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琉球の風

c0051620_2210221.jpg 先日、劇団東演による劇「琉球の風」を俳優座劇場で見てきました。沖縄に関する映画は、『米軍が最も恐れた男 その名は、カメジロー』、『戦場ぬ止み』、『標的の島 風かたか』、『沖縄 うりずんの雨』などけっこう見てきましたが、沖縄に関する演劇ははじめてです。なお山ノ神が所用のため、一人で見てきました。
 作・中津川章仁、演出・松本祐子、まずは公式サイトから、あらすじを引用します。
 東京の旅行代理店に勤める片岡誠也の元に、一本の電話が入る。代理店で企画している沖縄ツアーの実態について話を聞きたいという観光庁の秋本からの連絡だった。同僚・新城紗緒理が手がけるこの沖縄ツアーは即座に満員となり、定員を増やす騒ぎになっていた。しかし片岡は、紗緒理には純粋な観光ツアーではなく別な思惑があるのではと気にしていた。「沖縄の人間は基本的に基地に反対しているからなあー」と振ってみるのだが、「反対している人だけでなく、賛成している人も、無関心派も大勢いますよ」と取り合わない紗緒理…。東京生まれで東京育ちの片岡誠也、沖縄生まれで沖縄育ちの紗緒理の父(兄?)・新城芳郎、二人の出会いでやがて意外な事実が明らかになっていく…。
 沖縄に対して無知・無関心な都会の若者が、沖縄の現実に触れて変容していくという筋立てが斬新です。実は紗緒理が兄・芳郎と共に立案したこの「オール沖縄ツアー」は、フリータイムの時に、辺野古と高江における反基地運動に参加できるようになっていたのですね。何者かがそれを観光庁にリークし、慌てた観光庁が旅行代理店に中止の圧力をかけてくる。自由なのだから何をしてもよいと思うのですが、このあたりに政権の意図を忖度して非公式な圧力を市民にかける官僚の卑小さがよく描かれています。沖縄のことが気になりはじめた誠也は、友人の雑誌記者に誘われて訪沖し、沖縄の現実を見聞するとともにその観方が変わっていきます。この時に出会った知念晶男という人物が心に残りました。本心では米軍基地に反対なのですが、生活苦のためかつては機動隊員として運動を弾圧し、今では日雇い労働者として高江ヘリパッド建設に従事しています。金のために故郷や仲間を裏切った男の苦渋と自責と含羞を、星野真広が見事に演じ切っていました。まるで一人の生身の男と化した沖縄が、私たちヤマトンチュを見据えて「何も思わないのか、何も感じないのか」と詰問しているようです。これが演劇の醍醐味と凄みですね。
 実はこの晶男が、ツァーを中止に追い込むため、観光庁にリークした人物だったのです。反基地運動で挫折して東京を放浪していた高校の恩師・島袋孝雄(佐々木梅治)がこのツァーに参加することを知り、それをやめさせるための手段でした。東京で晶男に会った時に孝雄が発した、「何で沖縄だけがこんな目にあうんだ」という慟哭も忘れられません。
 結局ツァーは成立し、主人公・誠也の意識も変化し、めでたしめでたし。と思いきや最後に凄まじい戦闘機の爆音が轟き、幕となりました。「沖縄で、いま、何が起きているのかを忘れるな」という演出家のメッセージでしょうか。

 素晴らしい劇でした。とくに前述した知念晶男の姿によって、沖縄が押しつけられている差別や困難をリアルに体感することができたのが大きな収穫です。演出家の松本祐子はパンフレットの中で、次のように述べられています。
 2015年のある日、東演のプロデューサー横川氏から中津留章仁さんに沖縄問題について書下ろしをしてもらうから演出してくれないかと言われた時、正直困ったことになったなと思ってしまった。どの面下げて私のようなものが沖縄を語れるというのだろう。1609年から現在に至るまで、本土がかの地で身勝手に振り廻してきた事々の堆積はすさまじく、特に戦後の矛盾を沖縄に押し付けている結果は進行形で人々を苦しめている…そういう表向きの情報はある程度学習すれば得られるのだが、そんなものは当事者からしたら「ふざけるな」といいたくなるような無責任なものなのだ。
 私があの日感じたある種の恐怖を、多分、作家の中津留氏も感じていたのだと思う。だから彼は"沖縄に直面することをためらってしまう都会人"を作品の中心に据えた。日々の生活を摩擦なく穏便に過ごすことを良しとしている小市民を、その為には見ざる聞かざる言わざるでいることに疑問を抱かない小市民を中心に据えた。沖縄問題の中核を描く資格がない私たちは、沖縄問題も含めて全ての社会問題に鈍感になっているおのれの姿を描いたのだ。だから2016年の初演の稽古の間中ずっと、私は己の小市民性と向き合わなくてはならなかった。私は知らなかった、日本が戦後70年以上経っているのにこんなにもアメリカに支配されていることを。私は知らなかった、貧困家庭がこんなにも増えているなんて。私は知らなかった、時には新聞が事実無根のニュースを流すこともあることを。この作品と出会ったからって何かを知ったとは言えないのだけれど、せめて猿からの脱却を目指すしかないと思っていた矢先に、海の向こうではトランプという自国中心主義の大統領が選ばれてしまった。儲けることとプライドを誇示することが最大の目標のように見受けられる男を選ぶ小市民の群れを愚かだと思おうとしたのだが、日本ではもっと目をそむけたくなるような状況が続いている。
 そしてこの作品を再演することになった。一年半の歳月しか経っていないけれど、今私たちを取り巻く環境はより一層、なんでもありのひどいものになっているように思える。そしてそれを自覚するにつけ、この一年半、自分が如何に怠け者だったかを突き付けられるのである。知ろうとする努力を怠り、自分で考えることを止めることは、愚かな指導者を生み、結果は自分の幸せをも犠牲にしてしまうことをわかっているはずなのに、無為に時間を過ごしてきてしまったのではないか、そんな反省に苛まれる。小市民な登場人物たちが"知ることの痛み"を抱えながら紡ぐこの作品に、私もちりちりとした痛みを感じながら立ち向かっている。
 虐げられている少数派の人びとのことを知ろうとせず、考えようとしない、そうした知的怠惰があの禍々しい政権を延命させ、そしてこの国を底なしの無恥にひきずりこんだことを痛感します。

