カテゴリ:近畿( 348 )

近江編(88):坂本~京都(15.3)

 それでは自転車を返却して京都へとまいりましょう。日吉大社のあたりからは、坂の向こうに琵琶湖を眺めることができました。半鐘がかかったシンプルな火の見櫓を撮影。
c0051620_1835413.jpg

 そして白壁の続く街並みを走っていると、あるお宅でバッタン床几を見かけました。観光案内所で自転車を返却して京阪電車の坂本駅から石山坂本線に乗って京阪膳所駅へ、JR琵琶湖線に乗り換えて京都駅に着きました。時刻は午後四時半、せっかくなので京都で見残した近代化遺産を見物することに決定。駅構内に「日本最大の塑像 大如意輪観音」という飛鳥・岡寺のポスターを発見。
c0051620_1934285.jpg

 そして近鉄京都線に乗り換えて伏見駅へ。駅近くにあった塀の下の方に、木製の小さな鳥居が貼りつけてありました。古典的な小便除けですが、はたして昨今効果はあるのでしょうか。その近くには「お宝・不用品現金化」という道具屋さんのポスターが貼ってありましたが、さすがは歴史のある町ですね。
c0051620_1941942.jpg

 歩くこと十五分ほどで、お目当ての竹田火の見櫓に着きました。長年の風雪を耐え忍び、背筋を伸ばして屹立するその姿には神々しささえ感じます。近くに解説があったので転記します。
 竹田火の見やぐらは、京都市の南部に位置し、北は近鉄京都線、東は竹田街道、西は東高瀬川に囲まれた地域の中心部に、大正12(1923)年8月に設立した竹田村消防組第二支部の装備品として建設され、以後、近隣町内の防火、防災活動に役割を果たしてきた。火の見やぐらは、江戸時代までは木造で作られていたが、近代に至り、製鉄技術の発展に伴って鉄骨造のものが建設されるようになった。しかし、都市環境の変化に伴い、現存するものは少ない。
 竹田火の見やぐらは、鉄骨造としては初期の形態を残しており、また構造部材も当時の国内の製鉄技術を知るうえで、貴重な文化財的建造物であることから、地域住民からの保存要望を受けて、中央緑地敷地内に移転、保存したものである。
 いつまでもお達者でとエールを送って火の見櫓にお別れし、伏見駅から近鉄で京都駅に戻り、JR嵯峨野線に乗り換えて二条駅へ。ここから十数分歩くと、日本聖公会京都聖三一教会に到着です。竣工は1930(昭和5)年、ハーフティンバー様式の瀟洒な教会です。設計はバーガミニー、聖路加国際病院の設計にも関わった建築家ですね。

 見るべき程の事は全て見つ、それでは帰郷しましょう。二条駅に向かう途中で、「御近所の皆様へ 瓦が落下するおそれがあります 危険につき御注意ください!!」という貼り紙のある崩壊寸前の家を見かけました。
c0051620_1955518.jpg

 二条駅近くには、「Times」と「MOS BURGER」の看板がありましたが、いずれも白を基調としたおとなしいものです。景観への配慮か、あるいは地域住民からの要望ゆえか。
c0051620_1961211.jpg

 そして京都駅に戻り、「京都牛膳」という駅弁を購入して新幹線に乗り込みました。駅弁に舌鼓を打ち、時おり車窓を流れる夜の闇を見ながら、次なる旅行、京都観桜の旅に思いを馳せました。このひと時が楽しいのですね。
c0051620_1964547.jpg

 本日の二枚です。
c0051620_197523.jpg

c0051620_1971896.jpg

by sabasaba13 | 2018-05-19 06:32 | 近畿 | Comments(0)

近江編(87):坂本(15.3)

 JR湖西線に七分ほど乗って比叡山坂本駅に到着。観光案内所で自転車を借りて、坂本の散策です。比叡山延暦寺の門前町として栄えた町で、山上での修行を終えた老僧に与えられた里坊と庭園が散在しています。または穴太(あのう)衆と呼ばれる石工集団の出身地であり、彼らが積み上げた堅固な石垣も見ものです。
 落ち着いた雰囲気の町並みを走っていると、ひと際目立つ恰幅のよい蕎麦屋がありましたが、ここが有名な「鶴喜そば」ですね。
c0051620_1893779.jpg

