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『新聞記者』

c0051620_1852060.jpg 最近、『記者たち』、『スパイネーション/自白』、『共犯者たち』、『ペンタゴン・ペーパーズ』など、国家権力と闘う気骨あるジャーナリストの映画を立て続けに見ました。韓国やアメリカに比べて、日本ではこうした映画が見当たりません。気概に溢れるジャーナリストがいないわけではないと思うのですが、ほんとうに残念です。
 と思ったら、『新聞記者』という、映画が公開されました。公式サイトからストーリーを引用します。
 東都新聞記者・吉岡(シム・ウンギョン)のもとに、大学新設計画に関する極秘情報が匿名FAXで届いた。日本人の父と韓国人の母のもとアメリカで育ち、ある思いを秘めて日本の新聞社で働いている彼女は、真相を究明すべく調査をはじめる。一方、内閣情報調査室官僚・杉原(松坂桃李)は葛藤していた。「国民に尽くす」という信念とは裏腹に、与えられた任務は現政権に不都合なニュースのコントロール。愛する妻の出産が迫ったある日彼は、久々に尊敬する昔の上司・神崎と再会するのだが、その数日後、神崎はビルの屋上から身を投げてしまう。真実に迫ろうともがく若き新聞記者。「闇」の存在に気付き、選択を迫られるエリート官僚。二人の人生が交差するとき、衝撃の事実が明らかになる! 現在進行形のさまざまな問題をダイレクトに射抜く、これまでの日本映画にない新たな社会派エンタテインメント! あなたは、この映画を、信じられるか―?
 これは是が非でも見てみたい。さっそく山ノ神を誘って板橋のイオンシネマに行きました。平日の昼間だというのにほぼ満席だったのには驚きました。冒頭、東京新聞記者の望月衣塑子氏、元文部科学省事務次官の前川喜平氏、元ニューヨークタイムズ東京支局長のマーティン・ファクラー氏による鼎談が、テレビで放映されている場面がありました。これでこの映画が本気で、安倍政権の暗部を暴こうとしているのが否が応でもわかります。また劇中で首相の姿はおろか、名前もいっさい出てこないのも見事なアイデアです。下手に"鈴木首相"や"佐藤首相"などと仮名を使って役者に演じさせると、リアリティが薄れます。官邸からの攻撃に対するガードを固めながらも、この首相は安倍晋三氏以外の者ではありえないと確信させる演出でした。
 愚直に粘り強く真実に迫ろうとする吉岡記者を演じたシム・ウンギョンも良い演技でした。彼女の「私たち、このままでいいんですか」という言葉は忘れられません。首相の政敵を潰すという職務と、正義感・倫理感との葛藤に悩む官僚・杉原役の松坂桃李も見事な演技でした。
 大学新設計画に隠された驚愕すべき秘密、計画を記したファイルを隠し撮りする緊迫したシーンなど、エンタテイメント映画としても十分に楽しめました。ところどころでハンディ・カメラの手振れ感を効果的に使い、その場に居合わせているかのような臨場感と、不安感・緊張感を醸し出しています。
 そしてこの映画のほんとうの主人公は、内閣情報調査室(内調)かもしれません。反政府運動を監視するために参加者の顔を撮影し、首相の政敵を社会的に抹殺するためにフェイク情報を流し、官邸に利するためにSNSを炎上させるなど、その下劣さとおぞましさには吐き気を催しました。内調を体現する多田部長(田中哲司)の、冷血で凄みのある演技も光りました。あの凡庸で愚昧な首相を支えているのは、こうした有能な官僚たちなのだなと得心しました。「民主主義なんて形だけでいいんだ」という多田の言葉は、多くの官僚たちが共有している思いでしょう。われわれが民衆にコントロールされるのではなく、その逆であるべきだ、と。
 なお『しんぶん 赤旗 日曜版』(19.7.14)に、板倉三枝記者による河村光庸(みつのぶ)プロデューサーへのインタビューが掲載されていたので、引用します。
 企画が具体的に動き出したのは2年前。直接のきっかけは、官邸による元TBSワシントン支局長のレイプ疑惑もみ消し事件でした。安倍晋三首相と親しい人物です。被害者は元支局長への逮捕令状が出たにもかかわらず、逮捕が見送られたと告発しています。
 「異常事態が起きていると思いました。権力はここまでやるのかと。この間、政権がひっくり返ってもいい大事件が何度も起きています。にもかかわらず誰でもわかるようなウソで終わりにしている。それはどのような仕組みでそうなっているのか、まず知ってほしいと思いました。
 焦点をあてたのは安倍政権の下、暗躍しているといわれている官邸直轄の情報機関「内閣情報調査室」(内調)。安倍政権が最も触れてほしくないことがここにある、と感じたからです。
 「調査でわかったのは、この国の警察国家化です。内調が公安を使ってさまざまな情報を吸い上げ、官邸がそれを政敵つぶしに利用している。かつては多様性が自民党の特徴だったのに安倍首相は一元化をはかり、少数の側近による官邸独裁政治を進めています」 (中略)
 「公開を参議院選挙の公示前にすることは企画段階で決めていました。皆さんが政治に関心を持ち始める時期。自民党の方にもぜひ見てほしいですね」
 なお『週刊金曜日』(№1232 19.5.17)に掲載された森功氏のインタビューによると、内閣情報調査室(内調)トップの北村滋内閣情報官は、公安警察出身の官僚なのですね。(p.22) 下記のような分析がありましたので紹介します。
-具体的に「弊害」とは。
 官邸が政権を守ろうとするあまり、官僚の人事権を掌握した上で霞ヶ関からネガティヴな情報が漏れないように統制を強めた結果、官僚がメディアの取材に答えにくくなっているのです。というか、取材に応じなくなりましたね。実名もそうですが、匿名でメディアの取材に応じると、すぐ内部で「犯人探し」が始まるようになった。「誰がしゃべったんだ」と。さすがに公安を使うことはないようですが、以前は官僚としての気概で政権の政策や人事を批判するような勇気のある人たちがいました。ところが、官邸がそうした官僚に目星を付けて呼び出すようなことも行なわれています。もともと官僚は時の政権の顔色をうかがって仕事をするのですが、その度合いがひどくなってもはやブレーキが利かない状態です。杉田(※内閣官房)副長官が、霞ヶ関を強権的に抑え込んでいるためではないでしょうか。

-そういう官邸のやり方が、森友・加計両疑惑を生んだ。
 まったくその通りで、「安倍一強」の歪みでもあるのですが、行政が間違っても官邸の思うようにすべてが進んでいき、問題を問題としてはっきりさせることができなくなっています。問題が起きても、安倍首相を守るためにはどうすればいいかという機能が優先して働いて、実際に何が起きたかの事実解明が押さえ込まれてしまう。森友学園疑惑にしても、これは明らかに財務省の背任行為であり、公文書の偽造という重罪まで行なわれているのに、それが上からの指示だったのか、あるいは忖度であったのかすらよくわからなくなっています。

-杉田・北村両氏は安倍首相を守っているつもりかもしれませんが、政治が腐りますよね。
 問題が起きても事実関係がはっきりしないので、自浄努力が進みませんから。厚生労働省の毎月勤労統計調査の改竄問題にしても、明らかに「アベノミクス」の失敗を隠すためにやったと思われますが、実際になぜそうなったかは見えてこない。国民にすれば、「安倍政権に何か問題がある」と薄々気が付いても、実際はよくわからないので「仕方がない」とあきらめるような心理に陥ってしまいます。

-安倍首相が、この2人の官僚に指示してやらせていると?
 いや、そうではないでしょう。そもそも安倍首相は政策に強くないですから。むしろ、杉田・北村両氏が首相の意向を汲んでやっている。首相のトップダウンではないし、かといって首相を無視して官邸の官僚が好き放題しているのでもありません。ただ、2013年に成立した特定秘密保護法は以前から外事公安畑の悲願で、北村内閣情報官が安倍首相に進言していたという経緯があります。首相自身は「支持率が下がる」と、乗り気ではなかったようですが。

-戦争法(安保関連法)もそうですが、この両氏は権力が暴走する怖さを知らないのでは。
 警察官僚とはそんなものですよ。むしろ、自分たちの権力がまだ足りないくらいのことを思っているのでは。本来なら警察官僚が前のめりになる傾向を抑えることに政治の役割があるはずなのですが、今時の政治家は勉強しませんからね。政治の側の官僚に対するチェック・アンド・バランスができていない点が、憂慮すべきと思っています。(p.23)
 この映画で忘れられないシーンの一つが、内調に所属する官僚たちの働きぶりです。エリート然としたスーツ姿の官僚たちが、私語も交わさず笑顔も見せず、首相の政敵を抹殺するためにコンピュータのディスプレイを凝視ながら黙々とキーボードを叩くその姿には恐怖すら覚えてしまいました。まるでゲームをしているような様子で倫理に悖る行為を平然とこなす官僚たち。昨今における官僚たちの、首相への"忖度"ぶりを象徴するような姿です。余談ですが、『同調圧力』(望月衣塑子/前川喜平/マーティン・ファクラー 角川新書)の中で、ファクラー氏はこう述べられていました。
 外国人には摩訶不思議に感じられる「忖度」だが、映画やテレビドラマを含めた日常生活でよく使われるスラングのなかに似たようなものがある。
 そのひとつが「kiss ass」だ。おべっかを使う、ゴマをする、あるいは媚びへつらうといった行為を揶揄するときに用いられる。イエスマンを揶揄する単語としても、意味が通じるだろう。(p.145~6)
 官僚たちが何の痛痒も葛藤もなく、首相の尻の穴に接吻ができるのか。『「安倍晋三」大研究』 (望月衣塑子 KKベストセラーズ)の中で、内田樹氏が見事な分析をされているので紹介します。
 安倍マイレージ・システムでポイントを貯めたいなら、政府の政策の適否についての評価はしない、ということです。首相を支持すると必ず良いことがあり、反対すると必ず悪いことがある。そして、誰でもが「それは良い政策だ」と思えるような政策を支持するよりも、「それはいくらなんでも…」と官僚たちでさえ絶句するほど不出来な政策を支持するほど与えられるポイントは高くなる。だから、高いポイントをゲットしようとすれば、官僚たちは「できるだけ不出来な政策を、できるだけ無理筋の手段で」実現することを競うようになる。森友・加計問題で露呈したのは、まさにそのような官僚たちの「ポイント集め」の実相だったんじゃないですか。
 安倍政権はこの六年間でほんとうに見事な仕組みを作り上げたと思います。自分でやっているのはただ査定することだけなんです。そうすると、官僚たちが高いスコアを求めて、自主的に官邸が喜びそうなことをやってくれる。別に特高や憲兵隊が来て、反対派を拉致して、拷問して…というような劇的なことが起きているわけじゃないんです。でも、官邸の覚えがめでたい人たちは、政治家でも、官僚でも、ジャーナリストでも、学者でも、必ず「いい思い」ができる。これはほんとうに正確な人事考課が行われています。(p.254~5)
 というわけで、日本における政治の劣化とおぞましさを見せつけてくれる、必見の映画です。一人でも多くの人が見て、投票所に足を運んでくれることを切に望みます。結局、政治がここまで堕落したのも、あの御仁に権力を与え続けている有権者の責任ですから。前掲書で内田氏はこう述べられています。
 でも、問題は彼の独特のふるまいを説明することではありません。嘘をつくことに心理的抵抗にない人物、明らかな失敗であっても決しておのれの非を認めない人物が久しく総理大臣の職位にあって、次第に独裁的な権限を有するに至っていることを座視している日本の有権者たちのほうです。いったい何を根拠にそれほど無防備で楽観的にしていられるのか。僕にはこちらのほうが理解が難しい。(p.209~10)
 追記です。exciteニュースによると、この映画の女性記者役決定がたいへんに難航したそうです。最初は女優の宮崎あおいや満島ひかりにオファーしていたのですが、この映画に出演すると"反政府"のイメージがついてしまうため断られたとのこと。大手事務所に所属の女優さんは誰もやりたがらなかったそうです。だからしがらみのない韓国人の女優さんに決まったというのですね。マイナス・イメージを恐れただけなのか、あるいは官邸からの有形無形の圧力があるのか。ぜひ知りたいところです。このままだと国家権力と闘う気概にあふれた映画の主演俳優はすべて外国人になってしまいます。
 その意味では、主演男優を引き受けた松坂桃李氏は称賛に値します。こういう俳優をみんなで応援していきたいものです。
by sabasaba13 | 2019-07-16 06:17 | 映画 | Comments(0)

