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福井・富山編(56):高岡(16.3)

 それでは土蔵造りの町並み、山町筋へ参りましょう。途中に鋳物でつくられた「坂下町通り」という道標がありました。そして鋳物とならぶ高岡名物「大人のラブおもちゃ」の貼り紙が…そんなことはありませんね、ごめんなさい。
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 山町筋に着くと、解説と地図があったので転記します。
 山町筋は、慶長14年(1609)に加賀藩第二代藩主の前田利長が、高岡に隠居城と城下町を建造したときに北陸道に面する商人の町として開かれました。
 その後、明治に入り、明治33年(1900)に高岡の大火がおき、市街地の約6割が焼失しましたが、その前年(1899)に施行された「富山県建築制限規則」により、山町筋などの繁華街については防火構造の建造物とすることが義務付けられていたため、当時の防火建築物である土蔵造りの建造物が建築されました。
 山町筋の土蔵造りは、二階建、切妻造り、平入、瓦葺の町屋で、黒瓦葺きの屋根と大きな箱棟、黒漆喰塗りの外観、二階窓に付けられた土扉など、重厚な外観をもつ反面、柱頭をアカンサスの葉などで装飾した鋳物の鉄柱、隣地境のレンガの防火壁など、華麗な装飾の中に洋風の意匠を取り入れていることが外観の特徴となっています。内部は、外観の重厚さとは対照的に繊細な数寄屋風の仕上げとし、主屋と土蔵の間にある中庭は建物と見事に調和し、市街地にあって緑の多い静謐な空間をつくりだしています。
 補足しますと、ここを中心に住まいする10町で高岡御車山祭を奉じていることから山町と呼ばれるそうです。
 ぶらぶら歩いていくと、土蔵造りのまち資料館(旧室崎家住宅)、菅野家住宅、筏井家住宅、赤レンガの富山銀行といった超弩級の重厚な建物が目白押し。神々が宿り給う細部にも目を凝らしながら歩いていると、時が経つのも忘れてしまいます。
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 井波屋仏壇店は、入口上部に並んだ半円アーチが印象的な物件ですが、これから訪れる木彫で有名な井波出身の方が始めたお店なのでしょうか。
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 途中に"童謡「夕日」のふるさと高岡"というプレートがありましたが、♪ぎんぎんぎらぎら夕日がしずむ♪を作曲したのが高岡市舟木町出身の室崎琴月だそうです。ちなみに作詞は広島県福山市出身の葛原しげる。
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 忘れられない建物がまだたくさんあります。本日の八枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-14 06:18 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(55):高岡(16.3)

 朝目覚めてカーテンを開けると、空一面が雲で覆われています。テレビの気象情報を見ると、今日は曇りですが雨の心配はなさそうです。よろしい、それでは予定通りの旅程でいきましょう。まず高岡を散策して駅前に戻り、世界遺産バスに乗って五箇山・相倉集落へ、ふたたびバスで五箇山・菅沼集落へ。バスで城端(じょうはな)へ行き、城端の町を散策。JR城端線に乗って福光へ、棟方志功の「愛染苑」と「鯉雨画斎」を見学。城端線で砺波(となみ)に行きタクシーで井波へ。井波を見学してバスで福光駅へ、城端線で高岡に戻る予定です。
 まずは『日本の町100選 小さな町小さな旅 東海・北陸』(山と渓谷社)から、高岡についての紹介文を引用します。
 高岡の山町筋は国の重要伝統的建造物群保存地区。山町筋とは旧北国街道沿いの、江戸時代に商人の町として栄えたエリアである。山町筋のなかでも特に木舟町が顕著だが、町並みがとても重厚で、近寄り難い雰囲気。壁を黒漆喰で乗り込めた土蔵造りの町屋、屋根に大きな箱棟がある黒瓦葺きの切妻屋根、また、レンガ製の防火壁を設けた建物もある。これらは明治の大火の教訓で耐火構造を備えているのである。金屋町へも足をのばそう。ここはかつて鋳物師(いもじ)が集まっていた町だ。大半は郊外に移転したが銅片を敷き込んだ石畳の両脇に千本格子の家が続き、その歴を語り継いでいる。(p.165)
 それでは朝の高岡散歩と洒落込みますか。エレベーターの中に「大木白山社 年越大祓い護符」が貼ってありましたが、ワイヤーが切れて落ちたことでもあるのでしょうか。ちょっと心配だなあ。外へ出ると、塀の上の見返り猫と遭遇。はい、おはようございます。
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 まずは高岡大仏を拝見しましょう。伝統の鋳物製造技術によって造られた総高15.85m、重量65tの大仏は圧倒的な存在感です。近くに、1806(文化3)年に鋳造された大きな時鐘がありました。もともとは1804(文化元)年に高岡町奉行・寺島蔵人が鋳造させた鐘があったのですが、すぐに割れ目ができてしまったそうです。坂下町の鍋屋仁左衛門は、高岡鋳物の声価を傷つけたことを悲しみ、自ら多額の寄付をし、浄財を集め、工人を督励してこの大鐘を作らせたとのこと。郷土の産業への深い愛情と誇りを感じさせてくれる話です。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-13 06:21 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(54):高岡(16.3)