 石垣や清流を愛でながらペダルを踏んでいると、天台座主となった皇族の居所であったため高い格式を誇る滋賀院門跡に着きました。まずは見事な穴太積みの石垣を堪能。
c0051620_18101479.jpg

 そして拝観料を払い、小堀遠州作と伝えられるお庭を拝見しました。縁側から眺める池泉鑑賞式庭園で、幸いなことに参拝客は私一人。大きな池とそれを取りまく石の饗宴、見事な石橋、滝の音、そして木々の緑。心身に積もった俗塵が洗い流されるような静寂な雰囲気にしばしひたりました。
c0051620_18102875.jpg

 そして比叡山坂本ケーブルの坂本駅へ。昭和初期に建てられた、ヨーロッパの山荘風の洒落た駅舎です。ほんとうはケーブルカーに乗って、頂上の延暦寺駅も見たかったのですが、時間がないため省略しました。無念。なお近くに「長さも景色も日本一」という、ケーブルカーの宣伝がありました。以前に一度、乗ったことがあるのですが、たしかに素晴らしい眺望でした。お薦めです。
c0051620_18112467.jpg

 最後に日吉大社に立ち寄って、日吉三橋と呼ばれる古い石橋を撮影。大宮橋、走井橋、二宮橋、神々しく清冽な雰囲気の中に静かに両岸をつなぐその佇まいに、しばし見惚れました。『かくれ里』(白洲正子 講談社学芸文庫)の中に、次のような一文がありました。
 近江には、優れた石仏が多く、狛坂廃寺の石仏(奈良時代)をはじめ、花園山中の不動明王(鎌倉)、比叡山西塔の弥勒菩薩(鎌倉)、鵜川の四十八体仏(室町)など、それぞれの時代にわたって、美しい作を見ることが出来る。石仏だけでなく、他の石造美術にも傑作が多いが、中でも特筆すべきは、日吉神社の石橋であろう。
 これは天正年間に秀吉が奉納したもので、一の鳥居を入ったところ、紅葉にかこまれた大宮川の清流にかかっている。上流から、大宮橋、走井橋、二の宮橋の順に並び、堂々としていながら少しも重苦しさを感じさせない。お正月か、年の暮か、忘れてしまったが、風花が舞う日に私は、この橋の上で、神主さんの一行と出会ったことがある。十人近くもいただろうか。白一式の、粛々とした行列で、小さな祠や、〆縄をはった木や石に、無言の祈りを捧げて行く。参詣人は一人もいず、寒空にひびくのは、柏手の音ばかり。それはみるからに清々しい、神さびた祭りの光景であった。(p.95~6)

 本日の八枚です。
c0051620_18123769.jpg

c0051620_18124928.jpg

c0051620_1813023.jpg

c0051620_18131461.jpg

c0051620_18132582.jpg

走井橋
c0051620_1814988.jpg

大宮橋
c0051620_18144114.jpg

二宮橋
c0051620_1815314.jpg

by sabasaba13 | 2018-05-17 06:23 | 近畿 | Comments(0)

近江編(86):堅田(15.3)

 それでは出島(でけじま)の灯台へと向かいましょう。途中に、朽ちた舟が水路に沈む味わい深い風景があったので写真におさめましたが、永楽というところです。そして灯台に到着。キリンのような姿をした愛らしい灯台ですが、その由来が解説板にあったので転記します。
 琵琶湖の最狭部に位置する今堅田の岬の先端に、明治8(1875)年建てられた他に類を見ない木造の灯台です。
 高床形式で四隅に立つ四本の柱と、中心に立つ支柱の計五本の柱で支え、高さ約7・8メートルの支柱の頂部に火袋を取付けます。光源は大正7(1918)年まではランプを使用し、それ以後電灯に切り替えましたが一度途絶え、平成元(1989)年地元有志により点灯が再開されました。
 昭和36(1961)年9月の第二室戸台風により倒壊寸前の状態となりましたが、地元の熱心な保存運動により、昭和48(1973)年、今日見る姿に復旧されました。
 それでは自転車を返却して、堅田駅へと戻りましょう。途中で崩れそうになりながらも健気に営業されている(のかな)銭湯「港湯」を撮影、泡風呂というのが気になりますね。大津市観光キャラクター「おおつ光ルくん」のポスターがあったのでこちらも撮影、以前に石山寺でお目にかかったと記憶しております。
c0051620_17352591.jpg

