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函館・札幌編(39):恵庭(15.9)

 「狸の湯 ドーミーイン札幌ANNEX」に戻り、山ノ神と合流。チェックアウトをして地下鉄に乗って札幌駅へ行き、JR千歳線に乗り換えて新千歳空港へと向かいます。途中に「恵庭」という駅がありましたが、ここが恵庭事件の舞台となった地なのですね。重要な事件ですので、日本大百科全書(小学館)から転記します。
 自衛隊法が民間人に適用された初の事件であり、4年間の全訴訟過程において自衛隊(法)の合憲・違憲が争われた。1962年(昭和37)12月11日北海道石狩支庁(現石狩振興局)管内の恵庭町(現恵庭市)の自衛隊島松演習場内で、牧場経営者野崎兄弟が演習用通信線数か所を切断した。演習場付近ではすでに1955年以来ジェット機の射撃訓練、大砲実弾演習によって難聴や家畜の乳量・受胎率低下などの被害が続いており、野崎兄弟はたび重なる抗議のすえ、万策尽きてこの挙に出たものであった。事件は当初通常の器物損壊事件として捜査されたが、1963年3月札幌地検が自衛隊法第121条違反(防衛用器物損壊)として起訴するや、自衛隊の違憲性を問う裁判として注目を集めた。以降、判決まで40回にわたる公判で、多数の憲法学者と400人に及ぶ大弁護団が自衛隊違憲論を展開し、地裁の憲法判断が期待された。しかし1967年3月の判決は憲法判断に触れず、両被告の行為が自衛隊法第121条の構成要件に該当しないとして無罪を言い渡した。検察側の控訴放棄で判決は確定したが、新聞は「肩すかし判決」と評した。
 ったく、日本の司法ときたら腰が引けまくりですね。しかし同じ北海道で、1969(昭和44)年に、夕張郡長沼町に自衛隊の地対空ミサイル「ナイキ・ハーキュリーズ」基地を建設するため、政府が国有林の保安林指定を解除したことに端を発し、自衛隊が合憲か違憲かをめぐる長沼ナイキ訴訟が起こります。1973年、一審の札幌地方裁判所(福島重雄裁判長)は原告の訴えを認め自衛隊を違憲とし、かつ国民の「平和的生存権」擁護の立場から保安林指定解除処分の取消しを命ずる画期的な判断を下しました。いわゆる"福島判決"です。しかし二審の札幌高裁も、最高裁も、一審判決を破棄しました。その際に、自衛隊が違憲か否かという高度に政治的な判断は司法審査の範囲外であるとする「統治行為論」を展開しました。行政府や立法府が違憲と疑われる行為をしても、それが"高度に政治的な判断"だと裁判所が認定すれば、憲法違反という判断をしない。これが日本国憲法を安楽死させた「統治行為論」、立憲主義の墓碑銘(epitaph)です。国家権力という怪物を縛る鎖、国家権力というライオンを入れる檻が、ほとんど機能していないのが日本という国家です。政府にとってこれほど楽な国はないですね、何をしても憲法違反に問われないわけですから。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-02-20 06:24 | 北海道 | Comments(0)

函館・札幌編(38):札幌(15.9)

