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仁淀川編(46):寺田寅彦墓所(15.8)

 さて受付で寅彦の墓所を訊ねると、一所懸命調べてくれました。東久万にある「アンク犬猫病院」の脇道を行ったところの高台中腹にあるそうです。また小津神社に、寅彦ゆかりの石灯籠と石橋があることも教えてくれました。多謝。よろしい、タクシーで廻ってもらいましょう。ミュージアム・ショップで「寺田寅彦 -天然に育まれし眼差し-」と、彼の絵・サインが描かれた珈琲カップを購入しました。
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 そしてふたたび「ひろめ広場」に行きましたが、「明神丸」は大混雑。いさぎよく藁焼き鰹たたきは諦めました。近くでタクシーに乗り、まずは小津神社に寄ってもらいました。こちらにある石灯籠と石橋は、父・寺田利正によって奉納されたものです。解説を転記します。
 この石灯籠は寺田寅彦先生が青年時代に肺を患い尊父利正氏ともども氏神様の小津神社に病気平癒のお願をかけられ祈願成就お願ほどきに奉納されたものであります。
 なお後日、寅彦が通学した江ノ口小学校に、彼の記念碑があるとのことがわかりました。
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 次は掃苔です。東久万にある「アンク犬猫病院」の脇道でタクシーを降りると、「寺田寅彦墓 この上約40M登る・目標は桜の樹」という立て札がありました。やった。急な山道をすこし登ると、街を見晴らせるところに、六つの墓が肩を寄せ合うように並んでいました。
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 解説を転記します。
 王子谷の墓地には寅彦、父利正、母亀、三人の妻夏子、寛(ゆた)子、紳の6人が眠っている。利正は宇賀家の出、陸軍会計監督。退役後山内家の財政顧問。寅彦は一人息子。寅彦が高知に住んだのは長くないが、大川筋での幼少年時代須崎での療養生活は彼の随筆に散文詩的に懐かしく回想されている。夏子は20才、寛子は31才で亡くなる。この科学的天才も妻の運には恵まれなかった。寅彦は1935年東京で病没。58才。墓誌は友人の小宮豊隆の撰と書。
 合掌。しばらくは彼の背中を追い続けていくつもりです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-10-16 06:22 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(45):高知県立文学館(15.8)

 山内一豊騎馬像の前を通り、高知県立文学館に着きました。
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中江兆民、植木枝盛、幸徳秋水、田中英光、タカクラテル、安岡章太郎、清岡卓行、宮尾登美子、倉橋由美子など、高知県ゆかりの作家、文学者と作品を紹介する文学館です。お目当ては何と言っても、寺田寅彦記念室です。彼のプロフィール、作品、業績などが丁寧に紹介されており、しかも見学している方は数人、静寂な空気の中、寅彦ワールドを堪能することができました。愛用の帽子や、彼が弾いていたチェロなども展示されています。なお『バイオリンを弾く物理学者』(末延芳晴 平凡社)の中に、弦楽器に関する興味深い随筆『「手首」の問題』が収められています。
 バイオリンやセロをひいてよい音を出すのはなかなかむつかしいものである。同じ楽器を同じ弓でひくのに、下手と上手ではまるで別の楽器のような音が出る。下手な者は無理に弓の毛を弦に押しつけこすりつけてそうしてしいていやな音をしぼり出しているように見えるが、上手な玄人となると実にふわりと軽くあてがった弓を通じてあたかも楽器の中からやすやすと美しい音の流れをぬき出しているかのように見える。これはわれわれ素人の目には実際一種の魔術であるとしか思われない。

 玄人の談によると、強いフォルテを出すのでも必ずしも弓の圧力や速度だけではうまく出るものではないそうである。たとえばイザイの持っていたバイオリンはブリジが低くて弦が指板にすれすれになっていた、他人が少し強くひこうとすると弦が指板にぶつかって困ったが、イザイはこれでやすやすと驚くべき強大なよい音を出したそうである。

