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堀文子展

 新逗子駅から20分ほどバスに乗ると、神奈川県立近代美術館葉山館に着きました。私は以前に「ベン・シャーン展」を見に来たことがあるのですが、山ノ神ははじめてです。おっどこかで会ったことがある二人組がいます。そうだ、今はなきカマキン(神奈川県立近代美術館鎌倉館)にいたイサム・ノグチ作の「コケシ」です。よかった、こんな風光明媚な場所で余生を過ごせるんだね。御慶。受付で入場料を支払おうとすると、「三浦半島1DAYきっぷ」をもっているので100円割引となりました。こいつは冬から縁起がいいわいpart5。

c0051620_14312546.jpg それでは「堀文子展」を拝見しましょう。美術館の公式サイトから紹介文を転記します。
 未知のものを求め、自然と生命を描きつづける日本画家・堀文子の清新な世界を紹介する展覧会です。初期作品や絵本の原画をはじめ、メキシコ、イタリア、ネパールなど世界各地への旅や、四季と草花のうつろいを描いた代表作を展示し、その芸術と人間像に迫ります。
 寡聞にして知らなかった日本画家ですが、素晴らしい数々の絵に出会えて幸福でした。購入した図録によると、1918(大正7)年生まれ、よってこの展覧会開催時には99歳、白寿です。父親の反対を押し切って女子美術専門学校(現/女子美術大学)日本画部に入学。美術に自由を求めた彼女は、官展からは距離を置き、権威におもねらない姿勢を貫きました。

 どの絵からも、自然や動植物に対する愛情と畏敬が伝わってきます。澄んだ色調、自由な構成、そして的確な描写力に見惚れてしまいました。また海外に長く滞在したこともあり、異国の自然や人びと、異文化に対する飽くなき興味と敬意にも心打たれます。
 特に気に入った絵は三枚。まずは「トスカーナの花野」(1990)。起伏に富んだトスカーナの沃野、たちならぶ糸杉、そして百花繚乱に咲き乱れる花々、見ているだけで夢心地となりました。彼女の言です。
 二枚目は「霧氷」(1982)。彼女が住んでいた軽井沢の風景でしょうか、朝霧のなかに、霧氷を美しく纏った木々が描かれています。彼女の言です。
 厳冬の二月。この木の梢は、精緻なガラス細工に変るのだ。夜の中(うち)に、レースをかけたように細い枝が氷に包まれ、朝日を浴びて輝く霧氷の森となる。その神々しさは此の世のものではない。陽が昇るにつれ、枝のガラスはキラキラと身を躍らせ散り落ちる。歩く度に氷の梢が虹色に変り、ふりしきるガラスの糸に見とれて、私は気もそぞろに歩き廻る。
 三枚目は「アフガンの王女」(2003)です。図録の解説によると、ユニセフ親善大使をつとめる黒柳徹子から送られた絵葉書をもとに描いた絵です。山ノ神曰く、「徹子の部屋」にこの絵が飾られているとのこと。そういえばそこはかとなく彼女に似ています。青を基調とした美しい.っ民族衣装を着て、こちらを見つめる凛とした女性。心に残る一枚です。注目したいのは、この絵が2003年に描かれたということです。2001年9月11日の米国同時多発テロ事件を受け、アメリカ合州国を中心とする北大西洋条約機構(NATO)がアフガニスタン戦争を始めたのが2001年10月。その二年後に描かれたのですね。無辜の人びとを苦しめる戦争、その戦争を引き起こした国々の指導者、それを支持した国民に対する、無言の厳しい抗議を感じます。

 海が見えるレストランに入って珈琲を飲みながら一休み。ベランダに出ると、空を真っ赤に染め上げる美しい夕映え、そして海の向こうには夕雲を纏った富士のシルエットがよく見えました。

 松輪サバ、海、猫、富士山、堀文子、三浦半島1DAYきっぷ、いろいろな良きものに出会えた良き一日でした。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2018-01-22 14:33 | 美術 | Comments(0)

国立近代美術館

 時刻は12:00すこし前、予約しておいた美術館内のレストラン「ラー・エ・ミクニ(L'ART ET MIKUNI)」に参りましょう。中に入るとほぼ満席、つぎつぎとやって来る飛び込み客が入店を断られていました。予約をしておいてよかった。メニューは、パスタ・ランチ(2160円)、メニュー・ディ・ピッコロ(3500円)、メニュー・ディ・グランデ(5500円)、自称中産階級底辺層のわれわれとしては、メニュー・ディ・ピッコロが許容範囲ぎりぎりです。まあこういう高級レストランが美術館にあってもいいのですが、もうひとつ手軽に珈琲や軽食をいただけるカジュアルなカフェがあるべきではないかな。関係者各位の善処を期待します。

 まずは前菜、季節の根菜と苺のインサラータミスタ、リコッタチーズと一緒に。まるでカンディンスキーの絵のような美しい一皿、まず眼を喜ばせてくれます。さまざまな野菜の味が楽しめ、苺の濃密なドレッシングがきいています。
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 プリモ・ピアットは、北海道愛別町産王様エリンギ、ジャンボ舞茸、白アマトリチャーナの"フェデリーニ"。一番おいしかった一皿。二種のキノコの味、パスタの絶妙の茹で加減もさることながら、トマトを使っていないソース(白アマトリチャーナ)の複雑玄妙な味が素晴らしい。ただ惜しむらくは…量が少ない。せめてこの1.8倍は食べたいところです。
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 セコンド・ピアットは、真鯛のソテー、トピナンブールのクレマとクレソンのサルサ、ヴェルデと共に。真鯛はソースをかけずに、素材の味で真っ向勝負。皮のさくさくとした焼き加減が、舌を楽しませてくれました。
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 ドルチェは、イタリア産栗の焼きパンナコッタ、洋梨のジェラート添え。そしてコーヒーと小菓子でフィニート。
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 というわけで美味しうございました。窓のすぐ近くに桜並木があるので、春にまた来たいですね。
 ミュージアム・ショップで図録とクリア・ファイルとマグネットを購入。さて映画『否定と肯定』の上映開始まで一時間強あります。上映館は有楽町にあるので、移動にはそれほど時間はかからないでしょう。常設展を拝見して、時間に余裕があるようだったら、旧近衛師団司令部庁舎を保存活用した工芸館に寄ることにしました。まずは常設展「MOMATコレクション」を拝見いたしましょう。入口のところに展示作品案内のモニターがありましたが、安井仲治が撮影した「流氓ユダヤ 窓」という写真が展示されているようです。戦前に関西で活躍したアマチュア写真家で、十数年前に渋谷の松濤美術館で出会って以来ファンとなっています。
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 拙ブログのロゴ画像で使わせていただいておりますが、このユダヤ人たちは、杉原千畝在リトアニア領事の発行した通過ビザにより亡命し、神戸に一時滞在していた方々です。安井は丹平写真倶楽部の仲間である手塚粲(手塚治虫の父)らとともに彼らを撮影し、共同で「流氓ユダヤ」シリーズとして発表したそうです。なお、当時少年であった手塚治虫もこの時同行していたそうな。この作品との再会も楽しみです。

 エレベーターで4階にあがり、安井曽太郎の「金蓉」や高村光太郎の「手」といった日本近代美術の名品を堪能。オスカー・ココシュカ作「アルマ・マーラーの肖像」との再会も果たせました。谷中安規の版画作品も数点展示してあったのも僥倖でした。摩訶不思議でシュールな世界にしばし耽溺。
 小野忠重という版画家は不学にして存じ上げなかったのですが、ストライキやピケを描いた力強い作品が心に残りました。プロレタリア版画というジャンルがあるのでしょうか。記憶に留めておきたいアーティストです。なお、いま調べてみたところ、世田谷区阿佐ヶ谷に「小野忠重版画館」があるそうです。ぜひ訪れてみましょう。
 さて、期待していた安井仲治の写真ですが、展示されていませんでした。見落としたかな、それはないと思いますが。美術館のサイトによると、「難民」をテーマとした特集を行なうそうなので、そこで展示されるのかもしれません。それはさておき、この世界的なアポリアである問題を、美術とからめて考えてもらおうとする美術館学芸員諸氏の姿勢に見識を感じ、敬意を表します。
 おっとそろそろ映画館に行かねば、無念ですが工芸館は省かざるを得ません。2階から外へ出ようとすると、ガラスにイサム・ノグチの「門」というプレートが貼ってありました。どこだどこだ…もしや美術館前にある巨大な黒と赤の巨大な柱、あれがそうか。近くにいた学芸員の方に訊ねたところ間違いありません。これまでこちらは何回も訪れているのに、気づきませんでした。己の眼が節穴であることを恥じ、外へ出て撮影。そして前川國男設計の建物をあらためて写真におさめ、有楽町へと向かいました。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2018-01-17 06:36 | 美術 | Comments(0)

