使館別荘へと向かいましょう。菖蒲ヶ浜停留所でバスを待ちますが、もう下りの渋滞がはじまっている模様です。バスも十五分遅れでやってきましたが、ほぼ満員で座ることができません。中禅寺湖温泉手前で乗客が降り、やっと座れました。さて、ここで思案のしどころです。帰りは、東武日光17:27発のスペーシアを予約してありますが、これからさらに激しくなりそうな渋滞にはまると間に合わないかもしれません。このまま座って日光駅まで行き、その周辺をぶらつくのも一つの手。あるいは、中禅寺湖温泉で降りてイタリア大使館別荘までタクシーで行けば、渋滞のピークの前に駅に戻れそうな気もします。一か八か、のるかそるか、後者を選びました。中禅寺湖温泉で降りると…日光駅行きのバス停にはすでに長い長い長い行列ができています。やれやれ、はずしたか。気を取り直して熊と猿の顔はめ看板を撮影。
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 そして観光案内所に寄り、地図をもらって訊ねると、歩けば35分ほどだと教えてくれました。またタクシーをつかまえるのは難しく、客をおろしたタクシーに偶然出くわすのを祈るしかないとのこと。やれやれ、どうしよう。山ノ神と相談していると、案内所の前でタクシーが客をおろしました。盲亀の浮木優曇華の花! しかし係の方が、あの運転手さんは短距離では乗車拒否すると教えてくれました。しかし千載一遇の機会、駄目でもともと、近づいて運転手さんにイタリア大使館別荘まで乗せてくれと所望。すると、いっそのこと日光駅まで乗らないかと提案されました。別荘を30分見学、その間待っていて、日光駅まで5000円でよいとのこと。よろしい、のった。

 本日の三枚です。
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# by sabasaba13 | 2019-03-15 06:23 | 関東 | Comments(0)

奥日光編(3):奥日光(15.10)

 紅葉や水面に映る木々を愛でながら湯川に沿って木道を歩いていくと、二十分ほどで小滝にとうちゃこ。水がきれいな、小振りで愛らしい滝でした。
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 さらに湯川に沿って、平坦な道を歩いていきます。爽やかな青空、清冽な空気、煌く川の流れ、そしてさまざまな木々の紅葉を満喫しながらの心楽しいハイキングでした。
 三十分ほど歩き、小田代橋を渡ると湧水の綺麗な泉門池(いずみやどいけ)です。その遠景には、雄渾な男体山が聳えています。
 そして少し歩くと、いよいよ戦場ヶ原が見えてきました。奥日光のほぼ中心に広がる湿原で、その昔中禅寺湖をめぐって、男体山の神と赤城山の神が争った「戦場」だったという神話から、「戦場ヶ原」と呼ばれるようになったそうです。かつては湖であったものが、400ヘクタールの広大な湿原となり、今では高山植物や野生動物の宝庫となっています。国際的に重要な湿地として「ラムサール条約」にも登録されています。心が広がるような湿原を彩る草紅葉、それを見まもるように聳える山なみ、素晴らしい景色です。
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 そこに凛として屹立する白樺の孤独な佇まいに心惹かれました。田村隆一の「きみと話がしたいのだ」という素敵な詩の一節を思い出します。『詩集 1977~1986 田村隆一』(河出書房新社)から引用します。(p.72~3)
孤立はしているが孤独ではない木
ぼくらの目には見えない深いところに
生の源泉があって
根は無数にわかれ原色にきらめく暗黒の世界から
乳白色の地下水をたえまなく吸いあげ
その大きな手で透明な樹液を養い
空と地を二等分に分割し
太陽と星と鳥と風を支配する大きな木
その木のことで
ぼくはきみと話がしたいのだ

 本日の七枚です。
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# by sabasaba13 | 2019-03-13 06:24 | 関東 | Comments(0)

奥日光編(2):奥日光(15.10)