 この魔術のだいじの品玉は全くあの弓を導く右手の手首にあるらしい。手首の関節が完全に柔らかく自由な屈撓性を備えていて、きわめて微妙な外力の変化に対しても鋭敏にかつ規則正しく弾性的に反応するということが必要条件であるらしい。もちろんこれに関してはまだ充分に科学的な研究はできていないからあまり正確な事は言われないであろうが、しかし、いわゆるボーイングの秘密の最も主要な点がここにあるだけは疑いのないことのようである。

 物理学的に考えてみると、一度始まった弦の振動をその自然の進行のままに進行させ、そうしてそのエネルギーの逸散を補うに足るだけの供給を、弦と弓の毛との摩擦に打ち勝つ仕事によって注ぎ込んで行くのであるが、その際もし用弓に少しでも無理があると、せっかく規則正しく進行している振動を一時邪魔したり、また急に途中から別なよけいな振動を紛れ込ませたりしてそのために音がきたなくなってしまうのである。そういうことのないようにするためには弓がきわめて敏感に弦の振動状態に反応して、ちょうど弦の要求するエネルギーを必要にしてかつ有効な位相において供給しなければならない。

 この微妙な反応機巧は弦と弓とが一つの有機的な全系統を形成していて、そうして外部からわがままな無理押しの加わらない事が緊要である。
 このように楽器の部分としての手首、あるいはむしろ手首の屈曲を支配する筋肉は、少しも強直しない、全く弛緩した状態になっていて、しかもいかなる微細の力の変化に対しても弾性的に反応するのでなければならないのである。
 なるほど、チェリストの末席を汚す者としてたいへん参考になります。他にも「渦巻きの実験」「地滑りの実験」「割れ目と生命の実験」といったビデオもあり、食い入るように全部見てしまいました。中でも、三毛猫の模様を布にうつして切り取り、ひとつにすると球体になるという実験には、目から鱗が落ちました。細胞分裂が進んだ受精卵(胚)の割れ目が、毛の模様となるという仮説です。恐るべし、寺田寅彦。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-10-14 06:46 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(44):高知(15.8)

 「大橋通」で下りると、「高知城200m→ 私のお城500m→」という、不動産業の看板がありました。山田くん、座布団を一枚。そして「ひろめ市場」に到着です。
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 かつてここに土佐藩家老・深尾弘人蕃顕(ふかおひろめしげあき)の屋敷があったことによる名称で、中に入ると高知名物を食べさせてくれるいろいろな飲食店が蝟集した屋台村です。しかし…とんでもない混雑で、とても落ち着いて食べる気にはなれません。文学館を見た後に、もう一度寄ることにしました。なお『週刊金曜日』(№1175 18.3.9)の「写日記」で、松元ヒロ氏がこう語られていました。
 土佐の高知市でライブを演りました。お昼からの公演でしたので前日入りして皆さんと一杯。翌朝、迎えの方と会場に行く時「ちょっとここを通って行きましょう」と入ったのがこの写真の「ひろめ市場」です。高知城のすぐ下の帯屋町。土佐藩の家老、深尾弘人蕃顕(ふかおひろめしげあき)の「ひろめ屋敷」があった場所にできたので「ひろめ市場」。「高知の文化をひろめ、人情をひろめる」ための屋台村です。見てください。午前10時半にビールやお酒を飲んでいるのです。日曜日なので観光客も入り乱れてこの賑わい。「スゴイですね」と聞くと「さすがに平日は少し減りますが」「少しですか?」「はい」。姫路や高松でもこれを真似た店をオープンさせたそうですが、二年ともたずに閉店。
 高知は特別なんです。昔から老若男女、飲むそうです。会社で会議をやっていても「あとは一杯やりながら話そうじゃないか」とお店に全員で。お酒が入ると「課長、部下だからって、なめたらいかんぜよ!」「なんだと!」となっても、翌日「課長、昨日は失礼しました」「えいき、えいき、ちくと飲んで行こう」となるのです。坂本龍馬もこうして仲間を増やしていったのかもしれません。飲むと一気に距離が縮まって友だちになれます。その友だちの輪が広がれば平和になります。そう、自由民権運動もこの土佐からはじまりました。ライブを取材に来た『高知新聞』の部長さんが教えてくれました「高知は安倍政権の不支持率が最も高いんですよ」。どうりで、反権力、反体制の空気を客席に感じました。「佐川国税庁長官? ウソこくぜい庁長官だ!」「そうぜよ!」と盛り上がり、長く演りすぎたため、すぐ空港へ。「アチャ~ 飲めなかったぜよ!」 (p.61)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-10-12 08:02 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(43):高知(15.8)