熊谷守一展

c0051620_6333469.jpg とある休日、山ノ神と二人で、竹橋にある国立近代美術館で「熊谷守一展」を、有楽町にあるTOHOシネマズシャンテで映画『否定と肯定』を見てきました。リュックサックに読みかけの『暴政 20世紀の歴史に学ぶ20のレッスン』(ティモシー・スナイダー 慶應義塾大学出版会)をほうりこみ、車中で読みながらまずは地下鉄東西線で竹橋へ。前川國男設計による美術館のシャープな外観を撮影して、それでは展覧会を鑑賞いたしましょう。おっとその前に、美術館内にあるレストラン「ラー・エ・ミクニ」の予約をしておかなければ。泣いて馬謖を斬る…じゃない、石橋を叩いて渡りましょう。美術館のサイトによると、美術館60周年を記して三國清三氏がプロデュースした、「芸術と料理」をテーマにフレンチとイタリアンを融合させたレストランだそうです。なるほど、「L'ART ET MIKUNI」、芸術と食事ということですね。受付で教えてもらった電話番号で連絡をとると、12:00に席をおさえることができました。

 実は私も山ノ神も、以前から守一さんのファンで、豊島区にある熊谷守一美術館を訪ねたり、彼の作品「眠り猫」を壁紙に使ったりしています。今回はかなり大規模な展覧会のようなので楽しみです。
 まずは近代美術館のサイトから、紹介文を引用します。
 熊谷守一(くまがい・もりかず 1880‐1977)は、明るい色彩とはっきりしたかたちを特徴とする作風で広く知られます。特に、花や虫、鳥など身近な生きものを描く晩年の作品は、世代を超えて多くの人に愛されています。
 その作品は一見ユーモラスで、何の苦もなく描かれたように思えます。しかし、70年以上に及ぶ制作活動をたどると、暗闇でのものの見え方を探ったり、同じ図柄を何度も使うための手順を編み出したりと、実にさまざまな探究を行っていたことがわかります。描かれた花や鳥が生き生きと見えるのも、色やかたちの高度な工夫があってのことです。穏やかな作品の背後には、科学者にも似た観察眼と、考え抜かれた制作手法とが隠されているのです。
 東京で久々となるこの回顧展では、200点以上の作品に加え、スケッチや日記などもご紹介し、画家の創造の秘密に迫ります。
 明治から昭和におよぶ97年の長い人生には、貧困や家族の死などさまざまなことがありました。しかし熊谷はひたすらに描き、95歳にしてなお「いつまでも生きていたい」と語りました。その驚くべき作品世界に、この冬、どうぞ触れてみて下さい。
 はい、触れてみましょう。展覧会は三部構成となっています。

【闇の守一:1900-10年代】 岐阜県恵那郡付知(つけち)村に生まれた守一は、1897(明治30)年に上京して、東京美術学校西洋画科撰科に入学し、黒田清輝、藤島武二らの指導を受けまず。この時期に描かれた絵は、後年の作風からは想像できないほど暗いものです。ロウソクのほのかな光に照らされて闇の中にかすかに浮かぶ自分を描いた「蝋燭」(1909)。線路に飛び込んで自殺した女性を描いた「轢死」(1908)にいたっては、絵の具の劣化もありますが、すべては闇の中に溶暗して何が描かれているのか判然としません。轢死体をテーマにすること自体も異様ですね。

【守一を探す守一:1920-50年代】 故郷に戻って木材運搬の仕事をしたあと、1915(大正4)年にふたたび上京し、画業に専念します。この時期の作品は、闇の世界から脱け出して、フォーヴィズムを思わせる荒々しいタッチで風景や裸婦を描いています。そしてユーモアをたたえた明晰なかたちと色という、独自の作風がじょじょに立ち現れていくのがわかります。もっとも心を打たれたのが「たまご」(1950)という絵です。茶一色を背景に、丸盆の上端の並ぶ四つの卵。彼には五人の子どもがいましたが、二人は早逝、このころ長女がなくなったので、互いを抱きしめるように生きる熊谷一家を表現したのでしょうか。色・構図・かたちがおりなす、ユーモアと緊張感にみちた小世界がみごとに表現されています。三枚の伸し餅と柄のとれた菜切り訪朝をシンプルに描いた「のしもち」(1949)もいいですね。解説によると、三個の餅を塗る際の筆の方向がすべて違うそうです。よく見ると、なるほどその通り。奥行きや立体感を表現するために、こうした細かい技も駆使しているのですね。このコーナーでは水墨画と書も展示されていましたが、「かみさま」「ほとけさま」「からす」「すゞめ」など、力が抜けた闊達なひらがなは魅力的でした。「蒼蠅」という書もすごい。普通、こんな言葉は選ばないと思いますが、さすがは守一さん。まるで蠅のように元気に飛び回るような字体が印象的です。生き2017(箱根・テニス部・富士宮・焼津・牧野記念庭園・小石川後楽園・京都・目黒川の桜・善福寺川緑地の桜・相模湖プレジャーフォレスト・長野の桜・三鷹・校内大会・長野・合唱コンクール・共謀罪反対集会・鎌倉の紫陽花・山城博治講演会・大平台の紫陽花・祇園祭・吉田博展・五山送り火・美瑛・記念祭・聖心女学院/豊多摩刑務所・体育祭・烏山神社・沖縄実踏・国会包囲大行動・富士山大周遊・渡良瀬渓谷・京都錦秋・歴博・旧朝倉家住宅・熊谷守一展・松輪サバ)とし生けるものへの、彼の愛情と興味がひしひしと伝わってきます。また貧窮のうちに餓死した長谷川利行が描いた、力強い「熊谷守一像」(制作年不詳)も展示されていました。二人は交流があったのですね、そういえば上野不忍池にある「利行碑」の揮毫も守一さんでした。
 このコーナーでは、彼が記した雑記帳も展示されていましたが、その内容が興味深い。カメラのレンズの焦点距離や現像液の成分、混色・補色など色彩の理論、音の振動数の計算など、科学者としての一面も有していたのですね。

【守一になった守一:1950-70年代】 明晰とユーモアにあふれたモリカズ・ワールドが全面開花した時期、もう言うことはありません。数多の名作を前に、眼を楽しませていただきました。「美の巨人たち」によると、52歳から亡くなるまでの45年、豊島区千早にある自宅(現熊谷守一美術館)からほとんど外出をしなかったそうです。そして庭の小動物や草花と向き合いながら、絵を描きつづけたのですね。猫、虻、蟻、蛙、地蜘蛛、亀、稚魚、蜻蛉、蝶、蜂、ハルシャ菊、かたばみ、いぬのふぐり、山茶花、げんげ、松虫草、向日葵、椿、彼岸花、水仙、雨垂れ、雪、池の水、霧、土塊、太陽、そして月。
 身近でありふれた生命と自然への敬愛、それと共にあることの喜びが、シンプルなかたちと色をもって伝わってきます。私が一番好きなのは「眠り猫」(1959)ですが、単純な円だけで描かれた「雨滴」(1961)も素敵です。ここまでくると、具象でも抽象でもなく、ただ"生きるよろこび"が画面に踊っているよう。出典は失念したのですが、彼が言ったとされる言葉です。
 絵を描くより、ほかのことをしているほうがたのしいです。欲なし、計画なし、夢なし、退屈なし、それでいていつまでも生きていたいのです。石ころ一つそばにあれば、それをいじって何日でも過せます。(熊谷守一)
 絵を見る喜びに包まれた至上のひと時でした。

 余談ですが、沖田修一監督・山崎努主演で、熊谷守一を描いた映画『モリのいる場所』が近々公開されるそうです。これは愉しみ、ぜひ見に行きましょう。
by sabasaba13 | 2018-01-16 06:34 | 美術 | Comments(0)