『ニューヨーク公共図書館』

c0051620_13304733.jpg 小学生・中学生の頃は、ほんとに暇で時間を持て余していました。1960年代後半から1970年代前半ですので、スマートフォンはもちろん、コンビニエンス・ストアもカラオケもテレビ・ゲームもありません。テレビは一台しかないので自由に見ることは出来ず、小遣いも少ないので漫画もふんだんには買えません。そんな私を温かく迎えてくれたのが図書館でした。入館は無料、静謐な雰囲気のなか、司書の方に相談しながら書架の間を彷徨してさまざまな本や図鑑や写真集を渉猟した思い出があります。見たこともない動植物、聞いたこともない物語、行ってみたい国や地域、世界はこれほどにも豊かなのかと驚きました。私の数少ない取り柄のひとつ、無駄な知的好奇心を育んでくれた図書館、ほんとうに感謝しております。今でも旅をして古い図書館に出会うと、さすがに頬ずりや抱擁はできないので、写真におさめています。
 わが愛する図書館をテーマとしたドキュメンタリー映画が、岩波ホールで上映されているという耳よりな情報を得ました。巨匠フレデリック・ワイズマンによる『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』という映画です。さっそく山ノ神を誘って、いっしょに見にいってきました。

 まずは公式サイトから、本作の紹介文を転記します。
 世界中の図書館員の憧れの的であり、ニューヨーク有数の観光スポット。本作の主役は、荘厳な19世紀初頭のボザール様式の建築で知られる本館と92の分館からなる世界最大級の<知の殿堂>ニューヨーク公共図書館だ。この図書館は、作家サマセット・モーム、ノーマン・メイラー、トム・ウルフ、画家アンディ・ウォーホルなど文学、芸術などの分野でも多くの人材を育ててきた。またここは世界有数のコレクションを誇りながら、“敷居の低さ”も世界一と言えるほど、ニューヨーク市民の生活に密着した存在でもある。その活動は、「これが図書館の仕事!?」と私たちの固定観念を打ち壊し、驚かす。

 映画には、リチャード・ドーキンス博士、エルヴィス・コステロやパティ・スミスなど著名人も多数登場するが、カメラは図書館の内側の、観光客は決して立ち入れないSTAFF ONLYの舞台裏を見せていく。図書館の資料や活動に誇りと愛情をもって働く司書やボランティアたちの姿。舞台裏のハイライトともいえる何度も繰り返される幹部たちの会議―公民協働のこの図書館がいかに予算を確保するのか。いかにしてデジタル革命に適応していくのか。ベストセラーをとるか、残すべき本をとるのか。紙の本か電子本か。ホームレスの問題にいかに向き合うのか。その丁々発止の意見のやりとりは、目が離せない。
 205分という長尺で、BGMも流れず、司書の方々の働きぶりや図書館を訪れた人たちの様子、そして幹部たちの会議などを淡々とフィルムにおさめた、静かな、ほんとうに静かな映画です。でもなぜ心を惹きつけられるのでしょう。
 冒頭、〈午後の本 Books at Noon〉という企画に登場した進化生物学者のリチャード・ドーキンス博士が、来館者を前に講演をして、「キリスト教原理主義者は無知である」と一刀両断に切り捨てます。お恥ずかしい話ですが、最近読んだ『サイコパスの真実』(原田隆之 ちくま新書1324)の中で、彼の業績を知りました。
 イギリスの進化動物学者リチャード・ドーキンスは、有名な『利己的な遺伝子』のなかで、進化のプロセスは、自己複製を最大の目的とする遺伝子が、その複製と存続に最も有利で利己的な方略を取ってきたものだと主張する。より正しくは、結果としてその遺伝子が存続しているということは、その方略が存続に適していたからだと言うべきだろう。(p.232)
 また映画の中頃では、〈公共図書館ライブ〉に出演したエルヴィス・コステロが、「敵だからといって、認知症で死んでくれとは思わないが、サッチャーが国にしたことは許せない。民主主義だから言う。これが僕の考えだ」と聴衆を前に発言します。彼のアルバムは、メゾ・ソプラノ歌手のアンネ・ソフィー・フォン・オッターとのデュエット『フォー・ザ・スターズ』しか持っていないのですが、『Spike』というアルバム所収の「Tramp The Dirt Down」という曲で、彼女と新自由主義を痛烈に批判していたのですね。知りませんでした。
 俺は長生きしてやる/あんたが死んで土に埋められた時に/墓の上を踏みつけるために
 うーむ、日本の公共図書館でしたら、まずあり得ない企画ですね。おそらく幹部たちは「政治的中立」という錦の御旗を振りかざして、政治や社会への批判を圧殺してしまうでしょう。最近、こうした行政による圧力をよく耳にします。護憲集会を、市や教育委員会が後援しなくなったという内田樹氏の話を読んだことがあります。常々思うのですが、「政治的中立」という立場はあり得ません。それは現状維持の別名であり、現体制を支持し、社会や政治を変えないということを意味します。体制か、反体制か、そのどちらかを選ぶしかないのにね。日本の社会がなかなか良い方へ変わらない要因のひとつが、ここにあるのかもしれません。
 この二人を映画に登場させたワイズマン監督は、批判を通じてアメリカの政治と社会をより良い方向へ変える触媒となるのが図書館の役割だというメッセージを込めたような気がします。

 映画は、司書や館員による地域住民のためのいろいろなサービスも取り上げていました。就職支援プログラム、中国系住民のためのパソコン講座、視覚障がい者のための住宅手配サービス、地域住民のための読書会(なんと、ガルシア=マルケスを読んでいました)、シニアダンス教室などなど。そこまでやるか!と唸ってしまいました。その様子を見ていると、勤務評定のためではなく、心の底から困っている人に手を差し伸べたいという思いがびしびしと伝わってきました。地域の核となって人びとを結びつけるという図書館の役割には、無限の可能性がありそうです。
 中でも、ある方が言った「孤立させない」と言葉が印象的でした。最近読んだ『東京新聞』(2019.6.6夕刊)の「紙つぶて」というコラムで、埼玉大教授の平林紀子氏がこう書かれていました。
 「孤独感が米国の分断を招いている」というニューヨーク・タイムズ紙のコラムが昨秋話題を呼んだ。筆者の米国シンクタンク会長アーサー・ブルックス氏によると、最近の世論調査では米国人の過半数が日常的に孤独感に苦しみ、あるいは自分の存在意義を認めてくれる人間関係の欠如、「居場所のなさ」に悩み、こうした「社会的孤立感」が世代を追うごとに深刻化しているという。
 職場の人工知能(AI)導入やリストラが頻繁な転職や雇用の不安定化をもたらし、職場や近隣のコミュニティーは以前のように安定的で厚みのある人間関係を供給しなくなった。「帰属集団」のよりどころを失った人々は穴埋めとして、考え方が似た、「激しい怒り」や、異なる政治的立場への「敵意と排除」の感情を共有する者同士の「コミュニティーの幻影」をソーシャルメディア上に求める。最初は幻影でも、運動組織として実体化することもある。近年の政治的分断、人種民族憎悪犯罪の増加は、これと無関係ではない。
 孤独な米国人を救う処方箋は、どこでも隣人を作れ、人を支える「社会関係作りに投資せよ」だと同氏は言う。日本も少子高齢化で地域社会は変質し、外国人労働者やAIで職場環境も変わる。「人生百年時代」に必要なのは、老後資金だけでなく、最後まで人々が支え合い認め合う社会環境である。米国を他山の石としたい。
 現代社会の宿痾、「激しい怒り」や「敵意と排除」を解消するために、ニューヨーク公共図書館も動いているのかもしれません。

 そしてマークス館長を中心とする幹部たちの会議も、良い場面でした。議題は多岐にわたります。この図書館は財源の半分をニューヨーク市から、半分を民間の寄付から得ています。どうしたら市からの予算を増やせるか。館長は「政治家を戦略的に利用する」と述べ、「政治家には“週6日開館”といったシンプルな主張が受ける」と発言します。この視点は、ぜひ参考にしたいものです。他にも、IT設備の充実や、デジタル・インクルージョン(包摂)、若者をいかに図書館へ呼ぶか、ホームレス問題、蔵書を収集する際に、電子本か紙の本か、一般図書か研究図書か、どちらを重視するのか、情熱をもって真摯に議論をしているスタッフの姿が心に残りました。つい日本を引き合いに出してしまい恐縮ですが、日本の会議を映画にしてもまったく面白くないでしょうね。

 そして映画全体を通して印象的だったのが、館員のみなさんの働きぶりです。過労死寸前まで必死に働いて、リストラされず、仲間を蹴落としてすこしでも出世と昇給を掴み取ろうという姿はありません。それぞれが持ち場で、仲間と議論をし助け合いながら、地域住民を孤立させないため、街の文化を変えるため、さまざまなアイデアを鍛え上げて実現していく。ちょっと羨ましくなりました。

 最後の場面で、〈公共図書館ライブ〉に登場した陶芸家のエドムンド・デ・ワールが自作のノンフィクションを朗読します。
 創作の過程は省いてはならない。物の作り方が人を定義するのだ。
 この映画を象徴するような言葉ですね。そして司会者が「音楽は、あなたの人生と創作に欠かせませんね。この曲も」と結び、グレン・グールドが演奏する「ゴルトベルク変奏曲」が静かに流れて映画は幕を閉じました。テンポが速いので、おそらく旧盤ですね。それぞれの声部が独立しながらも、響き合ってひとつの音楽を紡ぐ、この映画にふさわしい幕切れでした。

 各所にちりばめられた「図書館は民主主義の柱」「図書館は雲の中の虹」「規則や専門機関を設けるのも大事だが、最終的に変えるべきはこの街の文化だ」「図書館は本の置き場ではない。図書館とは人」「かつて“未来に図書館は不要”と言われた。彼らは図書館の変化に気づいていない」という言葉とともに、末永く記憶に残る映画になるでしょう。
 なおタイトルの「エクス・リブリス(Ex Libris)」とは、「~の蔵書より」という意味で、本に所有者の名前を記すときに使われるラテン語だそうです。プログラムに載っていたワイズマン監督の言葉によると、この図書館で起きたすべての出来事を見せたわけではない、ということを示唆したそうです。

 余談です。汗牛充棟、蔵書が増えすぎて難儀していますが、最近は近くにある区立図書館に寄贈するようにしています。せめてもの恩返しです。
by sabasaba13 | 2019-06-10 08:13 | 映画 | Comments(0)

