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京都錦秋編(30):妙心寺退蔵院(14.11)

 方丈の隣りにあるのが「元信の庭」、室町時代の絵師・狩野元信の手による枯山水庭園です。元信が画家としてもっとも円熟した70歳頃の築庭と推測され、自分の描いた絵をもう一度立体的に表現しなおしたもので、しかも彼の最後の作品だそうです。『一度は行ってみたい京都「絶景庭園」』(烏賀谷百合 光文社知恵の森文庫)によると、中根金作はこう評しています。
 …その雄渾なるうちに優雅豊麗さのある手法で石組し、作庭された構成の見事さには驚くべきものがある。そしてそれはあくまでも絵画的である。庭全体の構成や石組の一つ一つにも、画家でなくしてはなし得ない感覚がみられ、この庭の作庭者がただ者でないことを容易にうなずかしめるのである。(p.232)
 それでは余香苑へと向かいましょう。途中にあった瓦には、瓢箪と鯰が刻まれていました。
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 「陰陽の庭」を過ぎると、眼前に紅枝垂れ桜が現れました。平安神宮にある紅枝垂れ桜の孫桜で樹齢約50年。2013年春の「そうだ、京都いこう」キャンペーンに使用されたそうです。これはぜひ満開の頃に見てみたいものです。
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 楓の数はそれほど多くはないのですが、見事に色づいた紅葉をいくつか見られたのは僥倖でした。これは経験則なのですが、便所の近くの楓が特に綺麗なようです。"桜の樹の下には屍体が埋まっている"と書いたのは梶井基次郎ですが、"モミジの樹の下には…" 尾籠な話で御免なさい。お茶席「大休庵」の窓も瓢箪でした。
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 そして余香苑(よこうえん)へ。小さな塔頭かと思いきや、これほど宏大なお庭が広がっていることに驚かされます。サツキの大刈り込みの間から三段落の滝が、大きな池へと流れ落ちてきます。石組、石橋、灯籠、東屋などがバランスよく配置され、まるで一幅の絵を見るよう。観光客も少ないので、閑寂とした雰囲気の中で堪能することができました。視線の快楽… 心がどんどん広がって石や木々や水と一体になっていくような見事なお庭です。最上部に先ほどの紅枝垂れ桜が見えますが、満開の頃は絶景でしょうね。
 作庭したのは"昭和の小堀遠州"こと中根金作(1917~95)。静岡県磐田郡に生まれ、浜松工業学校図案科を卒業後、日本形染株式会社に入社。捺染図案の作成を行ないますが、二年後に退社し、現在の東京農業大学造園学科に入学しました。その後京都に移り、文化財保護課で働いた後、1966年に中根庭園研究所を開設し、作庭と庭園研究に専念します。代表作は、足立美術館、昭南宮などです。これからも追いかけ続けていきたい庭師です。
 なおこのお庭は、米国の庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」(JOJG)が発表する2015年の「日本庭園ランキング」の第31位に選定されています。"So what"と(以下略)

 本日の五枚、一番上が「元信の庭」、真ん中三枚が余香苑、一番下が「陰陽の庭」です。
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by sabasaba13 | 2016-10-15 06:29 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(29):妙心寺退蔵院(14.11)

 そして退蔵院へ。以前に訪れた時にマイケル・ムーア監督に出会えたお寺さんです。お目当ては、"昭和の小堀遠州"中根金作作庭の傑作、「余香苑」です。まずは方丈の縁側に置いてある如拙作の「瓢鮎図」のレプリカを表敬訪問。
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 このお寺さんのシンボルですね。瓢箪で鯰をつかまえようとする男を描いた摩訶不思議な絵、どういう意味があるのかいろいろな説がありますが、『瓢鮎図 ひょうたんなまずのイコノロジー』(平凡社)で述べられていた島尾新氏の所説を紹介しておきましょう。
 しかし、私たちが分析するような「構造」によって、絵を作った人々の営為を理解できたと思うのは早計である。目の前にあるのは「出来上がった」ものにすぎない。「瓢鮎図」の作られた場で、どんな会話がなされたのか知るよしもない。ひとつ想像を逞しくしてみよう。