 1時間20分ほどで金沢に到着、IRいしかわ鉄道(あいの風とやま鉄道)に乗り換えました。途中で、車窓から「木曽義仲ゆかりの地」という看板が見えましたが、倶利伽羅峠が近くにあるのですね。また石動(いするぎ)という駅がありましたが、山岳信仰の拠点、石動山がこのあたりにあるのでしょう。いずれも未踏の地ですが、時をあらためて再訪したいと思います。
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 四十分ほどで高岡駅に到着、高岡は以前に訪れたことがあるので、今回は再訪となります。いきなり出迎えてくれたのが、鋳物でできたドラえもんのポストです。「ドラえもん」の作者、藤子・F・不二雄(藤本弘)氏はここ高岡市出身、藤子不二雄A(安孫子素雄)氏は近くの氷見市出身、そして高岡は鋳物の産地ということで、このポストができたのですね。
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 駅前に出るとこちらでも「ドラえもん」の登場人物が勢揃い。それにしても、ずいぶんと小奇麗に再開発がなされてしまったものです。「もののあはれ」を感じたあのキッシュで胡散臭い雰囲気を懐かしく思い出しましたが、「アドニスビル」という雑居ビルがひとり孤塁を守っているので諒としましょう。なお"アドニス"とは、ギリシア神話に登場する、美と愛の女神アプロディーテーに愛された美少年ですね。その名称と、「24H 泊1800円」「サウナ プラザ」「パチンコ№1」「喫茶アドニス」とどう関係するのか不明ですが、オーナーのセンスに頭を垂れましょう。おっ、越前国司としてこのあたりに赴任し多くの秀歌をのこした大伴家持像も健在でした。御慶。
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 それでは夕食をとりましょう。駅ビルにあった「イタリアントマト」で、ご当地B級グルメの高岡ナポリタンをいただきました。ナポリタンに目玉焼きをのせると何故高岡ナポリタンなのか、ご教示を乞う。近くの酒屋で地酒「若駒」を購入し、駅に置いてあった観光パンフレットをいただきました。なお高岡のマスコットキャラクターは「利長くん」、高岡城を築いた加賀藩2代目藩主の前田利長をモチーフとしているそうです。プロフィールによると身長は2m30cm、ただし日によって、10cm~15cm程度の誤差があるとのこと。
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 ホテルに行く途中、愛くるしい眼のを発見、写真におさめました。そして「あさひシティーインホテル」にチェックイン、シャワーを浴びてビールを呑み、「若駒」を一献傾けながら明日の旅程に思いを馳せていると、いつの間にか熟睡…

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-12 06:19 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(53):高岡へ(16.3)

