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戦禍の記憶

c0051620_18165092.jpg 大石芳野氏の写真展『戦禍の記憶』が、東京都写真美術館で開かれていると知り、山ノ神といっしょに見てきました。氏は、戦禍や内乱など困難な状況にありながらも逞しく誇りをもって生きる人びと、そして土着の文化や風土を大切にしながら生きる人びとを主なテーマとした写真を撮り続けられている方です。まずは展覧会の趣旨を、チラシから転記します。 
20世紀は「戦争の世紀」といわれます。二度にわたる世界大戦で人類の危機とでもいうべき大量の殺戮と破壊をもたらした後も安寧を迎えることはなく、米国、旧ソ連を軸とする東西の冷戦に起因する朝鮮戦争やベトナム戦争、ソ連のアフガン侵攻などが勃発しました。21世紀を迎えてもなお、世界のどこかでひとときも収まることなく戦争が続いています。
 戦争の悲惨な傷痕に今なお苦しむ声なき民に向きあい、平和の尊さを問いつづける大石芳野。広島や長崎、沖縄、朝鮮半島に大きな傷を残している太平洋戦争の後遺症をはじめ、メコンの嘆きと言われるベトナム、カンボジア、ラオスの惨禍、そして民族や、宗教・宗派の対立で苦しむアフガニスタン、コソボ、スーダン、ホロコースト…。本展では約40年にわたり、戦争の犠牲となった人々を取材し、いつまでも記憶される戦禍の傷にレンズを向けてきた作品約150点を展覧します。
 JR恵比寿駅から徒歩10分ほどで写真美術館に到着。館内に併設されている「MAISON ICHI」というパン屋さんでサンドウィッチと珈琲をいただいてから、鑑賞をしました。

第1章 メコンの嘆き
 ベトナムでは、アメリカ軍が散布した枯葉剤による後遺症に苦しむ人びと。カンボジアではポル・ポト政権によるジェノサイド政策の犠牲者。ラオスでは、ベトナム戦争でアメリカ軍が投下した爆弾の不発弾が大量に埋蔵され、その爆発によって傷ついた人びと。大石氏のカメラは、彼ら/彼女らの心に寄せるように向き合います。見ていて心が痛むのは、やはり傷ついた子供たちの姿です。氏曰く、「全土のどこでも、闇を見つめているような表情がそこここにある」(目録p.47)。カート・ヴォネガットは『追憶のハルマゲドン』(早川書房)の中で「子供たちを殺すことは―“ドイツ野郎(ジェリー)”のガキどもであろうと、“ジャップ”のガキどもであろうと、将来のどんな敵国のガキどもであろうと―けっして正当化できない」と言いましたが、同様に子供たちを傷つけることはけっして正当化できないと、胸に刻みましょう。

第2章 民族・宗派・宗教の対立。
 ソ連による侵攻、アメリカによる攻撃、そして部族間の内戦が続くアフガニスタン。廃墟となった首都カブールで、必死に生き延びようとする人びとの姿が心に残ります。セルビアによる攻撃や弾圧にさらされるコソボ。きっとこちらを見据えるギゼルという少女の写真から、目を逸らすことができませんでした。
 セルビア側についたロマ人のギゼル(9歳)。一家は、戻ってきたアルバニア系勢力に家を燃やされた。「何も悪いことはしていないのに」。(p.91)
 そして豊富に埋蔵される資源をめぐる民族紛争が起こり、ダルフール地方では200万人以上の人びとが死と追放の憂き目にあったという南スーダン。
 章の最後は、ホロコーストの現場と生き残った方々の写真です。“何も悪いことはしていないのに”、ユダヤ人やロマ人であるというだけで、殺された人びと。人類はここから何を学んだのか、学ばなかったのか。民族や部族や宗教が違えば、殺してもかまわないという状況が、いまだ続いていることに慄然とします。

第3章 アジア・太平洋戦争の残像
 そして日本が深く関わったアジア・太平洋戦争によって、傷つけられた人びとの写真です。731部隊の現場と目撃者、中国残留邦人、従軍慰安婦、ヒロシマ・ナガサキの被曝者、沖縄戦を生き延びた人びと。伊江島で見つかった子供の小さな頭蓋骨の写真には、下記のキャプションがありました。
 自然壕が防空壕の役割を果たしたが、住民と日本軍が共用したので悲劇も絶えなかった。戦争で最も被害を受けたのは子どもたち。すべて大人に責任があると訴えるような子どもの頭蓋骨が伊江島の壕から現れた。(p.166)
 展覧会のタイトルを、“戦火”ではなく“戦禍”としたところに大石氏の意思を感じました。戦争のおぞましさは、戦闘中に傷つき殺されるだけではなく、その後も様々なかたちでずっと人びとを苛むということだと思います。枯葉剤、不発弾、悲嘆、憎悪、悔恨、まさしく禍です。それを防ぐためには、戦禍にあった人びとの姿を記憶すること、伝えること、そして心を寄せることが大切なのだというメッセージを受け取りました。この目録をときどき見つめ、お手軽・お気軽に戦争をしようとする輩に抗っていきたいと思います。
 なお本展でいちばん心に残ったのが、アフガニスタンのカブールで撮影されたオミッドという10歳の少年を写した二枚の写真です。私も山ノ神も、はじめは同一人物だと気づきませんでした。左の写真は、暗い目をして、パチンコで捕った小鳥を弄ぶ無表情のオミッド。右の写真は、ノートを広げて明るく微笑むオミッド。目に光があるのがはっきりわかります。キャプションはこうです。
 オミッド(10歳)の父親は戦死し、貧しさゆえに学校に通えない。パチンコで小鳥を捕って遊ぶ。(p.78)

 学校へ行きたいというオミッド。入学の手続きを手伝い、通学を始めた。丸刈りになって、毎日学校が楽しくて一日も休まない。(p.79)
 目録に掲載されていた藤原聡氏の解説によると、寂しそうに遊んでいるオミッドを見かねた大石氏が、証明写真を撮りに連れて行き、入学手続きの手助けをしたそうです(p.10)。微かですが、未来への希望を感じさせてくれる写真でした。世界中の子どもたちが安心して学校へ通い、友だちと遊び学び、そして戦争は自然現象ではなくそれによって利益を得る者が起こす人為的な禍であることを知ってほしいと切に願います。
by sabasaba13 | 2019-05-18 08:16 | 美術 | Comments(0)

河鍋暁斎展

c0051620_1341966.jpg 映画『金子文子と朴烈』を見に行くときに駅構内のポスターで知った河鍋暁斎展、山ノ神とともに訪れてきました。場所は六本木、東京ミッドタウンのガレリア3階にあるサントリー美術館です。ミッドタウンの桜も八分咲き、たくさんの人びとが詰めかけてスマートフォンで写真を撮っていましたが、展覧会会場も大混雑なのかな。まいったなと懸念したのですが杞憂でした。閑古鳥が鳴くほどではありませんが、牛歩の如き速度で列は流れていきます。
 まずはチラシの紹介文を引用しましょう。
 多様な分野で活躍した画鬼・河鍋暁斎、その画業については、長らく諷刺画や妖怪画などに焦点が当てられてきました。しかし近年の研究により、駿河台狩野家の伝統を受け継ぐ筆法と、独特な感性をもとに活躍の場を広げていった姿が明らかになりつつあります。
 卓越した画技を持っていた暁斎は、着色と水墨の両方を使いこなし、仏画・花鳥画・美人画など、多岐にわたるジャンルで優れた作品を遺しました。
 本展では、国内の名品およびイギリスからの里帰り作品を含む約120件によって、幕末・明治の動乱期に独自の道を切り開いた暁斎の足跡を展望するとともに、先人たちの作品と真摯に向き合った暁斎の作画活動の一端を浮き彫りにします。
 “その手に描けぬものなし”というサブタイトルとは、よくぞつけたもの。天馬の如き彼の筆は、天衣無縫にさまざまなものを描き尽くします。真面目な仏画、艶っぽい美人画、笑いをさそう風刺画や動物画、身の毛もよだつような残酷な絵や幽霊の絵。ただ見惚れるのみ。
 気に入った作品をいくつか紹介しましょう。水墨画の技の冴えを見せてくれるのが「枯木寒鴉図」。枯れた枝に屹立し、前方をきっと凝視する一羽の烏の凛とした佇まいに、思わず背筋が伸びます。筆と墨だけで、その烏の姿を通して“孤高”をこれほど完璧に表現した暁斎、脱帽です。
 「美人観蛙戯図」は、団扇を手に涼をとる妙齢の美人を描いています。彼女が微笑みながら見つけているのは、足元で遊んでいる蛙たち。「鳥獣戯画」を換骨奪胎したものでしょう、相撲をとったり、腕組みをしたり、煙管をくわえたり、子蛙を背負ったりと、さまざまな蛙の姿を生き生きとユーモラスに描いています。真面目な美人画と空想的な鳥獣戯画の合体、これぞ暁斎。
 思わず緩頬してしまうのが「貧乏神図」。ぼろぼろの服を着て渋い面の貧乏神は、もうこれ以外の姿は想像できないようなリアルさです。よく見ると、足元には注連縄でつくられた結界があり、彼がそこから出られないようになっています。おまけに表装もわざとぼろ布を使った手の込みよう。
 「大仏と助六」は、遊び心にあふれた絵です。縦長の紙に大仏の顔左半分を描いた大胆不敵な構図。しかも助六が踊りながらその鼻の穴に入ろうとしています。鼻道と花道の駄洒落なのですね。これが宴席で頼まれて即興で描いた絵(席画)だというのですから驚きです。
 仰向けに浮かぶ鯰に乗った猫と、曳き舟のように長い髭を引っ張る二匹の猫を描いた「鯰の船に乗る猫」は諷刺画です。当時、政府の高官をその髭から鯰になぞらえたそうです。また国家を揺るがす地震を引き起こすという意味もあったようです。その鯰を手玉にとる猫たち、その意気やよし。なお暁斎は、1870(明治3)年、40歳のとき、書画会で描いた作品が政府高官を嘲弄したとして投獄されましたが、こうした作品なのかもしれません。
 暁斎がますます好きになってしまう、素敵な展覧会でした。

