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福井・富山編(50):中野重治記念文庫(16.3)

 余談その二です。『世代を超えて語り継ぎたい戦争文学』(澤地久枝・佐高信 岩波現代文庫)を読んでいたら、中野重治に関する二つの文がありました。
澤地 それからもう一つ、五味川さんが日本の左翼運動に欠けていたと言ったのは、一田アキという女性詩人の「味噌汁」という詩の世界。
それは、人びとが暮らしから温かい味噌汁を奪われていることを書いたものです。アキは中野重治の妹の中野鈴子です。(p.62)

澤地 『川柳 東』の購読者に石堂清倫がいて、たいまつ社版『鶴彬全集』が出るとき、中野重治に紹介して推薦文を頼んだ。「鶴彬について、私は全くの無知ではなかった。…全像というべきものがぼんやり見えてきたのは、戦争のあと、それも近年、まつたく一叩人さんの力による」と書いています(「無知なままで」)。どんなに鶴彬が知られずにいたか。鶴彬のおかれていた状態と、一叩人の果たした役割をよく語っている中野さんの文章だと思います。(p.73)
 そういえば妹の中野鈴子に関しては、図書館に「坂井市の文学者」という解説がありましたので、転記します。
中野鈴子(1906‐1958)
 高椋村一本田に生まれる。中野重治の妹。
 小さい時から詩歌に強く興味を抱き、16歳の時に室生犀星の詩に激しく心を揺さぶられる。1929年に上京し、兄重治のもとでプロレタリア文化運動に参加、『味噌汁』『鍬』など多くの詩を発表した。その頃犀星との交誼が始まり、詩の創作活動を続けた。特に雑誌「働く婦人」の編集と発行に精力的に取り組んだ。
 1936年に結核治療をかねて帰郷。父母を助けて農業に従事した。1949年、有志とともに新日本文学会福井支部を結成し、1951年には文学誌「ゆきのした」を創刊。詩集にも『花もわたしを知らない』などがあり、『中野鈴子全著作集』が刊行されている。
1958年1月5日に肝硬変のため52歳で死去。
一本田の生家跡に、「花もわたしを知らない」と刻まれた文学碑がある。
 「味噌汁」という詩が気になって、インターネットで調べたのですが、一部しかわかりませんでした。
わたしはあなたの女房
わたしはあなたの女房なのに
逢ひに行けばガラス戸が下りてゐる
手紙を書けば消されてしまふ
わたしは時々泣く
わたしも下のおかみさんのやうに
あなたの茶わんに味噌汁がよそひたい
 うーん、いい詩ですね。労働運動により逮捕された夫に面会した時のものだそうです。庶民からささやかな団欒を奪う思想統制の苛烈さに対する、静かな嘆きと怒りが響いてきます。「中野鈴子」「味噌汁」、頭の引き出しにしまっておいて、何時の日にか巡り合えるときを楽しみにします。
by sabasaba13 | 2019-11-08 06:24 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(49):中野重治記念文庫(16.3)

 余談です。先日、『孤独な帝国 日本の1920年代』(ポール・クローデル 草思社文庫)を読了しました。フランス駐日大使にして詩人、そして彫刻家カミーユ・クローデルの弟のポール・クローデルの手記ですが、その巻末の解説で、平川祐弘氏がこう述べられていました。後学のために引用します。
 永井荷風は、森鴎外はクローデルの如く行動人homme d'actionであり文人homme de lettresであると讃えたが、中野重治は典型的なひがみ左翼で、官吏であり文学者であるような人を頭ごなしに罵る悪癖があり、詩《ポール・クローデル》でこう諷刺した。

ポール・クローデルは詩人であつた
ポール・クローデルは大使であつた
そしてフランスはルールを占領した

フランスの百姓は貯金した
それを金持が取りあげた
そして金持はマリアを拝んだ
そしてポール・クローデルはマリアを拝んだ
駐日フランス大使になつた
そしてポール・クローデルは詩をかいた

ポール・クローデルは詩をかいた
ポール・クローデルはお濠をまはつた
ポール・クローデルは三味線をひいた
ポール・クローデルはカブキを踊つた
ポール・クローデルは外交した

おゝ そして
つひにある日
ポール・クローデルが
シャルル・ルイ・フイリツプを追悼した

おゝ 偉大なポール
大使で詩人であるクローデル
『われらの小さなフイリツプ』が
彼の貧しい墓の下でいふだらう
『ポール・クローデルは大使になつた』 (p.386~7)

by sabasaba13 | 2019-11-03 06:51 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(48):中野重治記念文庫(16.3)