 それでは福井へ戻り、高岡へと移動しましょう。京福バスの永平寺ライナーに乗ると、三十分ほどでJR福井駅に到着しました。駅ビルにあった「おそばだうどんだ越前」で、ご当地B級グルメのソースかつ丼と焼き寿司をいただきました。特急「サンダーバード」の顔はめ看板を撮影し、北陸本線に乗って金沢を目指します。
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 さて、これで福井県とはお別れですが、最近気になるニュースが飛び込んできました。福井新聞(2019.3.11)の、"学力日本一の背景に「教員の犠牲」"という記事です。長文ですが引用します。
 午後8時を過ぎても、ほとんどの教員が職員室に残っている。残業が毎月100時間を超えるという福井県内の30代公立中学校教員は「現場の教員はタイムカードを切ってから仕事を続けたり、家に持ち帰ったりしている。自分が割りを食う分には文句を言われない」と話す。
 昨年9月の福井県教委の調査によると、県内公立中学校教員の平均勤務時間は平日1日当たり10時間51分。「休憩」の1時間を除いているが「休憩なんて全く取れない」。実働は12時間近いが、それでも2年前に比べ31分短くなった。土日の部活動を含めて月80時間以上残業する教員は26・8%。2年前から19・4ポイント減った。
 県教委は今年2月に働き方改革の方針を策定し、2021年度までに残業80時間超の教員ゼロを目標に掲げた。この教員は「県教委の方針に『これはしなくていい』という具体的な内容はない。学校の管理職も『早く帰れ』と言うだけで仕事の量は減らさない。調査の数字は実態を表していない」と淡々と語る。

 福井県内の公立中学校で働く県外出身の30代教員は、「福井の教育は教員の犠牲で成り立っている」と考えている。さらに「宿題をやり遂げる子どもの忍耐と家族の叱咤激励でも成り立っている」と続けた。
 「福井に比べ、宿題があまりに少なくて驚いた」。夫の転勤で子どもを県外の公立中学校に通わせたことがある福井市の会社員女性(35)は「福井に戻ってからは、子どもに全部やらせるのが大変」とこぼす。

 宿題の多さは、全国学力テストで福井の子どもたちが上位を維持する要因の一つとされる。特に中学では、学年共通の宿題に加え、各教科担任からも出される。福井県義務教育課の浦井寿尚課長は「宿題は教員が丸つけや添削をする必要があり、出せば出すほど教員にも負担になる」として、宿題の多さは「学習塾に通わなくても学びを定着させてあげたいという教員の熱意の表れでもある」と話す。
 現場には疑問もある。県外で勤務経験がある30代公立中学校教員は「宿題を全部提出できる子どもが基準で、個々の能力や特性に応じた内容や量になっていない」と指摘する。
 いやはや、福井県では学校のブラック化が相当苛烈な領域にまで入っているようです。それにしても、教員を、保護者を、何よりも生徒をここまで追い詰める全国学力テストって何なのでしょう。測定可能な断片的知識を生徒たちに詰め込んで、全国規模で生徒同士を、教員同士を、学校同士を、自治体同士を競争に巻き込むということだと思います。学力とは、本来「騙されない力」「嘘を見抜く力」「まともな市民として考え行動する力」だと考えますが、そうした力は一顧だにされていないようです。要するに政治家・官僚・財界など管理者(administrator)のみなさんは、子どもたちがまともな市民になっては困る、従順な国民になってほしいと願っているのでしょう。
 それでは管理者にとって、全国学力テストにはどのような利点があるのか。まず財政面です。テストの結果が思わしくない学校の予算を削る、担当した教員の給与を削る。数値という確固たる基準を根拠にするわけですから、反論・抵抗はきわめて難しいですね。
 次に、生徒を勉強嫌いにさせる。無味乾燥な断片的知識を競い合わせれば、嫌気がさすでしょう。大人になってテストがなくなれば必然的に勉強もしなくなる。問題は誰かがつくってくれるのではなく、自分でつくり、自分で学び考えて解決を見つけるのだということを知らない大人になってくれるでしょう。より良い社会を築くために、勉強は必要で、重要で、かつ喜ばしいものなのに。
最後に、生徒たちを多忙にさせる。スマートフォンと部活動と全国学力テストという"三種の神器"が揃えば、完璧です。多忙にさせることによって、読書の時間や考えるゆとりや政治への関心を奪えば、自立した市民ではなく利己的な消費者になるための素地をつくれます。
 香港の雨傘運動のリーダーの一人、周庭(アグネス・チョウ)氏が、初来日後のフェイスブックに次のように書き込まれたそうです。
 日本はかなり完璧な民主政治の制度を持っているが、人々の政治参加の度合い、特に若者のそれはかなり低い。日本に来て、私は初めて本当の政治的無関心とは何かを知った。
 香港では、強権を批判する約200万人参加のデモが起こり、日本では総選挙において半数近くの有権者が棄権する。日本人の政治参加の低迷と政治的無関心には、周庭氏をはじめ香港の方々はさぞ歯がゆい思いでしょう。民主政治の制度がある程度整っているのに、それを活用しない日本人。その理由のひとつが、この全国学力テストをはじめとする教育環境にあると考えます。政治に関心を持つな、政治運動に参加するな、政治的中立を保て[=体制を批判するな]、そんな囁きや有形無形の圧力が、日本の学校には満ち満ちているのではないかな。
by sabasaba13 | 2019-11-11 06:57 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(52):永平寺(16.3)

