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仁淀川編(28):佐川(15.8)

 それでは出発、申し遅れましたがこのあたりは上町といって風情のある建物が点在しています。白い漆喰壁となまこ壁が印象的なマルキュウ屋敷は、幕末~明治初期に建てられた旧竹村呉服店。
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 竹村家住宅は国の重要文化財で、江戸時代より造り酒屋として栄えた商家。徳川幕府の巡検使の宿としても使われたそうで、風格のある建物です。
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 清酒「司牡丹」の白壁の大きな酒蔵も見もの。土佐藩筆頭家老・佐川領主深尾氏に従って来た御酒屋が、1603(慶長8)年に創業した造り酒屋で、土佐を代表する日本酒です。
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 名教館は士分の教育に資した郷校で県指定文化財。
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 その近くにある洒落た洋館は、かつての須崎警察署の佐川分署で県下最古の木造洋館です。
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 内部を見学でき、いろいろな解説がありました。二つ紹介します。
自由民権運動と佐川
 憲法制定、議会開設、地租軽減などの要求を掲げた自由民権運動は、高知の立志社設立で広まりを見せます。佐川町出身の古沢滋は、民選議員設立建白書の起草に携わり、佐川でも明治11(1876)年に南山社が設立され、多くの自由民権運動家を輩出しました。
 牧野富太郎や水野龍なども運動に参加しており、牧野の回顧録によると、牧野らが公正社(夜学会)を結社した際、この建物に呼ばれ、警察の取り調べを受けたとあります。

選挙大干渉と佐川
 明治25(1892)年の第2回衆議院議員選挙の際、第1回選挙で民党(政府に対抗する勢力)に敗れていた政府は、選挙の大干渉を行います。
 自由党の総理である板垣退助の出身地・高知での干渉は特に激しく、民権派(自由党)と帝政派(国民党)の争いが加熱する中、この建物は高吾北地区の帝政派の指令所ともなりました。
 佐川の各地でも多くの暴力や流血事件が発生しますが、中でも明治25(1892)年1月29日に起こった斗賀野村野地(現在佐川町斗賀野村)での衝突は、国民党員(警官隊を含む)と自由党員の合計約400人が血で血を洗う大激戦を繰り広げ、数名の死傷者を出しました。
 へえー、牧野富太郎も自由民権運動に参加していたんだ。そしてこの建物の中で取り調べを受けたのか。後の特別高等警察による拷問とまではいかないでしょうが、それでもかなり暴力的な取り調べが行なわれていたのではないかな。すこし空気が冷たく感じられました。またあの有名な選挙干渉も、この佐川でも猖獗を極めていたことがわかりました。これに関して、最近読んだ『TN君の伝記』(なだいなだ 福音館書店)の中に、以下のような記述があったので紹介します。なお「TN」とは中江兆民のことです。
 このときの選挙では、しばらくのあいだ語りぐさになったほど、警察の干渉がひどかった。全国で、死者が二十五名、負傷者が四百名ちかくにものぼった。
 このとき弾圧を指揮したのが品川弥二郎だが、どういうわけか、この人の銅像が、いまでも東京の靖国神社にちかい、千鳥が淵のほとりに立てられている。政治家の銅像がすくない東京の街だが、えりにえって、この男の銅像が立っているのは、ぼくにはどうも皮肉なことのように思われる。彼は選挙が終わったあと、民党がふたたび多数をしめた第三議会で、この選挙干渉を非難する決議案が通る前に、それを避けるために辞職させられた。しかし、決議案は通った。この決議案は、政府の選挙干渉を天皇に上奏して、天皇の耳にいれろという要求だったのだが、松方内閣は、国会を一週間休会させることで、それに応じた。松方は、成立したばかりの議会を解散させようとした。もし、そうして、議会と政府が対決していたら、おそらくいまの日本がどうなっていたかわからない。だが、民党のほうも、二度の選挙で、すっかり貧乏になっていた。自分たちがはっきりと勝っていたのに、解散がおそろしかった。そこに弱みがあった。最後のところまで、松方内閣を追いつめながら、民党はたたかう気力を失っていた。(p.352~3)
 行政府による議会の軽視というのは、現今の安倍上等兵内閣の態度を見るまでもなく、この国の宿痾なのですね。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-08-15 07:06 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(27):佐川(15.8)

