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京都錦秋編(26):二条城(14.11)

 七条駅から京阪電車に乗って三条京阪駅へ、地下鉄東西線に乗り換えて二条城前駅で下車、すぐ目の前が二条城です。東大手門、唐門、二の丸御殿など見所はたくさんありますが、本日は時間の関係で二の丸庭園のみを拝見しました。
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 まずは解説板を転記します。
 池を中心とした書院造庭園であり、池には三つの島を築き、四つの橋を架け、西北隅に滝を落とし、池の汀に多くの岩石を配した景観は、変化に富んで秀麗であり、豪壮な趣がある。
 庭園は、大広間の西、黒書院の南に位置し、主として大広間からの鑑賞を想定して造られているが、寛永三年の後水尾天皇行幸の際、行幸御殿が庭園の南側に建造されたことから、南方からの鑑賞も配慮して、庭園南部の石組に変更を加えた形跡が見られる。
 作庭年代については、記録や作風から推察して、1603年(慶長8年)の二条城築城の際にその建築に調和させて造営されたもので、後水尾天皇の行幸の際に、数多くの名園を手がけた小堀遠洲によって一部改修が加えられ、今日に至ったものと考えられる。
 桃山末期から江戸初期に大成された書院造りの大建築に伴う庭園の特徴をよく示しており、現存する歴史的庭園の中でも最も優れた作品の一つに数えられている。
 広大な池に浮かぶ蓬莱島・鶴島・亀島、そして青石を主とした豪壮な石組が随所に配されています。なおこの青石は、結晶片岩という石で、紀伊半島や四国で多く産出する石だそうです。雨が降って濡れると一段と鮮やかな色合いになるため、多くの庭園で使われていますが、ここまでの数を据えているところはそうはないとのこと。徳川氏の権勢を目の当たりにするようです。そういえば先日訪れた桂離宮で、係の方が梅雨の時期が狙い目だと教えてくれました。来訪者が少ないことと、雨に濡れた石が美しいからとおっしゃっていましたっけ。また菰を巻かれた蘇鉄がありましたが、寛永年間当初には60本あまりのソテツが植えられていたそうです。そのほとんどは自生地の琉球か薩摩から運んで来たものと考えられますが、これは関ヶ原で西軍に属していた薩摩島津氏も徳川家の威に伏していることを示したのですね。
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 ちなみにこのお庭は、米国の庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」(JOJG)が発表する2015年の「日本庭園ランキング」の第15位に選定されています。"So what"と(以下略)

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2016-10-09 06:37 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(25):智積院・養源院(14.11)

 九条通りまで出てタクシーをつかまえ、智積院へ向かってもらいました。途中の今熊野商店街でわれわれが足繁くかよったパン屋「ゲベッケン」が営業しているのを視認して二人で喜んでいると、タクシーの運転手さん曰く「このあたりにお住まいだったのですか」。いえいえ、実はかつて近くにあった京都パークホテルが定宿でしたと説明。ハイアット・リージェンシーに変わってからは、宿泊料が高額なため宿泊しておらず、このあたりはとんと御無沙汰しています。良いホテルだったんですけどねえ、と溜息をつくと、しばしこの話題で盛り上がりました。運転手さんがおっしゃるには、ハイアットになってサービスに日本的なきめこまやかさがなくなったそうです。そして智積院に着きました。収蔵庫にある長谷川等伯一派によって描かれた襖絵、中でも等伯描く「楓図」と、彼の息子・久蔵描く「桜図」を見るために何度も訪れましたが、数年前にやたらと楓を植えたのでその成長を見るのも楽しみです。そこいらじゅうに闇雲に植えただけなのであまり風情はないのですが、それなりに色づいた紅葉を堪能することができました。
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 それではわれわれ御用達の養源院に参りましょう。ハイアット・リージェンシーを横目に京都パークホテルを偲び、片山東熊設計の京都国立博物館を撮影し、赤十字ビルを曲がるとそこが養源院です。
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 何度も訪れていますが、それなりに綺麗な紅葉と桜をロハで見ることができ、お金を払えば俵屋宗達の杉戸絵と伏見城の血天井も拝見でき、おまけにいつ行っても閑古鳥が大合唱をしているという稀有なるお寺さんです。あれ? 観光客がいる… 窒息するほどではありませんが、ちらほらと人影が見えます。テレビで取り上げられたのかなあ。2015年は琳派400年(本阿弥光悦が鷹峯に芸術村を開いたのが1615年)なので、ブレイクしそう。幸い紅葉の盛りも終わっておらず、参道を覆う楓の並木が真っ赤に染まっていました。
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 それでは小堀遠州のお庭を見に、二条城へ行きましょう。京阪電車の七条駅に向かって歩いていると「プリンセス・ライン」と記された真っ赤なバス停がありました。そしてやってきた真っ赤なバス。そうか、京都女子大学と京都駅を結ぶバスなのですね。あの…男性は乗れるのでしょうか?
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 「わらじや」もご健在、久しぶりに「うぞうすい」を食べたいなあ。
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 本日の四枚、上一枚が智積院、下三枚が養源院です。
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by sabasaba13 | 2016-10-04 06:39 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(24):光明院(14.11)

