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姫路・大阪・京都編(17):帰郷(15.12)

 地下鉄の車内に「京の水道水 世界最高水準 うるおいのしずく、あなたへ。 京都市上下水道局」というステッカーが貼ってありました。いつまでも「水と安全はタダ」の国であって欲しいと思います。しかし、そうも言っていられない状況となってしまいました。そう、2018年12月6日、水道法が改正されました。人口減少などで水の使用量は減り、一方で古い施設の更新や耐震化などへの対応など、経営環境が悪化していることへの対応です。今回の改正では、自治体が施設の所有権を持ったまま、運営権を民間企業に売却する「コンセッション方式」と呼ばれる手法を採用することになりました。さあこれから一体何が起こるのか? 最近読んだ『日本が売られる』(幻冬舎新書)の中で、堤未果氏が"水道ビジネス"に言及されています。
 世界中のどこでやっても、じゃぶじゃぶ儲かる水道ビジネスは、「開発経済学」の概念を全く新しいものに上書きしてゆく。
 開発とはもはや、「そこに住む人々の生活向上と地域発展のため」ではなく、「貴重な資源に市場価値をつけ、それをいかに効率よく使うか」という投資家優先の考え方になって行った。
 世界銀行やアジア開発銀行(ADB)、アフリカ開発銀行などの多国間開発銀行とIMFは、財政危機の途上国を「救済する」融資の条件に、必ず水道、電気、ガスなどの公共インフラ民営化を要求する。
 断ればIMFはその国を容赦なくブラックリストに載せるため、途上国側に選択肢はない。
 国際金貸しカルテルの親玉であるIMFのブラックリストに載せられたら最後、援助国の政府や金融機関は、もうその国に援助をしなくなるからだ。
 この手法により、水の民営化は南米やアフリカ、アジアの国々に広がっていった。前述したボリビアや、90年代の韓国、最近では金融危機でIMFに支援を要請したギリシャも同様だ。
 多国間開発銀行は財源不足の水道を抱える国に対し、まず公共水道事業の一部を民間企業に委託させ、それから水道の所有権や運営権を企業に売却できるよう法改正させる。
 その際、国民が疑問を持たないよう「民営化こそが解決策だ」という全国キャンペーンを展開させることも忘れない。
 彼らは水道だけでなく、「医療」「農業」「教育」の民営化を世界各地に広げるべく、尽力し続けている。
 世界銀行の評価セクションには、この手法を使われた多くの国が、水の水質や安定供給に対し大きな不満を表明しているというデータが届いていた。だがそうした当事者たちの声が問題になることはなかった。同行の「民間開発戦略」はあくまでも「投資家のための環境改善策」(民営化、競争、規制緩和、(企業の)所有権強化)であり、そちらの方がはるかに優先順位が上なのだ。(p.18~9)
 氏曰く、「自国民の生活の基盤を解体し、外国に売り払う」動きです。こういうことをする輩は普通「売国奴」と呼びますが、どういうわけか国民から支持されているのですね。なぜなのだろう? そして話は水だけではありません。いま、土、種、食、牛乳、農地、森、海、築地、学校、医療、老後、個人情報などが企業に次々と売られようとしています。このままだとこの国は、さまざまな災厄が降りかかり、秩序が崩壊し、非常に粗野な、毎日を生きていくための場所に変貌してしまうのではないでしょうか。その時に、なぜそのような貧困化が起きたのか、だれの責任なのかという過酷な事実に向き合わず、違う対象に怒りと憎悪を向けて、より悲惨な結果を招いてしまう。そう、第一次世界大戦後のドイツ人が経験したことですね。持参した『ナチスの戦争 1918-1949 民族と人種の戦い』(リチャード・ベッセル 中公新書)に、奇しくも下記のような叙述がありました。
 第一次世界大戦によって、ドイツは上品とは言い難い、非常に粗野な、「毎日を生きていくため」の場所になってしまった。当然のことながら、さまざまな面で幅広い憤懣が生じる。秩序の崩壊を目の当たりにしたドイツ人は、降りかかった災厄を誰のせいにすべきか、矛先を探した。祖国がなぜ戦争に突入し、戦い、貧困化したかという過酷な事実に向き合うのではなく、ふたつの対象に怒りの目を向けたのである。国外では、屈服したドイツにヴェルサイユ条約という容認しえない「絶対的命令」を押しつけた連合国に、そして国内では、ドイツを背後からひと突きにしたとされる人々に。(p.16~7)
 歴史から学びましょう。歴史は何をしたらよいかは教えてくれませんが、何をすべきでないかは教えてくれます。手遅れにならないうちに。

