カテゴリ:関東大震災と虐殺( 63 )

関東大震災と虐殺 63

 もうひとつ。格差社会による不安とストレス、そこから逃避するための集団への埋没と弱者への差別・迫害は日本だけの減少ではないということです。世界史から学ぶことも重要ですね。いくつか例を挙げましょう。
人生と運命』(ワシーリー・グロスマン みすず書房)
 反ユダヤ主義は、自らの不幸と苦悩の原因を究明する力のない国民大衆の意識の低さの表れである。無知な人々は、自らの大きな不幸の原因が国家機構や社会制度にではなくユダヤ人にあると見る。(第2巻p.262)

『人間の崩壊 ベトナム米兵の証言-』(マークレーン著 鈴木主税訳 鶴見良行解説 合同出版)
 [ジェームズ・D・ヘンリーの証言] だれについても口実はまったく存在しない。人種主義がその大部分を占めている。つまり、そのほとんどは、人種主義のせいだと思うんだ。純粋かつ単純な人種主義だ。ベトナム人は敵ではないからして、グックなのだ。彼らは白人ではなく、ただのグックなのだ。だれでも彼らよりは偉く、二等兵さえもそれより階級が上なのだ。彼らはちっぽけで、遅れていると考えられているが、それでも彼らは私にはできない多くのことをやってのける能力を持っている。とにかく、その理由のおおかたは人種主義なのだ。(p.178)

『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史』(オリバー・ストーン&ピーター・カズニック ハヤカワノンフィクション文庫 早川書房)
 [アフガニスタンで戦った後に無許可離隊した20歳の兵士の証言] 誓ってもいいが、俺はやつらがぜんぜん人間とは思えなかった。俺のような若くて熱烈な「ディック」-dedicated infantry combat killer(ひたむきな歩兵実戦殺人者)の略だよ-を仕立て上げる最善の方法は単純で、それは人種差別的な洗脳の効果だ。ロスかブルックリン、でなければテネシーの田舎町からでも、頭の空っぽなやつを連れてくる。今どき、そういうやつはアメリカには掃いて捨てるほどいるから。俺は、例の落ちこぼれゼロ運動の産物の一人だったのさ。ともかく、そういう間抜けを連れてきて、縮み上がらせ、心をずたずたにし、いっしょに苦しんでいるやつらと仲間意識や同志愛を育てさせ、人種差別のナンセンスで頭をあふれ返らせる。アラブ人やイラク人やアフガニスタン人はみんなハジ(イスラム教徒)だ、ハジはおまえたちを憎んでいる、ハジはおまえたちの家族を傷つけたがっている、ハジのガキどもは暇さえあれば物乞いをしているから最悪だ…という具合に。やたらに有害で馬鹿げた、ただのプロパガンダだが、俺たちの世代の兵士を育てるのにどれほど効果的だったか知ったら驚くだろう。(第3巻p.418~9)
 そして今、トランプ政権の誕生やヨーロッパにおける極右勢力の伸長が物語っているように、格差社会による不安とストレス、そこから逃避するための集団への埋没と弱者への差別・迫害が、世界的な現象になっています。テロリズムと難民の増加も、国際的な格差の広がりと絶望的な貧困という視点から理解できると思います。『丘の上のバカ ぼくらの民主主義なんだぜ2』(高橋源一郎 朝日新書594)の中に次の一文がありました。
 パリ同時多発テロが起こった後、ツィッターに、次のことばを大きく刻みつけた人がいるのを見つけた。…
 「Don't pray, think」 (祈る前に、考えて)
 凄惨なテロの後、おびただしいことばが、まずネットの上に現れた。怒り、哀しみ、当惑、混乱、懐疑。死者たちを悼む声、「イスラム国」への憤りの声、自分たちの無力さを嘆く声、あるいは、こんな世界にしてしまった真の原因を探ろうという小さな声。(p.57)
 こんな世界に、こんな日本にしてしまった真の原因を考えようと呼びかける小さな声、その声にハーモニーの不協和音として唱和しましょう。pray, and think.