 また『日本の百年7 アジア解放の夢』(ちくま学芸文庫)に、特高の拷問で殺された小林多喜二への、魯迅による弔電が載っていました。1933年2月20日、非合法組織の同志と会うために都内の路上にいた所を、スパイの通報によって逮捕され、築地警察署の特高による拷問で同日に彼は殺されました。三時間の拷問で殺されたことから、持久戦で転向させる気など特高になく、明確な殺意があったのでしょう。『昭和史発掘4』(松本清張 文春文庫)には、その死体の様子が述べられています。
 医学博士安田徳太郎の指揮で死体の検査がはじまったが、頸には一まき、ぐるりと細紐の痕があった。よほどの力で絞めたらしく、くっきり深い溝になっている。頭には左コメカミの二銭銅貨大の打撲傷を中心に五、六ヵ所も傷痕があった。だが、さらに帯を解き、着物をひろげ、ズボンを脱がせたとき、一同は思わず顔をそむけた。
 毛糸の腹巻に半ば覆われた下腹部から左右の膝頭にかけて、下腹といわず、尻といわず、前も後もどこもかしこも、まるで墨とベニガラ(※酸化鉄を原料とする赤い顔料)をいっしょにまぜ塗り潰したような、何ともいえないほどの陰惨な色で一面に覆われている。その上、よほど大量な内出血があると見えて、腿の皮膚がぱっちり割れそうにふくらみ上がっている。そしてその太さが普通の人間の太腿の二倍もある。さらに赤黒い内出血は陰茎から睾丸におよび、この二つのものが異常な大きさにまで腫れ上がっていた。よく見ると、赤黒く膨れ上がった腿の上には左右とも、釘か錐かを打ち込んだらしい穴の跡が十五、六以上もあって、そこだけは皮膚が破れ、下から肉がじかに顔を出している。その肉の色が、また、アテナインキ(※丸善が販売していたペン用のインク)そのままの青黒さで、他の赤黒い皮膚面からはっきり区別されている。―と江口渙(あきら)はそう記している。
 「これまでやられては、もちろん、腸も破れているであろうし、膀胱もどうなっているか分らない。解剖したら腹の中は出血で一ぱいだろう」と、安田徳太郎が言った。(p.91)
 魯迅が送った弔電は、以下のものです。
同志小林の死を聞いて
 日本と支那との大衆はもとより兄弟である。資産階級は大衆をだましてその血で界をえがいた、またえがきつつある。
 しかし、無産階級とその先駆たちは血でそれを洗っている。
 同志小林の死はその実証の一だ。
 われわれは知っている。われわれは忘れない。
 われわれは堅く同志小林の血路に沿って前進し握手するのだ。(『プロレタリア文学』 1933年4・5合併号)
 魯迅に対する、藤野厳九郎の教育、内山完造の援助、改造社のエール、ケーテ・コルヴィッツの触発。そして魯迅からの、中野重治への激励、小林多喜二への弔意。国境や民族を超えた友愛と友情のネットワーク。人類を同胞としてみるこうした思想が戦争を食い止め、平和をもたらすのでだと確信します。
 しかし、"大衆をだましてその血で界をえがき"たい、大衆同士を敵対させて他国を蹂躙し、自国の利益=自分の利益を増やしたい資産階級にとっては、目障りで厄介なネットワークです。そこでこれを切断/分断するために、「ナショナリズム」を煽りたてるのでしょう。ジョージ・オーウェル曰く、"人間が昆虫と同じように分類できるものであり、何百万、何千万という人間の集団全体に自信をもって「善」とか「悪」とかのレッテルが貼れるものと思い込んでいる精神的習慣"です。オール・ジャパン=善、オール・チャイナ=悪。この陥穽にいともたやすくはまってしまう人があまりに多いのが悲しいのですが、この魯迅を核とする人類同胞のネットワークを思い起こすことで解毒剤にしたいと思います。
by sabasaba13 | 2019-11-02 07:19 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(47):中野重治記念文庫(16.3)