『誰がために憲法はある』

c0051620_2201217.jpg 安倍晋三上等兵内閣が、いまだに改憲を獅子吼しておられます。安保法制によって、日本を戦争ができる国にしたのに、憲法を変えてさらに何を望むのでしょう。いやいや、まだまだ変えたいことが仰山ありそうです。自民党の改憲案については、内田樹氏が『街場の憂国論』(晶文社)の中で、鋭く分析されているのでよろしければご一読ください。要するに「強きを助け弱きを挫く」国を目指しているようです。これだけ多くの方々が、この内閣を支持するか、無関心か、無知でいる以上、実現するかもしれませんね。やれやれ… sigh…
 そうした中、日本国憲法を真っ向から取り上げた映画が上映されていることを知りました。井上淳一監督による『誰がために憲法はある』という映画です。これは見にいかなくては、山ノ神を誘って、ポレポレ東中野に行ってきました。余談ですが、この映画館は、地下に降りる階段の壁に映画のチラシがたくさん置いてあり、面白そうな映画の情報が得られるのも楽しみの一つです。今回いただいたチラシは、朝鮮学校を取り上げた『アイたちの学校』、東京裁判をテーマとした小林正樹監督によるドキュメンタリー映画『東京裁判』、巨匠フレテリック・ワイズマンによる『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』です。なおこの映画のチラシに「映画には、リチャード・ドーキンス博士、エルヴィス・コステロやパティ・スミスなど著名人も多数登場するが…」という一文がありましたが、リチャード・ドーキンス、どこかで聞いたことがあるなあ。…(沈思黙考)…はた(膝を打った音)、今回、地下鉄の友として持参した『サイコパスの真実』(原田隆之 ちくま新書1324)の中に、次の文相がありました。
 イギリスの進化動物学者リチャード・ドーキンスは、有名な『利己的な遺伝子』のなかで、進化のプロセスは、自己複製を最大の目的とする遺伝子が、その複製と存続に最も有利で利己的な方略を取ってきたものだと主張する。より正しくは、結果としてその遺伝子が存続しているということは、その方略が存続に適していたからだと言うべきだろう。(p.232)
 だから読書はやめられない。知のネットワークがつながる快感を与えてくれます。それはさておき、館内はほぼ満席、しかしいつものように若い方の姿はあまり見られません。
 まずは公式サイトから、紹介文を引用しましょう。
 井上ひさし、永六輔、立川談志も絶賛した、日本国憲法を擬人化した一人語り「憲法くん」を名優・渡辺美佐子が魂を込めて演じる!
 「ホントですか? わたしがリストラされるかもって話」
 「憲法くん」とは、井上ひさし、永六輔、立川談志も絶賛したお笑い芸人・松元ヒロが20年以上、日本国憲法の大切さを伝えるためユーモラスに演じ続けている一人語りである。「憲法くん」はこう言う。「わたしというのは、戦争が終わった後、こんなに恐ろしくて悲しいことは、二度とあってはならない、という思いから生まれた、理想だったのではありませんか」。そして、「わたしの初心、わたしの魂は、憲法の前文に書かれています」と憲法前文を一気に暗唱する。憲法に対する深い愛と洞察が込められたこの「憲法くん」を語るのは、「戦争を知る世代として、再び戦争の悲劇がこの国に起こらないように、この役を魂を込めて演じました」という、今年87歳になる名優・渡辺美佐子。文字で読む憲法と違い、本作で朗読される日本国憲法前文は、心の奥深くに突き刺さる。

 初恋を胸に語り継いだ 8 月 6 日。原爆朗読劇の全国巡演を続けてきた女優陣たちが語る戦後、そして未来へ託す思いとは-
 渡辺は初恋の人を疎開先の広島の原爆で亡くしたことを戦後35年目の1980年になって知った。彼の死を知った渡辺は中心メンバーとなり、現在まで33年間、鎮魂の想いを込めてベテラン女優たちと原爆朗読劇の公演を続け全国各地を回っている。しかし、その朗読劇は今年で幕を閉じる。本作では渡辺をはじめ、女優たちがこの活動を通じて抱くそれぞれの思いを映し出す。監督は『大地を受け継ぐ』(15)で原発事故により汚染された土地で農作物を作り続ける農家と、そこを訪れる学生たちの姿を真摯に見つめたドキュメンタリーを手掛けた井上淳一。同作でもタッグを組んだ弁護士の馬奈木厳太郎とともに、「憲法とは何か? なぜできたのか?」という原点を見つめ直すことができる作品を完成させた。子どもから大人まですべての人が日本国憲法について考えるきっかけを与えてくれる必見のドキュメンタリー!
 映画の冒頭は、女優・渡辺美佐子が「憲法くん」を演じる一人芝居で始まります。「70年間、わりとヒマでした」という一言は、バールのようなもので後頭部を殴られたような衝撃でした。護憲の立場からそれなりに尽力してきたつもりでしたが、その理念を実現するためにあなたは何をしましたか、と憲法くんに問責された思いです。
 そして日本国憲法前文の朗読が続きます。齢87歳の彼女は、これを暗記したそうです。さまざまな思いを込めながら、凛として語られるその言葉の力強く美しいこと。ちょっと胸が熱くなりました。誠実に真摯に論理的に語られる言葉の力というものに、あらためて感じ入りました。それに比べて、事実を誤魔化すため、責任を逃れるため、あるいは自分を良く見せるために安倍上等兵が紡ぎ出す言葉の、何と浮薄で浅薄で軽薄なことよ。『「安倍晋三」大研究』(望月衣塑子 KKベストセラーズ)に下記の一文がありましたので紹介します。
【浜田(※衆議院予算委員会)委員長】 総理、済みません、簡潔に願います。
 しかし、安倍首相は諦めない。
【安倍内閣総理大臣】 簡潔に申し上げますと、結果を出す上においては、まさに議論をしていく上においてだんだんこれが収れんしていくという中における一つの考え方として申し上げたところでございます。どうかその点を御理解いただきたい、こう思うところでございます。(2017年5月8日 衆議院予算委員会より)

 「さあ、いよいよ結論を言うのか」と思いきや、まったく関係ないことを、とにかくダラダラと話し始める。時間を使って相手を煙に巻く、ダラダラ話法だ。ちなみにこの答弁のなかで、「いわば」6回、「そこで」6回(中継では8回)、「まさに」5回(中継では6回)、「中において」2回が使われた。安倍首相が多用するこれらの言葉について、歴代首相の演説を研究してきた東照二氏(社会言語学)はこう分析している。
 「(安倍首相は)『まさに』や『つまり』といった言葉を使っている。これらの言葉は、同じ意味を繰り返したり、別の表現に言い換えたりする表現です。おそらく同じ意味を別の表現にしてはぐらかそう、自分を良く見せようとしているのではないか」(2018年6月2日 日刊ゲンダイ) (p.138)
 言葉の持つ力への敬意を一片も持ち得ないこの御仁が憲法を変えようとしているのかと想像するだけで、肌に粟が生じます。
 そして彼女が中心メンバーとなり、ベテラン女優たちと33年にもわたり続けてきた原爆朗読劇の様子が紹介されます。しかしその朗読劇も、2019年で幕を閉じることになりました。「言いたいことを言うと“左”と言われる」「もっと政治に関心を持って欲しい」「学校に招かれなくなった」といった女優たちの発言に、昨今の社会状況に対する苦渋の思いが滲みます。
 彼女がこの朗読劇を始めるきっかけとなったエピソードも紹介されます。小学生のころ、ほのかな恋心を抱いてた少年が、疎開先の広島で被曝して亡くなったのですね。彼と出会った思い出の地を歩き、そして広島平和記念公園を訪れて慰霊碑に刻まれた彼の名を指でなぞる姿が写されます。
 最後にふたたび日本国憲法前文を、渡辺美佐子が力強く朗読して、映画は幕を閉じます。

 プログラムに井上淳一監督のステイトメントが掲載されていたので紹介します。
 憲法くんは言う。「わたしと言うのは、戦争が終わったあと、こんなに恐ろしくて悲しいことは、二度とあってはならない、という思いから生まれた、理想だったのではありませんか」と。その理想がするりと掌からすべり落ちてしまいそうないま、表現にかかわる者の端くれとして、何もしなくてもいいのか。そういうやむにやまれぬ思いから、この映画を作った。元号が変わり、現行憲法最後の憲法記念日になるかもしれない日に、憲法に関する映画が一本も上映されていない国で、僕は映画に関わり続けることはできない。
 憲法は誰のためにあるのか。憲法は誰のために生まれたのか。その「誰」には、生者のみならず、戦争の犠牲になった死者たちも含まれるはずだ。いまはただ、ひとりでも多くの届かない「誰」かに届くことを願うのみである。
 嬉しいことに、終了後、井上監督が壇上に現われてお話をしてくれました。チェ・ゲバラをプリントしたTシャツが印象的です。そういえば、来日した際に、ゲバラも広島平和記念公園を訪れたことを思い出しました。
 話の中で『あたらしい憲法草案のはなし』(太郎次郎社エディタス)という本を紹介してくれました。1947年に文部省が中学生向けにつくった教科書『あたらしい憲法のはなし』と同じ体裁で、自民党による改憲草案の危険な内容を分かりやすく解説したいるそうです。はじめは、この本をもとに映画を作ろうとしたのですが、本気で支持しそうな人がいそうなので止めたそうです。また、沖縄と日本の加害行為を描けなかったことが失敗だったという言葉が心に残りました。
 終了後、プログラムにサインをしてもらい、「次回作を楽しみにしています」と言うと、両手で私の両手をしっかりと握って微笑んでくれました。腰の低さと、物言いの柔らかさが印象的な、素敵な方です。

 なお本作のプログラムは、たいへん充実した内容でした。中でも製作者にして弁護士の馬奈木厳太郎氏のコメントには、教えられることが多々ありました。「憲法についてQ&A」から二つほど引用します。
Q4 9条の平和主義はあまりに理想主義的なのではないでしょうか。もし、攻めてこられたら、そのときはどう対応するのですか?

 いきなり肩すかしのようなことを申し上げるので、「回答になってない」とお叱りを受けるかもしれませんが、憲法に則って答えようとすると、憲法の平和主義は、「もし攻めてこられたら」という状況が起きないことを目指しているのであって、攻めてこられたときにどうするのか、という土俵(枠組み)には立たないことを明らかにしている憲法です。言い方を変えれば、この質問そのものが、日本国憲法の枠外からのものだということになります。
 そもそも、「もし攻めてこられたら」という設定は、いくつかの前提を無視しています。
 まず、国家と国家の間での戦争というのは、ある日突然始まるものではありません。ある国が戦争という手段に打って出るのには、そうなった何らかの理由と経緯があるはずです。実際、戦争を始めようとしても、戦争をすると意思決定をしてから、作戦を立案し、兵站を整え、部隊を派遣し、関係諸国に通告し、そうやって準備を整えて、ようやく始まるものですし、戦争をすると決める前には、二国間の交渉や、第三国や国際機関も交えた協議といった外交があって、そうした経過のなかで、なんらかの理由から戦争やむなしとなるわけで、こうした時間や理由を無視して、ただ単に「もし」を設定するのは、あまりにも非現実的です。
 また、この質問は「攻めて」くることを所与のものとしているわけですが、通常、「攻める」のには何らかの目的があるわけで、こうした目的を特定したり明確にしないまま、単に「攻める」ことが起きてしまうことを想定するのも、ナンセンスだと言わざるを得ません。資源もなく、国土も狭く、労働力もそれほど多くない日本に対して、いったい何を目的として「攻める」ということになるのでしょう。技術ということが目的だとしても、そうであれば、戦争ではなく友好的な関係を作った方が、よほど意味があるはずです。おそらく、考えられる唯一の理由は、米軍基地が日本にあるから、その米軍基地を叩くために攻撃するというものでしょうか。しかし、「もし攻めてこられたら」という設定を好む人は、日本にある米軍基地が攻撃を誘引する存在となっていることは認めたがらないでしょう。このように、「もし攻めてこられたら」という質問の土俵に乗ってしまうことは、憲法の平和主義とは異質の土俵に立つことを意味しているのです。(p.11)