 日本三大門の一つかもしれない東福寺三門を撮影して、すぐ近くにある塔頭の光明院へ。
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 こちらにも重森三玲作庭の素晴らしいお庭、「波心庭」があります。こちらは以前に一度訪れたことがあるのですが、その時に門前で見かけた「多勢入山者は好みません。庭の自尊心も傷つけますので是非にと思われる方以外どうでも良いと思われます方は自問の上入山しないで下さい。尚皆様方を信じて居ります故諸作法をお守り下さいますようお願い申し上げます。右よろしく」という味な立て看板は撤去されていました。マナーが向上したということなのでしょうか。だとしたら御慶です。パンフレットの解説を転記します。
 明徳2(1391)年、金山明昶(きんざんみんしょう)の創建による東福寺の塔頭。別名「苔の虹寺」とも称され、とくに苔の美しい新緑や紅葉時には、ひそやかな禅寺も華やぎを増す。
 方丈の前に広がる池泉式の枯山水庭園は、昭和14年、東福寺庭園と同時期に設計されたもので、三玲の初期の名作。方丈庭園とはうってかわって、平安式の洲浜型の枯池に多数の石組みを配している。寺号にちなんで光明をテーマに作庭されており、大海を表す白砂に構成された三ヵ所の三尊石組から仏の光のごとく斜線状に立石が並ぶ。
 背後にはサツキやツツジの大刈り込みでダイナミックに雲紋をデザインし、その雲の上には茶亭「蘿月庵」が佇む。これは禅語の『雲ハ嶺上ニ生ズルコトナク、月ハ波心ニ落ツルコト有リ』によるもので、昭和32年(寄付きは昭和38年)建築の蘿月庵は窓、壁、障子を含めて月を象徴し、「波心の庭」と命名された庭から眺めれば、東の空に月が昇る姿を楽しみという仕掛けになっている。
 それでは拝見いたしましょう。うねるように地を覆うきれいな苔と白砂の枯池、その随所に屹立する数多の立石。まるで大地から湧き出で、喜びとともに輪舞しているようです。今回はまだ見頃の紅葉も多く、お庭に色を添えていました。丸い吉野窓を通しての眺めも、障子・鴨居・縁側でトリミングされた眺めも、申し分なし。至福のひと時を過ごすことができました。
 なお東福寺塔頭の霊雲院には、重森三玲が復元した庭がありますが、残念ながら非公開です。

 本日の九枚です。
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by sabasaba13 | 2016-10-03 08:31 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(23):東福寺本坊庭園(14.11)

