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近江編(81):朽木(15.3)

 そしてバスに乗り込み、山々に向かって走ること三十分ほどで朽木に着きました。古くから、若狭国小浜と京都を結ぶ街道の街道筋として栄えた宿場町で、「朽木の杣」と呼ばれた木材の供給地でもありました。お目当ては、興聖寺の境内にある「旧秀隣寺庭園」です。1528(享禄元)年、室町幕府12代将軍足利義晴が京都の兵乱を避け、このあたりを支配する朽木氏に身を寄せてきたため、朽木氏の居館は将軍御所「岩神館」となりました。その岩神館の中に、鑑賞および将軍の公的な権威を示す儀礼の場として作庭された池泉観賞式庭園です。
 私が敬慕する重森三玲氏が惚れ込み、「飽きがこない」と年に一度は訪れて、庭園に佇まれていたそうです。中世を代表する貴重な庭園で、氏のお孫さんにあたる重森千靑(ちさを)氏は、『日本の10大庭園 -何を見ればいいのか』(祥伝社新書)の中で、こう述べられています。
一乗谷朝倉氏遺跡庭園群
 池の東端に浮かぶ島は「亀島」である。一方の西端には「鶴石組」が表わされ、ともに巨石を用いた豪快な構成となっている。亀島の奥には滝石組があり、まことに折り目正しく、かつ武将らしい強さを前面に押し出した室町時代後期庭園といえる。ほぼ同時期に造られた名庭として、京都の北方、朽木の地に残る「旧秀隣寺庭園」(滋賀県高島市)があるが、力強い亀頭石などが類似性を感じさせる。(p.176)
 また白洲正子氏は、『かくれ里』(講談社学芸文庫)の中で、こう書かれています。
 石は当然庭と結びつく。近江には、これもあまり人に知られていないが、名園が多い。朽木谷の興聖寺には、足利将軍義晴が、ここに逃れた時造ったという石庭があり、安曇川の渓流をへだてて、比良山が眺められる。今は少々荒れているが、妙に手のこんだ庭園より、石組みも自然で、気持ちがいい。造園は、茶人が指揮したにしても、働いたのは近江の石工たちであったろう。そう言えば、「お庭番」と呼ばれた将軍家の隠密も、伊賀・甲賀から出たしのびの者であった。(p.97)
 これは楽しみですね。
by sabasaba13 | 2018-04-19 06:28 | 近畿 | Comments(0)

近江編(80):藤樹書院跡(15.3)

 駅前には中江藤樹の銅像と、彼のことばを記したプレートがありました。後学のために転記します。
藤樹先生のことば(9)
 天下の兵乱も又明徳のくらきよりおこれり。
 先史の時代から、この地球上において、人間どうしの悲惨な戦争がたえまなく起こっています。なぜ戦争が繰りかえされるのでしょうか。その原因のつまるところは、明徳をくもらせていることにあると、藤樹先生は断言しています。政治にたずさわる者の「利欲の心」と「満心」によって、明徳をくもらしてしまうのです。それをとりのぞくには、論語や孟子などの古典をまなぶことが、だれにでもできる最上の方法なのです。
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 嗚呼、藤樹先生。お恥ずかしい話ですが、われらが首相は「利欲の心」と「満心」が服を着て歩いているような御仁で、しかも古典に学ぼうとする気はさらっさらないようなのです。どうすればいいのでしょうか。さらに●があったら入りたい話ですが、彼が率いる政党の立候補者に投票する御仁や、棄権をして彼らに政治を丸投げする御仁が、山のようにいるのです。どうすればいいのでしょうか。

 タクシーに乗って十分ほどで王林寺にある中江藤樹の墓所に着きました。合掌。その近くに彼の私塾、藤樹書院がありますが、焼失のために明治時代に再建された建物だそうです。
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 そして安曇川駅まで戻ってもらいましたが、次なる目的地の朽木に行くバスは9:05発。三十分ほど時間があるので、喫茶店でモーニング・サービスをいただければよいのですが…あった。駅前のウエストレイクホテルに「可以登楼」という喫茶店がありました。渡りに船、さっそく入店してモーニング・サービスを食しました。おっアヲハタのジャムだ、忠海で本社に出くわしたことが懐かしく思い出されます。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-04-15 08:54 | 近畿 | Comments(0)