 魯迅が刊行したこの版画集については、宮本百合子による「ケーテ・コルヴィッツの画業」(青空文庫)という随筆があります。
 魯迅は一九三五年ごろに、中国の新しい文化の発展のために多大の貢献をした一つの仕事として、ケーテ・コルヴィッツの作品集を刊行した。その中国版のケーテの作品集には、ケーテの国際的な女友達の一人であるアグネス・スメドレイの序文がつけられた。スメドレイは進みゆく中国の真の友である。そしてアグネス・スメドレイの自伝風な小説「女一人大地を行く」の中に描かれているアメリカの庶民階級の娘としての少女時代、若い女性として独立してゆく苦闘の過去こそ、それの背景となった社会がアメリカであるとドイツであるとの違いにかかわらず、ケーテの描く勤労する女性の生活のまともな道と一つのものであることも肯ける。私たちにとってさらに今日感銘深いのは日本において、スメドレイの「女一人大地を行く」を初めて日本語に翻訳して、日本の婦人に一つのゆたかな力をおくりものとしてくれた人が、ほかならぬ尾崎秀実氏であったことである。
 魯迅、ケーテ・コルヴィッツ、中野重治、内山完造、アグネス・スメドレー、尾崎秀実、藤野厳九郎… 辱しめられ虐げられた人々のために悲しみ、叫びそして闘うための、国境や民族を超えた知の共同戦線を垣間見たような気がします。そしてこの共同戦線はまだまだ広がりそうです。例えば、『征きて還りし兵の記憶』(岩波現代文庫)の中で、高杉一郎はこう記しています。
 1936年の10月、おとなりの中国では、作家の魯迅が亡くなった。魯迅がみずから日本語で書いた原稿をもらったこともある改造社は、すぐに魯迅の個人的な教え子だった増田渉を編集責任者とする魯迅全集の出版を計画した。これは、日本の出版社による中国文学への連帯、日中不戦の意志の表明だったと言ってよかった。
 しかし、あくる1937年の7月7日には、日本の中国にたいする侵略戦争がはじまった。(p.187~8)

by sabasaba13 | 2019-11-01 06:22 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(46):中野重治記念文庫(16.3)

 佐喜眞氏が読んだ魯迅の文章とは、おそらく『魯迅選集 第十二巻』(岩波書店)におさめられている且介亭雑文末編(1936)「深夜に記す」でしょう。長文ですが引用します。
一 コルヴィッツ教授の版画、中国に入ること

