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京都観桜編(22):円山公園・知恩院(15.3)

 長楽館を通り過ぎて円山公園へ、さすがは花見の名所、たくさんの人々がつめかけていました。
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 人口に膾炙する有名な枝垂れ桜はほぼ満開ですが、心なしか勢いがないように見えます。もうご老齢なのでしょうか。なお以前に拙ブログで紹介したように、円山公園小川治兵衛によって作庭された素晴らしいお庭です。
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 平野屋の前を通り過ぎて公園の外へ出ると、「師弟愛の像」があります。
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 そして知恩院友禅苑へ、こちらには一発芸の枝垂れ桜があります。
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 江戸時代初期に小堀遠州と縁のある僧玉淵によって作庭されたと伝えられる知恩院方丈庭園は未踏の庭、もしや良き桜に出会えるかなと期待して入ってみました。すると入口のところに、自由奔放・天衣無縫に枝をはりめぐらす、見事な桜の古木がありました。三門と桜を撮影して、ふたたび円山公園へ。
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 花見の場所取りが熾烈をきわめているようですが、「ブルーシート使用禁止 (円山公園内全面) お花見等には、無料お使いいただけるゴザを下記の場所においていますのでご利用下さい」という看板がありました。なるほど、ブルーシートは一枚もなく、すべてゴザで場所をとってありました。景観への配慮なのでしょうか。
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 出店をひやかし、八坂神社の境内を抜けて祇園へ。神社前の三叉路に面した「ローソン」の看板は白一色、これも景観への配慮なのでしょうか。
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 本日の六枚、上から円山公園(2枚)、友禅苑、知恩院(3枚)です。
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by sabasaba13 | 2018-03-01 06:30 | 京都 | Comments(0)

京都観桜編(21):高台寺(15.3)

 そして観光客の雑踏で混みあう二年坂から三年坂へ、満開の枝垂れ桜を坂から見下ろす一枚を撮れました。
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 八坂の塔を遠望し、霊山観音を撮影して、高台寺へ。
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 方丈の前に広がる「波心庭」では、枝垂れ桜が見事な紅色の花を咲かせています、眼福眼福。なお朱印をもらうために長い行列ができていましたが、若者が多いのにはすこし驚きですね。怪力乱神や儀式を好む若者が増えているとしたら、少し気がかりです。彼ら/彼女らには自由を愛するリアリストでいてほしいのですが。
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 なおこのあたりから、甍の波を睥睨するように聳える、山鉾のような異形の建物が見えます。以前から気になっていたのですが、今調べてみたら「祇園閣」という建築でした。大雲院という寺の中に建ち、もともとは大倉喜八郎の別邸の一部で、「祇園祭の鉾を一年中見られるように」という彼の願いが込められて建てられたそうです。設計は伊東忠太、築地本願寺や東京都慰霊堂(震災記念堂)も彼の作品ですね。屋根は銅板葺きですが、これは大倉喜八郎が金閣、銀閣に次ぐ銅閣として作ったためなのだとか。ほんとかな。最上部からの眺望は絶景だそうです。ときどき特別公開されるそうなので、ぜひ上ってみたいですね。
 近くの月真院には、「御陵衛士屯所跡」という解説板がありました。
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 後学のために転記します。
 ここ高台寺月真院は、慶応三年(1867)六月から十一月にかけて、熱烈な勤王主義者であり、孝明天皇の御陵衛士と称した伊東甲子太郎ら十五名が屯所として寺院である。彼らはこの寺院を本拠として活動していたため「高台寺党」とも呼ばれている。
 伊東は常陸(茨城県)の出身で学問優秀、剣は北辰一刀流の名手であった。元治元年(1864)江戸から京に移り、新撰組に入隊し参謀となったが、やがて近藤勇や土方歳三らと意見を異にし、遂に慶応三年三月、新撰組と袂を分かち、同志十四名を連れて御陵衛士に任名(ママ)され、ここを屯所とした。この中には江戸の試衛館時代からの隊士、藤堂平助の姿もあった。それ以降、薩摩藩の援助をうけ、雄藩(勢力の強い藩)をまわってさかんに勤王を説いた。
 慶応三年十一月十八日、伊東は近藤勇から酒席の接待を受けた帰り、油小路木津屋橋で待ち伏せをしていた新撰組に謀殺され、さらに伊東の遺体を引き取りに来た多くの同志も、新撰組隊士によって斬られ、御陵衛士隊の活動は終止符を打った。
 寡聞にしてはじめて知りました。薩摩藩と関係をもったことを新撰組に睨まれたのかな。旅をするといろいろ勉強になりますね。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2018-02-28 06:28 | 京都 | Comments(0)