近江編(79):藤樹書院跡(15.3)

 珍しい意匠の透かしブロックを撮影し、それでは新旭駅へと戻りましょう。途中に、きれいな菜の花が咲いていました。新旭駅から湖西線に乗って、次の安曇川(あどがわ)駅で下車。
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 タクシーを利用して、中江藤樹の墓と藤樹書院跡を訪れました。中江藤樹(1608~1648)、江戸初期の儒者で、初め朱子学を信奉しましたが、晩年に王陽明の著書に接し、陽明学の祖となりました。村民を教化し徳行をもって聞こえ、近江聖人と称されました。門下に熊沢蕃山がいます。

 なお1904(明治37)年に発行された高等小学修身書(第二学年児童用)に、藤樹が登場しています。
第二課 主人と召使
 中江藤樹は近江の小川村の人なり。はじめ、伊予の加藤氏につかへしが、故郷にある母を養はんがため、つかへをやめて帰れり。
 この時、伊予より、一人の召使従ひきたれり。されど、藤樹は家貧しければ、これを雇ひおくことあたはず、よって、わがもてるわづかの銭の中より、その過半を分ち与え、故郷に帰り、商をなして、生計をたつべし。」といへり。召使は「主人の仰は、まことに、うれしけれども、われは金銭を受けんとは思はず、ただ、いつまでも、つかへて、艱難をともにせんことを願ふ。」と答へたり。藤樹は、その志をあはれとは思ひしが、せんかたなく、あつく、これをさとしたれば、召使も涙を流して、帰りゆけり。

第三課 徳行
 藤樹は母に孝行をつくし、また、学問をはげみ、つひに、名高き学者となり、多くの弟子はもとより、文字を知らざるものまでも、藤樹をしたふにいたり、人、みな、近江聖人ととなへたり。今にいたるまで、村民その徳を仰ぎ、年年の祭をたやさず。
 ある年、一人の武士、小川村の辺をすぎ、藤樹の墓をたづねんとて、畑をたがやせる農夫に、道をたづねたり。農夫はさきだちて、案内せしが、途中にて、わが家にたちより、衣服をあらため、羽織を着て、行きたり。武士は、心にうちに、われをうやまふがために、かくするならんと思ひしが、藤樹の墓にいたれば、かの農夫、垣の戸をひらきて、武士をその中に入らしめ、おのれは戸の外にひざまづきて拝したり。武士このさまを見て、さきに、農夫の衣服をあらためしは、藤樹をうやまふがためなりしことをさとり、ふかく、感じ、ねんごろに、その墓を拝して、去りたりとぞ。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-04-13 06:20 | 近畿 | Comments(0)

近江編(78):針江(15.3)

 朝目覚めてカーテンを開けると雨はやんでおり薄曇りの空。今日も今日とてパッツンパッツンの行程なので、すぐにチェックアウトをし、午前六時半に配車してもらったタクシーに乗り込みました。マキノ駅に着き、ホームに出ると連山が雪を頂いています。
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 湖西線に乗って三つ目の駅が新旭駅です。お目当ては針江集落、地域住民がきれいな湧き水と共存する景観をぜひ見たいと思います。新旭駅前ロータリーには「旭日昇天 躍躍の郷」という銅像がありましたが、このあたりで行なわれる七川祭(駒練り)と竹馬祭を表現しているそうです。
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 駅から針江までは徒歩約15分、のこぎり屋根の町工場や森神社を撮影しながら、のんびりと歩きました。
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 そして針江に到着、清らかな水が家々に沿うように流れる素晴らしい景観です。比良山系に降った雪・雨が伏流水となって湧くきれい水を、地元の方は生水(しょうず)と呼び、昔から大切に利用してきたそうです。そして集落の中を巡る水路やその水を生活用水に利用したシステムが"かばた"(川端)です。かつては飲料や炊事のために利用され、今でも野菜を冷やしたり食器を洗ったりされているとのことです。壺池(つぼいけ)や端池(はたいけ)といった"かばた"は、個人のお宅の中にあり、公道からは見ることができません。

