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『医学探偵の歴史事件簿』

 『医学探偵の歴史事件簿』、『医学探偵の歴史事件簿 ファイル2』(小長谷正明 岩波文庫)読了。神経内科学を専門とするお医者さんである小長谷正明氏が、最近の遺伝子鑑定や歴史医学研究、歴史記録の解読を通じて、歴史上の人物の病気の真相に迫るというたいへん面白い本です。目次を紹介しただけでも、知的な好奇心を刺戟される方が多いでしょう。ケネディの腰痛、スターリンと医師団陰謀事件、二・二六事件と輸血、三島由紀夫の筋肉、皇女アナスタシアの青い血(以上ファイル1)、中臣鎌足の脊髄障害、チャーチルの腰痛、東独ホーネッカー議長の胆石とベルリンの壁崩壊、ラストエンプレスのアヘン中毒、芥川龍之介の頭痛と『歯車』、ダーウィンに来た病気(以上ファイル2)。医学の長足の進歩に驚くとともに、事実や文献に基づく科学的推理の冴えにも舌を巻きました。お見事。最近は通勤電車の中で、スマートフォンをいじる方々に周囲を囲まれ、四面馬歌の思いで気が滅入るのですが、この本のおかげでしばし飛耳長目の喜びに耽ることができました。なおファイル2のあとがきは、史上に残る傑作だと思います。
 探偵になりすまして過去の事件に入り込み、歴史上の人物の人生を追体験する作業は、知的亢奮を呼び起こしてくれ、楽しかった。昨年に引き続き上梓することができた理由の一つは中日ドラゴンズのふがいなさで、ナイトゲームのテレビ観戦が少なくなったからだ。落合博満監督の後継者たちのお陰だが、謝辞を呈しようとは思わない。(中略)
 毎度のことながら、家人の陽子にこの本の草稿に最初に目を通してもらった。辛口批評の合間に、時折笑みを浮かべて好意的な講評をくれる。周の幽王は狼煙を上げたが、筆者はパソコンのキーを打つスピードが速くなる。親しむべきは傾国の美女のではなく、荊妻(失礼!)の笑顔にしかずと思っている。しかし、ちょっとばかりつまらない。(p.219~20)

by sabasaba13 | 2015-07-15 06:30 | | Comments(0)

『百貌百言』

 『百貌百言』(出久根達郎 文春新書)読了。カバー袖に載せられていた著者の言を紹介しましょう。
 二十世紀を生きた百人の、エピソードでつづる伝記と、名言集である。人選は任意で、他意はない。強いて言うなら、筆者の好きな、卑しくない「面構え」を選んだ。エピソードは信頼できる伝記から拾い、名言は自叙伝から取った。病床の正岡子規は、何かにつけ、「嬉しくてたまらぬ」と感動した。嬉しくてたまらなくなるような話を、できる限り見つけて紹介した。筆者の思いが、そのまま読者にお伝えできると嬉しいのだが。
 筆者の出久根氏は、高円寺で古書店「芳雅堂」を営むかたわら文筆をされている方です。氏の好みで選ばれた百人の伝記・エピソード・名言をわずか二ページでまとめる、その簡にして要を得た筆の冴えと博覧強記には脱帽です。その人選もいいですね。"卑しくない"人物がキーワードだと思いますが、節を曲げなかった人びとでしょう。最近読んだ『現代の貧困 リベラリズムの日本社会論』(井上達夫 岩波現代文庫)の表現を借りれば、"生活の手段に人生の意味を簒奪させて生活自体をも狂わせてしまうような同調圧力に抵抗"できる強さを持ち、"そのような抵抗を生み出す価値を自己の内部に自律的に形成する力"に満ち溢れた方々です。(p.xii) ま、簡単に言えば、カネで人生を売らなかった人たちかな。私も大好きな、古今亭志ん生、寺田寅彦正岡子規南方熊楠幸徳秋水小川芋銭種田山頭火金子みすゞ田中正造石川啄木坂口安吾、小倉遊亀、鶴彬を紹介してくれたのも嬉しいし、鴨居羊子、南喜一、桜川忠七、西堀栄三郎、竹内浩三、九條武子といった未知の人物との出会いも楽しうございました。
 というわけで、枕上本・鞍上本・厠上本としてお薦めの一冊です。ただ一つ解せないのは、昭和天皇が選ばれていることです。何故なのだろう???

 それでは私が気に入った名言をいくつか紹介しましょう。
 あたしなんぞ、道楽大学の優等卒業生なんだけれども、月謝はずいぶん高くついてますよ、何しろ在学期間が永かったんでネ。(古今亭志ん生)

 人の短所を、短所と指摘しないこと。(高田真治)

 科学は政治を支配したが、科学者は政治家に支配されている。ここに現代及び将来の不安がある。(永井隆)

 商人が自分の商品に興味を失う時代は、やがて官吏が職務を忘却し、学者が学問に倦怠し、職人が仕事をごまかす時代でありはしないか。(寺田寅彦)

 男泣くなら人形のように、顔で泣かずに腹で泣け。(鶴田浩二)

 ピカは、人がおとさにゃ、おちてこん。(丸木スマ)

 ああ金の世や金の世や/地獄の沙汰も金次第/笑うも金よ泣くも金/一も二も金三も金/親子の仲を割くも金/夫婦の縁を切るも金/強欲非道と譏ろうが/我利我利亡者と罵ろうが/痛くも痒くもあるものか/金になりさえすればよい/人の難儀や迷惑に/遠慮していちゃ身がたたぬ (添田唖蝉坊)

 ああわからないわからない/賢い人がなんぼでも/ある世の中に馬鹿者が/議員になるのがわからない/議員というのは名ばかりで/間抜けでふぬけで腰抜けで/いつもぼんやり椅子の番 (添田唖蝉坊)

 人間には、銘々に自分の流儀という奴がある。人生に対処するには、自分の流儀でやるより仕方ないんだ。他人の流儀を真似たり、他人に教えられた流儀で生きようとしたら、そいつは自分が自分でなくなっちゃうことだよ。(尾崎士郎)

 芸術は短く、貧乏は長し。(直木三十五)

 人を使うなら、人を育てなければならない。よい建物をつくるためには、檜や杉を育てなければならない。棒切れや板っぺらを拾って来てつくれるのは、塵箱ぐらいなものだ。(黒澤明)