 「湖族の郷資料館」で自転車を返却してバスで堅田駅へ。駅構内には、伊藤蘭をモデルにした「おとなび」のポスターがあったので思わず撮影。はい…えーと…実は…ファンです。
c0051620_17355797.jpg

 本日の二枚です。
c0051620_17361747.jpg

c0051620_17363036.jpg

by sabasaba13 | 2018-05-15 06:34 | 近畿 | Comments(0)

近江編(85):堅田(15.3)

 そして満月寺浮御堂へ。恵心僧都源信によって、湖上の安全と衆生済度を祈願して建立されたと伝えられる、琵琶湖につきでたお堂です。いやあ絶景かな絶景かな、お堂に行くと、琵琶湖を一望することができました。
c0051620_17243650.jpg

 「近江八景」のひとつ『堅田の落雁』として古くからその情景が愛されてきたのも頷けます。
 余談ですが、「近江八景」とは、比良の暮雪、堅田の落雁、唐崎の夜雨、三井の晩鐘、粟津の晴嵐、矢橋の帰帆、瀬田の夕照、石山の秋月のことですね。最近読んだ『シリーズ日本近世史③ 天下泰平の時代』(高埜利彦 岩波文庫)の中で、「近江八景」のことが記されていたので紹介します。
 明からの渡来者がもたらした影響として、もう一例を加えることにする。近江八景や金沢八景の八景とは何か。もちろん八つの景色の意味だが、これは「瀟湘八景」という中国の景勝地を見立てたものである。…中国の長江中流の洞庭湖に注ぎ込む湘江と支流の瀟水の流域一帯を「瀟湘八景」と称え、これを価値ある景勝地として、日本にも禅僧たちにより中世期から伝えられた。この「瀟湘八景」という異文化の価値に、琵琶湖周辺の湖水と寺院や山並みなどの風景を見立てて近江八景と呼び、近世初頭に歌人として名声の高かった後陽成天皇や近衛信尹が和歌を詠んだことで、近江八景を景勝地として定着させることになった。(p.136~7)
 なお先代の浮御堂は1934(昭和9)年の室戸台風で倒壊してしまったため、現在のお堂は1937(昭和12)年に再建されたものだそうです。

 そして居初(いそめ)氏庭園へ。古くから運送、漁業などの湖上特権を得、江戸時代には大庄屋として地域に貢献してきた堅田湖族三家のひとつ、居初家の屋敷内に広がる名勝庭園です。琵琶湖や湖東の山々を借景とした見事な枯山水庭園だということで楽しみにしていたのですが、休館日でした。無念。

 本日の一枚です。
c0051620_17261482.jpg

by sabasaba13 | 2018-05-13 06:20 | 近畿 | Comments(0)

近江編(84):堅田(15.3)

 午後一時を過ぎたので観光案内所に行き、観光地図をいただき、レンタサイクルの有無をお訊ねしました。すると「湖族の郷資料館」で借りることができ、そこに行くバスが間もなく出発するとのこと。やった。さっそくバスで資料館に行き、一時間250円で電動式自転車を借り受けました。なお資料館には、丸子船の模型が展示してありました。しげしげと見ていると、係の御老人が「丸小船に乗せられたことがある。ふんどし一丁で船にしがみつけと言われた」と話してくれました。
c0051620_17141918.jpg

 資料館の前にあった公衆便所のトイレ表示は王朝貴族の男女。
c0051620_17173145.jpg

 それでは自転車にまたがって、日本基督教団堅田教会へと向かいましょう。竣工は1930(昭和5)年、ヴォーリズ建築事務所の設計です。チューダーアーチの窓と、トンガリ屋根の角塔がチャーミングですね。
c0051620_1718592.jpg

 なおこの教会についてインターネットで調べていると、たいへん気になる、そして憂慮すべき記事に出会いました。日本バプテスト連盟が滋賀県警大津警察署署長に宛てた抗議声明です。たいへん重要な内容ですので、長文ですが引用します。
日本基督教団堅田教会 竹内宙牧師の不当逮捕に対する抗議声明

 私たち日本バプテスト連盟理事会は、日本基督教団堅田教会竹内宙牧師が10月11日午前5 時に傷害罪にて逮捕され、10月21日まで長期にわたる不当な拘留と取り調べを受けたことに対し、強く抗議します。