京都観桜編(20):城南宮・清水寺(15.3)

 JR嵯峨嵐山駅から嵯峨野線に乗って京都駅へ。八条口から「らくなんエクスプレス」に乗って、城南宮に行こうと思うのですが、バス停が見つかりません。案内表示もないし、係員もいません。駅構内の観光案内所に行き、100円払ってインターネットで調べてやっとわかりました。やれやれ。バス停留所にはスーツ姿の若い女性とその保護者らしき女性がたくさんいましたが、どうやら京都女子大の入学式のようです。私は、大学の入学式にも卒業式にも出た記憶がないのですが、儀式が好きな若者が増えているのでしょうか。男子大学生らしき方々が何やら勧誘をしているようでしたが、兄弟/姉妹大学の学生さんかな。
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 女性ドライバーが運転するバスに乗って城南宮へ。
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 都の守護と国の安泰を願って、平安遷都の際に京都の南に創建された神社ですが、お目当ては昭和の小堀遠州と讃えられる中根金作の手によるお庭です。島根県の足立美術館庭園も彼による作庭ですね。桜が満開には程遠かったのが残念ですが、風情あるお庭を楽しむことができました。春の草木が花開く「春の山」、寝殿造りの庭をモデルにし、遣水が流れる「平安の庭」、室町時代の様式でつくられた池泉回遊式庭園の「室町の庭」、枯山水様式の「桃山の庭」、平安時代後期の様子を表す枯山水の「城南離宮の庭」と、それぞれ趣きの違う五つのお庭が連続しています。桜が満開のころに、再訪を期したいですね。
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 バスで京都駅に戻って、烏丸口から再びバスに乗って、私御用達の養源院へ。桜の古木があるのですが、残念ながら一分咲きでした。
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 ここから歩いて清水寺へ参りましょう。ハイアット・リージェンシーと京都国立博物館の桜を撮影してテクテク歩き、大谷本廟へ。あまり桜はありませんでしたが、満開の木が一本ありました。
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 茶碗坂をのぼっていきますが、覚悟の上とはいえ、やはり大変な混雑です。恐るべし、清水寺。全体的に見ごろにはまだ早かったですが、満開に咲き誇る桜もあって楽しむことができました。清水の舞台を望む景観は、何度見ても素晴らしい。たしか何年か前に大雨で斜面が大きく崩れたと聞きましたが、そこに桜を植樹するあたりは、"受領は倒るる所に土を掴め"(『今昔物語集』巻28)的な不屈の清水魂を感じます。なお人柄の良さがにじみでるのか、スマートフォンによる撮影を三回も頼まれました。しかし私はスマホを扱ったことがないので、変なボタンにさわってすべて失敗。申しわけない。なおすべて中国か台湾の方のようでした。
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 本日の三枚、上から城南宮室町の庭、清水寺(2枚)です。
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by sabasaba13 | 2018-02-27 06:28 | 京都 | Comments(0)

京都観桜編(19):嵐山公園(15.3)

