カテゴリ:四国( 74 )

仁淀川編(10):安居渓谷(15.8)

 見るべきほどのことは…まだ見足りませんが、タイムアップです。五台山にある浜口雄幸生家記念館も見たかったのですが、後日を期しましょう。駅前に戻って自転車を観光案内所に返却し、高知駅バスターミナル15:54発の狩山口行きのバスに乗り込みました。交差点で停車しているときに、ちょうどからくり時計が動いていましたが、出し物は高知城と坂本龍馬とはりまや橋。ぜひとも寺田寅彦先生を出演させてほしいですね。田んぼでは稲穂がでそろい、緑の絨毯をなしていました。気持ちのよい眺めです。
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 やがてバスはゆるやかに蛇行する大きな川沿いの道をひた走りますが、これが仁淀川でした。
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 そして17:39に終点「狩山口」というバス停に着きました。お願いしていたとおり、「宝来荘」の方が迎えに来てくれていました。お礼を言って乗り込み、渓谷に沿って宿へとひた走ります。途中に千仞峡やみかえりの滝といった景勝地があったので、そのうち散歩がてら見に来ることにしましょう。
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 20分ほどで安居渓谷の「宝来荘」に到着、ドアを開けて外へ出ると、運転手さんが「建物まで走ってください」とせかします。…なして? 「ブヨがきます」 目が・となりました。ブーン おおっ、双翅目ブユ科に属する昆虫の総称、体長一~四ミリメートルぐらい、体形はハエに似ているが、きわめて小さい、体は黒色、灰色などで、はねは透明、人畜に群がって吸血し、不快感を与え、フィラリアなどの病原体も媒介する蚋が群れをなして襲いかかってきます。「聞いてねーよ」と言っている場合ではない、荷物を持って一目散に建物の中に避難しました。しかし中にも数匹飛翔しているので、油断はできません。やれやれ、とんでもないところに来てしまった。宿の方に、虫よけスプレーを所望すると、「効果がないのでおいてありません」とのつれないお返事。蝿たたきを貸してほしいというと、それもないので団扇をくれました。やれやれpart2。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-06-21 06:23 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(9):高知(15.8)

 それでは事前に調べておいた気になる物件を見ながら、駅前の観光案内所へと戻りましょう。高知県立小津高校は、1932(昭和7)年に建てられたネオゴシック調のファサードを、そのままの形で保存し再生しています。
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 高知県立文学館の場所を確認してすこし走ると、よさこい祭り本部競演場の準備が進められていました。数日後に本番なのですね。
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 公式サイトから引用します。
 昭和29年、当時の不景気風を吹き飛ばし、市民を元気づけようと行われたのが始まり。今や日本のみならず、世界にもひろがりつつある「よさこい」。本家高知市では8月10日・11日のよさこい祭り本番に約190チーム、2万人の踊り子が参加。各チームがそれぞれの個性を出した、衣装,音楽,振り付けを施し、高知市内16の競演場・演舞場でエネルギッシュな踊りを披露、街中はよさこい祭り一色に包まれます。8月9日にはよさこい祭り前夜祭、12日にはよさこい祭り後夜祭とよさこい全国大会が開催されています。
 追手前高校は、時計台が印象的な校舎です。後日、たまたま『世界史としての関東大震災 アジア・国家・民衆』(関東大震災80周年記念行事実行委員会編 日本経済評論社)を詠んでいたら、次のような記述がありました。
 ところで、県立追手前高校(1931年竣工)や同高知小津高校(1932年)は、鉄筋コンクリート三階建の屋上に奉安殿を造っている。その訳は、「東京の場合は、校長室に奉安所を設けて、天井から離して奉安所の天井を造り、直接に二階の床に接しないようにしておりました。私も校長室に設けるのが管理上からも、理想であると思い、其の事を主張しましたが、二階を人が通るから不敬にあたる、との事で、屋上に造る事になりました」(狩野宗平「小津高校改築の思い出」『海南百年』1973年)。狩野は、東京市役所学校建築課から高知県庁営繕課へ抜擢された技師である。追手前高校の奉安殿は現存している。(p.125)
 へー、マニアとしてはぜひ見たいのですが、ちょっと難しいでしょうね。
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by sabasaba13 | 2018-06-19 06:20 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(8):寺田寅彦記念館(15.8)

