カテゴリ:関東大震災と虐殺( 63 )

関東大震災と虐殺 43

 この虐殺について、同時代人はどう見てどう考えたのでしょう。管見の限りですが、いくつか紹介したいと思います。

 まず内村鑑三です。9月22日の日記に、「民に平安を与ふる為の軍隊であると思へば、敬せざるべからず、愛せざるべからず」とあります。戒厳令と軍隊出動に感謝するとともに、自身も自警団に入って夜警を勤めています。(④p.113)

 田山花袋は、朝鮮人が追われて、花袋家の縁の下に逃げ込んだのを「引きずり出してなぐってやった」と語ったのを『中央公論』の編集者・木佐木勝氏が日記に記録しています。(④p.117)

 微妙なのが宮沢賢治です。当時賢治は、日蓮宗の立場から様々な改革を唱える田中智学に傾倒し、智学が主宰する国柱会の会員でした。ちなみに石原莞爾も会員でしたね。田中智学は、朝鮮人排撃を主張し「鮮人暴動」など無根の報道を流布する『天業民報』を発行していますが、賢治はそれを町の辻々に張りまわっています。彼自身が朝鮮人への排撃を主張した文章は発見されていませんが、不可解なことがあります。筑摩書房の全集(1995年)書簡の部で、1922(大正11)年から丸三年間の分が、そっくり抜けているそうです。この書簡の中に、謎を解く鍵があるのかもしれません。(④p.120~2)

 作家の志賀直哉は、「震災見舞」の中でこう書いています。
 軽井沢、日の暮れ。駅では乗客に氷の接待をしていた。東京では朝鮮人が暴れ廻っているというような噂を聞く。が自分は信じなかった。
松井田で、警官二三人に弥次馬十人余りで一人の朝鮮人を追いかけるのを見た。
「殺した」すぐ引き返して来た一人が車窓の下でこんなにいったが、あまりに簡単過ぎた。今もそれは半信半疑だ。
 高崎では一体の空気がひどく険しく、朝鮮人を七八人連れて行くのを見る。
 ………………………
 そして大手町で積まれた電車のレールに腰かけ休んでいる時だった。ちょうど自分の前で、自転車で来た若者と刺子を着た若者が落ち合い、二人は友達らしく立ち話を始めた。
 「―叔父の家で、俺が必死の働きをして焼かなかったのがある―」刺子の若者が得意気にいった。「―鮮人が裏へ廻ったてんで、すぐ日本刀を持って追いかけると、それが鮮人でねえんだ」刺子の若者は自分に気を兼ねちょっとこっちを見、言葉を切ったが、すぐ続けた。「しかしこういう時でもなけりゃあ、人間は殺せねえと思ったから、とうとうやっちゃったよ」二人は笑っている。ひどい奴だとは思ったが、平時(ふだん)そう思うよりは自分も気楽な気持ちでいた。
 ………………………
 鮮人騒ぎの噂なかなか烈しく、この騒ぎ関西にも伝染されては困ると思った。なるべく早く帰洛することにする。一般市民が朝鮮人の噂を恐れながら、一方同情もしていること、戒厳司令部や警察の掲示が朝鮮人に対して不穏な行いをするなという風に出ていることなどを知らせ、幾分でも起るべき不快(いや)なことを未然に避けることができれば幸いだと考えた。そういうことを柳(※宗悦)にも書いてもらうため、Kさんに柳のところにいってもらう。
 反骨のジャーナリスト・宮武外骨が書いた「日鮮不融和の結果」です。(『震災画報』より ちくま学芸文庫)
 今度の震災当時、最も痛恨事とすべきは鮮人に対する虐遇行為であった。
その誤解の出所は不明としても、不逞漢外の鮮人を殺傷したのは、一般国民に種族根性の失せない人道上の大問題である。
 要は官僚が朝鮮統治政策を誤っている余弊であるにしても、我国民にも少し落ちついた人道思想があったならば、かほどまでには到らなかったであろう。
 根も葉もない鮮人襲来の脅しに愕いて、自警団が執りし対策は実に極端であった。誰何して答えない者を鮮人と認め、へんな姓名であると鮮人と認め、姓名は普通でも地方訛りがあると鮮人と認め、訛りがなくても骨相が変っていると鮮人と認め、骨相は普通でも髪が長いから鮮人だろうと責め、はなはだしいのは手にビール瓶か箱をもっていると毒薬か爆弾を携帯する朝鮮人だろうとして糾問精査するなど、一時は全く気狂沙汰であった。
 北海道から来た人の話によると、東京から同地へ逃げた避難者は警察署の証明を貰いそれを背に張って歩かねば危険であったという。

by sabasaba13 | 2017-12-02 06:47 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 42