 なおカタログに、暁斎の弟子であり友人でもあった建築家ジョサイア・コンドルが寄せた追悼文が載っていたので転記します。
 (暁斎は)忍耐強く自然を観察し、また古人の作で価値あるものをことごとく敬虔な態度で模写した人であったが、その作品にはつねに独創性と天稟の才が横溢していた…彼はその独立不羈の性格と何でも描ける多才な技量により、免状ばかりで精神を伝えぬ一流派の束縛を長く免れることができた…彼は自ら構成した活気溢れる絵画の世界を一絵師として孤独に生き、古き巨匠の偉大なる魂を友としたが、今やその霊と相接しているのである。(p.194)
 彼の画業をよく理解し、そして敬愛の念をこめた素晴らしい追悼文ですね。
 余談ですが、暁斎が生まれた古河、彼が訪れた須坂の訪問記を上梓してありますので、よろしければご笑覧ください。
by sabasaba13 | 2019-05-14 06:20 | 美術 | Comments(0)

奇想の系譜

c0051620_21543689.jpg 美術史家・辻惟雄氏の名著『奇想の系譜』に基づく展覧会が、上野にある都美術館で開催されていることを知りました。主催者のあいさつ文を紹介します。
ごあいさつ
 美術史家・辻惟雄氏が、1970年に著した『奇想の系譜』。そこで紹介されたのは、それまでまとまって紹介されたことがない、因襲の殻を打ち破り意表を突く、自由で斬新な発想によってわれわれを、非日常的な世界に誘う絵画の数々でした。それから半世紀経った現在では、かつては江戸時代絵画史の傍流とされていた画家たちが、その現代に通じる革新性によって熱狂的ともいえる人気を集めています。
 本展では、『奇想の系譜』で取り上げられた六名の画家、岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳の他に、白隠慧鶴、鈴木其一を加えました。
 おおっ、私の大好きな伊藤若冲や、長沢芦雪や、歌川国芳の絵を一堂に会して見られる、これはたまりません。さっそく山ノ神を誘って、見に行くことにしました。

 時は三月の下旬、今年は開花が早いため、上野の桜はもう五分咲きです。よって上野公園はたくさんの人が押しかけ大混雑でした。おまけに上野動物園のパンダが先着順で見られるようになったことも混雑に拍車をかけたようです。さてお目当ての展覧会の混雑はどうでしょうか。以前に開催された「伊藤若冲展」が凄まじい混雑で見るのを諦めたことがトラウマとして心に残っています。戦々恐々としながら入口を入ると、チケットを購入するための行列はさほど長いものではありません。ああよかった。十五分ほど並んで買うことができました。
 まずは「幻想の博物誌」伊藤若冲。動物や植物を、リアルに、華麗に、生き生きと描いた彼の絵を見るたびに生きていてよかったと思います。生命の讃歌ですね。圧巻は「象と鯨図屏風」、巨大な象と鯨の対比、そして今にも“パオー”という嘶きが聞こえてきそうな愛らしい象。お得意の鶏をさまざまな姿で描いた「鶏図押絵貼屏風」では、真正面から描いた鶏がラブリー。思わずだきしめたくなりました、突かれそうだけど。
 次は「醒めたグロテスク」曽我蕭白、怪作「群仙図屏風」を間近で見ることができました。画面を埋めつくす不気味な仙人、仙女、龍、童子、そしてこの世のものとは思われないド派手な着色。見ているだけで気持ちが悪くなってくる絵など、そうそうお目にはかかれません。
 「京のエンターティナー」長沢芦雪のコーナーでは、「白象黒牛図屏風」に見入ってしまいました。白い巨象にとまる黒い烏、黒い巨牛のもとの白い子犬。大と小、黒と白のみごとな対比です。もちろんそれぞれの動物も的確に描写されています。カタログの解説で辻惟雄氏は、巨大な動物を対比的に描いたという点で、若冲の「象と鯨図屏風」との類似を指摘され、どちらかが、どちらかを見て刺激され描いたのではないかとされています。そして見た場所は、祇園祭礼の宵山の屏風見せの折と推測されています。「群猿図襖」もいいですね、群れ集う猿たちを個性豊かに描き分けています毛の柔らかさを表現する筆力には脱帽です。実は今回の展覧会で一番見たかったのが、芦雪の「なめくじ図」です。なんと、なめくじと彼が這った跡だけを描いた、空前絶後の絵です。その曲線がまるで抽象絵画の如きデザイン、これぞ奇想! カタログで馬渕美帆氏が、これは席画(画家が招かれた会席で客の注文に応じて描かれた絵)ではないかと指摘されているのは卓見です。画面を一筆書きで埋め始めて観客たちを驚かせ、最後になめぐじを描いて種明かしという趣向。うわお、その場に居合わせたかった。
 なお芦雪は、亀甲型の外郭のなかに「魚」の一字を入れた独特な印を使っていますが、その由来についての辻惟雄氏による解説がありました。『近世名家書画談』によると、芦雪が淀から四条の応挙の画房に通って修業を積んでいたころ、ある寒い冬の朝、往きの途中の小川が凍って、魚がそのなかに閉じ込められて苦し気なのを見ました。帰りに覗いてみると、氷がだいぶ溶け、魚が自由を得て嬉し気でした。そのことを翌日師に話すと、自分も修業時代は苦しかったが、そのうちだんだん氷が溶けるようにして画の自由をえたのだと諭され、肝に銘じて終生この印を用いたということです。いい話ですね。
 「執念のドラマ」岩佐又兵衛コーナーでは、凄惨な場面を豪華絢爛な色彩で描いた「山中常盤物語絵巻」が展示されていました。ほんとうは「洛中洛外図屏風」と「豊国祭礼図屏風」が見たかったのですが、展示替えがあって見られなかったのが無念。
 「狩野派きっての知性派」狩野山雪の絵は、正直に言って、若冲や芦雪にくらべてやや見劣りがします。私の眼力不足かな。
 「奇想の起爆剤」白隠慧鶴の禅画は、若冲、蕭白、芦雪など18世紀の京都画壇の個性的な表現が生まれるための起爆剤となった可能性が近年指摘されているそうです。縦2メートルもある巨大な「達磨図」の大胆不敵な表現を見るとさもありなんと思えます。
 「江戸琳派の鬼才」鈴木其一(きいつ)は、その高名はたびたび耳にしますが彼の絵を見たのははじめてです。うん、いい。繊細で的確な表現力と、華麗な色彩には目を瞠りました。「貝図」がいいですね、日ごろ何気なく食べている貝がこんなにも美しいものだと、其一に教えられました。「百鳥百獣図」は、数多の鳥と獣が双幅を埋めつくす生命の楽園です。見ているうちに幸せな気持ちとなり、耳朶にチャールス・ミンガスの「クンビア&ジャズ・フュージョン」の楽し気な調べが鳴り響てきました。
 そして掉尾を飾るのが「幕末浮世絵七変化」歌川国芳です。人体で顔を構成する「みかけハこハゐがとんだいゝ人だ」、猫を使った駄洒落で東海道五十三次を描いた「猫飼好五十三疋」、巨大な骸骨がぬっと姿をあらわす「相馬の古内裏」など、奇想が炸裂。しかし今回の展覧会で一番感銘を受けたのは、「火消千組の図」という額絵です。霊岸島や箱崎町を担当する火消の千組が成田山新勝寺に奉納したものです。手に手に鳶口を持った138人の火消が威風堂々と火事場に向かう姿を描いた絵ですが、その迫力には圧倒されました。ワーグナーの楽劇「タンホイザー」の行進曲が耳朶に鳴り響きます。またそれぞれの表情や刺青まで丹念に描き分けているのにも感嘆します。

 ああ面白かった。楽しかった。驚いた。やはり美術はこうでなくてはいけません。二百数十年後の私たちをこれほどドキドキワクワクさせてくれる奇想の画家たちにあらためて敬意を表します。そしてこうした美術を生み出した江戸という時代を、あらためて見直したいと思います。
by sabasaba13 | 2019-05-10 06:18 | 美術 | Comments(0)