 そして07:43発の東武日光線快速に乗り込みましたが、かろうじて座れたもののけっこうな混雑でした。新栃木と下今市の間の谷に、ブルーシートが敷かれてありましたが、先日の豪雨の爪痕でしょう。下今市駅で列車を切り離し。前部が鬼怒川へ、後部二両が日光へ向かいます。先頭一両がいやに込んでいたので二両目へ避難しました。山ノ神が小耳にはさんだところによると、すぐに降りてダッシュ、バスに乗るためだそうです。08:25に東武日光駅に着きますが、その少し前から車内の空気が殺気立ち、みなさん心なしかそわそわとし始めます。到着と同時にダッシュしてバスに乗り込み座席を確保するためですね。とうちゃこ、われわれも速足で駅前の停留所へ、やれやれどうにか座ることができました。そしてバスは通路に乗客をぎっしり詰め込んで出発。
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 それにしても、ほんとうに人間を大切にしない国ですね、ここは。以前に、カナダのウィスラーでスキーをした時、バスが満席になると、すぐに増便されて次のバスがやってきました。法律で、乗客を立たせてバスを走らせる行為は禁止されているのかもしれません。乗客を立たせたまま羊腸のいろは坂をのぼるなどという没義道な行為は、観光地にあるまじきものだと思います。
 日光物産商会の古い建物、神橋の前を走り抜け、バスは第二いろは坂を登りはじめます。
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 そろそろ山も錦に染まり、車窓からの眺望を楽しめました。なおカーブごとに「と 7カーブ」といった看板が設置されていました。明智平の駐車場にはもうたくさんの車が停めてありましたが、ここから標高473mの展望台までロープウェイが出発するのですね。男体山・いろは坂・日光市街の眺望がよいそうです。
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 明智平からは二車線が一車線となり、いよいよ渋滞がはじまりました。やがてバスは中禅寺湖畔へ、紅葉の綺麗な山々と青い湖を満喫していれば渋滞もさほど気になりません。
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 バスは菖蒲ヶ浜のあたりで右折し、奥日光へと向かいます。「さかなと森の観察園」を通り過ぎ、「湯滝入口」に到着。やれやれ、東武日光駅から二時間強かかりました。それでは日光戦場ヶ原ハイキングコースを歩きましょう。まずは湯滝、三岳溶岩流の岩壁を湯ノ湖の湖水が流れ落ち、途中で二股に分かれる豪快な滝です。青空と紅葉と相俟って素晴らしい景観をなしていました。
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 なおすれ違ったハイカーの女性が「湯ノ湖の紅葉、綺麗だったね」と話しているのを耳にし、食指が動きましたが、いかんせんもう午前11時をまわっています。帰りの混雑を考慮して、訪れるのは諦めました。いつの日にか、奥日光に宿泊してのんびりと楽しむことにしましょう。

 本日の三枚です。
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# by sabasaba13 | 2019-03-11 08:45 | 関東 | Comments(0)

奥日光編(1):栃木(15.10)

 2015年の10月11日ですから、もう三年前ですね。日光戦場ヶ原の草紅葉がきれいだと常々耳にしていたので、山ノ神を誘って訪れることにしました。また、アントニン・レーモンド設計により中禅寺湖畔に建設されたイタリア大使館別荘も素晴らしい建物なので、こちらも見学する予定です。しかし、日光・結構・大和観光、おまけに紅葉の時期ですから、大混雑が予想されます。できるだけ早い時刻に着きたいのですが、インターネットで調べたところあまりアクセスがよろしくありません。背に腹は代えられない、西武池袋線練馬駅5:22発の列車に乗ることにしました。起きられるかなあ。持参した本は『京都ぎらい』(井上章一 朝日新書531)です。

 午前5時少し前、目覚まし時計の不愉快な電子音に起こされました。睡魔と手を取り合って、洗顔と身繕いをし、まだ暗い中を歩いて練馬駅に到着。西武池袋線に乗って池袋へ、JR埼京線に乗り換えて赤羽へ、JR宇都宮線に乗り換えて栗橋へ、東武日光線に乗り換えて新栃木駅へ。(はあはあ) 乗り換えの連続で、青息吐息です。乗り換え時間が少しあるので駅前に出ると、ゆるキャラの「とち介」人形が展示されていました。頭に載っているのは蔵の屋根ですね、きっと。以前に何回か訪れましたが、ここ栃木は蔵造りや古い洋館が建ち並ぶすてきな街です。駅舎には『路傍の石』から引用された山本有三の言葉がありましたが、彼はここ栃木の出身なのですね。
 たったひとりしかない自分をたった一度しかない一生をほんとうに生かさなかったら人間うまれてきたかいがないじゃないか

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# by sabasaba13 | 2019-03-09 06:25 | 関東 | Comments(0)

言葉の花綵188

 戦争は人が持っている時間を潰してしまいます、貴重な時間を。(タマーラ・ルキヤーノヴナ・トロプ)