 野外に、紙銭を焼いた灰が積っており、朽ちた土塀に、いくつかの画が書きつけてあっても、通りすがりの人は、大抵注意して見ようとはしない。しかしこれらの中には、それぞれ何らかの意義がこめられているのである。愛か、悲哀か、憤怒か、…しかも往々にしてそれらは叫び出されたものよりも一層強烈である。そしてまたその意義のわかる人もいくらかはいるのである。
 一九三一年-何月であったか忘れた-創刊後まもなく禁止された雑誌『北斗』の第一号に、一人の母親が、悲しげに眼を閉じ、彼女の子供を差し出している一葉の木版画が載った。これはコルヴィッツ教授(Prof. Kaethe Kollwitz)の木版連続画「戦争」の第一葉で、「犠牲」と題されたものであり、また彼女の版画が中国に紹介された最初のものでもあった。
 この木版画は私の寄せたもので、柔石が殺されたことの記念としようとしたものである。彼は私の学生、友人であり、共に外国の文芸を紹介した人である。とりわけ木版画を好み、かつて欧米作家の作品を三冊、印刷はあまり好くはなかったが、編集して刊行したことがあった。しかし、なぜか知らぬが、突然逮捕され、まもなく竜華で他の五人の若い作家たちと一緒に銃殺された。当時の新聞には何の記事も載らなかった。多分、載せることを憚り、また実際できもしなかったのであろう。しかし多くの人は、誰しも彼がこの世にいないであろうことを知っていた。というのは、これはよくあることであったから。ただ、彼のあの両眼盲いた母親だけは、私は知っているが、彼女はきっと、彼女の愛する息子が今日もなお上海で翻訳や校正をしていることと思っているであろう。たまたまドイツの書店の目録でこの「犠牲」を見出したので、これを『北斗』へ投じて、私の無言の記念としたわけであった。しかし、後に知ったのであるが、多くの人々がそれに含まれた意義を感じ取っていたのであった。もっとも、彼らは大抵、殺されたすべての人を記念したものと思っていたのではあったが。
 ちょうどこの時、コルヴィッツ教授の版画集はヨーロッパから中国への途上にあった。だが、上海に着いたときには、その熱心な紹介者はすでに地中に睡っており、我々はその場所すらも知らないのである。よろしい、それなら私がひとりで見よう。そこにあるのは貧困と、疾病と、飢餓と、死とである…むろん抵抗と闘争もあるが、割合に少い。これは正に、顔に憎しみと憤りとを泛べながらも、慈愛と憐憫との方がさらに多くうかがわれる作者の自画像と同じものである。これは、すべての「辱しめられ虐げられた」母親の心の画像である。こういう母親は、中国のまだ爪を赤く染めぬ田舎にも、よくいる。しかし人々は、母親というのは役に立たない息子ばかり可愛がるものだといって、彼女のことを嗤うのである。だが、思うに彼女は役に立つ息子をも可愛がるのである。ただ、すでに健康でしかも能力もあるから、彼女は安心して、「辱しめられ虐げられた」子供の方へ心を向けるのである。
 いまや、彼女の作品の複製二十一葉が、それを証明している。その上それは、中国の青年芸術学徒に、次のような利益をもあたえてくれる-
 一、この五年来、木版画は、つねに迫害を蒙りながらではあったが、すでに大いに広まって来た。だが、その他の版画は、ややまとまったものとしては、ツォルン(Anders Zorn)に関する本が一冊あるばかりである。今日紹介されたのは、すべて銅版と石版であって、読者に、版画の中にはこういう作品もあり、油絵などよりはるかに普及しやすいものであることを知らせてくれ、しかも、ツォルンとはおよそ異なった技法や内容を見せてくれた。
 二、外国へ行ったことのない人は、白色人種といえば、すべて人を見ればイエスのお説教をするか、商社を開き、美衣美食をして、少し気に食わぬことがあればやたらと皮靴で人を蹴飛ばすものと思いがちである。だが、この画集をもったことで、世界にはその実どこにも我々と同じ仲間である「辱しめられ虐げられた」人があり、しかもその上に、これらの人々のために悲しみ、叫びそして闘っている芸術家がいるということがわかる。
 三、今日、中国の新聞の多くは大口を開いて叫んでいるヒトラーの写真を好んで掲載している。撮された時は一時的な姿勢であったろうが、写真では永久にこの姿勢であるから、沢山見ているうちには疲らされてしまう。そしていま、ドイツ芸術家の画集によって、種類の違う人を見たわけである。それは、決して英雄ではないが、親しみやすく、心が通じやすく、しかも見れば見るほど、美しさを覚え、ますます人を打つ力をもっているのを覚えさせるものである。
 四、今年は柔石が殺されてから満五年であり、また作者の木版画が中国に姿を現わしてから五年目でもある。しかも作者は、中国式に計算してみれば、七十歳で、これも記念としてよいだろう。作者も今日、沈黙を余儀なくされているにもかかわらず、彼女の作品は、更に沢山、極東の天下に姿を現わしている。そうだ。人類のための芸術は、別の力をもっては阻止できないのだ。(p.7~9)
 魯迅も、ケーテと共に、辱しめられ虐げられた人々のために悲しみ、叫びそして闘おうとしたのでしょう。そして中野にもその一翼に連なってほしいとの願いを込めて、この版画集を贈ったのだと思います。
by sabasaba13 | 2019-10-31 06:20 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(45):中野重治記念文庫(16.3)