Q5 日本の周辺には、日本に対して友好的ではない国々もあって、脅威に感じられます。憲法を変えて、脅威に対抗することも必要なのではないでしょうか。

 確かに、これだけ隣国の国々と友好的な関係を作れていない国も珍しいと思います。ただ、友好的な関係を作れていないのは、あくまでも政府間の話だということに注意する必要があります。しばしば、「反日デモ」が行われたとニュースなどで言われることがありますが、あの「反日」の「日」というのは誰のことなのでしょうか? 例えば、憲法9条を守らせようとか、安保関連法に反対しようと言っているような方が、あの「日」には含まれているのでしょうか? 私にはそうは思えません。国と国の話になると、急に「オールジャパン」対「オール〇〇」のような二項対立が作られますが、日本のなかも他の国も、そんなに一枚岩なわけではありません。むしろこうした二項対立的な構図は、過度なナショナリズムを煽ることにもつながりかねません。(p.12)
 極めつけは、井上淳一監督および赤坂真理氏(作家)との鼎談の中での下記のコメントです。
 今の話を聞いても、監督はすごく真面目な人だな、と思います。僕はもう少し醒めていて、変えられることはもちろん大変なことだとは思いますけど、憲法の条文がどうであるかより、国民の意識がどうであるかの方が重要だと思っています。だって、9条を持っている国でも戦争に参加するし、イラクに自衛隊出すわけでしょ。他方で、軍隊持っている国でもこれは間違った戦争だって考えれば、出さないわけじゃないですか。あるいは25条の生存権で、健康で文化的な最低限度の生活を保障するとか言っておきながら、今のような状況があったり、男女平等だとか言っておきながら全然そうではなかったりするわけですよ。だから、いかにも改憲されるとこの世の終わりみたいな、そういったのはある種の憲法フェティシズムみたいな話だと思っていて、それもどうかなと思う。要するに負けたと思うでしょ、変えられてしまった時に。でも、やっぱりそうした話じゃないと思う。むしろ、条文がどうとか言うより、自分たちがどういう意識でどういう国でありたいかということの方がよっぽど重要で、それが“生ける法”というか“生ける憲法”になる。憲法とはそういうものだと思っているので、条文に寄りかかるのはあまり好きではないですね。(p.18~9)
 憲法の理念や理想を蹂躙するような政策が平然と行われ、その政権を国民が支持している状態は、事実上の改憲がなされているということですね。第25条との絡みで言えば、『週刊金曜日』(№1233 19.5.24)に次のような記事がありました。
「権利」としての法制化を日弁連が提起 生活保護から「生活保障」へ (片岡伸行)
 生活保護利用者は現在、約210万人(約163万5000世帯)いるが、それは本来受け取る権利のある人の15%か16%。多く見積もって2割程度だとされる。欧米ではその捕捉率が50%あり、ドイツは70%以上、英国は80%を超えているという。その名称も「連帯所得」(フランス)、「基礎生活保障」(韓国)などで、国から恩恵や施しを受けているような印象を与える「保護」の語を使用している国はないとされる。
 しかも、安倍政権になって生活保護費の切り下げが続く。2013年、14年、15年に続き、18年10月から3年間かけて生活保護費が段階的に引き下げられる。「人間の尊厳と命を削るものだ」として全国で訴訟が提起されている。(p.9)
 こういう状況を放置する、こういう状況をつくりだした政権を支持する、国民の意識って一体何なのですかね。あらためて、憲法を護る、憲法を生かす、そして憲法を蔑ろにする輩に鉄槌を下す、そういう意識を持ち続けていきたいと思います。馬奈木さん、いろいろとご教示をありがとうございました。勉強になりました。

 帰りに「十番」でタンメンを食べようとしましたがお休みでした。「タラキッチン」でカレーを食べようと足を向けると「パーム・ツリー」というお店があったので新規開拓、ボンゴレをいただきましたが、特記事項はなしです。そして「ル・ジャルダン・ゴロワ」でタルトの詰め合わせを購入して帰宅しました。
by sabasaba13 | 2019-06-08 06:23 | 映画 | Comments(0)

『カメラを止めるな!』

c0051620_21273346.jpg 知り合いの映画ファンが口を揃えて、『カメラを止めるな!』を絶賛します。しかし好事魔多し、劇場で見る機会を失してしまいました。無念。しかしDVDが発売されていることを知り、さっそく購入。自宅のテレビで、山ノ神と二人でさきほど鑑賞しました。

 面白かった… まだ余韻に浸っております。ほんとうに面白かった…

 とりあえず公式サイトからあらすじを転記します。
 とある自主映画の撮影隊が山奥の廃墟でゾンビ映画を撮影していた。本物を求める監督は中々OKを出さずテイクは42テイクに達する。そんな中、撮影隊に本物のゾンビが襲いかかる! 大喜びで撮影を続ける監督、次々とゾンビ化していく撮影隊の面々。
 “37分ワンシーン・ワンカットで描くノンストップ・ゾンビサバイバル!”……を撮ったヤツらの話。
 映画全編をワンシーンで繋ぐ試みは、ヒッチコック監督が『ロープ』で行いましたが、アイデアの秀逸さで上田慎一郎監督に軍配を上げましょう。お見事でした。
 あまり饒舌に称賛するとネタがバレてしまうので、気をつけて慎ましやかに三点だけ語りたいと思います。

 まず主人公の映画監督と娘の描き方が秀逸でした。監督は気が優しくて腰が低いのはいいのですが、周囲に気を使い妥協してしまいます。それに対して映画監督修行中の娘は、己の求める映画を撮るために、周囲との軋轢も意に介しません。当然衝突する二人ですが、やがて娘の姿勢に感化されて、父も少しでも良い映画を撮ろうと努力するようになります。そう、おやじのビルトゥングス・ロマンですね。ちょっとジーンとしました。

 次に、こんなに意表をついた切り口とひねりの利いたアイデアで、しかもかなりの(たぶん)低予算で、これほど面白い映画が作れるとは! 有名俳優をキャスティングしたり、コンピュータを利用したりして、観客を動員しようとする映画が巷にあふれるなか、爽快感さえ覚えます。映画がもつ無限の可能性に、あらためて眼を開かれた思いです。

 そして最後に…本作を見て、映画をつくりたく、あるいは映画製作に関わりたくなりました。監督、脚本、演出、撮影、大道具小道具、衣装、俳優、それぞれが役割を果たし、時には一人で何役もこなし、時には議論をし時には喧嘩をし、さまざまなトラブルやアクシデントを乗り切り、みんなで一致協力してより良い映画へと鍛え上げていく。利潤のために人間が部品として扱われるこのご時世ですが、それぞれが細胞として映画という生命を生かしていく彼ら/彼女らの姿に羨望する覚えました。ある意味、本作は映画と映画人へのオマージュかもしれません。

 奥歯にもののはさまった言い方しかできないのをもどかしく思います。申し訳ない。でも一見の価値がある映画です。心からお薦めします。知人にむりやり見せて、前半部で「つまらん」と言われたら、ニヤリと笑って「お楽しみはこれからだ」と呟くのが無情の愉しみです。

 余談です。映画つくりの快楽を描いた漫画、細野不二彦氏の『あどりぶシネ倶楽部』(小学館)も佳作です。こちらもお薦め。
by sabasaba13 | 2019-05-28 06:23 | 映画 | Comments(0)

『セロ弾きのゴーシュ』

c0051620_1826365.jpg 山ノ神に誘われて、故高畑勲氏が監督したアニメーション映画、宮澤賢治原作の「セロ弾きのゴーシュ」を練馬区立生涯学習センターホールで見てきました。チェリストの末席を汚す者として、そして賢治ファンの一人として、見逃すわけにはいきません。いただいた資料より、あらすじと映画の紹介を引用します。
 ウダツのあがらぬ職業楽士ゴーシュは、内気で劣等感が強く、いつも楽長にしかられていた。仲間との交流もない彼は毎晩、家を訪れる動物たちを相手にセロを弾いてやる。いつしか動物たちとの対話の中から、彼の心はほぐれていき、町のコンサート発表会ではソロを弾くまでに、腕をみがき、人間としても成長していくのだった。

 高畑勲監督のアニメーション「セロ弾きのゴーシュ」は、杉並にあった小さなアニメーション制作会社オープロダクション(代表 村田耕一)が、高畑勲監督を招いて宮沢賢治の同名の原作を5年がかりでアニメーション化した自主制作作品です。完成は1981年。企画を、後に「風の谷のナウシカ」の作画監督を務める小松原一男、原画を才田俊次、美術を椋尾篁、音楽を間宮芳生が担当している。原作に登場する架空の音楽「インドの虎狩り」「愉快な馬車屋」は、間宮芳生がこの作品のために新たに作曲。高畑勲監督は、「私たちにとって主観的には青春映画でもあります」と述べ、作品のパンフレットには「自立に向かって苦闘している中高生や青年達にもぜひ観てもらいたい」と記しています。劇場公開は1982年ですが、1981年度の大藤信郎賞を受賞しています。
 会場はほぼ満席、いつもながら感じるのですが、若者の姿があまり見られません。関心がないのか、経済的困窮ゆえかは分かりませんが残念です。
 さてはじまりはじまり。寺井つねひろ氏のチェロ演奏と梶取さより氏のお話、「セロ弾きのゴーシュ」上映、高畑勲監督と親交のあったイラン・ グエン氏によるトークという三部構成でした。
 アニメーション冒頭の朴訥な題字は、弟の宮沢清六氏によるものだそうです。オーケストラが発表会で演奏する曲目については、原作では触れていないので不明です。ヒントは指揮者が言う「トォテテ テテテイ」というリズムだけです。NHK-FMの「きらクラ!」の「まりさん、たのもう!」コーナーで募集すれば曲名が分かるかもしれません。それはともかく、高畑氏はベートーヴェンの交響曲第6番「田園」と設定しましたが、大正解でした。この映画の最大の魅力は、音楽とアニメーションの幸福なマリアージュです。自然の美しさと恐ろしさを見事に音楽で表現した名作「田園」と、それを生き生きと活写するアニメーション。この曲は大好きなのですが、この映画で新しい魅力を教えてもらえた気がします。イラン・ グエン氏は、“ディズニーの「ファンタジア」は、アニメのために音楽を利用したが、本作は逆”と指摘されましたが、もはや利用する/利用されるという関係ではないですね。融合です。
 ストーリーも一工夫されています。主人公のゴーシュは、原作では中年男性という設定ですが、高畑氏は彼を青年に変えました。そして音楽に悩むと同時に、周囲の人たちと打ち解けない孤独な青年として描きました。動物(自然)に励まされながら苦悩を突破して、見事な演奏、そしてアンコールで何と彼が独奏をします。観客や団員の喝采を受けた彼は、その夜の打ち上げに参加します。ここは原作にはないシーンですね。ちなみに原作は下記のとおりです。
 曲が終るとゴーシュはもうみんなの方などは見もせずちょうどその猫のようにすばやくセロをもって楽屋へ遁にげ込みました。すると楽屋では楽長はじめ仲間がみんな火事にでもあったあとのように眼をじっとしてひっそりとすわり込んでいます。ゴーシュはやぶれかぶれだと思ってみんなの間をさっさとあるいて行って向うの長椅子へどっかりとからだをおろして足を組んですわりました。
 するとみんなが一ぺんに顔をこっちへ向けてゴーシュを見ましたがやはりまじめでべつにわらっているようでもありませんでした。
「こんやは変な晩だなあ。」
 ゴーシュは思いました。ところが楽長は立って云いました。
「ゴーシュ君、よかったぞお。あんな曲だけれどもここではみんなかなり本気になって聞いてたぞ。 一週間か十日の間にずいぶん仕上げたなあ。十日前とくらべたらまるで赤ん坊と兵隊だ。やろうと思えばいつでもやれたんじゃないか、君。」
 仲間もみんな立って来て「よかったぜ」とゴーシュに云いました。
「いや、からだが丈夫だからこんなこともできるよ。普通の人なら死んでしまうからな。」楽長が向うで云っていました。
 その晩遅くゴーシュは自分のうちへ帰って来ました。
 そしてまた水をがぶがぶ呑みました。それから窓をあけていつかかっこうの飛んで行ったと思った遠くのそらをながめながら
「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。」と云いました。
 そして美しい団員の女性と二人、窓辺に寄って空を無言で見上げます。ゴーシュの未来を祝福するような、素敵なシーンでした。
 イラン・ グエン氏によると、高畑氏は「生きる喜び」を生涯のテーマとしたそうです。この映画を見て納得しました。音楽を通して、アニメを通して、自然や動物を通して、そして若者を通して、「生きる喜び」を確かに受け取りました。ありがとうございます、高畑勲さん。