 わたしは自由をこよなく愛する。自由を抑えつけようとするあらゆる権威は、だから、わたしにとっては、一ばんいやなものである。権威を敬遠しつつ、なるたけ自由を多く生かしてゆくことは、かならずしも成功への近道とはいえない。しかし、成功をおくらせても自由を失いたくない場合には、わたしはもちろん、自由の方をえらぶのである。(今西錦司)

 余技の下手なものは本技も下手だ。(上村松園)

 順番を待っているだけの人間には、永久に順番が来ない。(藤山寛美)

 法律の保護を受けなければ、法律を守る義務はない。(田中正造)

 気力は眼に出る。生活は顔色に出る。教養は声に出る。(土門拳)

 自ら啓発すべきである。教えられただけしか描けぬような奴は、絵描きをやめろ。(横山大観)

 冷静に世間を観察すれば、偽善にして虫の良い輩ら、不公平にして横暴を振舞ふ族ら等、もし神仏が在ましたら早くどうかして貰ひ度ひものが頗る多いことが明白になつて来る。万一その連中が上に立つて其模範を示される様なことがあつては全く恐れ入るべきことであると云はざるを得ない。ところがさうした場合が昔から繰返されがちであるのが世相だと云ふことに気付いて見たら、正義の士は黙しては居られない筈である。(狩野亨吉)

by sabasaba13 | 2015-07-01 06:25 | | Comments(0)

『自動車の社会的費用』

 『自動車の社会的費用』(宇沢弘文 岩波新書)読了。
 自動車が大嫌いです。ほんとうに、心底、蛇蠍の如く嫌いです。化石燃料を貪欲に喰らい、有害物質を吐き出し、騒音で静かな環境を破壊し、人様を死や怪我へと追いやる悪魔の機械。もちろんその必要性は十二分にわかってはいますが、"必要悪"という視点からもっとその利用を抑制すべきではないかと考えています。たとえばイヴァン・イリイチは『シャドウ・ワーク』(岩波現代文庫)の中でこう言っています。
 都市の自転車交通は、徒歩の四分の一のエネルギー消費で、四倍の速さの移動を可能にする。ところが、自動車は同じだけ進むために、一人一マイルにつき百五十倍の熱量を必要とする。(p.141)
 またC.ダグラス・ラミスは『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』(平凡社ライブラリー)の中でこう言っています。
 おそらく、それぞれの読者が減らすべき機械の優先順位リストを作れると思いますが、私自身のリストの第一位は(武器や原発、その他明らかに有害なものは別にして)車です。これまでは、車の数を増やすということが経済発展の一つの象徴でした。車を減らすことは「対抗発展」の一つの象徴になるかもしれません。車自体と車を走らせるための道路工事は大変な環境破壊になっているし、車は街の雰囲気を壊すし、社会のなかのストレスとイライラの大きな原因の一つだし、自動車組立工場のラインで働くのはとても楽しい仕事とは思えません。そして車は交通事故の名で大虐殺と言っていいほどの規模で人殺しを続けています。もちろん、今の社会には車がないと仕事ができない人もたくさんいて、すぐにできることではありませんが、車のない社会(たとえばベネチアのように)を一つの将来の目標としてたてることができます。(p.157~8)
 できるだけ多くの人を説得して、車のない社会に一歩でも近づけるよう日々理論武装をしております。本書は高名な経済学者である宇沢弘文氏が、経済学の観点から自動車がいかに社会に様々な損失をもたらしているかを剔抉したものです。思わず快哉を叫びたくなるような痛快な記述、論理的に深く納得できる指摘に満ち溢れた素晴らしい本、お薦めです。例えば、私も常日頃、不愉快に思っていた歩道橋について、宇沢氏はこう一刀両断されています。
 そして、いたるところに横断歩道橋と称するものが設置されていて、高い、急な階段を上り下りしなければ横断できないようになっている。この横断歩道橋ほど日本の社会の貧困、俗悪さ、非人間性を象徴したものはないであろう。自動車を効率的に通行させるということを主な目的として街路の設計がおこなわれ、歩行者が自由に安全に歩くことができるということはまったく無視されている。あの長い、急な階段を老人、幼児、身体障害者がどのようにして上り下りできるのであろうか。横断歩道橋の設計者たちは老人、幼児は道を歩く必要はないという想定のもとにこのような設計をしたのであろうか。わたくしは、横断歩道橋を渡るたびに、その設計者の非人間性と俗悪さをおもい、このような人々が日本の道路の設計をし、管理をしていることをおもい、一種の恐怖感すらもつのである。(p.62)
 また歩道と車道が分離されていない街路を、クラクションを鳴らし排気ガスを撒き散らし騒音をたてながら自動車が疾走する異常さ。住民はたえず前後に目を配りながら街路の端を歩き、子どもたちは道で遊ぶことなどできません。
 アメリカにせよ、ヨーロッパにせよ、およそ文明国といわれる国々で、歩道と車道とが分離されていない街路に自動車が無制限に通行を許されていることは、まず想像できない…
 この点にかんして、わたくしがいつも疑問におもうことがある。それは、自動車が一台通ると、人間の歩く余地がなくなってしまうような街路を、どのような意味で自動車が通る権利があるのだろうかという疑問である。たしかに法律的に言うならば、自動車の通行を法的あるいは行政的な手段で禁止していないかぎり、自動車通行が違法とはならない。しかし、警笛を鳴らすことによって歩行者を押しやって、排気ガスを吹きつけて疾走するということが、はたして許されてよいことなのであろか。(p.64~5)