 JR佐川駅のホームで列車を待っていると、「米日旅館」という看板が見えました。「日米関係とか、日米安保条約とか、"日米"という表記が当たり前にされているが、宗主国-属国という関係からすれば"米日"とするのが正しい、現実から逃避してはいけない」という主張を感じますが、深読みかな。でも気になります。
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 「チャレンジショップさかわ&まちブラ(昼間編)」には以下のような説明がありましたが、"米日"の由来についてはわかりません。ご教示を乞う。
ビジネス旅館米日屋
 初代店主さんは戦時中カラフトで「ロ日(ろにち)商会」という店名で商売をされてたそうです。そして時代は流れ、終戦後店主さんご夫婦が食堂や旅館を営んでいたのを平成7年に二代目店主さんが建て直されビジネスホテルとして開業されました。店先の看板は昔「米日旅館」として付けられてた物をそのまま残されています。
 土讃線の列車に乗り込み、一時間ほどで高知駅に到着。まずは駅前にある観光案内所で、寺田寅彦のお墓があるところを訊ねましたが…わからないとのこと。しかたない、県立文学館で教えてもらいましょう。
 まずは食事、雨が降りそうなので、路面電車で「ひろめ広場」に行き、「明神丸」で藁焼き鰹たたきをいただくことにしまた。高知駅前から路面電車に乗って「はりまや橋」で乗り換えます。目の前を「ごめん」行きの電車が通り過ぎていきましたが、変わった地名ですね。
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 たまたま最近読んだ『白い道』(吉村昭 岩波現代文庫)の中におさめられている「致命傷の地名」という随筆に、この地名が出てきたので紹介します。
 地名を手当り次第に変えてしまった時期がある。調べてみたわけではないので、しかとはわからぬが、それは郵便番号の設定された時と一致しているように思える。郵便を配達するのに便利なように、町を勝手に区割りし、記号のような名に変えてしまった。
 その乱暴な行為の背後には、地方自治体の議員、役人の顔がのぞいている。由緒ある町名は次々に消え、気がついた時は手遅れであった。
 これは、東京都にかぎらず全国的な風潮で、なぜこんなことになってしまったのか。
 町名は、それぞれの歴史的な性格をそのまましめすもので、歴史を尊重するなら到底できぬことを、それこそ手当り次第という表現そのままに変えてしまったことは、神を恐れぬ仕業と言っても過言ではない。
 高知県の南国市に行った時、郷土史家と昼食をとりながら南国市という地名について話をきき、頭をかかえるような気分になった。
 その地の旧名は、御免であった。
 土佐藩の奉行職として藩財政を確立した野中兼山が、新しい耕地をひらくため用水路を開通させた。その中心地として町を設け、商人その他を集めるため諸税を免除し、これによって町は栄えて御免町と名づけられ、元禄以後、御免町になったのである。
 この御免町が市に昇格することになったが、なぜか御免市とはしなかった。新しい市名をつけようとしてさまざまな意見が出され、ニュー高知市という案まで出たという。ニューという英語まで半ば真面目に論議の対象となったことには、茫然とした。
 結局、南国市に決定したが、もしも御免市としたら、全国の人々に特徴のある地名として印象づけられたはずである。そして、御免という地名が歴史に裏付けされたものであることを知れば、さらに由緒ある名であることに深い感慨をおぼえたにちがいない。駅名が御免であることが、わずかな慰めである。(中略)
 過ぎ去ったことは仕方がないが、それぞれに先人のつけた由緒ある地名をいたずらに変えてしまうことは、断じてやめてほしい。(p.189~91)
 まったくもって同感です。ストーカーのように愛国心を強要するくせに、先人たちの営為に敬意を評さない政治家や官僚が多すぎます。猛省を促します。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-10-10 06:21 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(42):高知へ(15.8)