 それでは最後に、ふたたび映画『ハンナ・アーレント』から引用して、キーボードを叩くのを終えようと思います。長い期間でしたが、ご通読していただきありがとうございました。
 ソクラテスやプラトン以来、私たちは"思考"をこう考えます。自分自身との静かな対話だと。人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。その結果、モラルまで判断不能となりました。思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。過去に例がないほど大規模な悪事をね。私は実際、この問題を哲学的に考えました。"思考の風"がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬよう。

by sabasaba13 | 2018-01-15 07:45 | 関東大震災と虐殺 | Comments(1)

関東大震災と虐殺 62

 やれやれ、立ち眩みしてしまいます。かつて虐殺・犯罪・いくさを生みだした文化(制度・社会構造・価値観)が十全に払拭されていないということは、また起きる危険があるということです。
 それでは、私たちは、私は、どうすればよいのか。まず過去の過ちを認め、それを生みだした文化の存在を認めて、眼を逸らさずに向き合うことから始めるしかないでしょう。これに関して、大沼保昭氏の言葉に勇気づけられました。
 過ちを犯したからといって卑屈になる必要はない。過ちを犯さない国家などというものは世界中のどこにもないのだから。しかし、過ちを犯さなかったと強弁することは自らを辱めるものであり、私たちの矜持がそうした卑劣を許さない。私たちの優れた到達点を率直に評価し、同時に過ちを認めるごく自然な姿をもつ国家こそ、私たちが愛し誇ることのできる日本という国ではないか。私はそう思う。(「日本の戦争責任と戦後責任」 『国際問題』 501号 2001年12月号)
 ふたつめは、大沼氏も指摘されているように、日本に限らず国家は過ちを犯すものだと認めること。そして安易に国家と自分を同一視・同一化しないことです。国家とは悪辣な行為をしばしば行なうろくでもない存在であり、程度の差は少々あるとしても日本もアメリカも中国も韓国も北朝鮮もフィリピンもヴェトナムもタイも(以下略)似たようなものだと、醒めた目で見つめ距離を置くことが肝要だと思います。さもないとまた"スパイクをうちこんだ国家という車輪の下敷きに"されてしまいます。(『彼らは自由だと思っていた -元ナチ党員十人の思想と行動-』 M・マイヤー 未來社 p.184) いくつかの言葉を紹介しましょう。
永続敗戦論』(白井聡 太田出版)
 このように、国家の行動というレベルで日ソ両国の行なってきたことを振り返るならば、「どっちもロクでもない」としか論評の仕様がない。一般的に言って、国家の振りかざす「正義」なるものが高々この程度のものであることは、何度でも肝に銘じられるべきである。(p.87)

「私の個人主義」(『漱石文明論集』 岩波文庫)
 …国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。元来国と国とは辞令はいくら八釜しくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります。だから国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなって来るのですから考えなければなりません。だから国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義にやはり重きを置く方が、私にはどうしても当然のように思われます。(p.137)

 最高の愛国心とは、あなたの国が不名誉で、悪辣で、馬鹿みたいなことをしている時に、それを言ってやることだ。(ジュリアン・バーンズ)

by sabasaba13 | 2018-01-13 06:54 | 関東大震災と虐殺 | Comments(1)

関東大震災と虐殺 61

 それではかつて虐殺を、そして戦争を生みだした制度・社会構造・価値観は払拭されたのでしょうか。強大な力を持ちながらも、結果責任や説明責任を果たそうとせず、不都合な事実を隠蔽する国家権力。他国・植民地・弱者を犠牲にした飽くなき利潤追求と経済成長。それと通底する人権の軽視と差別。国家=民族や中間集団に個人が埋没し、思考や判断を委ねてしまう集団主義。思考することを億劫がる反知性主義。組織的な残虐性。モラル・バックボーンの欠落。

