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奥日光編(6):イタリア大使館別荘(15.10)

 そして数分走ると、イタリア大使館別荘記念公園に着きました。ここの存在を知ったのはテレビ東京の『美の巨人たち』という番組のおかげです。設計はわが敬慕するアントニン・レーモンド、杉皮をふんだんに使った見事な意匠に息を呑みました。いつの日にか必ず訪れるぞと♪空に灯がつく通天閣におれの♪闘志を燃やしていたのですが、やっと夢がかないました。
 まずは彼のプロフィールを、エアスケープ建築設計事務所の「houzz」というサイトから引用します。簡にして要を得たすばらしい紹介です。
 チェコに生まれ、のちにアメリカ国籍を取得したレーモンド(1888-1976)が、フランス生まれのアーティストである妻のノエミ・ペルネッサンとともにライトのもとで働き始めたのは、1916年のことだった。1919年、帝国ホテル建設に携わるライトを手伝うため夫妻は東京にやって来る。それから40年以上にわたり日本で過ごすなかで、400件を超える設計を手掛け、レーモンド自身の仕事だけでなく、彼の事務所で働いていた吉村順三や前川國男らの仕事をとおして日本のモダニズム建築に大きな影響を与えることになる。
 師のライトと同じく、レーモンドも建物内で使う家具や照明すべてをノエミとともに設計しており、その土地の伝統や風土を尊重することが重要であると理解していた。1921年に独立して事務所を構えると、帝国ホテルと同じ現場打ち鉄筋コンクリートを使いながらも、その中に伝統的な日本の木造建築を思わせるディテールを加えるなど、ライトの影響下から脱する試みを始めている。またレーモンドは、1923年の関東大震災で多くの建物が崩壊してしまった東京で、フランス大使ポール・クローデルなどのために小規模な木造住宅をいくつか設計している。
 イタリア大使館別荘プロジェクトを引き受けたレーモンドは、ともに帝国ホテル設計にも携わっていた内山隈三、そして伝統的工法だけでなく新しい技術を取り入れることにも抵抗のなかった日光大工の名棟梁・赤坂藤吉と協働して作業を進めていった。赤坂は、オープンプランの間取りにも伝統的な尺貫法による間(けん)を用い、建材選びを助けたほか、天然の木材の扱いにおいて驚くべき能力を発揮した。モダンでありながら日本建築の伝統を反映したレーモンドのデザインは、用いた自然素材と絶妙に一体化しており、永久的に建物が周囲の環境に溶け込んでいるようだ。レーモンドはのちにこう記している。「日本は美しい国だ。ここでは、家のなかに自然を取り込んで人間がその恩恵を受け、身近に自然と触れながら健康的で現代的な生活を送るべきとされており、またそれが可能なのだ。」

 余談ですが、フランス大使ポール・クローデルは彫刻家カミーユ・クローデルの弟ですね。また関東大震災に際して、次のように述べていることも記憶に留めましょう。
 災害後の何日かのあいだ、日本国民をとらえた奇妙なパニックのことを指摘しなければなりません。いたるところで耳にしたことですが、朝鮮人が火災をあおり、殺人や略奪をしているというのです。こうして人々は不幸な朝鮮人たちを追跡しはじめ、見つけしだい、犬のように殺しています。私は目の前で一人が殺されるのを見、別のもう一人が警官に虐待されているのを目にしました。宇都宮では16人が殺されました。日本政府はこの暴力をやめさせました。しかしながら、コミュニケのなかで、明らかに朝鮮人が革命家や無政府主義者と同調して起こした犯罪の事例があると、へたな説明をしています。(『孤独な帝国 日本の1920年代』 草思社)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-03-20 06:21 | 関東 | Comments(0)

奥日光編(5):奥日光(15.10)