 このような道路で、歩行者に危害を加える危険性が非常に高いことを知りながら、自動車運転をおこなおうとするのは、どのような倫理感をもって人々なのであろうか。(p.71)
 この炯眼には頭を垂れましょう。私も歩道橋を見て不快だなとは思っていましたが、これが日本社会の貧困、俗悪さ、非人間性を象徴するものだということまでは考えがいたりませんでした。そりゃそうですよね、老人、幼児、ハンディキャップをもつ方々よりも、自動車を優遇しているわけですから。また歩道のない街路を自動車が疾走することの異常さについては、まったく想いもいたりませんでした。幼い頃から親に「車に気をつけなさい」と注意され続け、またそうした光景を日常的に見ているため、事故は歩行者の注意不足によるものと思い込んでしまったのですね。違いました。私たちは、「各人が安全に、自由に歩くことができる」権利を自動車によって侵害されているのでした。
 本来、こうした人権侵害や被害を軽減するためには自動車の所有者・運転者が代価を負担すべきなのですが、それが僅かでしかない。自動車を利用すればするほど利益を得るので、ますます需要が増大します。その結果道路が混雑してくると、道路を建設することによってそれを解消しようとする。ますます自動車通行が便利なものとなり、自動車の保有台数がさらに増え、また混雑が激しくなる。この悪循環のプロセスを通じて、交通事故は増え、環境は悪化し、住民の受ける被害も加速度的に大きくなってくる。やれやれ。
 この悪循環を断ち切るために、宇沢氏は自動車通行によって発生する社会的費用を、自動車を利用する人々が負担すべきだと主張されています。"社会的費用"とは、ある経済活動が社会に被害を与えるとき(=外部不経済の発生)、その悪影響のうち発生者が負担していない部分を集計した額のことです。簡単に言えば、「落とし前をつけてもらおう」ということですね。その詳細についてはぜひ本書を読んでいただきたいのですが、市民の基本的権利を侵害しない道路について、氏はこう述べられています。
 まず、歩道と車道とが完全に分離され、しかも並木その他の手段によって、排気ガス、騒音などが歩行者に直接に被害を与えないように配慮される必要がある。また、歩行者の横断のためには、現在日本の都市で作られているような歩道橋ではなく、むしろ車道を低くするなりして、歩行者に過度の負担をかけないような構造とし、さらに、センターゾーンを作ったりして、交通事故発生の確率をできるだけ低くする配慮をすることが要請される。と同時に、住宅など街路に沿った建物との間にもまた十分な間隔をもうけ、住宅環境を破壊しないような措置を講じなければならない。(p.161)
 いったいどれくらいの費用がかかるのだろう…と腰が引けたら、もう"自動車を優遇すべき"という呪術にからめとられている証拠ですね。(私もそうですが) その費用は、自動車の所有者・運転者に払っていただきましょう。エコカー減税などという世迷い言を言っている場合ではなく、エコカー増税と非エコカー大増税。人権を蔑ろにした経済成長路線から、いいかげんに脱却すべきだと思います。財界、および自動車産業から「冗談じゃない」という大きなブーイングが発せられるでしょうが、それを抑え込む、高い見識と志をもつ政党を応援したいものです。

 なお最近読み終えた『税金を払わない巨大企業』(富岡幸雄 文春新書)によると、実効税負担率の低い大企業の第15位に富士重工業、第18位に日産自動車、第25位に本田技研工業、第30位にトヨタ自動車、第32位にスズキがランクされています。なんなんだ、これは。
by sabasaba13 | 2015-06-04 06:29 | | Comments(0)

『チェルノブイリ28年目の子どもたち』

 『ルポ チェルノブイリ28年目の子どもたち』(白石草 岩波ブックレット)読了。山ノ神が同名の映像報告を見ていたく感銘を受け、その場で購入したブックレットです。薦められて私もすぐに一読、福島との落差に愕然としました。裏表紙に載っていた概要を転記します。
 1986年4月に発生したチェルノブイリ原発事故から28年が経つウクライナを丹念に現地取材。現在でも、多くの子どもが、白血病やがんをはじめ様々な疾患を抱える。子どもたちの命と健康を守るために、学校と医療機関の連携や定期的な保養など、国・自治体による多様な取り組みが行われている。福島原発事故を経た今、日本はチェルノブイリの経験をどう活かすべきか。
 著者の白石氏は非営利のインターネット放送局「OurPlanet-TV」を主宰するジャーナリストです。この取材をするきっかけをつくったのは、2012年秋、福島原発事故の影響を受けた地域の子どもたちを支援している三人の方です。放送局のオフィスを訪れた彼ら/彼女らは思い詰めた表情でこう切り出したそうです。「チェルノブイリをビデオで取材してほしいのです」 事故から一年半以上経つのに、政府は子どもを被曝から守る対策をまったくとっていない。十分な情報もない。自分たちが何をすれば、子どもたちを守れるのか。チェルノブイリの現状を知って、そこから子どもたちを守る術を学びたいということですね。
 チェルノブイリ原子力発電所があったウクライナは今、財政難がピークに達し、内戦状態でもあります。しかし事故で被害を受けた人たちへの健診や保養は欠かすことなく、中でも子どもたちの健康は常に国策の中心に置かれていることがよくわかりました。学校現場や保養キャンプでのさまざまな取り組みについては本書をご一読ください。ぜひ紹介したいのは、子どもたちを守ろうとする大人たちの真摯な姿勢と固い決意です。白石氏がインタビューされた三人の方の言葉に耳を傾けてください。
コロステン病院のアレクサンドル・ザイエツ医師
 子どもたちの健康をモニタリングすることが重要です。親だけでなく学校の先生も協力し、健康異常の早期発見が必要なのです。日本もウクライナも、事故の影響を最小限に食い止めなければならない。ウクライナにはチェルノブイリ法という法律があり、被災者は年に一度必ず健康診断を受けます。子どもはもちろん大人もです。日本も同じでしょうね。必ず続けるべきです。(p.13)

キエフ第177学校のイリーナ・スタシュフカ校長
 残念ながら、100%健康な子どもはいなくなりました。健康レベルは高くはなりません。学校こそ、子どもの健康を守る役割を果たさなければなりません。(p.49)