 本日は雨模様、自転車ではなく公共輸送機関と徒歩で桜めぐりをしましょう。草津駅に歩いていくと途中で、滋賀県特産の「飛び出し小僧」と、マンションのわきに満開の桜がありました。
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 琵琶湖線に乗って京都駅へ、嵯峨野線に乗り換えて嵯峨嵐山駅に到着。嵐山公園にも桜がたくさんあるという情報を得たので寄ってみましょう。渡月橋を渡って嵐山公園に行くと、なるほど満開の桜が数多ありました。しかし残念ながら、雨天のためいまひとつ気分もさえません。いや残念ではないな、小雨にけぶる嵐山と遠景の桜もなかなか風情があります、と引かれ者の小唄。
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 「絶景 大悲閣千光寺 GREAT VIEW →1km」という看板がありましたが、この雨だしなあ、1km歩くのは大変だなあ、と蒲柳の質の私は挫けました。渡月橋のたもとでは人力車夫の方々がそぼ降る雨の中、客待ちをしておられました。幸多かれと祈ります。
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 京福電気鉄道の嵐山駅で観光パフレットをもらって、ふと駅のホームを見ると、パトカー仕様の嵐電が停まっていました。ま、別にコメントはしませんけれど。駅構内にあった嵐電のマスコット・キャラクター「あらんくん」を撮影。なお京福電鉄(嵐電)のサイトによると、2009年に嵐電は江ノ電と姉妹提携を結び、翌年にそのイメージキャラクターのデザインとして誕生したそうです。ちなみに江ノ電のキャラクターは「えのん」。ま、だからどうした(So what)と言われれば、そういうものだ(So it goes on)としか答えられませんが。
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 それではJR嵯峨嵐山駅へと向かいましょう。途中に「廣瀬コーヒー」という喫茶店があったので、モーニングサービスをいただくことにしました。地元資本の喫茶店で、地元民のお喋りを聞きながら、トーストと珈琲をいただき、これからの旅程に思いを馳せる。私にとっての小確幸(小さいけれど確固たる幸せ)です。店には、暇そうな初老の方々が数人、楽しそうに雑談をされていました。「今年の桜はきたない」「ねてへん」「黄砂のせいや」「いやいや持てば半紙も重い。すすんで持てば重荷も軽い」「ほい、モーニング饅頭おすそわけ」、いやあ耳がダンボになってしまうような面白い会話でした。トイレに"他人と過去は変わらない 自分と未来は変へられる""あなたはキット幸わせになります。あなたには「禍いを転じて福となす」知恵があるから"という色紙があるのもチャーム・ポイント。ちょっとお薦めの喫茶店です。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2018-02-26 06:30 | 京都 | Comments(0)

京都観桜編(18):ホテルにて(15.3)

 それはさておき、アメリカで証拠となる文書が開示され、当事者も証言しているのに、いまだに密約の存在を否定する、つまり嘘をつき続ける外務省、そして日本政府とはいったい何様なのでしょう。欧米だったら、政治犯罪として責任を問われて罷免されるでしょうに。結局、こうした問題についてまともに追及と批判をしない大手メディア、そして選挙でこうした政府に免罪符を与えつづけている日本国民の責任だと思います。このニュース番組でも、わざわざ密約を「」に入れているところがメディアの立ち位置をよく物語っています。政府の立場を忖度しているのでしょう。やれやれ。
 また、この米日の密約に関して、矢部宏治氏が鋭い指摘をされているので紹介します。『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること』(前泊博盛監修 書籍情報社)からの引用です。
 そして重要なのが、(※日米合同委員会で)議事録と合意文書は作成されるが、それらは原則として公表されないということ。少し大げさにいえば、日本のエリート官僚と米軍の高官たちが、必ず月2回会って、密約を結んでいるということです。
 この合意文書の法的な位置づけをチャートにすると、次のようになります。

 日本国憲法→日米安保条約→日米地位協定→日米合同委員会・合意文書(密約)