 最後に、知念晶男の苦渋を理解するための見事な論考がありますので、『無意識の植民地主義』(野村浩也 御茶の水書房)から長文ですが引用します。
 沖縄人の土地を暴力で強奪することによって建設が強行された米軍基地。それは、そこで農民として暮らしていた沖縄人から、生きる糧も住いもすべて奪いつくした。どうやって生きていけばよいのか。途方に暮れた沖縄人に米軍があてがったもののひとつ。それは、なんと、奪われた土地を軍事基地に変える仕事に従事させることであった。土地を強奪された者が、強奪した者のために、生命の糧を恵んでくれるはずの自分の土地を、みずからの手で、生命を奪う軍事基地に変えなければならない屈辱。土地を強奪された沖縄人のなかには、生きるために、そうするしかなかったひとも多い。生きるために、基地ではたらくしかなかったひとは多い。そして米軍人は、沖縄人が抵抗しようものなら、「首を切るぞ!」と脅かした。沖縄人は恐怖に震えた。職を奪われたら生きていけない。生命の糧を恵んでくれる自分の土地はもうないのだから。職を奪われることは、殺されるのも同然なのだ。よって、生きるためには、米軍という植民者に従うほかなかった。土地どろぼうに従うほかなかったのだ。
 これは、恐怖政治である。テロリズムである。土地を奪われた沖縄人の抵抗を抑え、軍事基地を安定的に維持するためには、沖縄人を恐怖させなければならない。そして、恐怖させるためには基地に依存させなければならない。依存させるためには沖縄人を自立させてはならない。
 右に述べたことは、直接的には、「日本復帰」前の沖縄の状況である。したがって、自己利益のために沖縄人を合州国に売り飛ばした日本人には、沖縄人を右のような状況に追いこんだ責任があるのだ。だが、日本人は責任をとるどころか、「日本復帰」後も、基本的に、右に述べたような恐怖政治=テロリズムによる支配の方法を変えようとはしなかったのである。
 恐怖政治=テロリズムは、「抵抗したら殺されるかもしれない」という「暴力の予感」を被植民者に喚起することによって機能する。重要なのは、暴力や死を予感させることなのだ。その点では、失業もほとんど同じである。職を奪って食えなくさせ、そのまま放置しておけば、そのうち確実に死ぬのだから。それは、直接殺す手間をはぶいた、いわば時間差殺人である。したがって、失業させることもまた暴力であり、死を予感させる暴力なのだ。
 沖縄の米軍基地は、恐怖政治=テロリズムによって維持されてきた側面が大きい。しかも、そこでの恐怖政治=テロリズムの手段は、前述した沖縄人の子どもの殺害をはじめとする直接の物理的暴力ばかりではない。失業等をめぐる経済的暴力もまた、テロリズムの手段としてきわめて効果的に運用されてきたのである。
 さて、職をあてがうことは、同時に、失業の可能性をつくりだすことでもある。また、米軍基地の職をあてがうことは、経済的に基地に依存させることであると同時に、失業によって経済的依存から排除される可能性をつくりだすことでもある。このような経済的依存と依存から排除される可能性のセットこそ、米軍基地の押しつけを維持するための恐怖政治=テロリズムが機能する基本的な条件なのである。
 沖縄の「日本復帰」を前後して基地労働者(軍雇用員)が大量に解雇された。「首を切るなら土地を返せ」という沖縄人の声に対して、日本国政府は、土地を返すことも他の十分な職を用意することもなかった。その一方で、米軍基地をそのまま押しつける見返りとして、「軍用地料だの補助金だの基地がひり落とす糞のような金」をあてがったのだ。つまり、米軍が実施してきた政策と同じように、基地の押しつけを継続したのみならず、事実上基地に経済的に依存させることをも継続したのだ。それは、米軍基地の押しつけを維持するための恐怖政治=テロリズムが機能する条件を保持することでもあった。したがって、在日米軍専用基地の75パーセントもの押しつけが現在まで維持されてきたのも、その帰結という側面が大きいといえよう。
 米軍基地の過剰な押しつけは、沖縄の経済発展を阻害する重大な要因でありつづけている。そして、観光以外の産業を日本国政府がまともに振興できなかったこともあって、「日本復帰」以降の沖縄の失業率は、つねに日本全国平均の約二倍に維持されてきた。このような経済状況が放置されれば、米軍基地関連やその他の日本国政府の経済支援に依存せざるをえなくなるのは当然である。ここで重要なのは、高失業率を維持しつつ同時に経済的に依存させることこそ、恐怖政治=テロリズムによって基地を押しつけるための絶好の条件だということなのである。
 第三章で述べたように、高失業率の数字を維持することによって、現在職に就いている大多数の沖縄人に対しても、いつか失業するかもしれないという恐怖をもたらすことが可能となる。そして、日本国政府は、基地の押しつけに「協力」するのであれば引きつづき経済的な支援を惜しまないが抵抗すればどうなるかわからない、という意味のメッセージ=恫喝をたびたび発してきたのである。したがって、失業や経済的困窮を恐怖する沖縄人ほど、日本国政府の恫喝に従うほかなくなっていくといえよう。すなわち、依存させ、恐怖させ、そして、基地の押しつけへの抵抗を抑えるのである。そして、このような政策を実践する日本国政府を構築した張本人は、いうまでもなく、ひとりひとりの日本人にほかならない。
 経済的に依存させることは、同時に、依存から排除される可能性をつくりだすことである。この排除の可能性が、「暴力の予感」としての恐怖を喚起する原動力となる。そこに、すかさず、「基地の押しつけに抵抗したらどうなるかわからないぞ!」という恫喝が加えられる。この恫喝のもたらす恐怖が、基地の押しつけに抵抗する力を、沖縄人から奪う効果を発揮するのはあきらかだ。沖縄人に基地を押しつけるための恐怖政治=テロリズムは、このようにして、今この瞬間も作動しつづけているのである。(p.204~7)
 そう、私たちがいま直面しているのもこのテロリズムです。
by sabasaba13 | 2018-07-27 06:29 | 演劇 | Comments(0)