 苔むした石が並ぶ参道を歩いていると、気温が低いためもあってか、そこはかとない峻厳な空気を感じて背筋が伸びるようです。まずは一般参禅者が坐禅体験や写経体験をするための研修道場・吉祥閣(きちじょうかく)に入って、参拝料を支払い、ここから見学が始まります。
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 次は研修・宿泊のための部屋・傘松閣(さんしょうかく)、別名「絵天井の間」。2階に156畳敷きの大広間があり、その天井には昭和初期の有名な画家144人による230枚の日本画が埋め込まれています。
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 そしていよいよ七堂伽藍へ。山門、仏殿、僧堂、大庫院(だいくいん)、東司(とうす)、浴室、法堂(はっとう)という七つの重要な建物が回廊で結ばれています。山の斜面に合わせて建てられているため、建物は離れて建てられており、上り下りのある回廊をすこし歩くことになります。板敷からの寒気で気分が引き締められました。回廊を歩くにつれて景観が刻々と変わっていき、まだ降り続く雨の中、水墨画のように幽玄な風景を何枚も写真におさめました。時々すれちがう雲水(修行僧)の、凛とした佇まいに、あらためてここは修行の場なのだと感じ入りました。三月でこの寒さなのですから、厳寒の冬における修行の厳しさは想像すらできません。
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 というわけで、身も心も清新になれたようなひと時を過ごせました。これで鎌倉(新)仏教の中心寺院をすべて訪れたことになります。ちなみに、浄土宗の知恩院、浄土真宗の西本願寺と東本願寺、時宗の清浄光寺、日蓮宗の久遠寺、そして臨済宗の建仁寺です。なお『歴史の「常識」をよむ』(歴史科学協議会 東京大学出版会)のなかで、湯浅治久氏がこう指摘されていました。
 戦国仏教概念を提起したのは藤井学である。藤井は鎌倉(新)仏教の思想的革新性を認めながらも、その影響が鎌倉時代には限定されていたものであることを指摘し、鎌倉仏教の祖師たちの思想が社会全般に受容されるのは、むしろ室町から戦国時代であるという認識から、これを戦国仏教と呼ぶべきであると提唱した。(p.98)
 なるほど「戦国仏教」か。この永平寺も室町から戦国時代にかけてどのような活動をしていたのか、そして人びとの間に曹洞宗はどう浸透していったのか、興味があります。

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-10 06:43 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(51):永平寺(16.3)

 それでは永平寺へと向かいましょう。雨は小降りですが、いまだ降り続いています。やってきたバスに乗り込んで、車窓からの眺めを楽しんでいると、ちょこんと塔をのせた愛らしい駅舎がありました。古い駅舎かなと思い写真におさめましたが、いま調べてみると新しいものでした。古い駅舎は近くの「地域交流館」として再利用されているということなので、機会があったら訪れてみましょう。
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 そして三十分ほどで永平寺に到着しました。まずは『日本の歴史を旅する』(五味文彦 岩波新書1676)から引用します。
 鎌倉時代の北陸に新たな信仰をもたらしたのは曹洞宗であって、大陸に渡ってこれを日本に将来した道元が、比叡山の弾圧を受けたため、寛元元(1243)年7月、京の六波羅探題に仕えていた波多野義重の招きにより、その所領である越前の志比荘に移って大仏寺(永平寺)を開いた。
 それから十年、病のために永平寺を弟子の孤雲懐奘に譲って京に戻って死去するまで、「心の念慮・知見を一向捨てて、只管打座」という出家修行至上主義に基づいて、祈?や祭礼を否定し、礼仏や読経も余分なものと考え、信仰をつきつめていった。この永平寺の修行は峻厳なもので今に続いている。(p.94)
 なお松尾芭蕉が、ここに立寄っていたのですね。『奥の細道 朗読』から引用します。
【原文】 五十丁山に入て、永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避て、かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや。