 つまり上位の取り決めに入れるとマズいものを、どんどん下位に送って密約にしているわけです。まず憲法で戦争および戦力の放棄をうたいながら、日米安保条約を結びます。この条約について吉田首相は、ずっと「交渉中」と偽り、国会ではほとんど議論しませんでした。そして調印する日どり(講和条約と同じ9月8日)は前日の夜11時まで、場所と正確な時間は当日の正午まで教えてもらえませんでした。安保条約そのものが、ほとんど密約だったわけです。
 次に日米地位協定の前身である日米行政協定は、旧安保条約が調印された2カ月以上あとになってから、ようやく内容についての交渉が開始されています。条約とちがって国会での承認を必要としないため、吉田首相はこの協定に「基地の原則的継続使用」や「米軍兵士や家族に対する治外法権」など、都合の悪い問題をすべて放りこんでいきました。さらにはその日米行政協定(現在の日米地位協定)にも書けないことを、日米合同委員会という密室の会議のなかで、だれからもチェックされることなく、どんどん決めてしまっているのです(ちなみにこの手法は現在、日本の官僚のお家芸となっており、多くの法律がわざとあいまいな言葉で書かれるようになっています)。(p.263)

 まとめると、「密約」というのは官僚の悪事や違法行為ではなく、国際法(=大国の圧力)との関係から生まれる外交上の技術にすぎない。問題は、外国軍が条約にもとづいて数万人規模で駐留し、最高裁がその問題について憲法判断を放棄しているという状況そのものにある。その結果として生じる、自国民の権利よりも外国軍の権利が優先するという植民地的状況を、なんとかアメリカに対等なふりをしてもらって見えなくしようとしたのが「密約」であり、文章をいじってごまかそうとしたのが「霞ヶ関文学」だということです。官僚のほうから言わせると、「大もとがおかしいんだから、しかたないだろう。やってられるか」といったところでしょう。(p.271)
 一言もありません。『遠い世界に』(作詞・作曲 西岡たかし)の一節を歌って、●を掘って入りましょう。♪これが日本だ 私の国だ♪
by sabasaba13 | 2018-02-22 06:27 | 京都 | Comments(0)

京都観桜編(17):ホテルにて(15.3)