 本日は最終日です。朝食をたべていると宿のおばあさんが、実家の茶をくれました。ありがとうございます。会計は五泊六日でひとり65000円でした。思い出の縁として食堂や部屋や物干し台を記念撮影。
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 荷物をまとめて、親切だった宿の方々にお礼とお別れを言い、付近の風景を撮影してバス停「森」から町民バスに乗り込みました。あっ、妖気にあふれたマネキン親子にお別れを言うのを忘れた。
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 そして大崎で乗り換え、川口橋を撮影して、佐川駅行きのバスに乗りました。
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 そろそろ吾川郡仁淀川町とお別れかと思うと感無量です。そうそう、最近読んだ『移民たちの「満州」 満蒙開拓団の虚と実』(二松啓紀 平凡社新書782)に、こういうエピソードが書かれていました。これは忘れてはいけない歴史ですね。
 1944年3月には、吾川、幡多、安芸三郡の10ヵ町村から成る大土佐開拓団を編成し、高知県の満蒙開拓事業は結実していく。高知県出身の宮尾登美子の自伝的小説『朱夏』でも知られる開拓団であり、44年6月までに1682人が吉林省九台県に入植した後、11月14日の『高知新聞』に、満州視察から帰った県地方課事務官は「合計二百町歩を耕作し大開拓団としての威力を発揮し、その成果は全満の注視の的となっている」との談話を寄せた。
 さらに高知市が母体となった初月郷開拓団(1944年4月入植、163人)や高南開拓団(45年入植、143人)、吾川郡名野川村(現在の吾川郡仁淀川町)の名野川開拓団(45年3月、39人)などと戦争末期まで満蒙開拓団の送出は続いた。吾川郡池川町(現在の仁淀川町)では、町内の適正人口を1316戸6513人とし、44年から47年までの四年間、「不適正戸数」とした200戸800人を池川開拓団として満州へ送り出す分村計画を立て、先遣隊40戸が45年1月に出発したが、詳しい記録は残っていないとある。
 敗戦までに高知県が送出した満蒙開拓団は9151人、満蒙開拓青少年義勇軍は1331人、合計で全国10位、四国地方に限れば第一位だった。長野県大日向村に端を発した分村計画は波紋となって全国各地に行き渡り、時間差で高知県に達した「波」は、一段と高く強くなって現れた。(p.127~8)
 ったく。国益・国策のためには、弱者・少数者の犠牲はやむをえないという、日本という国家のお家芸ですね。この国の近現代史には、犠牲にされ、切り捨てられ、忘却の彼方に押しやられた死屍が累々としています。その国益とは強者(官僚・政治家・財界・軍部)の利益のことだと気づかずに、騙される方も悪いのですけれど。そして強者たちは、その犠牲を隠し、誤魔化し、忘れさせ、なかったことにしようとし、それをメディアが忖度し幇助する。だから同じようなことが何度でも繰り返される。水俣で、三里塚で、沖縄で、そして福島で。夏目漱石ではありませんが"日本国中どこを見渡したって、輝いてる断面は一寸四方もないじゃないか。悉く暗黒だ"と呻きたくなります。(『それから』より)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-10-08 07:08 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(41):大渡ダム(15.8)