 京都駅ビルの11階にある京料理「田ごと」で、鯖寿司とうどんのセットをいただきました。そして「蓬莱551」の長い長い行列に並んで豚まんを購入。京都駅20:02発の「のぞみ416号」に乗って豚まんを頬張りながら帰郷の途につきました。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-07-12 06:21 | 京都 | Comments(0)

姫路・大阪・京都編(16):錦市場(15.12)

 そして阪急長岡天神駅に戻ってもらい、タクシーとはここでお別れです。いろいろとご教示、ありがとうございました。せっかくなので嵐山まで行くことにしました。駅構内には、阪急電鉄労働組合の「人と環境に優しい公共交通」というポスターが貼ってありました。「労働組合」という言葉を見かけなくなりましたが、雇用状況の劣化を防ぐために大きな役割を果たすのが労働組合です。阪急電鉄労働組合のみなさん、共に頑張りましょう。と、ここで今現在の組織率が気になりました。インターネットで調べたところ、「朝日新聞デジタル」(18.12.19)に以下の記事がありました。
 雇用者に占める労働組合員の割合(組織率)は、今年6月末時点で17・0%だった。前年を0・1ポイント下回り、7年連続で過去最低を更新した。厚生労働省が19日、発表した。雇用情勢の改善が続く中で組合員数は約8万8千人増えて約1007万人になったが、これを上回って雇用者数が伸びたため組織率は下がった。
 うーむ、組織率17・0%か…迂闊にもここまで下がっているとは思いもしませんでした。経営者側の攻勢、御用組合化した状況への失望、若者の組合離れ、いろいろな理由が考えられますが、どうすればいいのでしょうか。このままでは、日本がブラック国家と化してしまいます。
 阪急嵐山駅に着いたのは午後五時ごろ。さすがにもう日没で、紅葉もよく見えません。でも桂川の水面に映る灯はきれいでした。
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そして山ノ神の要望により、錦市場に寄りました。嵐山駅からふたたび阪急に乗って桂駅で乗り換え、烏丸駅で下車。錦市場に行くと、「祝 錦市場 400年」という垂れ幕がかかり、伊藤若冲の絵がそこかしこを飾っています。そう、伊藤若冲は1716(正徳6)年、ここ錦小路にあった青物問屋「枡屋」の長男として生を受けたのですね。わが敬愛する画家の一人です。
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 「伊藤若冲生家跡」という看板に「若冲と錦市場」という興味深い一文があったので、後学のために転記しておきます。
 伊藤若冲が京都錦の青物問屋の生まれという事実はひろく知られている。若冲が描く絵画のなかには蕪、大根、レンコン、茄子、カボチャなどが描かれ、菜蟲譜という巻物には、野菜だけではなく柘榴や蜜柑、桃といった果実までが描かれている。
 極め付けは、野菜涅槃図で、釈迦の入滅の様子を描いた涅槃図になぞらえて、中央に大根が横たわり、その周囲には、大根の死を嘆くさまざまな野菜や果実たちが描かれている。このようなユニークな作品は、若冲が青物問屋を生家とすることに由来するといわれる。若冲は、次弟に家督を譲って、錦で絵画三昧の生活を送っていたとされていた。
 しかし、近年、あらたな史料が発見されたことにおり、錦市場における若冲のイメージが一変した。その史料とは、「京都錦小路青物市場記録」というもので、明和8年(1771)から安永3年(1774)までの錦市場の動向を伝える史料である。これによると、若冲は、錦市場の営業許可をめぐって、じつに細やかに、かつ、積極的に調整活動をおこなっている。その結果、錦市場は窮状を脱することになるのだが、若冲のこのような実務的な側面は、これまでまったく知られていなかった。
 若冲は、文字通り青物問屋の主人として錦市場に生きていたのである。
 そしてわれらが敬愛する「田中鶏卵」で卵焼きを購入して、地下鉄でJR京都駅へと向かいます。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2019-07-10 06:22 | 京都 | Comments(0)