 私たちは事態を次のように把握しています。竹内宙牧師は10日に開催された「さいなら原発・びわこ集会」の実行委員でありましたが、その集会からの帰宅途中であった午後8時30分頃、大津駅にて、駅構内にいる集会参加者が「在日外国人の特権を許さない市民の会」(以下「在特会」)メンバーに人権を侵害される罵声を浴びせられたことに端を発し、彼らと集会参加者とが小競り合いになりました。それは、駅改札口を挟んでのことでしたが、在特会メンバーは改札口を越えて乱入してきました。その状況において、竹内牧師は、実行委員として、暴力に発展しないよう仲裁に入ったところ、その横でビデオを撮影していた在特会のメンバーがバランスを崩してしゃがみこみ、左膝に擦過傷を負ったと主張しました。そして、そのことにより、竹内牧師は傷害罪で逮捕されました。

 第一に、竹内牧師は、この騒ぎの当事者ではなく、むしろ騒ぎを仲裁しようとし、ビデオ撮影 者に対しても押し倒すなどの暴力は全く加えておらず、注意をしただけであり、ビデオ撮影者の怪我には何ら責任がありません。正義と良識をもって市民社会に奉仕すべき警察が、騒ぎを起こした当事者である在特会メンバーを拘束することなく、仲裁に入った竹内牧師を傷害罪で逮捕したことは、事実誤認を超えて、何らかの予断と偏見に基づいた警察権の乱用であると言わざるを得ません。 第二に、竹内牧師に対する長期にわたる拘留、取調べが続いたことから、傷害に対するものとは異なる別の目的が逮捕の背景にあることを予見し、今後も平和を愛し人権を守る宗教者が逮捕される可能性があることに危惧を覚えます。第三に、在特会はこれまでに暴力で逮捕されたことのある団体であり、また逮捕されずとも、平和や人権を訴える集会に現われては、主催する宗教者などに、誹謗・中傷という言葉では言い表せないほどに卑劣な罵声を浴びせる人権侵害を繰り返している団体です。それにも拘わらず、上述の状況で警察が在特会の罵声による人権侵害に対し黙していたことに憤りを禁じ得ません。

 10月21日、竹内牧師は11日間にわたる不当な長期拘留を経て、ようやく釈放されましたが、私たちはこのたびの竹内宙牧師の不当逮捕と長期拘留に対し、重ねてここに強く抗議をいた します。 2011年10月22日
 "誹謗・中傷という言葉では言い表せないほどに卑劣な罵声"をあびせて在日の人びとの人権を脅かす、この「在日外国人の特権を許さない市民の会」という団体についてはしばしば耳にします。HPの設立主旨を読むかぎりでは、"戦後六〇年以上の自虐史観に基づく極左思想の蔓延が生み出した「日本を絶対悪とみなす加害者史観」という病的妄想"への反発からつくられた団体のようです。日本を絶対善とみなす自慰史観という病的妄想にとらわれた方々が設立・参加する団体なのですね。ま、それもひとつの考えですから、それを主張・流布するのはいいとして、なぜ在日の人権を侵害するのか、理解できません。さらに理解できないのは、なぜ反原発集会を妨害するのか、それと在日特権はどう関係するのか。そして警察は、何故この団体の人権侵害行為を取り締まらず、その対象となった牧師を不当逮捕・長期拘留したのか。うーん、わかりません。ただ、国策に抗う者を許さないという線で、この団体と警察がつながっているのだと想像します。そしてその背後により大きくて邪悪な存在がありそうなことも。メディアによる調査と報道を衷心より期待します。さもないと、安心して国策を批判できなくなってしまいますから。共謀罪法案成立によって、ますます警察の元気が出そうな状況だけに、憂慮します。
by sabasaba13 | 2018-05-11 06:25 | 近畿 | Comments(0)

近江編(83):朽木(15.3)