 それでは夕食をとって自転車を返却しましょう。ひさしぶりに「新福菜館」か「第一旭」の濃厚な中華そばが食べたいな、しかし前者は長い行列、後者は工事中でした。せんかたなし、中華そばが食べられそうなお店を探しましょう。京都駅近くをうろうろ走っていると、「此付近 新選組最後の洛中屋敷跡」という碑がありました。
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 そして「満福」というお店で中華そばを所望、山盛りの九条ねぎが美味しうございました。
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 京都サイクリングツアープロジェクト(KCTP)に自転車を返却し、京都駅から琵琶湖線快速に乗って20分ほどで草津駅に到着。ホテルに向かって歩いていると「COLTRANE」というJAZZ&BARの店がありました。看板は「ブルー・トレーン」のジャケット写真ですね。ジョン・コルトレーンか、無性に「コートにすみれを」が聴きたくなりました。
 ホテルに着いてシャワーを浴び、地酒を飲みながらテレビのニュースを見ていると、"沖縄返還交渉での「密約」初めて認めた吉野氏死去"というテロップと、氏の生前の姿が放映されていました。
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 『日本経済新聞』のサイトから、引用します。
 沖縄返還の際に日本側が必要経費を負担する「密約」があったことを認めた、元外務省アメリカ局長の吉野文六氏が29日午前9時10分、肺炎のため横浜市内の自宅で死去した。96歳だった。告別式は近親者のみで行う。喪主は長男、豊氏。
 長野県松本市で生まれ、1941年に外務省に入省。同省アメリカ局長時代に、沖縄返還交渉を担当した。その後、外務審議官や駐独大使などを歴任した。
 沖縄返還で米側が支払う米軍基地跡地の原状回復費を日本側が肩代わりするとの密約を一貫して否定していたが、2000年に存在を裏付ける米公文書が公開。06年に一転して存在を認めた。
 09年には密約文書を巡る情報公開訴訟に証人として出廷した。
 テロップで、「反対のことを主張するなどして歴史を歪曲しようとすると、歴史をつくる国民のためにはマイナスになることが大きい」という氏の言葉が流されていました。
 この「沖縄密約問題」と深く関わった西山太吉氏が、『沖縄密約』(岩波新書1073)の中で、吉野氏について、こう記されています。
 それにしても、国家機密の王国ともいわれる外務省の高級官僚だった吉野が、なぜ、突然変異のように機密の真相を語りはじめたのであろうか。恐らく、外務省の幹部連は愕然としたに違いない。まさに、日本の近代から現代にかけての外交史上、例のない事件といってよい。しかし、吉野になんら動揺はない。いまなお訪れる記者にひるむことなく語り続けている。もはや、こわいものはなにもないといった風情さえ感じるほどだという。すでに夫人に先立たれ、ひとり身となった吉野は、90歳を前に、自らの外交官生活を回顧して、つかえていたものをはき出し、いいたいこともいって、自分なりの想いをまとめ上げたい衝動に駆られたのであろうか。
 往住記者によれば、吉野は長野県出身で幼少の頃、弁護士だった父親や叔父たちが小作争議や共産党員検挙に際し、その弁護や支援活動に奔走していた姿を見ながら育ったという。だとすれば、彼には"反骨"の血が流れていたといえる。
 同時に、吉野には、日本外交のあり方について、いいたいことが山ほどあったのではないか。彼は1969年から70年にかけての駐米公使時代、佐藤(※栄作)の「私設CIA」あるいは「忍者」(「オーラルヒストリー」)と呼ばれた二人の人物による闇の外交に手を焼いた。その過程で、彼の対米折衝などは"飾り物"に過ぎなかったことを身をもって経験した。さらに、沖縄協定調印の年の1971年初頭、本省のアメリカ局長に就任してからは、これまた大蔵省から理屈に合わないようなツケ(同前)を回され、結局は、条文化できないため、密約を背負いこむハメになるという苦々しい体験の持ち主でもあった。いわば、"きれいごと"(同前)にこだわり過ぎた佐藤によって、散々な目にあったというのが、彼の交渉に対する率直な感想であった。
 吉野発言以降、しばしば訪れるようになった記者たちに、「すべては、協定の批准が先決だった。あとは、野となれ、山となれの気持だった」と、ふつう、交渉当事者としてはタブーとされるような自棄的な表現を使ったのも、それなりに無理からぬ面があったのだ。だからこそ、協定発効後、25年が経過して、米国の秘密文書が開示され、沖縄密約の事実が続々と明らかにされるのを見るにつけ、長年支え続けてきた重しを、この際はずして、積もり積もった感懐を一挙にぶちまけたいという気持ちになったのではないだろうか。それは、若泉敬が、米国の例にならって25年の後、佐藤-ニクソンの核に関する秘密合意の議事録を暴露したのとは、ちょっと異なる動機だったといえよう。(p.206~7)
 なお若泉敬とは、沖縄返還交渉において、佐藤栄作の密使として重要な役割を果たした国際政治学者です。彼が、この交渉の経緯について著した『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋)は面白いですよ。
by sabasaba13 | 2018-02-21 06:29 | 京都 | Comments(0)

京都観桜編(16):本満寺(15.3)

 そして、穴場だという情報を得た本満寺へ。境内に入ると閑散としておりますが、桜は数本、しかも見ごろにはまだ早い。
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 ま、こんなもんかなと、本堂の方へ行くと…



すごい…

 ほんとに息を呑みました。いや、ほんとに。そこには見事な枝垂れ桜の巨木が屹立していました。均衡のとれた、そして滝のように流れ落ちる素晴らしい枝ぶり、たわわに咲き誇る桜花、その美しい孤高の姿には、心打たれました。迸る生命力をすら感じます。今回の旅で一番感動した桜ですね。何枚も写真を撮ったあと、しばらく見惚れていました。
 それでは「がんこ二条苑」へ向かいましょう。途中にある、シャープな意匠のビルは旧京都中央電話局上分局。1923(大正12)年に上電話局の局舎として、逓信省技師吉田鉄郎が設計した建築です。鉄筋コンクリート造で、周囲の景観に配慮してドイツ民家風の外観が取り入れられています。
 そして「がんこ二条苑」へ。こちらは和食の料理店ですが、小川治兵衛がつくった庭、高瀬川源流庭苑があります。紅葉のころに訪れたことがあるのですが、桜も多いかなと一抹の期待をもって訪れました。しかし、それほど多くなくちょっと残念。でも庭自体は、いつ見ても素晴らしいですね。
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 高瀬川沿いに走ると、満開の桜並木が見事でした。柳の若葉とのマッチングがきれいですね。公衆便所に入ると「棚にゴモク放かさんといてぇ~!」という注意書きがありましたが…ゴモクとはなんぞや? いま、インターネットで調べたところ、関西弁で「ゴミ」のことなのですね。合点合点。
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 本日の九枚、上から本満寺(6枚)、高瀬川(3枚)です。
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by sabasaba13 | 2018-02-20 06:34 | 京都 | Comments(0)