 もう一つ心に残った展示は、牧野富太郎が18~19歳の頃、心中に抱えていた思いを書き付けた「赭鞭一撻(しゃべんいったつ)」です。十五条あるのですが、その中のひとつが印象的でした。市井の一読書家として銘肝します。
14、書を家とせずして友とすべし
  (書物に書いてあることが全てを鵜呑みにしてはいけない。誤りがある場合は正すべきであり、書物を先生ではなく友人とすべきである)
 なおこちらには、武家屋敷の雰囲気を感じさせる江戸時代の庭園、九如園がありました。
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 旧浜口家住宅は古い商家で、現在は観光案内所として利用されています。解説板を転記します。
 浜口家住宅は幕末期には酒造商家の一つであり、周辺に酒蔵を構える大きな商家であった。近代期には当主の浜口駒次郎大阪市議会議員を務め、海運業にも転じて第1次世界大戦の海運業活況に乗じて、「舟成金」といわれるくらいの豪商に上り詰め、全国に名をとどろかせた。
 太い柱と梁、竹皮を編んだ網代壁、趣きのある蹲などが印象的でした。また解説によると、外壁の一部は伝統的意匠である土佐松煙(しょうえん)漆喰塗りの黒壁。また高知県は台風常襲地帯なので、外壁を守るための水切り瓦をしつらえ、雨漏りを防ぐために桟瓦の重ねを風下側に設置されているそうです(左瓦)。
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 それではここで一休みしましょう。牛乳とブルーベリー・シュークリームとプリンをいただき、名産の茶と牧野富太郎ペーパーウェイトを購入しました。彼はひらがなの「の」を渦巻きのようにぐるぐる巻いて、「巻きの→牧野」と読ませる印を使用していたそうで、それを模したペーパーウェイトです。すると係の女性、われわれが散財したことに感激して「富太郎くんストラップ」を二つくれました。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2018-08-13 17:31 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(26):佐川(15.8)

 途中にあった物見岩はたいへん眺望の良いところで、ここから見晴らせる佐川の町はまるで山間にたたずむ小宇宙です。なお12:00に鳴り響いたチャイムは「恋は水色」。
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 そして1603(慶長8)年、佐川領主・深尾家の菩提寺として創建された青源寺へ。池と岸壁を中心として構成された枯淡な味わいの庭園で、乗台寺と共に土佐三大名園の一つとされています。蓮が一輪の華麗な花を咲かせていました。苔むした石段と石垣も、落ち着いた雰囲気で素敵ですね。なおこの後に訪れた「牧野富太郎ふるさと館」の展示で知ったのですが、彼はこの寺の裏山でヤマモモの実をとっているところを愚仲和尚に見つかり、お目玉をくらって逃げ帰ったことがあるそうです。またシイの実の季節には、大きな幹に石をぶつけて落した実を拾うのが楽しみだったそうです。
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 青山(せいざん)文庫は、佐川郵便局長・川田豊太郎が私設図書館として創立し、その活動に感銘を受けた田中光顕が基金や蔵書などを寄贈し、幕末の貴重な資料も多数収蔵した博物館として今に至ります。
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 牧野富太郎のスケッチや、坂本龍馬・中岡慎太郎の書状も展示されていましたが、興味をひかれたのが「中国からの手紙」という展示です。解説を転記します。
 これらの手紙は、梁震東という中国人から蘭林に宛てて送られた手紙である。
 当時の中国は清の時代で、清人・梁震東と日本人・伊藤蘭林が文通を介して、詩の批評をしあっていたことがわかる。
 梁については詳しくはわからないが、手紙の内容から、職業は教師で、蘭林の息子ほどの年齢だったようである。この梁が住む隆都は、香港やマカオの北に位置する広東省にあり、現在は、辛亥革命の指導者・孫文の出身地であるため、孫文の号にちなみ、中山市と改称されている。
 明治26(1893)年と27(1894)年の手紙であるが、明治27年には日清戦争が勃発し、その翌年には蘭林が死去する。二人の交際がどのように続いたかは不明であるが、これらの手紙は国や年齢を越えての文化交流があった証である。
 伊藤蘭林(1814-1895)とは、郷校・名教館の教授となった儒学者で、多くの若者を教導した方です。梁震東と伊藤蘭林、日本と清国が朝鮮をめぐって激しく対立し、それぞれの国民がナショナリズムに煽られて憎悪しあう中、この二人が、国籍にとらわれず、詩を愛する人間として交流をしたことに感動を覚えます。嫌中と嫌日の雰囲気が渦巻く今だからこそ、記憶に留めたい手紙です。