 弾丸はおばかさんだし、運命はいじわるなんだよ。(クラヴヂア・Sの母)

 辛い時には人間らしい同情や尊敬の念はどんなお金よりも得がたいものだ。(ヴォロージャ・コルシュクの先生)

 この世はいとおしきなり。(プーシキン)

 われわれは自然の恵みを待っていられない。自然からそれを奪いとるのがわれわれの課題だ。(ミチューリン)

 女性的な感覚の方が、人間を正しい方向に導く。(『ファウスト』 ゲーテ)

 すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなる。(小泉信三)

 人間、欲と二人づれならどこまでも行けるもんだよ。(タクシーのある運転手)

 自分自身よりも家族を、家族よりもフランスを、フランスよりも人間の世界の全体を愛する。(モンテスキュー)

 悪魔とは、精神の傲慢、微笑みを失った信仰、疑いに捉われたことのない真理である。(『薔薇の名前』 ウンベルト・エーコ)

 勇気あふれる馬鹿ほど近所迷惑な者はない。(加藤周一)

 安危ハ是非ニ在リ、強弱ニ在ラズ。(『韓非子』)

 日本の善意の人々、特に若い人たち、また殊に恋をしている人たちにくれぐれもよろしく。(シャガール)

 中心的問題は、人間が何を生涯の目的とするか、何を絶対的なものとみなすかを知ることである。(リュスティジエール枢機卿)
# by sabasaba13 | 2019-03-07 06:22 | 言葉の花綵 | Comments(0)

どうぶつ会議

c0051620_1317107.jpg 先日、劇「銀杯」を見たときに、こまつ座による「どうぶつ会議」の上演があるというチラシがありました。そう、ドイツの作家エーリッヒ・ケストナーが書いた作品ですね。ドイツの文豪の中心人物として、第二次世界大戦のナチス政権下には自分の本が焚書の憂き目にあいながらも亡命せず、それどころか、自分の本が燃やされるのを見に行ったそうです。ケストナーは自身の日記のなかで、原爆が投下された「1945年を忘れるな」と記しているそうです。また「そして地球の住民たちがみずから選んだ没落は太陽系やうずまき星雲の年代記にしるされる余地はないだろう」とも言いました。戦争や全体主義と闘い続けた不屈の作家、しかしユーモアと笑いを忘れない魅力的な作品群は、子どもの頃にむさぼるように読みました。『エーミールと探偵たち』『点子ちゃんとアントン』『飛ぶ教室』『ふたりのロッテ』『五月三十五日』…
 その一つである『どうぶつ会議』という児童小説を、1971年に井上ひさしが劇団四季のために描き下ろした音楽劇で、今回、こまつ座によって約半世紀前ぶりに復活されるそうです。井上作品に演出助手として携わった田中麻衣子が井上作品の演出に初挑戦し、栗原類、池谷のぶえ、田中利花、木戸大聖、上山竜治、大空ゆうひらが出演します。これはぜひ見なくては、山ノ神を誘って、東京・新国立劇場の小劇場「THE PIT」に行ってきました。実はこまつ座の舞台を観るのははじめてなので楽しみにしております。

 まずはこまつ座のホームページから、あらすじを引用します。
 世界中のどうぶつたちが子どもたちのために立ち上がりました。人間の大人たちは世界中にいろんな問題があるのに戦争ばかり、これじゃあ人間の子どもたちがかわいそうだ、と抗議をしますが、頭の固い大人たちには届きません。困ったどうぶつたちは、人間の子どもたちに話を聞いてもらうことにしました。
 そんな中、日本のとあるサーカスでは、頭をひねらせたどうぶつたちが劇場にやってきた子どもたちを閉じ込めて、お話を始めます。一か月前のある暑い日の夜に始まったものがたりを…
 まず何と言っても楽しい舞台です。ライオン、ネコ、サル、カンガルー、ヒョウ、トラに扮した役者たちが舞台狭しと跳ね回り、歌い、踊る。しかしこのサーカスの動物たちは、団長によるひどい虐待を受けています。「団長の唄」です。
♪サーカスの動物に 大切なものは なによりも芸当だ 芸の練習だ 理屈をこねる暇に 玉乗りの稽古だ 不平を鳴らすよりも 馬乗りの復習だ♪
 "サーカスの動物"を"会社の社員"に置き換えると、身をつまされてしまいます。そして劇が進行していくうちに、動物たちによる人間の傲慢さへの真剣な問いかけがなされていきます。なぜ戦争をするのか、なぜ環境を破壊するのか、なぜ子供の遊び場を奪うのか。挿入歌「人間はすばらしい生き物」です。
♪人間はすばらしい生き物 空をとぶ タカのように 海を泳ぐ フカのように 丘を走る 豹より早く 深くもぐる ふぐより深く なのになぜ いがみあう? なのになぜ殺し合う? ふしぎだ- 人間は不思議な生き物♪
 しかし動物たちは泣き寝入りをしません。世界中の動物がアフリカに集まって、人間たちに思い知らせよう、自分たちも動物だと気づかせようと色々な作戦を決行します。蜂に将軍を襲わせるなどしますが、すべて失敗に終わります。
 しかし動物たちはあきらめません。人間の大人たちの過ちに気づかせ、その考えや行動を改めさせるための、突飛もなくかつ有効な作戦を決行します。それは…見てのお楽しみにして、それでも逡巡する大人たちに対して、「動物憲章の唄」をいっしょに歌って後押しをしてほしいと、私たち観客に呼びかけます。
動物憲章の唄

