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丹波・播磨・摂津編(13):浄土寺浄土堂(10.2)

 浄土寺は真言宗のお寺さんで、聖武天皇の勅願によって行基が開創したと伝えられますが、その後荒廃。このあたりは大部之荘という東大寺の荘園だったので、鎌倉初期に俊乗坊重源が東大寺の播磨別所として中興しました。何といってもお目当ては、東大寺南大門とならび、全国でたった二つしか現存していない大仏様建築の浄土堂です。治承の兵火(1180)で焼失した東大寺の復興にあたり、大勧進に任じられた重源が、当時の中国建築の様式を取り入れてつくった建築様式で、東大寺大仏殿の造営にちなんでこの名で呼ばれます。たしか高校で受けた授業では、天竺様とも呼ぶと教わった記憶がありますが、インド様式と誤解されやすいので、こちらの名称がよく使われるようです。南大門の豪放・雄大な姿に惚れ込んでいるので、ぜひとも見たい物件でした。
 タクシーにはしばらく待っていてもらい、石段を上って境内に入ると、同じような堂宇が数棟ありますが、どれだろう。おっあったあった。宝形造で、反りがなく直線的な屋根、全体的に平べったいという感じの地味な外観ですが、柱上部の複雑な組物に大仏様建築の片鱗があらわれています。さっそく靴をぬぎ、入場料、もとい拝観料を払って内部へ。思いのほか、広大な空間であることにまず驚愕。そして中央に鎮座する約5メートルの木造阿弥陀三尊像(快慶作)の壮大さもさることながら、虚飾を排し、とにかく広い空間を確保するための巨大な屋根をどうやって支えるかという一点に英知と技術をかたむけた、そのダイナミックで雄渾な構造には眼を見張りました。本尊の四方に屹立する四本の太い柱、そこから直角・斜めに走る太い梁、それを支える幾重にも重なり柱に挿し込まれて肘木。「神聖にして劇的な空間をつくるために、僕たちはこの大きな屋根を力を合わせて支えているんだ、ただそれだけさ」という木材たちの、静かな合唱が聞こえてくるようです。新幹線の中で読んだフランク・ロイド・ライトの「自然の家」の一節、「不必要なものを除去するということ、あるがままの素材を用いることから美が生まれる」(p.20)が脳裡をよぎりました。ああもどかしい、いくら言葉を組み合わせ積み重ねても、この凄さを伝えることはできません。ほんとは写真を撮ってお見せしたかったのですが、むごいことに堂内は撮影禁止。「畏れ多い/罰が当たる」という呪術的理由、あるいは「絵葉書が売れなくなる」という経済的理由によって、仏像撮影を禁止するのは理解できますが、それ以外の構造部分については認めてほしいですね。それはともかく、一見の価値があるので、兵庫県を訪れた際にはぜひ寄ってみてください。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-22 06:17 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(12):浄土寺へ(10.2)

 朝目覚めてカーテンをあけるとうす曇り、天気予報によると天候は下り坂で明日には雨になるとのことです。せめて神戸の夜景を見るまではもってくれよと祈りつつ、出発の準備を整えました。本日の予定は、浄土寺浄土堂を見て神戸へ移動、山邑邸を見学して神戸市内の諸物件と布引ダムを訪問、時間があれば富岡鉄斎美術館を見て、夜景見物と、まるで下手な上方漫才のようにコッテコテの油ぎった行程です。まったく誰がこんな旅程を考えたんや(ぼけ)。あんたや(つっこみ)。などと一人で漫才をしている場合ではありません。身づくろいをすませチェックアウトをして篠山口駅へ。7:15発福知山線福知山行きの列車に飛び乗りました。実は三田市に三田学園旧校舎(中学本館)という古い学校建築があるそうなのですが、時間の関係上スキップすることにしました。車窓から朝靄たなびく幽玄な連山の姿を眺め、しばらくすると下滝駅に到着。「恐竜化石発見の里」という垂れ幕が駅のホームにかかっていました。そして7:31に谷川駅に到着、ここで加古川線に乗り換えます。途中に「黒田庄」という駅がありましたが、石母田正が「中世的世界の形成」で舞台とした荘園ではありませんね。あれはたしか伊賀国名張郡でした。
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 次の駅は「日本へそ公園」、車内の吊り広告によると、このあたりは東経135度と北緯35度が交差する日本の中心だそうです。「それがどうした」と言われれば「俺の目を見ろ何にも言うな」としか答えられませんが。そして8:03に西脇市駅に到着、ここで加古川行き列車に乗り継ぎますが、待ち時間は23分です。やれやれ。駅前に出て紫煙をくゆらしながら観光案内地図を見てみると、源頼政の墓所(長明寺)や足利尊氏と直義が激戦をくりひろげた光明寺などが付近にあるそうです。