【現代語訳】 五十丁山に入って、永平寺にお参りする。道元禅師が開基した寺だ。京都から千里も隔ててこんな山奥に修行の場をつくったのも、禅師の尊いお考えがあってのことだそうだ。
 白洲正子の『かくれ里』(講談社学芸文庫)にも永平寺のことが記されていました。
 越前へ取材に行った時、友達から、平泉寺にはぜひ行って来い、参道がいいし、苔も美しい。京都の苔寺の比ではない、とすすめられた。
 私は取材に行っても、いつも道草ばかり食う。編集者さんも心得ていて、快くつき合ってくれる。仕事はそこそこにして、平泉寺へ向ったのは、気持のいい秋晴れの朝であった。
 この寺は、勝山市の郊外にある。福井から九頭竜川を東へさかのぼると、三十分あまりで勝山に着く。途中、永平寺に立ちよったが、あまりの人込みに、早々にして退散した。こういう寺は、雪の時でもないと、ゆっくりお参りすることはできないかも知れない。(p.256)
 今日は雨模様のためかそれほど人込みもなく、落ち着いて参拝できそうです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-09 06:50 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(50):中野重治記念文庫(16.3)

 余談その二です。『世代を超えて語り継ぎたい戦争文学』(澤地久枝・佐高信 岩波現代文庫)を読んでいたら、中野重治に関する二つの文がありました。
澤地 それからもう一つ、五味川さんが日本の左翼運動に欠けていたと言ったのは、一田アキという女性詩人の「味噌汁」という詩の世界。
それは、人びとが暮らしから温かい味噌汁を奪われていることを書いたものです。アキは中野重治の妹の中野鈴子です。(p.62)

澤地 『川柳 東』の購読者に石堂清倫がいて、たいまつ社版『鶴彬全集』が出るとき、中野重治に紹介して推薦文を頼んだ。「鶴彬について、私は全くの無知ではなかった。…全像というべきものがぼんやり見えてきたのは、戦争のあと、それも近年、まつたく一叩人さんの力による」と書いています(「無知なままで」)。どんなに鶴彬が知られずにいたか。鶴彬のおかれていた状態と、一叩人の果たした役割をよく語っている中野さんの文章だと思います。(p.73)
 そういえば妹の中野鈴子に関しては、図書館に「坂井市の文学者」という解説がありましたので、転記します。
中野鈴子(1906‐1958)
 高椋村一本田に生まれる。中野重治の妹。
 小さい時から詩歌に強く興味を抱き、16歳の時に室生犀星の詩に激しく心を揺さぶられる。1929年に上京し、兄重治のもとでプロレタリア文化運動に参加、『味噌汁』『鍬』など多くの詩を発表した。その頃犀星との交誼が始まり、詩の創作活動を続けた。特に雑誌「働く婦人」の編集と発行に精力的に取り組んだ。
 1936年に結核治療をかねて帰郷。父母を助けて農業に従事した。1949年、有志とともに新日本文学会福井支部を結成し、1951年には文学誌「ゆきのした」を創刊。詩集にも『花もわたしを知らない』などがあり、『中野鈴子全著作集』が刊行されている。
1958年1月5日に肝硬変のため52歳で死去。
一本田の生家跡に、「花もわたしを知らない」と刻まれた文学碑がある。
 「味噌汁」という詩が気になって、インターネットで調べたのですが、一部しかわかりませんでした。
わたしはあなたの女房
わたしはあなたの女房なのに
逢ひに行けばガラス戸が下りてゐる
手紙を書けば消されてしまふ
わたしは時々泣く
わたしも下のおかみさんのやうに
あなたの茶わんに味噌汁がよそひたい
 うーん、いい詩ですね。労働運動により逮捕された夫に面会した時のものだそうです。庶民からささやかな団欒を奪う思想統制の苛烈さに対する、静かな嘆きと怒りが響いてきます。「中野鈴子」「味噌汁」、頭の引き出しにしまっておいて、何時の日にか巡り合えるときを楽しみにします。
by sabasaba13 | 2019-11-08 06:24 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(49):中野重治記念文庫(16.3)