ユージン・スミス展

c0051620_8182516.jpg ユージン・スミス、その名を聞くと心が震えます。常に弱者や市井の人々の側に立ち、現実を写しつづけたカメラマン。以前に「gallery bauhaus」で彼の展覧会を見たことがあるのですが、生誕100年を回顧する大規模な展覧会が東京都写真美術館で開かれていると知り、山ノ神を誘って見に行きました。
 JR恵比寿駅で降りて、十分ほど動く歩道を歩いていくと、美術館に到着です。コンコースの壁に、ロベール・ドアノー、ロバート・キャパ植田正治の写真が大きくプリントされているのが印象的です。
まずは美術館の公式サイトから、紹介文を引用します。
生誕100年 ユージン・スミス写真展
 W.ユージン・スミス(1918-1978)は、写真史上、もっとも偉大なドキュメンタリー写真家のひとりです。グラフ雑誌『ライフ』を中心に「カントリー・ドクター」、「スペインの村」、「助産師モード」、「慈悲の人」など数多くの優れたフォト・エッセイを発表し、フォト・ジャーナリズムの歴史に多大な功績を残しました。とりわけ日本とのかかわりが深く、17歳のときニューヨークで偶然であった日系写真家の作品につよい感銘をうけ写真の道を志すきっかけになったこと、太平洋戦争に従軍して、戦争の悲惨で冷酷な現実をカメラで世に伝えんとして自らも沖縄戦で重傷を負ったこと、戦後の日本経済復興の象徴ともいえる巨大企業を取材した「日立」、その経済復興の過程で生じた公害汚染に苦しむ「水俣」の漁民たちによりそった取材などがあります。
 本展覧会は、生誕100年を回顧するもので、スミス自身が生前にネガ、作品保管を寄託したアリゾナ大学クリエイティヴ写真センターによる協力のもと、同館所蔵の貴重なヴィンテージ・プリント作品を150点展示します。情報あふれる現代社会に生きる私たちにとって、ジャーナリズムの原点をいま一度見つめ直すきっかけになることでしょう。
【1. 初期作品 1934-43】 解説を読んで知ったのですが、彼が写真家を志したのは、17歳のときにニューヨークで出会った日本人カメラマンの写真を見て感動したことがきっかけだったのですね。いったい誰なのでしょう。この時期の写真は、リベット打ちの労働者や溶接工を撮影するなど、後年の彼の姿勢がすでにあらわれています。

【2. 太平洋戦争 1943-45】 ユージン・スミスは『ライフ』誌所属の従軍カメラマンとして、サイパン島、硫黄島、沖縄などで激戦を取材しました。彼の言です。
 私は、戦争は悲惨だというとらえ方で仕事をしてきた。これらの写真で試みてきたことを、私はこれからも続けていきたい。戦争はこの世の縮図であり、様ざまな事柄が誤魔化しようもなく鮮明に現れる。人種的偏見、貧困、憎悪、偏狭は、平時の生活のうちにも蔓延するが、戦争の中でほど、否応なくはっきりとはとらえられない。
 戦争の中に、人種的偏見と貧困を見て取ったことは鋭いですね。「米軍の発煙手榴弾で、山中の洞窟から追い立てられる民間日本人」(1944)や「家畜のように連行される民間人」(1945)など、レイシズムにとらわれていない写真が印象的です。なお沖縄戦において迫撃弾の破片が左腕をひどく損傷し、回復に数カ月を要することになりました。その後にはじめて撮った写真が、私の大好きな一枚「楽園への歩み」(1946)だったのですね。森の闇の中から光溢れる世界に歩み出そうとする息子のパトリックと娘のホヮニータ、金儲けのために戦争をくりかえす世界の指導者たちに送り付けたい写真です。

【3. カントリー・ドクター 1948】 『ライフ』誌に掲載されたフォト・エッセイの傑作です。限界まで疲労困憊しながら人々を救おうとする地方の医者アーネスト・セリアーニを写した連作ですが、「分娩中に母子を死なせたアーネスト・セリアーニ医師」(1948)での、彼の静かな苦悶に満ちた表情が心に残ります。

【4. イギリス 1950】 イギリスのクレメント・アトリー首相の選挙運動を取材したフォト・エッセイですが、ウェールズの炭坑労働者やその暮らしの様子も撮影しています。余談ですが、政敵のW.チャーチルが"羊の皮をかぶった羊"と罵倒したアトリーですが、『今夜、自由を』(D・ラピエール&L・コリンズ ハヤカワ文庫NF)を読むと、インド独立に尽力した見識のある政治家であったことがわかります。

【5. スペインの村 1950】 イギリス取材中にスペインにも立ち寄り、「独裁者とその警察(※フランコ政権)に踏みにじられた生活がどのようなものか」を読者に伝えるために撮影したフォト・エッセイです。彼の言です。
 真のスペインとは、貧困のうちに沈みながらも、人々が恵みの少ない大地から、つましい生活の糧を得るために、のろのろと、だが、たゆまず働き続けているというような村々から成り立っている。
 数世紀に亘る忘却と、更に現在の強大な権力政治が、いまのスペイン人の上に重々しくのしかかっている。しかも、彼らは全体として見るとき、決して打ちのめされてはいないのである。人々は日中は働き、日没とともに眠る。そして、現世の生をたのみつつ、死の中から逃れようと働いているのである。
 私たちが村(※デレイトーサ)に着いた翌日、一人の婆さんが私たちについてきて、いろんな話をしたが、その中でこんなことをいった。「わたしら、お前さんが何商売だか知らないけど、誰かがアメリカの新聞記者だろうといってるだ。もし本当にそうなら、お前さんたちが見た通りのことを書いてもらいたいもんだね」。
 これは、政府のお役人たちの態度や希望とは全く違ったものであった。
 見た通りのことを書く(写す)、つまり"Post Truth"ではなく"Truth"を伝えてほしいということですね。彼の生涯を貫く姿勢だと思います。痩せ衰えた老人の死をみとる貧しい家族を撮った、まるで絵画のような「通夜」(1950)が印象的です。

【6. 助産師モード 1951】 彼は産婆術に関心をもっていたようで、サウスカロライナ州で出産の介助や地域の健康管理を行なうアフリカ系女性のモード・カレンを撮影したフォト・エッセイです。「火の気のないストーブと間に合わせのベビーベッドに寝る新生児」(1951)や「思いやりに感激する老人」(1951)などの作品から、アフリカ系アメリカ人の困窮への同情と差別への怒りが伝わってきます。

【7. 化学の君臨 1952】 化学洗剤をつくる工場を取材したフォト・エッセイです。さりげなく写した貨物列車に"MONSANTO"と記されていることから、ベトナム戦争で米軍が散布した枯葉剤をつくり、そして今は遺伝子組み換え作物の種の世界シェア90%を誇るモンサント社であることがわかります。ベルトコンベア、メーター機器、ローラーなどの機械の造形的な面白さに焦点を当てたようにも思える写真です。しかし写真の隅に労働者の小さな姿が写されているのを見ると、違うような気がします。最近読んだ『フクシマ・沖縄・四日市 差別と棄民の構造』(土井淑平 星雲社)にこのような一節がありました。
 赤と白の美しいコントラストを描いてそそり立つ煙突。白銀色のタンクの列。広大な土地と空間を占拠して臨海部に立ちはだかる四日市石油化学コンビナートの工場群-。それは動く抽象画を思わせる。しかし工場に足を踏み入れるとそんな感傷も一瞬のうちに吹き飛んでしまう。ごうごうと地響きを立ててうなり続ける機械の音。鼻をつく異様なにおい。それにもまして無気味なのは、どこまでも続く機械と装置の厚い壁である。そしてこの機械の壁に閉じ込められて働く人間の姿がまばらなのが目につく。それはあまりにも小さく、また機械の付属物のようにも見える。(p.215)
 そう、人間を機械の付属物とする社会への批判ではないでしょうか。ちなみに四日市ぜんそくを引き起こした企業の一つが、三菱化成との合併子会社、三菱モンサント化成です。(前掲書p.159)

【8. 季節農場労働 1953】 小さな子どもを含めた家族全員で果物摘みに従事するミラー一家を撮影したフォト・エッセイです。

【9. 慈悲の人 1954】 密林の聖者、アルベルト・シュヴァイツァーを撮影したフォト・エッセイです。彼は、シュヴァイツァーを単なる「慈悲の人」としてだけではなく「孤独な老人」として撮影しますが、『ライフ』誌が掲載した点数が少ないことに不満をもち、同社を辞めてしまいます。肩を落とし俯く「アルベルト・シュヴァイツァー」(1949)が忘れられない一枚です。なお『水と原生林のはざまで』(岩波文庫)を読むと、彼の考えがよくわかります。私事ですが、昔よく家に招き入れた野良猫に「ランバレネ」という名前を献上しました。

【10. ピッツバーグ 1955-56】 『ライフ』誌から離脱した後、彼はマグナム・フォトに加わりました。そして200年祭を迎えるピッツバーグ市についての本に掲載するための連作を撮影します。「ピッツバーグの艀」(1955-56)など、明暗の対比と見事な構図が印象的です。

【11. ロフトの暮らし 1957-60s】 マンハッタンの古ぼけたロフトに移り済んだスミスは、借金、そして沖縄戦で負傷した古傷の痛みや、それを和らげるための薬・アルコール依存に苦しみながらも、街の風景やロフトに集まるジャズマンを撮影しつづけます。「ピアノを演奏中のセロニアス・モンク」(1960s)や「アルバート・アイラ―」(1965)がいいですね。展示はされていませんが、他にもチャールズ・ミンガスビル・エヴァンスソニー・ロリンズのポートレートもあるそうです。ぜひ見てみたいですね。