ちいさいちいさい ぼうふらも
おおきいおおきい マンモスも
かわいいかわいい ひなどりも
こわいこわい毒フグも
そして人間も-
せまい地球にしがみついている同じ仲間さ

せいたかのっぽの キリンも
でぶのでぶっちょ カバ君も
間抜けな間抜けな トンマも
そして人間も-
せまい地球にしがみついている同じ仲間さ

のろまののろまの カメ君も
すばやいすばやい 野ウサギも
細い細い ミミズも
太い太い 黒豚も
そして人間も-
せまい地球にしがみついている同じ仲間さ
 舞台上に歌詞を書いた大きな垂れ幕を下げ、ピエロと動物たちが歌唱指導までしてくれました。歌うことを強要されるのは嫌いですが、今回は歌詞に共感したので自発的に山ノ神と共に歌いました。孑孑と人間は、狭い地球にしがみついている仲間、いいですね。ただメロディが覚えづらい、国広和毅氏の精進を期待します。

 というわけで楽しく、かつ考えさせられた芝居でした。人間は動物だ、学者・将軍・資本家の側ではなく動物と子供の側に立とう、そして世界は変えられる、エーリッヒ・ケストナーと井上ひさしのさまざまなメッセージ今も心に響きます。
 あらためてHPに掲載されていた井上ひさしのメッセージを紹介します。
 この二十一世紀というのは、地球と人類史上始まって以来の大問題が起こってきている。これをみんなで考えて必死に解決していかないといけない時代になったのです。わたしたち旧い世代もがんばります。しかし、この二十一世紀の主人公は若い皆さんです。「この世の中は自分たちの意思で変えられる」ということをどうか肝に銘じていただきたい。自分たちの意見をはっきり表わしていくことです。

# by sabasaba13 | 2019-03-05 06:25 | 演劇 | Comments(0)

三・一独立運動百周年 2

 前回紹介した『週刊金曜日』(№1221 19.2.22)の特集、『100年前のろうそくデモ 3・1朝鮮独立運動』の中で面白かったのが成澤宗男氏による「真に朝鮮と向かい合った日本人」という記事です。紹介文を引用します。
 かつて朝鮮半島が日本の植民地にされていた時代、隣国の人々の苦難に思いを馳せていたごく少数の知識人がいた。言論が制約されていた時代であったからこそ、彼らの残した文章には言いしれぬ良心の力を感じることができる。韓国ヘイトが巷にあふれる今こそ、先人の声に耳を傾けたい。(p.30)
 そして朝鮮と向かい合った四人の日本人を紹介されています。「小日本主義」から「植民地放棄論」を唱えた先駆的リベラリスト、石橋湛山。弁護士として朝鮮民族の権利を擁護した稀有な人権の闘士、布施辰治。朝鮮の美の発見から、隣国への限りない共感を示した民藝運動の祖、柳宗悦。そして差別と武断政治に反対し朝鮮総督府を糾弾した「大正デモクラシー」の論客、吉野作造。できれば浅川巧金子文子にも触れてほしかったのですが仕方ない、次回に期待しましょう。なお金子文子については、1220号(2019.2.15)に特集記事が掲載されました。

