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福井・富山編(60):五箇山(16.3)

 まずは世界遺産五箇山観光サイト「五箇山彩歳」から、合掌造りについての解説を転記します。
合掌造りの民家と歴史
人々の生きる知恵が生んだ強固で合理的な建築

 合掌造り家屋は、全国でも五箇山と白川郷及び両地域に隣接する一部の山間部にのみ見られる独特の建築様式。「合掌」は、仏を拝むときに左右の掌を合わせた腕のかたちに由来します。五箇山では「叉首(さす)構造」と呼ばれる∧型に開き、頂部で緊結した2本の部材をガッショウと呼んでいて、1648年(正保5年)の記録にも、「かつしやう(ガッショウ)」の文字が残っています。
 まるで天に向かってお念仏の手を合わせるような合掌屋根が、五箇山の暮らしを守ってきました。現存する合掌造り家屋は約百年~二百年前のものが多く、古いものは四百年前に遡るといわれています。合掌造り家屋が完成したのは江戸時代中期からと推測されます。その頃、五箇山では養蚕が行われ、塩硝や和紙製造が加賀藩から奨励されていました。こうした仕事に適したスペースを確保するために、高層の合掌造りに発展したと考えられています。
 一階は、塩硝(えんしょう)や紙漉き場と住居。二階は、広い作業空間と採光、保温を求められた養蚕に使用されました。一階の天井は一部を除いて簀子(すのこ)張りになっています。いろりからのぼる熱気を通過させて、蚕室を暖める必要があったからです。また、いろりからの煙が虫除けとなり木材や茅葺屋根を長持ちさせました。屋根の勾配は急で六十度。断面は正三角形に近く、雪が滑り落ちやすい形です。この大きな屋根を支えるのは、根元の曲がったチョンナと呼ばれる太い梁。山の斜面に生育した自然に曲がったナラの木を用います。また、合掌の組み立てには釘は一切打たず、稲縄とネソと呼ばれるマンサクの木を使いました。山形に組み合わされた屋根の下地となる「合掌」(叉首(さす))の下端は細くとがっていて、桁の上に渡された叉首台「ウスバリ」の両端にあけられた窪みに差してあるだけで、地震や雪による屋根の重みにも柔軟に対応する仕組みになっています。
 屋根を葺く茅には主にススキの仲間のカリヤスが使われています。カリヤスは茅場と呼ばれる山の急斜面で栽培され、毎年、10月に刈り取りが行われ、乾燥し保存されます。春から秋にかけ、屋根の葺き替えが行われます。現在は森林組合が中心に、十五年~二十年ごとに葺き替えがおこなわれています。葺き替えのときに屋根からおろされた古い茅は、昔から田畑を肥やす堆肥として再利用されています。
 雪深い冬という厳しい自然に対応する強固な造り、さらに生活の場と生業の場をひとつにした合理的な建築。名もない人々の生きる知恵が生んだ偉大な発明、それが合掌造りです。
 一読、言葉を失います。豪雪、厳寒、山間といった過酷な自然条件のなかで、いかにして生きていくか、その知恵と営為の結晶がこの合掌造りなのですね。荘厳さすら感じます。
 ここ相倉集落は標高約400mの河岸段丘にあり、北東から南西へ約500m、南東から北西へ200~300mの細長い平坦地に屋敷地と耕作地があります。さらに北西および南東の傾斜地の一部にも茅場などの耕作地があります。集落背後にはブナ、トチ、ミズナラなどの大木が生い茂り、集落を雪崩などから守る雪持林として伐採は禁じられているそうです。
 相倉集落の合掌造り家屋20棟。これらの多くは江戸時代末期から明治時代(19世紀前期~20世紀初期)に建てられたものですが、最も古いものは17世紀に遡ると推察されています。新しいものは20世紀前半のものが3棟あり、この時代まで合掌造り家屋がつくられていたことがわかるそうです。
 集落の中を歩きながら、険峻な山々と樹々を背景に合掌造りを撮影。

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-18 07:18 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(59):五箇山(16.3)