【12. 日立 1961-62】 日立製作所やその製品を写真で紹介するという業務契約を結んで、来日したユージン・スミス。日本的なるものを写真で表現しようという試みでもあります。

【13. 水俣 1971-73】 その経緯については拙ブログの書評『写真集 水俣』をご一読ください。最後に図録にあった「水俣で写真を撮る理由」を紹介して、終わりたいと思います。
 写真はせいぜい小さな声にすぎないが、ときたま-ほんのときたま-一枚の写真、あるいは、ひと組の写真がわれわれの意識を呼び覚すことができる。写真を見る人間によるところが大きいが、ときには写真が、思考への触媒となるのに充分な感情を呼び起こすことができる。われわれのうちにあるもの-たぶん少なからぬもの-は影響を受け、道理に心をかたむけ、誤りを正す方法を見つけるだろう。そして、ひとつの病いの治癒の探究に必要な献身へと奮いたつことさえあるだろう。そうでないものも、たぶん、われわれ自身の生活から遠い存在である人びとをずっとよく理解し、共感するだろう。写真は小さな声だ。私の生活の重要な声である。それが唯一というわけでなないが、私は写真を信じている。もし充分に熟成されていれば、写真はときには物を言う。それが私-そしてアイリーン―が水俣で写真をとる理由である。

by sabasaba13 | 2018-01-08 08:19 | 美術 | Comments(0)

バーニー・フュークス展

 ♪つんつくつくつくつん つんつくつくつくつ ひゃらー♪

 迎春

 ふつつかで粗忽なブログですが、今年もよろしくお願いします。


c0051620_7131656.jpg 先日、山ノ神と「美の巨人たち」を観ていたら、「スプリング・トレーニング・マウンテンズ」という気になる絵に出逢いました。大リーグのキャンプ風景をテーマとした作品ですが、異様に縦長のキャンバスに、練習する選手たちとそれを見つめるスタンドの観客、そして残雪を戴く山が描かれています。主人公であるはずの選手たちは下部に小さく描かれ、それを見守る観客と山が主人公のようです。そして画面全体が柔らかな光の粒で充たされ、これから大好きな野球のシーズンが始まるという観客の期待感と幸福感があふれだしてくるようです。魅力的な絵ですね。日本プロ野球のオープン戦を描いた、村上春樹氏の傑作エッセイ「デイヴ・ヒルトンのシーズン」をふと思い出しました。(『雑文集』所収)
 作者はバーニー・フュークス、スポーツと絵画の融合という新しい地平を切り開いた20世紀のアメリカを代表するイラストレーターだそうです。いやはや、私の知らない素晴らしい画家がまだまだたくさんいそうですね。そうした方々との出逢いを思うと、嬉しくなりました。

 彼の展覧会が代官山ヒルサイドフォーラムで開かれているので、山ノ神と一緒に見に行くことにしました。インターネットで所在地を調べると、東横線代官山駅の近くですが、付近に旧朝倉家住宅があることを発見。東京府議会議長や渋谷区議会議長を歴任した朝倉虎治郎氏によって1919(大正8)年に建てられた数寄屋建築と回遊式庭園を見学することができるそうです。よろしい、こちらも寄ってみましょう。

 まずは旧朝倉家住宅、アップダウンの変化に富んだ野趣あふれる庭は、紅葉が見ごろでした。ちょっとした穴場ですね。
 そして代官山ヒルサイドフォーラムへ。小さい会場でしたが、充実した作品群でした。正確な写実力、光の印象的な描写、大胆な構図などに目を瞠られませす。イタリアの街を描いた絵や、エリザベス女王やJFKのポートレートも魅力的でしたが、やはり野球やゴルフなどのスポーツを描いた作品が心に残ります。プレーヤーが、時には観衆と共に、光あふれる美しい自然の中でスポーツに打ち興じる姿に、生きる喜びをひしひしと感じます。しかも、ゴルファーやスキーヤーはキャンバスの端の方に描かれ、主役となるのはあくまでも自然なのですね。
 またドラマを感じさせる何枚かの絵も素晴らしい。前述の「スプリング・トレーニング・マウンテンズ」の観客席には、カップルや子ども、老人などが描かれていて、それぞれの人生に思いを馳せてしまいます。またボストン・レッドソックスの本拠地フェンウェイ・パーク左中間にある巨大なフェンス、グリーン・モンスターを中心に描いた絵や、フェンスの隙間から選手たちを一心不乱に見つめる少年の絵なども面白いですね。いったいどんなドラマがあるのでしょう。

 アメリカの画家ではベン・シャーンノーマン・ロックウェルが大好きですが、またひとり記憶に留めたい画家と出逢えました。

 なおインターネットで、バーニー・フュークスについて調べていると、わが敬愛するパブロ・カザルスのポートレートを描いていることがわかりました。オスカー・ココシュカが描いた肖像画は知っていますが、あまり好きにはなれません。どんな絵だろう、気になったのでインターネットで一所懸命に探したら、ようやく見つかりました。画面の中央に大きくグランド・ピアノが描かれ、パイプをくわえてそれを弾くカザルスが右端に小さく描かれています。しかも逆光の中で影となっており、表情などの細部はよくわかりません。しかし彼の音楽に対する真摯な思いが伝わる一枚です。彼が日課にしていたという、J・S・バッハの「平均律クラヴィーア曲集」を弾いているところでしょうか。
by sabasaba13 | 2018-01-01 07:13 | 美術 | Comments(0)

沢田教一展

c0051620_6211113.jpg 先日、髙島屋日本橋店で開かれていた「写真家 沢田教一展 -その視線の先に」を、山ノ神と一緒に見てきました。到着したのは開店五分前、地下入口前に年配の方々がたくさんおられて待っているのには驚きました。そしてうら若き女性店員さんが、一本の赤い薔薇を手にして登場。さては一番乗りのお客さんに進呈するのかなと思ったのですが、なにやら前口上を述べて薔薇とともに立ち去りました。
 ま、それはさておき、8階ホールに行き、写真展を鑑賞しました。まずはチラシのサマリーから転記します。
 1965年からベトナム戦争で米軍に同行取材し、最前線で激しい戦闘や兵士の表情などを数多く写真に収めた写真家、沢田教一(1936-70)。輝かしい実績を残し、「安全への逃避」でピュリッツァー賞を獲得しています。沢田の写真に通底するのは、優しい眼差し。疲れ果てた名もなき兵士はうずくまり、家を追われた罪なき市民は荷物を抱え、故郷・青森の貧しい漁民には寒風が吹きすさぶ…、しかし皆、かすかな希望を頼りに強く懸命に日々を生きていました。その「希望」こそ、沢田が追い続けた被写体だったのではないでしょうか。妻・サタさんをはじめ関係者の証言を紡ぎながら、34歳で殉職した沢田の業績をたどります。
 ベトナム戦争を報道したカメラマンとして、沢田教一、石川文洋、岡村昭彦、一ノ瀬泰造の名を知っていましたが、中でも沢田による、水の中を逃げ惑うベトナム人母子を撮影した一枚「安全への逃避」が心に残っています。その彼の代表作が一堂に見られるということで、期待してやってきました。

 まずは彼の故郷である青森や、カメラマンとして勤務した三沢の米軍基地を題材とした写真がならびます。彼は常々「そこに生きる人々を、そして風土を撮りたいんだ」(図録以下同p.357)と言っていたそうですが、それがよくわかりました。青森の厳しい風土と、そこで精一杯暮らす市井の人びと、沢田のあたたかい視線を感じます。幼子を背負った母が、粗末な木橋を危なそうに渡る写真を印象的でしが。この母子のモチーフはベトナムにおいてもよく撮影されます。彼が愛したモチーフだったのですね。
 さて青森・三沢とくると、気になるのが同世代の異才・寺山修司(1935-83)との関係です。妻・サタさんの記憶によると、沢田は寺山を鋭く意識していたようです。彼女の証言です。
 上京しUPI東京支局に職を得てからだから、1961(昭和36)年以降のことだ。サタは思い出す。「『年賀状を出したけど、寺山から返事が来ないなあ』と、沢田がさびしそうにポツッと言ったことがあるの。ずいぶんしょげてたから『あっちがペンで頑張っているのなら、こっちはカメラで対抗しなさいよ』と言ったのよ。UPIに勤めてからは生活のめども立ったし、余裕が出てきたころ。寺山さんの名前がグングン出てきたから、自分から連絡したんじゃないのかな」(p.371)
 そして上京しUPI通信に入社、ベトナムへと旅立つわけですが、図録によると、戦場カメラマンとして活躍していた岡村昭彦の影響を受けたようです。岡村の言です。
 おれはまっしぐらに戦場へゆくのだ。戦争の内臓を世界中の人類のまえにさらけだし、地球上からそれをなくすためにはどうすればよいのかを、一人一人に問いつめてやるのだ。(p.359)
 世界的名声を手にするという野心とライカM2と共に、ベトナムの戦場にやってきた沢田は、みごとな写真を撮りつづけます。まず会場に展示されていたのは、アメリカ軍兵士とその戦闘を撮影した写真の数々です。そのおそろしいほどの緊迫感と臨場感に圧倒されました。遮蔽物や戦車に身を隠す兵士、草むらに身を伏せる兵士、砲撃の中突撃する兵士… 毎日新聞特派員・徳岡孝夫が驚いたのは、沢田が、兵士たちが伏せている時に立ち上がり、兵士たちが逃げている時に、ただ一人立ちどまって撮影したいたことです。(p.384)
 そしてひとりの人間としての兵士が抱く、さまざまな感情や思いを、沢田のカメラは掬いとるようにフィルムに記録します。恐怖、不安、怒り、憎悪、絶望、自失、安堵… 図録の中に、アンリ・カルティエ・ブレッソンの言葉がありました。
 ひとの写真を撮るのは恐ろしいことでもある。なにかしらの形で相手を侵害することになる。だから、心遣いを欠いては、(写真は)粗野なものになりかねない。(p.360)
 思うに、彼の兵士に対する心遣いが、彼らの心の被膜をとりさり心底を露わにさせたのでしょう。ただ煙草を吸いながら「なぜ俺を撮る」と言わんばかりにレンズを、あるいは沢田を見据える兵士の写真が忘れられません。