姫路・大阪・京都編(15):金蔵寺・大原野神社(15.12)

 次は金蔵寺へ、幹線道路からはずれて山際の細い道を20分ほど走ると到着です。718(養老2)年に元正天皇の勅願で建てられた天台宗の古刹で、山の斜面、石垣と石段の間に堂宇が建ち並び、紅葉の隠れ名所だそうです。しかし残念ながら、ほとんど落葉していました。境内を埋め尽くすほどたくさんのカエデがあるので、盛りの頃はさぞ見事な景観かと想像します。再訪を期しましょう。
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 なお最近読んだ『かくれ里』(講談社学芸文庫)の中で、白洲正子がこのお寺さんにふれていました。
 実際この寺は、善峰よりはるかに静かで、紅葉も美しい。…お寺は険しい山を切りひらいて造ったらしく、何段にも高い石垣をめぐらし、崖にそって点々とお堂が建っている。紅葉の木の間を通して、長岡の竹林が見渡され、木津川がきらきら光って流れて行くのが見える。(p.187)
 これで予定していた旅程は終わりましたが、運転手さんが大原野神社の紅葉も素晴らしいと教えてくれました。はい、それではぜひ寄ってください。金蔵寺から20分ほど走ると、大原野神社に到着です。784(延暦3)年の長岡京遷都に際し、藤原氏が春日大社の分霊を祀ったのが始まりです。紫式部は大原野神社を氏神と崇め、この大原野の地をこよなく愛していたそうです。
 おおっ、参道にはきれいに色づいたカエデのトンネルが続きます。運転手さん、ありがとう。春日大社の分社だけに、狛犬のかわりに鹿の石像が置かれていました。境内にある池は、猿沢の池を模してつくられた鯉沢の池というそうです。
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 そしてひさしぶりの絵馬ウォッチング。「平穏無事に社会人として成長していきますように」 うん、"平穏無事"、素晴らしい言葉ですね。"日日是好日"とともに額に入れて飾っておきたい言葉です。「朗らかに健やかに育ってくれますように」という親御さんの言葉に応えるかのように、三歳の〇〇ちゃんの伸びやかな抽象的文字が躍っています。未来は君たちのものだ。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2019-07-08 07:31 | 京都 | Comments(0)

姫路・大阪・京都編(14):善峯寺(15.12)

 迎えに来てくれたタクシーに乗り込み善峯寺へと向かいます。途中からの山道をぐんぐんとのぼり、十数分で善峯寺に着きました。平安中期の長元2(1029)年に源算上人により開かれた古刹で、西国三十三所観音信仰、遊龍の松、桜・あじさい・秋明菊・紅葉など季節の彩り、京都市内の眺望が特徴です。
 山腹に数多の諸堂が散在し、変化に富んだ景観を美しい紅葉が彩っていました。特に薬師堂からは、京都市内を一望できるすばらしい眺めです。
 「遊龍の松」は、樹齢600年以上、全長37m、臥龍が遊ぶように地を這うように伸びる巨大な五葉松です。
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 寺務所に「おちないお守り 奇跡の運転手 受験生の守り神」という新聞記事が掲示されていました。阪神・淡路大震災の際に崩壊した高速道路で、宙づりになりながらも奇跡的に救出された観光バスの運転手さんが、ここ善峯寺のお守りを持っていたそうです。それ以来、「落ちないお守り」として受験生の人気を呼んでいるとのことです。
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 本日の六枚です。
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by sabasaba13 | 2019-06-26 06:18 | 京都 | Comments(0)

姫路・大阪・京都編(13):光明寺(15.12)