 そして周知のヘイトスピーチ。「ヘイトスピーチ 言葉の凶器」(朝日新聞 2014.12.14)という記事を紹介します。
 各地で繰り返されるヘイトスピーチ(差別的憎悪表現)で、中傷の対象にされている在日コリアンはどう感じているのだろう。東京のNPO法人が関西在住の16人から聞き取り調査したところ、在日の人々が心の傷を受けている実態が浮かび上がった。「日本社会が変わってしまった」と戸惑う人も少なくない。
 調査したのは弁護士や研究者ら700人超でつくるNPO「ヒューマンライツ・ナウ」。メンバー7人が4~7月、個別に面談して体験を聞き、11月にまとめた。
 10代の女性は、ネットでヘイトスピーチの動画を見ても「別世界のこと」と感じていた。街頭で初めて目にした時、衝撃を受けた。話し合おうと参加者に声をかけると、「あなたはこの国に必要ない。帰ってください」と言われた。
 50代の男性は、大阪・鶴橋で昨年2月にあった街頭宣伝を動画サイトで見た。中学生くらいの少女が拡声機で「鶴橋大虐殺を実行しますよ」「いい加減帰れー」と叫んでいた。「吐き気がした」。この街宣を現場で見た別の50代男性は「存在が否定されたと思い、心臓がドキドキした」「(朝鮮人虐殺が起きた)関東大震災が頭をよぎった」と振り返った。社会の空気の変化を感じ取る人もいた。30代女性は、飲食店で隣のテーブルから「ヘイト的言動」が聞こえてきて、ビクッとすることがある、と語った。「目撃しているのに(市議会)議員は何も言わず、笑っていた」(別の30代女性)など、社会が黙認していると不信感を抱く人もいた。
 子どもへの影響を心配する声も目立った。50代女性は、帰宅した中学生の息子が「早く大人になって帰化する」と話した体験を明かした。コンビニ店に買い物に出かけた際、デモを目にして衝撃を受けた様子だったという。調査に協力したNPO「コリアNGOセンター」(大阪市生野区)にも「小学生の子どもから『朝鮮人ってあかんことなん』と聞かれた」という母親からの相談などが寄せられている。在日3世の金光敏事務局長(43)は「世情が変わったと感じている人は多い。特に子どもを持つ親は『社会は助けてくれず、自分たちで守るしかない』と悲壮な覚悟を迫られている」と話す。
 街宣によるヘイトスピーチは関西にとどまらない。横浜市在住の在日3世の徐史晃さん(34)は5年前、東京・銀座で永住外国人の地方参政権を求めるデモ行進をしていた時、200人ほどの集団からヘイトスピーチを浴びせられた。顔のすぐそばで「朝鮮人は帰れ」「死ね、殺せ」と繰り返された。「ここまで言われるものか。もうやめてくれ」と思ったが、目をそむけて反論できなかった。「日本社会でどうやって生きていけばいいか、深い絶望感にとらわれた」
 また朝日新聞デジタル(2016.9.9)に、下記のような記事がありました。
 横浜市教育委員会が、独自に発行する中学生向けの副読本から、関東大震災直後に起きた朝鮮人虐殺についての記述をなくす方向で検討していることがわかった。研究者らは「史実をないがしろにしている」などとして9日、市教委に内容の変更を申し入れた。
 市民団体「歴史を学ぶ市民の会・神奈川」が、今年度中に発行予定の副読本の原稿案を情報公開請求したところ、関東大震災の説明のうち、朝鮮人虐殺に関する記述がなかったという。
 横浜市の副読本をめぐっては、2012年度版の「わかるヨコハマ」で、関東大震災時に自警団以外に軍隊や警察も「朝鮮人に対する迫害と虐殺を行い」と盛り込まれたことについて、一部の市議が反発。市教委は「表現などに誤解を招く部分があった」として12年度版を回収した。13年度版からは「虐殺」の表現が「殺害」に変更され、軍隊や警察の関与についての記述も削除された。
 朝鮮人虐殺を研究する山田昭次・立教大名誉教授ら約70人の研究者は9日、連名で要望書を市教委に提出した。山田名誉教授は「虐殺は学問的にも証明されている。子どもたちに歴史からの教訓をきちんと伝えるべきだ」と話した。
 市教委は朝日新聞の取材に対し、「副読本の内容については編集中であり、答えられない」としている。
 現在にいたるまで、歴史的事実を隠蔽しようという動きがあるのですね。とくに、"自警団以外に軍隊や警察も「朝鮮人に対する迫害と虐殺を行い」と盛り込まれたことについて、一部の市議が反発"という点が興味深いところです。国家権力の犯罪や卑劣さを隠蔽し、その権威を擁護しようということでしょうか。その市議たちにしてみれば、自分たちの権威の支えとなる「国家」のオーラに瑕疵がついてはまずいという意識があるのだと思います。

 これが日本だ、わたしの国だ… 絶望から始めるしかありませんね。

 追記。しかし幸いなことに、同年10月7日に、虐殺の史実を記載する方針が決定されました。『神奈川新聞』(2016.10.7)から引用します。
 横浜市教育委員会が作成中の中学生向け副読本の原案で関東大震災時の朝鮮人虐殺の記載がなかった問題で、同市教委は7日、虐殺の史実を記載する方針を明らかにした。同日の市教委定例会で報告した。
 新副読本作成を担当している指導企画課の三宅一彦課長は「横浜で起きた痛ましい出来事を学ぶことで歴史の理解を深め、防災教育の面からも多面的・多角的に考えることのできる記載になるよう検討している」とし、記載を前提に編集作業を行っていると説明した。
 教育委員からは「人間は過去を正当化したがるものだが、(虐殺という)悲惨な事件を起こす可能性があるということを教訓として刻まなければいけない」と積極的に理解を示す意見も出された。
 新副読本を巡っては市民団体「歴史を学ぶ市民の会・神奈川」(北宏一朗代表)が原案を情報公開制度で入手したところ、従来の副読本にあった朝鮮人虐殺の記述がないことが判明。歴史研究者や市民団体から虐殺の史実と背景を記載するよう求める要望書が市教委に寄せられていた。

by sabasaba13 | 2017-11-30 06:23 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 41

 そして敗戦後から現在に至るまで、朝鮮人への差別意識は大きな変化がないようです。『在日外国人 第三版 -法の壁、心の溝』(田中宏 岩波新書1429)から引用します。
 まずは1949年8月末から9月初旬に書かれたと推定される、吉田茂首相によるマッカーサー宛ての手紙です。
 朝鮮人居住者の問題に関しては、早急に解決をはからなければなりません。彼らは、総数100万人に近く、その約半数は不法入国であります。私としては、これらすべての朝鮮人がその母国たる半島に帰還するよう期待するものであります。その理由は、次の通りであります。
 (1)現在および将来の日本の食糧事情からみて、余分な人口の維持は不可能であります。米国の好意により、日本は大量の食糧を輸入しており、その一部を在日朝鮮人を養うために使用しております。このような輸入は、将来の世代に負担を課すことになります。朝鮮人のために負っている対米負債のこの部分を、将来の世代に負わせることは不公平であると思われます。
 (2)大多数の朝鮮人は、日本経済の復興にまったく貢献しておりません。
 (3)さらに悪いことには、朝鮮人の中で犯罪分子が大きな割合を占めております。彼らは、日本の経済法令の常習的違反者であります。彼らの多くは共産主義者並びにそのシンパで、最も悪辣な種類の政治犯罪を犯す傾向が強く、常時七〇〇〇名以上が獄中にいるという状態であります。
 戦後の朝鮮人による起訴犯罪事件数は次の通りです〔詳細省略。1948年5月末までで、91,235名の朝鮮人が犯罪に関与したという数字をあげている〕
 さて、朝鮮人の本国送還に関する私の見解は次の通りであります。
 (1)原則として、すべての朝鮮人を日本政府の費用で本国に送還すべきである。
 (2)日本への残留を希望する朝鮮人は、日本政府の許可を受けなければならない。許可は、日本の経済復興に貢献する能力を有すると思われる朝鮮人に与えられる。
 上述のような見解を、原則的に閣下が御承認くださるならば、私は、朝鮮人の本国帰還に関する予算並びに他の具体的措置を提出するものであります。
敬具
吉田茂
連合国最高司令官
 ダグラス・マッカーサー元帥
 (原文は英文で、アメリカのマッカーサー文書館蔵…)
 1960年10月、日本に国民年金制度が実施された時、在日韓国人の金鉉鈞(キムヒョンジョ)さんは、荒川区役所の国民年金勧奨員から加入を勧められました。「韓国人だから」と断ったのですが、説得されて加入しました。支給される歳となった1976年に、妻の李奉花(イボンファ)さんが請求手続きをとろうとすると、「韓国籍だから資格なし」と断られてしまいます。そして今まで納めた保険料を返されておしまいです。李奉花さんが抗議すると、年金課係長は「他人の国に来ていて、ゴチャゴチャ言わないほうがよい」、「なぜ戦争が終わったとき、すぐ韓国へ帰らなかったのか」と言い放ったそうです。(p.163)