 そして彼の写真の真骨頂は、被害者であるベトナムの人びとを写した写真です。米軍に捕らえられた解放戦線の兵士たちの不屈の面構えに、「侵略者を追い出し独立を守る」という強い意志を感じました。この戦争の目的が理解できない米軍兵士とは大きな違いです。
 胸をしめつけられたのは、ベトナムの民衆を撮影した写真です。逃げ惑う母子、泣き崩れる老婆、命乞いをする女性、ナパーム弾で火傷を負った母親にしがみつく幼子、怯える子供。「この人たちにどんな罪があるんだ」という沢田の叫びが聞こえてきそうな写真の数々。その一方で、戦火の中でも、逞しく生きる人びとの姿も心に残ります。彼ら彼女ら、そして子供たちの素敵な笑顔! これもやはり彼の心遣いの賜物なのでしょう。

 会場には、愛用のライカとヘルメット、使用した食器など沢田教一の遺品も展示されていました。彼はクラシック音楽が好きだったそうで、プレーヤーと彼が愛聴したレコードもありました。彼を癒した曲は何だったのか、紹介します。ショスタコーヴィチ交響曲第7番「レニングラード」(バーンスタイン+ニューヨーク・フィル)、ベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲(ルドルフ・ゼルキン)、ブラームス交響曲全集(カラヤン+ベルリン・フィル)です。

 命を賭けて戦争のおぞましさを撮りつづけ、そして平和な暮らしの尊さを訴えた沢田教一。忘れられない、忘れてはいけない写真家の一人です。戦争大好きおじさん/おばさんがごろごろいる昨今の日本、彼の写真をときどき思い出すことにしましょう。彼の言葉です。
 平和になったら、ベトナムを北から南までゆっくり撮影旅行したいな。ベトナム人の笑顔って最高なんだよ。(p.365)

 人間は戦場にいたら感覚がまひしてしまう。それが恐ろしいんだ。(p.384)

 戦争を教えるにしても、私自身が戦争を知らない。その本当の姿をわからせるのは、戦場の写真だけなのだ。(p.395)
 ベトナム戦争に関する書籍では、『パクス・アメリカーナの五十年』(トマス・J・マコーミック 東京創元社)と『ヘゲモニー国家と世界システム』(松田武・秋田茂編 山川出版社)がお薦めです。アメリカは、日本のためにベトナム戦争を遂行したという衝撃の事実を明らかにしています。ベトナム帰還兵が告白した『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?』(アレン・ネルソン 講談社)も素晴らしい。兵士の眼から見た戦争をリアルに感じ取ることができます。今、読んでいるのが『ベスト&ブライテスト』(デイヴィッド・ハルバースタム 朝日文庫)。ケネディが集め、ジョンソンが受け継いだ「最良にしても最も聡明な」人材だと絶賛されたエリート達が、なぜ米国を非道なベトナム戦争という泥沼に引きずり込んでしまったのか。賢者たちの愚行を、綿密な取材で克明に綴るベトナム問題の記念碑的レポートです。またベトナム戦争に関するポップスやロックも数多つくられましたが、ボブ・ディランとレオン・ラッセルの「戦争の親玉」と、ビリー・ジョエルの「グッドナイト・サイゴン」が出色の出来ですね。

 なおベトナムで戦った米兵たちの証言を集めた『人間の崩壊』(マークレーン著 鈴木主税訳 鶴見良行解説 合同出版)という恐るべき書があるのですが、残念ながら絶版です。この本を読むと、この戦争が、人種主義にもとづいたアメリカ政府と軍、そして戦場の兵士ぐるみの犯罪であることがよくわかります。今なおアメリカ政府は、この国家犯罪を認めていません。その結果、アフガニスタンやイラクで同様の国家犯罪を繰り返しているのでしょう。過ちを認めず、隠蔽し、謝罪もしないし責任もとらない。何と品格に欠けた国であることか。同じく国家犯罪を認めない日本が、アメリカの属国として尻尾を振るのも宜なるかな。いくつかの証言を紹介します。
 まず訓練からはじめることにする。明らかな証拠にうながされる結論は、海兵隊の基礎訓練が野蛮で、非人間的だということである。その訓練の目標は、個人の思想を能うかぎり卑小なものにし、若者を殺人機械の有効な歯車に変えることである。(p.9)

 ベトナムにいる兵士たちへ
 壁にかける野蛮人(クーン)の皮膚を持って帰還せよ。
 -リンドン・B・ジョンソン合衆国大統領の訓戒 (p.35)

リチャード・ダウ
問 君は、自分がなぜそこにいたのか知っていたか?
答 正直言って、わからない。聞かされていたのは、共産主義者の手からベトナム人を救うのだということだった。われわれはだれも救いはしなかった。ただ殺しただけだ。われわれはなぜあそこに派遣されたのだろう? 正直なところ、自分にはわからない。(p.46)

ピーター・ノーマン・マーティンセン
 戦争の場にほうりこまれ、その非人間性、蛮行、そしてとりわけ自分が助けるとされている人びとから憎まれていることが明らかな戦争に加わっていることからくる挫折感に触れれば、だれだって化物に変えられてしまう。ありとあらゆる面で、文字通りの化物になってしまうのだ。(p.165)

ジェームズ・D・ヘンリー
 とにかく、それらの民間人を殺すについては、何の理由もなかった。殺されたすべての民間人は、必要もなく殺された者たちだ。つまり、彼らを殺したところで、まったく意味がなかった。彼らは戦争とは何の関係もなかった。なぜなら、彼らはどちらの側からも殺されていたからだ。ベトコンに殺され、北ベトナム軍に殺され、アメリカ軍に殺され、南ベトナム軍に殺されるのだ。彼らこそが、困難な目にあわされている者たちだ。彼らこそが、逃げ出すわけにはいかない者たちなのだ。(p.174)

 こうしたすべてのことについての重要なポイントは、民間人を殺した兵隊たちには責任があるが、彼らにそんなことをさせないような訓練をしなかったという点で軍隊に究極の責任があるということだ。(p.177)

 だれについても口実はまったく存在しない。人種主義がその大部分を占めている。つまり、そのほとんどは、人種主義のせいだと思うんだ。純粋かつ単純な人種主義だ。ベトナム人は敵ではないからして、グックなのだ。彼らは白人ではなく、ただのグックなのだ。だれでも彼らよりは偉く、二等兵さえもそれより階級が上なのだ。彼らはちっぽけで、遅れていると考えられているが、それでも彼らは私にはできない多くのことをやってのける能力を持っている。とにかく、その理由のおおかたは人種主義なのだ。(p.178)

ビル・コンウェイ
 その男が終わると、別の兵隊が彼女を犯した。娘は悲鳴をあげた。兵隊は彼女を殴り、おとなしくしろと言った。娘は「チェウホイ」と言いつづけた。つまり降伏したいという意味だ。五人全部がその娘を犯すと、あとの二人が彼女を犯し、その間二人の者が残りの二人の娘に銃を向けて見張りをした。それから、その二人の娘についても同じことがくりかえされた。それぞれの娘が何度も強姦されたのだ。彼女らはその間ずっと泣き叫んでいた。強姦がすむと、GIたちの三人が投擲照明弾を取り出し、娘たちの性器につっこんだ。彼女らはその時には意識を失っていた。どの一人ももはや押さえつけておく必要がなかった。娘たちは口や鼻や顔、そして性器から血を流していた。そのあと、彼らは照明弾の外の部分をたたき、それは娘たちの身体の中に入っていった。胃袋が急にふくれあがったかと思うと、弾は身体の中で爆発した。胃袋が破裂し、内臓が身体の外に垂れ下がった。(p.182)

