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福井・富山編(40):藤野厳九郎記念館(16.3)

 そして一番感銘を受けたのは、魯迅に贈られた藤野厳九郎のポートレートです。裏には「惜別 藤野 謹呈周君」と記されています。そしてこのポートレートが飾られている魯迅の書斎の写真。
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 ふたたび『藤野先生』から引用します。
 出発の二、三日前、彼は私を家に呼んで、写真を一枚くれた。裏には「惜別」と二字書かれていた。(p.249)

 だが、なぜか知らぬが、私は今でもよく彼のことを思い出す。私が自分の師と仰ぐ人のなかで、彼はもっとも私を感激させ、私を励ましてくれたひとりである。よく私はこう考える。彼の私にたいする熱心な希望と、倦まぬ教訓とは、小にしては中国のためであり、中国に新しい医学の生れることを希望することである。大にしては学術のためであり、新しい医学の中国へ伝わることを希望することである。彼の性格は、私の眼中において、また心裡において、偉大である。彼の姓名を知る人は少いかもしれぬが。
 彼が手を入れてくれたノートを、私は三冊の厚い本に綴じ、永久の記念にするつもりで、大切にしまっておいた。不幸にして七年前、引越しのときに、途中で本箱を一つこわし、そのなかの書籍を半数失った。あいにくこのノートも、失われたなかにあった。運送屋を督促して探させたが、返事もよこさなかった。ただ彼の写真だけは、今なお北京のわが寓居の東の壁に、机に面してかけてある。夜ごと、仕事に倦んでなまけたくなるとき、仰いで灯火のなかに、彼の黒い、痩せた、今にも抑揚のひどい口調で語り出しそうな顔を眺めやると、たちまち私は良心を発し、かつ勇気を加えられる。そこでタバコに一本火をつけ、再び「正人君子」の連中に深く憎まれる文字を書きつづけるのである。(p.250~1)
 中国脅威論だの反中だの、きな臭い話をよく耳にしますが、「オールジャパン」対「オールチャイナ」のような単純な二項対立に陥ることは現に慎みたいと思います。藤野先生と魯迅、この二人のように、たとえ異邦人であろうとも互いを人間として敬う、それが難しいのであれば人間として接する心を持ちたいものです。太宰治に、この二人を題材とした『惜別』という小説がありますが、その中で藤野先生はこう言っていました。
 「…何もむずかしく考える事はない」 先生は笑いながら立ち上り、「一口で言えるやないか? 支那の人を、ばかにせぬ事。それだけや」
 というわけで、たいへん充実した時を過ごせました。なお中国の方々が訪れていて、熱心に説明を聞いておられたのが印象的でした。私もいつの日にか、上海にある魯迅の史跡や、北京魯迅博物館を訪れてみたいものです。

 本日の三枚です。
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 追記です。前述の『魯迅選集 第二巻』(岩波書店)に所収されている、竹内好による解説を紹介します。
 1935年、佐藤春夫、増田渉共訳の『魯迅選集』が岩波文庫から出るとき、作品に何を選んだらよいか魯迅に問い合わせたところ、選集は勝手にしてよろしいが「藤野先生」だけは入れてほしい、という注文があった。藤野厳九郎氏の行方を魯迅は気にしていたのである。しかし魯迅の生前、その所在は確められなかった。歿後、魯迅の名がジャーナリズムに評判になってはじめて、藤野先生が当時まだ、福井県坂井郡雄島村に健在であることがわかった。(p.286)
 満州事変、「満州国」設立、華北侵略といった日本による中国侵略が押し進められているなかで、魯迅による日本の民衆への友好のメッセージも込められていたのではないでしょうか。そんな気がしてなりません。
by sabasaba13 | 2019-10-24 06:19 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(39):藤野厳九郎記念館(16.3)