 それでは拝見することにしましょう。庫裡から方丈へと進む渡り廊下を歩いていくと、右手に東庭が見えてきます。北斗七星をあらわす石の円柱、白川砂、苔、背後の二重生垣で構成された小さなお庭です。円柱は、山内にある東司(とんす:便所)で使用されていた礎石で、東司の解体修理をした際に、余材として出てきた廃材です。円柱形の石材を使うという手法は、すでに小川治兵衛(植治)によって行われています。彼は、三条大橋や五条大橋で使われていた橋脚を使って、龍の姿に見える沢飛石「臥龍橋」を平安神宮の神苑につくりました。三玲は「日本庭園史図鑑 全26巻」を執筆するに際して、神苑の詳細な実測調査をしているので、この手法は熟知していたことでしょう。七石の高さは、高・中・低のバランスを考えたリズミカルな構成となっています。背後の二重生垣も、大徳寺本坊庭園、孤篷庵方丈前庭などに用いられている手法が取り入れられ、古典的な庭園に学んでいることがわかります。波紋のように広がる砂紋も洒落ていますね。
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 そして南庭へ。ここでは日本庭園の定型的な表現方法である、蓬莱神仙思想を中心とした意匠となっています。神仙島を構成する、寝かせた長石と、鋭く屹立する立石のバランスが絶妙ですね。このような石の扱い方は、古庭園ではほとんど例がないとのこと。重森三玲の面目躍如です。一切石を使用していない築山は、京都五山を表現しています。ぽこぽこぽこぽこぽこと、苔に覆われた緑の築山がリズミカルに並ぶ造形の面白さ。斬新です。この築山の部分は、斜線上に苔と白川砂の仕切りが設けられています。こうした直線を使ったシャープな意匠は、小堀遠州の表現方法からヒントを得ているそうです。この仕切りに呼応するような、直線と同心円の砂紋もモダンな意匠で素晴らしいですね。
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 西庭の大市松模様「井田の庭」は、日本古来から伝えられてきた伝統的な市松模様を、サツキの刈込と葛(かずら)石の使用によって表現してあります。葛石とは、社寺・宮殿などの基壇の上端の縁にある、縁石(へりいし)を兼ねる長方形の石のことです。この本坊内に使われていた、廃材である長方形の葛石を再使用してできあがった意匠です。こうした長方形の石は通常の作庭では使われませんが、それでも廃材利用という東福寺からの要求にそって使用しなくてはならなかったことから考え抜いた末に辿り着いた答えが「市松」だったのですね。市松は、桂離宮内の松琴亭の襖や床に、また修学院離宮の茶席の腰張りに使用されるなど、日本の伝統的な紋様です。また東福寺山内においても、先ほど見た開山堂の市松の砂紋を三玲は昭和13年2月に実測してその美にも引かれていたことが、彼の記述したものに残されているそうです。また南西の角には、自然石による三尊石組がありますが、これは東庭の北斗七星による七石、南庭の京都五山の五つの山と組み合わせると「七五三」になっているのですね。なお「井田(せいでん)」とは、井の字に等分した古代中国の田制にちなんでいます。
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 北庭へ行く途中には「通天台」とう舞台が設けられ、通天橋と洗玉澗を一望することができました。
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 そして最後の北庭です。廃材の切石を再利用した市松模様と、それをうずめるような緑の苔の対比が美しいですね。しかも西庭の大きな市松から、小さい市松へと変化し、しかも徐々に崩れてまばらとなり、最後は消えてしまうというドラマチックな構成となっています。このお庭を見たイサム・ノグチが「モンドリアン風の新しい角度の庭」と評したのも頷けます。
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 というわけで、何度見ても素晴らしいお庭です。また再訪しそうな♪恋の予感♪

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2016-10-01 06:34 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(22):東福寺本坊庭園(14.11)