 なお宮沢賢治関連の史跡等を、これまでいくつか渉猟してきました。稚内にある「宮沢賢治文学碑」、詩碑「中尊寺」、盛岡市内にある銅像、花巻にある宮沢賢治記念館・生家・お墓、そして羅須地人協会です。よろしければご笑覧ください。

 余談です。『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』(新潮文庫)の中で、「セロがおくれた。トォテテ テテテイ、ここからやり直し。はいっ」と団員を厳しく指導する指揮者のモデルが斎藤秀雄だと著者の中丸美繒氏は推定されていました。上京した賢治が、斎藤が指揮する新交響楽団の練習風景を見学していたことは間違いないようです。
by sabasaba13 | 2019-05-26 07:50 | 映画 | Comments(0)

『主戦場』

c0051620_22112976.jpg 『主戦場』という映画が面白そうです。山ノ神は野暮用があるため、一人で渋谷の「シアター・イメージフォーラム」へ見に行ってきました。まずは公式サイトから、紹介文を転記します。
 あなたが「ネトウヨ」でもない限り、彼らをひどく憤らせた日系アメリカ人YouTuberのミキ・デザキを、おそらくご存知ないだろう。ネトウヨからの度重なる脅迫にも臆せず、彼らの主張にむしろ好奇心を掻き立てられたデザキは、日本人の多くが「もう蒸し返して欲しくない」と感じている慰安婦問題の渦中に自ら飛び込んでいった。
 慰安婦たちは「性奴隷」だったのか? 「強制連行」は本当にあったのか? なぜ元慰安婦たちの証言はブレるのか? そして、日本政府の謝罪と法的責任とは……?
 次々と浮上する疑問を胸にデザキは、櫻井よしこ(ジャーナリスト)、ケント・ギルバート(弁護士/タレント)、渡辺美奈(「女たちの戦争と平和資料館」事務局長)、吉見義明(歴史学者)など、日・米・韓のこの論争の中心人物たちを訪ね回った。さらに、おびただしい量のニュース映像と記事の検証と分析を織り込み、イデオロギー的にも対立する主張の数々を小気味よく反証させ合いながら、精緻かつスタイリッシュに一本のドキュメンタリーに凝縮していく。そうして完成したのが、映画監督ミキ・デザキのこの驚くべきデビュー作、『主戦場』だ。
 映画はこれまで信じられてきたいくつかの「物語」にメスを入れ、いまだ燻り続ける論争の裏に隠された“あるカラクリ”を明らかにしていくのだが??それは、本作が必見である理由のごくごく一部に過ぎない。
 さて、主戦場へようこそ。
 おじゃまします。まずはこの映画をつくった監督の意図を、プログラムから引用します。
 私は制作過程で、この問題に関して影響力のある多くの人物に話を聞きました。おそらくこの方たちは、同じ場所に座って議論をすることはないだろうと思います。なにせ、率直に言って、彼らはお互いをひどく嫌い合っていますから。ある意味、論争の場は私の頭の中にあったと言えるでしょう。否定論者と慰安婦を擁護する側の双方が、自分たちの視点が正しいと私を説得しようとしていましたから。映画を観てもらうことで、皆さんの頭の中も「戦場」になるでしょう。しかしそれと同時に、映画を観た後に皆さんがさらに混乱してしまうという事態も避けたかったので、できる限りこの複雑な問題を紐解いていこうと、細心の注意を払いました。そうすることで、映画を観た人が最後には、この問題に関しての情報と知識を得ることができたと感じてもらえるように心がけました。
 そう、主戦場とは、この映画をみている観客の頭の中なのですね。そこで戦ってくれた皆さんを紹介します。
トニー・マラーノ(a.k.a テキサス親父)、藤木俊一(テキサス親父のマネージャー)、山本優美子(なでしこアクション)、杉田水脈(衆議院議員/自由民主党)、藤岡信勝(新しい歴史教科書をつくる会)、ケント・ギルバート(カリフォルニア州の弁護士/日本のテレビタレント)、櫻井よしこ(ジャーナリスト)、吉見義明(歴史学者)、戸塚悦朗(弁護士)、ユン・ミヒャン(韓国挺身隊問題対策協議会)、イン・ミョンオク(ナヌムの家の看護師/元慰安婦の娘)、パク・ユハ(日本文学者)、フランク・クィンテロ(元グレンデール市長)、林博史(歴史学者)、渡辺美奈(アクティブ・ミュージアム女たちの戦争と平和資料館)、エリック・マー(元サンフランシスコ市議)、中野晃一(政治学者)、イ・ナヨン(社会学者)、フィリス・キム(カリフォルニア州コリアン米国人会議)、キム・チャンロク(法学者)、阿部浩己(国際法学者)、俵義文(子どもと教科書全国ネット21)、植村隆(元朝日新聞記者)、中原道子(「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクション・センター)、小林節(憲法学者)、松本栄好(元日本軍兵士)、加瀬英明(日本会議)
 いやはや、見事な構成の映画でした。大きく言って、慰安婦は性奴隷であったことを肯定する論者と、否定する論者に分けられると思います。慰安婦の実態や総数、強制連行の有無、歴史教育などさまざまな論点について、両者へのインタビューをかみ合わせながら、豊富な映像と事実の検証をおりまぜて論争をくっきりと浮かび上がらせるその手腕には脱帽です。例えば…
ケント・ギルバート-彼女たちは性奴隷ではなく売春婦でした。自由だったんですよ。まあ…すべてのケースで完全に自由だったわけではありませんが…奴隷ではありませんでした。実際、多額の金を稼いでいました。

藤木俊一-奴隷がね、銀行通帳に、もしくは郵便局の通帳にね、家が5軒分も買えるくらい貯蓄があったわけですよ。奴隷って貯蓄できるんですか?

(監督ナレーション) 歴史修正主義者が引き合いに出すのは元慰安婦のムン・オクチュ氏の銀行口座の明細書だ。一見、確かに多額の貯金があるようにみえる。

吉見義明-ムン・オクチュさんの回想を読んでみますと、業者はまったくお金をくれなかった、あるいはほとんどくれなかったと言っています。で、そのお金は軍人、特に将校からチップとしてもらったというふうに言っています。将校たちがチップとしてなぜ一見高額と思われるお金を渡すかというと、ビルマはものすごいインフレなので、たとえば500円とか1000円持っていてもほとんど何も買えない。持っていてもしょうがないのでチップとして渡すということがあったわけですね。

櫻井よしこ-ただ、新聞広告などが今も残っていますね。慰安婦募集、そこのところに多くの女性が詰めかけたということも事実ですので、私は今言われている女性たちの問題の本質は性奴隷ではなかったと思います。

林博史-この資料というのは、朝鮮総督府の基本的機関紙にあたる新聞ですけれども、つまり慰安婦にされるような女性たちは、まず読んでいないわけです。これは基本的に業者向けなんです。ですから、業者向けに出しているので果たしてこの通りに、実際にそれだけの給料を払うかわからないですが、まずはここから言えるのは、年齢はたとえば17歳以上とか18歳以上というふうになっていますね。つまり未成年者なんですよ。ですからもうひとつの、未成年者は慰安婦にしなかったというのは嘘だということがはっきりわかりますよね。
 さて、私の軍配です。上記のやりとりからも分かるように、肯定論者側の理路の方がしっかりとしており、論拠も実証的なものに思えます。対して否定論者側の説明はやや雑ですね。よって私は、慰安婦は性奴隷であったと判断します。
 もう一つの決定的な理由は、映像から感じた両者の印象の違いです。笑みを浮かべながら饒舌に語る否定論者と、慎重に言葉を選びながら真摯な表情で語る肯定論者。人間の本性まで暴いてしまう、映像というのものは恐ろしいものだとつくづく思いました。もしかすると監督の狙いもそこにあるのかもしれません。中でも?然としたのは、否定論者であり、「日本会議」と深く関わる加瀬英明氏が、ニコニコと屈託なく笑いながら、肯定論者の著書・論文を読んだことがないと答えた場面です。否定論者たちの底の浅さを思い知らせてくれた見事なインタビューでした。

 というわけで慰安婦論争に関する知識や情報を得、日本やアジアのより良き未来を構想するうえで必見の映画です。最近読んだ『国民国家と戦争 挫折の日本近代史』(加藤聖文 角川選書593)にこういう一文がありました
。 歴史とは国民としての「誇り」を抱かせるためにあるのではない。そんなことは国民国家の基礎が不安定などこかの国がやればよいことであって、成熟した国民国家がやるべきことではない。失敗したことを直視し、同じ失敗をしないためにどうするべきかを学び、そしてどのような国家を自分たちが創っていくべきかを考えるためにある。(p.211)
 うーむ、もしかすると日本は不安定で未熟な国民国家なのかもしれません。その国民をまとめあげるためには“日本人であることの誇り”という接着剤が必要であり、それを傷つけるような歴史は直視したくないというのが否定論者諸氏の思いなのかな。たとえ同じ失敗を繰り返すことになっても。
 それにしても、ここまで否定論の粗雑さを描いて、ミキ・デザキの身に危険が及ばないのかと心配になります。映画作家・想田和弘氏が、こう記されていましたが、同感です。
 必見の映画だが、内容については書きたくない。なるべく先入観を持たずに、真っさらな目で観てほしいからだ。同時に、この勇気ある監督の身の安全を本気で心配してしまう。それほど問題の核心に切り込み、火中の栗を拾っている。それほど日本は危ない国になっている。
 なお本作で一番衝撃的だったのは、韓国に留学している女子大学生が、インタビューに対して「慰安婦? 知らない」と意味もなく笑うシーンです。心胆が寒くなりました。何が可笑しい?