 入口にある「寺田寅彦先生邸址」という碑は、植物学者・牧野富太郎の揮毫です。彼も機構知見出身なのですね、寅彦とはどんな縁があるのでしょう。母屋の前にある庭には大きなアオギリが植えてありました。
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 解説があったので転記します。
「庭の追憶」の梧桐

 このアオギリは「低気圧が来て風が激しくなりそうだと夜中でもかまわず父は合羽を着て下男と二人で、この石燈籠のわきにあった数本の大きな梧桐を細引きで縛り合わせた。それは木が揺れて石燈籠を倒すのを恐れたからである」と随筆「庭の追憶」(昭和九年「心境」に発表)の中に書かれたアオギリである。
 「庭の追憶」は上野の国画展で藤田太郎(香我美町山北出身)の「秋庭」を見て書かれたもので、幼少のころ旧邸にあった槲(かしわ)の木や「大杯」という楓(かえで)などの庭木や飛び石などの回想から、いまは亡き父母や家族を追憶し「死んだ自分を人の心の追憶の中によみがえらせたいという欲望がなくなれば世界じゅうの芸術の半分以上なくなるかもしれない」と書かれている。
 寅彦先生はこの随筆を書いた翌年に亡くなっている。そのため先生が晩年の心境を述べられた「庭の追憶」にゆかりの木である。
 そして母屋の中へ入り、それぞれの部屋や旅行カバンなど寅彦ゆかりの品々を拝見。部屋の片隅に置かれていた古いオルガンには、こういう解説がありました。
 明治42年(1909)3月25日、30歳の寅彦は二年間のヨーロッパ留学へ赴くため東京を後にした。これに先立ち、小石川の家を引き払い、妻子は郷里・高知に帰郷させた。旅行鞄は漱石から借用。それと交換のように、一台のオルガンを預けた。
 このオルガンが、高知県高知市の寺田寅彦記念館に今も残る。古びて黄ばんだ象牙づくりの鍵盤。焦げ茶色の木製ボディは、ずっしりとした厚み。でいながら、細部に生かされた優美な曲線や彫り込み細工は洗練の粋。
 漱石の長女・筆子は、このオルガンで随分と演奏の腕前を上げたという。
 わが敬愛する寺田寅彦の若き日々の息吹きにふれられた、至福のひと時でした。なお以前に熊本の夏目漱石邸を訪れたときに、寅彦が寄宿した馬小屋を見学できたので、よろしければご笑覧ください。また、高知県立文学館の寺田寅彦展示室とかれのお墓は、最終日に訪れる予定です。

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2018-06-17 07:00 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(7):寺田寅彦記念館(15.8)

 レトロな男女のトイレ表示を撮影して、寺田寅彦記念館へと向かいましょう。
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 途中にあった中島町教会は四国で一番古い歴史を持つ教会で、戦災で焼失した建物を1953(昭和28)年に再建したもので、設計はロバート・ギル神父だそうです。
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 織田歯科医院は1925(大正14)年の竣工、豊かな装飾が印象的な、街のランドマークです。
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 雨森灸治療所は、マンサール屋根が印象的な洒落た洋館でした。
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 そして本日のメイン・イベント、寺田寅彦記念館に着きました。公式サイトから転記します。
 「天災は忘れられたる頃来る」という有名な言葉を残した寺田寅彦は物理学者でありながら夏目漱石との親交も深く、多くの随筆を残す文学者でもありました。その寅彦が4歳から19歳まで過ごしていた邸宅を復元したものが、この寺田寅彦記念館です。寅彦の勉強部屋の他に、主家と茶室があり、広い庭には随筆の題材としても登場した各種の草木が季節折々の表情を見せています。この記念館の表座敷と茶室は、貸室として活用できるようになっています。静かで風情あふれる空間は、一絃琴の演奏やお茶会・読者会など、大人の趣を大切にした集いの場としても活用されています。
 実は以前に高知市を訪れたときに、旅程の関係で記念館を見学することができませんでした。満を持して再訪した次第です。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-06-15 06:29 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(6):自由民権記念館(15.8)

 ま、それはさておき、憲法第9条の改正/改悪はいったいどうなるのでしょうか。安倍上等兵を筆頭とする方々が第9条を目の敵にする理由はいろいろあると思いますが、見逃せないのは武器の生産と輸出の障害だと考えているからでしょう。『近代日本一五〇年 -科学技術総力戦体制の破綻』(山本義隆 岩波新書1695)から引用します。
 そもそもが、リーマンショック以降、資本主義国では鉄鋼や自動車や電化製品などは売れなくなっているのである。20世紀後半の資源多消費型の基幹産業が今では衰退産業に向かっているのであり、それにかわってIT産業、情報技術が登場しているが、この方面では日本は米国に大きく水をあけられている。
 このような状況下で、政府は、一方では法人税を下げ、他方で非正規雇用の拡大で労働者の賃金を押し下げ、苦境にたっている大企業をトコトン優遇している。そのため1990年代初めには五分の四であった正規雇用の割合は2007年には三分の二まで減っている。経済学者・水野和夫の書に書かれている。