 それでは東福寺本坊庭園に寄りましょう。実は以前に訪れたことはあるのですが、重森三玲の傑作庭園、何度でも見たくなります。ちなみに前回来訪したのは春、今回は秋の風情を楽しみたいと思います。余談ですが、京都で乗ったタクシーの運転手さんにこう言われたことがありました。「京都の寺の庭は、春夏秋冬、四回見て始めて見たといえるんや」 うーん、深いなあ。というわけで、私が独自に蒐集した"京都タクシー運ちゃん名言集"です。「寒いから京都に行かないなんて、美を見る心がないやつや。雪なんて降ったらそれこそラッキーやで」 「お寺はんに休みなどあらへん。来る者はこばまずや」 「かんにんしてえな・どついたろか・なにしとんねん(筆者注:西山の狭い山道で前をとろとろ走る車に浴びせた罵詈)」 「山科はええけど、つぶしがきかんからなあ」 「高台寺に行くんやったら、腹くくらなあかん(筆者注:紅葉ライトアップを見に行くと言ったら)」 「秋の京都は紅葉やなくて、人を見にくるもんや」 「拝観料やのうて入場料や。誰も仏はん拝んどらん」 「(筆者注:京都御所に行ったと言ったら)天ちゃんも喜んではるやろ」 「ええ遊びをするにはがんばらなあきまへん」 だから京都のタクシーは大好きです。
 閑話休題。このお庭は、以前は"東福寺方丈「八相の庭」"という名称でしたが、2014年に国指定名勝に登録され、改めて「東福寺本坊庭園」と改称されたそうです。その由来について、同寺ホームページから小生の文責で要約して紹介しましょう。
 東福寺本坊庭園は、作庭家・重森三玲(1896-1975)によって1939(昭和14)年に完成されたものです。昭和11年~13年末までの三年間の日本全国古庭園実測調査を終え、日本庭園史図鑑全26巻を発刊した直後の作品で、従来の日本庭園の意匠形態にはない、独自の新しい発想のもとに作庭された庭園です。その意匠が画期的な形態となった大きな要因が、当時の執事長であった爾以三師から唯一提示された「本坊内にあった材料は、すべて廃棄することなく、もう一度再利用する」という条件でした。これは禅の教えである「一切の無駄をしてはならない」から提示されたことで、これによって三玲の設計は、かなり厳しい制約が課せられました。しかしこの制約された条件の中で、美を最大限に追求した結果が、この斬新な庭園として結実したのですね。方丈を中心とした東西南北の四方に、それぞれの表現が異なる庭園がつくられています。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-09-30 06:28 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(21):龍吟庵(14.11)

 そして今回のお目当て、塔頭の龍吟庵へと向かいます。普段は非公開ですが、秋の特別公開で見学することができます。国宝に指定されている日本最古の方丈があるのですが(撮影禁止)、やはり重森三玲作庭のお庭をぜひ拝見したい。なお方丈とは、禅宗寺院における僧侶の住居であり、後には相見(応接)の間の役割が強くなりました。それではお庭についての解説板を転記します。
 昭和39年、国宝龍吟庵方丈の解体修理が完了したが、四周に庭園がなかったため、昭和の名作庭家の重森三玲に委嘱して12月2日から27日にかけて作庭された。
 南庭は古式により白砂だけの庭とし、「龍吟庭」と名付けられた西側の庭は白砂の大海と白モルタルの縁取りによって黒雲をあらわし、各所に配された石によって雲間から頭と胴をくねらせて飛翔する龍を表現している。庭を区切る竹垣は雷紋と稲妻紋をあらわす。
 東側の赤砂の石庭は開祖無関普門の幼少時代を表現したもの。我が国最古の方丈建築に、伝統を踏まえながらも自由な発想によって大胆に表現された作庭といえよう。
 まずは方丈正面の南庭へ、こちらは一木一草も用いず白砂のみの「無の庭」です。かつて儀礼に使われていたことを意識したとのことです。稲妻紋の竹垣がアクセントとなっています。
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 一転して西庭は「龍の庭」、のたうちまわる龍の頭・角・背を石で、海と雲を白黒の砂で表現した躍動感にあふれた庭です。特に、食い違うように斜めに置かれた鋭い立石が、心に残ります。白砂(雲)と黒砂(海)の砂紋を区切る地割をモルタルでつくるところは、三玲の面目躍如ですね。こちらの竹垣も稲妻紋。塀の向こうに覆いかぶさる紅葉がみごとに色づいていました。
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 そして最後が小さめの東庭、「不離の庭」です。幼い頃に熱病におかされて荒野に捨てられた開祖・無関普門、そこに襲いかかった狼から二匹の犬が彼を守ったという逸話をもとに作庭されたそうです。中央の平たい石が無関普門、その両脇にある二つの石が犬、残り六つの石が狼を表わし、奥には山型の竹垣がありました。緊張感にあふれた身の引き締まるようなお庭です。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2016-09-25 06:48 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(20):東福寺(14.11)