 イタリア大使館別荘に向かう途中で、イギリス大使館別荘の整備し工事をしていました。中禅寺湖畔には、各国大使館の別荘が蝟集していたのですね。当時の日光には中禅寺湖畔に数ヵ国の大使館別荘があり、「夏には外務省が日光へ移る」といわれたそうです。今では整備も終わり、公開されています。わが敬慕するイザベラ・バード女史も滞在し、友人あての手紙に「山荘から眺める風景の素晴らしさ」を綴っているそうです。いつか訪れてみたいなあ。

 後日談。朝日新聞「be」(2016.5.14)に載った「みちのものがたり」という記事に、以下の記述がありました。
 1872(明治5)年3月、まだ雪が残るこの寂しい山道を、奥日光を目指して歩く外国人青年がいた。後に駐日英国公使となる書記官アーネスト・サトウ(1843~1929)だ。
 1872年、奥日光を旅した後、サトウは英字新聞に日光案内記を連載した。3年後には英文では初の『日光ガイドブック』(ジャパン・メイル社)を出版。すでに有名だった箱根を引き合いに、中禅寺湖をこう絶賛している。「箱根の湖よりずっと絵のように美しい」 外国人として奥日光観光の口火を切っただけでなく、ほかの外国人に、その魅力を伝える役割も担った。
 それに応じ、多くの外国人が奥日光を訪れ、魅了されたことは、様々な文章から今に伝わる。たとえばベルギー公使夫人メアリー・ダヌタンは、アルプスの名勝を連想したと日記に書き留めている。「イタリアのコモ湖の風景が私の心の中に浮かんできた」…
 この湖畔の外交官らの別荘ブームを先導したのもサトウだった。日本を一時離れた後、95年に全権公使として12年ぶりに赴任したサトウは翌年、最も眺望が良い湖の南岸に別荘を建てた。英国人法律家に続く別荘だった。この公使時代の約5年間に、サトウは奥日光を31回訪れ、滞在期間はのべ218日に達した。…
 中禅寺湖に浮かべたボートに初老の男と、学生服の青年が乗った一枚の絵が残っている。サトウは日本人女性の武田兼と結婚し、2男1女をもうけた。描かれた二人は、サトウとその次男の姿だ。
 日本の後、清国の公使に転任したサトウは1906年、その職務を終えて英国に戻る途中に立ち寄ったのが、最後の日本訪問となった。船が出航延期になると、サトウは次男と連れ立ってつづら折りを登り、奥日光に向かった。絵はその1シーンだ。
 次男とは、日本山岳会の創始者の一人として知られる武田久吉(1883~1972)。サトウの勧めで英国へ留学して博士号を取り、尾瀬の高山植物保護に力を尽くして、「尾瀬の父」とも呼ばれている。
 「父は周囲の好奇な目から私たちを守ろうと英国人だった祖父の話を一切しなかった」。そうふり返るのは、久吉の孫の林静枝さん(86)だ。自分が外国人の孫であることを知ったのは、大学時代に戸籍を取り寄せてから。その後で母に、祖父が奥日光を愛した英国外交官だったことなどを教えられた。
 「サトウが険しい中禅寺坂を何度も往復し、山歩きと植物採集への情熱を傾けたことは、父にしっかりと受け継がれていたのですね」
 『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫)の著者、アーネスト・サトウの知られざる顔ですね。だから人間は面白い。
by sabasaba13 | 2019-03-18 09:54 | 関東 | Comments(0)

奥日光編(4):奥日光(15.10)