 もはや利潤をあげる空間がないところで無理やり利潤を追求すれば、そのしわ寄せは格差や貧困という形をとって弱者に集中します。そして…現在の弱者は圧倒的多数の中間層が没落するという形になって現れるのです。(『資本主義の終焉と歴史の危機』 集英社新書)

 実際、現在多くの労働者は、結婚すらできない状態に置かれている。しかしそうなると、早い話、物を作っても売れなくなっているのであり、たとえ金融緩和があっても、企業が国内で積極的に設備投資にむかうこともない。だいいち結婚もできない、子育てもできないとなると、少子高齢化は必然的になる。そのように人口が減少している現在、将来的な市場の拡大は望むべくもなく、経済成長の現実的条件は失われているのである。水野のこの書にあるように「技術革新で成長するというのは、21世紀の時代には幻想にすぎない」のである。
 その状況下で、現在、日本政府と財界が画策しているのが、原発輸出とならんで「経済の軍事化」、すなわち軍需生産の拡大と武器輸出である。安倍政権は軍需産業を最大の成長戦略と位置づけ、これまでの武器禁輸政策を180度転換した。かつての武器輸出三原則は、もともとは佐藤内閣のもとで、基本的には共産圏への武器輸出を禁ずるためのものとして提起されたものだが、1976年に三木内閣が拡大し厳格化することで、成立した。それはたしかに例外規定をもち完全なものではなかったにせよ、兵器の輸出をしないという原則の対外的な表明は、平和憲法と合わせて日本の姿勢を国際的に明らかにする意味をもっていた。その後、中曽根内閣の時に、例外規定が拡大され、かなり骨抜きにされていったが、それでも曲がりなりに維持されていた。しかし安倍内閣は、武器輸出三原則を実質的に撤廃する防衛装備移転三原則を2014年に閣議決定し、武器輸出が事実上全面解禁されたのである。(p.247~9)
 同書に「武器原発カジノが成長戦略か」という川柳が紹介されていましたが(p.289)、大企業の利益のためには、なりふり構わないということでしょう。いやはや、何とも「醜い国」になったものです。なお『日本も世界もマスコミはウソが9割』(リチャード・コシミズ ベンジャミン・フルフォード 成甲書房)によると、安倍上等兵のお兄さん、安倍寛信氏は、三菱重工の原発システム、さらには兵器を海外に販売する三菱重工グループの一翼の「三菱商事パッケージング」の社長だそうです(p.63~4)。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-06-02 06:30 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(5):自由民権記念館(15.8)

 たいへん充実した展示内容でしたが、残念ながらじっくり見る時間もありません。流しながら展示を拝見していると、「土佐弁憲法九条」がありました。面白いので転記します。
 もう絶対に戦争はせんぜよ。
 戦争は止めた。ほんで戦争をする力や権力は認めんぜよ。

 日本の国の主人公の自分らあは、人間としての道理・すじ道・きまりのある生き方をせんといかん。
 それにゃあ、国同士の間で、揉めごとが起こっても、真心をもって話し合いをせんといかん。力づくや脅かしはいかんぜよ。
 国の戦争をする権利はもちろんのこと、戦車や軍艦・地雷や原爆・戦闘機らあは持たん。持たせんぞ。
 国同士・人間同士、殺しあう戦争は、揉めごとのおさめにするこたあいかん。
 よその国と、今までにあったこと、したことらを忘れられんぞ。
 これから先、どんなことがあったち、殺し合いはやめる。
 こりょう、守るというこたあ、まっこと大事じゃ。陸も海も空も世界はひっとつや。
 人間としての尊厳を大事にして、戦力は持たんぜよ。国が戦争する権利は一切無いぜよ。戦争はせん。戦争はまっことせん。させんぜよ。
 イワン・イリイチ言うところのヴァナキュラーな(民衆固有の、日常の)言葉で語られる平和、いいですねえ。余談ですが、話題になった『日本国憲法を口語訳してみたら』(塚田薫 幻冬舎)ではこうなっています。
第9条 俺たちは筋と話し合いで成り立ってる国どうしの平和な状態こそ、大事だと思う。だから国として、武器を持って相手をおどかしたり、直接なぐったり、殺したりはしないよ。もし外国となにかトラブルが起こったとしても、それを暴力で解決することは、もう永久にしない。戦争放棄だ。
2項 で、1項で決めた戦争放棄をいう目的のために軍隊や戦力を持たないし、交戦権も認めないよ。大事なことだから釘さしとくよ。(p.20)
 こうなったら津軽弁やウチナーグチでも聞きたいところですね。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2018-05-31 06:18 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(4):自由民権記念館(15.8)