 JR大津駅から琵琶湖線に乗って京都駅へ、構内にあるコインロッカーに荷物を預けました。余談ですが、この時期に空いているロッカーを見つけるのは至難なのですが、近鉄改札付近およびその一階だと結構見つかります。そしてJR奈良線に乗り換えて次の駅が東福寺です。さすがは定番中の定番、紅葉の大御所、東福寺。もう車内は善男善女であふれかえっていました。ぞろぞろと人の流れと共に通天橋を一望できる臥雲橋に到着しましたが、やはり紅葉は盛りを過ぎて散りかかっていました。
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 しかしこれだけ楓があるのだから、まだ見頃の木も少しはあるだろうと期待して、入場料もとい拝観料を支払って境内へ。芋を洗うような通天橋、市松の砂紋が斬新な開山堂、散り紅葉が美しい洗玉澗をそぞろ歩いて、錦秋を堪能しました。
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 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2016-09-24 06:35 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(19):大津駅(14.11)

 大津駅構内には「返せ!北方領土」「北方領土はこんなに大きい」「北方四島(きたのしま)を 返せと努力の 君の御霊(みたま)が 眠る納沙布 岬は春よ のどかな霞 向こうに国後 貝殻島が 島々(しま)を眺めて 返せと希(ねが)う 島々(しま)を眺めて 返せと希(ねが)う (島を返せと叫ぶ友よ 那須柿麿)」と記された巨大な地図が掲示されていました。いわゆる"北方領土"問題ですが、以前に納沙布岬を訪れた時の旅行記で、私の考えを述べましたの。考えに変化はないので長文ですが再掲します。
 いわゆる"北方領土"問題ですが、声高に、感情的に、居丈高に、「返せ」と怒号するのをやめないと、かえって解決を困難にしてしまうことになるでしょう。伊勢﨑賢治氏が、『日本人は人を殺しに行くのか』(朝日新書485)の中で述べられているように、相手の面子に関わるような強硬な抗議をすれば双方とも引っこみがつかなくなり、状況は悪化するだけ(p.208~9)。例えば、メドヴェージェフ大統領の"北方領土"訪問に対して日本政府が激烈な批判をしたことによって、ロシア国民の手前、ロシア大統領はますます訪問せざるをえなくなり、譲歩する訳にもいかなくなりました。ま、きちんと分析することをせずに不安や不満を抱える方々のガス抜きとして利用するのなら、話は別ですが。
 まずおさえておくべき点は、1951(昭和26)年に調印された対日講和条約において、"北方領土"については「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」と規定されていることです(第2条c)。その範囲については、択捉・国後が千島列島に属することを、西村熊雄条約局長が1951(昭和26)年10月の衆議院特別委員会で認めています。つまり、択捉・国後はソ連領、歯舞・色丹は日本領という合意は成立していたのですね。もしこの了解に納得がいかず「日本固有の領土・四島を全て返せ」というのであれば、この講和条約の廃棄を宣言して、もう一度連合国相手に戦争をするのが筋でしょう。ちなみにドイツは、敗戦によってオーデル・ナイセ以東のシュレージエン、ポンメルン、東プロイセンをポーランドと一部ソ連に割譲しますが、「ドイツ固有の領土だから返せ」という話は聞いたことがありません。
 そして1956(昭和31)年、日ソ両国の国交回復をもたらした日ソ共同宣言は、「ソ連は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソ連との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」と規定します。これを受け入れていれば、領土問題は解決していたはずです。しかし、日ソ間に紛争の火種を残すために、アメリカが介入します。「択捉・国後を手放すのなら、沖縄は返さないぞ」とね。この恐喝に屈した日本政府は前言を翻して、「択捉・国後は千島列島に含まれない」と主張、四島返還の立場を今に至るまで堅持しています。やれやれ。
 思うに、日本くらい隣国と領土問題を抱えている国も珍しいのではないでしょうか。ロシアとは"北方領土"、中国とは"尖閣諸島"、韓国とは"竹島"。これらの問題を解決することは、われわれにとって二つの意味で喫緊の課題だと考えます。
 まず一つ目。今、この国に瀰漫している、目を覆いたくなるような品性低劣なナショナリズムを燃え上がらせる燃料源を絶つため。鵜飼哲氏は、『ナショナリズム論・入門』(大澤真幸・姜尚中[編] 有斐閣アルマ)の中で、こう述べられています。