 余談です。先日、『孤独な帝国 日本の1920年代』(ポール・クローデル 草思社文庫)を読了しました。フランス駐日大使にして詩人、そして彫刻家カミーユ・クローデルの弟のポール・クローデルの手記ですが、その巻末の解説で、平川祐弘氏がこう述べられていました。後学のために引用します。
 永井荷風は、森鴎外はクローデルの如く行動人homme d'actionであり文人homme de lettresであると讃えたが、中野重治は典型的なひがみ左翼で、官吏であり文学者であるような人を頭ごなしに罵る悪癖があり、詩《ポール・クローデル》でこう諷刺した。

ポール・クローデルは詩人であつた
ポール・クローデルは大使であつた
そしてフランスはルールを占領した

フランスの百姓は貯金した
それを金持が取りあげた
そして金持はマリアを拝んだ
そしてポール・クローデルはマリアを拝んだ
駐日フランス大使になつた
そしてポール・クローデルは詩をかいた

ポール・クローデルは詩をかいた
ポール・クローデルはお濠をまはつた
ポール・クローデルは三味線をひいた
ポール・クローデルはカブキを踊つた
ポール・クローデルは外交した

おゝ そして
つひにある日
ポール・クローデルが
シャルル・ルイ・フイリツプを追悼した

おゝ 偉大なポール
大使で詩人であるクローデル
『われらの小さなフイリツプ』が
彼の貧しい墓の下でいふだらう
『ポール・クローデルは大使になつた』 (p.386~7)

by sabasaba13 | 2019-11-03 06:51 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(48):中野重治記念文庫(16.3)