 鏡川を渡り、ガタコンガタコンと走り抜ける路面電車と競争しながらペダルをこぎ、自由民権記念館へと向かいます。なお山ノ神のサングラスが破損したので、途中にあったコンビニエンス・ストアで瞬間接着剤を購入。これが後に、思わぬところで役に立ちました。
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 そして自由民権記念館に到着。公式サイトより、設立の趣旨について引用します。
 「自由は土佐の山間より」といわれるように、近代日本の歴史に土佐の自由民権運動は大きな役割を果たしました。高知市は、この壮大な日本最初の民主主義運動の高まりの中で誕生しました。高知市制100周年を記念するに当たり、自由民権運動の資料を中心に土佐の近代に関する資料を広く収集・保管・展示して、確実に次の世代へ引き継いで行くために自由民権記念館を建設しました。自由民権記念館は、自由民権運動と土佐の近代史から学び、その意義を現代および未来に生かすものとして市民自治と文化の新たな発展に寄与することを目的としています。また、高知市民・県民が誇る最大の財産である自由民権の思想を継承・発展させ自由民権記念館を高知市の新たな100年へのシンボル施設とします。
 うーむ、"壮大な日本最初の民主主義運動"か… 気持ちはわかるし、確かにその通りだと思いますが、自由民権運動にはさまざまな陰影や複雑な襞があったことも忘れずにいたいものです。不勉強の故、それをまとめる力は私にはありませんが、識者による指摘をいくつか紹介してお茶を濁します。
(片山杜秀) さて、暴力的な反乱が鎮圧されると、士族の怒りは自由民権運動というかたちで展開します。自由民権運動というと、デモクラシーの萌芽のように言われますし、たしかにそういう側面もあるのですが、事の起こりを見れば、薩長だけがいい思いをしていることに対して怒った士族たちが「自分たちも政治に参加させろ」という動機で動いていた面が強くありました。(『近代天皇論 -「神聖」か、「象徴」か』 片山杜秀・島薗進 集英社新書0865 p.78)

 自由民権運動とは、政府に向かって「国民の権利」を要求すると同時に、民衆に向かって「国民としての自覚」を喚起する、すぐれて国民主義的な運動であった。
 要するに、自由民権運動と明治政府は、近代国家の建設という基本的な目標を共有していたのであり、しかも、地租改正や自由主義経済などの基盤は、すでに政府が実現させていた。にもかかわらず、政府は国民の政治参加を拒否したから、民権派とは対立せざるをえなかったし、基本的な価値観と目標を共有したからこそ、両者はかえって激しく敵対しなければならなかったのだ。だとすれば、この時期の政治的対抗関係は、政府と民権派の二極対立ではなく、両者と異なる位相に立つ民衆を加えた三極関係としてとらえたほうがよいだろう。戊辰戦争期や西欧市民革命期の民衆の位置づけと同じである。
 同時に、民権派への共感を媒介にして、民衆のなかに「愛国心」や「天皇」が浸透したことも見逃せない。国家は人民と政府からなっており、国家と政府を同一視してはいけないと民権派は強調した。これは現在のわれわれも忘れてはならない視点だ。(『日本の歴史13 幕末から明治時代前期 文明国をめざして』 牧原憲夫 小学館 p.272~3)

 自由民権運動は、その「血なまぐさい」空気をたっぷり吸って発展してゆく。育ちざかりに吸った匂いは、その後の運動にまつわる一種の体臭ともなるだろう。
 ともあれ、西南戦争の折、高知立志社が岐路に立たされた三つの道、武力・言論・テロの、その第二の言論への道へ戦後の民権運動がすんなり移行したとは言えなかった。ひたむきに第三の道へつき進む者たちもいた。
 彼らの眼にもっとも大きく映ったのが、ワンマン大久保の頑固一徹、保守反動の巨影だった。(『日本の百年2 わき立つ民論』 松本三之介 ちくま学芸文庫 p.49)