 そして阪急大山崎駅まで歩きますが、ちょっと小腹がへりました。地元資本の喫茶店でモーニング・サービスがいただけるとよいのですが、それらしいお店が見当たりません。仕方がない、駅舎内にあったパン屋「Pao」でパンと珈琲を食しました。阪急京都線に乗り込むと、車内に妙齢の制服美女集団が並んでいる吊り広告がありました。なんだなんだ。宝塚音楽学校の生徒募集でした。募集人員は、女子約40名。試験科目は、第一次が面接、第二次が面接・歌唱(課題曲・新曲視唱)・舞踊、第三次が面接・健康診断です。
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 長岡天神駅で下車すると、駅前に観光案内所があったので、さっそく係の方に紅葉の名所を訊ねました。答えは光明寺、善峰寺、金蔵寺。ここ二~三日の冷え込みが厳しく見る見るうちに色づいたとのことです。駅前で客待ちをしていたタクシーに乗り込んで、三時間の貸し切りで西山を廻ってもらうことにしました。まずは光明寺へ、西山(せいざん)浄土宗の総本山で、1198(建久9)年、熊谷入道蓮生(次郎直実)がここに一宇を建て、師の法然を請じて開山としたのに始まります。紅葉の名所で、この時期だけ「紅葉入山有料期間」となっています。なお駐車場がないので、タクシーには30分後に迎えに来てもらうことにしました。総門をくぐると、幅広く緩やかな石段の表参道です。女性でもお年寄りでも楽に登れるように配慮されているので、通称「女人坂」として知られているとのこと。石段をのぼると、きれいな紅葉が散見されました。御影堂、釈迦堂を廻って、もう一つの参道を下りますが、ここが本寺の白眉、通称「紅葉参道」です。途中にある薬医門をはさんで、緩やかにくだる幅の狭い参道の両側はモミジ・モミジ・モミジのトンネル。しかも燃えるような深紅に染まっていました。ブンダバー。

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2019-06-22 08:18 | 京都 | Comments(0)

姫路・大阪・京都編(12):大山崎山荘美術館(15.12)

 琅かん洞という庭園入口のトンネルをくぐると、そこは別世界。池のある広大な庭園には、見事に色づいたたくさんのモミジがあり、紅葉の盛りでした。しかも観光客はまばらで、しっとりとした静謐な雰囲気の中で錦秋を愉しむことができました。おまけに入園は無料、お薦めの穴場です。
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 散策路を二人でそぞろ歩きながら紅葉を愛でていると、時はあっという間に過ぎていきます。美術館を拝見してそろそろ次の訪問先に移動しましょう。入館料を支払って美術館に入り、企画展「かたちのであい ルーシー・リー、ハンス・コパーと英国陶磁」で、薫り高い陶磁器の数々を鑑賞しました。
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 北側の庭の向こうに白いモダンな塔屋がありますが、大山崎山荘で最初に建てられた物見塔、「栖霞楼(せいかろう)」です。当主の加賀正太郎は、ここの最上階から工事を見守り、指示を出したそうです。1階の円形、アーチ形などの出入口、2階南面の縦長窓、3階展望室の大きく開いた横長窓など、多彩な開口部をもつ遊び心あふれる建物だそうですが、残念ながら内部は非公開です。
 「橡の木茶屋」は鉄筋コンクリート造石張の土台の上に張り出して建てられた丸太組のユニークな茶室です。内部を見てみたいのですが、こちらも非公開でした。
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 本日の七枚です。
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by sabasaba13 | 2019-06-16 08:57 | 京都 | Comments(0)

姫路・大阪・京都編(11):大山崎山荘美術館(15.12)

 それでは大山崎山荘美術館へと参りましょう。踏切を渡ると天王山登り口、そう、山崎の戦い(1582)で豊臣秀吉が占有して明智光秀を破った山ですね。ここには「山崎宗鑑冷泉庵跡」という碑もあります。
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 後学のために解説を転記しておきます。
 宗鑑は本名を範重といい、寛正六年(1465)滋賀県栗太郡常盤村志那で生まれた。彼の家は支那地区を支配した支那氏で足利将軍義尚に一族で仕えていた。しかし将軍義尚が佐々木高頼との合戦に破れたため世の無常を感じて剃髪し、入道となり生地を離れて大山崎に隠棲したのである。ここに山崎宗鑑が誕生する。
 彼は八幡宮社頭で月例会として開かれていた連歌会の指導や、冷泉庵での講を主催する一方、世に知られた『犬筑波集』を生み出した。また書も宗鑑流として多くの人々から珍重された。碑文の"うつききてねぶとに鳴や郭公"は掛詞を巧みに使い、その手法は後の俳諧の基礎となった。
 「上の客立ち帰り、中の客其の日帰り、下々の客泊りがけ」と書いた額を庵に掛けていたという風狂の俳人でもあります。