 自国および世界の現状を否定して未知の将来に賭ける気概が失われたとき、過去の歴史はもはや、緊張に満ちた対話の相手ではなくなる。それは現状を肯定し正当化する目的のためだけに動員され、「修正」され、編集されるべき素材に過ぎない。そして将来に向けて自己を高める意欲もなく、現在の自己に対する評価も内心芳しくなく、そして、それでも自己が上昇する幻想にだけは耽りたいとすれば、そのための唯一の手段は他者をおとしめることである。このようにして、グローバル資本支配下のナショナリズムは、歴史との絆を否応なく喪失し、とめどのない他者蔑視に陥ることになる。(p.351)

 「日本固有の領土を分捕ろうとするやな奴ら」と他者を貶めることによって、"自分たちは正しい"という幻想と快感に耽るのはもうやめた方がいいのでは。
 二つ目。この問題がある限り、アメリカの軛から逃れられないということ。アメリカにとって理想的な状態とは、日本が隣国と戦争に至らない程度の緊張を抱えていることです。そうすれば、"暗証番号の必要ないATM"日本からガバガバとお金を引き出して、在日米軍基地を維持できますから。また軍事力を強化して日本を"なめられない国"にしたい安倍伍長のような御仁たちにとっても、領土問題は格好の口実になるでしょう。もちろん三菱重工業をはじめとする軍需企業からの政治献金も増えるでしょうし。
 というわけで、「領土をめぐる緊張→軍事力強化と軍事費増大→社会保障費の削減→国民の不安と不満→強面な主張で隣国を貶め自己満足に浸る→ますます緊張が高まる→…」という気の滅入るような悪循環を断つためにも、一刻も早い領土問題の解決を望みます。では具体的にどうすればよいのか。まずは"日本固有の領土"という硬直した発想をやめることでしょう。ちょっと考えれば、"固有の領土"なんてあり得ないことは分かりそうなものですが。そして互いの利益になるような柔軟な対応をとること。テッサ・モーリス=スズキ氏が、『ナショナリズム論・入門』(大澤真幸・姜尚中[編] 有斐閣アルマ)の中で、こう述べられています。

 国民国家は近代的な産物であり、その辺境地域をめぐる統治は、自然や過去のつながりよりもむしろ、政治によって決定されてきたのだった。日本のような「島国」でさえも、多様な歴史と重層的な空間によって織り成されているのである。これらの事実を踏まえるならば、ある特定の場所を「わが国固有の領土」であると定義するような歴史の政治的利用は非常に胡散臭いと言えるだろう。たとえば、最も古い文書記録によれば、クリル/千島列島南部にはアイヌの人々が生活していたことが明らかになっている。そしてそのほとんどのアイヌは、同意することもないままに近代日本の国民国家に包摂されていったのだった。よって、そのような歴史を背景として、同列島が日本に「自然に」あるいは「固有に」帰属するという主張の根拠とすることはあまりにも脆弱なのである。じつは、最初に同列島を訪れ記録したのはオランダ人であった。しかし今日、誰もそのような事実が、オランダに列島の支配を主張する権利を与える根拠となるとは議論しないであろう。そしてここしばらくは、ロシアと日本が、同列島の権利をめぐり議論している。同列島の争いにしろ、釣魚島/尖閣諸島の領土をめぐる争いにしろ、歴史はそのような争いに単純明確な答えを出すものではないのだ。歴史とは、問題の存在を現在に問い返すことに過ぎないのである。すなわち、末来の新たなる争いの下地となるような敵意に満ちた遺産をつくることよりも、複雑に絡み合う近隣社会の権益に公平に配慮した紛争の解決策を見つけることが求められているのである。(p.107~8)