 そして朝鮮高校には、授業料無償化を実施しないと日本政府は決定しました。金明俊(キムミョンジュン)監督は、2011年6月、東京での朝鮮学校支援市民集会に、韓国からかけつけ、挨拶をされましたが、その一節です。
 朝鮮高校無償化を実施しない理由が、朝鮮半島で起きた天安号沈没事件や延坪島砲撃などの政治的事件だとすれば、率直にいってあきれて笑うしかありません。また、地震〔東日本大震災〕の前後に、東京、大阪、千葉、宮城などの自治体が朝鮮学校への教育補助金を凍結した問題に至っては、なぜ、こんなに卑怯になれるのだろうか、と絶望感さえ感じました。そんな失笑と絶望を感じる理由は、これらすべてがほかでもない『子どもたち』を相手におこなわれているからです。(p.214)
 著者の田中宏氏はある日、「子どもの人権を守ろう…日朝首脳会議で、拉致事件問題が伝えられたことなどを契機として、朝鮮学校や在日朝鮮人などに対するいやがらせ、脅迫、暴行などの事案の発生が報じられていますが、これは人権擁護上見過せない行為です」という、法務省人権擁護局の下部機関、東京法務局などが作成したチラシを見かけました。氏は、東京法務局を訪れ、高校無償化除外や補助金カットは、「人権擁護上見過せない行為」では、と問うてみると、差別を受けた当事者ではないとして、人権侵害事件としての申し立てはできないとされました。(p.215~6)
 結局、安倍晋三内閣の誕生によって、2013年2月、朝鮮高校は最終的に高校無償化から除外されて現在に及んでいます。(p.263~4)
by sabasaba13 | 2017-11-28 06:29 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 40

 こうして国家権力が主導し、それに民衆が便乗し、「関東大虐殺」の実態を矮小化し、その責任を免れたのでした。その後も、そして現在に至るまで、日本政府はその責任を隠蔽し続け、朝鮮人・中国人虐殺事件についての日本政府による公的な調査、謝罪と補償はまだなされていません。
 1925年に、警視庁編・刊『大正震災誌』と神奈川県警察部編・刊『大正大震火災誌』が発行されましたが、流言流布の責任を民衆のみに押し付けあります。敗戦後(!)の1949年に発行された『関東大震災の治安回顧』(吉河光貞 法務府特別審査局)においてすらも、官憲の責任を全く隠蔽してあります。(④p.91)
 軍隊が虐殺に直接かかわったことを示す決定的な史料(「震災警備ノ為兵器ヲ使用セル事件調査表」)を東京都史料館所蔵の『陸軍震災資料』の中から発見し、『関東大震災政府陸海軍関係史料』(日本経済評論社 1997年)におさめた松尾章一氏によると、その直後からこの史料は一般閲覧できなくなったそうです。(⑦p.5) いやはや、その卑劣さ・下劣さの深淵は測り難いものがあります。

 しかし研究者・弁護士・市民による真相解明の努力が粘り強く続けられていることは、忘れないようにしましょう。例えば、2003年8月25日、日本弁護士連合会は、在日朝鮮人文戊仙さんの人権救済申し立てに応えて同会の人権委員会が作成した「関東大震災救済申立事件調査報告書」を添えて、朝鮮人・中国人被害者とその遺族に対する謝罪、および事件の真相調査の勧告書を小泉純一郎首相に提出しました。しかし小泉首相の応答は全くなかったとのことです。もちろん今でも。

 そして朝鮮人に対する差別・蔑視・敵視意識は、払拭されることはありませんでした。その例は枚挙に暇がないのですが、いくつか紹介します。『昭和時代』(岩波新書275)の中で、文芸評論家の中島健蔵氏は次のように回想されています。
 その年(※1925年)の十月十五日に、小樽高等商業学校の軍事教官が野外演習の想定として大体つぎのような情況を学生たちに与えた。第一に「大地震があって、札幌や小樽が大損害を受けた、」というのはいいとしても、第二項は「無政府主義団は不逞鮮人を煽動し、この時期において札幌および小樽公園において画策しつつあるを知れる小樽在郷軍人団は、たちまち奮起してこれと格闘の後、東方に撃退したるが、…云々」というのである。しかも反抗が強いので、小樽高商の生徒隊に応急準備令が下って、「敵を絶滅」するために出動する、という情況が与えられたのである。
 関東大震災の思い出が、まだなまなましく人々の心に残っていたころだ。ことに学生生徒の演習として、これは、なんともひどい想定だ。これに対して、たちまちはげしい非難が起り、事実上、記録によれば、小樽港の三千の朝鮮人の人夫が関東大震災のときの生々しい記憶を思い出して騒ぎ出した。学校の外の労働組合も学生たちの政治研究会とともに軍事教育を攻撃して一応軍事教官にあやまらせたことになっている。(p.33~4)
 永井荷風は、『断腸亭日乗』に、朝鮮人差別の様相を記録しています。(③p.64)
 昏黒三番丁に往かむとて谷町通にて電車の来るのを待つ。悪戯盛りの子供二三十人ばかり群れ集り、鬼婆~鬼婆~と叫ぶが中には棒ちぎれを持ちたる悪太郎もあり、何事やと様子を見るに頭髪雪の如く腰曲りたる朝鮮人の老婆、人家の戸口に立ち飴を売りて銭を乞ふを悪童ら押取巻棒にて叩きて叫び合へるなり、余は日頃日本の小童の暴虐なるを憎むこと甚し、この寒き夜に遠国よりさまよひ来れる老婆のさま余りに哀れに見えたれば半圓の銀貨一片を与えて立ち去りぬ。(1930.1.8)