 朝目覚めてカーテンを開けると、爽やかな晴天です。ただ残念ながら新千歳空港10:30発の便しかとれなかったので、どこにも行かずにすぐにホテルを発たなければなりません。朝の散歩がてら日本キリスト教団札幌教会(旧札幌美以教会堂)を見にいきませんかと山ノ神を誘うと、「行かない、寝てる」と即答。らじゃあ。
 佐藤製薬のマスコット「サトちゃん」に挨拶をして少し歩くと、道の彼方に赤レンガの北海道道庁旧本庁舎が見えました。
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 大通公園には、「さっぽろオータムフェスト」の出店が建ち並んでいました。生産者や料理人、醸造者などの作り手を紹介しながら北海道全域の農産物・海産物を販売するお祭りだそうです。その近くに「家ごとにリラの花咲き札幌の人は楽しく生きてあるらし」という吉井勇の歌碑があったのには、これまで気がつきませんでした。彼が1955(昭和30)年に札幌を訪れたときに残した「北遊小吟」五首のうちの一首だそうです。
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 青空を突き刺すように屹立するテレビ塔を通り過ぎ、その先にある創成川を渡ると日本キリスト教団札幌教会がありました。八角柱の尖塔と青い屋根がチャーミングな愛らしい教会です。
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 ほんとうは久しぶりにイサム・ノグチ作のブラック・スライド・マントラを訪れたかったのですが、そろそろ出発の時間です。ホテルに戻りましょう。途中にあった北陸銀行札幌支店に、北海道と北陸の関係を紹介するポスターが貼ってあったので後学のために転記します。
 蝦夷地が北海道となった明治以降、政府はロシアに対する警備や資源開発を目的として北海道の開発に着手。やがて全国的に北海道への移住が本格化していった。中でも中心となったのは北陸であり、1886(明治19)年から1922(大正11)年までの37年間で、富山県、石川県、福井県からの移住戸数は約10万7千戸。全移住者の20%余りを占めている。これに伴って北陸の言葉や風習が道内各地に伝わっていった。勤勉で粘り強い北陸人気質は、開拓の最前線でいかんなく発揮され、現在でも代表者が北陸三県出身である道内有力企業の数は、170社以上に上っている。

 北前船は、船の重心を安定させるために積んだ石を各地に残したが、金沢の兼六園のシンボル徽軫灯篭(ことじとうろう)もその一つ。北前船主で加賀藩の豪商、木谷(きや)藤右衛門が寄進したといわれる。藤右衛門はのちに、北陸銀行前身である金沢第十二国立銀行の頭取を務めた。
 へー、あの有名な兼六園の徽軫灯篭は、北前船のバラストだったんだ、知りませんでした。
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 「モダン仏壇」という看板がありましたが、どんな仏壇なのだろう? 見てみたいものです。狸小路を歩いていると「札幌国際短編映画祭」「難民映画祭」というポスターがありました。こちらも興味ありますね。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-02-18 09:17 | 北海道 | Comments(0)

函館・札幌編(37):モエレ沼公園(15.9)

 それではモエレ沼公園に行って、ライトアップされた「海の噴水」を見ることにしましょう。私は以前に見たことがあるのですが、山ノ神は未見。ぜひ見せてあげたく思います。開始時刻は午後六時半、現在の時刻は四時半なので余裕の吉田健一で着けると思ったのですが…甘かった。乗り込んだバスが渋滞に巻き込まれ、なかなか右折できません。大幅に時間をロスして新札幌駅に到着。さてここから札幌駅へと向かいますが、選択肢はJRと地下鉄の二つです。前者の空港快速は10分で着きますが一時間に四本。地下鉄は20分かかるが頻繁に出ています。一か八か前者を選択したところ、5分後に快速がありました。乾坤一擲の賭けに勝利。
 札幌で地下鉄東豊線に乗り換え環状通東駅へと向かいますが、17:45発のバスに乗らないと間に合いません。環状通東駅に着いたのは17:44、やる気満々の山ノ神はエスカレーターを脱兎の如く駆け上りますが、片方のゴム底がないので滑って前のめりに転んでしまいました。ぶちゃ。可哀そうに額・肘・膝を強打、額にはブッチャーのようなギザギザの傷痕が… 思わず腰が引けた小生を叱咤激励し、先陣を切る山ノ神。やれやれ、辛うじてバスに間に合いました。
 「モエレ沼公園東口」にて下車して速足で十分ほど歩くと、噴水に到着したのがジャスト18:30。セーフ。
 そしてライトアップされた「海の噴水」を鑑賞。イサム・ノグチが手がけた、直径48mの噴水芸術です。千変万化する水と、それを鮮やかに照らす様々な色の光、見惚れているうちにあっという間に十五分間が過ぎました。
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 バス停に戻り、やってきたバスに乗って環状通東駅に戻ります。途中、車窓から「洋服の青山」の「スーツ販売着数世界№1」という看板が見えました。そして地下鉄東豊線に乗って札幌駅へ。午後八時半に「炭焼き成吉思汗やまか」を予約してありますが、まだ時間があるのでJRタワー展望室T38に上がって札幌の夜景を楽しむことにしました。
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 まあ何ということもない平板な夜景でしたが、入場料720円は高いですね。
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 そして「炭焼き成吉思汗やまか」へ、席が全てうまるほどの人気店、予約をしておいてよかった。手切り生ラム・ラム肩ロース・マトン肩ロースがセットになった「盛り合わせ」を注文、癖や臭みのないジューシーなジンギスカンを堪能しました。餃子のような「羊(ラム)のパリパリ焼」も美味しいですね。
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 ホテルへ戻り、余市で買ったウイスキーをナイト・キャップにして就寝。さあ明日はいよいよ最終日です。
by sabasaba13 | 2019-02-16 06:23 | 北海道 | Comments(0)