 坂道をおりて、大渡ダムの付近を散策。ひさしぶりにフェイス・ハンティングもできました。
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 そして歩いて宿へと向かいましたが、沈下橋のあたりでは家族連れが川遊びを楽しんでいました。宿近くの長者川でも、投網で漁りをされている方を見かけました。
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 そして部屋へ戻り、ビールを飲んで昼寝をして読書をしてまた昼寝。典雅なる午後のひと時を楽しみました。
 夕方になったのでひとっ風呂あびてビールを飲みながら物干し台で夕涼み。テレビをつけると、なんとCG化された「サンダーバード ARE GO」を放映していました。
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 食い入るように見たのですが、そのスマートさとスピード感に少し違和感を覚えます。やはり旧作の手作り感あふれる鈍臭さがよろしおま。特に、ペネロープがあんなに美人では絶対にいかん。一緒に見ていた山ノ神を「トレーシー一家の名前を全部言えるかい?」と徴発。「知らないわ」「お父さんはジェフ、五人兄弟は、スコット、ジョン、バージル、ゴードン、アランさ」と、もんだどんない顔の私。すると山ノ神が「じゃあブリュンヒルデの八人姉妹の名前は?」と逆襲。「…」 「ゲルヒルデ、オルトリンデ、ヴァルトラウテ、シュヴェルトラウテ、ヘルムヴィーゲ、ジークルーネ、グリムゲルデ、ロスヴァイセよ、おーほほほほほほほ」 後半は冗談ですが、この遊びはけっこう応用がききます。『おそ松くん』の六つ子の名前とか、宋家の三姉妹の名前とか、『細雪』の四姉妹の名前とか、『カラマーゾフの兄弟』の三人の名前とかね。
 閑話休題。政治家・官僚・国民が一刻もはやく改心して、自衛隊を国営国際救助隊「雷鳥」に全面的改組することを衷心より祈ります。
 夕食は「おきゃくそうめん」。土佐では宴席のことを「お客」と言うそうですが、そこで出される具沢山の素麺のことでしょうか。ご教示を乞いますが、美味しうございました。
 部屋に戻って本を読んでいると、ドンドンという音が聞こえてきます。そろそろ花火大会が始まったようですね。二人で物干し台に出て、はるか遠くに見える小さな花火を鑑賞。そして「ダバダ火振」を飲みながら就寝。♪La Vie en rose♪
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-09-30 08:37 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(40):大渡ダム(15.8)

 めざす仁淀川町観光センターが近づいてくると、手作りの灯籠が道端にたくさん吊るされていました。大きな生ビールを描いた灯籠には思わず緩頬、お父さんが大好きなんだね。
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 そしてダムを見下ろせる高台にある仁淀川町観光センターに到着、宿から一時間強かかりました。歴史民俗資料室が併設されていたので、まずは見学。さまざまな生活道具が展示されていましたが、多種多様な鋸に瞠目。かつて(今も?)林業が盛んであったことを物語ります。
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 興味深かったのが草鞋の展示、後学のために解説を転記します。
あぶら取り騒動のわらじ
 郷土作家田中貢太郎の「旋風時代」で世に知られた事件。
 時は明治4年12月12日のこと、新政府が徴兵令を施いた時、17才から20才の男子に届出させたことから、若者を集めてあぶらをとり、外国人に売るという流言を信じ、藩庁を焼討ちすると、池川、吾川、仁淀の者達が押し出した時の、麻でつくったわらじ。
 右はその届出文書。
 徴兵告諭の一節"西人之ヲ称シテ血税と云フ其生血ヲ以テ国ニ報スルノ謂ナリ"から、血を搾り取られると勘違いしたという話はよく聞きますが、油を搾られるというバージョンもあったのですね。でも経済的徴兵制が静かに進行しつつある現在、決して過去の話ではありません。
 となりのグランドでは、午後三時から開かれる「茶霧湖まつり」の準備が進められており、たくさんのテントが張られていました。花火大会もここで開かれますが、宿から夜の山道を一時間も歩くのはきついなあ。山ノ神と合議の上、見学はやめることにしました。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-09-28 06:22 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(39):大渡ダム(15.8)