 「このあいだ、上様(※足利義持)と話をしていたら、瓢箪で鯰を捕まえる、ということを言ったやつがいて、それを新邸の屏風に、という話になった」「ひょうたんでなまずおさえる? 誰が考えたんだ、そんなこと」「でも面白いじゃないか」「そんな諺があったような気もする」「しかし、何といっても将軍の屋敷の屏風だ。そう妙竹林なものも出来ないだろう」「上様は、なにか新しいものをお作りになりたいようだ」「新しいお屋敷だからな」「先代の義満公のときには無かったようなもの?」「どんな風に描けばよいのでしょう」「とにかく上様のお屋敷に置くのだから、立派なものじゃなきゃいけないな」「ひょうたんなまずを?」「大丈夫。清涼殿にも『手長足長』なんていう妙なものがある。これだって、もともとは『山海経』だ。中国の古典だよ。それに対抗して、ちがったのを作ればいいじゃないか」「しかし公家風はまずい」「もちろん唐絵だよ」「義満公の集められた中国絵画があるな」「瓢箪で鯰は捕らえられるものでしょうか?」「そんなことできるわけがない。だからこそ面白いんだ」「瓢箪を持って鯰と格闘するところでも描けばよいのでしょうか?」「それでは何の趣もない」「鯰が竹に上るっていうはあったよな」「そうだ、竹を入れよう」「鯰はこの大地を支えているって話もある。ついでだから男は鯰の上に乗せてしまえ」「瓢箪が手につかないっていうのはどうだ」… (p.104~6)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-10-13 06:23 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(28):妙心寺大法院(14.11)

 それでは本日最後の訪問先、妙心寺へ参りましょう。ふたたび地下鉄東西線に乗り、太秦天神川駅へ、ここで嵐電天神川駅から京福電車に乗り換え、帷子ノ辻駅で嵐電北野線に乗り換えて妙心寺駅に到着です。駅構内に「特別公開 木島櫻谷旧邸」というポスターが掲示してありました。このしまおうこく? 不学にして知りませんでしたが、どのような方なのでしょう。いまインターネットで調べてみました。木島櫻谷(1877~1938)は京都で活躍をした円山四条派の日本画家です。大正元年頃、室町御池から衣笠等持院の地に転居、それを契機に、土田麦僊、村上華岳、堂本印象ら京都画壇の画家たちが衣笠周辺の地に移り住むようになりました。その時に建てられた母屋(和館)と収蔵庫および展示室(洋館)、それにアトリエ(画室)が登録有形文化財に指定されているそうです。はい、勉強になりました。今度、訪問してみたいと思います。
 妙心寺北門に向かう途中に、入口脇の電気メーターボックスに福助が鎮座している「ワンダアカフェ」というけったいなお店がありました。色物系なのでしょうか、おそらく店内にはレトロなグッズが充満しているのでしょうが、味の方はいかがなのでしょう。
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 そして妙心寺に着きました。口さがない京雀は「建仁寺の学問面、大徳寺の茶面、妙心寺の算盤面」と言ったそうですが、拝観料が高いのかな、少し心配です。たくさんの塔頭があるのですが、公開されているのはその一部です。天球院も非公開ですが、門からは見事に色付いた楓の古木が見えました。眼福、眼福。同じく非公開の大通院にも真っ赤な紅葉がありました。
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 今回のお目当ては、特別公開されている大法院です。以前に訪れたことがあり、きれいなお庭がありながらも観光客が少なく、心静かに鑑賞できた記憶があります。ぜひ山ノ神にも見せてあげたいと思って寄ったのですが…けっこう参拝客がつめかけています。インターネットで情報が拡散したのでしょうか。抹茶をいただいたのですが、庭を眺められる場所はすべて人でうまっていました。
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 それでも、草木が生い茂る侘びた雰囲気、美しい紅葉、よいアクセントとして景観をひきしめる茅葺の待合、蔀戸、石灯籠、蹲踞、飛石、延段など、素敵な景観に山ノ神も喜んでくれました。よかった。♪When you're smilin' When you're smilin' The whole world smiles with you♪ レスター・ヤングのそれはそれは素晴らしいソロが脳裡を流れました。客殿をとりかこむこのお庭は、茶室「有隣軒」の露地庭となっています。"有隣"とは、『論語』の「徳不孤 必有隣」に拠るという解説がありました。「徳は孤ならず、必ず隣有り」か、いいお言葉ですね。最近読んだ『論語』(ちくま文庫)の中で、桑原武夫氏はこう述べられています。
 「徳」とは、道徳であり、また同時に道徳を信じ行なう人の意味を不可分にもつものと考えられる。道徳とは特定の社会の風習をふまえて、その法則的理念化として生れるものである。したがって道徳が個人的特殊性の中に限界づけられるということは、矛盾であり、ありえないはずである。しかし、現実社会では道徳は個人を媒介にしてしか発現されることはなく、そのさい個人のもつ内外の諸条件によって、変容を生じることもまた明らかである。
 孔子は乱れた世の中で道徳の理想を貫くことは、一見孤立無援のたたかいのようだが、もともと普遍的なものである道徳には必ず同行者、理解者つまり友があるという確信を表明したのである。儒教に独特な健康なオプチミズムがここにはっきりあらわれている。「隣」という具体的な人間関係を示す言葉が用いられていることも、この章を力強くしている。(p.88~9)
 これは個人の人間関係だけではなく、国際関係にも敷衍できる言葉だと思います。不徳な外交を続けると、孤立し近隣に友邦がいなくなることを身に沁みて感じているだけに、よけい心に響きます。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2016-10-12 08:08 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(27):二条城(14.11)