 そして厖大な蔵書をおさめた本棚を拝見。その読書量と関心の広範さには圧倒されました。おっ、『魯迅選集』が全巻揃っているぞ、彼は魯迅のファンだったのですね。
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 うっ 思わず息を呑みました。ある画集に、下記のような解説がありました。
魯迅編『ケーテ・コルヴィッツ版画選集』
限定103部の製本の第36番目。
重治の転向を残念がった魯迅が晩年、激励のために贈ったもの。
 魯迅と中野重治は知己だったのか… しかも失意の彼を慰めるためにわが愛するケーテ・コルヴィッツの版画集を贈っていたとは驚きました。それではケーテ・コルヴィッツとはどういう人物か、『ケーテ・コルヴィッツとの出会い』(佐喜眞美術館館長・佐喜眞道夫 「いい旅 いい仲間」№62 2017.1.1 富士国際旅行社)から引用します。
 ケーテ・コルヴィッツKathe Kollwitz(1867‐1945年)は東プロイセンに生まれ、二つの世界大戦の惨禍を経験したドイツを代表する版画家・彫刻家です。彼女は第一次世界大戦で息子を、第二次世界大戦で孫を失いました。私がコルヴィッツを知ったのは、学生時代に読んだ魯迅の文章でした。それから十数年後、「死んだ子を抱く母」(1903年)に銀座の画廊で出会いました。その絵の激しさに、最初は動物が子どもを喰っているのか、と思ったほどでした。あまりの悲しみで母親の顎は抱きしめている息子の胸に喰い込んでいるのです。これほど深い愛情表現を私は見たことがありませんでした。その後、なんとか工面してこの版画を手に入れ、画廊から自宅に持ち帰るときの心の高ぶりを今でも忘れることができません。この瞬間から私のコルヴィッツ・コレクションは始まり現在60点所蔵しています。
 彫刻作品「ピエタ」(1937/38年)は、ヒットラー政権下、次の世界大戦へと突き進む絶望的予感の中で制作されました。母親が戦死した息子をひざの間でひしと抱きしめ悲しみに沈んでいます。この像は、戦死した次男ペーターへの母としての二十年間に及ぶ長い悲しみと思索の果ての作品です。切なく悲しいその造形は、いま世界中で息子の戦死を哀しみ苦しんでいる母親の心とつながっています。コルヴィッツの作品は、いのちへの深い信頼に基づいているが故に、歴史の闇をも突き抜ける強さがあります。その強さは、現代のさまざまな問題をも照射し、暗黒の時代を生きた魯迅を励ましたように、いま私たちを励まし続けています。
 現在「ピエタ」像は、2mの大きさに拡大されてドイツの戦争犠牲者のための国立記念館ノイエヴァッフェに静かに展示されています。ドイツはこの芸術作品で戦没者を追悼しているのです。
 孫への手紙に「平和主義をたんなる反戦と考えてはなりません。それは一つの新しい理想、人類を同胞としてみる思想なのです。」と書いたコルヴィッツの思想をいまこそ、私たちはしっかりとかみしめなければならないと思います。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-10-30 06:19 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(44):中野重治記念文庫(16.3)

 そしてすぐ近くにある坂井市立丸岡図書館に参りました。お目当ては、中野重治記念文庫です。まずはブリタニカ国際大百科事典から、彼についての紹介を転記します。
中野重治 (1902-1979)
 小説家、評論家、詩人。第四高等学校を経て 1927年東京大学独文科卒業。在学中から室生犀星の影響を受けて短歌や詩への関心を深め、また、林房雄らとの交友によりマルクス主義に近づいた。26年堀辰雄、窪川鶴次郎らと詩誌『驢馬』を創刊、『夜明け前のさよなら』(1926)、『歌』(26)などを発表。28年ナップに参加、検挙投獄、転向、執筆禁止などを経て、第2次世界大戦後は民主主義文学者の結集に努力、新日本文学会の発起人となった。47~50年日本共産党の参議院議員。64年党の方針と対立して除名された。『中野重治詩集』(35)、小説『歌のわかれ』(39)、『むらぎも』(54)、『甲乙丙丁』(65~69)、評論『斎藤茂吉ノオト』(40~41) がある。
 実はお恥ずかしい話、彼の作品は「雨の降る品川駅」という詩しか読んだことがありません。読もう読もうと思いながら、ここまで齢を重ねてしまいました。これを機に、ぜひ読んでみようと思います。