 此日の東京日日の夕刊を見るに大阪の或波止場にて児童預所に集まりいたる日本人の小児、朝鮮人の小児が物を盗みたりとてこれを縛り、逆さに吊して打ち叩きし後布団に包み其の上より大勢にて踏殺したる記事あり、小児はいずれも十才に至らざるものなり、然るに彼等は警察署にて刑事が為す如き拷問の方法を知りて、之を実行するは如何なる故にや、又布団に包みて踏殺する事は江戸時代伝馬町の牢屋にて囚徒の間に行われたる事なり、之を今、昭和の小児の知り居るは如何なる故なるや、人間自然の残忍なる性情は古今ともにおのずから符合するものにや、怖るべし、怖るべし、嗚呼怖るべきなり。(1936.4.13)
 アジア・太平洋戦争時、アメリカ軍による本土空襲が開始される前に、内務省はその混乱の中で、関東大震災の惨劇がくりかえされるのではないかと懸念しています。
 「殊に注意を要する傾向は段々空襲の危険性が増大するに連れまして、内鮮人双方共に関東大震災の際に於けるが如き事態を想起しまして善良なる朝鮮人迄内地人の為に危険視せられて迫害を加へられるのではないかとの杞憂を抱き又内地人の方面にありましては空襲等の混乱時にありまして朝鮮人が強窃盗或は婦女子に対し暴行等を加へるのではないかとの危惧の念を抱き双方に可成り不安の空気を醸成し果ては流言飛語となり其れは亦疑心暗鬼を生むという傾向のある事実であります。現に内地人の方面にありましては非常事態発生の場合の自衛処置として日本刀を用意し或は朝鮮人に対する警察取締の強化を要請する向があり就中一部事業主等にありましては杞憂の余り之が取締を警察の手より軍隊に移して貰い度いと公然と要望するに至って居る者もある様な状況であります。一方朝鮮人の側にありましては再び斯かる迫害を受くるに非ずやとの危惧の念より警察に保護を陳情する者がある様な状況にありますので一旦非常事態発生の際には細心の注意を万全の処置を講じて置くことがなければ不祥事件の惹起する危険性が充分にあるのであります」(警察部長会議に於ける保安課長説明要旨[1944.1.14]、内務省警保局保安課[治安状況に就て] 『集成』第五巻、p.15~7) (③p.66)

by sabasaba13 | 2017-11-25 06:30 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 39

 10月10日、亀戸事件が初めて公表されましたが、軍隊の行為は戒厳令下の行動として当然のこととされました。自由法曹団の布施辰治、山崎今朝弥両弁護士らは事件の真相を追及して司法権の発動を要求し、南葛労働会や総同盟は糾弾運動を行い、小牧近江、金子洋文らの種蒔き社は、自由法曹団が作成した資料に基づいて殉難記『種蒔き雑記』を発行したが、いずれも黙殺されました。(スーパーニッポニカ[小学館])

 10月初旬から11月下旬にかけて、「在日本関東地方罹災同胞慰問班」が虐殺された朝鮮人犠牲者の調査を行ないました。調査目的を表に出すと警視庁が許可しないので、罹災同胞慰問を名目にしたのですね。しかし日本治安当局の朝鮮人死体隠蔽政策のために調査は困難を極めました。調査に携わった韓目見相氏は、戦後にこう証言されています。
 いかに調査団が綿密に調査したことだったが、震災から既に二箇月を経過していたし、「鮮人騒ぎ」が全く事実無根のデマ(官製の)ために起きた日本の失態であることが明白となり出したので、不幸失脚の同胞の死体を隠ぺいして証拠いん滅を(官の指令で)してしまったことがあるので、なかなかその実数は正確を期することが、できるものではなかった。(④p.86)
 その調査結果によると、朝鮮人犠牲者の数は6,661人でした。(①p.288~9) 参考までに、司法省調査書では233人、内務省警保局の調査では231人となっています。(①p.230)

 10月20日、司法省が朝鮮人の犯罪を発表しました。それに先立ち、『国民新聞』(1923.10.1)でその趣旨をこう説明しています。
 一般鮮人は概して純良であると認められるが、一部不逞の輩があって幾多の犯罪を敢行し、その事実が喧伝せらるゝに至った結果、(中略)往々にして無辜の鮮人、内地人を不逞鮮人と誤って自衛の意味を以て危害を加える事犯が生じた。
 ブラーボ。ここまで卑劣で人を愚弄する作文にはなかなかお目にかかれません。眼福眼福。朝鮮人による暴動・放火は事実あった、よって官憲の流布した情報は流言ではなく責任を問う必要はない。自衛のための殺人だったのだから、軍隊・警察・自警団による虐殺の責任を問う必要もない。内地人(日本人)も殺されたのだから、朝鮮人への差別意識によるものではない。そういうわけですね。
 つまり朝鮮人による凶悪な犯罪があったと証明すれば、国家権力・民衆の責任は免れることができます。それでは司法省の発表を見てみましょう。まず強盗・放火・強姦・殺人・毒殺予備などの罪を犯した朝鮮人は約120名で、ほとんどの氏名は不明。氏名がわかっている者4名は、所在不明あるいは逃亡あるいは死亡。強盗、爆発物取締罰則違反などによる容疑者は3名で、取調べ・予審・公判の最中。もちろん判決は確定していないので犯罪者ではありません。窃盗・横領などの容疑者は16名ですべて氏名はわかっていますが、これは軽犯罪です。
 よってここに発表された朝鮮人の「犯罪」は架空のもので、国家や民衆の責任を隠蔽するために捏造したものと言わざるを得ません。(④p.82~4)

 11月7日。中国政府による、王希天および中国人虐殺を調査する特別委員派遣の決定を受けて、山本権兵衛内閣はこの事件を徹底的に隠蔽する方針を決めました。(⑩p.169~73)