 残念ながら十全には払拭されていないと結論せざるをえません。あるものは隠微な形で、あるものはおおっぴらに、今も息づいていると考えます。とても網羅はできないので、思いつくままにいくつか挙げてみましょう。無責任かつ隠蔽を体質とする国家権力の有り様の例は数多ありますが、特定秘密保護法の制定と福島原発事故を挙げればよいでしょう。また関東大震災時の虐殺を、いまだに調査せず謝罪もせず補償もしないこともその一例ですね。弱者を犠牲にした経済成長路線も、水俣病などの公害、格差社会、福祉の切り捨て、ブラック企業、TPPへの固執といった現象を見る限り変更されていません。人権の軽視と差別も徐々に改善されてはいますが、いまだ不十分でしょう。『戦争の克服』(阿部浩巳・鵜飼哲・森巣博 集英社新書0347)の中で、森巣氏はこう指摘されています。
 ここ数年で、国連の人種差別撤廃委員会から人種差別にかかわり九回も勧告を受けた先進国は、日本だけです。驚くべきことに、日本の新聞は、それを数行の記事で済ませちゃう。テレビにいたっては、まったく報道しない。だから多くの日本人は、日本にはレイシズムがないと思っている。とんでもない話ですよね。(p.114)
 集団主義については、国家による個人への締め付けと抑圧は多少弱体化しましたが、学校と会社という中間集団によるそれはさほど減じていないと思います。「社畜」「ブラック企業」「いじめ」「体罰」といった現象も、中間集団への個人の埋没と隷従という視点から理解できます。これは組織的残虐性と関連するでしょう。反知性主義についても、不平等や階層間格差の拡大の是認、個人の自由の制限と国家による秩序管理の強化、軍事力による抑止重視、歴史修正主義や排外主義の主流化といった自民党の政策に人びとの支持がある程度集まっている現状を見ると、相当に浸透しているようです。(『右傾化する日本政治』 中野晃一 岩波新書1553  p.177~8) モラル・バックボーンの欠如については、原発事故によって故郷を追われた10万人の被災者の方々を思い起こしましょう。中には職業を無くし、家族がバラバラにされ、健康不安をかかえ、先の見えない生活に疲弊している方も覆いのですが、「復興のさまたげになる」「風評被害になる」とのことで、健康被害も口にできません。
by sabasaba13 | 2018-01-11 06:25 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 60

 そして最後に考えたいのは、当時の人びとが、なぜこうした虐殺を、そしてそれを生みだした制度・社会構造・価値観を許容してしまったのかという問題です。

 まず、自らの不幸と苦悩の原因が国家機構や社会制度にあるということを見抜けなかったことが挙げられます。既述のように、その鬱憤を晴らすために、集団に埋没して、弱者を差別・迫害したわけです。きちんと考え抜いて、議論をして、社会を改革して正当な分配を実現すれば、その不幸と苦悩も多少は軽減されたことと思います。しかし、国家権力によって、そうしたことを考えさせない教育、実行させない制度(ex.軍隊・警察・法律・裁判…)が網の目のようにはりめぐらされ、大きな困難が伴いました。そして民衆自身が考えることを怠り、面倒くさがり、思考や判断を集団や権威に丸投げしてしまったことも見逃せないと考えます。楽ですから。『日本の百年6 震災にゆらぐ』(今井清一 千曲学芸文庫)で知ったのですが、里見弴が書いた小説『安城家の兄弟』の中に次のような一節があるそうです。(p.168~70)
 …翻って、狭い中の口の三和土に押し並んで立っている二人の自警団的人物はというに、これはまた、大杉についても、甘粕についても、二人のあいだに起こった事件についても、自分自身のあたまで、時間で言えば一分とつづけて、とっくり考えてみたことなどないにきまっている人間だった。何もこれは、この場合に限ったことではなく、じたい民衆というものが、群り動く性質をもっていて、ものの感じ方が、凡庸な常識一点ばりに陥り、たちまち『輿論』というものを生みだすのだ。それを思うと、雨に濡れ、護謨底足袋を泥だらけにして、目の前に突ッ立っている、この『輿論』の手先どもも、馬鹿げて見えこそすれ、憎むまでの気にはなれなかった。
 そして「どんな事態になっても、人間にはしてはならないことがなければならない」(『レイテ戦記』 大岡昇平)という道義性が欠けていたということ。夏目漱石の恩師マードック先生言うところの"モラル・バックボーン"ですね。(『漱石文明論集』 岩波文庫 p.222) あるいは加藤周一氏の表現を借りれば、"目の前で子どもを殺されたら怒る能力"です。(『歴史の分岐点に立って 加藤周一対話集5』 かもがわ出版 p.153~4) それを支える想像力や人間的な感情が、なぜ麻痺してしまったのか。わかりません。わかりませんが、政治学者ハンナ・アーレントが言う"悪の凡庸さ"とは、このことではないかと思います。映画『ハンナ・アーレント』から、彼女のセリフを引用します。
 彼のようなナチの犯罪者は、人間というものを否定したのです。そこには罰するという選択肢も、許すという選択肢もない。彼は検察に反論しました。何度も繰り返しね。"自発的に行ったことは何もない""善悪を問わず自分の意思は介在しない""命令に従っただけなのだ"と。こうした典型的なナチの弁解で分かります。世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そしてこの現象を、私は"悪の凡庸さ"と名づけました。

by sabasaba13 | 2018-01-09 06:27 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 59