 さて、安曇川に戻るバスの出発時刻まですこし時間があるので、朽木の町並みを散策しましょう。まず目に飛び込んできたのが、「丸八百貨店」です。1933(昭和8)年、下駄屋を営んでいた大鉢捨松氏の個人商店として建てられたモダンな擬洋風建築です。現在は地元女性が運営するコミュニティ・スポットとして利用されているそうです。
 道の片側には江戸時代の始めに整備された水路があり、かつては洗い物や消火用水に利用され、現在でも融雪に利用されているそうです。水際で仕事をするためのスペースである川戸(かわと)も残っていました。レンガ造りの小さな塔は立樋(たつどい)で、湧き水を導水してサイホンを利用して各家庭に送水する分水塔だそうです。
c0051620_1761413.jpg

 恰幅のある古い商家は、熊瀬家住宅。酒作りや醤油作りを本業とする一方で、藩の御用商人としての保護を受け、幅広い商業活動を行っていました。道が直角に曲がっているのは、敵兵が一気に城へ攻め寄せるのを防ぐためで、こちらでは鍵曲(かいまがり)と呼ばれています。
c0051620_1762660.jpg

 なお前記のホームページを見ていると、ヴォーリズが設計したと伝えられている旧郵便局舎を見損ねてしまいました。あるいは気づかなかった? ああ悔しい。できうればこの町歩き地図を、街角に掲示しておいていただけると幸甚です。

 10:36発のバスに乗って、11:04に安曇川駅前に到着。そろそろ小腹がへってきたので、近江今津に戻って、昨晩食指を動かされた「一番星」という洋食屋さんに行くことにしましょう。近江今津駅のホームからは、雪を頂く湖西の山並みがよく見えました。そして当該の店に入りメンチカツ…もとい関西ではミンチカツを注文、それなりに美味しうございました。なお広辞苑が置いてあるところに、オーナーのそこはかとない見識を感じます。
c0051620_177524.jpg

 近江今津駅から湖西線で堅田へ、駅前にあった観光案内所は12:00~13:00が昼休みでした。仕方がない、十数分ほど待つことにしましょう。
c0051620_1771733.jpg

 駅前には「志賀廼家淡海顕彰碑」があり、その前の石柱に寄進者である「藤山寛美」「松竹新喜劇」の名が刻んでありました。ちょっとそそられますね、帰宅後に調べてみようと思い写真におさめました。今調べてみると、志賀廼家淡海(しがのやたんかい)という、「淡海節」で一世を風靡した堅田出身の芸人で、藤山寛美はその孫弟子にあたるそうです。なお「ゲジデジ通信」に、彼の数奇な生涯が詳細に語られていました。その近くにあった公衆便所には、ガラスブロックで琵琶湖が描かれていました。
c0051620_1781170.jpg

 本日の五枚です。
c0051620_17832100.jpg

c0051620_1784373.jpg

c0051620_1785581.jpg

c0051620_179417.jpg

c0051620_1792079.jpg

by sabasaba13 | 2018-05-09 06:23 | 近畿 | Comments(0)

近江編(82):朽木(15.3)

 バス停「朽木学校前」から十数分ほど歩くと、興聖寺に着きました。まずは本尊の釈迦如来像に合掌、秀麗眉目な御姿ですね。
c0051620_16181766.jpg

 トイレを拝借すると、「東司(トイレ)をきれいに」というポスターが貼ってありました。なかなか含蓄のある内容ですので転記します。
ただ心身をきよむるにあらず
国土樹下をもきよむるなり     道元禅師のおことば

 食事を大切にされた道元禅師さまは、同時に排泄、用便の後始末の仕方をていねいに教えられました。
 トイレをきれいにしようという心がけが、ひいては自然までもきよらかにすることにつながっていくのです。