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2018-08-11 07:36 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(25):佐川(15.8)

 まずは観光パンフレットで知った古畑の棚田へ行きましょう。駅前で客待ちをしていたタクシーに乗って十数分で古畑地区に到着、このあたりは通称"石垣の里"とも呼ばれ、昨日訪れた長者の棚田のスケールには及びませんが、丹精こめて積み上げられた石垣の棚田があります。
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 写真撮影をして、牧野公園で下ろしてもらいました。ここはかつての佐川城、長宗我部元親が土佐を統一した天正の初め、その重臣である久武内蔵助が築城したものですが、1616(元和2)年、徳川幕府の一国一城令で廃城となりました。その城跡に1902(明治35)年、植物学者の牧野富太郎が東京染井で見つけた桜ソメイヨシノの苗を送り、それを地元の有志が植えたことから桜の名所となりました。現在は「牧野公園」と称することとなり、中腹には富太郎と田中光顕の墓があるそうです。まずは二人のお墓を掃苔しましょう。木々や草花にあふれた園内をのんびりと歩いていくと、自然の中に二人のお墓がひっそりと佇んでいました。
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 佐川観光協会のサイトから、二人のプロフィールを引用します。
牧野富太郎
 後に、「日本植物学の父」と称された植物学者・牧野富太郎博士が産声をあげたのは、文久2(1862)年4月24日、かの坂本龍馬が土佐を脱藩して一ケ月後のことでした。
 土佐国高岡郡佐川村(現在の佐川町)に、父・佐平、母・久寿のもと誕生。生家は酒造業と雑貨商を営む裕福な商家でしたが、幼くして両親を亡くし、祖母の手で育てられました。
 豊かな自然環境の中で育った富太郎少年は、幼い頃から植物に興味を持ち、小学校を2年で退学するも、植物採集をしたり、書物で植物の名前を覚えたりと、独学で植物学の研究を続けました。
 23歳で上京。東京大学理学部植物学教室への出入りを特別に許され、以後、東京と高知をたびたび行き来しながら植物分類学の研究に打ち込みます。
 26歳のとき、友人と『植物学雑誌』を創刊。その2年後、同誌上に共著で記載したヤマトグサは日本国内での最初の新種発表でした。
 96年の生涯において収集した標本は約40万枚。新種や新品種など約1500種類以上の植物を命名し、日本植物分類学の基礎を築いた一人として知られています。
 成功を収めてからも、牧野博士はたびたび帰郷し、故郷への思いを生涯持ち続けました。あまり知られてはいませんが、故郷への功績として明治21(1888)年には、郷里の子どもたちの文化向上や科学教育の普及をはかるため、「佐川理学会」を創設。自らも指導にあたるほど、熱心に取り組みました。
 明治35(1902)年、佐川に送ったソメイヨシノの苗木は、桜の名所となり、多くの人の目を楽しませています。春の訪れをつげる愛らしい花、バイカオウレンは、晩年東京で暮らした牧野博士にとって、故郷を思わせる懐かしい花でした。いまも生家の裏山にたくさん自生しています。