函館・札幌編(36):「夷酋列像」展(15.9)

 さあそれではじっくりと拝見しましょう。前述のように、「クナシリ・メナシの戦い」の際に、松前藩が鎮圧のため武力などを背景に協力させたアイヌの有力者たちの肖像です。威風堂々とした風貌、頑強な体躯、鋭い眼光、豪華な蝦夷錦、思い思いのポーズをとる十二人の長たちとのご対面です。弓をひくシモチ、槍をもつイコトイ、鹿を背負うノチクサ、犬を連れたポロヤ、子熊を連れたイニンカリ、巨躯のツキノエ… その圧倒的な存在感を、あますところなく活写した波響の筆の冴えにも脱帽。そして何よりも胸を打たれたのは、アイヌに対する畏敬の念が絵にほとばしっていることです。未開な民族として侮蔑し見下す視線は、片鱗も感じられません。彼らを頤使した松前藩の威光を世に知らしめるために、実見以上に立派に描いた可能性もあるでしょうが、絵を見ているととてもそうは思えません。アイヌたちを対等な人間として描ききった波響に敬意を表したいと思います。ほんとに見にきてよかった。

 なお気になる点がひとつあります。実は2013年に納沙布岬を訪れたときに、「寛政の蜂起和人殉難墓碑」という碑に出会いました。碑文を転記します。
 寛政元(1789)年5月、国後島とメナシ(現在の標津町付近)のアイヌの人々が、当時この地域の場所請負人であった飛騨屋久兵衛の支配人らに脅かされて、僅かな報酬で労働を強いられ、やむなく蜂起し和人七十一人を殺害した。
 松前藩は、ノッカマップ(根室半島オホーツク海側)にアイヌの人々を集め蜂起の指導者三十七人を処刑した。このできごとは、"寛政クナシリ・メナシアイヌ蜂起"と称されている。
 この墓碑は、死亡した和人七十一人の供養のために文化9(1812)年に造られたと刻まれているが、誰がどこで造り、どこに建立しようとしたか、なぜ浜に打ちあげられていたかは、明らかではない。おそらく海上輸送の途中で船が難破し海中に没していたものと推定される。
 それが、造られてから丁度百年後の明治45年、納沙布岬に近い珸瑤琩の港で発見され、現地墓地入口に建立されていたが、昭和43年、国後島を望むこの地に移設したもので、当時の歴史を物語る重要な史跡である。
 この「クナシリ・メナシの戦い」については、観光案内所でもらったパンフレットに詳しい説明がありましたので、こちらも紹介します。
 蜂起直前のクナシリ・メナシ地方のアイヌたちは、過酷で強制的に働かされ続け、さらに番人の暴力、脅迫が続き、いつ何が起こっても不思議ではないという状況となっていました。そんな中、1789年(寛政元年)に国後島のサンキチが病気になり、和人から酒をもらって飲んだところ死んでしまいました。その後サンキチの弟マメキリの妻が和人から食べ物をもらい食べたら死亡し、アイヌの人々は毒殺されたと思い、国後や対岸の目梨(標津付近)にいた飛騨屋の家人や松前藩の役人達を次々に殺しました。蜂起したアイヌの人々は130人、殺された和人は71人にのぼりました。
 これを知った松前藩は260人の侍をノサップ岬に近いノツカマップに派遣しました。ノツカマップの大首長シヨンコやクナシリの大首長ツキノエ、アッケシの大首長イコトイらが松前藩に協力的であったため、松前藩との前面衝突は避けられましたが、戦いに関わった指導者ら37人がノツカマップで処刑されました。
 そう、どう見ても非は和人のほうにあります。しかしツキノエ、イコトイら大首長たちは松前藩に協力して仲間を見殺しにしてしまった。犠牲を最小限にするための苦渋の選択だったのか、松前藩による狡知なdivide et impera(分割統治)策によるものなのか、あるいは自己の利益のためにすすんで走狗となったのか。絵に描かれた、一抹の翳りのない威風堂々とした姿の内には、どのような思いがあったのでしょうか。気になるところです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-02-14 06:24 | 北海道 | Comments(0)