へそまがり日本美術

c0051620_11581565.jpg 府中市美術館が気になります。『ノーマン・ロックウェル展』や『歌川国芳展』といった正統的な企画はもちろん、『立石鐵臣展』や『長谷川利行展』といった通好みの企画や、『石子順造的世界』といった意表を突く企画など、小さいながらも端倪すべからざる美術館です。
 またアプローチもよろしい。武蔵野の面影を残す府中の森公園を気持ちよく散策しながら辿り着けます。戦争遺跡フリークの方は、近くにある巨大なパラボラ・アンテナ(在日米軍旧府中通信施設)もお見逃しなく。
 今回の展示は「春の江戸絵画まつり」と称して、『へそまがり日本美術 禅画からヘタウマまで』というものです。…………………………なんじゃそりゃ! 公式サイトより、紹介文を引用します。
 人は、見事な美しさや完璧な美しさに、大きな感動を覚えます。しかしその一方で、きれいとは言いがたいもの、不格好で不完全なものに心惹かれることもあるでしょう。「へそまがりの心の働き」とでも言ったらよいでしょうか。
 例えば、禅画に描かれた寒山拾得の二人は、不可解さで見る者を引きつけます。また、江戸時代の文人画には、思わず「ヘタウマ?」と言いたくなるような作品があります。文人画の世界では、あえて朴訥に描くことで、汚れのない無垢な心を表現できると考えられていたのです。
 あるいは、徳川家光が描いた《兎図》はどうでしょうか。将軍や殿様が描いた絵には、ときおり見た人が「???」となるような、何と言い表せばよいか困ってしまうような「立派な」作品があります。描き手が超越した存在であることと、関係があるのかもしれません。更に近代にも、子供が描いた絵を手本にして「素朴」にのめり込む画家たちがいました。
 この展覧会では、 中世の禅画から現代のヘタウマまで、 日本の美術史に点在する「へそまがりの心の働き」の成果をご覧いただきます。へそまがりの感性が生んだ、輝かしくも悩ましい作品の数々を眺めれば、日本美術のもう一つの何かが見えてくるかもしれません。

 日本初!「へそまがり」で美術史を俯瞰する展覧会。中世の水墨画から現代のヘタウマ漫画まで、日本人の「へそまがりな感性」が生んだ絵画の数々を展望する初めての展覧会です。

 破壊力のある作品が勢ぞろい! 「おかしい」「ユルい」「へんてこ」「苦い」「かわいい」など、従来の"美術鑑賞用語"からはかけ離れた言葉で形容されるような、けれども、強烈なインパクトのある作品が揃います。
 うわお、ウィントン・ケリー(p)+ポール・チェンバース(d)+ジミー・コブ(ds)トリオの演奏のような、ドライブ感にあふれたノリノリの文章ですね。"破壊力のある作品"など、まともな学芸員なら顔をしかめるような表現を使うなど、なにかやらかしてくれそうな予感がします。これはぜひ見に行きましょう。山ノ神を誘ったのですが野暮用があるため、独りで府中市美術館へ行ってまいりました。
 いやあ、ほんとうに面白かった。美術館で笑うなんて稀有な体験です。禅画、俳画、南画、近代絵画から、目が点になるような突拍子もない絵が精選されており、会場のあちらこちらで笑いの静かな漣がわいていました。伊藤若冲長沢芦雪といった大物から、名も知らぬ禅僧や絵師、さらには幕府将軍や夏目漱石まで、よくぞまあとんでもない絵を集めたものです。学芸員および関係者諸氏の天馬の如き企画力、そして眼力と知識と遊び心に、深甚なる敬意を表します。
 あまりにも楽しかったので目録も購入しましたが、こちらも秀逸。それぞれの絵に一言が添えられているのですが、これがコメントというよりもツッコミです。例えば惟精宗磬(いせいそうけい)の「断臂(だんぴ)図」。雪舟の絵で有名ですが、禅宗の祖・達磨が少林寺において面壁座禅中、慧可という僧が彼に参禅を請うたが許されず、自ら左腕を切り落として決意のほどを示して入門を許されたという有名な禅機の一場面です。そのコメント(ツッコミ)が"目と鼻はただの黒丸"。右手で刃物を持ち、いままさに左腕を切り落とそうという緊迫した場面なのですが、泣きそうな慧可の目と鼻の穴はたしかに黒い丸。そこまでハッキリ言うか、とこっちもツッコミを入れたくなります。
 というわけで、ヘタヘタと座り込みたくなるような絵を、ツッコミとともにいくつか紹介します。
"白隠を超える唐突さ" 春叢紹珠(しゅんそうそうじゅ) 「皿回し布袋図」
 額に細長い棒を乗せ、手放しで皿を回す布袋さま。「何のために???」という疑問は、袋の上に乗って楽しそうに皿を回す布袋さまの温和な表情を見ていると吹っ飛んでしまいます。くるくるくるくる…

"次の寅年にはこんな年賀状を出してみたい" 風外本高(ふうがいほんこう) 「新春賀偈」
 脱力感と破壊力という点では、本展で一、二を争う怪作です。禅の世界での新春の祝辞です が、添えられた虎が…いや、これは断じて虎ではない。猫でも熊でも犬でもない、わけのわからない動物がわけのわからないポーズで佇んでいます。でも見ていると肩の力が抜け、♪今日がだめなら明日があるさ♪と、ドン・ガバチョのように歌いたくなってきます。

"鬼はリラックスしているようにしか見えない" 風外本高 「涅槃図」
 釈迦の臨終を動物たちが嘆き悲しむ場面ですが、その描写の雑なこと雑なこと。ここまで適当に描かれると、不思議なもので抱きしめたくなってきます。金棒をわきにおいて寛いでいる鬼よ、少しは悲しいふりをしなさい。

"激しい動き、果てしない脱力感" 仙厓義梵(せんがいぎぼん) 「布袋図」
 くねくねと踊っているようにしか見えない布袋さま、いいですね。程よく力も抜けてノリノリです。なお仙厓には「目をおせば二つでてくる秋の月」という、卓袱台をひっくり返したくなるような禅画もあります。

"いくら仏の国でもあまり足を踏み入れたくない" 冨田渓仙 「石峰寺
 石峰寺は、京都伏見にある黄檗宗の寺で、伊藤若冲が庵を結び、石造の羅漢像を境内に安置したことで知られます…が、ここで描かれているのは幽鬼の如く不気味にゆらめく羅漢たち。たしかに足を踏み入れたくない。

"一度会ったら忘れられない河童" 小川芋銭 「河童百図〉幻」
 怖い… できればお会いしたくないものです。

"胴と手足を別々に作って縫い合わせた人形のよう" 三岸好太郎 「友人ノ肖像」
 まるで糸を切られて椅子に置かれたパペットのようです。友人は怒らなかったのな。なお彼の奥さんである三岸節子も画家で、彼の奔放な女性関係に苦しめられてどん底の生活を送り、彼が31歳で死んだ時に「ああ、これで私が生きていかれる」と思ったという凄絶なエピソードもあります。

"上様はどこまで本気なのか" 徳川家光 「鳳凰図」  徳川家綱 「鶏図」
 ここまでヘタだと、爽快感さえ覚えます。拝領した家臣は、どう褒めるか困っただろうなあ。もしかしたら、その困った顔を見たくてわざと下手に描いたのかもしれません。

"スナフキンではありません" 村山槐多 「スキと人」
 そう言われると、スナフキンにしか見えなくなってしまいました。余談ですが、彼がギターをかきならして歌う「おさびし山のテーマ」が大好きでした。

"笑顔とはこんなに嫌なものだったろうか?" 岸駒(がんく) 「寒山拾得図」
 ここまで人を不愉快にさせる笑顔を描いた絵師の力量には脱帽です。チコちゃんだったら、「ニヤニヤ笑ってるんじゃねえよ」と激怒するでしょうね。

"シビれるような強面の雄鶏" 長沢蘆雪 「鶏図」
 さすがは蘆雪、つがいの鶏をリアルに描写していますが、鑑賞者に「ガンつけてるんじゃねえよ」と睨みつける雄鶏の強面が尋常ではありません。ゆらめくような影も不気味ですね。道端でこんな鶏に出くわしたら、一目散に逃げましょう。

"部屋中をやるせないムードで満たす掛軸" 長沢蘆雪 「老子図」
 落胆した老子が牛の背に乗って他国へ去る場面だそうです。虚空をさまよう視線、感情を読み取れない無表情、この掛軸を飾ったら部屋中がブルーに入ってしまいそう。

"ゆるさの限界点に挑む画家" 中村芳中 「鬼の念仏図」
 大津絵の題材である「鬼の念仏」を描いた絵ですが、そのスライムの如きゆるさ加減が凄い。爽快な脱力感を心行くまで味わえる珠玉の一枚です。
 というわけで、こんなに面白い展覧会にはそうそうお目にかかれるものではありません。一緒に行けなかった山ノ神も、目録を見ながらクスクス笑い「落ち込んだ時にまた見よう」とご満悦の模様でした。5月12日(日)まで開催されていますので、思う存分脱力したい方、ぜひ府中市美術館へ。
by sabasaba13 | 2019-05-07 06:24 | 美術 | Comments(0)