ジョセフ・グラント
問 ベトナム人の子どもを戦争から保護するために特別な配慮がはらわれていたか?
答 それは不可能だ。彼らは戦争の一部なのだから。(p.193)

ピート・シューラー
 圧倒的に、黒人がていよく利用されているという感情だったと思う。彼らは、戦場にいる自分たちの割合が、国にいる時よりもずっと高いということを知っていたし、自分たちが従軍しているたいていの白人よりも危険の大きい任務につかされているということを知っていた。あるいは少なくともそういう感情を抱いていたと思う。(p.202)

ゲイリー・ジャンニノート
 彼らは来る日も来る日もどこかへ出動させられ、何をしていいかわからぬままに、ベトナム人に矛先を向けるのだ。なぜなら彼らは、それらの人びとは劣っている、自分たちよりも遅れている、つまりただの東洋人だと教えられているからだ。(p.212)

ロバート・H・バウアー
 そのことで裁判にかけられるべき人間は、ニクソンであり、レアードであり、ジョンソンなのだ。それらの犯罪について告発されるべきは、わが国の政府の権力の座についている人びとであって、それを実際に遂行した人間ではないのだ。(p.233)

by sabasaba13 | 2017-09-01 06:22 | 美術 | Comments(0)

不染鉄展

c0051620_6205432.jpg 先日、吉田博展を見て、いたく感銘を受けたことは拙ブログで報告しましたが、その際にこれから開かれる展覧会のチラシを何枚かいただきました。食指を動かされたのが、「鈴木春信展」(千葉市美術館)、「長沢芦雪展」(愛知県美術館)、そして「不染鉄展」(東京ステーションギャラリー)です。ふ・せんてつ? ふせん・てつ? 恥ずかしながらはじめてその名を聞きました。ただチラシに載っていた絵に眼を引き付けられました。威厳ある富士とそれを取りまく村々を鳥瞰して描いた「山海図絵」、陸に打ち上げられた巨大な廃船を描いた「廃船」、一台の古ぼけた自転車を描いた「古い自転車」。心がざわつくような不思議な、そして魅力的な絵です。いったいどういう方なのでしょう、興味をひかれて先日東京ステーションギャラリーに行ってきました。

 まずはチラシにあった展覧会の概要を転記します。
 不染鉄(ふせん てつ)を、ご存じですか。
 不染鉄(本名哲治、のち哲爾。鐵二とも号する)は、稀有な経歴の日本画家です。日本画を学んでいたのが、写生旅行先の伊豆大島・式根島で、なぜか漁師暮らしを始めたかと思うと、今度は京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学。才能を高く評価されながら、戦後は画壇を離れ、晩年まで飄々と作画を続けました。これまで美術館で開かれた回顧展は、21年前の唯一回だけ。画業の多くは、謎に包まれてきました。
 その作品も、一風変わっています。富士山や海といった日本画としては、ありふれた画題を描きながら、不染ならではの画力と何ものにもとらわれない精神によって表現された作品は、他のどの画家の絵とも異なり、鳥瞰図と細密画の要素をあわせ持った独創的な世界を作り上げています。不染は「芸術はすべて心である。芸術修行とは心をみがく事である」とし、潔白な心の持ち主にこそ、美しい絵が描けると信じて、ひたすら己の求める絵に向きあい続けました。
 東京初公開となる本展では、代表作や新たに発見された作品を中心に、絵はがき、焼物など約120点を展示し、日本画家としての足跡を、改めて検証するとともに、知られざる不染鉄作品の魅力を探ります。
 8月某日、東京駅北口にあるステーションギャラリーへ。初期の作品群から、魅了されてしまいました。山のふところに、海辺に、林の合間に、雪の中に、静かに佇む数件の家々。ときどき部屋の中にいる人影が見えるだけで、人の営みはほとんど描かれていません。しかし何と静謐で満ち足りた絵なのでしょう。人間は一人の個人としては生きていけない、家々=共同体に包まれながら自然に生かされているのだ、という作者のメッセージを感じます。
 そして画業が円熟するにつれて、彼の想像力の翼は大きくはばたいていきます。前述した「山海図絵」、「廃船」、波間にただよう一艘の船を描いた「孤帆」、薬師寺東塔や奈良の古寺をモチーフにした連作。中でも、私が大好きになった絵が二つあります。
 まず「海」(1975)。上部には岩場の海岸が描かれますが、絵の大半は紺碧の海です。深さを増すにしたがって色濃くなる海の中を、楽し気に遊弋する大小さまざまの魚たち。そして魚たちと戯れるかのように、海の中に茅葺きの家々が数軒建ち並んでいます。海と魚と共存する人間の共同体、何とも幻想的であたたかい絵です。
 もう一つは「古い自転車」(1968)。何の変哲もない、古びた自転車が描かれているだけの不思議な一枚です。なお申し遅れましたが、彼自身の朴訥な字で、絵にコメントがつけられている絵があるのも彼の特徴ですが、これもその一枚。こう記されています。
長いあいだ苦労したんだろうねえ。雨の日風の日色々の事があったんだろうねえ。此頃はピカピカの自転車の走るあいだをふらふら心細そうに走るのかねえ。こいつ何だか私に似てるよ。私は七十八だよ、いくらかふらふらだよ。君も少しさびてところどころはげているが私もはだかになれば君と同じさ。友達だねえ。これをかいていると色々思ひ出すねえ。春の櫻や夏の月やそれからそれとつきないねえ。今は冬の枯野かなあ。淋しいけれどこれもいいぜ。身にしみるなあ。仲よくしようよ。

文化館の展覧にお前をだしてやる 色々な人がお前を見るぞ。恥しくはない、恥しいのはきれいに見えるうそだ。お前よく知ってるだろう。眞實こそ天人ともに美しい。これをかいてるうちに信念のようなものが燃えてくる。うれしいなあ。何だかお前と俺とは一つものか自轉車と俺は同一人か。
 そして額縁にも、絵が描かれ、自らの一生をふりかえるコメントが記されています。
明治廿四年六月十六日東京市小石川区光円寺に生れる いてふ寺とも言はれる 秋になると黄色い落葉が雪吹のようになる 小學三年の時生れてはじめての船に乗せられ、房州富浦の漁村 西光寺へ行く 途中風雨はげしくとても恐ろしかった。
東京から来た児だと大事にされ あばれるので少しあきれられる
ようやく中學を卒業する。田端の山田敬中先生の門下生になる 父死ぬ。勉強する気になる。小さい展覧會に賞をもらふ。
廿四の時美術院研究生となる。女を知り身を持ちくずす。人間の淋しさを深く知り、一切のうそをやめようと思うようになる。中々できない。画がわかり始める。
廿七の春伊豆大島に渡る。三年を夢のようにくらす 画かきになりたいと思ひながら漁師の手つだいとなる 楽しい。
廿九の春花の京都へ来る。帝展入選。丗の時美校へ入學。潮風荒い大島の漁師から美しい美術學生となる
首席卒業となる 答辞を讀む 夢ではない。心配をかけたよ父よ母よ先生よ ほんとに一番だよ。これだけで生れた甲斐があったねえ。

戦後正強高校の校長を七年余やる。
校舎より生徒が大事だと思った。

西之京に住む
雪の北国
春の信州
南の国 みかんの丘の港
楽しい思出はつきない。こんな年?生きる。
美しい心のいい人にならなければねえ
七十四の時ここに住むようになる。まあ門番だねえ 役に立たない。とても静かでいい家だ。何不自由なくとても倖せだ。相野様では何の役にたたぬ私をとても大事にしてくれる この画は今ここでかいている 七十八の暮である 人生終りに近い。我まま一パイにくらしてきたのにこんなに倖せになる そこで此の作品は相野様に保存していただく。

昭和四十三年十二月二十九日 不染鉄
 文中にある"人間の淋しさ"という言葉が、彼の作品を理解するキーワードだと思いました。人間は淋しい、一人では生きていけない。だから縁者や知人と寄り添って村や町をつくり、自然や動物や植物と心を通い合わせながら生きていくものだ。あるいは、自分たちが精魂込めてつくった物、例えば古い自転車とも交感しながら。それが人間の幸せだ。彼の絵から、そうした懐かしくあたたかい思いを感じました。
 もう後戻りはできませんが、かつてこうした暮らしがあったのだと、素晴らしい絵として残してくれた不染鉄氏に感謝します。
by sabasaba13 | 2017-08-30 06:21 | 美術 | Comments(0)