 なお江戸初期における、徳川氏と天皇の間で行われた丁々発止の駆け引きは面白いものです。1615年に「禁中並公家諸法度」を公布して朝廷への統制を強化した家康。さらに1620年には、秀忠の娘・和子を後水尾天皇に入内させ天皇との融和を図ります。天皇の屈辱感と反発が想像できますね。1616年に家康が死ぬと、1626年に懐柔策として後水尾天皇の二条城行幸を挙行、秀忠と家光は上洛して天皇を迎えます。その際に、幕府の威信をかけて御殿を新築し、庭を改修。それを担当したのが小堀遠州でした。しかし翌年の1627年、後水尾天皇は、幕府の許可なく高僧に"紫の僧衣"を与えてしまいます。家光は、紫衣を取り上げ、抗議した沢庵らを処罰します。これが紫衣事件。幕府に反発していた後水尾天皇はこれで怒髪天を衝き、幕府の制止も聞かずに、和子が産んだ明正天皇に譲位してしまいました。859年ぶりの女帝ですね。天皇に対する統制の難しさを痛感した幕府は以後、強引な統制をやめソフトな融和策をとることになります。例えば、修学院離宮造営に対する援助もその一環です。その結果、可哀相に東福門院和子は朝廷内において孤立を余儀なくされ、やがて"衣装狂い"にのめりこんでいきました。半年間に、約一億五千万円相当の着物を購入したというのですから、これはもう狂気に犯されていたのかもしれません。そしてその注文先が「雁金屋」、そう、尾形光琳の生家です。彼女が亡くなったのは1678年、その時光琳は二十歳です。薄幸の狂気が、一人の天才芸術家を育んだ…などと想像するのも歴史を知る喜びの一つです。
 流刑にされた沢庵が居住した春雨庵、後水尾天皇の山荘(幡枝御殿)跡である円通寺修学院離宮侵入顛末記などの記事もありますので、よろしければご笑覧ください。

 そして内堀を渡って本丸へ。天守閣跡にのぼると、真っ黄色に染まった公孫樹が見えました。紅葉の盛りは終わったようですね。
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 本丸御殿を撮影してふたたび内堀を渡り、清流園へと向かいます。内堀のほとりでは鴨たちが仲良く並んで日向ぼっこをしていました。
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 途中に「加茂七石」と記されて、畚下(ふごおろしいし)石・紫貴船石・紅加茂石・糸掛石・畑石・鞍馬石・八瀬真黒石という七つの石が置いてありました。これは鴨川で産し、庭石・水石として用いられてきた銘石のことですね。
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 そして清流園に到着。この庭園は河原町二条にあった旧角倉了以の屋敷の一部、庭石、庭木等を無償で譲りうけ、さらに全国から集めた銘石を用い、1965(昭和40)年に完成しました。東半分が芝生を敷き詰めた洋風庭園、西半分は和楽庵・香雲亭という二棟の茶室を含めた池泉回遊式山水園からなる和洋折衷庭園です。小ぶりですが、バランスのとれたなかなか良い庭園です。なおこのお庭は、米国の庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」(JOJG)が発表する2015年の「日本庭園ランキング」の第40位に選定されています。"So what"と(以下略)