堀文子展

 新逗子駅から20分ほどバスに乗ると、神奈川県立近代美術館葉山館に着きました。私は以前に「ベン・シャーン展」を見に来たことがあるのですが、山ノ神ははじめてです。おっどこかで会ったことがある二人組がいます。そうだ、今はなきカマキン(神奈川県立近代美術館鎌倉館)にいたイサム・ノグチ作の「コケシ」です。よかった、こんな風光明媚な場所で余生を過ごせるんだね。御慶。受付で入場料を支払おうとすると、「三浦半島1DAYきっぷ」をもっているので100円割引となりました。こいつは冬から縁起がいいわいpart5。

c0051620_14312546.jpg それでは「堀文子展」を拝見しましょう。美術館の公式サイトから紹介文を転記します。
 未知のものを求め、自然と生命を描きつづける日本画家・堀文子の清新な世界を紹介する展覧会です。初期作品や絵本の原画をはじめ、メキシコ、イタリア、ネパールなど世界各地への旅や、四季と草花のうつろいを描いた代表作を展示し、その芸術と人間像に迫ります。
 寡聞にして知らなかった日本画家ですが、素晴らしい数々の絵に出会えて幸福でした。購入した図録によると、1918(大正7)年生まれ、よってこの展覧会開催時には99歳、白寿です。父親の反対を押し切って女子美術専門学校(現/女子美術大学)日本画部に入学。美術に自由を求めた彼女は、官展からは距離を置き、権威におもねらない姿勢を貫きました。

 どの絵からも、自然や動植物に対する愛情と畏敬が伝わってきます。澄んだ色調、自由な構成、そして的確な描写力に見惚れてしまいました。また海外に長く滞在したこともあり、異国の自然や人びと、異文化に対する飽くなき興味と敬意にも心打たれます。
 特に気に入った絵は三枚。まずは「トスカーナの花野」(1990)。起伏に富んだトスカーナの沃野、たちならぶ糸杉、そして百花繚乱に咲き乱れる花々、見ているだけで夢心地となりました。彼女の言です。
 二枚目は「霧氷」(1982)。彼女が住んでいた軽井沢の風景でしょうか、朝霧のなかに、霧氷を美しく纏った木々が描かれています。彼女の言です。
 厳冬の二月。この木の梢は、精緻なガラス細工に変るのだ。夜の中(うち)に、レースをかけたように細い枝が氷に包まれ、朝日を浴びて輝く霧氷の森となる。その神々しさは此の世のものではない。陽が昇るにつれ、枝のガラスはキラキラと身を躍らせ散り落ちる。歩く度に氷の梢が虹色に変り、ふりしきるガラスの糸に見とれて、私は気もそぞろに歩き廻る。
 三枚目は「アフガンの王女」(2003)です。図録の解説によると、ユニセフ親善大使をつとめる黒柳徹子から送られた絵葉書をもとに描いた絵です。山ノ神曰く、「徹子の部屋」にこの絵が飾られているとのこと。そういえばそこはかとなく彼女に似ています。青を基調とした美しい.っ民族衣装を着て、こちらを見つめる凛とした女性。心に残る一枚です。注目したいのは、この絵が2003年に描かれたということです。2001年9月11日の米国同時多発テロ事件を受け、アメリカ合州国を中心とする北大西洋条約機構(NATO)がアフガニスタン戦争を始めたのが2001年10月。その二年後に描かれたのですね。無辜の人びとを苦しめる戦争、その戦争を引き起こした国々の指導者、それを支持した国民に対する、無言の厳しい抗議を感じます。

 海が見えるレストランに入って珈琲を飲みながら一休み。ベランダに出ると、空を真っ赤に染め上げる美しい夕映え、そして海の向こうには夕雲を纏った富士のシルエットがよく見えました。

 松輪サバ、海、猫、富士山、堀文子、三浦半島1DAYきっぷ、いろいろな良きものに出会えた良き一日でした。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2018-01-22 14:33 | 美術 | Comments(0)

国立近代美術館

 時刻は12:00すこし前、予約しておいた美術館内のレストラン「ラー・エ・ミクニ(L'ART ET MIKUNI)」に参りましょう。中に入るとほぼ満席、つぎつぎとやって来る飛び込み客が入店を断られていました。予約をしておいてよかった。メニューは、パスタ・ランチ(2160円)、メニュー・ディ・ピッコロ(3500円)、メニュー・ディ・グランデ(5500円)、自称中産階級底辺層のわれわれとしては、メニュー・ディ・ピッコロが許容範囲ぎりぎりです。まあこういう高級レストランが美術館にあってもいいのですが、もうひとつ手軽に珈琲や軽食をいただけるカジュアルなカフェがあるべきではないかな。関係者各位の善処を期待します。

 まずは前菜、季節の根菜と苺のインサラータミスタ、リコッタチーズと一緒に。まるでカンディンスキーの絵のような美しい一皿、まず眼を喜ばせてくれます。さまざまな野菜の味が楽しめ、苺の濃密なドレッシングがきいています。
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 プリモ・ピアットは、北海道愛別町産王様エリンギ、ジャンボ舞茸、白アマトリチャーナの"フェデリーニ"。一番おいしかった一皿。二種のキノコの味、パスタの絶妙の茹で加減もさることながら、トマトを使っていないソース(白アマトリチャーナ)の複雑玄妙な味が素晴らしい。ただ惜しむらくは…量が少ない。せめてこの1.8倍は食べたいところです。
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 セコンド・ピアットは、真鯛のソテー、トピナンブールのクレマとクレソンのサルサ、ヴェルデと共に。真鯛はソースをかけずに、素材の味で真っ向勝負。皮のさくさくとした焼き加減が、舌を楽しませてくれました。
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 ドルチェは、イタリア産栗の焼きパンナコッタ、洋梨のジェラート添え。そしてコーヒーと小菓子でフィニート。
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 というわけで美味しうございました。窓のすぐ近くに桜並木があるので、春にまた来たいですね。
 ミュージアム・ショップで図録とクリア・ファイルとマグネットを購入。さて映画『否定と肯定』の上映開始まで一時間強あります。上映館は有楽町にあるので、移動にはそれほど時間はかからないでしょう。常設展を拝見して、時間に余裕があるようだったら、旧近衛師団司令部庁舎を保存活用した工芸館に寄ることにしました。まずは常設展「MOMATコレクション」を拝見いたしましょう。入口のところに展示作品案内のモニターがありましたが、安井仲治が撮影した「流氓ユダヤ 窓」という写真が展示されているようです。戦前に関西で活躍したアマチュア写真家で、十数年前に渋谷の松濤美術館で出会って以来ファンとなっています。
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 拙ブログのロゴ画像で使わせていただいておりますが、このユダヤ人たちは、杉原千畝在リトアニア領事の発行した通過ビザにより亡命し、神戸に一時滞在していた方々です。安井は丹平写真倶楽部の仲間である手塚粲(手塚治虫の父)らとともに彼らを撮影し、共同で「流氓ユダヤ」シリーズとして発表したそうです。なお、当時少年であった手塚治虫もこの時同行していたそうな。この作品との再会も楽しみです。

 エレベーターで4階にあがり、安井曽太郎の「金蓉」や高村光太郎の「手」といった日本近代美術の名品を堪能。オスカー・ココシュカ作「アルマ・マーラーの肖像」との再会も果たせました。谷中安規の版画作品も数点展示してあったのも僥倖でした。摩訶不思議でシュールな世界にしばし耽溺。
 小野忠重という版画家は不学にして存じ上げなかったのですが、ストライキやピケを描いた力強い作品が心に残りました。プロレタリア版画というジャンルがあるのでしょうか。記憶に留めておきたいアーティストです。なお、いま調べてみたところ、世田谷区阿佐ヶ谷に「小野忠重版画館」があるそうです。ぜひ訪れてみましょう。
 さて、期待していた安井仲治の写真ですが、展示されていませんでした。見落としたかな、それはないと思いますが。美術館のサイトによると、「難民」をテーマとした特集を行なうそうなので、そこで展示されるのかもしれません。それはさておき、この世界的なアポリアである問題を、美術とからめて考えてもらおうとする美術館学芸員諸氏の姿勢に見識を感じ、敬意を表します。
 おっとそろそろ映画館に行かねば、無念ですが工芸館は省かざるを得ません。2階から外へ出ようとすると、ガラスにイサム・ノグチの「門」というプレートが貼ってありました。どこだどこだ…もしや美術館前にある巨大な黒と赤の巨大な柱、あれがそうか。近くにいた学芸員の方に訊ねたところ間違いありません。これまでこちらは何回も訪れているのに、気づきませんでした。己の眼が節穴であることを恥じ、外へ出て撮影。そして前川國男設計の建物をあらためて写真におさめ、有楽町へと向かいました。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2018-01-17 06:36 | 美術 | Comments(0)