京都観桜編(15):上品蓮台寺(15.3)

 上品蓮台寺も穴場ですね。境内をうめつくす桜、桜、桜。すべて満開でないのがすこし残念ですが、訪れている人は数人、静謐な雰囲気の中、落ち着いた心持ちで桜花を堪能できました。
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 次は大徳寺、紅葉が素晴らしい高桐院ですが、桜はどうでしょうか。当たって砕けろ、試しに寄ってみましたが残念、はずしてしまいました。
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 近くあるのが大徳寺塔頭の孤篷庵(こほうあん)、小堀遠州が建立した寺院です。こちらには、知る人ぞ知る、知らない人は知らない名茶室、「忘筌(ぼうせん)」があります。茶の湯の嗜みはまったくないのですが、茶室と露地は大好きです。こちらもぜひ拝見したいのですが、原則非公開。ただ時々特別公開されるようなので、虎視眈々とチャンスを狙っています。指をくわえて眺めていると、テニスラケットをもった坊さんがすたすたとやってきて、中へ入って行きました。何となく悔しいぞ。余談ですが、国宝茶席三名席が、妙喜庵の待庵、大徳寺龍光院の密庵(みったん)、犬山有楽苑にある如庵。京都三名席がここ大徳寺孤篷庵の忘筌席と、曼殊院の八窓軒、金地院の八窓席。密庵は完全非公開ですが、それ以外は機会さえつかめば拝見できます。
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 そして大宮交通公園へ、ここは超穴場ということですが、残念ながら休園日でした。火曜日だから大丈夫だと思っていたのですが…やはりきちんと調べておかなければいけませんね。でも閉ざされた鉄扉越しに、満開の桜が何本も垣間見えました。再訪を期しましょう。
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 高野川にある半木(なからぎ)の道は、ソメイヨシノと紅枝垂れ桜の並木道です。桜のトンネルが遊歩道を覆う素晴らしい景観でした。紅枝垂れ桜は五分咲きだったので、ここも満開のときに再訪したいものです。爽快な気分でペダルをこいで川沿いに南下していきました。
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 本日の六枚、上品蓮台寺(3枚)と半木の道(3枚)です。
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by sabasaba13 | 2018-02-19 08:29 | 京都 | Comments(0)

京都観桜編(14):千本釈迦堂(15.3)