 湯川に沿って40分ほど歩くと、華厳滝、湯滝とともに奥日光三名瀑の一つと称えられる竜頭の滝に着きました。男体山の噴火によってできた溶岩の上を210mにわたり流れ落ちる渓流瀑で、滝壺付近が大きな岩によって二分されており、その様子が龍の頭に似ていることからこの名が付けられたそうです。きれいな紅葉とあいまって、見事な景観を堪能することができました。
 それではイタリア大使館別荘へと向かいましょう。菖蒲ヶ浜停留所でバスを待ちますが、もう下りの渋滞がはじまっている模様です。バスも十五分遅れでやってきましたが、ほぼ満員で座ることができません。中禅寺湖温泉手前で乗客が降り、やっと座れました。さて、ここで思案のしどころです。帰りは、東武日光17:27発のスペーシアを予約してありますが、これからさらに激しくなりそうな渋滞にはまると間に合わないかもしれません。このまま座って日光駅まで行き、その周辺をぶらつくのも一つの手。あるいは、中禅寺湖温泉で降りてイタリア大使館別荘までタクシーで行けば、渋滞のピークの前に駅に戻れそうな気もします。一か八か、のるかそるか、後者を選びました。中禅寺湖温泉で降りると…日光駅行きのバス停にはすでに長い長い長い行列ができています。やれやれ、はずしたか。気を取り直して熊と猿の顔はめ看板を撮影。
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 そして観光案内所に寄り、地図をもらって訊ねると、歩けば35分ほどだと教えてくれました。またタクシーをつかまえるのは難しく、客をおろしたタクシーに偶然出くわすのを祈るしかないとのこと。やれやれ、どうしよう。山ノ神と相談していると、案内所の前でタクシーが客をおろしました。盲亀の浮木優曇華の花! しかし係の方が、あの運転手さんは短距離では乗車拒否すると教えてくれました。しかし千載一遇の機会、駄目でもともと、近づいて運転手さんにイタリア大使館別荘まで乗せてくれと所望。すると、いっそのこと日光駅まで乗らないかと提案されました。別荘を30分見学、その間待っていて、日光駅まで5000円でよいとのこと。よろしい、のった。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2019-03-15 06:23 | 関東 | Comments(0)

奥日光編(3):奥日光(15.10)

 紅葉や水面に映る木々を愛でながら湯川に沿って木道を歩いていくと、二十分ほどで小滝にとうちゃこ。水がきれいな、小振りで愛らしい滝でした。
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 さらに湯川に沿って、平坦な道を歩いていきます。爽やかな青空、清冽な空気、煌く川の流れ、そしてさまざまな木々の紅葉を満喫しながらの心楽しいハイキングでした。
 三十分ほど歩き、小田代橋を渡ると湧水の綺麗な泉門池(いずみやどいけ)です。その遠景には、雄渾な男体山が聳えています。
 そして少し歩くと、いよいよ戦場ヶ原が見えてきました。奥日光のほぼ中心に広がる湿原で、その昔中禅寺湖をめぐって、男体山の神と赤城山の神が争った「戦場」だったという神話から、「戦場ヶ原」と呼ばれるようになったそうです。かつては湖であったものが、400ヘクタールの広大な湿原となり、今では高山植物や野生動物の宝庫となっています。国際的に重要な湿地として「ラムサール条約」にも登録されています。心が広がるような湿原を彩る草紅葉、それを見まもるように聳える山なみ、素晴らしい景色です。
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 そこに凛として屹立する白樺の孤独な佇まいに心惹かれました。田村隆一の「きみと話がしたいのだ」という素敵な詩の一節を思い出します。『詩集 1977~1986 田村隆一』(河出書房新社)から引用します。(p.72~3)
孤立はしているが孤独ではない木
ぼくらの目には見えない深いところに
生の源泉があって
根は無数にわかれ原色にきらめく暗黒の世界から
乳白色の地下水をたえまなく吸いあげ
その大きな手で透明な樹液を養い
空と地を二等分に分割し
太陽と星と鳥と風を支配する大きな木
その木のことで
ぼくはきみと話がしたいのだ

 本日の七枚です。
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by sabasaba13 | 2019-03-13 06:24 | 関東 | Comments(0)

奥日光編(2):奥日光(15.10)