「今日もきれいにそうじをしよう」
 そのそばには「もったいない もったいない」というポスター。
c0051620_16185652.jpg

 そして本堂のすぐ近くにある「旧秀隣寺庭園」へ。江戸時代のはじめ岩神館の跡地に、朽木宣綱が正室の菩提を弔うために建立した寺院が「秀隣寺」。そうしてこの庭は「秀隣寺の庭園」になりました。さらに江戸時代中期、上柏村にあった「興聖寺」が、「秀隣寺」の横に移ってきます。その後、両寺は幾度かの火災に遭い、秀隣寺は朽木の野尻に移りました。よって現在、庭園は興聖寺の境内にあるが、名前は「旧秀隣寺庭園」として残っているというわけです。
 解説板があったのですが、風雨にさらされて一部判読ができません。高島市のホームページから引用します。
 庭園は、安曇川が形成した段丘の縁にあり、安曇川の清流、そしてその背後に横たわる蛇谷ヶ峰を借景としています。池泉鑑賞式の庭園で、左手の築山に組まれた「鼓の滝」から流れ出た水は池に注ぎます。曲水で造り上げた池泉には石組みの亀島、鶴島を浮かべ、中央付近には見事な自然石の石橋を架けます。随所に豪快な石組を配する、全国屈指の武家の庭です。
 岩神館の庭園を作庭したのは、当時の政治的な有力者であり、かつ風流人としても名高い管領細川高国と伝えられています。
 どれくらい原形を保っているのかはわかりませんが、豪快な石組が印象的なお庭でした。やはりお庭の主役は石ですね。『シリーズ京の庭の巨匠たち 重森三玲Ⅱ』(京都通信社)の中で、重森三明氏はこう述べられています。
 通常、日本庭園の石組には自然石が使われる。彫刻されていない自然のままの素材を用いて、新たな超自然の美を創りだすのが庭園芸術である。したがって、どのような石を選び、それをどう配置するかによって、作品の完成度は左右され、庭の良し悪しが決まる。(p.102)

 本日の五枚です。
c0051620_16202563.jpg

c0051620_16203936.jpg

c0051620_16204941.jpg

c0051620_1621213.jpg

c0051620_16211363.jpg

by sabasaba13 | 2018-05-07 07:31 | 近畿 | Comments(0)

近江編(81):朽木(15.3)

 そしてバスに乗り込み、山々に向かって走ること三十分ほどで朽木に着きました。古くから、若狭国小浜と京都を結ぶ街道の街道筋として栄えた宿場町で、「朽木の杣」と呼ばれた木材の供給地でもありました。お目当ては、興聖寺の境内にある「旧秀隣寺庭園」です。1528(享禄元)年、室町幕府12代将軍足利義晴が京都の兵乱を避け、このあたりを支配する朽木氏に身を寄せてきたため、朽木氏の居館は将軍御所「岩神館」となりました。その岩神館の中に、鑑賞および将軍の公的な権威を示す儀礼の場として作庭された池泉観賞式庭園です。
 私が敬慕する重森三玲氏が惚れ込み、「飽きがこない」と年に一度は訪れて、庭園に佇まれていたそうです。中世を代表する貴重な庭園で、氏のお孫さんにあたる重森千靑(ちさを)氏は、『日本の10大庭園 -何を見ればいいのか』(祥伝社新書)の中で、こう述べられています。
一乗谷朝倉氏遺跡庭園群
 池の東端に浮かぶ島は「亀島」である。一方の西端には「鶴石組」が表わされ、ともに巨石を用いた豪快な構成となっている。亀島の奥には滝石組があり、まことに折り目正しく、かつ武将らしい強さを前面に押し出した室町時代後期庭園といえる。ほぼ同時期に造られた名庭として、京都の北方、朽木の地に残る「旧秀隣寺庭園」(滋賀県高島市)があるが、力強い亀頭石などが類似性を感じさせる。(p.176)
 また白洲正子氏は、『かくれ里』(講談社学芸文庫)の中で、こう書かれています。
 石は当然庭と結びつく。近江には、これもあまり人に知られていないが、名園が多い。朽木谷の興聖寺には、足利将軍義晴が、ここに逃れた時造ったという石庭があり、安曇川の渓流をへだてて、比良山が眺められる。今は少々荒れているが、妙に手のこんだ庭園より、石組みも自然で、気持ちがいい。造園は、茶人が指揮したにしても、働いたのは近江の石工たちであったろう。そう言えば、「お庭番」と呼ばれた将軍家の隠密も、伊賀・甲賀から出たしのびの者であった。(p.97)
 これは楽しみですね。
by sabasaba13 | 2018-04-19 06:28 | 近畿 | Comments(0)

近江編(80):藤樹書院跡(15.3)

 駅前には中江藤樹の銅像と、彼のことばを記したプレートがありました。後学のために転記します。
藤樹先生のことば(9)
 天下の兵乱も又明徳のくらきよりおこれり。
 先史の時代から、この地球上において、人間どうしの悲惨な戦争がたえまなく起こっています。なぜ戦争が繰りかえされるのでしょうか。その原因のつまるところは、明徳をくもらせていることにあると、藤樹先生は断言しています。政治にたずさわる者の「利欲の心」と「満心」によって、明徳をくもらしてしまうのです。それをとりのぞくには、論語や孟子などの古典をまなぶことが、だれにでもできる最上の方法なのです。
c0051620_6505320.jpg