 部屋で食休みをし、午前九時ごろ宿を出発。山際の坂道をのぼっていくと、「国道439」という道路標識がありました。ここも「神楽ロードよさく」だったんだ。
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 すこし歩いていくと、茶畑と緑茶加工施設がありました。
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 さらにのぼっていくと大渡ダムや仁淀川や茶霧(さぎり)湖を見晴らせるようになります。荷台に二人の若者を乗せた軽トラックが走り抜けていきましたが、祭の準備でしょう。久米島でも同じ光景をみた記憶があります。道路交通法違反でしょうが、固いこと言いっこなし。すこし先に「道の記 勤王志士脱藩の道」という解説板がありました。
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 後学のために転記します。
 この仁淀村観光センター付近は地名を森の越といい、古来より近郷の交通はもとより、伊予・土佐の交易の道として利用されていた。
 仁淀村史には、養老2年(718年)ころまでは、久万官道も通っていたとの記述もある。又土佐勤王の志士脱藩の道として知られ、土佐勤王党那須信吾は、幕末の文久2年(1862)3月26日坂本龍馬、沢村惣之丞の梼原越え脱藩の際、養父俊平と共にその案内をした後、翌4月8日に時の参政吉田東洋を帯屋町で暗殺。那須信吾、大石団三、安岡嘉助らは伊野より御嶽を越え、この地を通り脱藩、那須信吾は脱藩の道筋を次のように書いている。「(前略)大平通り、御嶽絶頂に到り候ところ、谷々の桜花、高根の残雪と艶を競い咲き乱れ候らえども、無我無心に向(さき)を急ぎ、ゆかり有る森村に下り着き候えども、すべて人家をも叩かず、干飯(ほしいい)を喫(と)り、高瀬村を過ぎり、別枝に到り徳道の関を抜け沢渡りより船渡りし、黄昏前、漸く久万山の内。岩川に付き、止宿仕まつり候。(後略)」 龍馬脱藩を助けた信吾は、その翌年天誅組に参加して吉村寅太郎らと行動を共にし、山和鷲家口の戦いで闘死している。その翌年俊平は、禁門の変で京都境町門に死んでいる。龍馬脱藩の成功の裏には、国事のために自分の命をも惜しまないこのような道案内者があったのである。
 この道を龍馬が歩いたのか、感無量です。蛇足ですが、これまで龍馬関係の史跡にいろいろと出会ってきました。寺田屋海軍操練所跡幕末志士葬送の道千葉さな子の墓誕生地の碑龍馬像浜川砲台いろは丸展示館延壽王院亀山社中跡御手洗「竜馬がゆく」碑新婚旅行の地宿泊所跡下関、よろしければご笑覧ください。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-09-26 06:21 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(38):大渡ダム(15.8)