 また『日本の百年7 アジア解放の夢』(ちくま学芸文庫)に、特高の拷問で殺された小林多喜二への、魯迅による弔電が載っていました。1933年2月20日、非合法組織の同志と会うために都内の路上にいた所を、スパイの通報によって逮捕され、築地警察署の特高による拷問で同日に彼は殺されました。三時間の拷問で殺されたことから、持久戦で転向させる気など特高になく、明確な殺意があったのでしょう。『昭和史発掘4』(松本清張 文春文庫)には、その死体の様子が述べられています。
 医学博士安田徳太郎の指揮で死体の検査がはじまったが、頸には一まき、ぐるりと細紐の痕があった。よほどの力で絞めたらしく、くっきり深い溝になっている。頭には左コメカミの二銭銅貨大の打撲傷を中心に五、六ヵ所も傷痕があった。だが、さらに帯を解き、着物をひろげ、ズボンを脱がせたとき、一同は思わず顔をそむけた。
 毛糸の腹巻に半ば覆われた下腹部から左右の膝頭にかけて、下腹といわず、尻といわず、前も後もどこもかしこも、まるで墨とベニガラ(※酸化鉄を原料とする赤い顔料)をいっしょにまぜ塗り潰したような、何ともいえないほどの陰惨な色で一面に覆われている。その上、よほど大量な内出血があると見えて、腿の皮膚がぱっちり割れそうにふくらみ上がっている。そしてその太さが普通の人間の太腿の二倍もある。さらに赤黒い内出血は陰茎から睾丸におよび、この二つのものが異常な大きさにまで腫れ上がっていた。よく見ると、赤黒く膨れ上がった腿の上には左右とも、釘か錐かを打ち込んだらしい穴の跡が十五、六以上もあって、そこだけは皮膚が破れ、下から肉がじかに顔を出している。その肉の色が、また、アテナインキ(※丸善が販売していたペン用のインク)そのままの青黒さで、他の赤黒い皮膚面からはっきり区別されている。―と江口渙(あきら)はそう記している。
 「これまでやられては、もちろん、腸も破れているであろうし、膀胱もどうなっているか分らない。解剖したら腹の中は出血で一ぱいだろう」と、安田徳太郎が言った。(p.91)
 魯迅が送った弔電は、以下のものです。
同志小林の死を聞いて
 日本と支那との大衆はもとより兄弟である。資産階級は大衆をだましてその血で界をえがいた、またえがきつつある。
 しかし、無産階級とその先駆たちは血でそれを洗っている。
 同志小林の死はその実証の一だ。
 われわれは知っている。われわれは忘れない。
 われわれは堅く同志小林の血路に沿って前進し握手するのだ。(『プロレタリア文学』 1933年4・5合併号)
 魯迅に対する、藤野厳九郎の教育、内山完造の援助、改造社のエール、ケーテ・コルヴィッツの触発。そして魯迅からの、中野重治への激励、小林多喜二への弔意。国境や民族を超えた友愛と友情のネットワーク。人類を同胞としてみるこうした思想が戦争を食い止め、平和をもたらすのでだと確信します。
 しかし、"大衆をだましてその血で界をえがき"たい、大衆同士を敵対させて他国を蹂躙し、自国の利益=自分の利益を増やしたい資産階級にとっては、目障りで厄介なネットワークです。そこでこれを切断/分断するために、「ナショナリズム」を煽りたてるのでしょう。ジョージ・オーウェル曰く、"人間が昆虫と同じように分類できるものであり、何百万、何千万という人間の集団全体に自信をもって「善」とか「悪」とかのレッテルが貼れるものと思い込んでいる精神的習慣"です。オール・ジャパン=善、オール・チャイナ=悪。この陥穽にいともたやすくはまってしまう人があまりに多いのが悲しいのですが、この魯迅を核とする人類同胞のネットワークを思い起こすことで解毒剤にしたいと思います。
by sabasaba13 | 2019-11-02 07:19 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(47):中野重治記念文庫(16.3)

 魯迅が刊行したこの版画集については、宮本百合子による「ケーテ・コルヴィッツの画業」(青空文庫)という随筆があります。
 魯迅は一九三五年ごろに、中国の新しい文化の発展のために多大の貢献をした一つの仕事として、ケーテ・コルヴィッツの作品集を刊行した。その中国版のケーテの作品集には、ケーテの国際的な女友達の一人であるアグネス・スメドレイの序文がつけられた。スメドレイは進みゆく中国の真の友である。そしてアグネス・スメドレイの自伝風な小説「女一人大地を行く」の中に描かれているアメリカの庶民階級の娘としての少女時代、若い女性として独立してゆく苦闘の過去こそ、それの背景となった社会がアメリカであるとドイツであるとの違いにかかわらず、ケーテの描く勤労する女性の生活のまともな道と一つのものであることも肯ける。私たちにとってさらに今日感銘深いのは日本において、スメドレイの「女一人大地を行く」を初めて日本語に翻訳して、日本の婦人に一つのゆたかな力をおくりものとしてくれた人が、ほかならぬ尾崎秀実氏であったことである。
 魯迅、ケーテ・コルヴィッツ、中野重治、内山完造、アグネス・スメドレー、尾崎秀実、藤野厳九郎… 辱しめられ虐げられた人々のために悲しみ、叫びそして闘うための、国境や民族を超えた知の共同戦線を垣間見たような気がします。そしてこの共同戦線はまだまだ広がりそうです。例えば、『征きて還りし兵の記憶』(岩波現代文庫)の中で、高杉一郎はこう記しています。
 1936年の10月、おとなりの中国では、作家の魯迅が亡くなった。魯迅がみずから日本語で書いた原稿をもらったこともある改造社は、すぐに魯迅の個人的な教え子だった増田渉を編集責任者とする魯迅全集の出版を計画した。これは、日本の出版社による中国文学への連帯、日中不戦の意志の表明だったと言ってよかった。
 しかし、あくる1937年の7月7日には、日本の中国にたいする侵略戦争がはじまった。(p.187~8)

by sabasaba13 | 2019-11-01 06:22 | 中部 | Comments(0)