 そしてこうした差別に、しばしば残虐性や非人間的行為がともなっていたのをどう理解すればよいのでしょうか。もちろん差別自体が人権を軽視した非人間的行為なのですが、目を覆うような残虐な行為があまりにもしばしば付随しています。
 まずは民衆自身の人権や尊厳が、国家によって軽視されていた状況があると考えます。国益のために、労働者や農民の人権を軽視して搾取し酷使し使い捨てる。国益とは言っても、足尾鉱毒事件や谷中村の運命を見てもわかるように、事実上は官僚・軍人・財界の利益なのですが。しかし人びとは自分たちを支え包んでくれる大きな集団の栄光と威信のためと信憑し、忍苦することになります。あるいは諦めてしまいます。その結果、当然の如く、自分自身に尊厳を見出せない人びとは、他者の尊厳を感じることができません。また自分がかけがえのない存在として尊重されていないので、他者をかけがえのない存在として尊重することを知りません。そして人権や尊厳を一顧だにせず、弱者・劣位者に対して蛮行をふるい、鬱憤を晴らす。
 その残虐性については、前述の「体罰の文化」も関係していると思いますが、残虐さを楽しんでいた面もあるのかもしれません。魯迅は「随感録 六十五 暴君の臣民」の中で、こう述べています。(『魯迅選集』 第六巻 岩波書店)
 暴君の治下の臣民は、たいてい暴君よりもっと暴である。(中略) 暴君の臣民は、暴政が他人の頭上にだけふるわれるのを願い、彼はそれを見物して面白がる。「残酷」を娯楽とし、「他人の苦しみ」を賞玩し、慰安にする。自分の手腕はただ「うまく免れる」ことである。「うまく免れた」ものの中からまた犠牲者が選び出されて、暴君の治下の臣民の、血にかわいた慾望に供給される、だが誰であるかは分からない。死ぬものが「アア」と言えば、生きているものが面白がるのだ。(p.57~8)
 日本軍によるシンガポール侵攻を経験したシンガポール上級相リー・クアンユーは、これを「組織的な残虐性(システマティック・ブルータリティー)」と表現されています。(『朝日新聞』 1994.12.31)
 日本軍の侵攻から二、三日後に、彼らは切り落とした首、人間の首を、木のくいや横木にのせて、シンガポールの大きな七、八カ所の橋の上でさらしものにしました。私もその一つを、オーチャード通り(市の目抜き通り)の高層ビルの近くで見ました。首には漢字の札が下げられ、悪いことをすれば、同じように処理される、と書かれていた。
 また、日本兵の歩哨が、将校の車が通過する際、敬礼が遅かったというだけで、将校が車をわざわざ戻し、兵隊を平手打ちにし、空中に投げて、道路にたたきつけるのを見ました。
 私は、これは異なる文化だ、組織的な残虐性を信奉する、異なる人々なのだ、と結論しました。

by sabasaba13 | 2018-01-07 07:23 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 58

 次に軍隊と戦争です。明治政府は、植民地にされるのを防ぎ独立を守るために、徴兵制を施行して短期間で強力な軍隊を作り上げます。当初は防衛的な軍隊でしたが、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦を行なうにつれて、賠償金や植民地の獲得、経済的な権益の拡張などをめざす侵略的な軍隊へと変容していきました。国内の治安を維持して、システムの改変を防止するという機能は一貫していますが。
 そしてこうした諸戦争に勝利した結果、官僚・軍人・財界はさまざまな戦時利得を獲得して潤いました。戦闘の最前線に立たされた民衆にも多少の戦時利得は滴り落ちたかと思いますが、最大のそれは、日本の植民地にされた朝鮮、戦争に敗れた中国、欧米列強の植民地にされているアジア諸国・諸地域の人びとに対する優越感と、日本人だけがアジアで唯一近代化に成功して植民地をもつ帝国をつくりあげたという強烈な自負心でしょう。これにより自らと同一化している国家=民族の威信がますます高まり、まるで自分がより強く偉くなった感じ、不安やストレスは多少なりとも解消されたと思います。その代償は、個人の抑圧と国家への隷従ですが。
 また、これは片山杜秀氏が『大東亜共栄圏とTPP』(ARTES)の中で指摘されていることですが、この軍隊において「暴力の文化」とでも言うべきものが民衆に浸透したのではないか。具体的には、強大なロシアと戦うために短期間で精鋭・屈強な兵士に育て上げる必要が生じました。そのために、必要な軍事的スキルを、体罰によって体に叩きこむという軍隊教育がなされるようになりました。このやり方がやがて、軍事教練というかたちで学校教育にも持ち込まれていきました。こうして軍隊や学校において、上官・教員・先輩から日常的に暴力をふるわれる環境が生まれ、暴力に親和的な文化が根づいたのだと思います。