熊谷守一展

c0051620_6333469.jpg とある休日、山ノ神と二人で、竹橋にある国立近代美術館で「熊谷守一展」を、有楽町にあるTOHOシネマズシャンテで映画『否定と肯定』を見てきました。リュックサックに読みかけの『暴政 20世紀の歴史に学ぶ20のレッスン』(ティモシー・スナイダー 慶應義塾大学出版会)をほうりこみ、車中で読みながらまずは地下鉄東西線で竹橋へ。前川國男設計による美術館のシャープな外観を撮影して、それでは展覧会を鑑賞いたしましょう。おっとその前に、美術館内にあるレストラン「ラー・エ・ミクニ」の予約をしておかなければ。泣いて馬謖を斬る…じゃない、石橋を叩いて渡りましょう。美術館のサイトによると、美術館60周年を記して三國清三氏がプロデュースした、「芸術と料理」をテーマにフレンチとイタリアンを融合させたレストランだそうです。なるほど、「L'ART ET MIKUNI」、芸術と食事ということですね。受付で教えてもらった電話番号で連絡をとると、12:00に席をおさえることができました。

 実は私も山ノ神も、以前から守一さんのファンで、豊島区にある熊谷守一美術館を訪ねたり、彼の作品「眠り猫」を壁紙に使ったりしています。今回はかなり大規模な展覧会のようなので楽しみです。
 まずは近代美術館のサイトから、紹介文を引用します。
 熊谷守一(くまがい・もりかず 1880‐1977)は、明るい色彩とはっきりしたかたちを特徴とする作風で広く知られます。特に、花や虫、鳥など身近な生きものを描く晩年の作品は、世代を超えて多くの人に愛されています。
 その作品は一見ユーモラスで、何の苦もなく描かれたように思えます。しかし、70年以上に及ぶ制作活動をたどると、暗闇でのものの見え方を探ったり、同じ図柄を何度も使うための手順を編み出したりと、実にさまざまな探究を行っていたことがわかります。描かれた花や鳥が生き生きと見えるのも、色やかたちの高度な工夫があってのことです。穏やかな作品の背後には、科学者にも似た観察眼と、考え抜かれた制作手法とが隠されているのです。
 東京で久々となるこの回顧展では、200点以上の作品に加え、スケッチや日記などもご紹介し、画家の創造の秘密に迫ります。
 明治から昭和におよぶ97年の長い人生には、貧困や家族の死などさまざまなことがありました。しかし熊谷はひたすらに描き、95歳にしてなお「いつまでも生きていたい」と語りました。その驚くべき作品世界に、この冬、どうぞ触れてみて下さい。
 はい、触れてみましょう。展覧会は三部構成となっています。

【闇の守一:1900-10年代】 岐阜県恵那郡付知(つけち)村に生まれた守一は、1897(明治30)年に上京して、東京美術学校西洋画科撰科に入学し、黒田清輝、藤島武二らの指導を受けまず。この時期に描かれた絵は、後年の作風からは想像できないほど暗いものです。ロウソクのほのかな光に照らされて闇の中にかすかに浮かぶ自分を描いた「蝋燭」(1909)。線路に飛び込んで自殺した女性を描いた「轢死」(1908)にいたっては、絵の具の劣化もありますが、すべては闇の中に溶暗して何が描かれているのか判然としません。轢死体をテーマにすること自体も異様ですね。

【守一を探す守一:1920-50年代】 故郷に戻って木材運搬の仕事をしたあと、1915(大正4)年にふたたび上京し、画業に専念します。この時期の作品は、闇の世界から脱け出して、フォーヴィズムを思わせる荒々しいタッチで風景や裸婦を描いています。そしてユーモアをたたえた明晰なかたちと色という、独自の作風がじょじょに立ち現れていくのがわかります。もっとも心を打たれたのが「たまご」(1950)という絵です。茶一色を背景に、丸盆の上端の並ぶ四つの卵。彼には五人の子どもがいましたが、二人は早逝、このころ長女がなくなったので、互いを抱きしめるように生きる熊谷一家を表現したのでしょうか。色・構図・かたちがおりなす、ユーモアと緊張感にみちた小世界がみごとに表現されています。三枚の伸し餅と柄のとれた菜切り訪朝をシンプルに描いた「のしもち」(1949)もいいですね。解説によると、三個の餅を塗る際の筆の方向がすべて違うそうです。よく見ると、なるほどその通り。奥行きや立体感を表現するために、こうした細かい技も駆使しているのですね。このコーナーでは水墨画と書も展示されていましたが、「かみさま」「ほとけさま」「からす」「すゞめ」など、力が抜けた闊達なひらがなは魅力的でした。「蒼蠅」という書もすごい。普通、こんな言葉は選ばないと思いますが、さすがは守一さん。まるで蠅のように元気に飛び回るような字体が印象的です。生き2017(箱根・テニス部・富士宮・焼津・牧野記念庭園・小石川後楽園・京都・目黒川の桜・善福寺川緑地の桜・相模湖プレジャーフォレスト・長野の桜・三鷹・校内大会・長野・合唱コンクール・共謀罪反対集会・鎌倉の紫陽花・山城博治講演会・大平台の紫陽花・祇園祭・吉田博展・五山送り火・美瑛・記念祭・聖心女学院/豊多摩刑務所・体育祭・烏山神社・沖縄実踏・国会包囲大行動・富士山大周遊・渡良瀬渓谷・京都錦秋・歴博・旧朝倉家住宅・熊谷守一展・松輪サバ)とし生けるものへの、彼の愛情と興味がひしひしと伝わってきます。また貧窮のうちに餓死した長谷川利行が描いた、力強い「熊谷守一像」(制作年不詳)も展示されていました。二人は交流があったのですね、そういえば上野不忍池にある「利行碑」の揮毫も守一さんでした。
 このコーナーでは、彼が記した雑記帳も展示されていましたが、その内容が興味深い。カメラのレンズの焦点距離や現像液の成分、混色・補色など色彩の理論、音の振動数の計算など、科学者としての一面も有していたのですね。

【守一になった守一:1950-70年代】 明晰とユーモアにあふれたモリカズ・ワールドが全面開花した時期、もう言うことはありません。数多の名作を前に、眼を楽しませていただきました。「美の巨人たち」によると、52歳から亡くなるまでの45年、豊島区千早にある自宅(現熊谷守一美術館)からほとんど外出をしなかったそうです。そして庭の小動物や草花と向き合いながら、絵を描きつづけたのですね。猫、虻、蟻、蛙、地蜘蛛、亀、稚魚、蜻蛉、蝶、蜂、ハルシャ菊、かたばみ、いぬのふぐり、山茶花、げんげ、松虫草、向日葵、椿、彼岸花、水仙、雨垂れ、雪、池の水、霧、土塊、太陽、そして月。
 身近でありふれた生命と自然への敬愛、それと共にあることの喜びが、シンプルなかたちと色をもって伝わってきます。私が一番好きなのは「眠り猫」(1959)ですが、単純な円だけで描かれた「雨滴」(1961)も素敵です。ここまでくると、具象でも抽象でもなく、ただ"生きるよろこび"が画面に踊っているよう。出典は失念したのですが、彼が言ったとされる言葉です。
 絵を描くより、ほかのことをしているほうがたのしいです。欲なし、計画なし、夢なし、退屈なし、それでいていつまでも生きていたいのです。石ころ一つそばにあれば、それをいじって何日でも過せます。(熊谷守一)
 絵を見る喜びに包まれた至上のひと時でした。

 余談ですが、沖田修一監督・山崎努主演で、熊谷守一を描いた映画『モリのいる場所』が近々公開されるそうです。これは愉しみ、ぜひ見に行きましょう。
by sabasaba13 | 2018-01-16 06:34 | 美術 | Comments(0)

ユージン・スミス展

c0051620_8182516.jpg ユージン・スミス、その名を聞くと心が震えます。常に弱者や市井の人々の側に立ち、現実を写しつづけたカメラマン。以前に「gallery bauhaus」で彼の展覧会を見たことがあるのですが、生誕100年を回顧する大規模な展覧会が東京都写真美術館で開かれていると知り、山ノ神を誘って見に行きました。
 JR恵比寿駅で降りて、十分ほど動く歩道を歩いていくと、美術館に到着です。コンコースの壁に、ロベール・ドアノー、ロバート・キャパ植田正治の写真が大きくプリントされているのが印象的です。
まずは美術館の公式サイトから、紹介文を引用します。
生誕100年 ユージン・スミス写真展
 W.ユージン・スミス(1918-1978)は、写真史上、もっとも偉大なドキュメンタリー写真家のひとりです。グラフ雑誌『ライフ』を中心に「カントリー・ドクター」、「スペインの村」、「助産師モード」、「慈悲の人」など数多くの優れたフォト・エッセイを発表し、フォト・ジャーナリズムの歴史に多大な功績を残しました。とりわけ日本とのかかわりが深く、17歳のときニューヨークで偶然であった日系写真家の作品につよい感銘をうけ写真の道を志すきっかけになったこと、太平洋戦争に従軍して、戦争の悲惨で冷酷な現実をカメラで世に伝えんとして自らも沖縄戦で重傷を負ったこと、戦後の日本経済復興の象徴ともいえる巨大企業を取材した「日立」、その経済復興の過程で生じた公害汚染に苦しむ「水俣」の漁民たちによりそった取材などがあります。
 本展覧会は、生誕100年を回顧するもので、スミス自身が生前にネガ、作品保管を寄託したアリゾナ大学クリエイティヴ写真センターによる協力のもと、同館所蔵の貴重なヴィンテージ・プリント作品を150点展示します。情報あふれる現代社会に生きる私たちにとって、ジャーナリズムの原点をいま一度見つめ直すきっかけになることでしょう。
【1. 初期作品 1934-43】 解説を読んで知ったのですが、彼が写真家を志したのは、17歳のときにニューヨークで出会った日本人カメラマンの写真を見て感動したことがきっかけだったのですね。いったい誰なのでしょう。この時期の写真は、リベット打ちの労働者や溶接工を撮影するなど、後年の彼の姿勢がすでにあらわれています。