 余談その一。慰安婦のモニュメントである「少女像」のことが、映画の中で触れられていました。テキサス州グレンデール市の少女像建設をめぐって、日系アメリカ人の右派が像の撤去を求めて裁判を起こし、それを日本会議や安倍政権が全面的に支援したそうです。ちなみに裁判は否定派の敗訴が確定。けれども、作者であるキム・ウンソン氏とキム・ソギョン氏ご夫妻がどんな思いを込めてこの像を制作したのか、知らない人も多いのではないでしょうか。よろしければ拙ブログをご覧ください。

 余談その二。否定論者の一人として本作に登場した杉田水脈衆議院議員について、松尾貴史氏が語った『違和感のススメ』(毎日新聞出版)を最近読みました。性的少数者(LGBTなど)の方たちについて、「生産性がないので税金で支援するのはおかしい」と語った方ですが、他にもいろいろな問題発言をされているのですね。
 保育施設が不足している問題については、「待機児童なんて一人もいない。待機しているのは預けたい親でしょ」などと語っている。(p.79)

 また、杉田議員は性暴力の被害を訴えている女性ジャーナリストについて、「女として落ち度がある」と言っている。(p.79)

 また、財務省の事務次官による女性記者へのセクハラについては、その騒ぎを「現代の魔女狩り」と評し、「男女平等は絶対に実現し得ない、反道徳の妄想」という、前近代的で野蛮な妄言も吐いている。(p.80)

 有権者は牢記して、選挙の時に必ず考慮すべきことだろう。こんな人物を国会議員として許容している国民だと、諸外国から思われてしまうことに強い羞恥心を覚える。一刻も早く議員を辞職して、願わくば人権に影響する職業には就かない欲しい。彼女こそ議員として「非生産」であり、国民の金で養うべきではない。(p.80)
 なお前述の少女像裁判について、「少女像のために日系人の子どもたちがいじめられている」と発言していましたが、まったく根拠のないものであることが映画で指摘されています。
 やれやれ、こういう人物を、中国ブロックで比例単独で1位に据える自民党の見識を疑います。と同時に、その政党に政権を与えている有権者や棄権された方々の見識も。
by sabasaba13 | 2019-05-24 06:22 | 映画 | Comments(0)

『ビル・エヴァンス タイム・リメンバード』

c0051620_18221723.jpg 私の大好きなビル・エヴァンスのドキュメント映画、『タイム・リメンバード』が公開されるというビッグニュースを知りました。これは何がなんでも見たい。山ノ神を誘って、「アップリンク吉祥寺」へ見に行きました。ほぼ満席でしたので、ジャズの人気はさほどなくなってはいないようです。一安心。若者が多かったのが意外でしたが、たいへん嬉しいことです。人気投票やお金のためではなく、音で美を表現したいという高い志をもった音楽家は、世代を超えて支持されるものと確信しております。
 さて、はじまりはじまり。数々の名盤を残したジャズ・ピアニスト、ビル・エヴァンス(1929~80)の51年の生涯を辿ったドキュメンタリー映画です。幅広い分野でドキュメンタリーを撮ってきたブルース・スピーゲル監督が、8年の歳月を費やして制作しました。ビル本人の肉声や映像・写真、演奏シーンを中心に、彼と共演したジャズマンたちへのインタビューをまじえて、「時間をかけた自殺」とも言われる彼の人生を再現していきます。そのインタビュイーの顔ぶれが凄い。トニー・ベネット、ジム・ホール、ポール・モチアン、ゲイリー・ピーコック、ボブ・ブルックマイヤー、ジャック・ディジョネット… 綺羅星の如き名プレイヤーたちの映像を見られただけでも来た甲斐があったというものです。それにしても、端正な容姿とリリカルな演奏からは想像もつかないほど、凄絶な人生だったのですね。放埓な女性関係と重度の薬物中毒、兄や愛人の自殺、はじめて知ったことばかりでした。彼を奈落の底へ落としたのは麻薬だと思いますが、あれだけの技術と才能を持ちながらなぜ麻薬にのめりこんでいったのか、その探求があまりなかったことに物足りなさを感じました。プログラムに掲載されていた監督の話に、そのヒントがあるような気がします。黄金のトリオを組んだ、ドラマーのポール・モチアンへのインタビューです。
 「知っているかい?」とポールは言いました。「ビルは自分がすばらしいピアノ・プレイヤーだと思っていなかった。才能があると思っていなかった」
 「私は彼に言ったよ。“君の才能はすごいよ、何を言っているんだい?”」
 「ビルは委縮することもあった」とポールは言いました。「それを乗り越えるために、セッションをした」
 萎縮? あれほどの才能と技術がありながら、何を恐れていたのでしょう。彼が麻薬に溺れた理由はこのあたりにありそうです。映画の最後で、歌手のトニー・ベネットが、エヴァンスから「美と真実を追求し、他のことは忘れろ」とアドバイスを受けたそうです。美と真実… 美はわかりますが、彼にとっての真実とは何だったのでしょうか。たしか映画の中で彼は、「1音を弾くごとに、自分が見えてくるんだ」と言っていたのですが、本当の自分を音楽で表現することではなかったかと想像します。口で言うのは簡単ですが、これは至難なことでしょう。本当の自分とはどういうものか。それが醜く卑小なものだったらどうするのか。おそらく彼は一切の妥協を排して自分を凝視し、それを音楽で表現しようとして、その重圧にしばしば押しつぶされたのではないか。そして麻薬へと逃避したのではないか。

 この映画のもう一つの見どころは、何と言っても素晴らしい演奏のシーンです。鍵盤に食い入るように前かがみとなる独特の姿勢から紡ぎ出される美しいメロディ。あれは、本当の自分と対話しようとしているのかもしれません。とくに、スコット・ラファロ(ベース)とポール・モチアン(ドラムス)と組んだ黄金のトリオの映像には、感無量でした。三者が三様に自己を表現しながら、一つになって対話をしているかのような見事な演奏。中でも、低音弦楽器奏者の末席を汚す者として、スコット・ラファロの演奏には脱帽です。卓抜なテクニックと類まれなる歌心、私が憧れるミュージシャンの一人です。スピーゲル監督は、下記のようなポール・モチアンの話を紹介してくれました。
 私がインタビューした多くの人たちは、とても嬉しそうにビルのことを話してくれたのですが、ポールはもっと話したくて、ビル、スコット、ポールが『サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』をライブ録音した、1961年6月11日の運命的なギグについても語ってくれました。その日曜日には、何か魔法のようなとても美しいことが起こったのです。トリオ・レコーディングについてのビル、スコット、ポールそれぞれの違ったビジョンが頂点を迎え、音楽への異なるアプローチがありました。それぞれの楽器が、彼らの音楽の中で互いに依存せずそれぞれがソロをとるなかで、楽器の新たなそしてより新鮮な独自性が生まれました。音楽は進化の新たな章を奏でたのです。
 「私たちは2週間ぶっ続けでヴァンガードで演奏した。多くの夜、トリオのサウンドは素晴らしいもので、本当に新たな極みに到達した。その運命的な日曜日のレコーディング・セッションの最後、ギグが終わると、私たちは微笑んでいた。新たなトリオに不可能はなかった。悲劇が数週間後に起こるなんて誰だって思いもしなかった」
 この時のライブ演奏が、『サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』と『ワルツ・フォー・デビイ』という二枚のレコードで聴けるとは何て幸せなのでしょう。ありがとう、オリン・キープニューズさん。しかし、その数週間後に、スコット・ラファロが交通事故で亡くなるという悲劇が起こり、このトリオは消えてしまいます。

 音楽の素晴らしさとジャズの奥深さを堪能できた映画でした。お薦めです。
by sabasaba13 | 2019-05-22 07:19 | 映画 | Comments(0)

『金子文子と朴烈』

c0051620_21514851.jpg なぬ! 『週刊金曜日』の映画評を見たら、目が点になりました。『金子文子と朴烈』という映画が作られた、しかも韓国で。そもそも金子文子とはどんな女性か。拙ブログでも触れましたが、『未来をひらく歴史 東アジア3国の近現代史』(日中韓3国共通歴史教材委員会 高文研)にある簡にして要を得た紹介文を再掲します。
金子文子(1903~26)-朝鮮人と連帯し天皇制国家と闘った日本人

 金子文子という人を知っていますか。1923年の関東大震災の際、朝鮮人の朴烈(パクヨル)とともに検束され、皇太子(のちの昭和天皇)を爆弾で殺そうとしたとして「大逆罪」に問われて、死刑判決を受けた女性です。
 文子は横浜で生まれました。家柄を誇る父が「婚外子」(法的な結婚をへないで生まれた子)であった文子の出生届を出さなかったため、正式に小学校に入学できないなどの差別を受けたり、父に捨てられた母の再婚などのため文子の少女時代は不幸でした。9歳の時、朝鮮に住む父方の親戚の養女となりましたが、権威的なその家でひどくいじめられました。三・一独立運動を目撃した時、強者に抵抗する朝鮮の人たちに「他人事とは思えないほど感激した」といいます。
 16歳で養女を解消されると、実父が勝手に結婚を決めたため、その圧力を逃れて東京で苦学しているときに社会主義・無政府主義などに出会いました。そしてこれまでの体験から「一切の権力を否定し、人間は平等であり自分の意思で生きるべきだ」という思想に到達しました。さらに、さまざまな法律や忠君愛国・女の従順などの道徳は「不平等を人為的に作るもので、人々を支配権力に従属させるためのしかけである。その権力の代表が天皇である」と考えました。
 19歳の時、日本帝国主義を倒すことを志す朴烈と同志的な恋愛をして一緒に暮らすようになり、「不逞社」を結成します。朝鮮の独立と天皇制の打倒を志す二人は、爆弾の入手を計画はしますが、実現できないうちに検束されました。
 若い二人は生き延びることよりも、法廷を思想闘争の場にしようと考えて堂々と闘いました。死刑判決後、政府は「恩赦」で無期懲役にしましたが、文子はその書類を破り捨て、3カ月後、獄中で自殺しました。23歳でした。民族や国家を超えて同志として朴烈を愛し、被抑圧者と連帯し、自前の思想をつらぬいた一生でした。(朴烈は1945年に解放されました) (p.84~5)
 一体どんなふうに彼女を、そして朴烈を描いたのだろう。これは是が非でも見に行かなければ。あまり気が乗らない様子の山ノ神を無理に誘って渋谷のシアター・イメージフォーラムに行きました。地下鉄副都心線に乗ると、駅構内に「河鍋暁斎 その手に描けぬものなし」という、サントリー美術館のポスターがありました。うわお、これも見たい。河鍋暁斎展は次の日曜日に行くことにしました。
 まずは映画の公式サイトから、あらすじを引用します。
 1923年、東京。社会主義者たちが集う有楽町のおでん屋で働く金子文子は、「犬ころ」という詩に心を奪われる。この詩を書いたのは朝鮮人アナキストの朴烈。出会ってすぐに朴烈の強靭な意志とその孤独さに共鳴した文子は、唯一無二の同志、そして恋人として共に生きる事を決めた。ふたりの発案により日本人や在日朝鮮人による「不逞社」が結成された。しかし同年9月1日、日本列島を襲った関東大震災により、ふたりの運命は大きなうねりに巻き込まれていく。内務大臣・水野錬太郎を筆頭に、日本政府は、関東大震災の人々の不安を鎮めるため、朝鮮人や社会主義者らを無差別に総検束。朴烈、文子たちも検束された。社会のどん底で生きてきたふたりは、社会を変える為、そして自分たちの誇りの為に、獄中で闘う事を決意。ふたりの闘いは韓国にも広まり、多くの支持者を得ると同時に、日本の内閣を混乱に陥れていた。そして国家を根底から揺るがす歴史的な裁判に身を投じていく事になるふたりには、過酷な運命が待ち受けていた…。
 監督はイ・ジュンイク、パンフレットを購入して彼は尹東柱(ユン・ドンジュ)を描いた『空と風と星の詩人』という映画をつくっていることも知りました。これもぜひ見てみたい。
 「不逞社」の人たちがラジオ放送を聞き(※放送開始は1925年)、水野一人に全ての責を帰すなど史実と違うところも一部ありますが、おおむね歴史的事実に基づいたわかりやすい内容になっています。二人を弁護した布施辰治が登場するのも嬉しい限りです。
 この映画の見どころは、単純に日本の国家権力と民衆による朝鮮人虐殺を糾弾するのではなく、強大な国家権力にしたたかに抗う二人の若者の姿です。朝鮮人虐殺を糊塗するために、大逆罪を犯そうとした朝鮮人が実際にいたことをアピールしようとする日本政府。そのためには何としてでも裁判を成立させなくてはならず、その弱みにつけこんで二人はさまざまな要求をつきつけます。仲睦まじく寄り添う二人を写真に撮らせる(※いわゆる怪写真事件)、あるいは民族衣装で法廷に出ることを要求する。華やかな民族衣装で出廷した二人は、裁判をまるで結婚式のように仕立て上げてしまいます。
イ・ジュンイク監督は、プログラムの中でこう語っておられました。
 本作を通して、私は一人の青年の純粋な信念に光を当てたかった。そして今日の世界に生きる私たち全員に問いかけたかった。日本植民地時代の朴烈のように、私たちは世界と真正面から向き合っているだろうかと。
 そう、朴烈と、直接には触れていませんが金子文子の二人の姿を通して、世界と、そして権力と真正面から向き合おうという監督からのエールがびしびしと伝わってきました。
主役の二人を演じた俳優の演技が素晴らしい。ふてぶてしく、したたかに、ユーモラスに権力と闘いながらも時に憂愁の影がよぎる朴烈を、イ・ジェフンが見事に演じ切っていました。それに輪をかけて素晴らしかったのが、金子文子を演じたチェ・ヒソです。獄中で文子が書いた手記『何が私をこうさせたか』(筑摩叢書286)の中で、彼女はこう綴っています。
 「ああ、もうお別れだ! 山にも、木にも、石にも、花にも、動物にも、この蝉の声にも、一切のものに…」
 そう思った刹那、急に私は悲しくなった。
 祖母や祖父の無情や冷酷からは脱せられる。けれど、けれど、世にはまだ愛すべきものが無数にある。美しいものが無数にある。私の住む世界も祖母や祖父の家ばかりとは限らない。世界は広い。
 母の事、父の事、妹のこと、弟のこと、故郷の友のこと、今までの経歴の一切がひろげられたそれらも懐かしい。
 私はもう死ぬのがいやになって、柳の木によりかかりながら静かに考え込んだ。私がもしここで死んだならば、祖母たちは私をなんというだろう。どんな嘘をいわれても私はもう、「そうではありません」といいひらきをする事は出来ない。
 そう思うと私はもう、「死んではならぬ」とさえ考えるようになった。そうだ、私と同じように苦しめられている人々と一緒に苦しめている人々に復讐をしてやらねばならぬ。そうだ、死んではならない。
 私は再び川原の砂利の上に降りた。そして袂や腰巻から石ころを一つ二つと投げ出してしまった。(p.84)
 世界の美しさと広さを認識する感受性、弱者・貧者への共感と連帯感、強者・富者への批判と憤怒、そうしたものを併せ持った金子文子という多面的で自立心の強い女性を、きわめて魅力的に演じていました。時には怜悧な小悪魔のような、時には清楚な少女のような、時には強健な闘士のような文子を演じ分けたその力量には脱帽です。ちょっとした表情やしぐさや視線で文子の多面性を表現したその演技には、鳥肌がたつほどに見惚れてしまいました。
彼女の演技だけでも必見の映画です、お薦め。