 右に曲がって緩やかな坂道を歩いていくと、カエデがきれいに色づいていました。これは期待できそう、楽しみです。
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 そして数分歩くとアサヒビール大山崎山荘美術館に着きました。公式サイトから、その由緒について引用します。
 アサヒビール大山崎山荘美術館は、京都府大山崎町、天王山の南麓にあります。約5500坪の庭園のなか、英国風山荘である本館と安藤忠雄設計の「地中の宝石箱」、「夢の箱」、その他の建物から構成されています。
 美術館本館である「大山崎山荘」は、もとは関西の実業家・加賀正太郎(1888-1954)の別荘として、大正から昭和にかけ建設されました。
 加賀正太郎は、証券業をはじめ多方面で活躍した実業家である一方、大山崎山荘で蘭の栽培を手がけ、植物図譜《蘭花譜》を刊行するなど、趣味人としても大きな業績を遺しました。加賀は、ニッカウヰスキーの創業にも参画し、晩年には同社の株を深い親交があった朝日麦酒株式会社(現アサヒビール株式会社)初代社長・山本爲三郎に託しました。この縁が、現在の美術館へと受け継がれていきます。
 ビールとウイスキーという新たな文化をわが国にもたらした二人が紡いだ時代の糸は、やがて桂川、宇治川、木津川、三つの川が合流するこの大山崎の地でひとつになります。
 1954年に加賀正太郎が亡くなり、ついで加賀夫人がこの世を去ると、1967年に大山崎山荘は加賀家の手を離れることになりました。
 幾度かの転売ののち、建物の老朽化が進んだこともあり、1989年には山荘をとり壊し、大規模マンションを建設する計画が浮上しました。しかし、地元有志の方を中心に保存運動が展開され、京都府や大山崎町から要請を受けたアサヒビール株式会社が、行政と連携をとりながら、山荘を復元し美術館として公開することになります。
 アサヒビール大山崎山荘美術館は、歴史ゆたかな土地に建つ貴重な近代建築と、同時代の先端を行った芸術運動の遺産、そして国際的に活躍する建築家・安藤忠雄が手がけた現代建築の三つを擁して、1996年に開館しました。2004年には、「大山崎山荘」の6つの建物、霽景楼(せいけいろう)[現本館]、彩月庵(さいげつあん)[茶室]、橡ノ木(とちのき)茶屋、栖霞楼(せいかろう)[物見塔]、旧車庫[現レストハウス]、琅かん洞(ろうかんどう)[庭園入口トンネル]が国の有形文化財として登録されました。開館9年を迎えた2005年には来館者が100万人を越え、特色あるコレクションと建築、豊かな自然をともに楽しむことのできる美術館として、多くの人に親しまれています。

by sabasaba13 | 2019-06-14 06:27 | 京都 | Comments(0)

姫路・大阪・京都編(10):山崎(15.12)

 朝目覚めてベランダに出ると、残念ながら曇り空でした。まあ雨が降っていないので諒としましょう。湖上では、太公望たちが小舟に乗って釣りをしています。何が釣れるのだろう? バビロニアに、"人間の寿命は神が決めるが、決算の際、各人が釣りに費やした時間は免除され、差し引かれない"という格言があるそうです。
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 昨晩予約しておいた和食の店「おうみ」で、朝食をいただきました。自分で選べる焼き魚を頬張りながら、本日の旅程について山ノ神と相談。姫路城の紅葉がわりと綺麗だったので、大阪へ行くのはやめて京都の錦秋を愉しむことにしました。芋の子を洗うような混雑は嫌なので、大山崎の山荘美術館で紅葉狩りをして、西山をタクシーでめぐることにしました。
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 旅装を整え荷物を持ってチェックアウト、無料シャトルバスでJR大津駅へと行きましょう。そうそう、このホテルにはレンタルサイクルが用意されています、まだ利用したことはありませんが。
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 大津駅前には「かるたの聖地 大津」という立て看板がありました。『小倉百人一首』の第一首目の歌を詠んだ天智天皇を祀る近江神宮があるため、ここ大津でさまざまなかるた大会が開かれるのですね。大津駅から琵琶湖線に乗ると、森高千里をイメージ・キャラクターにした正露丸の広告がありました。
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 京都駅のコインロッカーに荷物を預け、JR京都線で山崎駅へ。マンサール屋根のキュートな駅舎はいまだ健在です。駅前にある妙喜庵には千利休が建てた国宝茶室・待庵がありますが、以前に拝見したので今回はカット。
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 「京都府観光ガイド」から紹介文を引用しておきます。
 羽柴秀吉が山崎城築城に際し、堺から呼び寄せた利休が、大山崎在住中に建てたといわれる小間の茶室、建物の端々に利休の非凡さが感じられる。
 建物は切妻造り、柿葺で、茶室では例のない地下窓をあけている。内部は二畳という極小の空間で、角に炉を切り、室床という独特の床の間をもつ、我が国数寄屋造りの原点といわれる。
 「待庵」は、愛知県犬山市の如庵・京都市大徳寺の密庵とともに国宝三茶室に数えられている。
 また十あまりの国における油の販売と、その原料の荏胡麻購入の独占権を持っていた大山崎の油神人の本所だった離宮八幡宮も近くにありますが、こちらも以前に訪れました。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-06-12 06:25 | 京都 | Comments(0)