【2. 太平洋戦争 1943-45】 ユージン・スミスは『ライフ』誌所属の従軍カメラマンとして、サイパン島、硫黄島、沖縄などで激戦を取材しました。彼の言です。
 私は、戦争は悲惨だというとらえ方で仕事をしてきた。これらの写真で試みてきたことを、私はこれからも続けていきたい。戦争はこの世の縮図であり、様ざまな事柄が誤魔化しようもなく鮮明に現れる。人種的偏見、貧困、憎悪、偏狭は、平時の生活のうちにも蔓延するが、戦争の中でほど、否応なくはっきりとはとらえられない。
 戦争の中に、人種的偏見と貧困を見て取ったことは鋭いですね。「米軍の発煙手榴弾で、山中の洞窟から追い立てられる民間日本人」(1944)や「家畜のように連行される民間人」(1945)など、レイシズムにとらわれていない写真が印象的です。なお沖縄戦において迫撃弾の破片が左腕をひどく損傷し、回復に数カ月を要することになりました。その後にはじめて撮った写真が、私の大好きな一枚「楽園への歩み」(1946)だったのですね。森の闇の中から光溢れる世界に歩み出そうとする息子のパトリックと娘のホヮニータ、金儲けのために戦争をくりかえす世界の指導者たちに送り付けたい写真です。

【3. カントリー・ドクター 1948】 『ライフ』誌に掲載されたフォト・エッセイの傑作です。限界まで疲労困憊しながら人々を救おうとする地方の医者アーネスト・セリアーニを写した連作ですが、「分娩中に母子を死なせたアーネスト・セリアーニ医師」(1948)での、彼の静かな苦悶に満ちた表情が心に残ります。

【4. イギリス 1950】 イギリスのクレメント・アトリー首相の選挙運動を取材したフォト・エッセイですが、ウェールズの炭坑労働者やその暮らしの様子も撮影しています。余談ですが、政敵のW.チャーチルが"羊の皮をかぶった羊"と罵倒したアトリーですが、『今夜、自由を』(D・ラピエール&L・コリンズ ハヤカワ文庫NF)を読むと、インド独立に尽力した見識のある政治家であったことがわかります。

【5. スペインの村 1950】 イギリス取材中にスペインにも立ち寄り、「独裁者とその警察(※フランコ政権)に踏みにじられた生活がどのようなものか」を読者に伝えるために撮影したフォト・エッセイです。彼の言です。
 真のスペインとは、貧困のうちに沈みながらも、人々が恵みの少ない大地から、つましい生活の糧を得るために、のろのろと、だが、たゆまず働き続けているというような村々から成り立っている。
 数世紀に亘る忘却と、更に現在の強大な権力政治が、いまのスペイン人の上に重々しくのしかかっている。しかも、彼らは全体として見るとき、決して打ちのめされてはいないのである。人々は日中は働き、日没とともに眠る。そして、現世の生をたのみつつ、死の中から逃れようと働いているのである。
 私たちが村(※デレイトーサ)に着いた翌日、一人の婆さんが私たちについてきて、いろんな話をしたが、その中でこんなことをいった。「わたしら、お前さんが何商売だか知らないけど、誰かがアメリカの新聞記者だろうといってるだ。もし本当にそうなら、お前さんたちが見た通りのことを書いてもらいたいもんだね」。
 これは、政府のお役人たちの態度や希望とは全く違ったものであった。
 見た通りのことを書く(写す)、つまり"Post Truth"ではなく"Truth"を伝えてほしいということですね。彼の生涯を貫く姿勢だと思います。痩せ衰えた老人の死をみとる貧しい家族を撮った、まるで絵画のような「通夜」(1950)が印象的です。

【6. 助産師モード 1951】 彼は産婆術に関心をもっていたようで、サウスカロライナ州で出産の介助や地域の健康管理を行なうアフリカ系女性のモード・カレンを撮影したフォト・エッセイです。「火の気のないストーブと間に合わせのベビーベッドに寝る新生児」(1951)や「思いやりに感激する老人」(1951)などの作品から、アフリカ系アメリカ人の困窮への同情と差別への怒りが伝わってきます。

【7. 化学の君臨 1952】 化学洗剤をつくる工場を取材したフォト・エッセイです。さりげなく写した貨物列車に"MONSANTO"と記されていることから、ベトナム戦争で米軍が散布した枯葉剤をつくり、そして今は遺伝子組み換え作物の種の世界シェア90%を誇るモンサント社であることがわかります。ベルトコンベア、メーター機器、ローラーなどの機械の造形的な面白さに焦点を当てたようにも思える写真です。しかし写真の隅に労働者の小さな姿が写されているのを見ると、違うような気がします。最近読んだ『フクシマ・沖縄・四日市 差別と棄民の構造』(土井淑平 星雲社)にこのような一節がありました。
 赤と白の美しいコントラストを描いてそそり立つ煙突。白銀色のタンクの列。広大な土地と空間を占拠して臨海部に立ちはだかる四日市石油化学コンビナートの工場群-。それは動く抽象画を思わせる。しかし工場に足を踏み入れるとそんな感傷も一瞬のうちに吹き飛んでしまう。ごうごうと地響きを立ててうなり続ける機械の音。鼻をつく異様なにおい。それにもまして無気味なのは、どこまでも続く機械と装置の厚い壁である。そしてこの機械の壁に閉じ込められて働く人間の姿がまばらなのが目につく。それはあまりにも小さく、また機械の付属物のようにも見える。(p.215)
 そう、人間を機械の付属物とする社会への批判ではないでしょうか。ちなみに四日市ぜんそくを引き起こした企業の一つが、三菱化成との合併子会社、三菱モンサント化成です。(前掲書p.159)

【8. 季節農場労働 1953】 小さな子どもを含めた家族全員で果物摘みに従事するミラー一家を撮影したフォト・エッセイです。

【9. 慈悲の人 1954】 密林の聖者、アルベルト・シュヴァイツァーを撮影したフォト・エッセイです。彼は、シュヴァイツァーを単なる「慈悲の人」としてだけではなく「孤独な老人」として撮影しますが、『ライフ』誌が掲載した点数が少ないことに不満をもち、同社を辞めてしまいます。肩を落とし俯く「アルベルト・シュヴァイツァー」(1949)が忘れられない一枚です。なお『水と原生林のはざまで』(岩波文庫)を読むと、彼の考えがよくわかります。私事ですが、昔よく家に招き入れた野良猫に「ランバレネ」という名前を献上しました。

【10. ピッツバーグ 1955-56】 『ライフ』誌から離脱した後、彼はマグナム・フォトに加わりました。そして200年祭を迎えるピッツバーグ市についての本に掲載するための連作を撮影します。「ピッツバーグの艀」(1955-56)など、明暗の対比と見事な構図が印象的です。

【11. ロフトの暮らし 1957-60s】 マンハッタンの古ぼけたロフトに移り済んだスミスは、借金、そして沖縄戦で負傷した古傷の痛みや、それを和らげるための薬・アルコール依存に苦しみながらも、街の風景やロフトに集まるジャズマンを撮影しつづけます。「ピアノを演奏中のセロニアス・モンク」(1960s)や「アルバート・アイラ―」(1965)がいいですね。展示はされていませんが、他にもチャールズ・ミンガスビル・エヴァンスソニー・ロリンズのポートレートもあるそうです。ぜひ見てみたいですね。

【12. 日立 1961-62】 日立製作所やその製品を写真で紹介するという業務契約を結んで、来日したユージン・スミス。日本的なるものを写真で表現しようという試みでもあります。

【13. 水俣 1971-73】 その経緯については拙ブログの書評『写真集 水俣』をご一読ください。最後に図録にあった「水俣で写真を撮る理由」を紹介して、終わりたいと思います。
 写真はせいぜい小さな声にすぎないが、ときたま-ほんのときたま-一枚の写真、あるいは、ひと組の写真がわれわれの意識を呼び覚すことができる。写真を見る人間によるところが大きいが、ときには写真が、思考への触媒となるのに充分な感情を呼び起こすことができる。われわれのうちにあるもの-たぶん少なからぬもの-は影響を受け、道理に心をかたむけ、誤りを正す方法を見つけるだろう。そして、ひとつの病いの治癒の探究に必要な献身へと奮いたつことさえあるだろう。そうでないものも、たぶん、われわれ自身の生活から遠い存在である人びとをずっとよく理解し、共感するだろう。写真は小さな声だ。私の生活の重要な声である。それが唯一というわけでなないが、私は写真を信じている。もし充分に熟成されていれば、写真はときには物を言う。それが私-そしてアイリーン―が水俣で写真をとる理由である。

by sabasaba13 | 2018-01-08 08:19 | 美術 | Comments(0)