 そして差別です。既述のように「国体」というシステムによって抑圧され貧苦に追い込まれ呻吟する民衆は、その不安・不満・ストレス・無能力感を、国家=民族という大集団に埋没することによって解消しようとしました。さらに戦争の勝利と植民地獲得によってアジア人を劣等視し、彼ら/彼女らに対する優越感を感じるようになりました。ここから人種差別によって無能力感を全能感へと昇華するという心理的からくりが起動したのではないかと考えます。ジョージ・オーウェルはそうした状況を"自分よりもっと弱い者にうっぷんを晴らして、自分の屈辱感に復讐している群居性の動物たち"と的確に表現しています。「自衛」という大義のもとに、おおっぴらに劣等な人種=朝鮮人を痛めつけて鬱憤を晴らし全能感を満喫する。次のような目撃談が、そうした様子を雄弁に物語っています。
 避難者の右往左往する大通りを、鼠色の小倉服を着た、十七八の少年鮮人が、在郷軍人の徽章をつけた男に引っ張られて歩いてゆく。『私、怪しい者ぢゃありません、おやぢと一緒に、神田の家を焼け出された商人です』 少年は真蒼な、恐怖に満ちた顔をして、上手な日本語で弁解した。引っ張ってゆく在郷軍人は、多少解っていると見えて、唯少年の袖を握っているばかりだが、後からぞろぞろとついて行く群衆が、××××××くやら、バケツで××××り飛ばす。一旦擦れちがって行き過ぎた男も、それが××〈鮮人〉だと聞くと、わざわざ後戻りして×××〈なぐり〉つける。(『文章倶楽部』 細田民樹 「運命の醜さ」 新潮社、1923年10月号) (⑤p.104~6)
 ということは、差別・迫害の対象は朝鮮人だけである必要はありません。自分たちより劣等な存在であると国家や中間集団が認知すれば、そして反撃できない弱者・マイノリティであれが誰でもよいということになります。福田・田中村事件のケースがそうだと思います。日本人であると知りつつも、貧しげな行商団=よそ者を劣等な存在として暴行を加えて殺害し、日頃のストレスを発散し、集団としての一体感を確認したのではないでしょうか。
by sabasaba13 | 2018-01-05 06:53 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 57

 こうした激甚な格差社会の原因と仕組みをきちんと考えて、「分配」を真っ当に行えば、ある程度は解決できたことと思います。しかし残念ながら民衆は、それに気づき、改革・改変することができませんでした。学力や批判精神を民衆につけさせない教育制度を整えた強者・富者側の勝利とも言えますが。そして民衆は、貧困に苦しみ、不安・不満・ストレス・無能力感を抱え込むことになります。官僚・軍人・財界からすれば、その刃がいつ自分たちに向けられるかわからないのですから、これは放置できません。貧富の格差を再生産するこのシステムを変えずに、民衆の苦しみやストレスを発散させ、真の原因から目を逸らさせるのはどうすればよいのか。あるいは、こうした悲惨な現実を忘れるために民衆は何をしたのか。

 まず集団への埋没です。民族や国家など大きくて強い集団に、自己を埋没させることですね。一人称単数の主語は消え、「日本」「日本人」と主語が大きくなり、自分も強く偉くなったような気がします。そして集団への同調圧力が高まり、これを拒否する者を「異分子」として排除・抑圧していく。日本には集団を象徴する恰好の素材がもうできあがっていました。そう、天皇です。天皇が象徴する「日本的なるもの」によって結ばれた同質社会の居心地良さに安住する、あるいは「万世一系」の天皇を敬愛することによって日本民族の一員としての矜持を感じる。そして国家=民族と一体化してその威信を高めることに身も心も捧げ、無能力感を相殺して全能感を得る。ジョージ・オーウェルに言わせると"個人がより大きな権力単位に帰一し、すべてを威信の競争という観点から眺める近代の狂気じみた習慣"です。こうして、格差社会によってもたらされた貧苦を束の間忘れることができるというわけです。