 本稿では布施辰治と吉野作造を取り上げたいと思います。まずは布施辰治です。
 日本は1918年の米騒動後、朝鮮を「食糧基地」とするために米の生産量を約20%向上させ、また土地を収奪した。だが、それは朝鮮での農民の小作化と朝鮮人の米消費量が40%も激減する窮乏化を伴った。
 布施辰治は1926年、全羅南道の朝鮮農民の要請で現地に赴き、土地を収奪した日本の会社を相手に告訴の道を探るが、朝鮮総督府の妨害で結局失敗に終わる。そすいた経過をまとめたのが、この論文だ。(「朝鮮に於ける農業の発達と無産階級農民」)
 戦前、布施ほど朝鮮人側に立って闘い続けた弁護士は、他に例がない。1911年には「朝鮮独立運動に敬意を表す」という記述が原因で検察の取り調べを受けている。(p.31)
 彼が関東大震災時における朝鮮人虐殺の真相究明に尽力し、金子文子の弁護をしたことは知っていましたが、日本の会社による土地収奪も告訴しようとしていたのですね。朝鮮人の人権を守るために、ここまで闘った不屈の「人権派弁護士」としてぜひ記憶に留めたいものです。余談ですが、よく日本で言われる「人権派弁護士」って、「白い白猫」と同様のトートロジーじゃないのかな。弁護士とは、人権を守るのが仕事だと思っていました。人権を守ろうとしない弁護士が多くということでしょう。日本の法曹界の低劣さが垣間見えます。
 そして民本主義を唱えた政治学者・吉野作造です。彼は、1904年に朝鮮人留学生と出会うことによって朝鮮への関心を高め、さらに『中央公論』1916年6月号に「満韓を視察して」という論文を発表して以降、朝鮮総督府の武断統治に対する厳しい批判者となりました。その論旨は「異民族統治の理想は其民族としての独立を尊重」すべしとするもので、当時としては稀な総督府に対する正面からの批判でした。彼が植民地放棄・朝鮮独立を明確に主張した形跡は乏しいのですが、「3・1独立運動」への弾圧、そして関東大震災における朝鮮人虐殺に接し、孤立しながらも社会への激しい怒りを表明しました。(p.33) 成澤氏が紹介してくれた吉野作造の論考「対外的良心の発揮」(『中央公論』 1919.4)を引用します。
 朝鮮の暴動(注:3・1独立運動のこと)は言うまでもなく昭代の大不祥事である。これが真因いかん、又根本的解決の方策いかんについては別に多少の意見はある。ただこれらの点を明にするの前提として余輩のここに絶叫せざるを得ざる点は、国民の対外的良心の著しく麻痺している事である。今度の暴動が起ってからいわゆる識者階級のこれに関する評論はいろいろの新聞雑誌等に現われた。しかれどもそのほとんどはすべてが他を責むるに急にして自ら反省するの余裕が無い。あれだけの暴動があってもなお少しも覚醒の色を示さないのは、いかに良心の麻痺の深甚なるかを想像すべきである。かくては帝国の将来にとって至重至要なるこの問題の解決も到底期せらるる見込はない。
 一言にして言えば今度の朝鮮暴動の問題についても国民のどの部分にも「自己の反省」が無い。およそ自己に対して反対の運動の起った時、これを根本的に解決するの第一歩は自己の反省でなければならない。たとい自分に過ち無しとの確信あるも、少くとも他から誤解せられたと言う事実についてはなんらか自から反省するだけのものはある。誤解せらるべきなんらかの欠点も無かった、かくても鮮人が我に反抗すると言うなら、併合の事実そのもの、同化政策そのものについて、更に深く考うべき点は無いだろうか。いずれにしても朝鮮全土に亘って排日思想の瀰漫している事は疑いもなき事実である。朝鮮における少数の役人の強弁のほか今やなんぴともこれを疑わない。しかして我国の当局者なり、又我が国の識者なりが、かつてこの事実を現前の問題として、鮮人そのものの意見を参酌するの所置に出でた事があるか。
 反韓感情が渦巻き、反韓本が書店に積まれ、ヘイトスピーチが吹き荒れる今の日本だからこそ、真摯に耳を傾けたい一文です。特に安倍首相には精読していただいて、反省の「は」の字も、良心の「り」の字もない氏の辞書を改訂して欲しいものです。

 本日の一枚、1996年に訪れて撮影したタプッコル公園の入口です。
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# by sabasaba13 | 2019-03-02 06:28 | 鶏肋 | Comments(0)