 やれやれ、かろうじて間に合った。8:10発の世界遺産バスに乗り込んで、五箇山をめざします。しばらく走ると、田園風景の中に農家が散在している風景となりましたが、これが噂の散居村ですね。後ほど、井波に行く途中で展望台に寄ってみましょう。
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 城端駅前の樹には「ハチ激取れ」という捕虫具がぶらさがっていました。やがてバスは、雪が残る山深い道路を疾走していきます。そして9:28に相倉口に到着、五箇山の相倉集落から見学しましょう。
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 まずは『一度は訪ねておきたい日本の町100選 小さな町小さな旅 東海・北陸』(山と渓谷社)から、五箇山の紹介文を転記します。
 集落は白川郷寄りの菅沼とそこから約12キロ下流の相倉(あいのくら)で、菅沼に9棟、相倉に20棟の合掌造り民家が建つ。今では山間を流れる庄川にほぼ並行して国道が通っているので、アクセスの不便は感じないが、周りの風景は幾重の山々。狭い耕地に合掌造りの茅葺き屋根が寄り添い合っている。特に国道より一段上にある相倉集落は、山の地すべりが止ってできた棚台地に位置し、民家は段々畑の合間にあり自然環境の厳しさがしのばれる。
 雪深い五箇山は養蚕、製紙、そして火薬の原料になる塩硝作りを営みとしていた。これらはすべて加賀藩への上納品であった。また、加賀藩の流刑地でもあり、加賀騒動の主役だった大槻伝蔵や、お小夜という遊女が流されていたという。相倉からバスで8分の上梨地区に流刑小屋が復元されている。
 同じ合掌集落でも、白川郷に比べると五箇山は山深く、より秘境らしさを残している。(p.106)
 バスから降りると、目の前に木造の真新しい公衆便所がありましたが、男女表示には合掌造りがデザインされていました。
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 石積みの棚田の間を抜ける坂をすこしのぼると相倉集落に到着です。"「相倉集落」全景撮影スポット 徒歩4分"という看板があったので、もちろん坂道をのぼっていきました。そして集落の一部を見下ろせるところに到着。
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 絶句… 峨々たる山々の懐に抱かれるように、肩を寄せ合うようにして佇む十数棟の合掌集落。まるで一幅の絵のよう、写真を撮りまくりました。そして坂道をおりて、集落のなかを徘徊しました。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-17 07:00 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(58):高岡(16.3)

 そして金屋町(千本格子の家並み)に着きました。高岡市観光ポータルサイト「たかおか道しるべ」から転記します。
 高岡築城直後の1611年(慶長16年)、高岡に隠居していた加賀前田家2代当主利長は、領内の砺波郡西部金屋から7人の鋳物師をこの地に呼び寄せ、幅50間、長さ100間の土地を与えて鋳物場を開設させました。また、諸税や労役を免除するなど多くの特権を与えて手厚く保護したことから、この地に鋳物産業が根付き、今日の高岡鋳物発祥の地となっています。
 現在は、多くの工場が郊外に移転しましたが、千本格子の家並みが大切に保存されており銅片を埋め込んだ石畳にマッチする美しいたたずまいを見せています。2012(平成24年)に、鋳物師町として全国で初めて、伝統的建造物群保存地区の選定を受けました。
 また、前田利長公の命日に当たる6月20日には利長公への報恩・感謝の意を込めて「御印祭(ごいんさい)」が盛大に執り行われます。
 特に祭りの前夜に行われる「弥栄節(やがえふ)街流し」は、金屋町の老若男女はもとより、近隣の保育園児、小中学生や踊りの愛好家の方々などが大勢参加され、華やかで楽しい祭りとなっています。
 じっくり拝見したいのは山々ですが、そろそろ高岡駅前に戻って、8:10発の世界遺産バスに乗らなければなりません。千本格子と石畳の調和がとれた見事な街並みをさくさくと歩いていると、1924(大正13)年につくられた旧南部鋳造所のレンガ造りのキュポラ(溶鉱炉)と煙突がありました。
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 それでは高岡駅前へと急いで戻りましょう。途中で、ファサードを飾る銅板と三連窓が印象的な「大村三書堂」を撮影。身も心も溶解するようなゆるキャラ「さかもとしんくん」のポスターがありましたが、これは金沢を拠点とする「しん証券さかもと」という企業のマスコットキャラクターだそうです。でもほんとにゆるいですね。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-16 06:24 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(57):高岡(16.3)