(中島岳志) なぜ「愛国」という言葉で、板垣は自由民権運動を語ろうとしたのか。それは、彼にとって自由民権運動は、天皇のもとで「一君万民」を実現する愛国運動であり、万民の平等によって封建政治を打ち破ろうとするものだったからです。(『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』 中島岳志・島薗進 集英社新書0822 p.41)

本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-05-29 06:31 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(3):高知(15.8)

 得も言われぬ意匠の門柱を撮影して百足屋社屋へ。円筒形につきでた階段室やファサードのピラスターが印象的な社屋で、竣工は1951(昭和26)年だそうです。ワイシャツの卸などを営まれている会社で、靴下も扱っているそうです。さすがは「むかで」屋。
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 そして「日本三大がっかり名所」のひとつ、はりまや橋を撮影。なお「がっかり名所」については、札幌時計台、首里城の守礼門長崎オランダ坂京都タワー、名古屋テレビ塔、大仙陵古墳などいろいろと取り沙汰されていますが、私見でははりまや橋がダントツの第一位ですね。第二位が仙台の青葉城、倉敷は再訪して評価が上がったのでランク外としましょう。以前に見かけた銘菓「かんざし」の顔はめ看板もご健在でした。「とさけんぴ」の顔はめ看板と、アンパンマンの石像もついでに撮影して、そろそろ昼食にしますか。
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 郷土料理「司」に入って、鯛そうめん、かつお丼、かつおのたたき、あおさのりの天ぷらを注文し、ふたりで分け合いました。
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 それでは自由民権記念館へと参りましょう。そうそう、ペダルをこいでいて気がついたのですが、地元資本の喫茶店をよく見かけました。喫茶店と古本屋と銭湯の多い町って大好きです。
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 そういえば、『路地裏の資本主義』(平川克美 角川SSC新書231)に、次の一文がありました。
 これらの理由以上に喫茶店減少に拍車をかけたのは、日本人のライフスタイルの変化だろうと思います。どういうことかと言うと、喫茶店の椅子に座ってボーッと半日を過ごすような人間が生きていくのが、難しい時代になったということです。当時の私が、今を生きていることを想像すると、アルバイトの収入では食べるのがやっとで、コーヒー代を払って無為の時間を過ごす余裕は、どこを探しても見つからないように思えます。
 あの頃は、何であんなに余裕があったのだろうかと不思議です。喫茶店主にしても、お客にしても、非効率のモデルのような場所が喫茶店だったのです。それでも、町のあちこちに喫茶店が存在し、やっていけたわけです。無為の時間を生み出す場所がやっていける時代だったのです。
 喫茶店での無為の時間とは、本を読んだり、書き物をしたり、議論を戦わせたりする時間であり、文化が育まれる場所でもありました。こういう文化自体が廃れ、人々は駅前で朝のコーヒーを飲んで仕事へ向かい、バリバリと稼ぎを増やすことに熱中し始めました。
 いやそうしたくてしているわけではなく、そうせざるを得ないから時間を刻んでいるのです。いつの間にか、日本は東アジアの発展途上の文化国家というよりは、経済発展が極点にまで達した経済大国になっていたということです。(p.71~2)
 やれやれ、経済成長などしなくてもよいから、"喫茶店の椅子に座ってボーッと半日を過ごすような"方々が増えてほしいものだし、自分もそうなりたいですね。そこから、さまざまな文化やアイディアが生まれるものだと思います。アベノミクスに騙されて尻の毛まで抜かれる前に、「失業なきゼロ成長」と「無為」について本気で考えてみたいものです。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2018-05-27 08:29 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(2):高知(15.8)