赤道の下のマクベス

c0051620_18504893.jpg 『週刊金曜日』の演劇評で、「赤道の下のマクベス」という作品が紹介されていました。朝鮮人BC級戦犯をモチーフとした演劇、これは面白そうです。作・演出は鄭義信氏、主催は新国立劇場。さっそくチケットを購入し、山ノ神と東京・新国立劇場の小劇場に見に行くことにしました。
 劇場やホールに行くときは、その近くで美味しい料理に舌鼓を打つのが無上の喜びです。今回は初台ですので、東京オペラシティ53階にある「つな八」で天ぷらをいただきました。暮れなずむ東京を眼下に眺めながら、キスと小エビ、フキノトウ・新玉ねぎ・タラの芽、稚鮎と蛤、かき揚げのお茶漬けを堪能。
 そして新国立劇場の小劇場へ、ここは初めて訪れました。場末の芝居小屋の雰囲気をそこはかとなく感じさせる、なかなか良い雰囲気です。舞台装置は、刑務所の中庭とそこに面した牢獄の六つの扉、その上方に据え付けられた絞首台がこれからのドラマを雄弁に物語っています。
まずはプログラムからあらすじを転記します。
 1947年夏、シンガポール、チャンギ刑務所。
 死刑囚が収容される監獄・Pホールは、演劇にあこがれ、ぼろぼろになるまでシェイクスピアを読んでいる朴南星(パク・ナムソン)、戦犯となった自分の身を嘆いてはめそめそ泣く李文平(イ・ムンピョン)、一度無罪で釈放されたにも関わらず、再び捕まり二度目の死刑判決を受けるはめになった金春吉(キム・チュンギル)など朝鮮人の元捕虜監視員と、元日本軍人の山形や黒田、小西など、複雑なメンバーで構成されていた。
 BC級戦犯である彼らは、わずかばかりの食材に腹をすかし、時には看守からのリンチを受け、肉体的にも精神的にも熾烈極まる日々を送っていた。
ただただ死刑執行を待つ日々、そして、ついにその日が訪れた時…。
 購入したパンフレットを参考にしながら、この劇の背景を確認しましょう。大本営は、インパール作戦の物資輸送のためタイ・ビルマ間に泰緬鉄道を建設しました。日本軍は、ジャングルや乏しい食糧・医薬品という悪条件のなか、わずか1年余りで415キロの鉄道を突貫工事で完成させたのです。その際に、現地人のほか、英豪の連合軍捕虜延べ6万人を過酷な強制労働に駆り立てて、多くの犠牲者を出すという極めて非人道的な事業でした。この捕虜の監視にあたった軍属が、上官の命令により捕虜を虐待して強制労働を強いたのですが、戦後、それが連合国の憎悪を買いBC級戦犯として起訴されることになりました。上官の命令に服従しただけなのに、責任を肩代わりさせられ、場合によっては死刑にされるという不条理。しかも監視員には、植民地とされていた朝鮮・台湾の若者も含まれており、彼らが日本人戦犯として処罰されるというさらなる不条理も存在します。
 そうした不条理で理不尽な死がいつ訪れるかわからないという状況のなか、六人の人間がそれぞれの性格や立場に応じてさまざまな行動をとります。陽気に騒ぐ朴南星と黒田、故郷の母を思って悲しみにくれる李文平、日本人への怒りをぶちまける金春吉、泰緬鉄道の駅を思い出しながら監獄の壁に描き続ける小西。しかし理不尽な死をまぎらわすかのように遊び、歌い、踊り、互いをからかい、時には恐怖と絶望にうちひしがれる。俳優のみなさんの陰影のある、ダイナミックな演技には瞠目しました。
 印象的なのが、この五人から距離をとって孤立している山形、捕虜虐待を命じた上官です。彼を登場人物としたことで、劇に厚みが増したと思います。上官に命じられた捕虜虐待、それではその上官に責任があるのか。いや、彼も上官に命じられたのでしょう。この責任の連鎖をたどっていくと、大本営、さらには昭和天皇に行き着きます。しかし「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」(大日本帝国憲法第3条)、天皇の責任を問うことはできません。責任の所在がはっきりとせず、結局立場の弱い末端がその肩代わりをさせられる、大日本帝国の病理を暗示しているようです。山形は黙して語らず、その内心はわかりませんが、母国にいる家族への思いが伝わってくるシーンが挿入されています。
 そしてこの六人に共通しているのは、いつ訪れるかわからない理不尽な死を前にして、とにかく「生きたい」という強烈な意思です。結局、三人の死刑が執行されるのですが、池内博之氏演じる朴南星が死ぬ直前に絞り出すように呻く「生きてえ、生きてえなあ」という台詞がいまだに耳朶に残ります。
 もう一人は釈放され、黒田と李文平が監獄に取り残されます。死刑執行を待つ二人が、スコールを浴びながら、今生きている喜びをかみしめる最後の場面も印象的でした。

 パンフレットには、作・演出の鄭義信氏と芸術監督の宮田慶子氏の対談が掲載されていましたが、次のようなお話がありました。
[宮田] 戦後70年を過ぎると当時20歳の方が今93歳ですからね。その子どもの世代が70代前後。語り継がないと何も分からなくなります。分からないと興味ももたなくなる。歴史として残したいのではなく、生きていた証として、演劇で義信さんが残してくださることはとても大事なこと。演劇というのはやはり人間です。人間を基点にして物事を考えることがすべてに通じると思います。演劇のよさはそこですね。
[鄭] 結局、原始的ですからね、演劇は。演じているのも観るのも人間。そこには抗うことができない人間の感情がいっぱいある。(p.9)
 大日本帝国と連合国という強大な権力によって翻弄され、無残な死を強いられた朝鮮人BC級戦犯。その人間の悲劇を、生身の演技で再現し、彼らが生きていた証として体感させてくれた鄭義信氏に感謝したいと思います。