 そして07:43発の東武日光線快速に乗り込みましたが、かろうじて座れたもののけっこうな混雑でした。新栃木と下今市の間の谷に、ブルーシートが敷かれてありましたが、先日の豪雨の爪痕でしょう。下今市駅で列車を切り離し。前部が鬼怒川へ、後部二両が日光へ向かいます。先頭一両がいやに込んでいたので二両目へ避難しました。山ノ神が小耳にはさんだところによると、すぐに降りてダッシュ、バスに乗るためだそうです。08:25に東武日光駅に着きますが、その少し前から車内の空気が殺気立ち、みなさん心なしかそわそわとし始めます。到着と同時にダッシュしてバスに乗り込み座席を確保するためですね。とうちゃこ、われわれも速足で駅前の停留所へ、やれやれどうにか座ることができました。そしてバスは通路に乗客をぎっしり詰め込んで出発。
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 それにしても、ほんとうに人間を大切にしない国ですね、ここは。以前に、カナダのウィスラーでスキーをした時、バスが満席になると、すぐに増便されて次のバスがやってきました。法律で、乗客を立たせてバスを走らせる行為は禁止されているのかもしれません。乗客を立たせたまま羊腸のいろは坂をのぼるなどという没義道な行為は、観光地にあるまじきものだと思います。
 日光物産商会の古い建物、神橋の前を走り抜け、バスは第二いろは坂を登りはじめます。
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 そろそろ山も錦に染まり、車窓からの眺望を楽しめました。なおカーブごとに「と 7カーブ」といった看板が設置されていました。明智平の駐車場にはもうたくさんの車が停めてありましたが、ここから標高473mの展望台までロープウェイが出発するのですね。男体山・いろは坂・日光市街の眺望がよいそうです。
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 明智平からは二車線が一車線となり、いよいよ渋滞がはじまりました。やがてバスは中禅寺湖畔へ、紅葉の綺麗な山々と青い湖を満喫していれば渋滞もさほど気になりません。
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 バスは菖蒲ヶ浜のあたりで右折し、奥日光へと向かいます。「さかなと森の観察園」を通り過ぎ、「湯滝入口」に到着。やれやれ、東武日光駅から二時間強かかりました。それでは日光戦場ヶ原ハイキングコースを歩きましょう。まずは湯滝、三岳溶岩流の岩壁を湯ノ湖の湖水が流れ落ち、途中で二股に分かれる豪快な滝です。青空と紅葉と相俟って素晴らしい景観をなしていました。
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 なおすれ違ったハイカーの女性が「湯ノ湖の紅葉、綺麗だったね」と話しているのを耳にし、食指が動きましたが、いかんせんもう午前11時をまわっています。帰りの混雑を考慮して、訪れるのは諦めました。いつの日にか、奥日光に宿泊してのんびりと楽しむことにしましょう。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2019-03-11 08:45 | 関東 | Comments(0)

奥日光編(1):栃木(15.10)

 2015年の10月11日ですから、もう三年前ですね。日光戦場ヶ原の草紅葉がきれいだと常々耳にしていたので、山ノ神を誘って訪れることにしました。また、アントニン・レーモンド設計により中禅寺湖畔に建設されたイタリア大使館別荘も素晴らしい建物なので、こちらも見学する予定です。しかし、日光・結構・大和観光、おまけに紅葉の時期ですから、大混雑が予想されます。できるだけ早い時刻に着きたいのですが、インターネットで調べたところあまりアクセスがよろしくありません。背に腹は代えられない、西武池袋線練馬駅5:22発の列車に乗ることにしました。起きられるかなあ。持参した本は『京都ぎらい』(井上章一 朝日新書531)です。

 午前5時少し前、目覚まし時計の不愉快な電子音に起こされました。睡魔と手を取り合って、洗顔と身繕いをし、まだ暗い中を歩いて練馬駅に到着。西武池袋線に乗って池袋へ、JR埼京線に乗り換えて赤羽へ、JR宇都宮線に乗り換えて栗橋へ、東武日光線に乗り換えて新栃木駅へ。(はあはあ) 乗り換えの連続で、青息吐息です。乗り換え時間が少しあるので駅前に出ると、ゆるキャラの「とち介」人形が展示されていました。頭に載っているのは蔵の屋根ですね、きっと。以前に何回か訪れましたが、ここ栃木は蔵造りや古い洋館が建ち並ぶすてきな街です。駅舎には『路傍の石』から引用された山本有三の言葉がありましたが、彼はここ栃木の出身なのですね。
 たったひとりしかない自分をたった一度しかない一生をほんとうに生かさなかったら人間うまれてきたかいがないじゃないか