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-10-10 07:09 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(26):二条城(14.11)

 七条駅から京阪電車に乗って三条京阪駅へ、地下鉄東西線に乗り換えて二条城前駅で下車、すぐ目の前が二条城です。東大手門、唐門、二の丸御殿など見所はたくさんありますが、本日は時間の関係で二の丸庭園のみを拝見しました。
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 まずは解説板を転記します。
 池を中心とした書院造庭園であり、池には三つの島を築き、四つの橋を架け、西北隅に滝を落とし、池の汀に多くの岩石を配した景観は、変化に富んで秀麗であり、豪壮な趣がある。
 庭園は、大広間の西、黒書院の南に位置し、主として大広間からの鑑賞を想定して造られているが、寛永三年の後水尾天皇行幸の際、行幸御殿が庭園の南側に建造されたことから、南方からの鑑賞も配慮して、庭園南部の石組に変更を加えた形跡が見られる。
 作庭年代については、記録や作風から推察して、1603年(慶長8年)の二条城築城の際にその建築に調和させて造営されたもので、後水尾天皇の行幸の際に、数多くの名園を手がけた小堀遠洲によって一部改修が加えられ、今日に至ったものと考えられる。
 桃山末期から江戸初期に大成された書院造りの大建築に伴う庭園の特徴をよく示しており、現存する歴史的庭園の中でも最も優れた作品の一つに数えられている。
 広大な池に浮かぶ蓬莱島・鶴島・亀島、そして青石を主とした豪壮な石組が随所に配されています。なおこの青石は、結晶片岩という石で、紀伊半島や四国で多く産出する石だそうです。雨が降って濡れると一段と鮮やかな色合いになるため、多くの庭園で使われていますが、ここまでの数を据えているところはそうはないとのこと。徳川氏の権勢を目の当たりにするようです。そういえば先日訪れた桂離宮で、係の方が梅雨の時期が狙い目だと教えてくれました。来訪者が少ないことと、雨に濡れた石が美しいからとおっしゃっていましたっけ。また菰を巻かれた蘇鉄がありましたが、寛永年間当初には60本あまりのソテツが植えられていたそうです。そのほとんどは自生地の琉球か薩摩から運んで来たものと考えられますが、これは関ヶ原で西軍に属していた薩摩島津氏も徳川家の威に伏していることを示したのですね。
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 ちなみにこのお庭は、米国の庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」(JOJG)が発表する2015年の「日本庭園ランキング」の第15位に選定されています。"So what"と(以下略)

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2016-10-09 06:37 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(25):智積院・養源院(14.11)