 それでは金屋町へと歩を進めましょう。途中で「神棚の島原」「神棚と参宝 定塚」「佛壇うるし 大場」といった看板を見かけました。神棚や仏壇も高岡の特産品なのですね。
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 街角にあった小祠は、立派な銅板葺きの屋根でした。ファサードを、小紋の意匠による銅板で飾ったお宅を撮影してすこし歩くと、「恵比寿塔」がありました。
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 1922(大正11)年に設置された、中島川疎水荷揚場のための街灯だそうです。大漁をもたらす神・恵比寿にあやかっての命名ですね。
 銅製の二宮金次郎像があったので近寄ってみると、下記の解説板がありました。
高岡銅器研究会創立三十周年記念
 二宮金次郎(尊徳)は、江戸末期の農村改革の優れた実践家であり思想家。また、小田原藩をはじめ、各藩の財政立て直しを指導した。
 昭和の初め、報徳思想に基づく自力更生運動が全国的に推進されるようになり、この勤倹力行の少年像が全国の小学校の校庭に建立されるようになる。時代にもよるが、その九割までが高岡で制作されたものだったのである。二宮金次郎は、小田原の人だった。しかし、「金次郎像」のふるあとは、わが高岡なのである。
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 おっまた猫がいた。猫も高岡の特産なのかな。その先には「高岡鋳物発祥地位」という石碑がありました。
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by sabasaba13 | 2019-11-15 06:18 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(56):高岡(16.3)

 それでは土蔵造りの町並み、山町筋へ参りましょう。途中に鋳物でつくられた「坂下町通り」という道標がありました。そして鋳物とならぶ高岡名物「大人のラブおもちゃ」の貼り紙が…そんなことはありませんね、ごめんなさい。
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 山町筋に着くと、解説と地図があったので転記します。
 山町筋は、慶長14年(1609)に加賀藩第二代藩主の前田利長が、高岡に隠居城と城下町を建造したときに北陸道に面する商人の町として開かれました。
 その後、明治に入り、明治33年(1900)に高岡の大火がおき、市街地の約6割が焼失しましたが、その前年(1899)に施行された「富山県建築制限規則」により、山町筋などの繁華街については防火構造の建造物とすることが義務付けられていたため、当時の防火建築物である土蔵造りの建造物が建築されました。
 山町筋の土蔵造りは、二階建、切妻造り、平入、瓦葺の町屋で、黒瓦葺きの屋根と大きな箱棟、黒漆喰塗りの外観、二階窓に付けられた土扉など、重厚な外観をもつ反面、柱頭をアカンサスの葉などで装飾した鋳物の鉄柱、隣地境のレンガの防火壁など、華麗な装飾の中に洋風の意匠を取り入れていることが外観の特徴となっています。内部は、外観の重厚さとは対照的に繊細な数寄屋風の仕上げとし、主屋と土蔵の間にある中庭は建物と見事に調和し、市街地にあって緑の多い静謐な空間をつくりだしています。
 補足しますと、ここを中心に住まいする10町で高岡御車山祭を奉じていることから山町と呼ばれるそうです。
 ぶらぶら歩いていくと、土蔵造りのまち資料館(旧室崎家住宅)、菅野家住宅、筏井家住宅、赤レンガの富山銀行といった超弩級の重厚な建物が目白押し。神々が宿り給う細部にも目を凝らしながら歩いていると、時が経つのも忘れてしまいます。
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 井波屋仏壇店は、入口上部に並んだ半円アーチが印象的な物件ですが、これから訪れる木彫で有名な井波出身の方が始めたお店なのでしょうか。
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 途中に"童謡「夕日」のふるさと高岡"というプレートがありましたが、♪ぎんぎんぎらぎら夕日がしずむ♪を作曲したのが高岡市舟木町出身の室崎琴月だそうです。ちなみに作詞は広島県福山市出身の葛原しげる。
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 忘れられない建物がまだたくさんあります。本日の八枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-14 06:18 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(55):高岡(16.3)