教育科学省・一般教育校担当のコトゥセンコ・エレーナ主任専門官
 保養は続けるべきです。27年が過ぎましたが、まだ汚染地域に住んでいる子どもがいます。ですから残念ですが、まだまだ健康管理は続けなければなりません。保養というのは大事な対策なので国はこれからも継続する考えです。私たち大人にとって大事なのは子どもたちの健康です。日本の皆さんにも子どもの健康を大切にするようにしてほしいです。(p.63)
 それに比べて日本の現状はどうかというと…
 2014年8月17日、全国紙五紙と福島県の地方紙二紙に、「放射線に関する正しい知識を」と題した政府広報が掲載された。IAEA保健部長のレティ・キース・チョム氏と東京大学医学部附属病院放射線科准教授の中川恵一氏の講演内容をもとに構成した全面広告で、東京新聞の取材によると一億円をかけているという。
 チョム氏は「人類が登場するよりもはるかに昔から、放射性物質による放射線の放出は、われわれ地球の営みの一部」であるとした上で「かなり高い線量でない限り、健康への影響は出ない」と主張する。また中川氏は、「わずかな被ばくを恐れることで、運動不足などにより、生活習慣が悪化し、かえって発がんリスクが高まるようなことは避けなければならない」との持論を展開。「広島や長崎でさえ遺伝的影響はなかったと考えられて」いるにもかかわらず、福島県内の女子生徒の多くが将来の出産に不安を抱えているとして、「メディアの報道の仕方に問題はなかったのでしょうか」と述べている。
 私はこの政府広報を目にしてショックを受けた。被害は起こらないはずだから、口に出すなという政府の強い意志が読み取れたからである。(p.66~7)

 福島県で二人の子どもを育てている40代の母親は、「美味んぼ」騒動が起きて以降、これまで以上に被曝に関する話題を口にできなくなったと嘆く。事故当時、小学校四年生だった息子は、事故の三カ月後に大量に鼻血を出し、体調を崩した。現在は中学二年生になるが、疲れやすく、ぐったりと横になることが多いという。しかし、こうしたことを相談できる相手は少ない。国の態度は、現実に起きている事実を封印する役割を果たしているのである。(p.76)
 いやはや… ウクライナ政府は被曝した子どもたちの保養のために約16億円を使い、日本政府は被曝という事実を封印するために1億円を使う。
 子どもたちの健康被害を無視するということは、子どもたちを救わないということは、日本に末来はないということです。「日本の存立」にとって最大の危機ですよね。
 2014年7月の閣議決定において日本政府は、"集団的自衛権は、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」に行使する"と明言しましたよね。いやはや。日本の存立を脅かし、国民の生命、自由及び幸福追求の権利を根底から脅かしているのは、間違いなく日本政府です。安倍伍長、日本政府から私たちと子どもたちを守ってください。
by sabasaba13 | 2015-05-24 08:11 | | Comments(0)

『オスプレイの真実』

 朝日新聞夕刊(2015.5.18)の一面を見て、溜息をつきました。やれやれ、この危険な軍用機がこれからどんどん沖縄の、そして日本の空を飛び交っていくのだな。まずは政府や防衛省のお花畑のような暢気なコメントなど信用せず、事実を確かめるのが何より大切です。以前に読んだ『オスプレイの真実』(赤旗政治部「安保・外交」班 新日本出版社)を元に紹介します。
 オスプレイとは何か? 正式名称はV-22、プロペラの角度を変えることによってヘリコプターのように垂直に離着陸でき、飛行のように水平に飛行できるアメリカの軍用機です。なお「オスプレイ(Osprey)とは猛禽類の一種「ミサゴ」のこと。
 このオスプレイの問題点は、アメリカでは「ウィドー・メーカー(widow maker)」、つまり"多くのパイロットを殺して未亡人をつくる軍用機"と呼ばれるほど墜落事故が多いことです。米軍の資料によると2006~11年の五年間だけで58件、死者も出ています。これは人為的ミス(human error)ではなく、機体の構造的欠陥によるものだという指摘がされています。具体的には、強襲揚陸艦への搭載を可能にするため、二つの回転翼が小さいことが原因のようです。強襲揚陸艦で世界中のどこへでも殴り込みをかけるため、安全性を二の次にしたのですね。また軍事評論家のカールトン・メイヤー氏は、「オスプレイ開発に関わる企業が43社あり、配備強行の背後には議会や軍需産業の圧力がある。米軍最大のスキャンダルだ」と憤ります。
 そして敵レーダーに見つからないように飛行する低空飛行訓練が、日本全国で行なわれる予定です。地上約60mで行なわれるこの訓練は、日本の航空法では禁止されているのですが、政府は容認しています。考えられうる最悪の事態は、オスプレイが核(原子力)発電所近くで墜落し、深刻な事故(severe accident)につながることでしょう。

 やれやれ。2014年7月の閣議決定において日本政府は、"集団的自衛権は、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」に行使する"と明言しましたよね。いやはや。日本の存立を脅かし、国民の生命、自由及び幸福追求の権利を根底から脅かしているのは、アメリカ政府と在日アメリカ軍、およびその植民地政権として尻尾を思いっきり振っている日本政府ではないのかな。安倍伍長、米軍と日本政府から、私たちを守ってください。

 もう一つ気になること。同新聞の記事を引用します。
 海兵隊仕様のMV22は、米軍普天間飛行場に24機配備されており、陸上自衛隊も同機種のオスプレイを2018年度までに米側から計17機購入することを決め、佐賀空港への配備を検討している。
 教育や福祉の予算を削って、widow makerを17機も買うわけですか。なぜ? やはりメイヤー氏が言うように、議会や軍需産業の強烈な圧力を受けたアメリカ政府からの強要なのでしょうか。あるいは…考えたくもないのですが…危険だと知りつつ、事故によって国民の生命が脅かされるのも知りつつ、日本政府が飼い主に頭を撫でてもらうために、自主的に購入を決定したのでしょうか。わん。まさかね、いや有り得るな。おそらくその双方でしょう。いずれにせよ、率先垂範、まずは安倍伍長専用機として使用してほしいものです。ちなみに、米軍のオスプレイが配備されている国、そして自国軍隊のためにオスプレイを購入した国、これから購入予定の国を知りたいですね。メディアはこうした報道をすぐにして下さい。もしかしたら、日本だけ?