 日露戦争幻灯タネ板(複製)は、1965年に東北大学医学部細菌学教室で発見されたものです。魯迅を大きく変えたあの幻灯は、この中の一枚だったのでしょうか。『藤野先生』にはこうあります。
 第二学年では、細菌学の授業が加わり、細菌の形態は、すべて幻燈で見せることになっていた。一段落すんで、まだ放課の時間にならぬときは、時事の画片を映してみせた。むろん、日本がロシアと戦って勝っている場面ばかりであった。ところが、ひょっこり、中国人がそのなかにまじって現れた。ロシア軍のスパイを働いたかどで、日本軍に捕えられて銃殺される場面であった。取囲んで見物している群集も中国人であり、教室のなかには、まだひとり、私もいた。
 「万歳!」 彼らは、みな手を拍って歓声をあげた。
 この歓声は、いつも一枚映すたびにあがったものだったが、私にとっては、このときの歓声は、特別に耳を刺した。その後、中国へ帰ってからも、犯人の銃殺をのんきに見物している人々を見たが、彼らはきまって、酒に酔ったように喝采する-ああ、もはや言うべき言葉はない。だが、このとき、この場所において、私の考えは変わったのだ。
 第二学年の終りに、私は藤野先生を訪ねて、医学の勉強をやめたいこと、そしてこの仙台を去るつもりであることを告げた。彼の顔には、悲哀の色がうかんだように見えた。何か言いたそうだったが、ついに何も言い出さなかった。(p.249)
 なお『魯迅選集 第一巻』(岩波書店)所収の「吶喊」自序で、この変化について魯迅はもう少し詳しく語っています。
 あのことがあって以来、私は、医学など少しも大切なことではない、と考えるようになった。愚弱な国民は、たとい体格がどんなに健全で、どんなに長生きしようとも、せいぜい無意味な見せしめの材料と、その見物人になるだけではないのか。病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。されば、われわれの最初になすべきこと任務は、彼らの精神を改造するにある。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった。(p.9)

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2019-10-23 06:18 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(38):藤野厳九郎記念館(16.3)

 魯迅の親友であった内山完造が、藤野厳九郎に送った手紙も展示してありました。解説文を転記します。
 内山書店店主 内山完造(1885‐1959) 魯迅の崇拝者であると共に親しい友人であった。岡山県に生れた内山完造は、大阪と京都で徒弟奉公をした後、目薬の販売員として大正4年(1915)上海市北四川路に一家を構え、これが発展して内山書店となった。魯迅は1927年広州を去って上海に移ったが、まもなく内山書店を訪れるようになり、書店の客としてのみではなく、死去に至るまで内山完造と親しい交友を続けた。そのため、魯迅死去に際して、内山完造は日本人としてただ一人、葬儀委員に選ばれた。
 この手紙は、魯迅死去8年後に中国紙に載った、魯迅の日本留学時代についての記事の切り抜きを藤野厳九郎に送ったものである。記事の内容中、藤野厳九郎に関する部分は、小田嶽夫の『魯迅伝』(昭和16年(1941)筑摩書房)の記載によっている。
 戦後日本に引き揚げた内山完造は、日中友好に尽くしたが、昭和34年(1959)友人たちのすすめで病気療養のために中国へ渡り、北京で客死した。
 内山完造、記憶にとどめたい人物です。以前に『伝説の日中文化サロン 上海・内山書店』(太田尚樹 平凡社新書436)の書評でも書きましたが、内山書店が営まれていた1917年から1945年といえば、二十一か条要求、五・四運動、第一次国共合作とその破綻、北伐、満州事変と第一次上海事変、そして日中戦争と第二次上海事変など、激動の時代です。その中で内山完造は魯迅や郭沫若たちとの友情を育み、そして身を挺して国民党の弾圧から彼らを護りました。「友人を敵に売り渡さない人間は、日本人の中にだっていますよ」とは彼の言です。特に中国の独立を求めて闘い続けた魯迅にとって、情報の発信と入手、さまざまな援助、隠れ家の提供など内山完造の存在がいかに大きなものであったか。著者の太田氏は「親友であると同時に確固たる兵站部」と表現されています。
 その彼が、藤野厳九郎にこうした手紙を送っていたことをはじめて知りました。二人は知友だったのか、あるいは故魯迅の意を汲んだのかはわかりませんが、これも中日のひとつの架け橋ですね。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-10-22 07:38 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(37):藤野厳九郎記念館(16.3)