田中光顕
真心の赤土坂に まちあわせ いきてかへらぬ 誓なしてき
 元宮内大臣で、動乱の幕末期を駆け抜け、生き抜いた最後の生き証人としても知られる田中光顕(たなかみつあき)は、天保14(1843)年、土佐国高岡郡佐川村(現在の佐川町)に、深尾家の家臣、浜田金治の息子として生まれました。
 郷校・名教館で学び、叔父・那須信吾の影響を受け、文久元年(1861)、武市半平太を盟主とする土佐勤王党に入党。3年後の元治元年(1864)には、同志らと土佐を脱藩。その時の決意を詠んだのが冒頭の句です。以後田中は長州へ脱藩し、志士としての活動に奔走します。
 坂本龍馬や中岡慎太郎らとともに薩長同盟の実現に尽力。龍馬と慎太郎が暗殺された際、現場に駆け付けた一人としても知られています。明治新政府では、陸軍少将、初代内閣書記官長、警視総監などの要職を歴任。明治31(1898)年からは、12年間という長い間宮内大臣をつとめました。
 政界引退後は、維新で亡くなった志士たちの顕彰に殊に尽力します。志士たちの顕彰を目的として、武市半平太の雅号を冠した「瑞山会」を結成し、記念碑建立や伝記の編集を進めるなど、志半ばでこの世を去ったかつての同志らの地位や名誉を回復するための活動を熱心に行いました。この活動の中で残された遺族の名誉を回復し、さらに生活面でも救済しており、当時困窮していた武市の妻・富とその家族は田中光顕の活動により救われたと言います。さらに、田中が集めた資料の多くは、青山文庫(現佐川町立青山文庫)に寄贈され、いまも当時の貴重な記録として展示されています。無念の同志たちの功績を復活させた郷土の偉人は、昭和14(1939)年、97年の生涯を終えました。従一位勲一等伯爵。号は青山。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2018-08-09 08:12 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(24):佐川へ(15.8)

 6:00、「のばら」のチャイムで叩き起こされました。朝は「のばら」、昼は「ふるさと」、夕は「赤とんぼ」なのですね。この町にすこし溶けこめたような気がします。物干し台に出て朝の新鮮な空気を吸い、長者川を眺めると、そこかしこで太公望たちが釣りにいそしんでおられます。河原、橋の上、なんと向こう岸の家の窓から釣り糸を垂らしている方がいました。何て豊かな暮らしなのでしょう。
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 さて本日は、佐川を散策する予定です。土佐藩筆頭家老深尾氏の城下町として栄え、江戸期から綿々とその伝統を守る造り酒屋の酒蔵や旧商家を中心に風情ある街なみが楽しめるとのことです。また植物学者・牧野富太郎の出身地でもあります。美味しい朝食をいただき、部屋に戻って観光パンフレットを読んでいると、高知市の「ひろめ広場」にある「明神丸」というお店の「藁焼き鰹たたき」が絶品であるという記事がありました。よろしい、頭と心にインプットして最終日にぜひ立ち寄ることにしましょう。
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 宿近くのバス停「森」から9:51発の町民バスに乗って大崎へ。ここで10:22発佐川駅行き黒岩観光バスに乗り換えます。バスを待っていると、移動パン屋さんの車がやってきました。これは珍しい。トイレを拝借すると、"トイレットペーパーを持って帰らないで下さい! 立派な「犯罪」です!"という貼り紙がありました。世知辛い世の中になりましたね、やれやれ。壁にはフリガナをふった「東」という小さなシールが貼ってありましたが、何のためでしょう。
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 やってきたバスに乗り込み、仁淀川に沿った風光明媚な道を三十分ほど走ると、佐川駅に到着です。
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 まずは鰻の老舗「大正軒」に電話で予約をしようとしましたが、満席でした。無念。駅前にあった、子どもに読ませたくない本を入れるための「白いポスト」を撮影。でもどんな本が入っているのだろう、後学のために中を拝見してみたいものです。安倍上等兵の『美しい国へ』(文春新書)かな。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2018-08-07 06:56 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(23):長者の棚田(15.8)