函館・札幌編(35):北海道博物館(15.9)

 部屋にミニボトルのセットを置いて外へ出ると小糠雨がふりだしています。地下鉄東西線で新さっぽろへ、バスターミナルへ行くと、午後二時でもうバスはない! なんたるちゃ。今さら後へは引けないので、タクシーで博物館へ行くことにしました。ところが運転手さん、北海道博物館は「開拓の村」の中にあると断言して、私たちを下ろします。あれ? 「開拓の村」の近くにあるはずだが。ま、地元のタクシー運転手さんの言うことですから間違いはな…あった。掲示されていた地図を見ると、ここからかなり離れたところにあります。やれやれ、雨の中、600mほど歩いて戻るはめになりました。おまけにタクシーから降りるとき、山ノ神の古い「ニューバランス」のゴム底が剥落してしまいました。やれやれpart2。
 やっとのことで北海道博物館に辿り着き、入場券を購入し、念のため受付の方にバスの有無を確認すると、あるとのこと。どういうこと? なお大混雑で20分待ちと言われましたが、思いの外すぐに見ることができました。
 まずはAIR DO機内誌『ラポラ』の特集記事を、後学のために転記しておきます。
 北海道南西部の桜の名所、松前町にある法源寺に眠る画人・蠣崎波響が、12人のアイヌの有力者を描いた「夷酋列像」。この原画は長く行方不明だったが、1980年代にフランスのブザンソン美術考古博物館で11点が見つかり、今月北海道博物館で公開される。海を渡った経緯は今も謎のままだ。
 「夷酋列像」は「絹本着色」という、絹地に濃淡の彩色を施す技法が使われていて、1枚のサイズはおよそ縦40cm×横30cm。モデルの人物は一人一人が強い個性を放っている。描かれているのは1789(寛政1)年、アイヌの人びとが幕府や商人たちの圧制に堪えかねて蜂起した「クナシリ・メナシの戦い」の際に、松前藩が鎮圧のため武力などを背景に協力させたアイヌの有力者たち。この戦いの翌年、松前藩主・道廣は、波響に命じて彼らを描かせた。
 波響は松前家の生まれだが、家老の蠣崎家に跡継ぎがなかったため養子となり、生涯家臣として藩を支えた。藩主の道廣は異母兄に当たる。幼少のころから画才が認められ、叔父の勧めで浮世絵や漢詩など、さまざまな文化が花開く江戸へ出て、絵師の建部綾足(あやたり)や宋紫石(そうしせき)、後に大原呑響からも絵を学んだ。また、詩人としても優れた作品を残している。
 「夷酋列像」を完成して以降、他藩の絵師によって模写されるほど、波響の名声は京都や江戸の文化人に瞬く間に広まった。一方松前家は、北方の警備体制について幕府から疑念を抱かれ、1807(文化4)年に奥州梁川(やながわ)へ領地替えとなってしまう。この時波響は大名などからの注文に応じて大量の絵を描いてはその代金で藩の財政を支え、1821(文政4)年、松前家は奥州梁川から旧領松前への復領を果たした。
 晩年の波響は60歳で職を退き、花鳥風月を愛し、好きな絵を描き続けた。かつて京都では円山応挙に学び、酒井抱一、松村呉春、村上東洲らと交遊した波響は、豊かな画風を確立していた。人柄は温かく、野菜を届けてくれた農家へのお礼に、扇面に絵を描いて感謝の気持ちを伝えたという。

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by sabasaba13 | 2019-02-12 06:23 | 北海道 | Comments(0)

函館・札幌編(34):札幌へ(15.9)