 具体的な方策については、伊勢﨑賢治氏が、『日本人は人を殺しに行くのか』(朝日新書485)の中で紹介されている「ソフト・ボーダー(柔らかな国境)」というやり方が参考になるでしょう(p.197)。領土を双方で防護し合うのではなく、両国の協力で管理する国境です。国境としての実効線はあるけれども軍事化はしない。互いに迷惑である密輸などの違法行為取り締まりは、警察間で協力するが、そこに軍を置いて銃を突きつけ合ったりはしない。場合によっては、国境を帯状の地域とし、そこに昔から住んでいる住民はビザなしで行き来できるようにしたり、河川・森林・天然資源などは共同で開発・管理したりする。国境が持つ排他的なイメージを変え、両国で共有する場とするわけですね。国境問題で係争関係にある世界中の国々で、究極の解決方法として試みられてきた方法だそうです。これは良いですね。互いの面子を潰さず、緊張を緩和し、実利も得られる。というわけでここは一つ、叡智と度量を見せて領土問題を解決してほしいのですが、安倍伍長。"国益"のために領土紛争は必要だと言うのなら話は別ですが。

 なお最近、関連図書として『領土問題をどう解決するか』(和田春樹 平凡社新書)と『日本の領土問題』(保阪正康・東郷和彦 角川oneテーマ21)を拝読しました。とくに前者の的確かつ鋭い分析には目を瞠りました。お薦めです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-09-22 08:03 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(18):大津(14.11)