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 珈琲を飲みたいなと思いましたが、駅前には喫茶店の"き"の字もありません。やれやれ。しょうがないのでベンチに座って、これからの行程を確認しました。次は粟生(あお)で神戸電鉄に乗り換えて小野で下車、浄土寺浄土堂をめざします。ただ気がかりなのは、駅からかなり離れていることです。神姫バス「天神」行きで10分、「浄土寺」下車すぐということですが、本数はきわめて少ないと覚悟しておいたほうがよいでしょう。駅前でタクシーが客待ちしていれば御の字なのですが、タクシーの"た"の字もない無人駅だったらどうしよう… 公衆電話でハイヤーを呼ぶしかありませんが、電話の"で"の字も…と妄想はどんどん悪い方向に向かっていきます。プディングの味は食べてみないとわからない、とにかく現地に着いて状況を見てから臨機応変に動きましょう。そうこうしているうちに、列車が入線してきました。そして8:45に粟生に到着、ちょっと時間があるので外へ出ると、まるでジョルジョ・デ・キリコの絵に出てくるような回廊のある不思議な駅舎でした。そして神戸電鉄に乗り換えて、数分で小野に到着です。案ずるより産むが易し、大きな駅ビルのある賑やかな街で、当然の如く駅前でタクシーが客待ちをしていました。さっそく飛び乗り、十分ほどで浄土寺に到着です。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-21 06:21 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(11):篠山(10.2)

 ふたたび自転車にまたがり、お徒士町武家屋敷群をめざします。途中の南新町にはきれいな竹林と井戸がありましたが、整備中のため中には入れません。その先には全国で唯一残るという南馬出土塁がありました。馬出とは、兵馬を集め隊列を組むための場所なのですね。
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 そして小林家長屋門、安間家史料館の外観を拝見。
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 そのすぐ近くがお徒士町武家屋敷群ですが、いまひとつ統一感がなく期待外れ。そして見張りや狙撃衆が陣取るために、約50m間隔で植えられたというエノキを拝見。現在では、三本しか残っていないそうです。
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 昭和レトロな町並みが残るという西町にも寄ってみましたが、こちらも期待外れ。ただ由美かおるの御御足と水原弘の御尊顔に出会えたのは収穫でした。
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 そして篠山城址へ。1609年、徳川家康の命により大阪城攻略の拠点として、わずか6ヶ月で築城されましたが、建物は取り壊され現存していません。なおこちらは桜の名所としても有名ですね。中に入ると、大規模な木造平屋建築の大書院が復元されていました。その先にある本丸跡からは、山々に抱かれた篠山の町を眺望できます。
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 お城の前にある駐車場で公衆便所に入ると、木製の男女表示がありましたが、明らかに意図的に女性を太目に表現しています。さきほどの物件といい、女性に対する揶揄なのか、あるいはここ篠山では肥えた女性に美を看取するのか。ご教示を乞う。
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 次は、景観マイスターおすすめの、山内町にある築地塀の佇まいですが、肝心の築地塀はわずか一か所しかなくこちらも期待外れ。なお京都でよく見かける、塀にあけられた検針用の小窓がありましたが、金網で厳重に警護されていました。
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 さてそろそろ夕食と洒落込みますか。自転車を観光案内所に返却し、さきほど唾をつけておいた「懐」というお店に入り、丹波牛炭火焼を注文。ついでに夜食用として寿司もお願いしました。炭火で焙られた香ばしい牛肉に舌鼓を打ち、篠山食料品店でナイト・キャップとして篠山の地酒「鳳鳴」を購入。