 ひとつ付言しておきたいのは、1952年に日本が独立を回復した時、鮮人らは一方的に日本国籍を剥奪され、朝鮮人軍人・軍属は軍人恩給などの支給がなされません。他方、朝鮮人戦犯は刑が科せられた時点で日本人だったからということで刑の執行は継続されます。朝鮮人を弊履の如く使い捨てた大日本帝国のおぞましさを痛感します。『普遍の再生』(岩波書店)の中で、井上達夫氏はこう述べられています。
 石田雄が指摘するように、1953年の軍人恩給復活以来、50年代から60年代にかけて教育二法制定、教科書検定、天皇が日本の戦死者を悼む言葉を述べる国家行事としての全国戦没者追悼式の恒例化、戦没者を含む叙勲制度の復活等を通じて、冷戦下の逆コース的ナショナリズム復活の動きに即応した「記憶の共同体」の再建が推し進められた。「これまでの国内における軍人を中心とした犠牲者に対する援護費が40兆円におよぶ〔中略〕にもかかわらず、2000万人にもおよぶ死者を出したともいわれるアジア諸国に対して支払った賠償およびそれに準ずるものが(在外資産の喪失額を加算して)1兆円であるという著しい不均衡」の事実に示されるように、戦後日本の「正史」は侵略者である「自国の死者」を「見殺し」にするどころか、手厚く国家的に追悼し顕彰すると同時に、彼らの遺族に膨大な物質的補償も与えてきたのである。この「正史」が「見殺し」にしてきたのはむしろ、未だ十分に償われぬ膨大な数のアジア諸国の犠牲者であり、侵略に加担させられて戦死したりBC級戦犯として処刑されたりしながら、追悼と補償の対象から戦後長く排除されてきた台湾・朝鮮の旧植民地の死者たちであった。
 そしていまだにこの問題の解決に尽力しない、日本国および日本国民のおぞましさも。『週刊金曜日』(№1180 18.4.13)に、「外国籍元BC級戦犯者問題 解決求める最優先課題だ」という記事は掲載されていたので転記します。
 4月3日、外国籍元BC級戦犯者問題解決の立法実現を今国会で求める集会が衆議院議員会館で開催され、韓国人元BC級戦犯の李鶴来(イ・ハンネ)さん(93歳)や遺族、与野党国会議員等が約50人が集まった。
 太平洋戦争末期、植民地下の朝鮮や台湾から約3000人の若者が東南アジア各地の日本軍の捕虜収容所監視員に軍属動員された。戦後、連合国軍軍事裁判でBC級戦犯として朝鮮人148人、台湾人173人が有罪、うち朝鮮人23人、台湾人26人が死刑執行された。
 李さんは1942年、17歳で故郷全羅南道から泰緬鉄道建設労働で多くの連合国軍捕虜が死亡したヒントク捕虜収容所に派遣。47年にシンガポールで死刑判決。奇跡的に禁錮20年に減刑され巣鴨プリズンに移監。56年に出所した。
 服役中にサンフランシスコ講和条約で日本国籍を剥奪、援護制度から排除され、韓国では「親日派」で帰国できず、在日生活は苛酷だった。刑死した同胞の名誉回復や仲間への日本政府の謝罪と補償等を求めて55年に「同進会」が結成。李さんも参加し、歴代政権への要請行動はじめ91年からは裁判闘争を開始、98年最高裁判決確定後は立法解決を求めてきた。
 2008年、当時の民主党政権が外国籍元BC級戦犯に対する「特別給付金支給法案」を国会提出したが廃案。16年以降日韓両国の議連が協力し法案準備したが政局等で足踏み状態。昨年11月、李さんは体調を崩し院内集会に参加できなかった。「同進会」生存者は李さんを含め3人のみ。李さんは、「今国会で解決して頂き、苦悩して亡くなった友人たち、殊に刑死した仲間たちの無念を晴らし、名誉回復して頂きたい」と挨拶した。
 超党派「日韓議連」の自民党北村誠吾議員は「今まで解決できず日本人として恥ずかしい。与党もしっかり取り組まなければ、ここで挨拶する意味はない」。
 5月開催予定の日韓首脳会談で未解決問題として最優先課題だ。(西中誠一郎) (p.7~8)
 それにしても、俳優志望の朴南星が、劇中で演じるのが、なぜシェイクスピアの『マクベス』なのでしょう。ウィキペディアによると、勇猛果敢だが小心な一面もある将軍マクベスが妻と謀って主君を暗殺し王位に就くが、内面・外面の重圧に耐えきれず錯乱して暴政を行ない、貴族や王子らの復讐に倒れるという劇です。策謀と暴力によってアジアの僭主となった日本が、さまざまな重圧によって錯乱し暴政を行ない、連合国によって倒された。そのメタファーなのかな。
by sabasaba13 | 2018-04-21 06:27 | 演劇 | Comments(0)

いつもいつも君を憶ふ

c0051620_10573050.jpg 先日、タモリ風に言えば"ギロッポン"の"ブシャブシャ"じゃなくて俳優座劇場で、同劇団による「いつもいつも君を憶ふ」を山ノ神と見てきました。『週刊金曜日』の演劇評で紹介されていたものですが、なかなか面白そうです。ほんとうはもっと演劇鑑賞をしたいのですが、音楽や映画と違い、演劇についての情報はなかなか耳に入りません。本誌の演劇評は重宝しております。
 まずはチラシから、あらすじについて引用します。
1923年―関東大震災。その翌年の初めから物語は始まる。
お茶の間の流行歌と共に時は流れ、二度目の東京オリンピックを終えた2021年元旦。
この約100年間を、埼玉県川越市のある一軒家を舞台に、時を隔てた七つの正月の景色で描き継ぐ。
変わらないはずの日常は時にもろく崩れ、消えないはずの絆はその糸がほどける時もくる。
でも、いつもそこには人がいた、歌があった、そして一瞬の命のきらめきが溢れていた―。
 今年は明治維新150年、行政による手放し礼賛キャンペーンが渦巻きそうで気鬱になりますが、ひとつの節目として、日本の近代とは何だったのか自分なりに振りかえってみたいと考えていたところです。その約三分の二にあたる約100年を、ある家族の歴史を通してつづる、興味深い作品です。これは愉しみ。