 やってきたバスに乗り込み、いざ出発。車窓から風景を楽しみながら札幌へと向かいます。「北星学園余市高等学校」という看板がありましたが、全国から高校中退者や不登校経験者などを含む多様な生徒を受け入れている高校ですね。素晴らしい。そういえば、自民党所属の衆議院議員、あの義家弘介氏の出身校でもあります。日教組や戦後教育を敵視し、森友・加計問題では安倍上等兵を思いっきり擁護し、朝鮮学校への補助金に反対し、教育勅語精神の必要性を唱え、日本軍が慰安婦を強制連行したとする主張を否定し、選択的夫婦別姓制度の導入に反対している、日本会議国会議員懇談会所属のあの御仁です。やれやれ。ちなみに彼を選出したのは神奈川16区の有権者の方々です。
 そして「フゴッペ洞窟」という看板が見えました。続縄文時代の岩陰遺跡で、壁面のいたる所に人物や動物、船など原始的な図像が陰刻されていることで知られています。見学したいところですが、路線バスゆえにそうもいきません。無念。
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 やがて左にきれいな海と迫力ある断崖が織りなす絶景が見えてきました。
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 おっこれは珍しい、「教習中」という貼り紙のあるバスを見かけました。新米の運転手さん、怖そうな教官に負けず頑張ってくださいね。ふたたび小樽駅前を通り過ぎ、高速道路に乗ります。「銭函(ぜにばこ)」という出口の表示がありましたが、縁起が良いのでこの駅の切符が人気があると聞いたことがあります。
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 そして札幌駅前バスターミナルに到着。これから「夷酋列像」を見に北海道博物館に向かいますが、ミニボトル6本セットの重さが肩に食い込みます。みしっ。山ノ神に泣きを入れてホテルへ寄ってもらいました。エレベーターを待っていると、待ち時間つぶしのための「本日の豆知識」という掲示がありました。
コーヒー・紅茶のカップに受け皿がつくのはなぜ?

 スプーンをおくため…では、ありません。
 18世紀頃のイギリスでは、紅茶を飲むときカップから受け皿にあけて、冷ましながら飲む習慣があったそうです。当時の受け皿は今よりもっと深いものを使用していたそうなのです。
 フランスでも、このような習慣があったようですが、この飲み方はちょっと無作法だったようで、労働者階級のやりかたと非難されていたのです。さすがにこの飲み方の習慣は無くなったのですが、受け皿だけが残ってしまったようです。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-02-10 07:27 | 北海道 | Comments(0)

函館・札幌編(33):余市(15.9)

 そして「ウイスキー博物館」へ。ウイスキーの貯蔵庫2棟を改装して、「ウイスキー館」と「ニッカ館」という二つの博物館がつくられています。「ウイスキー館」では、ウイスキーについての歴史や製造工程についての展示が中心です。びっくりしたのは、ウイスキーを15年熟成させた樽の断面が展示されていたのですが、半分ほど蒸発していました。そう、いわゆる「エンジェル・シェア」ですね。山ノ神が購入した料理用の日本酒を、勝手に「エマージェンシー・リザーブ」と位置づけて夜中にこっそり飲んでしまうことがあります。問い詰められると、「エンジェル・シェアじゃないすか」とか「そういえばコロボックルを見かけたなあ」と減らず口を叩くのですが、こんなにたくさん蒸発するのですね。なお有料の試飲コーナーもあったので、売られた喧嘩は買わんでか、300円を払ってシングルモルト「余市」をショット・グラスでくいっといただきました。
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 「ニッカ館」は、創業者・竹鶴政孝とリタの物語や、スコットランドで学んだ際の貴重な資料などの展示です。リタ愛用の眼鏡やマッサンが留学先で購入したコルネットなどを拝見しました。
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 さてそろそろ♪お腹と背中がくっつくぞ♪、ニッカ会館にあるレストラン「樽」に入りましたが、20分待ちとのこと。名簿に名前を記入して、隣にあるディスティラリーショップ「ノースランド」でお土産を物色。私は「ニッカウヰスキー余市蒸留所」というウイスキーと「樽」と記されたTシャツを、山ノ神はミニボトル6本セットを購入。店員さんに「重いですよ」と言われたのですが「大丈夫です」と私に秋波を送る山ノ神。はいはい、私が持てばいいんでしょ。
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 時間になったのでレストランに戻り、私はスープカレー、山ノ神はスコットランド名物のスープ、ラム肉・ハトムギ・オニオン・ニンジン・カブが入ったスコッチブロスを注文。美味しくいただきました。
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 さてそろそろ札幌へ行くバスの乗車時刻が迫ってきました。しかし、倒るる所に土をつかむ山ノ神、「ニッカ会館で試飲をするぞよ」という神託がおりました。やれやれ。彼女はアップルワインを、私はスーパーニッカをいただき、これで思い残すことはありません。
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 というわけでニッカウヰスキー余市蒸留所、なかなか素晴らしいところでした。次はぜひ、スコットランドに行ってみたいものです。エジンバラ、アイレイ島、ニューラナーク、いいなあ。バス停留所に行くと、近くの「よいち情報館」に、リタとポットスチルの顔はめ看板がありました。なおこのあたりに、リタが散歩した道を整備した「リタロード」があるそうですが、時間の関係でカット。再訪を期しましょう。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2019-02-08 06:17 | 北海道 | Comments(0)