 12月26日、帝国議会衆議院本会議で議員永井柳太郎は、内務省警保局長や埼玉県内務部長などの官憲が朝鮮人が暴動を起こしたという流言を発した証拠を挙げて朝鮮人虐殺の国家責任を追及し、政府は遺憾の意を表する意思はないのかと詰問しました。すると山本権兵衛首相は、「政府は起こりました事柄に就いて目下取調べ進行中でござります」と発言して、謝罪を回避しました。
by sabasaba13 | 2017-11-23 09:38 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 38

 よって裁判も杜撰かつ醜悪な様相を呈しました。例えば、当時の船橋警察の警官だった渡辺良雄氏は、裁判について次のように記しています。
 九月二十日頃から、自警団、その他の殺人犯人の検挙が開始された。私達は、重大問題が起ると心配しながら、浦安町や行徳町方面に早朝出張して、犯人多数を連行してきた。その時、船橋町の稲荷屋という料理屋に、千葉から裁判官と検事や書記が来て、二階に陣取っていた。彼等は、連行して来た犯人を次々と呼び出し、検事から最初は「君は執行猶予にする」と予言して、取調べを始めた。すると犯人は、素直に犯行を認める。そこで隣りに控えている判事の手に渡すと、判事は、「お前は二人殺したか。それでは懲役二年、執行猶予三年に処する。わかったか。」 「控訴するか」 判事が犯人に尋ね、「控訴しません」と答えが返ると「それでは帰って宜しい」というような処置が行われたので、私達はこれを一日裁判と呼んだ」(①p.257)
 元本庄署巡査・新井賢次郎氏の証言です。
 裁判もいいかげんだった、殺人罪でなくて騒擾罪ということだった。刑を受けたのは何人もいたがほとんど執行猶予で、つとめたのは三、四人だったと思う。私も証人として呼ばれたが検事は虐殺の様子などつとめてさけていたようで最初から最後まで事件に立合っていた私に何も聞かなかった。そして安藤刑事課長など私に本当のことを言うなと差し止め、実際は鮮人半分、内地人半分だったと証言しろ、それ以上の本当のことは絶対に言うなと私に強要した。私も言われた通り証言した。(①p.255)
 こうした裁判の名に値しない裁判の結果はどうであったのか。1923年10月1日より翌年2月末日までの『法律新聞』を調査した研究者・松尾尊允氏によると、12件、125名の被告のうち無罪2名、執行猶予91名、実刑32名、そのうち最高刑は4年(2名)でした。そして、警察を襲撃して朝鮮人を虐殺した被告や、日本人を虐殺した被告に比べて、朝鮮人を虐殺した被告が執行猶予となるケースが多くありました。その上、これらの実刑被告の多くは翌年1月26日、皇太子の結婚の際の恩赦を受けて、実質収監は三ヵ月余にすぎませんでした。そればかりか、事件の余燼の収まった1926年にはこの立役者たちの功績に叙勲が行なわれ、恩賞が与えられました。(①p.257、④p.85)

 なお姜徳相氏の以下の指摘はとても重要だと思いますので、引用します。
 各地で裁判を受けた人たちの職業別統計を検討すると、鳶職、桶屋、馭者、土工、職工、大工、製管工、日雇など、ほとんどがいわゆる「下層細民」に属する人びとであることがわかる。
 米騒動のとき政府批判の先頭に立った立役者たちが、朝鮮人虐殺の下手人になっているのである。おのれ自身搾取され、収奪され、日本の歴史に米騒動を刻印した人びとが、自分たちの受けた差別へのうっせきした怒りの刃をもっと弱いよそものにむけたことで解消したのである。これは日本帝国主義が植民地を獲得したことの盲点であり、植民地制度によってさずけられた特権であった。特権の上にたって、自分たちよりもう少し貧弱で、圧殺されている存在を見下して安心したのである。朝鮮人は軽蔑し圧迫するに適当な集団とみられたのである。(①p.252)

by sabasaba13 | 2017-11-21 06:34 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 37

 9月16日、いわゆる甘粕事件が起こります。スーパーニッポニカ(小学館)と国史大辞典1(吉川弘文館)を参考にして、概要を紹介します。

 無政府主義者の大杉栄はこのころ柏木に住み、みずから夜警にも参加していました。16日、妻の伊藤野枝とともに鶴見に住む妹を見舞い、その子橘宗一を同行しての帰り、東京憲兵隊麹町分隊長甘粕正彦大尉らに連行され、憲兵隊本部において3人とも絞殺され、遺体は古井戸に投げ込まれました。大杉が行方不明になると、友人安成二郎らが探索を始め、9月20日の『時事新報』『読売新聞』も号外で大杉殺害を報じたので、軍も隠しきれず、また軍と警察の対立もあって、同日付けで甘粕を軍法会議に送致し、福田雅太郎戒厳司令官を更迭、小泉六一憲兵司令官、小山介蔵東京憲兵隊長を停職処分とし、24日に事件の概要を発表しました。軍法会議は12月4日、甘粕に懲役10年、憲兵隊の森慶次郎曹長に同3年、部下3名に無罪の判決を下しました。犯人は麻布歩兵第三連隊といわれますが、そこには秩父宮がいるため甘粕らが身代りになったといわれます。1923年12月26日の大杉の葬儀の際、遺骨が右翼団体大化会の岩田富美夫らに奪われました。その報復のため無政府主義者古田大次郎らは翌年9月1日、福田雅太郎大将狙撃事件を起こします。この大杉の死によりアナキズム運動は大打撃を受けることになりました。
 なお甘粕雅彦のその後ですが、1926年10月に釈放され、陸軍の費用で渡仏しました。そして1929年には満洲に渡って諜報謀略活動に従事し、協和会総務部長、満洲映画協会理事長を歴任し、大いに権勢を振るったのは、この事件の代償といわれます。1945年8月20日、ソ連軍による侵攻のなか自殺、辞世は「大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん」でした。
 既述の王希天事件は、功名心に駆られた現場の暴走という面が強いように思いますが、この甘粕事件は感触が違います。混乱が収まり、社会主義者による蜂起はないとほぼ判明した状況の中で起きた事件です。国家権力にとってこの先も有害な大杉栄を、軍あるいは政府の中枢が命令して殺させた計画的事件ではないでしょうか。戒厳令が解除されないうちに、"処理"してしまおうとしたのかもしれません。