 六本木に着いて劇場に入り、開演を待っていると、時を刻む時計の音が静かに流されていました。"時"が、この劇における重要なモチーフであることを暗示しているのでしょう。
 関東大震災の翌年にあたる1924(大正13)年の元日、朝鮮人父娘が川越に住む医師・岡崎一家を訪れ、大きな柱時計をプレゼントします。前年に起きた大震災の時に吹き荒れた朝鮮人虐殺の最中に、多くの朝鮮人を匿ってくれたことへのお礼です。この時計を擬人化して役者(小笠原良知)が演じ、以後約100年にわたってこの家族を見守るという演出、上手いですね。その後、軍国主義に雪崩れていった日本は、満州事変・日中戦争へと突入していきます。やんちゃ坊主だった岡崎家の息子・勝(芦田崇)が冷酷な軍人となって、重慶への無差別爆撃を誇らしげに語る場面が印象的でした。時は人間をこうも変えてしまうのですね。そして時は、日本本土への無差別爆撃という結果も招来します。因果は巡る…
 やがて太平洋戦争、敗戦、シベリア抑留、戦後復興、東日本大震災と原発事故と時代が移り行くなかで、岡崎家と隣りの田宮家の人びとは、死・生・恋愛・別れとともに健気に生きて行きます。中でも、シベリア抑留によって精神に異常をきたした田宮肇(河原崎次郎)、日本を美化する祖母・岡崎静(川口敦子)に抗して、父・勝の戦争犯罪を告発する孫・清(芦田崇)、福島原発事故によって甲状腺ガンになり、その手術の傷痕をマフラーで隠す少女(飯見沙織)といったエピソードが心に残りました。こうしてみると、この劇のモチーフは、時に加えて、国家であるのかもしれません。国家に翻弄されながらも、互いに思いやりながら懸命に生きる人びと。さて、時はどちらの味方なのでしょう。国家か、はたまた人か。

 最後の場面は2021年。そう、東京オリンピックの翌年、そしておそらく憲法改正/改悪の是非が私たちに問われてその結果が出ている頃でしょう。その時に、日本はどうなっているのか。いや、私たちは、そして国家はどんな日本にするつもりなのか。劇中人物が演じたように、他者を"憶ふ"心を忘れずにいれば、その答えは自ずと出てくるような気がします。そもそもこの柱時計は、朝鮮人が日本人を憶って贈ったものでした。

 いろいろと考えさせられ、そして楽しめた、すばらしい公演でした。生身の人間が、眼前でリアルタイムに人間を演じる演劇を見る喜びを伝えてくれた俳優座のみなさんに感謝します。これからは足繁く、さまざまな劇場に通いたいと思います。

 なおタイトルの「いつもいつも君を憶ふ」は、与謝野晶子の「賀川豐彦さん」という詩からつけられています。とても素敵な詩ですので「青空文庫」から引用して紹介したいと思います。
わが心、程を踰えて
高ぶり、他を凌ぐ時、
何時も何時も君を憶ふ。

わが心、消えなんばかり
はかなげに滅入れば、また
何時も何時も君を憶ふ。

つつましく、謙り、
しかも命と身を投げ出だして
人と真理の愛に強き君、
ああ我が賀川豐彦の君。

by sabasaba13 | 2018-02-23 06:42 | 演劇 | Comments(0)

ワハハ本舗

c0051620_6284670.jpg 喜劇や笑いは大好きですね、うん。マルクス兄弟にクレイジーキャッツ、チャップリンにキートン、古今亭志ん生に柳家小三治、彼らから何度、元気をもらったことか。シェ-クスピア曰く、"陽気に笑いさざめきながら老いさらぼうて皴をつけ、酒びたしで肝臓をほてらせるがいい。そのほうが苦しい溜息ついて、その一息ごとに心臓を凍らせるより、よほどましだ。熱い血のかよった人間が、石膏細工の爺様よろしく、どうしてじっとしていなければならないのだ?"。シャンフォール曰く、"人生で最もむなしかった日は、笑わなかった日である"。アンネ・フランク曰く、"こんな薬を10錠飲むより心から笑ったほうがずっと効果があるはず"。チャーリー・チャップリン曰く、"私には傑作は残せなかった。だが人を笑わせた。悪くないだろ"。ニーチェ曰く、"笑いとは、地球上で一番苦しんでいる動物が発明したものである"。
 できるだけ舞台で喜劇を楽しもうとは思っているのですが、小生の霊界アンテナがにぶいのか、あまり上演の情報を手に入れられません。ほんとうは小松政夫と伊東四朗の二人芝居が見たいのですが、叶わぬ夢のようです。DVDの「エニシング ゴーズ」を見て笑いころげましょう。「小倉久寛 祝還暦記念コントライブhttp://sabasaba13.exblog.jp/23530914」は、実に面白かったですね。またこういう舞台を見たいものだと思っていた矢先、「ワハハ本舗」全体公演「ラスト3~最終伝説~」がおこなわれるという情報を得ました。久本雅美の当意即妙のギャグは大好きなので、彼女が所属するコメディ集団の舞台は期待できそうです。

 会場は東京フォーラム、現地で山ノ神と待ち合わせることにしました。入口で渡されたのは、桜の枝の造花。なにかの演出で使われるのでしょうね。さあはじまりはじまり。煌びやかに女装した梅垣義明氏が、股間を隠しながら朗々と歌うシャンソンには度肝をぬかれました。この時に、さきほどの桜の造花を振るように促されました。
 この後は柴田理恵氏と久本雅美氏の一人芝居あり、メンバーによるコントあり、集団によるモダン・ダンスあり、弾き語りありと、笑いのオンパレード…と言いたいところですが、お腹の底から笑えるような場面はありませんでした。あまり練られたギャグは少なく、会場が広いことも災いしたのかな。凡百な下ネタの多さにもちょっと辟易しました。ただお客さんを楽しませようという意気と熱気は十二分に伝わってきたので諒としましょう。ただ柴田氏が言った「面白いから笑うのではない、笑うと面白くなる」という言葉に琴線が触れました。そうですよね、ぐだぐだ言っていないで、笑えばいいんですね。
 会場を去る時に、造花が回収されましたが、財政面での苦労が偲ばれます。これからも身銭を切って、お笑い芸人のみなさんを育てていきたいと思います。そういえば、古今亭志ん生が、林家三平真打披露口上の中で、「小鳥の鳴く音を聴くには、餌をあげて世話をしなくてはいけない」と言っていましたっけ。
by sabasaba13 | 2017-06-13 06:29 | 演劇 | Comments(0)