 午前六時に目覚め、いつものように物干し台に出ると、今日は薄曇り。向こう岸のお宅の方が、窓から釣り糸を垂らしていました。目と目が合ったので、「おはようございます」と会釈をしました。
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 さて本日は日曜日、大崎までのバスはすべて運休ですので、大渡ダムのあたりを散策することにしました。朝食をいただき、『高知新聞』(2015.8.16)を読んでいると、「小社会」というコラムに素晴らしい文があったのでぜひ紹介します。
 戦後70年目の「8・15」が過ぎた。しかし先の戦争では、日本の敗戦を知りながら「徹底抗戦」を叫んで山中などに立てこもった人たちもいた。作家の故山口瞳さんもその一人だ。当時、18歳の陸軍2等兵で山陰地方の山の中で終戦を迎えた。所属した部隊はそのまま1カ月以上そこにいた。「兵隊は皆が去勢され、日本の女性は全て凌辱される」という流言飛語が流され、隊の全員がそれを信じたからだ。「いまだから笑って話せるのであって…」と、58歳になった山口さんは随筆に書いた。去勢されるときの恐ろしさ痛さを毎夜思い描いた。実際には何の沙汰もなく、「断固抗戦」を叫んでいた上官もそのうち「相手は文明国家だから、そんな野蛮なことはやるめえ」となった。この経験から山口さんは、戦後の「仮想敵国」論やどこかの国を「脅威」とみなす論などに強い不信感を持った。日本が武器を捨てて「マルハダカ」となる無抵抗主義を持論とし、「もし、こういう国を攻め滅ぼそうという国が存在するなら、そういう世界は生きるに値しない」とまで言い切った。根拠のないデマや中傷が流されたり、ときの政権が「〇〇国」脅威論をあおったりすることは現在にもある。特にネット時代には、そんな情報もあっという間に拡散する。山口さんのように、終戦の日は過ぎても「終わらぬ戦争」を生きた人も多かったろう。学ぶべき教訓はまだある。
 無抵抗主義、非武装中立、いいなあ。自衛隊を国営国際救助隊「雷鳥」に全面改組し、武器の生産と輸出入を禁止し、アメリカ軍にはお引き取り願って、在日米軍基地をすべて撤廃する。考えただけでもワクワクしてきます。それでも、日本を攻め滅ぼそうとする国があるとしたら…やっぱりアメリカ合州国だろうなあ。
by sabasaba13 | 2018-09-24 08:59 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(37):池川(15.8)

 せっかくなので、長パンを膝までまくり、土居川に入ることにしました、ブヨのいないようだし。うーん、このアングルから見る川と山の景色は素晴らしい。近くでは、家族づれが釣りに興じていました。ほんとに「山のよろしさ 水のよろしさ 人のよろしさ」です。
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 それでは町をすこし散策してみましょう。酒屋の自動販売機では、日本酒四合瓶を売っていました。さすがは「鯨海酔侯」が藩主をつとめた土地柄です。あるお宅には昭和50年8月17日に襲来した「台風五号記録碑」があり、最高水位点および「死者二名 全壊三五戸…」という被害状況が刻まれていました。池川小学校では清流まつりの準備が酣、これから鳴子おどり、池川神楽、椿山太鼓踊り、安居神楽、餅まき、花火大会というイベントが目白押し、見たいのはやまやまですが宿に帰れなくなってしまう。後ろ髪を引かれながら16:12発のバスに乗りました。16:22に大崎着き、16:27発のバスに乗り換えて16:36大渡に到着。
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 沈下橋を渡って森に着き、「はしもとストアー」で夜食用にカツオタタキを買いましたが、これは宮城県産でした。近くには"主権者国民、またその象徴たる天皇をバカにした傍若無人の"首相・安倍上等兵が、私たち国民から目を逸らし、媚びるような上目遣いで「日本を、取り戻す。」とのたもうポスターが貼ってありました。「日本を、(国民から、官僚・政治家・財界の手に)取り戻す。(そして私物化する)」とはっきり明言してほしいものです。でも上目遣いで誰を見ているのだろう? もちろんアメリカ合州国。ん? よく見ると「自衛隊募集相談員」という小さなプレートが、上等兵の左についています。山田くん、座布団三枚!
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 そして「茶霧湖まつり」というポスターもあり、明日の夜、大渡ダム公園で花火大会があるようです。もし元気があったら行ってみましょう。宿に戻って風呂に入り、夕食をいただきました。部屋に戻ってベッドに寝転び読書三昧、息抜きに物干し台に出て夜風をあびながら紫煙をくゆらし、「ダバダ火振」を飲みながら就寝。♪人生楽ばかり♪
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2018-09-18 06:24 | 四国 | Comments(0)