 嗚呼、藤樹先生。お恥ずかしい話ですが、われらが首相は「利欲の心」と「満心」が服を着て歩いているような御仁で、しかも古典に学ぼうとする気はさらっさらないようなのです。どうすればいいのでしょうか。さらに●があったら入りたい話ですが、彼が率いる政党の立候補者に投票する御仁や、棄権をして彼らに政治を丸投げする御仁が、山のようにいるのです。どうすればいいのでしょうか。

 タクシーに乗って十分ほどで王林寺にある中江藤樹の墓所に着きました。合掌。その近くに彼の私塾、藤樹書院がありますが、焼失のために明治時代に再建された建物だそうです。
c0051620_6513073.jpg

 そして安曇川駅まで戻ってもらいましたが、次なる目的地の朽木に行くバスは9:05発。三十分ほど時間があるので、喫茶店でモーニング・サービスをいただければよいのですが…あった。駅前のウエストレイクホテルに「可以登楼」という喫茶店がありました。渡りに船、さっそく入店してモーニング・サービスを食しました。おっアヲハタのジャムだ、忠海で本社に出くわしたことが懐かしく思い出されます。
c0051620_652158.jpg

 本日の一枚です。
c0051620_6522328.jpg

by sabasaba13 | 2018-04-15 08:54 | 近畿 | Comments(0)

近江編(79):藤樹書院跡(15.3)

 珍しい意匠の透かしブロックを撮影し、それでは新旭駅へと戻りましょう。途中に、きれいな菜の花が咲いていました。新旭駅から湖西線に乗って、次の安曇川(あどがわ)駅で下車。
c0051620_21235397.jpg

 タクシーを利用して、中江藤樹の墓と藤樹書院跡を訪れました。中江藤樹(1608~1648)、江戸初期の儒者で、初め朱子学を信奉しましたが、晩年に王陽明の著書に接し、陽明学の祖となりました。村民を教化し徳行をもって聞こえ、近江聖人と称されました。門下に熊沢蕃山がいます。

 なお1904(明治37)年に発行された高等小学修身書(第二学年児童用)に、藤樹が登場しています。
第二課 主人と召使
 中江藤樹は近江の小川村の人なり。はじめ、伊予の加藤氏につかへしが、故郷にある母を養はんがため、つかへをやめて帰れり。
 この時、伊予より、一人の召使従ひきたれり。されど、藤樹は家貧しければ、これを雇ひおくことあたはず、よって、わがもてるわづかの銭の中より、その過半を分ち与え、故郷に帰り、商をなして、生計をたつべし。」といへり。召使は「主人の仰は、まことに、うれしけれども、われは金銭を受けんとは思はず、ただ、いつまでも、つかへて、艱難をともにせんことを願ふ。」と答へたり。藤樹は、その志をあはれとは思ひしが、せんかたなく、あつく、これをさとしたれば、召使も涙を流して、帰りゆけり。

第三課 徳行
 藤樹は母に孝行をつくし、また、学問をはげみ、つひに、名高き学者となり、多くの弟子はもとより、文字を知らざるものまでも、藤樹をしたふにいたり、人、みな、近江聖人ととなへたり。今にいたるまで、村民その徳を仰ぎ、年年の祭をたやさず。
 ある年、一人の武士、小川村の辺をすぎ、藤樹の墓をたづねんとて、畑をたがやせる農夫に、道をたづねたり。農夫はさきだちて、案内せしが、途中にて、わが家にたちより、衣服をあらため、羽織を着て、行きたり。武士は、心にうちに、われをうやまふがために、かくするならんと思ひしが、藤樹の墓にいたれば、かの農夫、垣の戸をひらきて、武士をその中に入らしめ、おのれは戸の外にひざまづきて拝したり。武士このさまを見て、さきに、農夫の衣服をあらためしは、藤樹をうやまふがためなりしことをさとり、ふかく、感じ、ねんごろに、その墓を拝して、去りたりとぞ。

 本日の一枚です。
c0051620_2125143.jpg

by sabasaba13 | 2018-04-13 06:20 | 近畿 | Comments(0)