第三帝国の恐怖と貧困 (2)

c0051620_6384448.jpg さあ、いよいよベルトルト・ブレヒト作、千田是也訳、松下重人構成・演出、東京演劇アンサンブルによる『第三帝国の恐怖と貧困 (Furcht und Elend des Dritten Reiches)』のはじまりはじまり。劇が演じられるフロアとわれわれが座っている席は指呼の間、役者の息づかいや鼓動までびしびしと伝わってくるようです。まずはまとった白い布をひらめかせながら、役者たちがフロアを駆け巡ります。そして本来この戯曲にはないブレヒトの詩『あとから生まれるひとびとに』の朗読から劇は始まりました。
ほんとうに、ぼくの生きる時代は暗い!
無邪気な言葉は間がぬける。
つややかなひたいは感受性欠乏のしるし。
わらう者はおそろしい知らせをまだ受けとらない者だけだ。
 暗く恐ろしい時代に生きた、感受性を欠く人々の短い14の物語が紡がれていきます。ナチスによる政権獲得から(1933年)からヒトラーのウィーン入城(1936年)まで時系列に沿って、ドイツのいろいろな都市を舞台にストーリーは進んでいきますが、まずは前半の内容について公演パンフレットから紹介します。
1.「国民共同体」 1933年1月30日
 ナチス政権獲得の日の炬火行列の後、酔っぱらった親衛隊員の二人が、ナチスの旗のない貧民街に紛れ込む。
2.「裏切り」 1933年、ブレスラウ。小市民の住居。
 隣人が外国語放送を聞いていたと密告した夫婦。
3.「白墨の十字架」 1933年、ベルリン。上流邸宅の住居。
 お邸の女中アンナのもとへ、突撃隊員になった恋人が訪ねてくる。彼は反体制分子を検挙するトリックを披露するのだが…
4.「泥沼の兵士たち」 1933年、エステルウェーゲンの収容所。
 強制収容所に入れられた左翼たち。社会民主党員、共産党員、神学者たちが、互いの悪口を言い合う。
5.「法の発見」 1934年、アウグスブルク。ある裁判所の会議室。
 めんどうな裁判の話。突撃隊員がユダヤ宝石商を襲撃した。どうも店主と労働者に挑発されたためらしい。裁判官はもちろんユダヤ商人に非ありとみるが…。
 面白かったのは「法の発見」でした。ユダヤ人と突撃隊(SA)が関係した複雑な事件を審理する裁判官。彼は、ただ保身のためにはどういう判決を出せばいいのか四苦八苦します。良心や正義をかなぐり捨て、ナチスのためにひたすら迎合したドイツ司法界の様子がうかがわれます。さすがはブレヒト、ファシズムが民主主義を圧倒する際には、司法の協力が必要不可欠であることを見ぬいています。少数者の権利を擁護せず、"正義"を政府に丸投げして平然としている日本の司法の姿と二重写しに見えてきました。ちょっとストーリーの展開と台詞が冗長だったのが惜しまれます。
 ここで二十分の休憩です。小用を済ませて外で紫煙をくゆらし500円の公演パンフレットを購入しました。劇団の方が手ずからドリップで入れてくれる、300円の珈琲も美味でした。そして後半のはじまりです。
6.「物理学者」 1935年、ゲッティンゲン。物理学研究所。
 ふたりの物理学者にパリから手紙が届く。
7.「ユダヤ生まれの妻」 1935年、フランクフルト。
 医者である夫の妻はユダヤ人。ユダヤ人の公職追放が始まるなか、夫の仕事に影響が出ることを心配した妻は、出国を決意するのだが…。
8.「スパイ」 1935年、ケルン。
 教師の夫と息子の家族。夫は日頃外では言えない批判を口にする。しかし息子はいつの間にかいなくなっていた。
9.「黒い靴」 1935年、ビッターフェルド。労働者住宅の台所。
 貧しい母とひとり娘。娘は田舎に行くのが楽しみで、古い靴は履きたくないと言う。
10.「箱」 1934年、エッセン。労働者住宅。
 突撃隊に引っ張られた労働者がブリキの箱に入れられて帰ってくる。
11.「釈放者」 1936年、ベルリン。労働者の家の台所。
 強制収容所に連行されていた同志が半年ぶりに釈放されて戻って来る。
12.「いましめ」 1937年、ケムニッツ。ヒトラー少年団の一室。
 ヒトラーユーゲント。班長は、戦争の勝利のために命を捧げよという「自戒訓」を暗唱させる。
13.「職業斡旋」 1937年、シュパンダウ。
 景気が良くなり、夫は飛行機の発動機工場の職を得た。そこへ妻の弟が戦闘機の事故でなくなったという報せが届く。
14.「国民投票」 1936年3月13日、ベルリン。
 ラジオからはヒトラーのウィーン入城の歓声が聞こえるなか、労働者街の一角では国民投票に向けてビラ一枚作れないことを嘆いている。
 後半はそれぞれの掌編が短くなり、引き締まったテンポのよい芝居が続きます。申し遅れましたが、劇の緊張感を高める、硬質で鋭いピアノもいいですね。深く心に残った芝居は、まず「ユダヤ生まれの妻」。ユダヤ人である医者の妻は、夫のためを思って彼と別れてオランダへと亡命しようとします。その妻を案じる素振りをしながら、実は安堵する夫。ユダヤ人の妻の複雑な思いを見事に演じた洪美玉氏の演技が素晴らしい。ナチスへの批判を、ヒトラーユーゲントに入っている息子に聞かれたのではないかと怯える夫婦を描いた「スパイ」、学校におけるファシズムの浸透を描いた「いましめ」も面白かったですね。軍需景気によって職につけた労働者がナチスを支持する「職業斡旋」も興味深い芝居でした。司法、学校、家庭、好景気、さまざまな場や局面で、ファシズムがじわりじわりと忍びよってくる恐ろしさ。同時代にその空気を肌で感じ胸に吸い込んだブレヒトならではの筆の冴えです。
 そして役者すべてが登場して、口々に"私たちが駆り立てられていく戦争は、私たちのものではない。黙っていてはいけない。目を背けてはいけない"と朗読する場面で劇は終わります。
 面白く、興味深く、そして恐ろしい芝居でした。強制的同質化、少数者への差別、司法の屈服、手段を選ばぬ好景気への期待、人びとの無気力・無関心・閉塞感。ある日突然に「今日からファシズムだあ」となったのではなく、真綿で首を絞めるように、少しずつ少しずつファシズムへと移行していき気がついたら手遅れだった、というドイツが教えてくれる教訓が痛いほど身に沁みました。ヨハン・ガルトゥング曰く"歴史から学ぶことのない人は、その歴史を再度生きることを運命づけられている"。歴史を学ぼうとする気はさらさらない安倍伍長のもと、日本が同じ道を歩んでいることに深い危惧を覚えました。公園パンフレットの冒頭に、ブレヒトの「ぼくに墓石は必要ないが」という詩が載せられています。
ぼくに墓石は必要ないが
ぼくのかわりに一つ
それがきみらに必要ならば
それにこう記してくれ
-提案したるは彼にして
採用したるは我らなり-
かく記すことにより
名誉をうけるは
きみらとぼくの全員であろう
 「提案したるは安倍伍長にして、採用したるは我らなり」ということにならないよう、黙っていてはいけない。目を背けてはいけない。