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 定刻どおりやってきたバスに乗り込んで篠山口駅に戻り、荷物をコインロッカーから取り出して、駅近くのビジネスホテルに投宿。鯖寿司を肴に芳醇な地酒を満喫し、就寝。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-20 06:25 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(10):篠山(10.2)

 そしてその一角にある丹波古陶館に入ってみました。いつの頃からか陶磁器が好きになり、べつに骨董として蒐集したり自ら土をひねったりはしないのですが、窯のある町を訪れてその雰囲気を味わい日常雑器を買うのを喜びの一つにしています。これまでも、有田、伊万里の大川内山、唐津、壺屋、備前、伊賀、常滑、瀬戸、信楽、笠間益子を経巡ってきましたが、今回の丹波焼の窯は町から離れたところにあるので探訪は断念。せめてこちらで丹波焼の名品を堪能することにしました。さて丹波焼について、当館でいただいたパンフレットの紹介文を引用しましょう。
 平安時代の終わりに、なぜか丹波、常滑、越前などに、同じ様式の壺が造られています。それらは一般的に「三筋壺(さんきんこ)」とよばれているもので、小振りでやや外に開いて立ち上がった口造りを持ち、胴の三ヵ所に横筋の文様が施されています。
 須恵の窯から、新しい窯業集落に変わったおおよそ八百数十年前、丹波の工人たちは、中央政庁や社寺のもとめに応じて祭器、経器、薬壺など、かなり上手物を焼きましたが、三筋壺もその一つです。しかし、陶土や窯の条件は、その目的に応えることができず、丹波窯はやがて大衆の生活を支える窯業集落として、独自の道を歩むことになります。
 紐造りの困難な成形、長い日時と破損の多い焼成の結果に、陶工たちはどのような思いで取り組んだのでしょうか。
 今、私たちが感じる器そのもののもつ力強さや、窯業の生んだ鮮やかな緑の自然釉も、不可抗力な焼物造りの障害の産物だったのではないでしょうか。平安末期から慶長年間に至る穴窯の時代は、ひたすら成形と窯とのたたかいであったのです。
 慶長末年、登窯の導入によって、新しい技法を得た丹波の陶工たちは、轆轤、釉薬を巧みに使い斬新な仕事ぶりをみせます。それは生活の用に即した、美しく逞しい器の数々でした。
 登窯と塗土が生みだした燃えるような「赤土部(あかどべ)」の輝きは、すでに陶工の心にかけがえのない"美"として映っていたでしょう。それは、陶土の悪さに阻まれた穴窯の焼締め無文の時代とは大きくイメージを異にするものです。
 江戸時代末期になると、さらに新しい釉薬や漉土による陶土の改善がなされ、白、黒、灰、鉄などの釉薬の掛け合わせによる多彩な文様と、さまざまな用途をもつ器が生まれました。
 平安時代末期に生まれ、いつの時代にも衰微することなく、常に生活の器を焼き続けてきた丹波焼は、間違いなく日本民陶の歴史を代表する焼物なのです。
 質実で剛毅なフォルムと自然釉が生み出す偶然の美、丹波焼の名品を十分に満喫いたしました。なお周囲の景観に溶け込むような、白壁・なまこ壁の建物もいいですね。観光ポスターで使われている写真はここの中庭から通りを写したものです。
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 なお近くに能楽資料館もありますが、時間の関係でスキップ。そしてしばし路地裏まで舐めるように散策、その途中であるお宅に壁に貼ってある「丹波篠山とってもレトロなまち歩き」という地図を見つけました。普通のガイドブックには紹介されていないディープな物件まで記されているすぐれものです。なぜこれを配布してくれないのだろうブツブツ、ま、いたしかたない、写真におさめこれから活用いたしましょう。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-19 09:42 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(9):篠山(10.2)

 だいたいの行程を組み立て、いざ出発。おっとその前に山ノ神に奉納するお土産を買わなければ。ガイドブックに載っていた、丹波栗を使った銘菓を商う「栗屋西垣」に行ったところ、お店は移転していました。戸に貼ってあった移転先の地図を撮影して、市街地の北を東西に走る車道へと向かいました。雲がわいてきましたが、おおむね空は麗らかに晴れ、日向ぼっこをしているような連山と刈入れが終わりまどろんでいる田畠を見ながら、しばし心地よいサイクリング。そしてお店に到着し、純栗羊羹を二棹購入いたしました。練り物・煮物・甘い物が大好物の山ノ神のご機嫌をとり、次なる旅を容認してもらうための重要な布石です。そしてふたたび二階町に戻り、大正ロマン館を通り過ぎて篠山城へ。東外堀に沿って走っていると、トトロを描いた飛び出し人形を発見。実はこの後、次から次へたくさんのオリジナル飛び出し人形をゲットしました。ううむ、ここ丹波篠山は滋賀県八日市とならぶ飛び出し人形のサンクチュアリかもしれない。ぜひラムサール条約で保護してほしいものです。