 そして自警団の検束と検挙が、9月17日から東京で、9月19日から群馬・埼玉で、9月20日から横浜・千葉ではじまりました。しかし当然の如く、流言を流布し殺人を教唆・黙認し、みずからの手も血で染めた官憲の責任を不問にしてよいのかという声があがります。例えば上杉慎吉(法学者)は「警察官憲の明答を求む」とし、「憲兵方面では甘粕大尉が軍法会議に移されたと云うだけで、大杉と野枝と子供と三人ころしたと云う事実はまだ疑わしいのに、断然司令官迄が責を引きたるが如く警察や政府の方面でも即時罷免其他責任を明にする処置を執らねばならぬであろう」(『国民新聞』1923.10.14)と指摘しています。また菊地義郎(植民政策学者)らも、自警団の幹部、行動右翼、町村長などが自警団員の罪に比べて「人殺しまで逆上させた宣伝役を今なお縛らないのはなぜか」「一段と油をかけて逆上させ後で縛るなんて芸は部下の警察ではやるまいな」「県知事は恥知らずの標本」「内相の責任重大」などと騒ぎ、牽制の詰問状を発し、「死を賭しても汚名を雪ぐ」とすごみ、「私は三田警察署長に質問する。九月二日の夜××襲来の警報を貴下の部下から受けた私どもが御注意によって自警団を組織した時『××と見たらば本署につれてこい、抵抗したら○しても差し仕えない』と親しく貴下からうけたまった、あの一言は寝言であったか、それとも証拠のないのをいいことに覚えがないと否定されるゝのか」(『東京日日新聞』 1923.10.22)と、官憲の責任を鋭く追及しています。(①p.254~5)

 自警団の側からも批判は起きました。例えば関東自警団同盟からは、次のような声があがっています。(①p.251~2)
 災害当時我等に告げて『某々方面より鮮人襲来の虞れあり男子は武装せよ女子は避難せよ鮮人とみれば倒(殺)しても差支へない、主義者と判れば殴っても宜い彼らは凶器を携へて到る処に殺人強盗陵辱放火等あらゆる悪事を働いている』とふれ廻ったのは何者であったか。

 警察と軍隊との欠を補って…一命を賭して防禦の任に当たった幾多の同志は何れも殺人暴行傷害の極悪人として起訴収監せられつゝあるではないか。

 若しそれ防禦のための過失が果して悪いとするならば自警団以外の手によって行われた多くの殺人傷害はこれまた何とする。
 最後の批判は痛烈です。自警団による朝鮮人殺人が犯罪ならば、"自警団以外の手"、つまり軍隊や警察が行なった殺人も犯罪ではないのか、ということですね。もっともです。その上で次の六項目の決議を当局につきつけました。
決議
我等は当局に対して左の事項を訊す
一、流言の出所につき当局がその責を負わずこれを民衆に転移せんとする理由如何
二、当局が目のあたり自警団の暴行を放任し後日に到り其の罪を問はんとする理由如何
三、自警団員の罪悪のみこれを天下にあばき幾多警官の暴行はこれを秘せんとする理由如何
我等は当局に対して左の事項を要求す
四、過失により犯したる自警団の傷害罪は悉くこれを免ずること
五、過失により犯したる自警団の殺人罪は悉く異例の恩典に浴せしめ採決すること
六、自警団員中の功労者を表彰し、とくに警備のために生命を失いたる者の遺族に対しては適当に慰藉の方法をとること (『報知新聞』 1923.10.23)
 自警団による殺人・暴行を免責してくれないのならば、警察による流言の流布と殺人・暴行をあばいて道連れにするぞという恐喝ですね。軍隊による殺人・暴行にまで踏み込んでいないのは、腰が引けたのでしょう。よって何とかして責任を免れ隠蔽したい官憲としては、法治国家という体面上、形だけ裁判にかけるが、できるだけ寛典に処すというスタンスをとることになりました。
by sabasaba13 | 2017-11-18 06:32 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 36

 9月12日、水曜日。この日の未明、9月9日に拘束されていた王希天(ワン・シテイエン)が軍隊によって殺害されます。彼は1917年頃に日本に留学し、周恩来とも知り合いでした。五四運動(1919)を受けて東京で行われたデモのリーダーの一人として警察にマークされるようになります。その後、中華メソジスト教会の牧師、中華YMCAの幹事として活躍。中国人労働者が多く住んでいた東京府南葛飾郡大島町に中国人救済組織、僑日共済会を結成して在日中国人を助ける運動をしていました。また救世軍の山室軍平とも親しく交際しています。
 この王希天に敵意を向けていたのが、まず人夫差配師たちです。彼が僑日共済会を結成したために、中国人労働者に「組織と指導者」がうまれ、甘い汁が吸えなくなったのですね。そして亀戸署の刑事たちです。官憲の目には、仮想敵国・中国の得体の知れないインテリが過激な労働運動・社会主義運動を煽っていると映りました。(⑩p.23~4)

 9月9日、中国人虐殺(大島事件)の噂を聞き、共済会の様子を見に大島へ行く途中で、王希天は不審人物として憲兵隊拘束されました。その後、中国人を習志野収容所へ護送する業務に協力、そして解放されますが、改めて亀戸署に拘束されました。スネに傷をもつ警察・軍にしてみれば、彼は大島事件をはじめとする数々の不祥事を「知りすぎた男」に見えたのでしょう。またそうした事件を嗅ぎまわっているようにも思えました。『一司法第十九号』に「支那思想団ノ一部亀戸付近ニ潜入シ何等カ画策セル形跡アリ、野重砲第三旅団報告」とあります。(⑩p.56~7)
 野重砲第三旅団第七連隊長・中岡弥高は、この機に彼を殺害しようと決意しました。田原洋氏が再現した、彼の言です。(⑩p.62~5)
 こいつは相当の大物です。表向きは、YMCAの幹事、メソジスト派の代理牧師を名乗り、社会事業家のような顔をしているが、…YMCAもメソジストも、相当、米陸軍のスパイを入れていますから、そいつらと連携しているにちがいない。そろそろ我々の直接警備を引き揚げる時機になっておりますが、こういう過激思想の持主を野放しにしていては、軍の引き揚げたあとは、どうなるか心配です。警察のお粗末な警備では、心もとないです。