 朝目覚めてカーテンを開けると、空一面が雲で覆われています。テレビの気象情報を見ると、今日は曇りですが雨の心配はなさそうです。よろしい、それでは予定通りの旅程でいきましょう。まず高岡を散策して駅前に戻り、世界遺産バスに乗って五箇山・相倉集落へ、ふたたびバスで五箇山・菅沼集落へ。バスで城端(じょうはな)へ行き、城端の町を散策。JR城端線に乗って福光へ、棟方志功の「愛染苑」と「鯉雨画斎」を見学。城端線で砺波(となみ)に行きタクシーで井波へ。井波を見学してバスで福光駅へ、城端線で高岡に戻る予定です。
 まずは『日本の町100選 小さな町小さな旅 東海・北陸』(山と渓谷社)から、高岡についての紹介文を引用します。
 高岡の山町筋は国の重要伝統的建造物群保存地区。山町筋とは旧北国街道沿いの、江戸時代に商人の町として栄えたエリアである。山町筋のなかでも特に木舟町が顕著だが、町並みがとても重厚で、近寄り難い雰囲気。壁を黒漆喰で乗り込めた土蔵造りの町屋、屋根に大きな箱棟がある黒瓦葺きの切妻屋根、また、レンガ製の防火壁を設けた建物もある。これらは明治の大火の教訓で耐火構造を備えているのである。金屋町へも足をのばそう。ここはかつて鋳物師(いもじ)が集まっていた町だ。大半は郊外に移転したが銅片を敷き込んだ石畳の両脇に千本格子の家が続き、その歴を語り継いでいる。(p.165)
 それでは朝の高岡散歩と洒落込みますか。エレベーターの中に「大木白山社 年越大祓い護符」が貼ってありましたが、ワイヤーが切れて落ちたことでもあるのでしょうか。ちょっと心配だなあ。外へ出ると、塀の上の見返り猫と遭遇。はい、おはようございます。
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 まずは高岡大仏を拝見しましょう。伝統の鋳物製造技術によって造られた総高15.85m、重量65tの大仏は圧倒的な存在感です。近くに、1806(文化3)年に鋳造された大きな時鐘がありました。もともとは1804(文化元)年に高岡町奉行・寺島蔵人が鋳造させた鐘があったのですが、すぐに割れ目ができてしまったそうです。坂下町の鍋屋仁左衛門は、高岡鋳物の声価を傷つけたことを悲しみ、自ら多額の寄付をし、浄財を集め、工人を督励してこの大鐘を作らせたとのこと。郷土の産業への深い愛情と誇りを感じさせてくれる話です。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-13 06:21 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(54):高岡(16.3)