 神岡酒店で栗焼酎「ダバダ火振」を買い、店番をしていたご老人と四方山話に花を咲かせました。「これからどこ行くの?」と訊かれたので、「長者の棚田まで歩いてきます」と答えると、「車で送ってあげるよ」という嬉しいオファー。有難い、ご厚意に甘えましょう。お酒を旅館の部屋に置きに行き、女将にこの話をすると、彼は「げんぞうさん」だと教えてくれました。神岡酒店に戻って、げんぞうさんの運転するワゴン車に乗せてもらい、十分ほどで長者の棚田に着きました。
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 ブンダバー! 精魂込めて積み上げた精緻な石垣が、天にも届けと連なっています。集落の人びとが協力しながら川や山から石を運び、生きるため、子孫のため、未来のため、何百年をかけてつくりあげた棚田。神々しさすら感じます。同じ人間が作ったものでも、労働者の命を削り、核廃棄物を半永久的に未来と子孫に押しつけ、事故がおきたら地域を壊滅させる核発電所との何たる違いでしょう。素晴らしい景観を楽しみながらしばし散策。長者の大銀杏もみごとな巨木ですね。
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 それでは歩いて宿へと戻りましょう。集落の近くにあった電線に、猛禽類がとまっているのを発見。鳥類に関する知識がまったくないのでよくわかりませんが、鷹なのでしょうか。あるいは鷲? ブヨよりはるかに好ましいことには変わりませんが。長者川に沿った車道を、清流や石垣の棚田を眺めながら一時間強歩くと、森に着きました。
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 17:00に鳴り響いたチャイムは「あかとんぼ」。神岡酒店に寄ってげんぞうさんに丁重にお礼を言い、宿へと戻りました。風呂に入り、川を眺めながら物干し台でビールを飲んでいると夕食の時間です。一階が飲食のお店となっており、そこでの食事となります。地元産の食材を中心とした美味しい料理に舌鼓を打ちました。部屋に戻って、さきほど購入した栗焼酎「ダバダ火振」をちびりちびりと飲みながらテレビをぼーっとみながら見ました。
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 すると高知市で開催されたよさこい祭りの様子を放送していました。人様のリビドーの捌け口に半畳を入れるつもりはありませんが、みんなで同じようなユニフォームを着て一糸乱れぬ群舞を踊ることが、そんなに楽しいのでしょうか。あるいはそれを見物することも。
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 テレビを消して、ベッドに寝ころび読書に専心。息抜きに物干し台に出て夜の川を眺めながら珈琲を飲み紫煙をくゆらし、また読書。栗焼酎「ダバダ火振」を飲んで就寝。ほんとに良い暮らしだなあ、社会復帰をしたくないなあ。

 追記です。「ダバダ火振」という意味深な名称の由来が、いまインターネットで調べてわかりました。四万十川流域の山里では、人の集まる場所を「駄場(ダバ)」と呼び、また同地域では古来より夏の闇夜にたいまつの火を振り、鮎を定置網に追い込む「火振り漁」があるそうです。なるほど。でもなぜこの二つを組み合わせたのかはいまだに不明です。ご教示を乞う。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2018-08-05 22:00 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(22):森(15.8)