 それにしても、韓国映画の豊饒さと質の高さには驚いてしまいます。その理由の一端が、『週刊金曜日』(№1223 19.3.8)に載っていた、片山慎三監督へのインタビューでわかりました。(聞き手:中村富美子)
 日韓の映画業界の体質の違いにも敏感だ。売れ筋の原作で観客動員を見込む日本の映画業界の傾向に対し、韓国では「結末がわかっているようなものを作って何が面白いんだ、という考え。2~3年かけ、お金もかけてオリジナル脚本をちゃんと書く。だから全然違う。それが悔しかったです、韓国映画を見ていて」。
 それは国の文化政策の差でもある。脚本執筆中は無収入が普通の日本と、申請すれば国からの援助があって生活費に充てられる韓国。「それでヒットしたら興行収入を国に還元し、それがまた将来の支援へと回される」。この循環が、韓国映画の質を支えている。(p.50)
 嫌韓を叫んでストレスを発散させる方々にこそ、ぜひ見ていただきたい映画です。韓国から学ぶべきことは、けっこうありますよ。
by sabasaba13 | 2019-05-12 06:46 | 映画 | Comments(0)

『福島は語る』

c0051620_2184970.jpg 『“私”を生きる』や『沈黙を破る』といった秀作を世に送りだし、ジャーナリストとしても活躍しておられる土井敏邦氏が、『福島は語る』という映画をつくられたそうです。その意図を、土井氏は公式サイトで次のように述べられています。
 原発事故から8年が過ぎました。日本は、2020年の東京オリンピックに向けて浮き足立ち、福島のことは「終わったこと」と片づけようとしているように感じます。しかし、原発事故によって人生を変えられてしまった十数万人の被災者たちの心の傷は疼き続けています。
 100人近い被災者たちから集めた証言を丹念にまとめました。その“福島の声”を、忘却しつつある日本社会に届けたいと願い、この映画を制作しました。
 まったくです。昨今では、東京オリンピックに加えて、新元号や新天皇の即位や十連休で大騒ぎしている日本社会。ほんとうに福島のことは、きれいさっぱり忘れてしまったようです。原発マフィアの皆さまの、ほくそ笑む顔が目に浮かびます。しかしこの事故のことは、絶対に忘れてはならない。問題の所在をはっきりさせておきましょう。それを明確に示してくれた中野敏男氏の一文を、『詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」』(NHKブックス1191)から引用します。
 …現在では、東日本大震災を前後して大きく問題化した二つのことが、あらためてその現状を厳しく照らし出すことになりました。
 その二つとは、ひとつは、普天間基地移転が焦点化する中であらためて問われている沖縄の過重負担という問題であり、もうひとつは、震災にともなう福島第一原子力発電所の事故に端を発した深刻な原子力災害のことです。わたしたちはいま、戦後に植民地主義の継続を考える際に、この戦後世界に作られていた「犠牲やリスクを不平等に配分する差別的な秩序」の存在に注目しました。ここまではそれをまずは冷戦状況下での東アジア地域の国際関係に即して見たのでしたが、そのような「犠牲やリスクの不平等」という差別はそれに限らず、「基地国家」とされるこの国の内外にさまざまに組織され、あるいは再編されて持続してきたと考えなければなりません。その中でも、過重な基地負担を強いられ続けている沖縄の問題と原発リスク負担を引き受けてきたフクシマの問題は、現在の日本社会にとって存立の基盤そのものに関わる、負担の深刻な差別的秩序の存在を露呈させたのでした。軍事基地の負担を沖縄に集中し、エネルギー供給に関わるリスクをフクシマその他に集中さしていればこそ、今日まで日本の他の地域の人々は、日常的にはそんな負担やリスクを意識しないままに「平和で豊かで安全な日本」であるという中央中心の自己認識をずっと維持してこられたわけです。そうであれば、これもまたひとつの植民地主義と言わねばならないのではないでしょうか。
 このように考えてくると、東日本大震災を経た今日、この日本は確かにひとつの大きな曲がり角に立っているということが分かります。大地震そのものは天災でしたが、それが重大な犠牲を強いつつ暴露してしまった事態は、「犠牲やリスクの不平等」を生むこんな差別的秩序に依存して進められてきた戦後日本の「経済成長」路線、この意味で植民地主義に立脚するこれまでの拡張路線の、手酷い破綻であるに違いありません。(p.287~8)
 そう、福島の原発事故を忘れてしまうと、沖縄の新基地建設強行に無関心だと、この「犠牲やリスクを不平等に配分する差別的な秩序」がこれからも未来永劫に続くということです。庶民を静かに抹殺しながら、一部の富者や強者が富み栄えるというこの社会が。
 過重なリスクを負わされて深刻な事故にまきこまれ、そして抹殺されつつある“福島の声”に耳を傾けることによって、このえげつなくいかがわしいシステムを体感したく思い、吉祥寺にある「ココロヲ・動かす・映画館◯」で見てきました。
 下記の八章仕立てで、計14人へのインタビューと、福島の美しい自然の映像で構成されています。『福島からあなたへ』の著者、武藤類子も登場されていました。

第一章 「避難」
 「自主避難」をめぐる家族間の軋轢と崩壊。他県で暮らす避難者たちと福島に残る人びととの乖離、避難生活の厳しさと苦しさに引き裂かれていく福島出身者たち。

第二章 「仮設住宅」
 4畳半一間での独り暮らす孤独感と先が見えない不安。「避難解除」され「仮設」を出ても、大家族が共に暮らす元の生活に戻れない絶望感。

第三章 「悲憤」
 「補償」の負い目と“生きがい”の喪失。「帰村宣言」で補償を打ち切られた生活苦と先の見えない不安と病苦。“自死”の誘惑が脳裡を過ぎる。

第四章 「農業」
 「福島産だから」と避けられる農産物。福島を想いながらも他県産を求める自責と葛藤。農家は“農業と土地への深い愛着”と、経営破たんの危機の間で揺れ動く。

第五章 「学校」
 避難し各地に離散した教え子たちに手書きの「学年便り」を送り続けた教師。差別を恐れ「原発所在地」出身だと名乗れない子どもたち。

第六章 「抵抗」
 水俣病と同様に被害を隠蔽し矮小化する国家の体質。“尊厳”のために闘う沖縄に、福島の闘いを重ね合わせる反原発運動のリーダーの抵抗。

第七章 「喪失」
 「帰還困難区域」となった飯舘村・長泥で、家と農地、石材工場を失った住民。追い打ちをかけるように、将来に絶望した跡取り息子を失う。原発事故で「人生を狂わされた」被災者の慟哭。

最終章 「故郷」
 「住民の一人ひとりの半生を全てを知る」故郷。「汚染されても美しい」故郷。原発事故が福島人に突き付けた“故郷”の意味。

 どのインタビューでも胸に突き刺さるような言葉が紡ぎ出されていますが、断腸の思いで二人だけ紹介します。
佐久間いく子さん
Q.生きていてもしようがないと思うことある?
うん。何回も思っている。ああ、今日逝くのかなあって。思う、思う。透析やっていると血圧が下がる。すると「ああ、もう、逝っていいや」って。
Q.どうしようもない気持ちに時々なるんだ?
時々じゃない。毎日ぐらい(笑い)。いい時なんて、ちっともない。
Q.何もかも失ったという気がする?
手足もぎとられたって感じかなあ。目に見えるものなら、掃いて集めて捨てるってこともあるけど、目に見えないものだから、これには困っちまうなあ。なんて言ったらいいのかなあ。どこさ、言っていいのかわからない。
Q.帰って生活もできない、コメも作れない。それで帰れって、補償を切る
死ねって言うみたい。
Q.そう聞こえるんだ?
うん。おめえら死んでもいいという感じだな。そうでしょ?

村田弘さん
 一言でいうと、(日本社会は)変わっていないと思います。国家が民衆に対応するときの姿勢は、基本的にまったく変わっていない。そのことが全く変わらず、また繰り返されようとしている結論に近いものを持っています。
 僕が駆け出し記者の頃、昭和42、43年ごろですが、朝日新聞・熊本支局にいました。当時、公害基本法などができて、「水俣の見直し」があった頃で、その取材をしていました。あそこで見たことも同じなんですよ。普通の人に被害が及ぶと、まずそれを隠す。(国は)チッソが水銀を放出していたことは最初、隠していた。それが隠しようがなくなると、それをごまかそうとする。それには学者も絡みます。それもごまかしきれなくなると、今度は範囲を狭める、矮小化する。被害を否定できなくなると、範囲を狭めるんです。それで矮小を認めて、問題を終りにしようとする。
 生活苦、病苦、孤独、先行きへの不安、軋轢、悔しさ、差別、絶望、分断、いじめ、希望、怒り。さまざまな語り口と表情で語られる福島の現状には、言葉もありません。東京オリンピックや新元号で浮かれている場合ではないでしょう。あらためて、この原発事故が多くの人びとの人生や暮らしを破壊し、美しく懐かしい故郷を破滅させたという事実に立ち竦む思いです。そして原子力マフィアや、この差別のシステムを駆動させている方々に対する瞋恚の焔が燃え上がります。J・M・クッツェーの卓抜な表現を借りると、彼ら/彼女らを「なろうことなら、ガラスをぶち破り、手を中まで伸ばしてやつをそのぎざぎざの破れ目から引きずり出し、やつの肉が尖ったガラスの先にひっかかってずたずたに切れるのも構わず、地べたに放り投げて外形もわからぬまでに蹴飛ばしてやりたいという衝動に駆られ」ます。(『夷狄を待ちながら』p.323 集英社文庫)