函館・札幌編(32):余市(15.9)

 道をはさんで、単式蒸溜器(ポットスチル)が並ぶ蒸溜棟があります。余市では、昔ながらの石炭による「石炭直火蒸溜」が行われています。「石炭直火蒸溜」は温度調節が難しく、熟練の技が必要ですが、その分、芳ばしい香りと力強い味を持ったウイスキーができあがるそうです。この蒸留法を行なっているのは、世界中でここ余市だけです。奥から3番目の小さなポットスチルは創立当時に使用していた釜だそうです。注連縄をしめてあるのが印象的ですが、これは竹鶴政孝の実家でもある造り酒屋の風習です。
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 その少し先にあるのが、創業者・竹鶴政孝の事務所として、1934(昭和9)年に建てられた旧事務所です。山小屋風の洒落た佇まいが印象的ですね。残念ながら内部には入れず、ガラス越しの見学となります。
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 旧事務所の奥にあるのが、発酵棟。ホームページによると、糖化液は醗酵槽(発酵タンク)に移され、酵母を加えて、醗酵に入ります。およそ72時間を経て、アルコール度数7~8%のビール状の液体(もろみ)ができあがったら、これを地下のパイプで蒸溜工場のポットスチルへ送ります。
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 大きな窓、下見板張り、ちょこんとのったマンサード屋根がキュートな瀟洒な洋館は、旧竹鶴邸です。竹鶴政孝がリタ夫人とともに住んでいた家で、余市町の郊外山田町から移築、復元したものです。大小二棟が渡り廊下でつながっていますが、見学できるのは小さい方の玄関ホールだけでした。夫妻愛用のハイティーセット、リタ愛用の聖書・十字架、政孝がリタに贈った誕生日プレゼントの数々が展示されていますが、猫https://sabasaba13.exblog.jp/26587660/好きの小生が気になったのは"ウイスキー好き?の愛猫「ミコ」"の写真です。大麦をねらうネズミを獲るために飼われていたウイスキー・キャットかもしれません。
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 旧竹鶴邸の奥にあるのが、創立時に建てられた第1号貯蔵庫です。床は土のままで適度な湿度が保てるよう、また、外壁は石造りで夏でも冷気が保てるように設計されているそうです。樽に詰められた原酒がここで眠り、熟成していくのですね。なお展示されているのは空き樽でした。そうそう、こちらの展示で、長いこと疑問に思っていた「ブラック・ニッカ」の髭おじさんの正体がわかりました。解説を転記します。
 いくつもの香りをききわけることができるウイスキーブレンドの名人で、「ブレンドの王様(キング・オブ・ブレンダーズ)」と呼ばれた英国人「W・P・ローリー」がモデルと言われています。

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by sabasaba13 | 2019-02-06 06:09 | 北海道 | Comments(0)

函館・札幌編(31):余市(15.9)