 追記。ユダヤ人の妻を熱演した洪美玉氏が、パンフレットに「危機感」という一文を書かれていました。ぜひ紹介したいので、一部ですが引用します。
 2012年、中国に残された朝鮮人『従軍慰安婦』の写真展が、ニコンから突然、中止の通告を受けた。写真家の安世鴻(アン・セホン)さんは異議申し立てをして、東京地裁は会場を使わせることをニコン側に命令した。あまり広くないニコンサロンに警備員が三人、入り口には金属探知機ゲートが設置され物々しい雰囲気だった。私は、在特会と呼ばれる人たちと至近距離で出会った。彼(女)らは何時間かおきに会場に乗り込んできて、ハルモニの背景に写っている小さなテレビを指さして「金持ってるんじゃねぇか」とか、写真の中の彼女たちをおとしめることをまくしたてていく。受付だった私は我慢できず「後ろのお客様もいますので、先に進んで下さい」と声を荒げた。すると「お前もどうせ在日だろう」「じゃあ、どうせ色んな男に股開いてんだろう」 怒りで体が震えた。「全部録音していますから」というスタッフの言葉がなかったら、殴りかかっていたかも知れない。その経験はショックであり、恐怖だった。(p.34~5)
 まだ気骨のある司法は存在していること、彼(女)らの発言の下劣さに唖然とすること、そしていよいよ日本も「第二帝国」になりつつあること、いろいろな思いが脳裏をよぎりました。
by sabasaba13 | 2015-04-18 06:39 | 演劇 | Comments(0)

第三帝国の恐怖と貧困 (1)

c0051620_6324099.jpg 「小倉久寛 祝還暦記念コントライブ」の際にいただいたチラシの中に、東京演劇アンサンブルによるブレヒト作「第三帝国の恐怖と貧困」公演がありました。「三文オペラ」「母アンナの子連れ従軍記」「ガリレイの生涯」を書いたベルトルト・ブレヒトの演劇は、お恥ずかしい話、実演を見たことがありません。チラシのキャッチ・コピーには"遠い昔の話ではない。遠い(昔の)国の話でもない。今。""戦争なんてまっぴらだ。戦争したいのは君だ!""オムニバス14編から浮かびあがるのは、ナチス支配下で徐々に日常を奪われ、価値観を狂わされていく庶民の姿"とあります。戦争への道をぶいぶいと突っ走る、最近とみにアドルフ・ヒトラーに似てきた安倍晋三伍長、スマホやらSNSにうつつをぬかして無関心な庶民、日本の現状を考える上で何か触発されそうな劇ですね、これは面白そうです。さっそくチケットをインターネットで購入し、芝居好きの山ノ神を誘って、観劇することにしました。
 弥生好日、西武新宿線の武蔵関駅で下車し、持参した地図を頼りに公演会場の「ブレヒトの芝居小屋」に辿り着くと…ふたりして目が ・ になりました、いやほんと。まるで潰れかかった場末の町工場(失礼)。しかしちゃんと切符をもぎる方もいるし、本日は千秋楽ということなのかけっこうお客さんもいるし、一安心しました。劇場に入るとまたびっくり。ステージではなく、石畳を敷いたフロアと、それを三方から取り囲む野球場のような階段状の座席。収容人数は100人ほどでしょうか。役者の演技を至近距離で見られるわけですね、これは楽しみです。なお後でわかったのですが、この建物も舞台もすべて団員の手作りで、ここで暮らしながら演劇活動に取り組んでいるとのことです。
 まずはパンフレットを参考に、東京演劇アンサンブル(TEE)を紹介しましょう。結成は1954年、都市だけで演じられている芝居を全国にもっていこう、その時代をビビッドに反映している芝居を創ろう、という思いから平均年齢20才の18人の若者たちが立ち上げました。そして同じ頃に出逢ったのがブレヒトの演劇でした。変革するものとして世界を構造的に捉えながら、細部にはこまやかなリリシズムがみちあふれるブレヒトの戯曲。衝撃を受けた彼らは、ブレヒト作品を連続上演し、劇場の名を「ブレヒトの芝居小屋」とし、劇団の名を「東京演劇アンサンブル」としました。ブレヒトが主宰した劇団の名が「ベルリーナー・アンサンブル」だったのですね。
 なおベルトルト・ブレヒトについても、スーパーニッポニカ(小学館)から紹介します。
 ベルトルト・ブレヒト Bertolt Brecht (1898―1956) ドイツの劇作家、演出家
 1898年2月10日、アウクスブルクの工場支配人の子として生まれる。ミュンヘン大学の医学生であったが劇場の仕事に転じ、1922年『夜鳴る太鼓』でクライスト賞を受けた。24年ベルリンへ移り、演出家マックス・ラインハルトのもとで活躍、そのころからマルクスを学ぶ。28年には女優ヘレーネ・ワイゲルと結婚、同年初演の『三文オペラ』で大成功を収めた。30年からは『試み』と題して続々作品を出版、音楽家ハンス・アイスラーと協力、映画『クーレ・ワンペ』をつくる。33年、オーストリア、スイスなどを経てデンマークに亡命。35年にはパリの国際作家会議に出席して反ナチスの活動を推進、36年からモスクワでドイツ亡命作家の機関誌『ことば』をフォイヒトワンガーやビリー・ブレーデルと協力して発行。41年アメリカに亡命したが、第二次世界大戦後の47年、非米活動審査委員会の審問を受け、かろうじてヨーロッパへ脱出。スイスを経て48年東ドイツに戻り、翌49年には妻のヘレーネ・ワイゲルとドイツ民主共和国の首都ベルリンで劇団「ベルリーナー・アンサンブル」を設立。52年、ブレヒトの全著作に対して国民賞、54年にはレーニン平和賞が贈られた。
56年8月14日、多くの仕事を残してベルリンで逝去。
 さて、本作は1935年から38年にかけて、亡命先のスヴェンボル(デンマーク)で、友人たちの情報や新聞記事をもとに書かれました。ナチスを批判したために弾圧を受けたブレヒトは、国会議事堂放火事件の翌日(1933年2月28日)に入院中だった病院を抜け出し、ユダヤ人であった妻のヴァイゲルと長男シュテファンを連れてドイツから脱出しました。そしてプラハ・ウィーン・チューリッヒを経由してデンマークのスヴェンボルに亡命します。この間、ナチ党政府はブレヒトの著作の刊行を禁止して焚書の対象とし、1935年には彼のドイツ市民権を剥奪しました。余談ですが、その亡命生活の悲痛を綴った彼の詩に、友人の作曲家ハンス・アイスラーが曲をつけたのが「小さなラジオに (An den kleinen Radioapparal)」です。『Melodie』というアルバムに収録されていますが素晴らしい曲です。
小さなラジオよ、亡命の間も
真空管がこわれないように
気をつけて家から船に、船から汽車にお前を運んだ
敵どもの声がこれからも私に届くように