 先日紹介しました『終わりと始まり』(朝日新聞出版)の中で、池澤夏樹氏はこう指摘されています。
 2004年8月の沖縄国際大学の米軍ヘリ墜落事件で米軍はまことに横暴にふるまったが、幸いこの事故では住民への被害はなかった。今もしオスプレイが墜ちて、もし1959年の宮森小学校米軍機墜落事件のようにたくさんの死者が出たら(小学生11人、一般住民6人)、抗議する沖縄人は基地になだれ込むだろう。米兵は彼らを撃つかもしれない。(p.218)

by sabasaba13 | 2015-05-19 06:32 | | Comments(0)

『シリーズ 京の庭の巨匠たち 2 植治』

 『シリーズ 京の庭の巨匠たち 2 植治 七代目小川治兵衛』(京都通信社)読了。次回から、小川治兵衛の庭編を掲載する予定ですが、その執筆に際してたいへん参考になった本です。まずは裏カバーから、植治を紹介する一文を転記します。
七代目小川治兵衛-通称「植治」(1860‐1933)
「水と石の魔術師」と評される卓抜した表現力と創造力をそなえた植治。その植治を支えたのは、京都の歴史が育んだ都市文化、なかでも人為・人工についての美的感覚ではなかったか。自然を打ち消し、再現することで都市が存在するなかで、自然を人為的・仮想的に表現する文化やアートは、京都においてさまざまに発展していた。絵画しかり、華道しかり、盆栽しかり。しかも、欧米の事情を視野に入れつつ行動する山縣有朋、伊集院兼常らの富裕政財界人と出会い、新しい時代の思潮、西欧的な暮らしを学んだ植治は異文化を知ることで逆に、京都の伝統文化にアイデンティティを求めた。自然なもの、素朴な表現、いわば田舎的な感覚から距離をおくことを洗練の尺度とした京都の美感-人工の美を庭の世界で突き詰めたのが植治ではなかったか。京都の都市民が共有する伝統文化と変革の明治という時代的要請とが融合した姿、それが植治の庭だといえようか。
 本書は、彼の代表作である並河靖之七宝記念館庭園、無鄰庵庭園、平安神宮神苑、何有荘庭園(旧和楽庵)、円山公園、碧雲荘庭園(野村別邸)、高台寺土井庭園(旧十牛庵)、「葵殿庭園」と「佳水園庭園」(ウェスティン都ホテル京都)を美しい写真と的確な解説で紹介します。他にもさまざまな専門家へのインタビュー、座談会、植治の年譜と作品、庭園用語の解説など、充実した内容の一冊。とりわけ嬉しいのは、写真を撮影したポイントが記されている正確な見取り図が載せられていることです。プロの眼が選んだ美しいアングルを追体験できるというのがいいですね。また庭園の所在地がわかる正確な地図や、公開・非公開についての情報も役に立ちました。
 植治ファンには必携の一冊。なお同シリーズには、「小堀遠州」「重森三玲」「重森三玲Ⅱ」がありますがこれらもお薦めです。今は「中根金作」の発売を首を長くして待っています。
by sabasaba13 | 2015-05-14 06:29 | | Comments(0)

『地に呪われたる者』

 『地に呪われたる者』(フランツ・ファノン みすず書房)読了。ずっと前から読もうと思いながら積ん読だけだったのですが、ようやく念願が叶い読み終えました。まずはスーパーニッポニカ(小学館)から、彼のプロフィールを引用します。
フランス・ファノン Frantz Fanon (1925-61) フランス領西インド諸島のマルティニーク島出身の黒人精神科医、思想家。フランスで精神医学を修め医師となるが、白人社会における黒人の矛盾に満ちた立場を分析した『黒い皮膚、白い仮面』(1952)で世に出た。ついでアルジェリアの病院に勤務したが、アルジェリア独立運動に共鳴して1956年病院を辞しアルジェリア民族解放戦線(FLN)に参加し、その指導的理論家となった。アルジェリア独立をみることなく61年病気療養先のアメリカで客死するが、その著作とくに『地に呪われたる者』(1961)は単に植民地体制を暴力そのものであると告発した反植民地主義の理論の書であるばかりでなく、ヨーロッパ文明に対する根源的批判の書として第三世界の民族運動やアメリカの黒人解放運動に大きな影響を与えた。
 ファノンが行なった、ヨーロッパ文明への根元的批判とは何か。彼の言葉を借りて、ヨーロッパ文明の問題点を列挙すると次のようになるでしょう。仕事の能率と強化と速度を最優先すること、人間を片輪にする方向へ引きずり、頭脳を磨滅・混乱させるリズムを押しつけること。そして"追いつけ"という口実のもとに人間をせきたてて、人間を自分自身から引きはなし、人間を破壊し、これを殺してしまうこと。人間の機能を病的に分裂させ、その統一を粉々にしたこと。人種的憎悪・奴隷制度・搾取を蔓延させ、15億の人びとの血を流させたこと。
 ではわれわれはどうすればよいのか。漠然とした物言いですが、ファノンは次のような美しく力強い言葉を語っています。
 否、われわれは何者にも追いつこうとは思わない。だがわれわれはたえず歩きつづけたい、夜となく昼となく、人間とともに、すべての人間とともに。(p.183)
 私なりに考えれば、こうなるでしょうか。追いつこうとしない、言い換えればヨーロッパ文明を否定すること。あるいは自己目的としての経済成長を追い求めないこと。歩き続けること。黙従も忍従もせず、無関心にも無気力にもならず、抵抗を続けること。言うは易く行うは難し、でも私たちの行く手を照らしてくれる篝火に値する言葉だと思います。

 もう一つ、宗主国(旧植民地権力)と植民地支配層(ブルジョワジー)の関係についての鋭い指摘を紹介します。
 だが後進国にあっては、すでに見たごとく真のブルジョワジーは存在せず、存在するのはガツガツした強欲貪婪な、けちな根性にとりつかれた、しかも旧植民地権力から保証されるおこぼれに甘んじている、一種の小型特権層(カースト)である。この近視眼のブルジョワジーは、壮大な思想や創意の能力におよそ欠けていることを露呈する。(p.100)
 …あれっどこかで見たことがあるようなシチュエーションですね。…おおっアメリカと日本の関係だ。"ガツガツした強欲貪婪な、けちな根性にとりつかれた、しかもアメリカ合州国から保証されるおこぼれに甘んじている、一種の小型特権層(カースト)"、安倍伍長率いる自由民主党、高級官僚、財界のお歴々に熨斗をつけて進呈したいものです。さらに深刻なのは"この近視眼のブルジョワジーは、壮大な思想や創意の能力におよそ欠けていることを露呈"しているのに、われわれ一般市民の多くが、それに気付かない、あるいは無関心であることです。アメリカと大企業の利益の前には、沖縄や福島をはじめとする一般民衆の利益など屁とも思わないという既定路線にしがみつくしかない、壮大な思想や創意の能力を欠く、ガツガツした強欲貪婪な、ケチな根性にとりつかれた御仁たち。ちょっと気にしてちょっと本を読んでちょっと考えれば分かりそうなものですが。
 これはもう病気かもしれませんね。ジャン=ポール・サルトルが序に書いた一文にちょっと手を入れれば、"日本はかつて国の名であった。用心しよう、2015年にはそれが神経症の名前かもしれないのだ"。
by sabasaba13 | 2015-05-12 06:32 | | Comments(0)