 散策しているときに、下記の注意書きを見つけて愕然としました。
針江区内 見学のみなさまへ
 ここは、観光地ではありません。生水(湧水)の恵を受け、自然とともに暮らしている生活の場です。私達の暮しを知っていただくために、散策は必ず地元ガイドと一緒に見学カードを身に着けた状態でお願いします。針江区内に見知らぬ方がおられることに、子どもやその親が敏感になっています。ガイドを伴なっておられない方には、目的をお訪ねするとともに、場合によっては区外に退去をお願いすることもありますので、ご理解をお願いいたします。
 ほんとに失礼いたしました、針江のみなさま。迂闊にも知りませんでした。今度は必ずやガイドをお願いして再訪を記したいと思います。

 なおこのあたりは現在は高島市、かつて高島郡でした。『江戸東京の聖地を歩く』(岡本亮輔 ちくま新書1244)を読んでいたら、次のような記述がありました。
 工事を担ったのは、清兵衛の弟子・息子・実弟など五〇名ほどであった。清兵衛は湯島に住んでいたが、江戸の大工ではない。近江高島郡の出身だ。琵琶湖に近い高島郡は木材の集散地で古くから大工の集落があり、優れた技術が蓄積されていた。(p.270)

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2018-04-11 06:29 | 近畿 | Comments(0)

近江編(77):近江今津(15.3)

 旧今津郵便局は、ダブルの三角屋根と、半円アーチの入口がチャーミングな、愛らしい建物です。
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 解説を転記します。
 ヴォーリズ建築事務所の設計によって、昭和11年(1936)に、今津郵便局舎として建てられました。昭和53年に現在の今津郵便局に移転するまで使用され、当初はここで電話交換事務も行なわれていました。建設当時の図面によると、1階東側には電報受付窓口や電信台が置かれていました。
 切妻造り、妻入りで正面中央の玄関をややつきだし、入り口の半円アーチをタイルで縁取りし、コテージ風の意匠を取り入れてあります。近年までは、本館の東側に細長い作業棟があって、通路の前面には両棟をつなぐ瓦葺の門扉がありました。
 なお最近見つけた「ヴォーリズを訪ねて」というブログが、たいへん参考になりました。どうもありがとうございました。

 そして駅前の町内地図に記されていた「旧江若鉄道今津駅舎」が近くにあるので、寄ってみました。大きな切妻屋根が印象的な、山荘風の洒落た駅舎です。解説によると、近江今津と浜大津を結ぶ江若鉄道の駅として1930(昭和5)年に建てられましたが、この鉄道は1969(昭和44)年に廃線となりました。なお当初は近江(滋賀県)と若狭(福井県)を繋ぐ計画であったため、江若鉄道と名付けられたそうです。
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 見るべき程の事は全て見つ。なお、ここ近江今津で宿をおさえることができず、マキノ駅へと移動して奥琵琶湖マキノグランドパークホテルに泊まる予定です。近江今津駅前に何軒か飲食店があるので、転ばぬ先の杖、ここで夕食をとりましょう。「吾妻鮓」に、さば鮓があるという貼り紙があったので、躊躇なくこのお店を選びました。ほどよくしめてある鯖が美味しうございました。
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 そして「女騎士館」という男心をそそる喫茶店があったので、二念なく中に入りました。どんなサービスをしてくれるのだろう、どきどき、と胸を高鳴らせていると、なんてこたあない、"おんなきしかん"ではなく"めきしかん"と読むのでした。おあとがよろしいようで。でも珈琲は絶品の味と香りでした。
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 近江今津駅から湖西線に乗って二つめの駅が、マキノ駅です。ホテルまではすこし距離もあるし、雨も降っているので、タクシーに乗ろうとしましたが、駅前は閑散としており"た"の字もありません。配車してもらおうにも、公衆電話もありません。やれやれ、歩いていくしかないか。♪小糠雨降る御堂筋♪、♪雨に濡れながら♪、♪雨が空から降れば♪、♪たどり着いたらいつも雨降り♪、♪冷たい雨にうたれて♪と、雨が歌詞に出てくる歌を思い出し歌いながらとぼとぼと歩き、十五分ほどで奥琵琶湖マキノグランドパークホテルに着きました。フロントでチェックインをすると、宿帳にのナンバーを記入するように言われて、ちょっとむかっとしました。明日、午前六時半に駅まで送迎してほしいと依頼すると、午前八時半以降のみと断られました。しかたがない、朝六時半にタクシーを配車してもらいました。部屋に行くと、琵琶湖に面しているホテルなのに山側の部屋。全室レイク・ビューではないのか。