京都観桜編(34):妙傳寺(15.3)

 妙傳寺は枝垂れ桜の一発芸、見事な枝振りの古木がここを先途と咲き誇っていました。
 それでは最後の訪問先、東寺へと向かいましょう。地下鉄東西銭の東山駅の近くには、景観に配慮した地味な看板の〇ク〇ナ〇ドがありました。駅へとおりる階段は、スーツ姿の若者でごった返していましたが、大学の入学式に列席する新入生諸君のようです。
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 地下鉄東西線に乗って烏丸御池駅で地下鉄烏丸線に乗り換えて京都駅へ。近鉄京都線に乗り換えて東寺駅で下車。めざすは東寺、銘木・不二桜のライト・アップですが、門前にはすでに長い長い行列ができていました。はい、やめやめ。こらえ性のない私はすぐにあきらめ、撤退しました。
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 とりあえず、京都駅で夕食をとって帰郷することにしましょう。東寺駅に行く途中で、「君の夢 万引き一つで 消えていく」という標語の看板を発見。うーむ、もちろん万引きは犯罪なのですが、セカンド・チャンスはないぞ、という脅しなのでしょうか。アメリカ合州国の「三振法」を思い出しました。そこまで言うなら、原発事故で国土と人々を破滅させた輩たちには、巨大な鉄槌を与えてほしいものです。近くには、かわいらしい「むくり屋根」の民家がありました。
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 そして京都駅に到着、構内の「侘家三昧」で好物のねぎ焼きをいただきました。
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 改札を通って新幹線ホームに行こうとすると、平安神宮神苑の桜を写した「そうだ京都、行こう」のポスターが壁面に貼ってありました。ライト・アップされた紅枝垂れ桜と、それを鏡のように映す湖面、ぜひ見てみたいものです。売店で「SIZUYA」のメンチカツサンドを購入して新幹線に乗り込み、帰郷の途につきました。
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 余談ですが、車内通路ですれちがう人のために脇へどいてもお礼の言葉はなし、キャリーバッグで私の足を轢いても謝罪の言葉はなし、やれやれ「徳」はどこへ行ったのでしょう。

 というわけで2015年版京都観桜編、一巻の終わりです。冬来たりなば春遠からじ、間もなく桜の便りも届くことと思います。京都花見の一助になれば、幸甚です。なお「京都の有名桜スポット」というサイトがあること、今回行けなかった穴場として十輪寺・勝持寺・正法寺・実相院があることをお伝えして筆を置きます。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-03-20 06:36 | 京都 | Comments(0)

京都観桜編(33):岡崎疎水(15.3)