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by sabasaba13 | 2019-03-09 06:25 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編2(10):円福寺大利根霊園(16.12)

 そして二十分ほどペダルをこいで八千代緑が丘駅へ、ブロンプトンを折りたたみ、東葉高速線に乗って西船橋へ。武蔵野線に乗り換えて南流山へ。つくばエクスプレスに乗り換えて流山おおたかの森へ。東武アーバンパークラインに乗り換えて梅郷へ。あーややこしかった。
 向かうは、日本人9名が朝鮮人と誤認されて自警団に虐殺されるという「福田・田中村事件」の慰霊碑のある円福寺大利根霊園です。ブロンプトンを組み立てて地図を頼りに三十分ほど走ると、左手に〒印のついた古いお宅がありましたが、たぶん旧福田郵便局なのかな。余談ですが、このマークは「逓信」の「テ」からとられたもので、世界共通ではありません。そして円福寺大利根霊園に着きました。
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 広大な墓地ですので探しあてられるのか心配でしたが、幸い事務所がありました。係の方に慰霊碑の場所をお聞きすると、ご丁寧にそこまで案内してくれました。事務所の前の道を奥へすこし歩くと駐車場で、そこの右手にありました。「関東大震災福田村事件犠牲者 追悼慰霊碑」と刻まれた、黒い石の慰霊碑です。