 丸岡図書館は大きな瓦屋根と白壁が印象的な平屋建て。中に入ると、図書館特有の凛としながらもどこか優しい雰囲気が漂います。図書館へのオマージュは『ニューヨーク公共図書館』の映画評で記したので、よろしければご笑覧ください。司書の方に、記念文庫を見学したい旨を申し出ると、鍵を開けて中に入れてくれました。この記念文庫には、福井県坂井郡高椋村(現在の坂井市丸岡町)一本田に生まれた中野重治の蔵書約1万3千冊が収蔵され、高田博厚作の中野重治胸像や原稿、愛用品などの遺品が展示されています。
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 万年筆、蕎麦猪口、矢立、室生犀星から贈られた木彫、『梨の花』原稿(複製)などを興味深く拝見。晩年、彼が外出の際必ず携行した定期入には、「私(中野重治)は耳、心臓に欠陥あり 万一のときは榊原記念病院へ運ばれたし 渋谷区代々木2‐5‐4 電 3751-3111 (代)」と記した紙片が入っていました。
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 また三冊の『中野重治詩集』がガラスケースの中に展示してありました。
ナップ出版部版 (1931年10月刊行) 警察に押収され発行を禁止された。これは伊藤信吉の手でただ一冊残されたもの。
ナウカ社版 (1935年12月刊行) 伏字あり。カット頁あり。
小山書店版 (1947年7月刊行) 伏字のない最初の詩集。
 当時、社会主義者の置かれていた状況を彷彿とさせます。なお「ナップ」とは、全日本無産者芸術連盟のエスペラント語Nippona Proleta Artista Federacio(NAPF)の頭文字を組み合わせた略称です。1928年、三・一五事件を契機に、それまで分裂していたプロレタリア芸術連盟(中野重治ら)と前衛芸術家連盟(蔵原惟人ら)とが合同して結成されました。5月に創刊された機関誌《戦旗》には、小林多喜二、徳永直、三好十郎らの新人が登場しました。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-10-29 06:19 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(43):丸岡(16.3)

 気をつけて急な梯子を下り、それでは坂井市立丸岡図書館を訪れることにしましょう。途中に「日本一短い手紙」を列記した掲示があり、その近くには「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ 一筆啓上茶屋」という看板がありました。
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 どこかで聞いたことがあるなあ、この手紙。いま調べてみると、この手紙は、徳川家康の忠臣・本多作左衛門重次が、長篠の合戦(1575)の折、陣中から妻に宛てて送ったものだそうです。短い文章の中に大事なことが簡潔明瞭に言い尽くされているので日本一短い手紙というわけです。なお「お仙」とは重次の息子である仙千代、後の初代丸岡藩主になる本多成重のことです。
 そして日本で一番古い丸岡城に日本一短い手紙文があることを全国に知ってもらうとともに、活字やメールでは伝わらない本物の手紙文化の復権を目指すという目的で、1993年に始まったのが全国初の手紙のコンクール、一筆啓上賞というわけです。後学のために、2018年度の大賞のうち、私が気に入った作品を紹介します。お題は「先生」です。
「校長先生」へ
僕の事、知ってますか? 僕は全体の中の一人です。いつか見つけてみて下さい。
 うわお、永田くん、鋭い。All in all you're just another brick in the wall. 子どもたちを、壁を作るための煉瓦にしようとする教育を痛烈に皮肉るピンク・フロイドの「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール」を思い出しました。そして校長が全生徒のことを知らない/知り得ない、つまり十分な数の教員を配置して小規模な学校をつくろうとしない、教育予算を出し惜しむこの国のお寒い現状を見事に言い当てています。A-35は爆買いするのにね。
 生徒を管理・統制するために置かれた国家権力の端末、それが日本の教育における校長の役割なのでしょうね。でも違うやり方を採っている国もあるということは銘肝しましょう。以前に読んだある本にイタリアの小学校の校長先生へのインタビューがあり、「どうやって校長を決めるのか?」という質問に対して「教員が互選で決める」と答えていました。また「最も重要な教育の使命は?」という質問に対して、彼は「地域との連帯」と答えていました。嗚呼なんという高潔な志であることよ。日本の校長先生に同じ質問をしたら、きっと「偏差値の高い上級学校に一人でも多くの生徒を送り込むこと」とか「新聞ざたになるような/教育委員会に睨まれるような事件を起こさせないこと」と答えそうな気がします。
 気が滅入ることばかり書いて申し訳ない、永田くん。せめて励ましの意を込めて、西村伊作の言葉を贈ります。
 われわれの思想を、自由に実現することのできる文化学院が生まれるのを真によろこんで、まじめな芸術の精神をもってやろうとしている。
 芸術に生きる。強いない。画一的に人をつくらない。各々の天分を伸ばす。不得手なものを無理にさせない。機械的な試験をしない。競争的に成績を挙げさせない。
 身体と精神を損ずることのないようにする。
 生徒のみの教育ではなく、一般教育界の模範となり、参考となるように努める。
 小さくて善い学校。素人がよい。
 魯迅だったら、藤野先生にどんな短い手紙を出すでしょうか。
by sabasaba13 | 2019-10-27 08:10 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(42):丸岡城(16.3)