パリ・マグナム写真展

c0051620_6242651.jpg 先日、山ノ神と京都文化博物館で「パリ・マグナム写真展」を見てきました。「なぜ京都で?」と思われる方のために、話せば長いことながら説明いたします。先日、はじめて祇園祭を見てきたのですが、その際に参考としたのが『祇園祭の愉しみ』(芳賀直子 PHP)です。その中で紹介されていたのが大極殿本舗六角店の甘味処「栖園」の提供する美味しそうなスイーツ「琥珀流し」。宵山の日に寄ったところ、やはり長蛇の列でした。しかし名簿に名前を書いておけば順番が過ぎても優先して案内されるというでした。さあどこで時間をつぶすか、その時にすぐ近くに京都文化博物館があり「パリ・マグナム写真展」が開催されていました。しかし船岡温泉でひとっ風呂浴びて彫り物とマジョリカ・タイルを拝見することに決していたので、こちらはカット。そして銭湯で汗を流して「栖園」へ戻ると、長い行列にも拘らずすぐ席に通されて「琥珀流し」を楽しめた次第です。上質の寒天ゼリーにペパーミントのシロップ、舌をくすぐる官能的な触感と爽やかな香り、これは病みつきになりそう。なおこのシロップは月替り、八月には生姜味の冷やし飴。実は、五山送り火にも行く予定でしたので、ぜひ再訪しようと二人で誓い合いました。
 そして五山送り火の当日、午後四時半ごろに「栖園」に行くとやはり長蛇の列、しかも午後五時まで入店ということでした。うーむ、三十分か… とりあえず名簿に名前を書いて、「パリ・マグナム写真展」を鑑賞、三十分弱で鑑賞が終われば「栖園」へ、展覧会が面白ければキャンセルしてそのまま鑑賞を続行、という結論に達しました。結局、写真にひきこまれて「琥珀流し」はキャンセル、再訪を期すことになったわけです。
 長口舌で申し訳ない、何が言いたいかというと、この展覧会がおもしろかったということと、「琥珀流し」は美味しいということです。

 まずは「マグナム」について、博物館HPに掲載されていたサマリーを転記します。
 1947年、ロバート・キャパ、アンリ・カルティエ=ブレッソン、ジョージ・ロジャー、デビッド・シーモアによって「写真家自身によってその権利と自由を守り、主張すること」を目的として写真家集団・マグナムは結成されました。以後、マグナムは20世紀写真史に大きな足跡を残す多くの写真家を輩出し、世界最高の写真家集団として今も常に地球規模で新しい写真表現を発信し続けています。
 本展は、2014年12月から翌年4月までパリ市庁舎で開催され、大きな反響を呼んだ展覧会の海外巡回展として企画。マグナム・フォト設立70周年にあたり、60万点に及ぶ所属写真家の作品の中から、パリをテーマにした作品131点を選び展観するものです。
 芸術の都・パリは多くの歴史的事件の舞台でもあり、かつ、写真術発明以来、常に「写真の首都」でもありました。20世紀の激動を最前線で見つめ続け、現代においても現在進行形の歴史をとらえ続けるマグナムの写真家たちが提示する豊穣なイメージは、都市とそこに生きる人々の歴史にとどまらず、写真表現の豊かさをも我々に提示してくれると同時に、世界を発見する驚きに満ちた写真家たちの視線を追体験させてくれます。
 第一部は「マグナム・ビフォア・マグナム 1932-1944」。マグナム設立以前に撮影されたロバート・キャパやアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真が中心です。水たまりを跳び越す男とその影、ブレッソンの有名な作品「サン・ラザール駅」(1932)を見ることができました。そしてナチス・ドイツによるパリ占領と傀儡政権の樹立、それに対するレジスタンスとパリ解放を記録した数々の写真も印象的でした。
 第二部は「復興の時代 1945-1959」。戦争は終結しましたが、荒廃したパリで、明るくたくましく、あるいは苦難に打ちひしがれて生きる人びとの姿がカメラにとらえられています。ポスターに採用された写真は、ロバート・キャパの「凱旋門」(1952)です。
 第三部は「スウィンギング・シックスティーズ 1960-1969」。社会に対する若者たちの怒りが爆発した「五月革命」をとらえた写真が心に残りました。投石やバリケードのためにはがされた歩道の敷石、壁をうめつくす政治的主張をこめたポスターやビラ、そして若者たちの怒りと不安に満ちた、しかし真摯な表情。この出来事を歴史にとどめようとするマグナムの写真家たちの気持ちあが、ビシビシと伝わってきます。
 第四部は「多様化の時代へ 1970-1989」。社会秩序の回復を求める声が高まる一方、慣習からの脱却を求める動きも活性化します。常識や慣習を疑い、人間についての考究を続けた思想家たち、ジャン・ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、ミシェル・フーコーたちのポートレートが印象的でした。
 第五部は「解体の時代 1990-2014」。マグナムの写真家たちは、現在のフランスが抱える諸問題を四角いフレームに切り取り記録として残すことを継続します。移民・難民問題、あいつぐテロリズム、そして極右勢力の台頭とマクロン候補の勝利。とくに目を引き付けられたのが、パリ郊外の集合住宅に押し込められた移民たちの様子や暮らしを撮った写真です。絶望、諦め、怒り、不安、微かな希望、その表情やしぐさからさまざまな感情が伝わってきますが、テロリズムが蔓延する理由の一端を雄弁に物語っているように思えました。

 というわけで、たいへん充実した、心に残る写真展でした。写真家たちが切り取った現実の一部を、それにきちんと向き合い力を尽くして読み解くのが私たちの仕事なのだと思います。そして、過去に世界で何が起こって、現在の世界で何が起きているのか、人間がどういう状況に置かれているのかに思いを馳せる。そうすれば「DAYS JAPAN」の表紙に掲げられた言葉のように、「1枚の写真が国家を動かすこともある」かもしれません。あらためてフォト・ジャーナリズムに期待します。
 また錚々たる手練れのさまざまな写真を見て、構図の重要性をあらためて痛感しました。ちょっとした工夫で、安定感・緊迫感・スピード感などを表現できるのですね。アマチュア・カメラマンのはしくれとして、たいへん参考になりました。お土産のポストカードとして、ロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」、チェ・ゲバラ、チャールズ・ミンガス、マイルス・デイヴィスのポートレートを購入。

 マグナムの詳細な歴史と現状、所属した写真家のプロフィールと作品などについて知りたい方は、マグナム・フォト東京のサイトがたいへん参考になります。

 追記。以前に拙ブログで紹介したジョセフ・クーデルカの写真もありました。彼もマグナムの一員だったのですね。
by sabasaba13 | 2017-08-28 06:25 | 美術 | Comments(0)