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 そして河原町妻入商家群に到着。案内所でもらった観光地図によると、旧街道の面影を残した町並みのここ河原町は、築城後まもなく町づくりがはじめられ、城下町篠山の商業の中心として大変栄えました。家並みは、妻入商家に代表され、5~8mほどの狭い間口、しかし奥行きは大半が 40m以上と深く、表構えの大戸、千本格子や荒格子、蔀(しとみ)、中二階の出格子、ムシコ窓、袖壁などが残り、往時の姿を今に伝える素晴らしい景観を織りなしているそうです。さっそく自転車を駐車場にとめて散策を開始。路地の両側に、白壁・妻入りの古い商家・町屋が建ち並ぶみごとな景観です。新潟県にある出雲崎にも妻入りの町並みがあると聞きましたが、全国的に見ても珍しいものですね。でもなぜなんだろう?
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-15 06:20 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(8):篠山(10.2)

 そして12:59に篠山口駅に到着。ここでスーパーニッポニカから抜粋して、篠山を紹介します。
 兵庫県東部にある市。東西に細長い篠山盆地にあり、京街道(篠山街道、現国道372号)が横断し、東の旧宿場町福住とともに交通の要地であった。1609年(慶長14)に幕府の命で築城が完成してから、松井松平、藤井松平、形原松平の各氏から青山氏と続く6万石の城下町として繁栄した。明治以後は、歩兵第70連隊の置かれた軍都として知られたが、鉄道を避けたので、城下町らしい武家屋敷や妻入商家の町並みがいまに残っている。米作中心で冬は酒造出稼ぎ(丹波杜氏)が多かったが、第二次世界大戦後は酒造のほか、食品、薬品、プラスチックなどの近代工場も進出した。
 それにつけ加えれば、丹波猿楽として能楽のさかんな地として知られています。また瀬戸焼、常滑焼、越前焼、信楽焼、備前焼とならぶ、いわゆる"六古窯"の一つ、丹波焼を生んだ地でもあります。そして京料理を支えた食材の一大供給地としての篠山も忘れてはいけません。丹波黒豆・丹波栗・松茸・山芋・猪肉、ああ涎が出てきた。
 改札を出ると、さっそく丹波焼の黒豆人形「デカボー」が出迎えてくれました。解説によると、デカンショ節のルーツは篠山の民謡だそうです。荷物をコインロッカーに入れ、駅前に出ると、「乗って近づく複線化 早期複線化を実現しよう!」という大きな垂れ幕がかかっていました。
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 駅前からバスに乗り、十五分ほどで篠山の中心街、二階町に到着。龍野とは違い、観光客の姿をよく見かけます。帰りのバスの時刻を撮影し、まずは近くの篠山食料品店で、おやつの黒豆おこわを購入。さば寿司にも思いっきり後ろ髪を引かれましたが、ちょっと量が多すぎるので断念。
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 そして交差点にある「懐」というお店では、丹波牛を食べさせてくれることを発見。夕食はこちらでいただくことにしましょう。そのとなりのビルの壁面最上部では、巨大な猪のオブジェがあたりを睥睨していました。丹波名物を誇らしげに列挙し掲げるお店もありました。
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 まずは自転車を借りることにしましょう。近くにある大正ロマン館は、1923(大正12)年に建てられたモダンな町役場を利用したお休み処・土産屋です。こちらで用便を済まそうとトイレに行くと、大正時代を意識したモボ・モガの男女表示でした。心もち女性の方が太目に見えますが、偶然かな。実は意図的な行為であったことが判明します。その話は後ほど。自転車は道路を挟んだ向かい側にある観光案内所で借りられるとのこと。さっそく案内所に行き、一台拝借しました。そして前のベンチに座り、黒豆おこわを頬張りながら、もらった観光地図をもとに最高指導者会議を一人で開催しました。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-14 06:15 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(7):福知山線(10.2)