 まずは外観をしげしげと眺めて写真を撮りました。石の瓦と大きな鯱が印象的な、武骨で剛毅なお城です。さっそく入城料を支払って、中に入りましょう。入口までは急な石段で、この時点で城のやる気が伝わってきました。外観は二階建てに見えますが、内部は三階建です。内部は、飾り気のない板張りの広間となっており、「石落とし」や「狭間(さま)」が随所に見られました。驚いたのは、階段がほぼ直角に近い急勾配なことです。階段とよりは梯子ですね。設置されていたロープにつかまってやっと上ることができました。これでは攻め入った敵兵もさぞや苦労することでしょう。「かかってこい」というオーラをびしびし発していました。
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 最上階からは曇天のもと丸岡の街並みが一望できました。石瓦もよく見えましたが、これは福井県産の緑色凝灰岩である笏谷石(しゃくだにいし)を石工が加工したもので、天守にかかる重さは100トン以上になるそうです。
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 なお、この後で訪れた中野重治文庫でいただいたパンフレットに、丸岡出身の中野重治がこの城のことを綴った随筆「私の故郷・実用品の美」が掲載されていたので紹介します。
 この丸岡には柴田勝豊か誰かの築いた城がある。この城は朴訥でいい恰好をしていた。つまり工藝品、美術品としてでなくて、戦のために造られた城だということが素人眼にもわかる類のものだつた。私としていえば、子供のとき毎日のようにこの城を見ていたことが、美ということについてのある種の基礎を私にやしなってくれたかもしれぬと思う。
 この城そのものがつまり実用品なのだつたが、私の育つたのは農村でだつたから、そこにはまず実用品だけがあつた。実用品しかなかつたといつてもいい。それが私に実用品の美ということを教えた。またそんなものを作ることの楽しさ、美しさを教えた。臼とか杵とかいつたもの、鎌の刃の湾曲度といつたもの、釣瓶、自在、梯子、藁屋根の破風といつたものにたいする、その美とそれを作ることのすばらしさとにたいする讃嘆の念のようなものを子供に養つたと思う。昭和47年(1967)3月号『エキスプレス』より抜すい

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-10-26 07:59 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(41):丸岡(16.3)

 それでは丸岡へと向かいましょう。幸い直通のバスがあり、一時間弱で丸岡に到着しました。なお次の目的地、永平寺までのバスにここから乗れるので発車時刻を確認。一日四本ですが、11時58分発のバスがありました。よろしい、それまでにこのバス停に戻りましょう。地図がないので、お城はどこにあるか地元の方に訊こうとうろうろしていたら、堀の向こうに天守が遠望できました。よろしい、あちらに向かって歩きましょう。途中にあったのが、丸岡城を模したのでしょうか、石屋根に鯱が乗った二階建てのド派手な電話ボックス。おまけに時計までついております。このお金を福祉や教育に使えばいいのになあ、利権の匂いがするなあ、と思いつつ歩を進めました。
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 そして現存十二天守の一つ、丸岡城に着きました。やった、これで現存十二天守はすべて制覇しました。まずは福井県坂井市Web旅ナビから、丸岡城の歴史について紹介しましょう。
 丸岡城築城前、この辺りの拠点は丸岡城より東方約4kmのところにあった「豊原寺」でした。豊原寺は、三千坊ともいわれる宿坊が立ち並ぶ大きな門前を有していました。
 1573年、織田信長は、当時越前を治めていた戦国武将「朝倉義景」を討ち、都があった一乗谷を焼き払いました。すると、豊原寺をはじめとしたこの辺りの一向宗の勢力が増したため、1575年、再度織田信長が「越前平定」のため越前に攻め入り、豊原寺などの一向宗の拠点を焼き尽くしました。
 その後、柴田勝家の甥「柴田勝豊」がその豊原の地に居を構えましたが、翌1576年「まるこの岡」と呼ばれていた現在の丸岡城の場所に城を移しました。
 江戸・明治・大正と丸岡の町のシンボルだった丸岡城は、昭和9年には国宝の指定を受けました。しかし、昭和23年の福井大震災により天守閣が倒壊してしまい、現在の丸岡城は、当時の建材等を使って昭和30年に再建されたものです。
 全国各地には、城やそれに関係する場所がいくつもありますが、現存する天守閣は全国で12しかなく、北陸では、丸岡城のみ。この丸岡城は、現存する最古の建築様式を有しているとされ、戦後に定められた「文化財保護法」で、天守閣は国重要文化財の指定を受けています。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-10-25 06:26 | 中部 | Comments(0)