『終わりと始まり』

 『終わりと始まり』(池澤夏樹 朝日新聞出版)読了。氏の著作は二つしか読んだことがありません。アイヌの眼から日本近代のあり様を鋭く批判した小説『静かな大地』と、ユニークな箴言集『叡智の断片』。ともに面白く、かつためになったので、また彼の著作を読んでみたいなと思っていた矢先、2009年から2013年まで朝日新聞に連載されたコラム集である本書を知りました。さっそく購入してあっという間に読み終えてしまいました。イラク戦争後の混乱、オバマ大統領の当選、東日本大震災といった状況の中、日本という国のあり様が、いかにいかがわしく胡散臭いものであったかを、容赦なく指弾されます。その快刀乱麻の鋭い舌鋒には快哉を叫びたくなりました。よくぞ言ってくれた、ブラーボ。簡にして要を得た明快な文章、意表をつく卓抜な比喩、それらを支えるヒューマンな感情。
 時あたかも、オバマ大将と安倍伍長の日米首脳会談が開かれたところです(2015.4.28)。インターネットの記事を拝見すると、そこでは意味不明で曖昧で身勝手な言葉が発せられています。曰く、"アジア太平洋地域や世界の平和構築に向けた関係強化"、曰く、"(※日米関係は)ルールに基づく国際秩序の構築に寄与してきた"、曰く、"力や強制により一方的に現状変更を試みることで主権や領土一体性の尊重を損なう国家の行動は国際秩序への挑戦"。やれやれ、このお二人にはきちんと歴史を勉強してほしいものです。はい、ここで問題です。第二次世界大戦後、世界で最も、世界の平和構築およびルールに基づく国際秩序の構築を脅かし、力や強制により一方的に現状変更を試みることで他国の主権や領土一体性の尊重を損なってきた国家はどこでしょう?
そうした軽くて薄っぺらい言葉に、池澤氏の重く分厚く鋭い言葉を対峙させてみましょう。その志の差は歴然とします。
 先日のボンの会議で日本が提唱した2020年までの温室効果ガス削減目標の数字は落胆と失笑を買った。この国では目前の利を求める産業界がことの流れを決め、政府はそれに奉仕し、国民は無関心、という構図をそのまま映すものだった。(p.26)

 では、この長い歳月に対して、国民はどこまで責任があるのだろう? この政権を選び、それを保持してきたこと。それ以上に、少数者に不利を押しつけて安閑としてきた多数者のおごりと怠惰。(p.73)

 小泉政権はあからさまなリバタリアン(自由至上主義者)だった。儲けられる立場の者はいくらでも儲ければいい、政治はそれを応援するという姿勢。好況になれば富は下の方まで流れてくるという、いわゆるトリクルダウン理論だが、これはまったく機能しなかった。下流で待っていても何も来ないという悲しい流し素麺。(p.81)

 国民が一致団結している方が国は強い、と為政者は考える。彼らの理想は軍隊のような完璧な上意下達の組織だ。基本にあるのは国家のための国民という考え(大型トラックか戦車を運転しているような気分なのだろうが、その力の源はエンジンであって、為政者自身の筋力ではない)。
 それが民主主義は多数決という欺瞞と重ねて使われる。小学生の頃からこの欺瞞を何度聞かされたことか。(p.118)

 独裁者は社会を縦軸に沿って造る。
 自分の意向が下へ下へと滞りなく届く。それだけ。
 もし国民の間に不満の声があるとしても、それは風のない日の煙のように、ただ上へ昇るものでなければならない。
 大事なのは横方向の連絡を断つことだ。国民が自分たちの不満を語り合ってはいけない。何よりも彼らが自分たちの数を知ってはいけない。潜在的な力を覚ってはいけない。
 そのために秘密警察と密告奨励の制度が作られ、横向きの不満の声を摘み取って上に届ける。やがて声の源へ鉄槌が下る。
 天安門事件を起こさせたのはあの広場の広さだった。集まった十万人の人たちは自分たちの数を目で見て確認した。それが彼らの力になった。(p.120)

 子犬が室内で粗相をしたら、その場へ連れて行って、鼻面を押しつけ、自分が出したものの臭いを嗅がせて頭を叩く。お仕置きをして、それはしてはいけないことだと教える。そうやって躾けないかぎり室内で犬を飼うことはできない。
 我々はこの国の電力業界と経済産業省、ならびに少なからぬ数の政財界人から成る原発グループの首根っこを捕まえてフクシマに連れて行き、壊れた原子炉に鼻面を押しつけて頭を叩かなければならない。(p.150)

 1950年代にこの病気が発生して以来、加害者であるチッソと県ならびに国は、
 患者の訴えを無視し、
 原因をすり替え、
 責任を回避し、
 謝罪を拒み、
 事態を矮小化し、
 補償の額を値切り、
 収束を宣言しようとしてきた。(p.185)

 2004年8月の沖縄国際大学の米軍ヘリ墜落事件で米軍はまことに横暴にふるまったが、幸いこの事故では住民への被害はなかった。今もしオスプレイが墜ちて、もし1959年の宮森小学校米軍機墜落事件のようにたくさんの死者が出たら(小学生11人、一般住民6人)、抗議する沖縄人は基地になだれ込むだろう。米兵は彼らを撃つかもしれない。(p.218)

 平和というのはただのんびりした状態ではなく、戦争の原因を排除しつづけて得られる微妙な安定である。今、ヨーロッパ各国の間に戦争の気配がないのは彼らの努力の成果だ。それに対してアメリカはどこかで戦争をしていないと運営できない国のように見える。(p.222)

 どちらの国でも普通の人々は誰が戦争で利するのか考えた方がいい。というぼくの声が中国の普通の人たちに届くとは思えないが、同じように考える人があちらにもたくさんいることをぼくは信じている。(p.222)

by sabasaba13 | 2015-05-10 07:06 | | Comments(0)