 九条通りまで出てタクシーをつかまえ、智積院へ向かってもらいました。途中の今熊野商店街でわれわれが足繁くかよったパン屋「ゲベッケン」が営業しているのを視認して二人で喜んでいると、タクシーの運転手さん曰く「このあたりにお住まいだったのですか」。いえいえ、実はかつて近くにあった京都パークホテルが定宿でしたと説明。ハイアット・リージェンシーに変わってからは、宿泊料が高額なため宿泊しておらず、このあたりはとんと御無沙汰しています。良いホテルだったんですけどねえ、と溜息をつくと、しばしこの話題で盛り上がりました。運転手さんがおっしゃるには、ハイアットになってサービスに日本的なきめこまやかさがなくなったそうです。そして智積院に着きました。収蔵庫にある長谷川等伯一派によって描かれた襖絵、中でも等伯描く「楓図」と、彼の息子・久蔵描く「桜図」を見るために何度も訪れましたが、数年前にやたらと楓を植えたのでその成長を見るのも楽しみです。そこいらじゅうに闇雲に植えただけなのであまり風情はないのですが、それなりに色づいた紅葉を堪能することができました。
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 それではわれわれ御用達の養源院に参りましょう。ハイアット・リージェンシーを横目に京都パークホテルを偲び、片山東熊設計の京都国立博物館を撮影し、赤十字ビルを曲がるとそこが養源院です。
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 何度も訪れていますが、それなりに綺麗な紅葉と桜をロハで見ることができ、お金を払えば俵屋宗達の杉戸絵と伏見城の血天井も拝見でき、おまけにいつ行っても閑古鳥が大合唱をしているという稀有なるお寺さんです。あれ? 観光客がいる… 窒息するほどではありませんが、ちらほらと人影が見えます。テレビで取り上げられたのかなあ。2015年は琳派400年(本阿弥光悦が鷹峯に芸術村を開いたのが1615年)なので、ブレイクしそう。幸い紅葉の盛りも終わっておらず、参道を覆う楓の並木が真っ赤に染まっていました。
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 それでは小堀遠州のお庭を見に、二条城へ行きましょう。京阪電車の七条駅に向かって歩いていると「プリンセス・ライン」と記された真っ赤なバス停がありました。そしてやってきた真っ赤なバス。そうか、京都女子大学と京都駅を結ぶバスなのですね。あの…男性は乗れるのでしょうか?
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 「わらじや」もご健在、久しぶりに「うぞうすい」を食べたいなあ。
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 本日の四枚、上一枚が智積院、下三枚が養源院です。
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by sabasaba13 | 2016-10-04 06:39 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(24):光明院(14.11)

 日本三大門の一つかもしれない東福寺三門を撮影して、すぐ近くにある塔頭の光明院へ。
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 こちらにも重森三玲作庭の素晴らしいお庭、「波心庭」があります。こちらは以前に一度訪れたことがあるのですが、その時に門前で見かけた「多勢入山者は好みません。庭の自尊心も傷つけますので是非にと思われる方以外どうでも良いと思われます方は自問の上入山しないで下さい。尚皆様方を信じて居ります故諸作法をお守り下さいますようお願い申し上げます。右よろしく」という味な立て看板は撤去されていました。マナーが向上したということなのでしょうか。だとしたら御慶です。パンフレットの解説を転記します。
 明徳2(1391)年、金山明昶(きんざんみんしょう)の創建による東福寺の塔頭。別名「苔の虹寺」とも称され、とくに苔の美しい新緑や紅葉時には、ひそやかな禅寺も華やぎを増す。
 方丈の前に広がる池泉式の枯山水庭園は、昭和14年、東福寺庭園と同時期に設計されたもので、三玲の初期の名作。方丈庭園とはうってかわって、平安式の洲浜型の枯池に多数の石組みを配している。寺号にちなんで光明をテーマに作庭されており、大海を表す白砂に構成された三ヵ所の三尊石組から仏の光のごとく斜線状に立石が並ぶ。
 背後にはサツキやツツジの大刈り込みでダイナミックに雲紋をデザインし、その雲の上には茶亭「蘿月庵」が佇む。これは禅語の『雲ハ嶺上ニ生ズルコトナク、月ハ波心ニ落ツルコト有リ』によるもので、昭和32年(寄付きは昭和38年)建築の蘿月庵は窓、壁、障子を含めて月を象徴し、「波心の庭」と命名された庭から眺めれば、東の空に月が昇る姿を楽しみという仕掛けになっている。
 それでは拝見いたしましょう。うねるように地を覆うきれいな苔と白砂の枯池、その随所に屹立する数多の立石。まるで大地から湧き出で、喜びとともに輪舞しているようです。今回はまだ見頃の紅葉も多く、お庭に色を添えていました。丸い吉野窓を通しての眺めも、障子・鴨居・縁側でトリミングされた眺めも、申し分なし。至福のひと時を過ごすことができました。
 なお東福寺塔頭の霊雲院には、重森三玲が復元した庭がありますが、残念ながら非公開です。

 本日の九枚です。
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by sabasaba13 | 2016-10-03 08:31 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(23):東福寺本坊庭園(14.11)