 1時間20分ほどで金沢に到着、IRいしかわ鉄道(あいの風とやま鉄道)に乗り換えました。途中で、車窓から「木曽義仲ゆかりの地」という看板が見えましたが、倶利伽羅峠が近くにあるのですね。また石動(いするぎ)という駅がありましたが、山岳信仰の拠点、石動山がこのあたりにあるのでしょう。いずれも未踏の地ですが、時をあらためて再訪したいと思います。
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 四十分ほどで高岡駅に到着、高岡は以前に訪れたことがあるので、今回は再訪となります。いきなり出迎えてくれたのが、鋳物でできたドラえもんのポストです。「ドラえもん」の作者、藤子・F・不二雄(藤本弘)氏はここ高岡市出身、藤子不二雄A(安孫子素雄)氏は近くの氷見市出身、そして高岡は鋳物の産地ということで、このポストができたのですね。
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 駅前に出るとこちらでも「ドラえもん」の登場人物が勢揃い。それにしても、ずいぶんと小奇麗に再開発がなされてしまったものです。「もののあはれ」を感じたあのキッシュで胡散臭い雰囲気を懐かしく思い出しましたが、「アドニスビル」という雑居ビルがひとり孤塁を守っているので諒としましょう。なお"アドニス"とは、ギリシア神話に登場する、美と愛の女神アプロディーテーに愛された美少年ですね。その名称と、「24H 泊1800円」「サウナ プラザ」「パチンコ№1」「喫茶アドニス」とどう関係するのか不明ですが、オーナーのセンスに頭を垂れましょう。おっ、越前国司としてこのあたりに赴任し多くの秀歌をのこした大伴家持像も健在でした。御慶。
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 それでは夕食をとりましょう。駅ビルにあった「イタリアントマト」で、ご当地B級グルメの高岡ナポリタンをいただきました。ナポリタンに目玉焼きをのせると何故高岡ナポリタンなのか、ご教示を乞う。近くの酒屋で地酒「若駒」を購入し、駅に置いてあった観光パンフレットをいただきました。なお高岡のマスコットキャラクターは「利長くん」、高岡城を築いた加賀藩2代目藩主の前田利長をモチーフとしているそうです。プロフィールによると身長は2m30cm、ただし日によって、10cm~15cm程度の誤差があるとのこと。
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 ホテルに行く途中、愛くるしい眼のを発見、写真におさめました。そして「あさひシティーインホテル」にチェックイン、シャワーを浴びてビールを呑み、「若駒」を一献傾けながら明日の旅程に思いを馳せていると、いつの間にか熟睡…

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-12 06:19 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(53):高岡へ(16.3)

 それでは福井へ戻り、高岡へと移動しましょう。京福バスの永平寺ライナーに乗ると、三十分ほどでJR福井駅に到着しました。駅ビルにあった「おそばだうどんだ越前」で、ご当地B級グルメのソースかつ丼と焼き寿司をいただきました。特急「サンダーバード」の顔はめ看板を撮影し、北陸本線に乗って金沢を目指します。
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 さて、これで福井県とはお別れですが、最近気になるニュースが飛び込んできました。福井新聞(2019.3.11)の、"学力日本一の背景に「教員の犠牲」"という記事です。長文ですが引用します。
 午後8時を過ぎても、ほとんどの教員が職員室に残っている。残業が毎月100時間を超えるという福井県内の30代公立中学校教員は「現場の教員はタイムカードを切ってから仕事を続けたり、家に持ち帰ったりしている。自分が割りを食う分には文句を言われない」と話す。
 昨年9月の福井県教委の調査によると、県内公立中学校教員の平均勤務時間は平日1日当たり10時間51分。「休憩」の1時間を除いているが「休憩なんて全く取れない」。実働は12時間近いが、それでも2年前に比べ31分短くなった。土日の部活動を含めて月80時間以上残業する教員は26・8%。2年前から19・4ポイント減った。
 県教委は今年2月に働き方改革の方針を策定し、2021年度までに残業80時間超の教員ゼロを目標に掲げた。この教員は「県教委の方針に『これはしなくていい』という具体的な内容はない。学校の管理職も『早く帰れ』と言うだけで仕事の量は減らさない。調査の数字は実態を表していない」と淡々と語る。

 福井県内の公立中学校で働く県外出身の30代教員は、「福井の教育は教員の犠牲で成り立っている」と考えている。さらに「宿題をやり遂げる子どもの忍耐と家族の叱咤激励でも成り立っている」と続けた。
 「福井に比べ、宿題があまりに少なくて驚いた」。夫の転勤で子どもを県外の公立中学校に通わせたことがある福井市の会社員女性(35)は「福井に戻ってからは、子どもに全部やらせるのが大変」とこぼす。