 まずは木造の主屋へ、藤野先生の人柄を偲ばせるような飾り気のない質素な部屋でした。彼が来ていた和服や、令息が遊んだ玩具などが展示してありました。
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 そして新館の展示室へ。藤野先生が使用した医療器具や魯迅の成績表などを拝見。
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 胸が熱くなったのは、仙台医学専門学校の授業で筆記したノートが展示されていたことです。藤野先生による懇切丁寧な添削の様子が、手に取るようにわかります。『魯迅選集 第二巻』(岩波書店)所収の「朝花夕拾」(1927年)中の掌編『藤野先生』にはこうあります。
 「私の講義は、筆記できますか」と彼は尋ねた。
 「少しできます」
 「持ってきて見せなさい」
 私は、筆記したノートを差出した。彼は、受け取って、一、二日してから返してくれた。そして、今後毎週持ってきて見せるように、と言った。持ち帰って開いてみたとき、私はびっくりした。そして同時に、ある種の不安と感激とに襲われた。私のノートは、はじめから終りまで、全部朱筆で添削してあった。多くの抜けた箇所が書き加えてあるばかりでなく、文法の誤りまで、一々訂正してあるのだ。かくて、それは彼の担任の学課、骨学、血管学、神経学が終るまで、ずっとつづけられた。(p.246)
 この後、魯迅が試験をクリアしたのは、藤野先生がテストの内容を事前に彼に教えているという噂が流れ、日本人同級生からのいやがらせがなされます。結局、友人の尽力で噂は立ち消えとなりました。中国に帰った後、魯迅はこのノートを三冊の厚い本に綴じ、永久の記念として大切にしまっておいたのですが、引越しの時に運送屋がなくしてしまったと本作の最後に記しています。しかし展示品の解説を読むと、1951年に、彼の故郷・紹興で発見されたとあります。嬉しいですね、彼岸の周樹人もさぞや喜んでいるでしょう。なおこのノートは複製ですが、原本は中国北京魯迅博物館に収蔵されており、中国の一級文物(国宝)とされているそうです。日中の架け橋となったこのノートを国宝に指定するところに、中国政府の高い見識を感じます。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-10-21 07:24 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(36):藤野厳九郎記念館(16.3)

 そして駅前に戻り、いよいよお目当ての「藤野厳九郎記念館」を見学しました。まずは彼と魯迅について、あわら市のホームページに、簡にして要を得た解説がありましたので紹介します。
 中国の北京に、今は亡き有名な作家魯迅の旧宅が残っています。
 魯迅とは「阿Q正伝」その他で、国際的に有名な中国を代表する文豪です。その家の中に一枚の写真が今も置かれています。
 その写真の主は、本荘村(現あわら市)の下番で、大正5年から昭和20年8月11日に亡くなるまで町医者として町民に親しまれた藤野厳九郎先生です。藤野先生は、明治7年に下番の医師下番の医師藤野升八郎の三男として生まれ、幼少より父に漢文を習い、8・9歳の頃中番にあった野坂塾で学びました。
 この漢学を学んだことにより、中国5千年の歴史に目と心が開かれていったと思われます。やがて先生は、龍翔小学校へ、ついで福井中学校を経て愛知医学校へと進み、優秀な成績をもって卒業しました。そして母校と東京帝国大学で、引き続き解剖学を研究して、明治34年に招かれて仙台医学専門学校講師となりやがて教授となりました。
 明治37年、清国(現在の中国)から1人の留学生が仙台医専に入学してきました。名前を周樹人(後の魯迅)といい、23歳の多感な青年でした。この青年が藤野先生の講義のノートを、先生に提出したことから深い師弟関係が始まりました。異国の地で学ぶ魯迅に、朱筆で誤字や脱字を直しながら、偉大な隣国の学生を育てていきました。
 時あたかも日露戦争の最中で日本は中国を軽視する風潮があったので、この藤野先生の魯迅への親切は、彼の脳裏に終生深く刻み込まれました。やがて魯迅は志を文学に変えて仙台医専を去りますが、2カ年の生活は後に魯迅選集の中の「藤野先生」として世に出ることになりました。
 そう、わが敬愛する魯迅の師であった藤野厳九郎の住宅が記念館として公開されているのです。今回の旅のひとつの目玉、さっそく拝見いたしましょう。当時の建物と、資料等を展示する新館がありましたが、主屋は昭和初期に建てられた木造二階建ての古武士のような建物で、有形文化財に登録されています。窓が小さく、その下に下見板を設けてあるのは、日本海からの寒風対策だそうです。
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by sabasaba13 | 2019-10-20 08:20 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(35):あわら温泉(16.3)