 なお見逃せないのが、個人が埋没するのが、国家という大きな集団だけでなく中間集団でもあるというおとです。個人と国家の間に位置する村・町・会社・軍隊・学校といった集団です。そこに帰属することによってプチ全能感を得ることと引き換えに、その集団に人格的に隷従しなくてはならないということですね。そこでは、集団内の秩序を乱す個人に対して、非法な制裁を実効的に加えることができ、国家から強い自律性を有しています。民衆は国家・中間集団という二つの集団に帰属することによって安心感と全能感を得、その見返りに人格的隷従を強いられたのだと思います。自我を沈黙させ、二つの集団の意向と空気に従っていれば、極めて居心地の良い世界だったことでしょう。でも森達也氏が言われたように(『DAYS JAPAN』16.3 p.50)、主語が大きくて強くなると、述語も「殲滅せよ」「成敗してやる」など強くて勇ましくなります。こうして不安やストレスなどを解消するために埋没した集団に、自衛という正義や大義が潤滑油として注入されるとその暴走が始まります。その際に、個人で止めることは不可能でしょう。例えば、朝鮮人虐殺の場にいた自警団員が「やめなさい」と制止したらどうなるか。また仲間と一緒に暴力をふるうことによって、集団との一体感をより強く感じようとする面もあったと思います。「みんなで悪いことをして仲良くなる」というメンタリティですね。
by sabasaba13 | 2017-12-31 07:16 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 56

 それでは、近現代日本の制度・社会構造・価値観にはらまれる大きな歪みと亀裂について、考えてみましょう。

 まず近代化の推進のために必要なのが、中央集権体制と強大な国家権力でした。近代日本を指導した選良たちは、生き馬の目を抜く国際社会で生き残るために、出来るだけ早く、かつ効率的に近代化を推進しなければならないと考えました。よって話し合いや熟慮、民主化などは問題外で、官僚を中心とする選良が専制的な権力をふるって、自然・人間など全ての国内資源を近代化のために計画的に組織し動員する。しかし、所詮同じ人間にすぎない官僚たちが目指すものを民衆は有難がりません。制度や決定の合理性をいくら説明しても、そんな理屈を理解する能力は民衆にはありません。彼らの決定を民衆に受容させるには、それに有難いオーラを与える存在が必要であり、それこそが天皇だというわけですね。機能的なエリートである官僚たちが実質的に政策を決定しますが、民衆は高貴で威厳のある天皇に導かれていると信じる。
 こうして、機能的エリート(官僚)が、民衆操作のためのシンボル価値として天皇制を創造したのだと考えます。天皇を最高価値として設定し、それに近接する官僚・軍人が「藩屏」として権力をふるう。やがて、自分の意思は天皇の意思であり、自分に刃向かう者は天皇に反逆する者である、という意識や行動が国家機構に根づいていきました。官僚・軍人、それに連なる政治家や資本家が、無謬にして至高な現人神=天皇を戴いて民衆を支配するシステムですね。いわゆる"国体"です。その目的は、近代化の強行と、この支配関係の維持・強化です。何ものにも縛られず、思う存分に権力をふるえるこのシステムからは、責任感も、遵法精神も、公僕意識も生まれてこないでしょう。
 そして国家権力は、近代化の強行と支配関係の維持・強化の障害となるもの、個人主義・自由主義・民主主義・議会主義・マルクス主義などは、陰に陽に、場合によっては暴力的に圧殺していきます。

 そして飽くなき利潤追求と経済成長のために、官僚と政商たちは産業の振興と資本の蓄積を強行し、民衆はその犠牲として供されることになります。高額小作料を搾取される小作農民、低賃金・長時間労働と過酷な労働条件に呻吟する労働者などですね。そうした貧困は「奢侈怠惰」「優勝劣敗」など自己責任によるものであって、救済する必要はないとして切り捨てられていきました。つまり経済的敗者は全人格的な敗者として貶められていきます。1%の富者が99%の貧者を犠牲にして富を貪り、そのシステムを天皇の名の下に官僚・軍人・財界が死守する、これも「国体」です。
by sabasaba13 | 2017-12-29 07:14 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 55