 久喜橋から仁淀川本流に沿って十五分ほど走って森に着き、「井上旅館浪漫亭」の前で下ろしてもらいました。こざっぱりとした清潔な印象の外観、これは期待できそう。中に入って宿の方に、二階にある部屋に案内してもらいました。おおっ… ベッドが二つある、エアコンがある、テレビがある、そしてブヨがいない。窓を開けると小さな物干し台に出られるようになっており、眼下に清流が流れています。宿の方に訊ねたら、仁淀川支流の長者川だそうです。これは快適に過ごせそうです。
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 雨もやんだようだし、荷物を部屋に置いて、町の散策へとくりだしましょう。すぐ近くに西村医院の古い建物があるはずですが、残念ながら建て替えられていました。「森」というバス停があったので時刻表を確認すると、バスは一日に五本しかありません。これは慎重に旅程を組み立てないといけませんね。おっ水切り瓦をしつらえたお宅がありました。安芸吉良川でもよく見かけましたが、高知県は多雨地帯なのですね。
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 とりあえずこのあたりの観光情報を手に入れようと仁淀総合支所に行ってみましたが、パンフレットはないそうです。近くにあった別府小学校を撮影してぶらぶら歩いていると、鮎を意匠としたマンホールの蓋がありました。長者川は鮎釣りの名所なのでしょうか。町のあちこちから、見事な石垣と茶畑を眺めることができます。なお12:00に町内に鳴り響いたチャイムは「ふるさと」でした。
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 目抜き通りに戻って長者川にかかる橋を渡ると、「美理館」という古い佇まいの床屋があり、その脇にある水槽には鮎と鰻がいました。大いなる川の恵みを感じます。ん? 何やら誰かに見つめられているような気がします。あたりをきょろきょろすると向かいの洋品店に、こちらを凝視する妖気にあふれたマネキンがありました。今夜うなされそう。
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 川に沿った道を歩いていくと、釣りをする人、川に入って何かを取っている人の姿が見えました。川と共に暮らす、いいですね。
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 とある橋の上では、ご老人が釣り糸を垂れていました。「何が釣れますか」と訊ねると、「鮎だよ」と即答。あれよあれよという間に、鮎を三匹も釣り上げました。お見事。長者川の鮎は美味しいとのことです。
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 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2018-08-02 06:54 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(21):森へ(15.8)

 目覚めて外を見ると、子糠雨がしとしとと降っています。でも本日は移動日なので問題はなし、天候に関する強運には自信があります。朝食をいただいてバンガローに戻り、荷物整理。五泊六日、「都」になったとは言い難いのですが、ま、それなりにお世話になった部屋に感謝の意を込めて写真におさめました。
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 そして激戦をともに闘いぬいてぼろぼろとなった戦友の団扇を、ゴミ袋に埋葬しました。ありがとう、安らかに眠れ。そして荷物を持って宝来荘に行き、会計を済ませました。バンガロー料金+食事代+風呂代+タオル代+歯ブラシ代+ゴミ代(540円)込みで、計67370円。これで宿敵のブヨともお別れかと思うと、名残り惜し…くはありません、ぜんぜん。そうそう、六日の菖蒲、十日の菊、帰郷した後で見つけた「FIELD-NOTE ~アウトドアと旅~」というブログに、詳細なブヨ対策が掲載されていました。
 それでは出発。宿の若い衆が、狩山口バス停まで車で送ってくれることになりました。大崎バス待合所でタクシーと待ち合わせをしていると話すと、役所に用事があるのでそこまで送ってくれるそうです。ご厚意に甘えましょう、ありがとうございます。この間、いろいろとお話を伺いました。バブルのころ、公務員をやめてこの仕事についたが失敗だった。先日も24歳の若い男が、きつい仕事と寂しさのため夜逃げした。ブヨも嫌だが、10月に現れるスズメバチはもっと恐ろしい。追い払ったらだめ。蜂は黒を、アブ・ブヨは白を好む、などなど。
 丁重にお礼を言って大崎バス待合所で下ろしてもらい、予約をしたタクシーを待ちましたが、なかなかやってきません。20分ほどたってやっとタクシーが到着、運転手さんが「忘れていました、申し訳ない」と頭をかきかき荷物を積み込んでくれました。ま、いいでしょう。
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 まずは事前に「文化遺産オンライン」で調べておいた古い橋梁物件二つに寄ってもらいました。大崎バス待合所のすぐ近くにあったのが旧川口橋、まるで古武士のように剛健な姿が印象的です。
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 解説板を転記します。
 昭和10年に造られた、橋の長さは69m、幅員5.4mの鉄筋コンクリートT桁橋である。昭和41年11月に隣接する新しい川口橋が架設され、その主たる役割を終えている。幾何学的意匠の親柱・高欄、橋脚に施された精緻なフランス積みレンガ意匠が際立っている。国土の歴史的景観としての価値が認められ、2005年8月に国の登録有形文化財として指定された。
 次は久喜橋、アーチの曲線が洒落た沈下橋です。
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 こちらも解説板を転記します。
 昭和10年に作られた、鉄筋コンクリートの沈下橋。共に現存する高知県で最も古い沈下橋と言われている。コンクリートで補強された岩盤にアーチ形をした13mの桁を架け、その東側に二重の桁を連続させている。このあたりは仁淀川で最も川幅が狭く激流となる場所があり、その奔流に耐えうる構造形式を備えた沈下橋で、今も山里の生活道路として利用されている。国土の歴史的景観としての価値並びに造形の規範となっていることから、2004年3月に、国の有形登録文化財に指定された。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2018-07-31 06:55 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(20):安居渓谷(15.8)