 さて明日は最終日です。一献傾けながら明日の旅程を確認し、テレビをつけると、福島原発事故によって避難を余儀なくされている方が、故郷に帰還できずに苦しんでいるというNHKの番組が放映されていました。思わず食い入るように視聴し、終了後、夜の琵琶湖のように暗く深い溜息をつきました。こんな没義道な事態を引き起こした政権を、日本の有権者は何十年も支持し続けてきたんだ。嗚呼。

 本日の一枚です。ボナペティ。
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by sabasaba13 | 2018-04-09 06:26 | 近畿 | Comments(0)

近江編(76):近江今津(15.3)

 湖西線に乗って13分ほどで、最後の目的地・近江今津駅に着きました。小糠雨が降りはじめたのが残念ですが、雨中の散歩もまた乙なものと引かれ者の小唄。
 お目当てはヴォーリズ物件の数々です。駅から旧若狭街道を北上すると、東西に走る辻川通りと交わります。この通りに沿って三つのヴォーリズ設計の建物があるので「ヴォーリズ通り」と呼ばれるようになったそうです。まずは今津ヴォーリズ資料館ですが、まるで金庫のようなかっちりとした佇まい、やはりもとは銀行でした。
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 解説を転記します。
 ヴォーリズ建築事務所の設計によって、大正12年(1923)、旧百卅三銀行(現在の滋賀銀行)今津支店として建てられました。昭和53年に銀行が移転した後は、今津町が買い取り、町立図書館として平成13年まで利用されました。約10メートル四方、鉄筋コンクリート造りの2階建てで、外壁にレンガを二重に積んではめこんで構築してあります。様式は、同時期の銀行建築によくみられる西洋古典建築様式を継承した意匠でまとめられ、正面中央の玄関をはさむ2本の柱には略式のトスカナ式柱頭をつけ両側を壁柱としています。
 日本基督教団今津教会は、三角屋根と正面中央の鐘楼が印象的な、愛らしい建物です。
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 解説を転記します。
 ヴォーリズ建築事務所の設計によって、昭和9年(1934)、日本基督教団今津教会会堂として建てられました。大正11年(1922)、この会堂の裏手に今津基督教会館が建てられ、昭和7年にはそこに保育園が設けられました。
 会堂は切妻造で正面間口は約8メートル、建物の奥行きは約15メートルで、正面に玄関を突出させ、頂部には方形屋根の鐘塔があげられています。内部は中央に礼拝堂、玄関の両側に事務室と読書室を配し、講壇の両側にも教室があります。外壁に使われる白壁やレンガ、また内部のチューダー様式の装飾などは、ヴォーリズ建築の特徴といえる日本の景観に溶け込んだ西洋建築を造りあげています。

by sabasaba13 | 2018-04-02 06:56 | 近畿 | Comments(0)

近江編(75):菅浦(15.3)