 まずは国家と民衆に瀰漫する無責任性という体質です。誤報を流布しても、軍隊や警察が朝鮮人を虐殺しても、責任を取ろうとしない国家権力。そして朝鮮人を虐殺しても、責任を取ろうとしない民衆。そして無法性。責任を免れるために、法を無視して軍・警察の虐殺を隠蔽し、「法治国家」の体面を守るため形だけ民衆を裁判にかけますが事実上免責してしまう国家権力。組織内や仲間内の不法・不正な行為を庇い、組織や仲間の雰囲気・空気に感染してしまう集団主義。そして国家も民衆も共に持つ、異民族(朝鮮人・中国人)や異分子(社会主義者・労働運動家)に対する強烈な差別意識。朝鮮人であるというだけで無辜の人間に暴行を加え、殺害までしてしまう残虐性。

 無責任性、無法性、集団主義、差別意識、残虐性。これらを育んだ制度・社会構造・価値観について考えてみたいと思います。その鍵は、日本の近代化にあると考えます。近代化以前の日本、ペリー来航(1853)による開国以前の江戸時代は、版図の拡張による経済成長という方法を採らず、停滞をそのまま経済の安定とした時代でした。侵略と戦争を避け、火薬は花火として使い、金魚とアサガオの品種改良に現を抜かしながら、停滞した経済のなかでそれなりの繁栄を実現したのが江戸時代だと考えます。
 その日本が、欧米列強がつくりあげた「近代世界」という闘技場にむりやり引きずり出されたのが"開国"です。生き馬の目を抜くこのバトル・フィールドで勝ち残る気があるのなら(なければ即植民地)、己を「近代国家」に改造せねばなりません。中央集権体制と強大な国家権力。他国・植民地・弱者を犠牲にした飽くなき利潤追求と経済成長。それと通底する人権の軽視と差別。自国を防衛し、植民地を獲得するための強力な軍事力。そして国家と自分を同一視し、国家のために粉骨砕身する「国民」の創造。そしてこの目的を達成するために、自然・人間など全ての国内資源を、官僚が中心となって計画的に組織し動員する。
 狭隘な国土と貧弱な資源・産物しかない日本にとっては、いずれも実現するのが困難な課題でした。今、厠上本として読んでいる『高橋是清自伝』(中公文庫)の中に、前田正名がつくった戯れ歌が載っていました。
われが為には苦労はせぬが
恋し日本に苦労する
タッタ一つの糸柱
それに並んで茶の柱
あぶない日本のその家に
四千万のこの民が
住いするのを知らないか。(下p.41)
 そう、輸出品は生糸と茶しかないというのが、当時の現実でした。しかし浅羽通明氏が『ナショナリズム』(ちくま新書473)の中で卓抜に評されているように、もがき苦しみながら、なりふりかまわず必死に努力し、この課題をクリアすることができました。
 体裁を繕ういとまもない試行錯誤の末、かろうじて出来上がり、なんとか成功したこのシステム…、明治国家日本。いきなり競技参加を強制され、じたばたと脂汗を流した末、まぐれ当たりで合格できたかのごとき格好悪さを隠蔽したい…。こうしたシステムでまとまるやり方に千数百年の必然があったのだと思いこむためには、我らの「国語」が「国史」が「国文学」が、万世一系の皇室が、どうしても必要だったのである。
 しかしかなり無理をした近代化であったために、制度・社会構造・価値観に大きな歪みと亀裂ができてしまったのではないか。夏目漱石が.『それから』(1909)の中で、総括的に述べているのもこのことだと思います。
 日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでいて、一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入りをしようとする。かからあらゆる方向に向かって、奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争する蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給え。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、そうして目の廻るほどこき使われるから、揃って神経衰弱になっちまう。話をして見給え大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、ただ今の事より外に、何も考えやしない。考えられないほど疲労しているんだから仕方がない。精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にして伴なっている。のみならず、道徳の敗退も一所に来ている。日本国中どこを見渡したって、輝いてる断面は一寸四方もないじゃないか。悉く暗黒だ。

by sabasaba13 | 2017-12-27 07:13 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 54