 今にして思えば宮本武蔵が滞在し剣術指導をしていた圓光寺に行くのを忘れましたが、まあいいでしょう。また来る理由ができたというものです。ふたたび揖保川を渡って、本龍野駅へと向かいましょう。すると来る時には気づかなかった、オリジナルの飛び出し小僧を二人発見しました。いやはや、修練が足りませんね、自戒自戒。
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 10:11発の列車に乗り込み、10:33に姫路駅に到着。コインロッカーから荷物をとりだし、山陽本線新快速で尼崎へ。ここから長駆、丹波篠山へと向かいます。が、その前に腹ごしらえ。次の列車までそれほど余裕がないので、手軽な昼食にしましょう。駅前に出るとさいわい「かぐら」といううどん屋があったので、入店しさっそくきつねうどんを注文。いやあ昆布だしのお汁が美味美味、関西ではうどんを食べていれば間違いありません。おまけに天かす入れ放題のサービスつき、満足満腹です。
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 駅構内に入ると「忘れていませんか? キャリーバッグの存在」というポスターがありました。私はあのおぞましい物体への不快感を五年前から表明しているのですが、やっと時代が追いついてくれたか。そのとなりには、福知山線事故に対するJR西日本社長の謝罪ポスターが貼ってありました。以前からありましたが、事故調査委員会に対する働きかけや資料提出の不備についても触れているのが目新しい点です。
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 ただ「深いご不信の念を抱かせてしまいました」という、excuseにもとりうる物言いがひっかかりますね。ほんとに反省しているのかしらん。あの事故の背景には、ひたすらスピードアップを求める会社の経営方針があったのではないでしょうか。「列車の運転」(中公新書1948)の中で、著者であり運転士でもある宇田賢吉氏はこう語っておられます。
 運転士は秒針に追われて走る仕事である。現在ではスピードアップが追及されて、次駅までの残り時間と速度を勘案して調整する余裕ある運転は少なくなった。ひたすら走ってやっと定時というのが常識になりつつある。(p.260)
 こうした"経済効率"に合わせて人間の生身を切り刻み引き伸ばす「プロクルステスの寝台」的状況を、JR西日本は、そしてすべての鉄道会社は、改善しようとしているのか、そこが知りたいのですけれどね。そして13:00発、福知山線篠山口行きの快速列車に乗り込みました。あの107名の死者を出した脱線事故は2005年4月25日午前9時19分頃、尼崎駅-塚口駅間で起きたのでしたっけ。現場を視認することはできませんでしたが、しばし黙祷しました。
by sabasaba13 | 2011-02-13 07:40 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(6):龍野(10.2)

 さてそれでは文学の小径へと向かいましょう。さきほど歩いてきた坂道をくだると、途中に小さな動物園があり、鹿や猿たちが所在なさげに遠くを見つめていました。高村光太郎ではありませんが「人間よ、もう止せ、こんな事は」と言いたいですね。道路を渡ると文学の小径で、まず「赤とんぼ歌碑」があります。その作詞者が龍野出身の詩人・三木露風で、となりに彼の銅像もありました。センサーが察知したのか♪夕焼小焼の赤とんぼ負われて見たのはいつの日か♪というメロディが流れはじめました。んっとにいい曲ですねえ、無人島で口ずさむ曲を選べと言われたら、わたしゃ躊躇なくこれか"朧月夜"か"Imagine"を選びます。
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 おっと和んでいる場合ではない、先を急ぎましょう。この遊歩道は山の中腹をめぐるように整えられ、見事な桜並木がつづきます。春に訪れたらきっと素敵でしょうね。しばらく歩いていくと、砲弾を頭頂部に乗せた忠魂碑がありました。
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 そして四月の第一または第二日曜日には時代絵巻武者行列がくりひろげられるという龍野神社に到着。
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 そのすこし先にあるのが聚遠亭、松平定信が来遊したときに、ここからの眺望を讃えて「聚遠の門」と呼んだことから名づけられたそうです。心字池にある浮堂の茶室は、孝明天皇から拝領されたもの。近くには井原西鶴の句碑「花ぞ雲動き出たる龍野衆」がありましたが、彼の句碑は珍しいですね。なおここからの眺望が素晴らしいとガイドブックに書いてありましたが、木々にじゃまされてそれほどのものではありませんでした。