 宿題の多さは、全国学力テストで福井の子どもたちが上位を維持する要因の一つとされる。特に中学では、学年共通の宿題に加え、各教科担任からも出される。福井県義務教育課の浦井寿尚課長は「宿題は教員が丸つけや添削をする必要があり、出せば出すほど教員にも負担になる」として、宿題の多さは「学習塾に通わなくても学びを定着させてあげたいという教員の熱意の表れでもある」と話す。
 現場には疑問もある。県外で勤務経験がある30代公立中学校教員は「宿題を全部提出できる子どもが基準で、個々の能力や特性に応じた内容や量になっていない」と指摘する。
 いやはや、福井県では学校のブラック化が相当苛烈な領域にまで入っているようです。それにしても、教員を、保護者を、何よりも生徒をここまで追い詰める全国学力テストって何なのでしょう。測定可能な断片的知識を生徒たちに詰め込んで、全国規模で生徒同士を、教員同士を、学校同士を、自治体同士を競争に巻き込むということだと思います。学力とは、本来「騙されない力」「嘘を見抜く力」「まともな市民として考え行動する力」だと考えますが、そうした力は一顧だにされていないようです。要するに政治家・官僚・財界など管理者(administrator)のみなさんは、子どもたちがまともな市民になっては困る、従順な国民になってほしいと願っているのでしょう。
 それでは管理者にとって、全国学力テストにはどのような利点があるのか。まず財政面です。テストの結果が思わしくない学校の予算を削る、担当した教員の給与を削る。数値という確固たる基準を根拠にするわけですから、反論・抵抗はきわめて難しいですね。
 次に、生徒を勉強嫌いにさせる。無味乾燥な断片的知識を競い合わせれば、嫌気がさすでしょう。大人になってテストがなくなれば必然的に勉強もしなくなる。問題は誰かがつくってくれるのではなく、自分でつくり、自分で学び考えて解決を見つけるのだということを知らない大人になってくれるでしょう。より良い社会を築くために、勉強は必要で、重要で、かつ喜ばしいものなのに。
最後に、生徒たちを多忙にさせる。スマートフォンと部活動と全国学力テストという"三種の神器"が揃えば、完璧です。多忙にさせることによって、読書の時間や考えるゆとりや政治への関心を奪えば、自立した市民ではなく利己的な消費者になるための素地をつくれます。
 香港の雨傘運動のリーダーの一人、周庭(アグネス・チョウ)氏が、初来日後のフェイスブックに次のように書き込まれたそうです。
 日本はかなり完璧な民主政治の制度を持っているが、人々の政治参加の度合い、特に若者のそれはかなり低い。日本に来て、私は初めて本当の政治的無関心とは何かを知った。
 香港では、強権を批判する約200万人参加のデモが起こり、日本では総選挙において半数近くの有権者が棄権する。日本人の政治参加の低迷と政治的無関心には、周庭氏をはじめ香港の方々はさぞ歯がゆい思いでしょう。民主政治の制度がある程度整っているのに、それを活用しない日本人。その理由のひとつが、この全国学力テストをはじめとする教育環境にあると考えます。政治に関心を持つな、政治運動に参加するな、政治的中立を保て[=体制を批判するな]、そんな囁きや有形無形の圧力が、日本の学校には満ち満ちているのではないかな。
by sabasaba13 | 2019-11-11 06:57 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(52):永平寺(16.3)