 それでは拝見することにしましょう。庫裡から方丈へと進む渡り廊下を歩いていくと、右手に東庭が見えてきます。北斗七星をあらわす石の円柱、白川砂、苔、背後の二重生垣で構成された小さなお庭です。円柱は、山内にある東司(とんす:便所)で使用されていた礎石で、東司の解体修理をした際に、余材として出てきた廃材です。円柱形の石材を使うという手法は、すでに小川治兵衛(植治)によって行われています。彼は、三条大橋や五条大橋で使われていた橋脚を使って、龍の姿に見える沢飛石「臥龍橋」を平安神宮の神苑につくりました。三玲は「日本庭園史図鑑 全26巻」を執筆するに際して、神苑の詳細な実測調査をしているので、この手法は熟知していたことでしょう。七石の高さは、高・中・低のバランスを考えたリズミカルな構成となっています。背後の二重生垣も、大徳寺本坊庭園、孤篷庵方丈前庭などに用いられている手法が取り入れられ、古典的な庭園に学んでいることがわかります。波紋のように広がる砂紋も洒落ていますね。
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 そして南庭へ。ここでは日本庭園の定型的な表現方法である、蓬莱神仙思想を中心とした意匠となっています。神仙島を構成する、寝かせた長石と、鋭く屹立する立石のバランスが絶妙ですね。このような石の扱い方は、古庭園ではほとんど例がないとのこと。重森三玲の面目躍如です。一切石を使用していない築山は、京都五山を表現しています。ぽこぽこぽこぽこぽこと、苔に覆われた緑の築山がリズミカルに並ぶ造形の面白さ。斬新です。この築山の部分は、斜線上に苔と白川砂の仕切りが設けられています。こうした直線を使ったシャープな意匠は、小堀遠州の表現方法からヒントを得ているそうです。この仕切りに呼応するような、直線と同心円の砂紋もモダンな意匠で素晴らしいですね。
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 西庭の大市松模様「井田の庭」は、日本古来から伝えられてきた伝統的な市松模様を、サツキの刈込と葛(かずら)石の使用によって表現してあります。葛石とは、社寺・宮殿などの基壇の上端の縁にある、縁石(へりいし)を兼ねる長方形の石のことです。この本坊内に使われていた、廃材である長方形の葛石を再使用してできあがった意匠です。こうした長方形の石は通常の作庭では使われませんが、それでも廃材利用という東福寺からの要求にそって使用しなくてはならなかったことから考え抜いた末に辿り着いた答えが「市松」だったのですね。市松は、桂離宮内の松琴亭の襖や床に、また修学院離宮の茶席の腰張りに使用されるなど、日本の伝統的な紋様です。また東福寺山内においても、先ほど見た開山堂の市松の砂紋を三玲は昭和13年2月に実測してその美にも引かれていたことが、彼の記述したものに残されているそうです。また南西の角には、自然石による三尊石組がありますが、これは東庭の北斗七星による七石、南庭の京都五山の五つの山と組み合わせると「七五三」になっているのですね。なお「井田(せいでん)」とは、井の字に等分した古代中国の田制にちなんでいます。
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 北庭へ行く途中には「通天台」とう舞台が設けられ、通天橋と洗玉澗を一望することができました。
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 そして最後の北庭です。廃材の切石を再利用した市松模様と、それをうずめるような緑の苔の対比が美しいですね。しかも西庭の大きな市松から、小さい市松へと変化し、しかも徐々に崩れてまばらとなり、最後は消えてしまうというドラマチックな構成となっています。このお庭を見たイサム・ノグチが「モンドリアン風の新しい角度の庭」と評したのも頷けます。
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 というわけで、何度見ても素晴らしいお庭です。また再訪しそうな♪恋の予感♪

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2016-10-01 06:34 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(22):東福寺本坊庭園(14.11)