 次なるは千本釈迦堂(大報恩寺)、こちらは阿亀(おかめ)桜という素晴らしい枝垂れ桜の一発芸が見もの。その名の由来は、この寺を建てた棟梁の良妻の物語に由来します。鎌倉時代の中頃、ここに本堂を建てることになりました。それを作事した大工の棟梁が長井飛騨守高次、その妻が阿亀(おかめ)さんです。高次が重要な柱の寸法を間違えて短く切り過ぎた際、枡組で補えば良いと助言して、窮地を救いながらも「専門家でもない女性の知恵で棟梁が大仕事を成し遂げたと言われては夫の恥」と上棟式を迎える前に自殺してしまいます。やがてこの話が大工の間で伝え継がれ、江戸時代の中頃に阿亀塚がつくられ、大工・造園関係者の参拝が多いそうです。
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 雨宝院(西陣聖天宮)は桜の名所といわれていますが、残念ながら一分咲き。この時期に何度か来ているのですが、満開の桜に出会えたことがありません。よほど遅咲きなのでしょうか。なお国宝の本堂(釈迦堂)は創建時の姿をとどめ、京都市に残る最も古い仏教建築といわれています。
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 そして水火天満宮へ、狭い境内を覆い尽くすような見事な枝ぶりの枝垂れ桜が満開でした。
 それでは上品蓮台寺へ向かいましょう。途中にあったのが、知る人ぞ知る、知らない人は知らない船岡温泉です。
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 公式サイトから引用します。
 船岡温泉は京都は北区紫野、船岡山の南に位置します。文化庁の登録有形文化財にも指定された由緒ある唐破風造の建物。内装はレトロなマジョリカタイルから始まり、脱衣場の天井に彫られた鞍馬天狗や透かし彫りの欄間など芸術としか言いようがありません。
 一方、お風呂のほうは非常に近代的。日本で初めて導入されたという電気風呂をはじめ、ジェットバス、露天、薬草風呂などその実力は折り紙つきです。
また辺りはゲストハウスやカフェが立ち並び、古い歴史を持ちながらも、変化し続ける隠れた観光スポットなんです。
 そう、業界(何の業界だ)では有名なレトロ銭湯です。マジョリカタイルと欄間の透かし彫りはぜひ見てみたい、何と「爆弾三勇士」の彫り物もあるそうです。

 本日の二枚、千本釈迦堂と水火天満宮です。
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by sabasaba13 | 2018-02-18 06:35 | 京都 | Comments(0)

京都観桜編(13):京都御所(15.3)

 それでは京都御所へと参りましょう。御所の西側にある烏丸通りを走っていると、とある邸宅の塀越しにそれはそれは見事に咲き誇る枝垂れ桜の巨木が見えました。残念ながら中に入れなかったのですが、どんな由緒のあるお宅なのでしょう。帰郷後、インターネットで調べてわかったのですが、有栖川宮家の旧邸で、現在は平安女学院大学有栖館となっているそうです。書院造りの主屋・青天門・長屋門が、国の登録有形文化財となっています。11代小川治兵衞作庭の庭園もあり、この見事な枝垂れ桜は、豊臣秀吉の「醍醐の花見」で有名な醍醐寺の孫にあたるとのこと。うーむ、ぜひ拝見したいのですが、公開される時はあるのでしょうか。
 そして京都御所へ、自転車の獣道も健在でした。
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 皇宮警察本部京都護衛署の前庭に満開の枝垂れ桜がありましたが、門扉は堅く閉ざされており近くに行くことはできませんでした。
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 じゃりじゃりと獣道を走って近衛邸跡に到着。解説板を転記します。
 このあたりが近衛家の屋敷のあったところです。近衛家は、五摂家の一つで、江戸時代末までに多くの人が摂政や関白になっています。かつては、この庭園の西側に大きな屋敷があり、御所炎上の際には仮の皇居にもなりました。池のほとりは、昔から糸桜の名所で、孝明天皇も次の歌を詠まれています。「昔より名にはきけども今日みればむべめかれせぬ糸さくらかな」
 それはそれは見事な枝垂れ桜が数多、ここを先途と咲き誇っています。家族連れやカップルなどたくさんの方々もおられるのですが、敷地が広いのでそれほど気になりません。淡いピンクの世界に包まれて、みなさん幸せそうでした。もちろん私も。
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 それでは立本寺へと向かいましょう。途中にあった上京中学校の桜も満開でした。「鈴木医院」という古い病院を撮影してすこし走ると立本寺に到着です。
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 有名ではありませんが、相当の桜密度です。地元の方らしき人が散見されるだけで、落ち着いた閑静な雰囲気のなかで桜を愛でることができました。あまり教えたくない穴場です。
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 本日の八枚、上から有栖川宮旧邸、皇宮警察、京都御所(3枚)、立本寺(3枚)です。
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by sabasaba13 | 2018-02-17 06:29 | 京都 | Comments(0)