 すこし歩くと乙女河原です。浅瀬なので、膝まで水に漬かりながら川遊びを楽しみました。いろいろな色合いの川底の石があまりに綺麗なので、思わず見惚れてしまいました。そういえば、依然に桂離宮を訪れた時に、係の方が、人が少なく雨に濡れた石が美しい六月がお薦めとおっしゃっていました。おっ魚がいるぞ、何という魚なのでしょうか。
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 そして向こう岸へ渡り、飛龍の滝へと行きました。今日は気温が高いので、二人とも泳ぐ気満々です。さっそく上着・長パンを脱いで滝壺へ入りました。水温は人肌ぐらい、ちょうどよろしゅうございました。大きな滝壺を平泳ぎで遊弋、きれいな水、豪快な滝、緑の木々と青い空、なんて気持ちがいいのでしょう。このあたりはブヨも少なく、安心して遊ぶことができました。
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 至福のひと時を過ごし、バンガローに戻って昼寝と読書とビールと珈琲を堪能。昨日と同じ一日を今日も過ごせることの幸せをかみしめました。
 夕方になったので宝来荘へ行き、宝来橋やその近くを散策。明日は森の井上旅館へ移動するので、この美しい景色も見納めです。
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 そして風呂にはいって夕食をいただきました。
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 食後に、井上旅館へ電話連絡を入れようとしたら、山ノ神の携帯電話は圏外で使用できません。宿の事務室宿で電話を借り、井上旅館浪漫亭に電話をしました。アクセスを訊ねたところ、最寄りのバス停は「大渡(おおど)」で歩いて三十分かかるそうです。「森」というバス停もあることはあるが、本数が少ないとのこと。転ばぬ先の杖、石橋を叩いたら壊れた、タクシーで行ったほうが無難のようです。電話でタクシーを予約して大崎バス待合所で明日10:30に待っていてもらうことにしました。

 そしてバンガローに戻り、ラジオ講座を流しながら読書。寝つきのよい山ノ神は午後九時を過ぎると、もう眠りについていました。すると突然がばと身を起こす山ノ神。「どうしたの?」と訊ねると、流れ星の光で目が覚めたそうです。ほんとかい。

 本日の十枚です。
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by sabasaba13 | 2018-07-23 06:19 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(19):安居渓谷(15.8)

 午前六時、爽やかに目覚め、ベランダに出ると朝日が輝いていました。今日も良いお天気です。昨日拾った箸置き用の小石もすっかり乾きました。宝来荘で朝食をいただき、バンガローへ戻ろうとすると、「虫対策 昔ながらのカヤを使っては 一日レンタル有ります」という貼り紙がありました。そういえば、稀代の旅行家・イザベラ・バードが、日本で一番辟易したのは虫だと言っていましたっけ。なお宝来荘のマスコット・キャラクターは「おとめチャン・ほうらいクン」でした。
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 そしてバンガローに戻って水着に着替え、まずは宝来荘近くの荒男谷を散策しました。巨岩・奇岩がごろごろと点在し、その岩の上や間を、仁淀ブルーの水がさまざまに表情を変えながら流れていきます。ここも素晴らしい景観でした。

 本日の六枚です。
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by sabasaba13 | 2018-07-21 06:22 | 四国 | Comments(0)