 さて、今、私たちはこの事件にどう向き合えばいいのでしょう。まずこの事件の本質について整理すると、国家的犯罪と国民的犯罪という二つの面があると考えます。
 まず国家的犯罪としての側面です。これまで縷々述べてきたように、まず「朝鮮人による暴動・放火」という予断による誤報を、意図的・組織的に流布したことです。そしてその予断に基づいて戒厳令を施行したこと。これにより、社会は一気に戦争状態となり、敵=朝鮮人を殺してもよいという状況が生まれました。そして軍・警察が自ら虐殺を行なうとともに、自警団による虐殺を黙認、場合によっては教唆したこと。情報が誤りであると判明すると、国家権力の責任を隠蔽するためにさまざまな手段をとったこと。軍隊・警察による虐殺については徹底的に隠蔽し、一切の責任を取っていません。そして誤報を流布した責任を免れるために、架空の朝鮮人暴動を捏造しました。さらに虐殺された朝鮮人の遺体を徹底的に隠し、虐殺数や虐殺状況を隠蔽しました。そして虐殺の責任をすべて自警団・在郷軍人会・青年団・消防団など民衆にかぶせ、かつ民衆からの批判をかわすために極めて微温的な刑罰にしか処さなかったこと。朝鮮人を保護する過程で、民族運動家・労働運動家・社会主義者などを選別して殺害したこと。そして関東大震災に関する歴史書を編纂する際に、朝鮮人虐殺の責任を朝鮮人自身と日本人民衆に押し付け、国家の責任を歴史から抹消しようとしたことです。
 もう一つは国民的犯罪です。官憲による誤報の流布があったとはいえ、朝鮮人犠牲者の圧倒的多数は、日本の民衆によって虐殺されました。そして証拠を隠滅し、加害者を庇い、その責任を免れようとした事例も多々ありました。

 あらためて問いましょう。この目を覆い耳を塞ぎ口を閉ざしたくなるような、この凄惨かつ破廉恥な犯罪に、今の私たちはどう向き合えばいいのでしょうか。アリアドネの糸になるのが、故加藤周一氏の指摘です。『夕日妄語2』(加藤周一 ちくま文庫)所収の、若者に戦争責任はあるのかという問題を考察した「春秋無義戦」の掉尾を引用します。
 問題は、いくさや犯罪を生みだしたところの制度・社会構造・価値観-もしそれを文化とよぶとすれば、いくさや犯罪と密接に係りあった文化の一面との断絶がどの程度か、ということである。文化のそういう面が今日まで連続して生きているとすれば、-今日の日本においてそれは著しいと私は考えるが、-そういう面を認識し、分析し、批判し、それに反対するかしないかは、遠い過去の問題ではなく、当人がいつ生まれたかには係りのない今日の問題である。
 過去の犯罪の現存する条件を容認して、犯罪との無関係を主張することはできない。直接の責任は、若い日本人にはない。しかし間接の責任は、どんなに若い日本人も免れることはできないだろう。彼または彼女が、かつていくさと犯罪を生みだした日本文化の一面と対決をしないかぎり、またそうすることによって再びいくさと犯罪が生み出される危険を防ごうとしないかぎり。
 たとえば閉鎖的集団主義、権威への屈服、大勢順応主義、生ぬるい批判精神、人種・男女・少数意見などあらゆる種類の差別-そういうことと無関係に日本帝国主義は成立したのではなかった。また過去の日本帝国主義に対する今日の日本国の態度と無関係に、自衛隊員の海外活動に対するアジア諸国民の反撥と不信感があるのではない。
 自衛隊の海外活動第一年、一九九二年の暮に私の妄想はこの国の来し方行く末に及ぶのである。(92.12.17) (p.68)
 加藤氏の指摘をもとに、私はこう考えました。朝鮮人を主な対象としつつ多発した虐殺という国家的犯罪と国民的犯罪、それを生みだした制度・社会構造・価値観とはどういうものか、認識し分析しなければならない。そしてそうした諸条件(加藤氏曰く、日本文化の一面)は、その後、何が払拭できたのか、何が現存しているのか。現存しているものがあれば、批判をし反対・対決をしなければならない。なぜか。そうした犯罪をくりかえさないためである。
 氏は、日本帝国主義が行なったさまざまないくさと犯罪を生みだした日本文化の一面を、閉鎖的集団主義、権威への屈服、大勢順応主義、生ぬるい批判精神、人種・男女・少数意見などあらゆる種類の差別と指摘されています。これは大震災時の虐殺を分析する際にも、有効な考えだと思います。

 それでは、先学に導いてもらいながら、虐殺を生みだした日本文化の一面を追っていきましょう。
by sabasaba13 | 2017-12-25 06:29 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)