 2015年8月上旬、羽田空港からANA 561便に搭乗して、高知へと飛びました。天気は快晴、気分も上々…この時までは。富士山がきれいに見えるかなと期待したのですが、そこだけ積乱雲が発生して山を覆い尽くしています。無念。やがて高知県の海岸線が見えてきました。
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 そして午前九時過ぎに高知龍馬空港に着陸、ここから空港連絡バスでJR高知駅へ。トイレを拝借しようとすると、表示が日本語・英語・ハングル・中国語で記されていましたが、中国語が二つあります。略字が完全に普及していないのかな、よくわかりません。ご教示を請う。ここにあった高知県おもてなしキャラクターは「まち・ゆうき君」。まち・ゆうき? まちゆうき…土佐弁のまっちゅうき、か。ポン(膝を叩いた音) また「身体の不自由な方の設備です。長時間の御利用はご遠慮下さい。中高生の喫煙は見つけ次第に通報します。」という注意書きもありました。高知の中学生、なかなかやるでねが。
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 そして駅前にある観光案内所に寄って、観光パンフレットをもらい、自転車を借りました。
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 無料というのが嬉しいですね。今夜の宿、宝来荘へは公共輸送機関がないので、「狩山口」というバス停まで迎えにきてくれるよう連絡を入れてあります。それまで高知市内を自転車で散策することにしました。駅前に出ると、武市半平太先生像・坂本龍馬先生像・中岡慎太郎先生像が揃いぶみ。そしてアンパンマンとバイキンマンの石像がありましたが、何故? ポン(膝を叩いた音) そうか、やなせたかしは高知の出身なんだ。
 まずは、中江兆民誕生の地を訪れましょう。事前に調べて、印刷した地図を持ってきたのですが、道に迷って右往左往してしまいました。でも犬も歩けば棒に当たる、戦前の物件らしい古い橋に出会うことができました。そしてようやく発見。
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 解説を転記します。
中江兆民 (1847~1901)
 自由民権の思想家。フランス留学から帰国後「民約訳解」によってルソーの思想を紹介し、また「東洋自由新聞」「政理叢誌」等に自由民権論を発表した。第1回衆議院議員に当選したが民党一部の行動に憤激して辞職。「三酔人経綸問答」「一年有半」等の著作がある。
 なお兆民の長男である中江丑吉も、かなりの傑物です。中国を愛し、北京に住んで中国思想やカント、ヘーゲル、マルクス、マックス・ウェーバーの研究に一生を捧げた在野の知識人で、鋭い知性と観察眼によって枢軸国側の敗北を確信し、私的な立場から警告を発し続けた方です。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2018-05-25 06:32 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(1):前口上(15.8)

 「あー打率がわるい!」 山ノ神の裂帛の叫びが、轟きわたります。彼女はいま、シューマンの『森の情景』を練習しているのですが、「寂しい花」に四苦八苦しているようです。それにしても打率とは…言い得て妙ですね。ピアノは打楽器ですから。

 閑話休題。

 以前、大久野島に泊まったときに、テレビで四国を流れる清流、仁淀川のことを紹介していました。四万十川は行ったことがあるのですが、この川は初耳です。「仁淀ブルー」と呼ばれる、それはそれは美しい青色に眼を奪われました。行ってみたいものだと思いながら、幾年月。2015年の夏に一念発起して、山ノ神と一緒に訪れることにしました。
 宿ですが、インターネットで調べたところ、観光地化があまり進んでいないようで、付近にはあまりないようです。仁淀川水系のなかでもっともきれいだという安居渓谷にある「宝来荘」のバンガローに五泊することにしました。そして中津渓谷や岩屋川渓谷に足を伸ばせる森の「井上旅館浪漫亭」に五泊という旅程にしました。高知龍馬空港への往復飛行機を予約して準備は万端。もっていくものは、インスタントのドリップ式コーヒー、帽子、サングラス、トレッキングシューズ、水着、杖、酒、煙草、地図、お金、予備の眼鏡。なお「宝来荘」のバンガローにはテレビがないとのことなので、非常用の小さなラジオを持っていくことにしました。今回の旅はがしがし歩き回らずに、のんびり過ごすつもりなので、本はたくさん持っていきましょう。ピックアップしたのが、『朝鮮戦争(上・下)』(デイヴィッド・ハルバースタム 文春文庫)、『嗤う日本の「ナショナリズム」』(北田暁大 NHKブックス)、『昭和天皇の戦後日本』(豊下楢彦 岩波書店)、『新自由主義 その歴史的展開と現在』(デヴィッド・ハーヴェイ 作品社)、『反貧困』(湯浅誠 岩波新書)、『イラクとアメリカ』(酒井啓子 岩波新書)、『能力主義と企業社会』(熊沢誠 岩波新書)の七冊です。清流を眺めて泳いで、部屋でビールを飲んで昼寝をして、本を読んでまた昼寝。うわお、社会復帰できなくなりそうな日々ですね。ほんとにそうなるかどうかは、わかりませんが。
by sabasaba13 | 2018-05-23 06:27 | 四国 | Comments(0)