 そしてインタビュイーにこうした深く重い言葉を語らせた土井監督の手腕には敬意を表します。その背景について、プログラムに監督の言葉が載っていました。
 しかしそれまでのインタビュー映像を粗編集してつないでみると、自分の胸にストンと落ちる記録映像ではなかった。“胸に染み入る深さ”がないのである。
 原発事故後に自分や家族に起こった事象、今に至るまでの生活環境の変化、その中で抱え込んだ「問題」はある程度表現されてはいるが、語る人の内面、“深い心の傷”“痛み”が十分に引き出せてはいなかった。つまり「問題」は描けていても、その中で呻吟する“人間”が描き切れていなかったのである。
 そんな時、1冊の本に出会った。2015年度のノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチ著『チェルノブイリの祈り』である。
 この本は、事故から10年後に発表された事故被害者たちの証言集だ。そこにはアレクシエービッチ自身の解説はない。ひたすら被害者たちの生々しい語りが続く。しかもそれは単なる「事実の羅列」ではない。その言葉が、読む私の心に深く染み入るのだ。「被害者の証言」だけの作品なのに、なぜこれほどまでに私は衝撃を受けたのか。なぜこれほど読む者の心を揺さぶる語りを聞き出せたのか。どうすれば「事故の緊急リポートにすぎず、本質はすっぽり抜け落ちてしま」(アレクシエービッチ)わないドキュメントが生み出せるのか。私の“フクシマ”取材の行き詰まりを抜け出すヒントがここにあるような気がした。
 どんな過酷な事象や体験をも、「尊厳ある伝え方」で伝えていく。単に目の前に現れる、また語られる現象や事実を、ただ表象をなぞるのではなく、その本質と尊厳を見出す目。私が“フクシマ”取材に行き詰っていた原因はその欠落にあるのだろうか。それ以前に私は、“フクシマ”を伝えるためにこれまでに一体どれほどの「心のたたかい」をしてきただろうか。
 それでも私は、ここでおずおずと引き下がりたくはないと思った。「自分にはできない」と投げ出すことは、「心のたたかい」を放棄し自身の尊厳を放棄することに等しいことだからだ。
備わった資質もない私でも、“伝え手”としてできることがあるはずだ。「一人ひとりの人間が消えてしまったように」されていく国内の現状の中で、「個々の人間の記憶を残すこと」はこんな私でもいくらかはできるはずだ。
 アレクシエービッチにはなれなくても、『チェルノブイリの祈り』ほどの記録は残せなくても、私なりに「“フクシマ”の記憶と記録を残す」ことはできるはずだ。「福島は語る」はそういう試行錯誤と暗中模索の中で、かたちとなった作品である。
 そうか、スベトラーナ・アレクシエービッチに触発されたのか。私も、彼女の著作は『チェルノブイリの祈り』(岩波現代文庫)、『ボタン穴から見た戦争』(岩波現代文庫)、『戦争は女の顔をしていない』(岩波現代文庫)を読んだので、土井監督の想いがよくわかります。本質を見極める明晰な頭脳と、人間の尊厳に敬意を払う温かい心。

 福島を、そして沖縄を忘れることは、犠牲となった方々を抹殺することです。そしていつか自分も抹殺されることです。いや、もうすでに抹殺されつつあるのに、気づかないだけなのかもしれません。誰かを犠牲にして維持されるこのおぞましいシステムを止めましょう。できるのか? できます。このシステムは、私たちの知的および倫理的怠惰を燃料としているのですから。福島の悲劇を忘れてオリンピックや新元号に現を抜かす私たちの倫理的怠惰に、強烈な喝を入れてくれる必見の映画でした。お薦めです。

 追記です。『チェルノブイリの祈り』でドッグ・イヤーを折ったところを読み返すと、福島との共通点が多いことにあらためて気づきます。
セルゲイ・ワシーリエビッチ・ソボリョフ
 国は詐欺師ですよ、この人たちをみすててしまった。(p.146)

ゾーヤ・ダニーロブナ・ブルーク
 私はすぐには分からなかった。何年かたって分かったんです。犯罪や、陰謀に手を貸していたのは渡したち全員なのだということが。(沈黙) (p.189)

 人間は、私が思っていた以上に悪者だったんです。(p.189)

 ひとりひとりが自分を正当化し、なにかしらいいわけを思いつく。私も経験しました。そもそも、私はわかったんです。実生活のなかで、恐ろしいことは静かにさりげなく起きるということが。(p.190)

ビクトル・ラトゥン
 わが国の政治家は命の価値を考える頭がないが、国民もそうなんです。(p.214)

ワシーリイ・ボリソビッチ・ネステレンコ
 私は人文学者ではない。物理学者です。ですから事実をお話ししたい。事実のみです。チェルノブイリの責任はいつか必ず問われることになるでしょう。1937年〔スターリンによる大粛清〕の責任が問われたように、そういう時代がきますよ。五〇年たっていようが、連中が年老いていようが、死んでいようが、彼らは犯罪者なんです! (沈黙) 事実を残さなくてはならない。事実が必要になるのです。(p.237)

ナターリヤ・アルセーニエブナ・ロスロワ
 でも、これもやはり一種の無知なんです。自分の身に危険を感じないということは。私たちはいつも〈われわれ〉といい〈私〉とはいわなかった。〈われわれはソビエト的ヒロイズムを示そう〉、〈われわれはソビエト人の性格を示そう〉。全世界に! でも、これは〈私〉よ! 〈私〉は死にたくない。〈私〉はこわい。チェルノブイリのあと、私たちは〈私〉を語ることを学びはじめたのです、自然に。(p.253)

by sabasaba13 | 2019-05-08 06:25 | 映画 | Comments(0)

『記者たち』

c0051620_2284782.jpg 『記者たち 衝撃と畏怖の真実』という映画が面白そうです。「スタンド・バイ・ミー」の名匠ロブ・ライナーが、イラク戦争の大義名分となった大量破壊兵器の存在に疑問を持ち、真実を追い続けた記者たちの奮闘を描いた実録ドラマだそうです。これはぜひ見に行かなくては。山ノ神も快諾、二人で日比谷にあるTOHOシネマズシャンテに行って見てきました。
 まずは公式サイトからあらすじを引用します。
 2002年、ジョージ・W・ブッシュ大統領は「大量破壊兵器保持」を理由に、イラク侵攻に踏み切ろうとしていた。新聞社ナイト・リッダーのワシントン支局長ジョン・ウォルコット(ロブ・ライナー)は部下のジョナサン・ランデー(ウディ・ハレルソン)、ウォーレン・ストロベル(ジェームズ・マースデン)、そして元従軍記者でジャーナリストのジョー・ギャロウェイ(トミー・リー・ジョーンズ)に取材を指示、しかし破壊兵器の証拠は見つからず、やがて政府の捏造、情報操作である事を突き止めた。真実を伝えるために批判記事を世に送り出していく4人だが、NYタイムズ、ワシントン・ポストなどの大手新聞社は政府の方針を追認、ナイト・リッダーはかつてないほど愛国心が高まった世間の潮流の中で孤立していく。それでも記者たちは大義なき戦争を止めようと、米兵、イラク市民、家族や恋人の命を危険にさらす政府の嘘を暴こうと奮闘する…
 煮えたぎるような熱いジャーナリスト魂を小気味よく描いた秀作です。この当時、真実を報道しようとしたメディアがいかに孤立していたか、痛いほどわかりました。ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストといった大手新聞をはじめ、アメリカ中の記者たちが大統領の発言を信じて誤った報道を続けていたのですね。「ペンタゴン・ペーパーズ」を暴いたワシントン・ポストよ、お前もか。そして傘下の新聞社からは記事の掲載を拒絶され、オフィスには匿名の脅迫メールが届き、身内からも裏切り者呼ばわりされる。
 しかし彼らは家族や恋人に支えられながら、真実の報道を追い求めます。余談ですが、ジョナサンの妻ヴラトカを演じたミラ・ジョヴォビッチに惚れました。旧ユーゴ出身という設定で、国家権力の恐ろしさを骨の髄まで知っている彼女は、「なぜ盗聴に気をつけないの」と旦那を叱責します。それはさておき、取材の方法も実話に基づいた興味深いものでした。政府高官の話はプロパガンダであることが見え見えなので、現場で働く下級のスタッフに小まめに電話をかけて取材をくりかえします。こうした地道な努力が真実へと至る道なのですね。
 そしてこの映画の主役は、何といってもロブ・ライナー監督が自ら演じる支局長ジョン・ウォルコットです。部下たちを厳しく、時には優しく叱咤激励しながら、民主主義のために政府の嘘を暴き真実を伝えようとする彼の姿には感銘を覚えました。彼の言です。
 他メディアが揃って政府の速記者になりたがるなら、勝手にやらせろ。

 政府が何か言ったら、記者として必ずこう問え。“それは本当か”

 私たちは子どもを戦争に送る人たちのために報道しているのではない。子どもを戦争に送られてしまう人たちのために報道しているんだ。
 最後の科白と共鳴するかのように、愛国心に駆られてイラク戦争に志願し、負傷によって下半身不随となって黒人青年のことがサイドストーリーとして描かれているのも見事です。

 それにしても十数年前に起きた国家権力による犯罪を、映画にしてしまうアメリカ社会の底力には頭が下がります。また国家権力と闘い真実を報道しようとするジャーナリストを描いた映画がつくられていることもお手本にしたいところです。『大統領の陰謀』しかり、『ペンタゴン・ペーパーズ』しかり。そういえば韓国でも、『共犯者たち』や『スパイネーション/自白』など、国家権力と闘うジャーナリストを描いた秀作がつくられています。なぜ日本ではこうした映画がつくられないのでしょうか。ま、“政府の速記者”を描いても面白い映画にはならないでしょうが。頑張れ、日本のジャーナリスト。

 追記です。『週刊金曜日』(№1222 19.3.1)にこういう記事が掲載されていました。
WIMNが政府に抗議声明 望月衣塑子記者にエール 宮本有紀

 安倍政権が、官房長官会見における『東京新聞』の「特定の記者」(望月衣塑子氏を指す)の質問内容を「事実誤認」とし、質問妨害などした行為について、「メディアで働く女性ネットワーク(WiMN)」が2月25日、「安倍政権による記者の弾圧・排除やこれらを正当化する閣議決定に抗議する」声明を発表した。
 声明は「『特定の記者』は約1年半、質問する順番を後回しにされ、質問中のは数秒おきに何度も『簡潔にお願いします』などと言われて制止され、妨害」されたこと、政府側が「質問が『事実誤認』『度重なる問題行為』であるとする『問題意識の共有をお願い申し上げる』との『申し入れ』を内閣記者会の掲示板に貼り出す」などしたことを「特定の記者をつるしあげ、その排除に記者クラブを加担させようとしているよう」と批判。「政府によるジャーナリストへの弾圧、言論統制そのものであり『特定の記者』を超えて、ジャーナリスト一人一人に向けられた『刃』」であると指摘し、「安倍政権は(略)直ちに記者に対する弾圧・排除をやめ、記者会見を正常化することを強く求め」ている。
 財務事務次官によるテレビ朝日記者へのハラスメントをきっかけに昨年結成されたWiMNには現在45社123人が参加。望月氏も会員だ(公表済)。代表世話人の林美子氏は「ジャーナリズムに携わる集団として、今回の事態に強い危機感を持っている。取材先や組織内でのセクシャル・ハラスメントや女性蔑視により、女性記者が仕事をしにくくなる状況と通底するものを感じる。この事態を見過ごせば、私たちの仕事の基盤が根底から揺らぐ」と話す。そして「ターゲットとされた望月記者を心から応援したい。一人ひとりの記者がその能力を十全に発揮できることが、日本の民主主義にとって不可欠だ」と強調した。(p.9)
 こうした事実や動きを知り、ジャーナリストを応援することが、政府の嘘を暴き、民主主義を守ることにつながるのだと思います。頑張れ望月記者、そしてWiMN。
by sabasaba13 | 2019-05-06 07:23 | 映画 | Comments(0)