 まずは芦原温泉旅館協同組合のサイトから、芦原温泉の歴史について転記しましょう。
 その昔、芦原温泉中心部の温泉地帯は低湿な沼地でした。明治16年に町内堀江十楽のひとりの農民が灌漑用の水を求めて水田に井戸を掘ったところ、約80度の温泉が湧出したのが始まりです。翌明治17年には何軒かの温泉宿が開業し湯治客を泊めるようになり、明治45年に旧国鉄三国線が開通して以降、温泉街として発展していきました。その後、福井大震災(昭和23年)、芦原大火(昭和31年)など度重なる震災を乗り越え今日に至っております。
 けっこう新しい温泉なのですね。駅の目の前に藤野厳九郎記念館と藤野厳九郎・魯迅の銅像がありましたが見学は後回しにして、温泉街を散策しました。まずは登録有形文化財に指定されている老舗「べにや旅館」の外観を拝見。床の間や天井などに数寄屋意匠を施した、趣向を凝らした客室だそうです。ところがなんと、2018年5月5日に火事によって全焼してしまいました。幸い死傷者は出なかったそうですが、いやはや惜しいことをしました。サイトによると、解体作業が終わり、2020年の再建をめざしてがんばっておられるそうです。
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 石畳が敷き詰められた芦の湯通りの風情を楽しんでいると、三角屋根が印象的な瀟洒な洋館がありました。九頭竜川の改修や三国鉄道の敷設に尽力した杉田定一という明治時代の政治家の別荘です。洒落た佇まいなので、関係者各位にはぜひ内部の公開を望みます。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-10-19 06:22 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(34):あわら温泉(16.3)

 朝、目覚めてカーテンを開け、外をみると利休鼠の雨がしとしとと降っています。テレビで気象情報を見ても、やはり今日は一日雨模様のようです。ま、こんな日もあるさ。気を取り直して荷物をまとめました。本日は、あわら温泉、丸岡城、永平寺を経巡って、高岡に宿泊する予定です。幸い、すべて列車とバスで行けるのが、そう難儀はしないと思います。
 宿代を支払い、荷物をフロントに預け、ホテル近くにあった喫茶店「コロラド」でモーニングサービスをいただきました。
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 駅前でガードレール・アニマルをゲット。撮影した時はイルカかと思っていましたが、今よく見ると「FUKUI Juratic王国」と記してあるので恐竜かと思われます。ジュラシックのスペルは"Jurassic"ですけれどね。8番らーめんは、福井県でいちばん愛されているラーメン店だそうです。
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 そして福井駅からえちぜん鉄道三国芦原線に乗って、あわら湯のまち駅に向かいました。JR北陸本線の方が早いのですが、芦原温泉駅から温泉まで離れているので、こちらのローカル線を選択しました。車内に「キーボが走る」という吊り広告がありましたが、えちぜん鉄道で使用される、2車体連接の超低床路面電車のようです。ブラービ、ぜひとも、傍若無人に我が物顔で道路を独占するあの"悪魔の機械"から街を人間の手に取り戻してください。雨にけむる田園風景の中を四十分ほど駆け抜けると、あわら湯のまち駅に着きました。
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 "「ジャンジャン」がなったら、わたらないでください。"という掲示に頬を緩ませ、線路をわたると「ちはやふる」という映画のポスターが貼ってありました。いま調べたところ、競技かるたクイーンを目指す綾瀬千早らの青春を描いた少女漫画を映画化したそうです。物語の中で、千早を競技かるたへ導くきっかけを作った綿谷新あらた)の故郷として登場するのが、ここ福井県あわら市なのですね。新がバイトする書店「勝義書店」がJR芦原温泉駅前にあるそうですが、まったく興味がないのでパス。
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 顔はめ看板を二枚撮影して、それでは温泉街の散策と、藤野厳九郎記念館の訪問へと向かいましょう。
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by sabasaba13 | 2019-10-18 06:24 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(33):福井(16.3)