 いまさら習志野送りしたら、腰抜けと思われる。支那過激思想団の禍根を一気に断つ好機ではありませんか。

 王は五・四運動いらいの闘士だ。秘密党員かもわからん。ヤソ教の仮面をかぶってアメリカとも連絡がある得体の知れんやつだ。…あいつをやれば手柄だぞ。

 王を殺りたがっているヤツは、はいて捨てるほどいる。金鵄勲章だといえば、みんな喜んでやりたがる。
 そして中岡弥高の意を受けた者にそれとなく話をもちかけられ、亀戸署から引き取った王希天を殺害したのは、剣道の達人・垣内八洲夫中尉でした。彼は震災の際に帰省中で、帰隊すると、同年輩の少尉・中尉や部下の下士官たちが、鮮人や支那人を何人斬ったと自慢しあっていました。とくに、親しくしていた岩波清貞少尉の手柄話には羨望を禁じ得ませんでした。岩波は、既述のように大量虐殺を遂行した軍人で、隊内では「金鵄勲章が出る」と噂されていました。垣内は、「活躍」するチャンスが欲しかったのですね。そして旧中川の逆井橋付近で王希天を斬殺。死体は、身元がわからぬように処理して、中川に投げ込んだという証言があります。(⑩p.65~70)

 支配体制の現状を維持しようとする使命感とプライド、その支配体制の根幹である国家の利益を最優先する思考、その支配体制を批判し動揺させる存在への敵意、中国人・朝鮮人への差別・侮蔑意識、ねじまがった功名心、そして人命・人権の軽視。当時の軍人の思考と行動様式を如実に物語る事件です。

 なおこの事件をもみ消した第一師団野戦重砲兵第三旅団第一連隊第三中隊長・遠藤三郎大尉は、後にこう語っています。
 あのとき、私が妙な正義感などもたず、犯罪必罰の考えでいたら、どうだったろうかとは思うねえ。親しい同僚や後輩が放っておいては罪に問われる。あるいは、自分の属していた部隊の汚名が喧伝される-それは防がなきゃならん、それを防ぐのが部隊参謀の正義だと思いこんでいたんだなあ。心の底に、中国人や社会主義者を軽視し、蔑む意識があって、同僚を救うほうが正しい選択だと錯覚していた。しかも、それができる最適任者は自分だという自負心もあった。どう転ぶかわからない国際問題でもあり、あえて火中の栗を拾おうとするには、私にしろ、武田さんにしろ、それなりの覚悟は必要としたんだ。だが、非を認めるべきときに認めない、謝罪すべきときにそうしない(とくに中国をはじめとするアジア諸民族とその主権侵害に関して)日本軍国主義の体質は、このころから顕著になったといえるだろう。軍隊の独善の論理に、すっかり染まっていたんだなあ。(⑩p.105)

by sabasaba13 | 2017-11-16 06:28 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 35

 9月11日、火曜日。大江志乃夫氏によると前日の9月10日までに関東戒厳司令官の指揮下に入り戒厳服務についた軍隊は、歩兵57大隊、騎兵22中隊、砲兵34中隊、工兵47中隊、鉄道14中隊、電信13中隊など兵員約5万人に達していました。この大兵力が、恣意的な無制限の人権抑圧権限を与えられ、「広ク兵力ヲ分散配置シテ、昼夜連続劇務ニ従事シ」、権限行使に関する判断が血気の初級士官や下士官に委ねられたのですから、至る処での朝鮮人の大量虐殺をはじめ、中国人、社会主義者の虐殺事件をひき起こしたことは、必然であったと、氏は指摘されています。やはりこうした事件が発生した要因は、戒厳宣告それ自体のなかに準備されていたのですね。(②p.137~8)

 そしてこの9月11日、臨時震災救護事務局警備部司法委員会は、朝鮮人を虐殺した自警団の処理方針を次のように定めました。
一、今回ノ変災ニ際シ行ワレタル傷害事件ハ司法上之ヲ放任スルヲ許サズ、之ヲ糾弾スルノ必要ナルハ閣議ニ於テ決定セル処ナリ然レドモ情状酌量スベキ点少カラザルヲ以テ騒擾ニ加ワリタル全員ヲ検挙スルコトナク検挙ノ範囲ヲ顕著ナルモノノミニ限定スルコト
二、警察権ニ犯行ノ実アルモノノ検挙ハ厳正ナルベキコト
三、検挙ノ時機ニ就テハ慎重ニ定ムルヲ要シ現今ハ人心安定セザルヲ以テ直ニ着手スルコトナク唯証拠ノ保全ニ力メ検挙ノ開始ニ就テハ検事ハ司法省ノ指揮ヲ待チ行ウコト
四、検挙ノ時機ハ各地方ノ情況ニヨリ異ナルベキモ東京及横浜ヲ除キ其他ノ地方ハ同時一斉ニ始ルコト
五、検挙ニ対スル準備トシテ警察力ノ恢復ノ為警察ニ保護中ノ鮮人ヲ其他ニ取纏メ保護スル方法ヲ取ルコト
六、鮮人等ノ不逞行為ニ就テモ厳正ナル捜査検察ヲ行ウコト (『東京震災録』)
 官憲が朝鮮人暴動の誤認情報を流したのですから、自警団全員を検挙すれば、彼らから強い反発が起こることは必定です。そこで「顕著な者」のみを検挙することにしたのである。しかし警察に収容されている朝鮮人を虐殺するために、警察署や警察官を襲撃した者は厳しく処罰するということです。朝鮮人殺害は大目に見るが、警察への反抗は許さないという姿勢ですね。また、検挙の時期は、司法省の指揮を待て、あるいは一斉に始めろ、ということはそれまでに証拠を湮滅しておけ、あるいは口裏を合わせておけ、ということでしょうか。さらに朝鮮人の「不逞行為」についても厳正に捜査しろということは、官憲の責任を免れるために、朝鮮人による暴動や放火が事実であってほしいという願望ですね。
 この方針のもと、9月中旬ごろより自警団の検挙が始まりました。
by sabasaba13 | 2017-11-14 06:31 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 34