バーニー・フュークス展

 ♪つんつくつくつくつん つんつくつくつくつ ひゃらー♪

 迎春

 ふつつかで粗忽なブログですが、今年もよろしくお願いします。


c0051620_7131656.jpg 先日、山ノ神と「美の巨人たち」を観ていたら、「スプリング・トレーニング・マウンテンズ」という気になる絵に出逢いました。大リーグのキャンプ風景をテーマとした作品ですが、異様に縦長のキャンバスに、練習する選手たちとそれを見つめるスタンドの観客、そして残雪を戴く山が描かれています。主人公であるはずの選手たちは下部に小さく描かれ、それを見守る観客と山が主人公のようです。そして画面全体が柔らかな光の粒で充たされ、これから大好きな野球のシーズンが始まるという観客の期待感と幸福感があふれだしてくるようです。魅力的な絵ですね。日本プロ野球のオープン戦を描いた、村上春樹氏の傑作エッセイ「デイヴ・ヒルトンのシーズン」をふと思い出しました。(『雑文集』所収)
 作者はバーニー・フュークス、スポーツと絵画の融合という新しい地平を切り開いた20世紀のアメリカを代表するイラストレーターだそうです。いやはや、私の知らない素晴らしい画家がまだまだたくさんいそうですね。そうした方々との出逢いを思うと、嬉しくなりました。

 彼の展覧会が代官山ヒルサイドフォーラムで開かれているので、山ノ神と一緒に見に行くことにしました。インターネットで所在地を調べると、東横線代官山駅の近くですが、付近に旧朝倉家住宅があることを発見。東京府議会議長や渋谷区議会議長を歴任した朝倉虎治郎氏によって1919(大正8)年に建てられた数寄屋建築と回遊式庭園を見学することができるそうです。よろしい、こちらも寄ってみましょう。

 まずは旧朝倉家住宅、アップダウンの変化に富んだ野趣あふれる庭は、紅葉が見ごろでした。ちょっとした穴場ですね。
 そして代官山ヒルサイドフォーラムへ。小さい会場でしたが、充実した作品群でした。正確な写実力、光の印象的な描写、大胆な構図などに目を瞠られませす。イタリアの街を描いた絵や、エリザベス女王やJFKのポートレートも魅力的でしたが、やはり野球やゴルフなどのスポーツを描いた作品が心に残ります。プレーヤーが、時には観衆と共に、光あふれる美しい自然の中でスポーツに打ち興じる姿に、生きる喜びをひしひしと感じます。しかも、ゴルファーやスキーヤーはキャンバスの端の方に描かれ、主役となるのはあくまでも自然なのですね。
 またドラマを感じさせる何枚かの絵も素晴らしい。前述の「スプリング・トレーニング・マウンテンズ」の観客席には、カップルや子ども、老人などが描かれていて、それぞれの人生に思いを馳せてしまいます。またボストン・レッドソックスの本拠地フェンウェイ・パーク左中間にある巨大なフェンス、グリーン・モンスターを中心に描いた絵や、フェンスの隙間から選手たちを一心不乱に見つめる少年の絵なども面白いですね。いったいどんなドラマがあるのでしょう。

 アメリカの画家ではベン・シャーンノーマン・ロックウェルが大好きですが、またひとり記憶に留めたい画家と出逢えました。

 なおインターネットで、バーニー・フュークスについて調べていると、わが敬愛するパブロ・カザルスのポートレートを描いていることがわかりました。オスカー・ココシュカが描いた肖像画は知っていますが、あまり好きにはなれません。どんな絵だろう、気になったのでインターネットで一所懸命に探したら、ようやく見つかりました。画面の中央に大きくグランド・ピアノが描かれ、パイプをくわえてそれを弾くカザルスが右端に小さく描かれています。しかも逆光の中で影となっており、表情などの細部はよくわかりません。しかし彼の音楽に対する真摯な思いが伝わる一枚です。彼が日課にしていたという、J・S・バッハの「平均律クラヴィーア曲集」を弾いているところでしょうか。
by sabasaba13 | 2018-01-01 07:13 | 美術 | Comments(0)

沢田教一展

c0051620_6211113.jpg 先日、髙島屋日本橋店で開かれていた「写真家 沢田教一展 -その視線の先に」を、山ノ神と一緒に見てきました。到着したのは開店五分前、地下入口前に年配の方々がたくさんおられて待っているのには驚きました。そしてうら若き女性店員さんが、一本の赤い薔薇を手にして登場。さては一番乗りのお客さんに進呈するのかなと思ったのですが、なにやら前口上を述べて薔薇とともに立ち去りました。
 ま、それはさておき、8階ホールに行き、写真展を鑑賞しました。まずはチラシのサマリーから転記します。
 1965年からベトナム戦争で米軍に同行取材し、最前線で激しい戦闘や兵士の表情などを数多く写真に収めた写真家、沢田教一(1936-70)。輝かしい実績を残し、「安全への逃避」でピュリッツァー賞を獲得しています。沢田の写真に通底するのは、優しい眼差し。疲れ果てた名もなき兵士はうずくまり、家を追われた罪なき市民は荷物を抱え、故郷・青森の貧しい漁民には寒風が吹きすさぶ…、しかし皆、かすかな希望を頼りに強く懸命に日々を生きていました。その「希望」こそ、沢田が追い続けた被写体だったのではないでしょうか。妻・サタさんをはじめ関係者の証言を紡ぎながら、34歳で殉職した沢田の業績をたどります。
 ベトナム戦争を報道したカメラマンとして、沢田教一、石川文洋、岡村昭彦、一ノ瀬泰造の名を知っていましたが、中でも沢田による、水の中を逃げ惑うベトナム人母子を撮影した一枚「安全への逃避」が心に残っています。その彼の代表作が一堂に見られるということで、期待してやってきました。

 まずは彼の故郷である青森や、カメラマンとして勤務した三沢の米軍基地を題材とした写真がならびます。彼は常々「そこに生きる人々を、そして風土を撮りたいんだ」(図録以下同p.357)と言っていたそうですが、それがよくわかりました。青森の厳しい風土と、そこで精一杯暮らす市井の人びと、沢田のあたたかい視線を感じます。幼子を背負った母が、粗末な木橋を危なそうに渡る写真を印象的でしが。この母子のモチーフはベトナムにおいてもよく撮影されます。彼が愛したモチーフだったのですね。
 さて青森・三沢とくると、気になるのが同世代の異才・寺山修司(1935-83)との関係です。妻・サタさんの記憶によると、沢田は寺山を鋭く意識していたようです。彼女の証言です。
 上京しUPI東京支局に職を得てからだから、1961(昭和36)年以降のことだ。サタは思い出す。「『年賀状を出したけど、寺山から返事が来ないなあ』と、沢田がさびしそうにポツッと言ったことがあるの。ずいぶんしょげてたから『あっちがペンで頑張っているのなら、こっちはカメラで対抗しなさいよ』と言ったのよ。UPIに勤めてからは生活のめども立ったし、余裕が出てきたころ。寺山さんの名前がグングン出てきたから、自分から連絡したんじゃないのかな」(p.371)
 そして上京しUPI通信に入社、ベトナムへと旅立つわけですが、図録によると、戦場カメラマンとして活躍していた岡村昭彦の影響を受けたようです。岡村の言です。
 おれはまっしぐらに戦場へゆくのだ。戦争の内臓を世界中の人類のまえにさらけだし、地球上からそれをなくすためにはどうすればよいのかを、一人一人に問いつめてやるのだ。(p.359)
 世界的名声を手にするという野心とライカM2と共に、ベトナムの戦場にやってきた沢田は、みごとな写真を撮りつづけます。まず会場に展示されていたのは、アメリカ軍兵士とその戦闘を撮影した写真の数々です。そのおそろしいほどの緊迫感と臨場感に圧倒されました。遮蔽物や戦車に身を隠す兵士、草むらに身を伏せる兵士、砲撃の中突撃する兵士… 毎日新聞特派員・徳岡孝夫が驚いたのは、沢田が、兵士たちが伏せている時に立ち上がり、兵士たちが逃げている時に、ただ一人立ちどまって撮影したいたことです。(p.384)
 そしてひとりの人間としての兵士が抱く、さまざまな感情や思いを、沢田のカメラは掬いとるようにフィルムに記録します。恐怖、不安、怒り、憎悪、絶望、自失、安堵… 図録の中に、アンリ・カルティエ・ブレッソンの言葉がありました。
 ひとの写真を撮るのは恐ろしいことでもある。なにかしらの形で相手を侵害することになる。だから、心遣いを欠いては、(写真は)粗野なものになりかねない。(p.360)
 思うに、彼の兵士に対する心遣いが、彼らの心の被膜をとりさり心底を露わにさせたのでしょう。ただ煙草を吸いながら「なぜ俺を撮る」と言わんばかりにレンズを、あるいは沢田を見据える兵士の写真が忘れられません。