『日本はなぜ原発を輸出するのか』

 『日本はなぜ原発を輸出するのか』(鈴木真奈美 平凡社新書)読了。鈴木氏は、以前に拙ブログで紹介した『核大国化する日本』(平凡社新書336)を書かれた方で、核や原子力に関する問題を調査し追及されているジャーナリストです。
 さて、福島原発事故の原因究明や責任の追及も十分になされず、いまだ事故収束の見込みもたたず、周辺住民の健康被害への対処も等閑にされ、被害への補償の目処もたっていないのに、なぜ自民党や政府は原発の輸出に拘るのか。その答えは、原子力産業の維持と“国産”の原子力技術の保持にあるというのが、著者の結論です。以下、引用します。
 濃縮技術の拡散に対する世界の目は厳しくなる一方だ。商業的にはほとんど機能していない六ヶ所村濃縮工場を日本が保持することに対し、海外から疑義が出ても不思議ではない。日本政府は世界から非難されることなく濃縮技術を持ち続けるため、同工場は国際的な核燃料供給保証に活用可能であることを、この備蓄事業を通じてアピールし、それを既成事実化してしまいたいのだろう。(p.112~3)
 原子力プラント建設や核燃料供給による利益のために、原発再稼動を強行しようというのが自民党や政府の狙いのようです。さらに世界で原子力プラントの供給能力をもつ国々は一握りしかなく、その特権的なポジションを獲得するため(p.231)。そして核兵器製造の潜在的な技術やノウハウを保持するためでもあります。NPT体制の下で、日本のような「非核兵器国」が核兵器製造に直結する核燃料サイクル技術を、世界から掣肘を受けないように保持するには、国内に一定規模以上の原子力発電を商業規模で維持する必要があるからですね。核兵器製造能力を隠すためのイチジクの葉っぱということですね。やれやれ、こうなると核兵器廃絶を提唱する日本政府の姿勢も眉唾に聞こえてきます。著者によると、1961年から2009年までの約50年間で国連の核軍縮決議に対する賛成率は平均55%、1980年代には30%の年もあったと記録されているそうです(p.217~8)。

 そして鈴木氏は、核エネルギー利用を拡大し続け、さらには福島原発事故を引き起こした日本人は、地球全体からみれば加害者であると強く主張されています。とくに海洋への意図的な放射能放出と現在も続く垂れ流しは、現世代だけでなく将来世代に対しても、地球規模の放射能汚染を強要することになってしまいました。被害者として、加害者として、私たちは核エネルギー依存から抜け出す道を切り開いていかなければならない。そして世代を超える、これほど重要な問題を、いつまでも少数の閣僚たちによる決定に委ねておいてはならない。どのようなオルターナティブがありうるかを含め、開かれた議論が必要であると締めくくられています(p.228~9)。
 また胡散臭い話として、海外の新規原発建設の事前調査に投入されている納税者の金の不可解な使途についての指摘がありました。ベトナムのニントゥアン第二原発建設計画の事業化可能性調査(フィージビリティ・スタディ)に関わる2011年度分予算は、なんと東日本大震災復興予算の一部があてられたそうです。原子力輸出による利益は東北にも還元されるという理屈ですが、被災者・被害者の方々を愚弄する行為ですね(p.113~4)。

 なかなかメディアが伝えてくれない裏の事情がよくわかりました。あらためて原発再稼動の中止と一刻も早い全原発の廃棄を求めます。ただこの問題は、原発の可否という視点からだけでなく、もっと大きな視点、中野敏男氏言うところの「犠牲やリスクを不平等に配分する差別的な秩序」という視点からも考えるべきだと思います。原発の輸出や再稼動などによって、とてつもない犠牲やリスクを押しつけられる人々の視点が欠かせないのではないか。原発周辺に暮らす人びと、輸出先の国に暮らす人びと、原発労働者、ウラン鉱山の労働者、そして放射能や核廃棄物を押しつけられる将来の世代。一部の特権階級のために、多くの人びとに犠牲やリスクを押しつけるシステム。ここからいかにして脱却するか。みんなで議論をし、考えていきたいものです。
by sabasaba13 | 2015-03-25 06:25 | | Comments(0)