 それではホテル近くにあった蕎麦屋「甚右衛門」で夕食をいただきましょう。まずは「若狭さばへしこ」を注文。に塩を振って塩漬けにし、さらに糠漬けにした郷土料理です。若狭地方および丹後半島の伝統料理で、越冬の保存食として重宝されているとのこと。うん、美味しい。でもほんとうに若狭産の鯖なのかな。若狭の鯖に関してはちょっとしたトラウマがあるので、疑念を拭えません。
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 次なるご当地B級グルメは「竹田の厚揚げ焼き」。福井県は油揚げ(厚揚げ)消費量が全国第1位ですが、古くから永平寺の修行僧が食べる「精進料理」の影響だそうです。油揚げをはじめと大豆食品は貴重なタンパク源とされてきたからですね。越前・竹田村にある高級豆腐の老舗「谷口屋」がつくっているのが「竹田の厚揚げ」、大豆の旨味を十全に味わえる厚揚げ、かつおぶし、長ネギ、大根おろしの四重奏には舌を巻きました。これで「雪虎」をつくってみたいものですな。
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 そして福井名物、辛み大根のおろし汁をお蕎麦にぶっかけて食べる「おろしそば」がご来臨。蕎麦の風味と大根おろしの辛さが絶妙のマリアージュ。至福のひと時でした。
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 そしてホテルへと戻り、シャワーを浴びて地酒を飲みながら、明日の旅程に思いをはせているといつの間にか熟睡。
by sabasaba13 | 2019-10-17 06:30 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(32):福井(16.3)

 北陸本線に乗ること十四分ほどで福井駅に到着。駅構内に「福井市宣伝隊長朝倉ゆめまる」というご当地キャラクターのポスターがありました。越前国を拠点とし、後に発展して戦国大名となった越前朝倉氏のことでしょう。
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 駅前には、虎(猫?)と狸のガードレール・アニマルがありました。
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 そして北の庄城址公園・柴田神社へ、戦国時代の武将・柴田勝家とその妻・お市(織田信長の妹)を祀る神社です。このあたりは勝家の居城であった北ノ庄城の跡地とされ、境内には発掘された当時の城の石垣も展示されていました。
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 なおこちらには、茶々、初、江の三姉妹彫像が設置されていました。兄である織田信長の命令で浅井長政に嫁いだ市が生んだ三姉妹ですね。やがて長政と信長は対立、1573(天正元)年の小谷城の戦いで敗れた長政は切腹、その後、市は柴田勝家と再婚し、三姉妹と共にここ北ノ庄城に入りました。1583(天正11)年の賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れて北ノ庄城は落城、勝家と市は自害し、三姉妹はそれぞれ数奇な生涯を過ごします。
 茶々(淀殿)は豊臣秀吉の側室となり、嫡男・豊臣秀頼を産みました。秀吉の死後は、秀頼の生母として豊臣家政を掌握しますが、大坂夏の陣で徳川方に敗れ、秀頼と共に自害したとされます。なお『考える日本史』(本郷和人 河出新書002)によると、秀頼は淀殿の実子ではない可能性が高いとのことです。以下、引用します。
 産婦人科の先生たちに聞くと、秀頼が秀吉の実子である確率は、まず天文学的な数字になってしまうのだそうです。あれだけ子どもに恵まれない秀吉なのに、たくさんの女性のなかで淀殿だけが妊娠した。これがまず奇跡的。しかも、その子どもが早逝した後に、さらに同一人が再び妊娠したとなると、これは天文学的な確率の出来事になる。だから医学的に見れば、まず秀頼は、秀吉の子どもではない。DNA的には血は受け継がれていない。
 しかし家の継承ということを考えるのであれば、秀吉が「この子は俺の子だ」と認めると、それはもう、豊臣家の後継者として、問題なく秀吉の子どもになる。
 週刊誌的な興味で言えば「秀頼は不倫の子?」というスクープになるのかもしれません。しかし歴史的にも、政治的にも、実際は誰の子であろうが、秀吉が後継者に指名した以上、秀頼は秀吉の子以外のなにものでもないのです。(p.57)
 初(常高院)は小浜藩主・京極高次の正室となり、高次に先立たれた後は出家して常高院と名乗りました。大坂の陣の際には、姉妹の嫁いだ豊臣・徳川両家の関係を改善すべく、豊臣方の使者として仲介に奔走しました。
 江(崇源院)は徳川秀忠の妻(御台所)となり、3代将軍徳川家光や中宮源和子(明正天皇の生母)を産みました。自らの子孫を後代に残せなかった姉二人とは対照的に、多くの子をもうけた彼女の血筋は現在の今上天皇にまで続いています。