 木ノ本駅から北陸本線に9分ほど乗って近江塩津駅へ、湖西線に乗り換えて5分ほど列車に揺られると永原駅に着きました。駅前に客待ちタクシーの姿は…ない。公衆電話は(筆者は携帯電話・スマートフォンは持ちません)…あった。そばに貼ってあった地元タクシー会社に電話をして配車をしてもらいましょう。すぐ来てくれれば、二十分ほどは散策できます。ピ、ポ、パ、ポ、ツー、ドキドキしながら永原駅へ配車してほしいと依頼すると、「木ノ本から向かうので15~20分かかる」とのお返事。checkmate. タッチ&ゴーを覚悟でお願いするか、再訪を期して断り駅周辺をうろつくか…はい、前者を選びました。約二十分後にやっとタクシーがやってきました。葛籠尾(つづらお)崎の湖に沿った道を走ること十分ほどで菅浦集落に着きました。おおっ、幾度写真で見たことか、あの茅葺き屋根の四足門が出迎えてくれました。門扉がないので、集落の領域を示す役割を果たしたと言われます。つまり、ここをくぐれば自治的世界・菅浦なのですね。なお中世には四つの門があったそうですが、現存するのは東西の二つのみ。江戸後期以降に建てられたとみられます。手持ち時間は五分ほど、ぱっつんぱっつんに行程を組みという己の業を恨めしく思いますが、仕方がない、それが私です。
 狭い平地に肩を寄せ合うようにして佇む集落、宝形造りの石の祠と地蔵さま、須賀神社の鳥居などを撮影して、タイムアップ。これまでは安易に使ってきた科白ですが、今度は本気です。再訪を期す。
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 待っていてもらったタクシーに乗り込み、永原駅に戻ってもらいました。駅前に「丸子船のロマンを追って」という看板があったのでとりあえず撮影。丸子船とは何ぞや? 今、インターネットで調べてみると、丸太を二つ割りにして胴の両側に付けた琵琶湖独自の帆船だそうです。永原駅の近くに「北淡海 丸子船の館」という博物館があるようです。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2018-03-25 07:38 | 近畿 | Comments(0)

近江編(74):菅浦(15.3)