 9月7日、金曜日。この日から9日にかけて、習志野に駐屯する騎兵隊は、習志野収容所に収容されている朝鮮人を周辺の村の農民に渡して殺させました。これは大竹米子先生と習志野市立第四中学校郷土史研究会の生徒たちによる聞き取り調査と、地域住民から提供された日記史料によって明らかとなりました。7日の午後4時頃、高津廠舎より「鮮人を呉れるから取りにこい」との知らせがあって、7日夜から9日夜にかけて二度にわけて18人をもらってきました。高津地区では新木戸地区と共同で6人を切りました。5人は入会地の山番小屋付近の寺の境内で、残る1人は大きなイチョウの木にしばりつけて殺したということでした。提供された『震災日記』から引用します。(①p.211~2)
 七日 …午后四時頃バラック(※習志野収容所高津廠舎)から鮮人を呉れるから取りに来いと知せが有ったとて急に集合させ主望者に受取り行って貰ふことにした。東京へ送るべく米二俵本家の牛で桝次に搗きにやらせる事にして牛を借りにやると大和田からとりに来ると云ふので荷車で付けてやる。夜中に鮮人十五人貰ひ各区に配当し高津は新木戸と共同して三人引受お寺の庭に置き番をして居る。

 八日 太左ヱ門の富治に車で野菜と正伯から米を付けて行って貰ふにする小石川に二斗本郷に二斗麻布に二斗朝三時頃出発。又鮮人を貰ひに行く九時頃に至り二人貰ってくる都合五人(ナギノ原山番ノ墓場の有場所)へ穴を掘り座せて首を切る事に決定。第一番邦光スパリと見事に首が切れた。第二番啓次ボクリと是は中バしか切れぬ。第三番高治首の皮が少し残った。第四番光雄、邦光の切った刀で見事コロリと行った。第五番 吉之助力足らず中バしか切れぬ二太刀切。穴の中に入れて埋め仕舞ふ皆労れたらしく皆其處此處に寝て居る夜になるとまた各持場の警戒線に付く。

 九日 今日から日中は十八人で警戒し夜は全部出動する事になり皆非常に労れて何處でもゴロゴロ寝て居る。昨日行った富治が帰って来るかと待って居ると中々帰って来ない。夕方漸く帰る釜壊し仕舞った為買って来て呉れた金四円五十銭富治立替へて呉れる。夜又全部出動十二時過ぎ又鮮人貰って来たと知らせ有る之は直に前側に穴を掘って有るので連れて行って提灯の明りて梅松切る皮が少し残る是で首を切るには刀の善悪により刀が良ければ誰でも切れる事に決定した随分刀も害ったが新木戸中嶋光雄君の刀以外スパリと切れる刀はない。
 聞き取り調査による証言も紹介します。まず萱田地区の君塚国治さんの証言です。(①p.213~4)
 暴れて困る質の悪いのをつれてきたんだから、生かして置くわけにいかん。部落部落にもらってきた部落のものが処分しなければいかん…朝鮮の奴は何としても鉄砲でうってくれという、そうか、他では夜のうちに三本立てやってつるして下から火を燃やしたところもあるらしいね。そんなまねはできない。本人のいう通りにしてやろう、今のあのもみお墓地に穴ほって、当人のいう通りに鉄砲でうってやれ、うつまでが大変だ、話すれば簡単に言うけれど、同じ人間をひどい目にするんだからね、中にゃこいつ悪いことしただからよ、めんどうくさいから刀でぶっさすべ、いうのもあるしね、みんな刀もってんだからね、そんなこと言わずにまぁ穴ほって倒れれば落ちるようにしておいたのです。最後に撃つ者もあまり気持ちよくないというわけです、なかなかやってくれないんだよね、おめえやれとか、そっちやれとか、カリウドやった人に頼んだけど人をやったらこの鉄砲は使いもんにならないちゅうわね…とうとう鑑札をうけた鉄砲もっている人にやってもらったけどね…葬るまでの間が大変でしたよ…もうそれは地震があってから一か月から、そのくらいたってからだね、涼しくなってたからね。(1977.10)
 同萱田地区、本郷氏と阿部こう氏の証言です。(①p.214)
 それこそ伝家の宝刀持ち出してさ、猟銃で撃ったりね、手も足もしばっちゃったんだからかわいそうだったね、船橋のマツシマという所に土木工事にきてたんだって、何度も言ってたがもう殺気立ってて聞き入れなかった。(結局、みんなで何とはなしに殺しちゃったが、阿部) 一人やるとき一人見せて、哀号、哀号ってないてたぞって、(二人殺すのを一人は目をあけて見せておいたって言うから、ずい分残酷なことをしたもんだね、阿部)、こっちは二人、二人だもん(そういうことはずっとみんなの中で言わないでこられたでしょう)、だってもう、あたりさわりのない方がいいからね、まして敗戦後、朝鮮そのものがねぇ、下手にしゃべっておかしなことになってもつまらないしさ。(1976.7.29)
 一読、慄然とします。「牛を借りる」「釜を買ってもらう」「代金を立て替えてもらう」といった何気ない日々の営みに、殺人の様子や刀の切れ味といった非人間的な行為が違和感なく同居しています。そして言うまでもなく、国家権力にとって目障りな朝鮮人を選別し、住民に殺害させて責任を転嫁する、その底無しの卑劣さ。民衆の責任と国家の責任、ともに免れることはできないと思います。

 なおこの事件に関するさまざまな慰霊碑を訪ね歩きました。高津観音寺なぎの原、大和田新田の「無縁之墓」、萱田長福寺の「震災異国人犠牲者 至心供養塔」、村上橋近くの角塔婆、中台墓地の「無縁供養塔」などですが、よろしければご一読を。

 この9月7日には、緊急勅令として治安維持令(治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件)が公布・施行されたことも重要です。関東大震災下の混乱を収めることを名目とした緊急勅令で、「出版通信其ノ他何等ノ方法ヲ以テスルヲ問ハス暴行騒擾其ノ他生命身体若ハ財産ニ危害ヲ及ホスヘキ犯罪ヲ煽動シ安寧秩序ヲ紊乱スル目的ヲ以テ治安ヲ害スル事項ヲ流布シ又ハ人心ヲ惑乱スル目的ヲ以テ流言浮説ヲナシタル者ハ十年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ三千円以下ノ罰金ニ処ス」という内容です。表面上は震災後に発生した諸事件に対する対応を目的としていましたが、実際にはこれに乗じて社会主義者を弾圧することを意図しており、二年後の1925年に成立する治安維持法の先駆となりました。
by sabasaba13 | 2017-11-12 07:22 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)