 本日の一枚、左より茶々、江、初です。
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by sabasaba13 | 2019-10-16 07:50 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(31):鯖江(16.3)

 そして"かたい信用×やわらかいお肉"がモットーの「ミート&デリカ ささき」にとうちゃこ。お目当ては、ご当地B級グルメの「サバエドッグ」です。肉巻きおにぎりをフライにしてソースをたっぷりつけた一品で、人呼んで"歩きながら食べられるソースかつ丼"。コテコテのB級グルメでんがな。カプリ うーん、この安っぽい味が郷愁をそそります。メンチカツもなかなか美味でした。
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 誠照寺(じょうしょうじ)は浄土真宗越前三門徒派の中心寺院で、鯖江町形成の基となったとされます。1779(安永8)年に建てられたという四足門を埋めつくす木彫が凄い。今にも天に昇りそうな龍の躍動感に圧倒されます。匠の技ですね。
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 そしてお目当てpart2の恵美写真館へ。基本は和風ですが、玄関ポーチの開口部や軒廻りの装飾等に洋風のテイストを取り入れた和洋折衷建築です。ドア下部の意匠、上部のキーストーン付き半円アーチの中にしつらえられた鏝絵などに心惹かれます。
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 表門も、アーチ形の屋根がユニークですね。竣工はともに1905(明治38)です。
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 それでは福井へと戻りましょう。鯖江駅に向かう途中にあったのが、鯖江藩家老植田家長屋門です。「長屋門」とは、敷地の周囲をめぐらす長屋の一部を門としたものですね。白漆喰壁に黒塗りの柱や下見板が重厚な雰囲気を醸し、鯖江藩5万石の家老職にふさわしい風格を感じます。
 鯖江駅の近くには、舘ひろしと柴田恭兵が写っている「さらば あぶない刑事」のポスターが貼ってあり、「福井県民も飲酒運転とおさらばしようぜ! 福井県警察」と記されていました。福井県警にはきっと常識人が多いのでしょうね。「草食系より大阪府警。」「たれ込み歓迎!」という超弩級の力業を見せる大阪府警とはえらい違いです。
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 追記です。最近読んだ『地域をまわって考えたこと』(東京書籍)のなかで、小熊英二氏が鯖江のことにふれていたので紹介します。
 福井県鯖江市。日本のメガネフレームの九割を供給し、都市からのUターンやIターンで人口が増加している。そこがどんな土地なのか、どんな人が住んでいるのか。実際に訪れてみた。
 最初に思ったのは「ダークスーツ姿が目につかない」ことだ。また製造業は多いが、大規模な工場がなく、有名企業の看板も目立たない。市の北西部に電子機器の工業団地があるが、企業城下町などに比べればささやかなものだ。
 スーツ姿と大工場。つまり「会社員と製造業」、いわば「働くニッポン」の象徴だ。「日本人」といえばスーツ姿のビジネスマン、「日本」といえばハイテク工場というイメージは海外で根強い。
 これは外国ばかりではない。日本の人々自身も、スーツ姿の会社員になるか、大工場で働くことをめざす。だから多くの地方も、大手企業の誘致に懸命だ。昭和の時代に作られたこのステレオタイプは、いまだ強固なのだ。
 だが鯖江には、スーツ姿も大工場も目立たない。だが人口は増えている。それはなぜだろうか。
 じつは鯖江には、中小の製造業がひしめいている。その数は、メガネが約500、繊維が約100、漆器が約200。その大部分は中小規模で、田園風景のなかにとけ込んでいる。外見は日本家屋でありながら、中はリノベーションしてある例も少なくない。
 この「中小企業の集積」という形態に、鯖江の特徴がある。2004年から市長を務めてきた牧野百男氏によると、鯖江は「福井県で社長の数が一番」だ。これら中小企業が、協力と競争で「内在的イノベーション」を創りだしているという。中小企業の集積で革新的な気風を生み出しているところから、「日本のシリコンバレー」という異名もあるそうだ。(p.26~7)

by sabasaba13 | 2019-10-15 06:25 | 中部 | Comments(0)