吉田博展

c0051620_6201255.jpg 先日、山ノ神から「吉田博の展覧会を見に行かない」と誘われました。よしだひろし? 日本全国で、20,998人ほどいそうな凡百な名前ですね。山ノ神の知人でしょうか。さにあらず、NHKの「日曜美術館」で知った彼女が言うには、素晴らしい版画家だそうです。さっそく展覧会が開催されている損保ジャパン日本興亜美術館のホームページを見てみると…おお見事な風景版画の数々。ぜひ見に行きましょう。その前に、美術館HPより彼についての紹介を引用します。
 明治から昭和にかけて風景画の第一人者として活躍した吉田博(1876‐1950)の生誕140年を記念する回顧展です。
 福岡県久留米市に生まれた吉田博は、10代半ばで画才を見込まれ、上京して小山正太郎の洋画塾不同舎に入門します。仲間から「絵の鬼」と呼ばれるほど鍛錬を積み、1899年アメリカに渡り数々の作品展を開催、水彩画の技術と質の高さが絶賛されます。その後も欧米を中心に渡航を重ね、国内はもとより世界各地の風景に取材した油彩画や木版画を発表、太平洋画会と官展を舞台に活動を続けました。
 自然美をうたい多彩な風景を描いた吉田博は、毎年のように日本アルプスの山々に登るなど、とりわけ高山を愛し題材とする山岳画家としても知られています。制作全体を貫く、自然への真摯な眼差しと確かな技量に支えられた叙情豊かな作品は、国内外の多くの人々を魅了し、日本近代絵画史に大きな足跡を残しました。
 本展では、水彩、油彩、木版へと媒体を展開させていった初期から晩年までの作品から200余点を厳選し、吉田博の全貌とその魅力に迫ります。
 山ノ神とは現地で待ち合わせ。老婆心ながら、待ち合わせ場所は42階の美術館入口よりも、1階ロビーがいいですね。ソファもあるし、吉田博の紹介ビデオも放映されていました。
 彼女と合流してエレベーターで42階へ。彼の人生に沿った「不同舎の時代」「外遊の時代」「画壇の頂へ」「木版画という新世界」「新たな画題を求めて」「戦中と戦後」という構成の展示です。風景を描いた水彩画・デッサンも素晴らしいのですが、やはり白眉は木版画でした。確かな描写力と構図、時には雄渾な時には詩情豊かな画風、そして色彩の微妙な陰影、透明感、グラデーションの見事さ。いや、こんな凡百な言葉では表現できません、ただ口を開けて「美しい…」と感じ入りながら佇むのみ。グランドキャニオンやマッターホルンヴェネチア、エジプトを画題とした「欧州シリーズ」も良いのですが、やはり「日本アルプス十二題」が傑作でした。神々しいフォルムの山塊、精緻な色彩で表現される山肌と空と雲。溜息が出るような作品群です。図録に、彼の言葉が紹介されていました。
 吾等がかゝる天景に接すると、自分等は人間の境を脱して神になった様な考ひに充たされた。而して人間が賞めたゝいる名勝等いふものは、全く凡景俗景である。人境を去ったこの間の風物は、たしかに山霊が吾等に画題を恵与してくれたのと信じ、都にありて、隅田川や綾瀬又は三河島島の風景を描て、満足し居る画家を気の毒の様に思ひ、又かゝる画家を凡画家として、語るに足らぬ等友と語った。
 この当時に於ては、画題を選むに人間の跋渉した所を選まず、探検的未開の境を探り、人間の未だ踏破せざる深山幽谷、又は四辺の寂寥を破る大瀑布、又は草樹鬱蒼として盛観を極むる無人の森林、とかいふ境地にあらざれば、真の美趣は無きものと信じ、こんな念慮より、吾等はかゝる境土のみ跋渉して居ったから、益々仙骨の観念は向上して、人間といふ念を脱して居ったのであった。(p.15)
 海と帆船と島を画題とした「瀬戸内海集」も素晴らしい。特に「光る海」の、陽光を反射する海の煌きは圧巻です。
 もう一枚、惚れた作品をあげるとすれば、「印度と東南アジア」の中の「フワテプールシクリ」です。建物の内部で座る二人の男、そしてアラベスク模様の透かし彫りを通して室内を照らす穏やかな光。その光の柔らかさと暖かさを、絶妙に、ほんとうに絶妙に表現しています。図録によると、47度摺りで仕上げたとのことです。絶句。

 川瀬巴水の版画も素晴らしかったのですが、色彩表現の絶妙さと画題の雄渾さで吉田博が一枚上かな。誰かが、美術作品の評価は、購入するためにいくら身銭を切るかだ、と言っていました。うーん、うん十万円だったら購入して部屋に飾り、朝昼晩夜、春夏秋冬、眺めて暮らしたいものです。念のためインターネットで調べてみると、20~50万円ほどで購入できそうですが、私の好きな作品はすべてsold outでした。まんざら実現不可能な夢ではなさそうです。

 というわけで、ほんとうに素晴らしい展覧会です。
 オペラ「ばらの騎士」、祇園祭、そして吉田博の木版画と、最近たてつづけに感興の時を楽しむことができました。あらためて、生きるってそう悪いことでもないし、人間もそう捨てたものではないと思います。「利」よりも「美」を求める人が増えれば、日本も世界ももう少し住みやすくなるのに。
by sabasaba13 | 2017-08-03 06:20 | 美術 | Comments(0)

カマゲイ

c0051620_844738.jpg それでは「大岡信ことば館」に入館いたしましょう。ん? 企画展として開催されていたのが「釜芸がやってきた! 釜ヶ崎芸術大学・わしが美なんか語ってもええんか?」です。カマゲイ? なんじゃそりゃ?
 はい、お待たせしました。こちらで偶然に出会えたのが「カマゲイ」です。それでは釜ヶ崎芸術大学の概要について、展覧会のサイトから転記しましょう。
 釜ヶ崎は大阪市西成区のなかのさほど広くない地域の呼び名で、日本最大の日雇い労働者の街として知られています。かつてここに日本の高度経済成長を支えるべく、全国から若い労働力が集められました。現在の彼らは高齢化し、また様々な理由で他の地域から弾き出されることになった人々もここへ身を寄せ、今の釜ヶ崎は形作られています。その釜ケ崎で詩人・上田假奈代さん率いるNPO法人こえとことばとこころの部屋(ココルーム)が、「学びたい人が集まればそこが大学になる」という旗印のもと、市民大学釜ケ崎芸術大学を立ち上げます。大学講師や様々なプロフェッショナルを招いて、各種講座・ワークショップを開催し、アートを通して常に彼らと共に考え、共に成長していこうとする姿勢を見せています。
 というわけで、講座やワークショップに参加した釜ヶ崎に住むおっちゃんたちのつくった絵、書、詩、オブジェを紹介する展覧会です。稚拙で未熟ですが、粗雑な作品はひとつとしてありません。学ぶこと、知ること、表現することの喜びが炸裂する、素晴らしい作品群です。
 感銘を受けたので、「釜ヶ崎芸術大学2013報告書」を購入して、帰宅後に熟読しました。報告書によると、講座は表現、音楽、詩、天文学、書道、感情、ガムラン、哲学、お笑い、狂言、絵画、写真、合唱、ダンス、地理といった多様な内容です。その雰囲気を伝えてくれる釜芸大「天文学」講師の尾久土正己氏のコメントを紹介します。
 最初の観望会は12/29、2台の望遠鏡を三角公園に持ち込んだ。「お前はどこのもんで、何をしに来たんや?」と怖そうな顔で話しかけてきたおじさんは、望遠鏡を覗いた瞬間、「これ本物か?」「うさぎおるんか?」と目が少年のようになっていた。また、病気で視力が落ちていて、なかなか見ることができずにいたおじさんの顔を手で持って、接眼部が目の正面にくるようにサポートしてあげると、「ええもん見させてもろったわ」と喜んでくれた。そのうち、見終えたはずのおじさんが別のおじさんを連れて戻ってきて、「おい、これを見てみ! デコボコがたくさん見えるやろ?」と解説をしてくれたり、列を整理してくれたりと、あっと言う間に公共の天文台で行われているような観望会が出来上がってしまった。
 学ぶこと・知ることの喜びと驚き、それらを人と分かち合うことによってさらに増加されるということ。おっちゃんたちの生き生きとした姿が、「学ぶ」ということの本質を十全に語ってくれます。もうひとつは、釜芸大「哲学」講師の西川勝氏のコメントです。
 釜ヶ崎芸術大学の良いところは、入学試験も落第もないところだ。学びたいという気持ちだけが大切にされる。学ぼうとする姿勢が何よりも難しい。試験に受かって自分の能力を誇示し、授業料を払って対価としての知識を要求するのでは、学ぶという姿勢は生まれてこない。成績や学歴という頼りないもののために、自分の人生を手段にしているかに見える若者たちを見ると気の毒になってしまう。生きることと学ぶことが、目的手段としてばらばらにならないような学びの場を、もっと広げていく必要があるだろう。
 進学・進級・卒業・学歴のための手段としての「学び」、それが学校教育をいかにスポイルしていることか。「学びたい人が集まれば、そこが大学になる」という、第一期釜芸パンフレットの言葉をかみしめたいと思います。
 補助金欲しさに文部科学省官僚の天下りを受け入れる早稲田大学関係者諸氏、補助金をちらつかせて再就職先の獲得に血眼となっている文部科学省官僚諸氏、穴を掘ってさしあげましょうか。
 なお2016-2017年に開催される釜ヶ崎芸術大学講座がすでに決定されています。

 常設展「大岡信の部屋」では、「アノニマス!折々のうた」が展示されていました。朝日新聞に掲載し続けた人気コラム「折々のうた」の中から、「よみ人しらず」や「東歌」など、無名の人々の作品が紹介されていました。私の大好きな『閑吟集』からひとつ紹介しましょう。
梅花は雨に
柳絮は風に
世はただ虚(うそ)に、揉まるる

 室町歌謡。梅の花も柳のわたも、春の雨風に翻弄されて舞う。世の中も同じく、ウソで揉みくちゃ。ウソを「虚」と書き記してある。直接には「嘘」の意味もあろうが、それだけでなく、根本にはこの世の虚しさへの諦観があろう。戦乱の世を生きる人々の処世観でもあったと感じられるが、ひるがえって思えば、二十世紀の終幕を生きる現代日本社会でも、同じように「虚」に揉まれて大忙し。

 午後四時を過ぎたので「てっちゃん」に行ったところ、材料が入手できず今日は「長泉あしたかつ丼」は提供できないとのこと、無念。ま、いいや、今回の旅はカマゲイに出会えただけでも満足です。「学ぶ」ことに迷いが生じたら、釜ヶ崎のおっちゃんたちのことを思い出しましょう。
by sabasaba13 | 2017-02-26 08:05 | 美術 | Comments(0)