 それでは次の訪問先、妙傳寺へと向かいましょう。途中に蛙のガードレール・アニマルがあったので撮影。岡崎疎水の桜も、たわわに花をつけた枝が水面へと垂れ下がり、見事な景観でした。
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 なおこのあたりに、八角の塔を戴く印象的な「有鄰館」というビルがありました。とりあえず写真におさめ、今インターネットで調べてみると、公式サイトに格調高い紹介文がありましたので引用します。
 京都・東山連峰にほど近く清らかな疎水に面し、乾隆年製の黄釉瓦36,000をのせ、中国古材の朱塗りの八角堂をいただく有鄰館は、大正15年(1926年)に、滋賀県五個荘出身の藤井善助翁によって設立されました。翁は近江商人の血をひき17歳で上海の後の東亞同文書院大学に学び、33歳では数十社の経営に当り、満34歳で衆議院議員となり、この時出会った犬養毅翁の薫陶が中国文化への認識を深めさせ、古印などの収集をはじめることとなりました。有鄰館という名前は、「徳は孤ならず必ず鄰有り」と中国との善隣と友好を願って「論語」より名付けられました。
 「美術は一国文明の象徴にして文化の尺度たり。古来、東洋文物の世界に貢献するところ極めて深く、わが国文化の開発は、往昔中国に負うところ更に深し。しかるに近時、東洋文化の誇りとすべき宝器名品海外に流出し、欧米に去るを防がんと欲し、自ら微力を顧みずこれを蒐集す。しかるに美術の人心に及ぼす影響大なるを考え、蒐集家の深蔵を改め、公衆に公開して人心を美化し、美術の学術研究に資する。」という設立者の精神は今日まで脈々と流れ、大正15年以来の定日一般公開をつづけています。
 殷代より清代に至る約4000年間に生み出された芸術性の高い中国文化の結晶である、青銅器、仏像彫刻、陶磁器、磚石、印璽、書蹟、絵画などは、私達との血のつながりを肌で感じさせます。 又、文字の発達、変遷を甲骨文や青銅器の銘文にはじまり、多くの資料を通じて学ぶことが出来るのも有鄰館の特徴であります。「精神的に豊かな社会づくり」はビジョンであり、人間性の維持と復活という永遠のテーマに対し、鑑賞者が何らかのヒントを見出していただけると共に、やすらぎのひとときを与えられる美術館でありたいと念じています。
 "徳は孤ならず必ず鄰有り"、ほんとうにいい言葉ですね。大好きです。わが日本に、アジアにおける仲の良い隣人がいないのは、「徳」がないからだと言えそうです。特に中国との善隣と友好は、東アジアの、ひいては世界の平和にとって欠かせない条件だと思うのですが、昨今の中国脅威論には辟易しています。もちろん、中国政府も、日本政府と同じくらい様々な問題点があることは重々承知しておりますが、それにしても度が過ぎています。これに関して、最近読んだ鳩山友紀夫氏・白井聡氏・木村朗氏の鼎談『誰がこの国を動かしているのか』(詩想社新書12)の中で、白井聡氏が鋭い分析をされています。
 そして、結局、TPPとはアメリカのために貢ぐということではないかと批判され、ついには、実はそのとおりだ、しかしいま中国をアメリカに抑えてもらうには、このくらい貢ぐのも仕方のないことなのだ、という理屈でTPPを推進しようとしています。
 あらゆるイシューをめぐって、とにかく中国脅威論で押し通そうという傾向がいま出てきている。永続敗戦レジームで続けてきた政治体制からすると、確かに対中脅威論にすがるしかないのです。つまり対米従属している合理的な理由が、冷戦崩壊後存在しないわけですから。
 こうして自民党というもののアイデンティティが問われている。自民党には昔はいろいろな考え方の政治家がいましたが、とにかくソ連だけはいかんということで固まっていたわけです。ソ連の共産主義はけしからん、あれにやられたら駄目だということで団結していた。ですから実はソ連崩壊で、自民党も内的原理を失ったということになるのです。ある種、自民党自身もアイデンティティを探す旅に出て、そして安倍さんあたりになって、それを発見したのでしょう。つまり、かつてソ連が果たしていた役割を中国に果たしてもらえばいい、とにかく中国だけはいかんということでまとまっていけば、国民をまとめることもできるのではないかということです。そこにもはや合理性がないわけですから、対中脅威論をあおりにあおるしかないわけです。(p.201~2)
 こうした低劣な扇動に乗らず、"わが国文化の開発は、往昔中国に負うところ更に深し"という歴史的事実に思いを馳せて、これからのより良き日中関係を考えるためにも、一度訪れてみたい博物館です。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2018-03-19 06:28 | 京都 | Comments(0)