 さて、これからがいよいよ本日の難関、次の訪問先は、琵琶湖の最北端にある菅浦という集落です。歴史学徒の末席を汚す者としてぜひ訪れたい、中世の誇り高き自治村落です。長文ですが、『週刊朝日百貨 日本の歴史20 琵琶湖と淀の水系』(朝日新聞社)より、「湖に生きる人びと 粟津・堅田・菅浦」(今谷明)を引用します。
 菅浦は琵琶湖の最北端付近、湖上に突出した半島、葛籠尾(つづらお)崎の切り立った湖岸の、猫の額ほどの入江にへばり付いたような寒村である。戦後もつい最近まで、自動車の入る道すらなく、この集落の人びとは大浦から舟で行き交うか、さもなくば峠づたいに細々とした杣道を数時間かかってようやくたどりつくといった有様であった。このような隔絶した地理的環境が、中世史上稀有といっていいほどの強固な自治村落を築き上げるのに、大きな要因となったことは否定できない。
 この漁村の沿革は、堅田と同様、平安中頃から贄人の小集団がこの地に住みつき、漁撈と舟運に従事したことに始まるとされる。ここの漁民が供御人として自立したのは、平氏政権の初期であるが、いつしか自らを天智天皇の供御人の末裔として喧伝するようになった。中世初期には、荘園内の人の支配と土地の支配が異なる例が多かったが、ここの漁民は、身は天皇に属する供御人でありながら、菅浦の地は山門檀那院末寺竹生島の領地となっていた。
 漁業を生活のたつきにしていたとはいえ、せめて主食の米麦くらいは自給したいという願望は強かった。鎌倉初期、菅浦漁民は西隣の園城寺円満院領大浦荘の一部、日指・諸河という狭小の地を農地として開発・耕作していたが、園城寺の課役を免れるため、山門と朝廷の権威を背景に、この地の田畠は古来菅浦の所領であると主張し、ここに以後150年におよぶ園城寺を相手とした村の自立のための訴訟が始まった。ときに永仁3年(1295)のことである。
 この相論は、明らかに大浦荘内の出作田地にかかわることで、理は園城寺側にあり、院の評定も初めは菅浦に不利なものであった。しかし村をあげて結束した菅浦の漁民は、自立を貫徹するために日吉社から150貫という、一漁村としては法外な訴訟費用を借用した。さらに朝廷の内蔵寮を管掌する山科家の援助を受けるために、日指、諸河を実力占拠して山科家に寄進し、鎌倉末ごろには鯉三十喉、大豆一石、小豆二斗、小麦一石を同家に負担するという契約を結んだ。
 大浦荘側も決して拱手傍観はしていなかった。稲を刈り取ろうとする大浦荘百姓と、それを阻止しようとする菅浦漁民、そして菅浦の応援にはるばる坂本から駈けつけた山門公人、日吉社神人らの間に、しばしば刃傷沙汰が繰り返された。訴訟は園城寺と延暦寺の対立に拡大し、朝廷もうかつには裁許を下せず、やがて延慶2年(1309)、停滞状況に陥った。
 これこそ菅浦の狙っていた状態であった。漁民らは既得権として日指・諸河を事実上支配し続けることになったのである。その後、曲折を経ながらも室町末期に至るまで、強固な結束と村落の自治を全うした。このような団結と自衛の基盤となったのは、先に述べたように険阻な地理的要害性に加えて、虎の子の日指・諸河の田地を村内各戸に均等に分配し、村民の間に経済的格差が広がらないように慎重に配慮したこと、また七十二の在家の全住民に供御人としての身分と特権を保証したことであろう。
 京都から遠く離れた湖上の僻地に、中世を通じて名も無い漁民らが、昂揚した自立意識を保持し続けていたということは驚異である。むろん、この栄光の自治を維持するために、菅浦の民衆は経済的犠牲を払った。さらに、訴訟に勝つためには手段を選ばず、朝廷の故実に通暁する山科家と結託して偽文書・偽絵図まで作成し、ついに園城寺をやりこめるに至った彼らのしたたかさは、下克上の時代の典型的な民衆の姿でもあった。
 こうして室町時代に入ると、菅浦は山科家と山門に若干の経済的負担を行うのみで、「自検断」「地下請」と呼ばれる、ほぼ完全な警察権・徴税権を獲得した。自治を円滑に遂行するために「惣掟」「置文」などの村落法を自らの手で公布し、「乙名」「沙汰人」と称する宿老を選出して村政を運営した。15世紀になると、時折、堅田衆の湖賊行為に悩まされるほかは平和が続き、菅浦の自治は黄金時代を迎える。
 ところが文安2年(1445)、再び大浦荘との間に大規模な入会地の山木相論が勃発した。双方の住民の間に死傷者の出る流血の惨事が繰り返されたが、この争いで菅浦に勝利をもたらしたのが乙名清九郎であった。清九郎はおそらく畿内近国の村々に多くいたであろう村民の英雄の一人で、時代が生み出した輝かしい人物である。中世の民衆は権力に対して自らを卑下せず、卑屈な態度をとっていない。清九郎の生涯から教えられるのは、名も無い中世の庶民が自らの厳しい生活経験を通して高い精神的境地に達していたということである。(p.5-268~71)
 ただ問題は、あまりにもアクセスがよくないことです。バスも列車も非常に本数が少なく、移動は困難を極めます。いろいろと調べたのですが、前後の行程を勘案すると結論はひとつ、永原駅からタクシーで行くしかないようです。問題は、駅でタクシーがつかまえられるかどうか。人事を尽くして天命を待つ、とにかく行くことにしました。
by sabasaba13 | 2018-03-23 06:26 | 近畿 | Comments(0)

近江編(73):木ノ本(15.3)