 朝、爽快に目覚めてベランダに出ると、おおっ雲ひとつない快晴です。朝焼けの空、琵琶湖と比叡山を眺めながら、紫煙をくゆらし珈琲をいただきました。低血圧の山ノ神が起きるのを待って朝食会場へ。いつものオムレツと、今日は珍しくご飯と味噌汁をいただきました。朝ごはんを食べるのに集中して半分上の空の山ノ神に本日の行程をレクチャー。
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 まずはバスで大津駅へ行き、JRに乗って京都駅へ。荷物をコインロッカーに預けて、宇治線に乗り換えて東福寺へ。こちらには重森三玲のお庭がどんどんどんと三つあります。東福寺方丈と竜吟庵と光明院を拝見して、バスかタクシーで智積院へ。われわれ御用達のお寺さん、養源院に寄り、京阪と地下鉄を乗り継いで、小堀遠州の庭がある二条城へ。そして嵐電に乗って妙心寺に行き、大宝院と退蔵院を拝見。花園駅からJRに乗って京都駅へ、地下鉄に乗り換えて錦市場へ行き、田中鶏卵で卵焼きを購入し、バスに乗って「平野屋」に行き「いもぼう」を堪能。そしてバスで京都駅に戻り帰郷。いかが。
 もぐもぐ あっ聞いていない。ま、小生に対する全幅の信頼の証と、好意的に解釈しましょう。部屋に戻って準備を整え、チェックアウトをしていざ出発。ホテル前から路線バスに乗ってJR大津駅に行きました。駅の近くに、ピクトグラム付きで「この周辺に自転車・ミニバイクを置くと撤去します!」という警告の看板を発見。下部には注意として「安全柵等にかけたチェーン鍵等は切断して撤去します。撤去時の破損等による責任は一切負いません」と記されていました。まるで犯罪者扱いですね、瞋恚の炎が燃え上がります。めらめら。化石燃料を貪欲に喰らい、有害物質を吐き出し、騒音で静かな環境を破壊し、人様を死や怪我へと追いやる悪魔の機械を優遇して、自転車に冷や飯を食わせる行政。C・ダグラス・ラミス氏が、『最後のタヌキ 英語で考え、日本語で考える』(晶文社)所収の「汚ない自転車」の中で、痛快かつ鋭い批判をされているので紹介します。
 池袋駅で電車を降り、道路を横切って、自転車を鉄のパイプにつないで鍵をかけておいた場所へ向かった。自転車は消えていた。
 私は自転車の盗難を届けに交番に行った。だが、お巡りさんは馬鹿にしたような顔で私を見ただけで、「あっちにあるよ」と言う。交番の裏には自転車が山積みになっていて、私の自転車もその中にあった。警察は、泥棒まがいの手口を使い、ボルト・カッターで錠前を切り落として自転車を持ち去ったのだ。
 私は、駅の近辺で合法的に自転車を置いておけるのはどこかと、お巡りさんに尋ねた。「ありません」というのが答えだった。お巡りさんは、警察が壊した私の所有物-錠前のことだが-を弁償しようというそぶりも見せなかった。
 これは、いわゆる「池袋クリーン作戦」の一環で、自転車相手の戦争である。私たちは、自転車は"汚ない"ものであり、公害の一種だと思いこまされようとしているのだ。毎朝、警察は、自転車の放置はいけないという説教を録音したものを何時間も繰り返して流し、その放送は駅前の騒音公害となっている。もちろん、警察の説教は、車やバスやトラックの轟音、急ブレーキの音、そして警笛の音にまぎれてしまって、ほとんど聞こえない。
 皮肉にも、近代的な交通手段のなかで無公害なのは自転車だけだ。騒音をたてないし、有毒排気ガスも出さず、石油を燃焼するわけでもない。自転車は世界で最もエネルギーの効率が良い乗物である。
 それでは、なぜ、莫大な額の公私の資金が、自動車の交通を安全にするために地表を全面的に変えるという目的で使われているのだろうか? その一方で、なぜ、警察は自転車通勤をあきらめるようにしむける職務を与えられているのだろうか?
 石油業界と自動車業界の重役室の中に、この質問に対する答えを知っている人々がいるのだろう。
 私は新しい自転車の錠前を買った。特別に堅い、鋼鉄製のやつだ。ボルト・カッターの方が歯こぼれしてしまうような錠前だということだ。(p.157~9)
 また経済学の観点から、自動車がいかに社会に様々な損失をもたらしているかを剔抉した『自動車の社会的費用』(宇沢弘文 岩波新書)という素晴らしい本もありますので、よろしければご一読を。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2016-09-21 06:25 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(17):陶然亭(14.11)

 見るべきほどの庭は見つ、自害はしないで夕食を食べに行きましょう。そう、陶然亭です。わくわく。京都市役所前駅からふたたび地下鉄東西線に乗って三条駅へ、京阪鴨東線に乗り換えて四条駅で下車。十分ほど歩くと、予約をしておいた陶然亭に着きました。とんぶり、あなご、さわら、かわはぎの肝、そして私の大好物・じゃこめしに焼きプリン。いずれも劣らぬ逸品、舌鼓をエルヴィン・ジョーンズのように乱打しながらいただきました。ふと気づくと倉本聡の色紙が飾ってありましたが、御主人と知り合いのようです。来年も、この店で食べるために、元気で働こうと二人で誓い、琵琶湖ホテルへと戻ります。
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 三条駅まで歩いて京阪電車に乗って浜大津駅へ。歩いてホテルに帰り、売店で人気のゆるキャラ「ひこにゃん」を撮影し、ビールと「七味屋」の七味入りポテトチップを購入。大浴場で汗を流し、部屋のベランダに出て、漆黒の琵琶湖を眺めながら一献傾けました。早いもので明日はもう最終日です。
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 本日の八枚です。Bon Appetit.
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by sabasaba13 | 2016-09-18 07:56 | 京都 | Comments(0)