 それでは東福寺本坊庭園に寄りましょう。実は以前に訪れたことはあるのですが、重森三玲の傑作庭園、何度でも見たくなります。ちなみに前回来訪したのは春、今回は秋の風情を楽しみたいと思います。余談ですが、京都で乗ったタクシーの運転手さんにこう言われたことがありました。「京都の寺の庭は、春夏秋冬、四回見て始めて見たといえるんや」 うーん、深いなあ。というわけで、私が独自に蒐集した"京都タクシー運ちゃん名言集"です。「寒いから京都に行かないなんて、美を見る心がないやつや。雪なんて降ったらそれこそラッキーやで」 「お寺はんに休みなどあらへん。来る者はこばまずや」 「かんにんしてえな・どついたろか・なにしとんねん(筆者注:西山の狭い山道で前をとろとろ走る車に浴びせた罵詈)」 「山科はええけど、つぶしがきかんからなあ」 「高台寺に行くんやったら、腹くくらなあかん(筆者注:紅葉ライトアップを見に行くと言ったら)」 「秋の京都は紅葉やなくて、人を見にくるもんや」 「拝観料やのうて入場料や。誰も仏はん拝んどらん」 「(筆者注:京都御所に行ったと言ったら)天ちゃんも喜んではるやろ」 「ええ遊びをするにはがんばらなあきまへん」 だから京都のタクシーは大好きです。
 閑話休題。このお庭は、以前は"東福寺方丈「八相の庭」"という名称でしたが、2014年に国指定名勝に登録され、改めて「東福寺本坊庭園」と改称されたそうです。その由来について、同寺ホームページから小生の文責で要約して紹介しましょう。
 東福寺本坊庭園は、作庭家・重森三玲(1896-1975)によって1939(昭和14)年に完成されたものです。昭和11年~13年末までの三年間の日本全国古庭園実測調査を終え、日本庭園史図鑑全26巻を発刊した直後の作品で、従来の日本庭園の意匠形態にはない、独自の新しい発想のもとに作庭された庭園です。その意匠が画期的な形態となった大きな要因が、当時の執事長であった爾以三師から唯一提示された「本坊内にあった材料は、すべて廃棄することなく、もう一度再利用する」という条件でした。これは禅の教えである「一切の無駄をしてはならない」から提示されたことで、これによって三玲の設計は、かなり厳しい制約が課せられました。しかしこの制約された条件の中で、美を最大限に追求した結果が、この斬新な庭園として結実したのですね。方丈を中心とした東西南北の四方に、それぞれの表現が異なる庭園がつくられています。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-09-30 06:28 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(21):龍吟庵(14.11)

 そして今回のお目当て、塔頭の龍吟庵へと向かいます。普段は非公開ですが、秋の特別公開で見学することができます。国宝に指定されている日本最古の方丈があるのですが(撮影禁止)、やはり重森三玲作庭のお庭をぜひ拝見したい。なお方丈とは、禅宗寺院における僧侶の住居であり、後には相見(応接)の間の役割が強くなりました。それではお庭についての解説板を転記します。
 昭和39年、国宝龍吟庵方丈の解体修理が完了したが、四周に庭園がなかったため、昭和の名作庭家の重森三玲に委嘱して12月2日から27日にかけて作庭された。
 南庭は古式により白砂だけの庭とし、「龍吟庭」と名付けられた西側の庭は白砂の大海と白モルタルの縁取りによって黒雲をあらわし、各所に配された石によって雲間から頭と胴をくねらせて飛翔する龍を表現している。庭を区切る竹垣は雷紋と稲妻紋をあらわす。
 東側の赤砂の石庭は開祖無関普門の幼少時代を表現したもの。我が国最古の方丈建築に、伝統を踏まえながらも自由な発想によって大胆に表現された作庭といえよう。
 まずは方丈正面の南庭へ、こちらは一木一草も用いず白砂のみの「無の庭」です。かつて儀礼に使われていたことを意識したとのことです。稲妻紋の竹垣がアクセントとなっています。
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 一転して西庭は「龍の庭」、のたうちまわる龍の頭・角・背を石で、海と雲を白黒の砂で表現した躍動感にあふれた庭です。特に、食い違うように斜めに置かれた鋭い立石が、心に残ります。白砂(雲)と黒砂(海)の砂紋を区切る地割をモルタルでつくるところは、三玲の面目躍如ですね。こちらの竹垣も稲妻紋。塀の向こうに覆いかぶさる紅葉がみごとに色づいていました。
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 そして最後が小さめの東庭、「不離の庭」です。幼い頃に熱病におかされて荒野に捨てられた開祖・無関普門、そこに襲いかかった狼から二匹の犬が彼を守ったという逸話をもとに作庭されたそうです。中央の平たい石が無関普門、その両脇にある二つの石が犬、残り六つの石が狼を表わし、奥には山型の竹垣がありました。緊張感にあふれた身の引き締まるようなお庭です。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2016-09-25 06:48 | 京都 | Comments(0)