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 それではお城の方へ向かいましょう。「される身になってやめよういやがらせ」という立て看板がありましたが、直截的かつ具体的な表現がよろしいですね。異議なし。あるお宅の前には、もう使われていない共同井戸がありました。
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 武家屋敷跡や三木露風旧居跡を見て、龍野城を通り抜けて霞城館(かじょうかん)へ。こちらでは三木清、三木露風、矢野勘治(「嗚呼玉杯に」の作詞者)、内海青潮(反戦詩人)の遺品や資料が展示されていますが、まだ開館の時間ではありませんでした。
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 そしてふたたびカネヰ醤油・如来寺界隈へ到着。この近くには蔵造りの伏見屋書店があります。薄暗い店内に入ると、二階部分が回廊になっていました。若き日の三木清や三木露風も、ここで立ち読みしたんだろうなあ、などと想像してしまいます。
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 さあ見るべきものは見つ、あとは時間の許す限り、路地から路地へと彷徨い歩きましょう。でもなんでこんなにここの町歩きは楽しいのでしょう。コンビニエンス・ストアやチェーン店がなく、地元の商店がほどほどの商いをしている。高いビルがなく、緑なす山々を見通せ、空が広い。観光のために無理して身構えたところがなく、古い建物と新しい建物が自然に同居している。新しい家も、伝来の技法や意匠によって建てられている。吾唯足知、無理して背伸びしてシークレットシューズを履いて竹馬に乗って、利潤や流行を求めるのはやめようよ、というそこはかとない雰囲気を感じます。「店商(?)木三 物金」という古い看板や、釣り具と寝具をいっしょに商う沖商店をひやかしながら散策していると、おっそろそろ列車の時間です。アディオス、龍野。
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 本日の七枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-12 07:58 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(5):龍野(10.2)

 小山の中腹をめぐる哲学の小径をすこし歩くと、お目当ての「三木清の碑」がありました。
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 こちらにあった解説を引用しましょう。
 清は明治三十年市内揖西町小神に生まれ、旧制龍野中学、第一高等学校から京大哲学科、西田幾多郎門下に入った。ドイツ留学ハイデッガーに学び帰国して名著「パスカルに於ける人間の研究」を著した。二十年脱走した共産党員の友人に食事と衣服を与えたことが治安維持法に触れて投獄され、戦後九月二十六日獄死を遂げた。
 半円形の石碑に、彼のレリーフと短歌「しんじつの秋の日てればせんねんに心をこめて歩まざらめや」、そして事蹟が刻まれています。お恥ずかしい話、彼の著作は読んだことがありません。しかし、治安維持法で逮捕され、敗戦時に釈放されず、その一ヵ月後に獄死したことが強烈に印象に残っています。ウィキペディアに依拠してその経緯をすこし詳しく記しておくと、1945年、治安維持法違反の被疑者高倉テルを仮釈放中にかくまったことを理由にして検事拘留処分を受け、東京拘置所に送られ、その後に豊多摩刑務所に移されました。この刑務所は衛生状態が劣悪であったために、三木はそこで疥癬をやみ、また腎臓病の悪化とともに、体調を崩し、終戦後の9月26日に独房の寝台から転がり落ちて死亡していることが発見されます。享年48歳。中島健蔵が三木の通夜の当日に、警視庁への拘引から7月下旬まですぐ近くの監房にいて詳しく様子を見たという青年から聞いた話として記しているところによると、疥癬患者の使っていた毛布を消毒しないで三木に使わせたために疥癬が発病したということです。たまたまこの三木の死を知ったアメリカ人ジャーナリストの奔走によって、敗戦からすでに一ヶ月余をへていながら、政治犯が獄中で過酷な抑圧を受け続けている実態が判明し、占領軍当局を驚かせました。この件を契機として治安維持法の急遽撤廃が決められることになります。「なぜ日本人は、敗戦と同時にこうした思想犯・政治犯を救おうとしなかったのだろう」と血を吐くように批判したのは、たしか畏友の羽仁五郎でしたっけ。これほど極端な事例ではなくても、知性を蔑ろにする風潮がいまだはびこっているようで危惧を覚えます。隣にもう一つの碑があり、こう刻まれていました。
怒について