 情緒あふれる街並みを、遠くの山を眺めながら歩いていると、千田薬局に「閉店の御礼」が貼ってありました。この町とともに長い間歩んできたことであろうに、地方の衰微が錐のように心に突き刺さります。
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 恰幅のよい旧家は、上阪五郎右衛門家という庄屋さんのお宅でした。
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 木之本地蔵尊を撮影すると、その先には古い木製の看板を軒下に多数並べた薬局がありました。
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 イオニア式オーダーの四本の列柱が印象的な洋館は滋賀銀行木之本支店、今は「きのもと交流館」として再利用されているようです。古い民家の格子に「お願い 当所へ今後ポスター類を貼付しないで下さい 中に風が入らないので よろしくお願いします」という貼り紙がありました。その右には大きな自民党のポスターが… なるほど、"テロ対策"や"安全保障"を口実に、特定秘密保護法案や安保法案や共謀罪法案を成立させ、社会の風通しを悪くして、人びとの合理的な判断や思考を停止させ、意のままに操ろうとしている自民党への痛烈な皮肉ですかな、うん。
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 近くのお宅には「この付近にゴミを捨てる人がいます。そのゴミは誰が片付けるのですか。今後はやめて下さい」という貼り紙がありました。なるほど、放射性廃棄物を、金子をちらつかせながらどこかの地域に押し付けようとして、恬として恥じない電力会社・自民党・官僚に対する痛烈な皮肉ですかな、うん。大きな杉玉は、清酒「七本槍」の醸造元です。
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 そして「つるやパン」で噂の「サラダパン」を買い、店の前にあった椅子に座っていただきました細かく刻んだ沢庵とマヨネーズを和えてコッペパンに挟んだものですが、意外といけます。なお「サラダパン」と記されたTシャツを売っていました。奇妙奇天烈あるいはご当地Tシャツマニアとしては食指が動いたのですが、黄色なので逡巡の末に断念。黒か白だったら絶対、買ったのですが。
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 木ノ本駅に戻ってトイレを拝借、ついでに洒落たトイレ表示を撮影しました。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2018-03-21 07:43 | 近畿 | Comments(0)

近江編(72):木ノ本(15.3)

 長浜港に接岸して船から降り、自転車にまたがってホテルへ。丁重にお礼を述べて自転車を返却し、預けておいた荷物を受け取りました。そして徒歩で長浜駅へ、駅前には石田三成の顔はめ看板がありました。近くには電動アシスト付きのレンタサイクルが置かれていたので、駅か観光案内所で借りられるようですね。
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 時刻は午後一時少し前、さすがに小腹がへったので、駅構内にある「かごや」でカレーうどんをいただきました。
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 次の目的地は木ノ本です。以前、賤ケ岳を訪れた時にすこしの時間立ち寄って、北国街道のしぶい宿場町という印象を受けました。今回、あらためて散策しようと考えた次第です。北陸本線に乗って十四分ほどで木ノ本駅に到着。なおひとつ前の高月駅の近くには、ヤンマーの創始者山岡孫吉が生誕地に寄贈したドイツ・ゴシック建築の公民館「ヤンマー会館」があることが後日わかりました。再訪を記しましょう。
 駅構内には「賤ケ岳七本槍の里」「佐吉くん」と記された顔はめ看板がありましたが、これは石田三成の幼名ですね。
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 前回の訪問時に撮影したご当地ポスト図書館もご健在、旧友に再会した気分です。
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 それでは木ノ本の街歩きを始めましょう。瓢箪型の珍しい透かしブロックを撮影してすこし歩くと、「馬宿 平四郎」という看板がかかった起り屋根の古い民家がありました。
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 解説があったので、後学のために転記します。
木之本牛馬市跡
 室町時代から昭和の初期まで 毎年二回この地区二十軒ほどの民家を宿として伝統の牛馬市が開かれた。藩の保護監督もあり地元近江を初め但馬・丹波・伊勢・美濃・越前・若狭などから 数百頭以上の牛馬が集まり盛況を極めた。
 商いの方法は買い手が売り手の袖の中に手を入れ双方が指を握って 駆け引きをし、商談が成立すると両者が手を打ち周囲に居合わせた人たちも拍手をして成約を祝った。
 なるほど、馬喰たちが市のために泊まった宿なのですね。ちなみに、山内一豊の妻・千代が名馬を買ったのもここの市だそうです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-02-02 06:32 | 近畿 | Comments(0)