僕のベッドの脇でお前は僕を苦しめる
最終放送は真夜中、一番は早朝
敵の大勝利ばかり知らせ、僕には苦痛だ
約束してくれ、お前は突然黙り込んだりしないと
 なおアラン・レネが監督した映画『夜と霧』の音楽を担当したのもハンス・アイスラーでした。
by sabasaba13 | 2015-04-17 06:33 | 演劇 | Comments(0)

小倉久寛 祝還暦記念コントライブ

c0051620_6282413.jpg 「チケットぴあ」で、山田和樹のマーラー・ツィクルス、交響曲第二番の切符を買おうとしたところ、たまたま見つけたのが「小倉久寛 祝還暦記念コントライブ ザ・タイトルマッチ2 ~笑いのDeath Fight~」という演目でした。小倉さんか…じつは私の好きなコメディアンの一人です。ぬいぐるみのような体型、縄文人のような毛深さ、生まれついての子分肌、内気で弱気、そこはかとなく漂うペーソス、時々ふるう匹夫の勇、いい味をだしています。その彼が師匠とも言うべき、手八丁口八丁の三宅裕司とからみあう二人コント。これはつまらないわけがない。さっそく山ノ神を誘ったのですが、「えー、こんとお、ま、いいや、閑だからつきあうわ」というレイジーなお返事。見てなさい、その烏の足跡を二本ほど増やしてあげませう。
 二月好日、山ノ神とともに下北沢にある本多劇場へと参りました。ほんとうにここでいいのかしらんと思うような雑居ビルの中に入ると、胡散臭げな小店舗が櫛比しています。いいですね、この猥雑な雰囲気。入場するとそれほど広くない劇場内はほぼ満員、「笑ってやるぞ」という熱気で息苦しいほどでした。そして開幕です。観客に肩透かしをくわせるように、そこは楽屋。二人が舞台衣装に着替えながら、ぼそぼそと軽妙なトークを交わしています。「今日は天気がよくてよかったね。この前の雪の日は、早くお客さんを帰してあげようとして早口になっちゃった」という三宅氏のセリフ、こうして書くと何でもないのですが、生で聞くとほんとうにおかしいのです。そして舞台が廻るとそこはビルの屋上、飛び降り自殺をしようとしている脚本家の小倉氏と、それを止めようとしているかしていないのかよくわからないプロデューサーの三宅氏の抱腹絶倒のかけあい、「まだ死なないで!」というコントの始まりです。それが終わるとまた舞台が回転して楽屋となり、コントを終えた二人がやってきてぶつぶつやりあいながら次の衣装に着替えます。こうして楽屋風景を間にはさみながら「人力車と客」「世紀の発明」「浮気調査の報告」「ブルースギター教室」と五つのコントに大笑いしました。このコントと楽屋風景を繰り返すという構成が、緩と急、弛緩と緊張というメリハリのきいたリズムを生み、休憩なしの二時間があっという間に過ぎました。山ノ神も涙を流しながら爆笑、ご満悦の様子に一安心しました。なお余禄として、最後の楽屋に日替わりのゲストが登場するという趣向がありました。本日は松本明子氏が花束を持ってあらわれ、見事な歌声を聞かせてくれました。ほんとうは伊東四朗氏に会いたかったのですが、諒としましょう。
 さてこの二人のコントはなぜこんなに面白いのか、野暮ですがちょっと分析してみました。まずプロットがしっかりしていること。しっかりとした骨組みがあってこそ、二人のギャグも映えるというものです。作家の吉高寿男氏、吉井三奈子氏、小峯裕之氏にお礼を言いたいと思います。そして十分に稽古をした上で演じられるコント。購入したパンフレットに掲載されていた加山雄三氏との対談で、次のような対話がありました。(p.23)
加山 今回のライブってコントだけ?
三宅 はい。コントだけで2時間。
加山 アドリブなしで?
小倉 なしです。
加山 よくまあ台詞を覚えられるもんだね。
三宅 むしろ覚えないと辛いんです。
小倉 それに稽古も1ヶ月やりますから。
 これは驚きでした。丁々発止の軽妙洒脱なやりとりは、すべて台詞だったのですね。しかも1ヶ月というしっかりとした稽古をかさねたうえでの芝居。たぶん、自然に聞こえるように、アドリブに見えるように、何度も何度も練習されたのだと思います。
 そして小倉久寛氏が醸し出す魅力も見逃せません。作家の吉井三奈子氏がパンフレットの中で、「乙女心」「純粋でまっすぐで可憐」と評されていますが、なるほど、言われてみればそうですね。しょぼくれてむくつけき容貌(御免なさい)とヌイグルミのような体型・体毛の内に秘めた乙女心、そのアンバランスさに惹かれるのかもしれません。
 心の底から清々しく笑えた素晴らしく楽しい二時間でした。また機会を見つけてお二人のコント・ライブを拝見したいと思います。
by sabasaba13 | 2015-02-19 06:28 | 演劇 | Comments(0)