 そして彼の写真の真骨頂は、被害者であるベトナムの人びとを写した写真です。米軍に捕らえられた解放戦線の兵士たちの不屈の面構えに、「侵略者を追い出し独立を守る」という強い意志を感じました。この戦争の目的が理解できない米軍兵士とは大きな違いです。
 胸をしめつけられたのは、ベトナムの民衆を撮影した写真です。逃げ惑う母子、泣き崩れる老婆、命乞いをする女性、ナパーム弾で火傷を負った母親にしがみつく幼子、怯える子供。「この人たちにどんな罪があるんだ」という沢田の叫びが聞こえてきそうな写真の数々。その一方で、戦火の中でも、逞しく生きる人びとの姿も心に残ります。彼ら彼女ら、そして子供たちの素敵な笑顔! これもやはり彼の心遣いの賜物なのでしょう。

 会場には、愛用のライカとヘルメット、使用した食器など沢田教一の遺品も展示されていました。彼はクラシック音楽が好きだったそうで、プレーヤーと彼が愛聴したレコードもありました。彼を癒した曲は何だったのか、紹介します。ショスタコーヴィチ交響曲第7番「レニングラード」(バーンスタイン+ニューヨーク・フィル)、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲(ルドルフ・ゼルキン)、ブラームス交響曲全集(カラヤン+ベルリン・フィル)です。

 命を賭けて戦争のおぞましさを撮りつづけ、そして平和な暮らしの尊さを訴えた沢田教一。忘れられない、忘れてはいけない写真家の一人です。戦争大好きおじさん/おばさんがごろごろいる昨今の日本、彼の写真をときどき思い出すことにしましょう。彼の言葉です。
 平和になったら、ベトナムを北から南までゆっくり撮影旅行したいな。ベトナム人の笑顔って最高なんだよ。(p.365)

 人間は戦場にいたら感覚がまひしてしまう。それが恐ろしいんだ。(p.384)

 戦争を教えるにしても、私自身が戦争を知らない。その本当の姿をわからせるのは、戦場の写真だけなのだ。(p.395)
 ベトナム戦争に関する書籍では、『パクス・アメリカーナの五十年』(トマス・J・マコーミック 東京創元社)と『ヘゲモニー国家と世界システム』(松田武・秋田茂編 山川出版社)がお薦めです。アメリカは、日本のためにベトナム戦争を遂行したという衝撃の事実を明らかにしています。ベトナム帰還兵が告白した『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』(アレン・ネルソン 講談社)も素晴らしい。兵士の眼から見た戦争をリアルに感じ取ることができます。今、読んでいるのが『ベスト&ブライテスト』(デイヴィッド・ハルバースタム 朝日文庫)。ケネディが集め、ジョンソンが受け継いだ「最良にしても最も聡明な」人材だと絶賛されたエリート達が、なぜ米国を非道なベトナム戦争という泥沼に引きずり込んでしまったのか。賢者たちの愚行を、綿密な取材で克明に綴るベトナム問題の記念碑的レポートです。またベトナム戦争に関するポップスやロックも数多つくられましたが、ボブ・ディランとレオン・ラッセルの「戦争の親玉」と、ビリー・ジョエルの「グッドナイト・サイゴン」が出色の出来ですね。

 なおベトナムで戦った米兵たちの証言を集めた『人間の崩壊』(マークレーン著 鈴木主税訳 鶴見良行解説 合同出版)という恐るべき書があるのですが、残念ながら絶版です。この本を読むと、この戦争が、人種主義にもとづいたアメリカ政府と軍、そして戦場の兵士ぐるみの犯罪であることがよくわかります。今なおアメリカ政府は、この国家犯罪を認めていません。その結果、アフガニスタンやイラクで同様の国家犯罪を繰り返しているのでしょう。過ちを認めず、隠蔽し、謝罪もしないし責任もとらない。何と品格に欠けた国であることか。同じく国家犯罪を認めない日本が、アメリカの属国として尻尾を振るのも宜なるかな。いくつかの証言を紹介します。
 まず訓練からはじめることにする。明らかな証拠にうながされる結論は、海兵隊の基礎訓練が野蛮で、非人間的だということである。その訓練の目標は、個人の思想を能うかぎり卑小なものにし、若者を殺人機械の有効な歯車に変えることである。(p.9)

 ベトナムにいる兵士たちへ
 壁にかける野蛮人(クーン)の皮膚を持って帰還せよ。
 -リンドン・B・ジョンソン合衆国大統領の訓戒 (p.35)

リチャード・ダウ
問 君は、自分がなぜそこにいたのか知っていたか?
答 正直言って、わからない。聞かされていたのは、共産主義者の手からベトナム人を救うのだということだった。われわれはだれも救いはしなかった。ただ殺しただけだ。われわれはなぜあそこに派遣されたのだろう? 正直なところ、自分にはわからない。(p.46)

ピーター・ノーマン・マーティンセン
 戦争の場にほうりこまれ、その非人間性、蛮行、そしてとりわけ自分が助けるとされている人びとから憎まれていることが明らかな戦争に加わっていることからくる挫折感に触れれば、だれだって化物に変えられてしまう。ありとあらゆる面で、文字通りの化物になってしまうのだ。(p.165)

ジェームズ・D・ヘンリー
 とにかく、それらの民間人を殺すについては、何の理由もなかった。殺されたすべての民間人は、必要もなく殺された者たちだ。つまり、彼らを殺したところで、まったく意味がなかった。彼らは戦争とは何の関係もなかった。なぜなら、彼らはどちらの側からも殺されていたからだ。ベトコンに殺され、北ベトナム軍に殺され、アメリカ軍に殺され、南ベトナム軍に殺されるのだ。彼らこそが、困難な目にあわされている者たちだ。彼らこそが、逃げ出すわけにはいかない者たちなのだ。(p.174)

 こうしたすべてのことについての重要なポイントは、民間人を殺した兵隊たちには責任があるが、彼らにそんなことをさせないような訓練をしなかったという点で軍隊に究極の責任があるということだ。(p.177)

 だれについても口実はまったく存在しない。人種主義がその大部分を占めている。つまり、そのほとんどは、人種主義のせいだと思うんだ。純粋かつ単純な人種主義だ。ベトナム人は敵ではないからして、グックなのだ。彼らは白人ではなく、ただのグックなのだ。だれでも彼らよりは偉く、二等兵さえもそれより階級が上なのだ。彼らはちっぽけで、遅れていると考えられているが、それでも彼らは私にはできない多くのことをやってのける能力を持っている。とにかく、その理由のおおかたは人種主義なのだ。(p.178)

ビル・コンウェイ
 その男が終わると、別の兵隊が彼女を犯した。娘は悲鳴をあげた。兵隊は彼女を殴り、おとなしくしろと言った。娘は「チェウホイ」と言いつづけた。つまり降伏したいという意味だ。五人全部がその娘を犯すと、あとの二人が彼女を犯し、その間二人の者が残りの二人の娘に銃を向けて見張りをした。それから、その二人の娘についても同じことがくりかえされた。それぞれの娘が何度も強姦されたのだ。彼女らはその間ずっと泣き叫んでいた。強姦がすむと、GIたちの三人が投擲照明弾を取り出し、娘たちの性器につっこんだ。彼女らはその時には意識を失っていた。どの一人ももはや押さえつけておく必要がなかった。娘たちは口や鼻や顔、そして性器から血を流していた。そのあと、彼らは照明弾の外の部分をたたき、それは娘たちの身体の中に入っていった。胃袋が急にふくれあがったかと思うと、弾は身体の中で爆発した。胃袋が破裂し、内臓が身体の外に垂れ下がった。(p.182)

ジョセフ・グラント
問 ベトナム人の子どもを戦争から保護するために特別な配慮がはらわれていたか?
答 それは不可能だ。彼らは戦争の一部なのだから。(p.193)

ピート・シューラー
 圧倒的に、黒人がていよく利用されているという感情だったと思う。彼らは、戦場にいる自分たちの割合が、国にいる時よりもずっと高いということを知っていたし、自分たちが従軍しているたいていの白人よりも危険の大きい任務につかされているということを知っていた。あるいは少なくともそういう感情を抱いていたと思う。(p.202)

ゲイリー・ジャンニノート
 彼らは来る日も来る日もどこかへ出動させられ、何をしていいかわからぬままに、ベトナム人に矛先を向けるのだ。なぜなら彼らは、それらの人びとは劣っている、自分たちよりも遅れている、つまりただの東洋人だと教えられているからだ。(p.212)

ロバート・H・バウアー
 そのことで裁判にかけられるべき人間は、ニクソンであり、レアードであり、ジョンソンなのだ。それらの犯罪について告発されるべきは、わが国の政府の権力の座についている人びとであって、それを実際に遂行した人間ではないのだ。(p.233)

by sabasaba13 | 2017-09-01 06:22 | 美術 | Comments(0)