 午前十時ころに余市駅前十字街に到着、すこし歩くと重厚な石の門が姿を現します。そう、ニッカウヰスキー余市蒸留所です。「ウィキペディア」を参考にして、紹介しましょう。1934(昭和9)年、寿屋(現サントリー)を退社した竹鶴政孝(マッサン)は、かねてからウイスキーづくりの適地としていた北海道での工場建設を実現しようとしていました。彼が目指したのはスコッチ・ウイスキーであり、ハイランドの蒸溜所と同じように力強くしっかりとした味わいのモルト(麦芽)原酒をつくることでした。北海道には原料や燃料となる大麦、石炭、ピート(泥炭)、酵母の入手が容易で、寒冷地の気候に加えて良質な水や樽に必要な木材も豊富にあるため、ウイスキーづくりに必要な条件が揃っていたのですね。そして蒸留所をつくるために選んだのがここ余市です。余市は三方を山に囲まれて北には日本海があり、適度な湿度を持ちながらも澄んだ空気や余市川の良質な水があるなどの諸条件を満たしていました。また果汁の原料となるリンゴの産地であることも工場建設の決め手になりました。ウイスキーが熟成するには長い年月を必要とするため、まずはリンゴジュースをつくってウイスキーづくりを支えようと考えたのですね。こうして「大日本果汁株式会社」を設立しました。"日本果汁"、ニッカの誕生です。1935(昭和10)年の冬、ウイスキーを蒸溜するためのポットスチル(単式蒸溜器)が届き、翌年から製造を始めました。そして1940(昭和15)年に第1号「ニッカウヰスキー」が発売されることになりました。おしまい。
 それでは見学を始めましょう。正門を入ると、幅の広い直線の道が彼方へと続き、その両側に石造りの重厚な建物群が連なっています。フォトジェニックな光景に眼を奪われました。そして何といっても、あの悪魔の機械、自動車が我が物顔に走っていません。そう、道は人間のもの、断じて車のものではありません。
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 すぐ右手にあるのが、乾燥棟(キルン塔)です。屋根に特徴がありますが、これは仏塔に似ているので「パゴダ屋根」と呼ばれるそうです。ここでは、ピート(草炭)で大麦をいぶしながら乾燥させ、発芽を止めて、大麦麦芽(モルト)がつくる作業が行なわれています。この作業は、ウイスキーにピート香(スモーキー・フレーバー)を染み込ませるためにも大切なプロセスだそうです。なお大麦を効率よく乾燥させるために、この「パゴダ塔」を考案したチャールズ・ドイグについての逸話が、「バランタイン」のHPに掲載されている「稲富博士のスコッチノート」で紹介されています。彼も、マッサンと同じく、"Unsung hero"(隠れた貢献者)のひとりです。
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by sabasaba13 | 2019-02-04 07:19 | 北海道 | Comments(0)

函館・札幌編(30):余市へ(15.9)

 朝七時少し前に目覚めると、低血圧の山ノ神がすでに起きていて、デジタル・カメラを構えてテレビの画面を食い入るように凝視しています。なんだなんだ。ああそうか、今日は月曜日、「0655」の"たなくじ"を撮るためなんだね。ぱしゃ。なになに、「敬老大吉 お年寄りを大切にすると大吉が舞い込む」ぞなもし。
 そして次の番組「日曜美術館」(だったと思いますが)で、何と「夷酋列像」が紹介されたのです。「すごい絵ねえ」と感心する山ノ神、やった、さっそく機内誌で仕込んだ知識を伝授、彼女もいたく興味をもったようで、本日の午後に余市から戻った後に北海道博物館を訪れることになりました。すぐにフロントに行ってインターネットで所在地とアクセスを確認、「北海道開拓の村」の近くなので何とかなりそうです。
 とりあえず、ニッカウヰスキー余市蒸留所へと参りましょう。地下鉄に乗って札幌駅へ、地下街を歩いてバスターミナルに行き、8:25発の余市行き「高速ニセコ号(ニセコいこいの村行き)」に乗り込みました。「マッサン」人気のためか、ほぼ満席です。いざ出発。時計台は、午前九時前だというのに、多くの観光客で賑わっていました。よく「日本三大がっかり」などと揶揄されますが、私はその清楚な佇まいがけっこう好きです。
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 バスは高速道路を走って一路西へ、高速をおりて小樽駅前を通り過ぎていきます。やがて海沿いの道となり、右手に清冽な青さの海を楽しめました。本日は好天に恵まれ、ツーリングをしているバイクもよく見かけました。
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 余市が近づくにつれ、徐々に渋滞も激しくなります。やはり「マッサン」人気なのでしょう。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-02-02 06:27 | 北海道 | Comments(0)