今日、愛については誰も語ってゐる。誰が怒について眞剣に語らうとするのであるか。怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るといふことは今日の人間が無性格であるといふことのしるしである。
切に義人を思ふ。義人とは何か、-怒ることを知れる者である。
「人生論ノート」より
 さて哲学の小径をもうすこし歩くと童謡の小径と合流し、つきあたりには国民宿舎「赤とんぼ荘」がありました。白鷺山の中腹に建っているので眺望がよさそう、さっそく中に入り、フロントにことわって五階にあるレストランに行ってみました。おおこれは素晴らしい! 揖保川と山々にいだかれ、いままさに目覚めようと息づく小宇宙を一望することができました。景観を跡形もなく木端微塵に破壊する高層ビルがないので、うねるような甍の波の美しさを堪能できます。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-11 08:03 | 近畿 | Comments(0)

丹波・播磨・摂津編(4):龍野(10.2)

 さてどうやら道を間違えたようです。地図で確認すると、さきほどの交差点を右折するべきだったのに直進してしまいました。軌道修正して歩いていくと、数分で揖保川にかかる龍野橋に到着です。ここからの眺望は素晴らしいですね、滔々と流れる揖保川に沿い、山々に抱かれるように佇む龍野の街並みが一望できます。♪兎美味しかの山、小鮒釣りしかの川♪と口ずさみたくなるような、懐かしい光景です。
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 それでは橋を渡り、街の腸に食い込んでいきましょう。まずは朝の清々しい空気をすいながら下川原商店街を散策、味わい深い古い商家が散在していました。観光用にとりつくろうことなく、自然体で残されているのがいいですね。路地の先には山の姿が見通せ、まるで山々に見守られているような雰囲気です。あるお宅に「とゆに注意」という注意書きがありましたが、とゆって何だろう???
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 また焼き焦がした板塀、西日本に特有の伝統技法の「焼杉」[…『建築史的モンダイ』(藤森照信 ちくま新書739)参照]もよく見かけられ、景観にいいアクセントを与えています。
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 その焼杉に誘われてふらふらと路地に入っていくと、大きな蔵がありました。ここが明治二年創業のカネヰ醤油の工場ですね、門前には電気式しょうゆ・もろみ販売機が設置してありました。
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 そのはす向かいにあるのが「うすくち龍野醤油資料館別館」、入場はできませんでしたが、洒落た洋館を門扉から見ることができました。吉井勇に「ほのかなる人のなさけに似るものか龍野醤油のうす口の味」という歌があるそうですが、一度味わってみたいものです。ここから醤油蔵と如来寺にはさまれた小道を歩きましたが、ここもいい風情でした。お寺さんの築地塀や瓦屋根、醤油蔵の黒板塀にはさまれた、小さな用水に沿った路地を、遠景の山を眺めながら散策していると、昔々ここを歩いたような心地よい既視感におそわれます。わが内なる図書館で自分なりにつくりあげた「日本の町」のイメージにぴったり合致するからでしょうか。
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 人気のない交差点を右折して山の方へ向かうと、戦前のものらしき古いビルが二つ並んでいました。右が龍野醤油資料館になっています。
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 このあたりでスタンダードな飛び出し小僧を発見。「そうめん&コーヒー すゞむら」といういかにも龍野らしいお店もありました。
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 緩やかな坂道をのぼっていると、ふるさとの山に抱かれ見守られているような小学校がありました。白い塗り塀と黒い焼杉塀のコントラストがきれいなお宅をよく見かけます。なおところどころに観光案内図がありますので、道に迷う心配はありません。そして白鷺山のふもとに到着、ここには童謡の小径(こみち)・哲学の小径という遊歩道が整備されています。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2011-02-10 06:19 | 近畿 | Comments(0)