 苔むした石が並ぶ参道を歩いていると、気温が低いためもあってか、そこはかとない峻厳な空気を感じて背筋が伸びるようです。まずは一般参禅者が坐禅体験や写経体験をするための研修道場・吉祥閣(きちじょうかく)に入って、参拝料を支払い、ここから見学が始まります。
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 次は研修・宿泊のための部屋・傘松閣(さんしょうかく)、別名「絵天井の間」。2階に156畳敷きの大広間があり、その天井には昭和初期の有名な画家144人による230枚の日本画が埋め込まれています。
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 そしていよいよ七堂伽藍へ。山門、仏殿、僧堂、大庫院(だいくいん)、東司(とうす)、浴室、法堂(はっとう)という七つの重要な建物が回廊で結ばれています。山の斜面に合わせて建てられているため、建物は離れて建てられており、上り下りのある回廊をすこし歩くことになります。板敷からの寒気で気分が引き締められました。回廊を歩くにつれて景観が刻々と変わっていき、まだ降り続く雨の中、水墨画のように幽玄な風景を何枚も写真におさめました。時々すれちがう雲水(修行僧)の、凛とした佇まいに、あらためてここは修行の場なのだと感じ入りました。三月でこの寒さなのですから、厳寒の冬における修行の厳しさは想像すらできません。
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 というわけで、身も心も清新になれたようなひと時を過ごせました。これで鎌倉(新)仏教の中心寺院をすべて訪れたことになります。ちなみに、浄土宗の知恩院、浄土真宗の西本願寺と東本願寺、時宗の清浄光寺、日蓮宗の久遠寺、そして臨済宗の建仁寺です。なお『歴史の「常識」をよむ』(歴史科学協議会 東京大学出版会)のなかで、湯浅治久氏がこう指摘されていました。
 戦国仏教概念を提起したのは藤井学である。藤井は鎌倉(新)仏教の思想的革新性を認めながらも、その影響が鎌倉時代には限定されていたものであることを指摘し、鎌倉仏教の祖師たちの思想が社会全般に受容されるのは、むしろ室町から戦国時代であるという認識から、これを戦国仏教と呼ぶべきであると提唱した。(p.98)
 なるほど「戦国仏教」か。この永平寺も室町から戦国時代にかけてどのような活動をしていたのか、そして人びとの間に曹洞宗はどう浸透していったのか、興味があります。

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-10 06:43 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(51):永平寺(16.3)

 それでは永平寺へと向かいましょう。雨は小降りですが、いまだ降り続いています。やってきたバスに乗り込んで、車窓からの眺めを楽しんでいると、ちょこんと塔をのせた愛らしい駅舎がありました。古い駅舎かなと思い写真におさめましたが、いま調べてみると新しいものでした。古い駅舎は近くの「地域交流館」として再利用されているということなので、機会があったら訪れてみましょう。
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 そして三十分ほどで永平寺に到着しました。まずは『日本の歴史を旅する』(五味文彦 岩波新書1676)から引用します。
 鎌倉時代の北陸に新たな信仰をもたらしたのは曹洞宗であって、大陸に渡ってこれを日本に将来した道元が、比叡山の弾圧を受けたため、寛元元(1243)年7月、京の六波羅探題に仕えていた波多野義重の招きにより、その所領である越前の志比荘に移って大仏寺(永平寺)を開いた。
 それから十年、病のために永平寺を弟子の孤雲懐奘に譲って京に戻って死去するまで、「心の念慮・知見を一向捨てて、只管打座」という出家修行至上主義に基づいて、祈?や祭礼を否定し、礼仏や読経も余分なものと考え、信仰をつきつめていった。この永平寺の修行は峻厳なもので今に続いている。(p.94)
 なお松尾芭蕉が、ここに立寄っていたのですね。『奥の細道 朗読』から引用します。
【原文】 五十丁山に入て、永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避て、かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや。

【現代語訳】 五十丁山に入って、永平寺にお参りする。道元禅師が開基した寺だ。京都から千里も隔ててこんな山奥に修行の場をつくったのも、禅師の尊いお考えがあってのことだそうだ。
 白洲正子の『かくれ里』(講談社学芸文庫)にも永平寺のことが記されていました。
 越前へ取材に行った時、友達から、平泉寺にはぜひ行って来い、参道がいいし、苔も美しい。京都の苔寺の比ではない、とすすめられた。
 私は取材に行っても、いつも道草ばかり食う。編集者さんも心得ていて、快くつき合ってくれる。仕事はそこそこにして、平泉寺へ向ったのは、気持のいい秋晴れの朝であった。
 この寺は、勝山市の郊外にある。福井から九頭竜川を東へさかのぼると、三十分あまりで勝山に着く。途中、永平寺に立ちよったが、あまりの人込みに、早々にして退散した。こういう寺は、雪の時でもないと、ゆっくりお参りすることはできないかも知れない。(p.256)
 今日は雨模様のためかそれほど人込みもなく、落ち着いて参拝できそうです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-09 06:50 | 中部 | Comments(0)