『希望と憲法』

 『希望と憲法 日本国憲法の発話主体と応答』(酒井直樹 以文社)読了。どなたがおっしゃったのか失念しましたが、アメリカにとって日本は暗証番号が必要ないATMのようなもの。切ないけれど上手い! 山田君、座布団一枚。米軍基地問題にしろ、新ガイドラインにしろ、TPPにしろ、まるで属国…いや植民地と言った方がよいような状況です。安倍伍長を筆頭に、愛国者、右翼、ナショナリストの皆々様方は屈辱を感じないのでしょうか。摩訶不思議です。この調子で集団的自衛権を容認し、アメリカ合衆国の走狗・爪牙となって世界を大混乱に陥れ、手を取り合って奈落の底へと落ちていくのは真っ平御免、どうすればよいのでしょうか。それについて考えるために、戦後の日米関係について分析した本を読み漁っていた時に出会ったのが本書です。著者の酒井氏は、アメリカのコーネル大学教授。日本思想史、文化理論、比較思想論、文学理論など広範な領域で活躍されている方です。
 まず、「現在、合州国の軍隊はイラクの人民を外敵から守るためではなく、イラクにおける合州国の権益と傀儡政権を守るために駐留している。ちょうど同じように、合州国の駐留軍は主として日本における合州国の権益と傀儡政権を守るために日本に駐留していた。(p.19~20)」という一文を読んで、バールのようなもので後頭部を殴られて目から鱗が落ちたような気持ちになりました。そうか、まだるっこしいことを言わずに、戦後の日本政府はアメリカの傀儡政権と考えればいいんだ。戦前に日本が支配した満州国のようなものなのですね。それでは溥儀にあたる傀儡は誰か。はい、昭和天皇です。1942年9月14日に、エドウィン・O・ライシャワーがアメリカ政府に提出した「対日政策に関する覚書」に以下のような指摘があるそうです。
 ドイツとイタリアでは、ナチとファシストの統治に対する自然な嫌悪を期待できます。それはとても強い感情でしょうから、この嫌悪のおかげで人口の大きな部分が国際連合に協力する政策の側に支持を切り替えることになるでしょう。これとは対照的に日本では、戦後の勝利に至るこのような容易な方法は可能ではありません。日本では、注意深く計画された戦略を通じて思想戦を勝ち取ることが我々には期待されるでしょう。当然のことながら、第一歩は、喜んで協力する集団を我々の側に転向させることであります。そのような集団が日本人の少数派しか代表しない場合には、我々に喜んで協力する集団は、いわば傀儡政権ということになるでしょう。日本は何度も傀儡政府の戦略に訴えてきましたが、たいした成功を収めることはできませんでした。というのも、彼らが用いた傀儡が役不足だったからであります。ところが、日本それ自身が我々の目標に最も適った傀儡を作り上げてくれております。それは、我々の側に転向させることができるだけでなく、中国での日本の傀儡が常に欠いていた素晴らしい権威の重みをそれ自身が担っております。もちろん、私が言おうとしているのは、日本の天皇のことであります。
 これには驚きました。1942年9月(ミッドウェー海戦の三ヵ月後)の時点で、アメリカの勝利は確信され、戦後日本の傀儡として昭和天皇を利用する、つまり"国体を護持"するプランがあったのですね。以下、"植民地主義"と"人種主義"をキーワードにして、日米関係についての快刀乱麻を断つような鋭い分析がくりひろげられていきます。
 論点は多岐にわたり、とても私の力ではまとめきれませんが、印象に残った点を二つ紹介します。まず、第二次大戦後におけるアメリカの世界戦略を「植民地主義」と分析した上で、その特徴を四つにまとめられています。
 Ⅰ 合州国の主権が直接及ぶ領土の外にあってしかも合州国が実質的に支配する地域に、合州国とは別の国家主権を建前上容認する。軍事的に占領した地域でも、合州国は直接統治をせず主権を住民の代表に委譲する。形式上、合州国とその国家との間には対等な外交関係があることになる。
 Ⅱ 同盟あるいは集団安全保障の口実で、その地域に合州国の軍事施設を置き、地位協定によって軍事活動についての治外法権を保つ。軍事施設は租界であり、その範囲内には現地の主権は及ばない。軍事施設を口実にして、治外法権を密かに維持するのである。
 Ⅲ 旧来の宗主国と植民地の間にみられるような直接の統治は避け、地域の国家には表立って干渉することをできるだけ避ける。その代わり、諜報機関や秘密裏の政治資金導入などのさまざまな非公式の手段や公共媒体の回路を通じて、その国家の政策や国民の政治意識に影響を与える。ここで、親米的なマス・メディアの養成は重要な事業となる。
 Ⅳ その地域の国家が合州国の許容できない政策や政体をもつに至ったときは、政治指導者の暗殺、反対勢力によるクー・デ・タ、さらには軍事的手段などによって政権を変更する。(p.174~8)
 なおⅢに関連して、酒井氏は「岸信介と佐藤栄作が50年代にCIAに資金援助を要求し活動資金を得ていたことはすでによく知られており(New York Times, 11 October 1989.)、この二人の兄弟宰相は、韓国の李承晩やイラクのサダム・フセイン、インドネシアのスハルト、チリのアウグスト・ピノチェトなどとともに、合州国が作り上げた戦後世界の支配体制で極東における重要な一環をなしたのである」と指摘し、"植民地の原住民政策担当者"と評しています(p.183~4)。安倍伍長、本当ですか。

 そしてこの植民地主義と密接にからんでいたのが、世界を人種の位階として把握し、白人の優位を基本とする世界秩序を維持しようとする人種主義です。以下、引用します。
 ダレスがもっとも恐れたであろう選択肢とは、日本人が「エリートクラブ」に入ることを拒絶し、ダレスの(そして当時の合州国の政策決定者一般の)エリート根性の前提になっている、世界を人種の位階としてしか見ることのできない意識そのものを軽蔑することであった。つまり、人種や文明の範疇によって上下関係を構想するのではなく、「エリートクラブ」に参加することで得意がっているような意識そのものを密かに拒絶することである。それは、社会的な平等という普遍性に実践的にコミットすることである。ダレスが日本人に期待したのは、そのような普遍性という選択肢を進んで放棄することであり、だからこそまさに「日本人には人種主義者になって貰わなければならない」と彼は感じていたのである。(p.201)

 おそらくダレスが日本人に期待したのは、世界秩序の基本を告発するような傲慢さをもたない、世界の秩序を受け容れ、そのなか身の程相応の立場を喜んで引き受けるような心性を身につけることなのである。それは、いわば反省意識をもつ主人と即自的な秩序のなかで主人による認知を求める下僕からなる役割分担のなかの、下僕の役割を引き受けることであった。(p.203~4)

 それだけではない。特殊主義的な国民性に自足するかぎり、日本国民は第三者に、西洋と日本といった対-形象的な構成の機制を越えて語りかける能力を始めから欠く者として予定されることになる。西洋に関心が一方的に独占されてしまっているために、アジアの人びとを対等な対話の相手として扱う能力が育たない。つまりアジアの人びとに対して日本人は人種的優越感をもっているので、彼らには開かれた態度で接近しようとはしない。ダレスが半世紀前に意図したように、日本はアジアの人びとから分断されたままである。だから、小泉政権下で起きた「靖国問題」ほど、東アジアの現実がジョン・フォスター・ダレスの遺産によって未だに憑かれていることを見事に示す事例はなかったのである。「日本人には人種主義者になって貰わなければならない」とは、まさにこのような事態をも含意していたのである。自らの国民的アイデンティティに自己憐憫的にかかわる者たちや、他者に開かれることよりも国民共同体のなかに閉じることによって自己慰安を確保しようとする引き籠り国民こそが、合州国の政策によって密かに期待されていたのである。(p.213~4)
 白人の「エリートクラブ」の一員に加えてもらい、有色の他人種を見下し、他者との会話を忌避して"日本人"の中に閉じこもって自己慰安に耽る。かなり憂鬱になりますが、鋭い視点だと思います。アメリカの属国化に何の疑問も持たず、靖国問題や領土問題やヘイト・スピーチなど、アジアの隣人との軋轢や緊張を平然とかもす日本、なるほどこう考えると理解できます。
 これからの日米関係やアジアとの関係を考える上で、重要な論点を多々知ることができました。お薦めの一冊です。
by sabasaba13 | 2015-03-09 06:39 | | Comments(0)