 合掌

 それでは『世界史としての関東大震災 アジア・国家・民衆』(関東大震災80周年記念行事実行委員会編 日本経済評論社)所収の、石井雍大氏の論文をもとに、事件の概要を紹介します。1923年9月6日午前10時ごろ、千葉県東葛飾郡福田村(現・野田市)三ツ堀において、香川県の売薬行商人の一行15名が朝鮮人とされ、女、子どもを含む9名が、福田、田中村(現・柏市)の自警団によって殺害されるという事件が起こります。生存者・太田文義氏の証言によると、三ツ堀近くの香取神社で、船賃のことで交渉していると渡し場の船頭が騒ぎだし、福田村・田中村の自警団が押し寄せてきて、「君が代を歌え」「教育勅語」「『一五円五〇銭』をいってみろ」等のやりとりがあった後、「怪しい者はやってしまえ」ということで虐殺しました。言葉づかい(讃岐弁)や、めずらしい黒い羽の扇子を持っていたことも疑惑のもとだったそうです。
 事件後間もなく、千葉地方裁判所で裁判が行なわれますが、被告たちは、例外なく「郷土を朝鮮人から守った俺は憂国の志士であり、国が自警団を作れと命令し、その結果誤って殺したのだ」と陳述しています。驚くべきことに、予審判事は裁判の始まる前から「量刑は考慮する」と新聞紙上で語っています。さらに大正天皇の死去による恩赦で、一番長く刑務所にいた者でも、拘留期間を除くと一年半ぐらいの服役にしかなりませんでした。
 懲役三年の実刑判決を受け服役した田中村のT氏は、その後村長選挙に当選して村長に就任しています。また、検挙が始まった10月2日、田中村の会議で四人の被告に対し、見舞い金の名目で一人90円の弁護費用を出すことを決め、それを村の各戸から均等に徴収しています。(同書 p.76~8)
 なお石井雍大氏は、行商団の人たちが日本人であると分かっていて虐殺したのではないかと指摘されています。そのうえでの氏の論考を引用します。たいへん重要な論点だと思いますので。
 それでは、福田・田中村事件の場合、行商団の人たちが「朝鮮人ではないのでは」と、少なからずわかっていたにもかかわらず、殺害に及んだのはどうしてか。そこにもまた同じ日本人であっても貧しそうな行商人に対する蔑視や差別の構造があったと考えられるのである。
 事件に巻き込まれた香川県の行商団の人たちは、被差別部落の人たちであった。香川県の場合、所有農地が少ない農家(平均五反)が多く、小作率も全国一である。したがって、被差別部落の人たちが、たとえ土地を買いたくてもなかなか売ってもらえない、また小作をしたくてもさせてもらえない状況があった。そのような理由から、少なからぬ被差別部落の人たちは行商に出ざるをえなかったのである。
 部落差別を受け、行商を生業とせざるをえなかったため、大方は貧しい境遇であった。このことも行商人一行に対する目に見えるかたちでの蔑視、偏見、差別の要因になった。「どうせ、どこから来たのかも知れぬ行商人ではないか」こんな意識が働いたことは十分考えられる。
 事件が「朝鮮人と誤認され」といわれているが、単に日本人の民族排外心理一般の中での誤認事件ということだけではカバーしきれぬ問題があると考えざるをえない。(同書 p.79~80)
 碑の裏面に犠牲者の氏名と年齢が刻まれていますが、その中に「晴好 六歳」「つ多江 四歳」「イソ 二十三歳」「イソ 胎児」という文字を見出して固唾を呑んでしまいました。四歳と六歳の子供、そして妊婦を殺したのか。卒塔婆の一つに「惨死」と書かれていたのも印象的でした。
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 貧しげなよそ者をみんなで面白がって殺した、ついでに子供と妊婦も… そうとしか考えられません。この恐るべき非人間的な残虐性を、どう説明すればよいのでしょうか。言うまでもなくこうした残虐な行為は、後のアジア・太平洋戦争において、中国人をはじめアジアの人びとに対して繰り返されます。たとえば『中国の旅』(本多勝一 朝日新聞出版)におさめられている馮景亭さんの証言を紹介しましょう。
 強姦された二人の女性のうち、気娘は局部に箒(ほうき)をさしこまれ、さらに銃剣を突き刺されて殺された。妊婦のほうは腹を銃剣で切り裂かれ、胎児が外にえぐりだされた。放火された自分たちの家々に火の手が大きくあがるのを見て耐えられなくなった三人の男が、日本兵のかこみを命がけで突破して家の方へ行こうとした。行かせまいとする兵隊たちともみあいになったが、まもなく三人は燃えさかる一軒の中へ押しこまれ、扉を外から閉められた。ほとんどその直後にその家は屋根が焼けおちた。二歳の男の赤ん坊がいた。騒ぎに驚いて大声で泣きだした。抱いていた母親から赤ん坊を奪った兵隊が、火の中へ放りこんだ。泣きさけぶ母親は、水路の中へ銃剣で突き落された。
 この非人間的な残虐性から目を逸らさず、真っ向から受け止め、そして何故なのかを考え抜くこと。自分の課題としていきたいと思います。さもないと、これからもずっと私たちは、さまざまな形での"残虐性"に苛まれ続けることになってしまいます。
思うに、歴史を修正したがる方々は、日本人のもつこうした"残虐性"を認めたくないのかもしれません。でも仕方ありません、歴史的事実なのですから。

 さてこの事件で、犠牲者たちは利根川に投げ込まれ、遺体はおろか遺骨も見つかっていません。そして事件の全容がほぼ明らかになった現在でも、いまだ遺族に対して謝罪がなされていません。福田村(現・野田市)でも田中村(現・柏市)でも、一切の記録・資料を残しておりません。
 ただ、2000年に、「福田村事件真相調査会」(香川県側)と「福田村事件を心に刻む会」(千葉県側)が設立され、多くの方々からの浄財を得て、結実したのがこの慰霊碑です。なおその過程で、香川県から碑の裏に「関東大震災直後の1923年9月6日、おりからの流言蜚語を信じ、行政機関によって組織された旧福田村、田中村の自警団によって、ここ三ツ堀において、香川県三豊郡出身の売薬行商人一行十名が非業の死を遂げた。私たちは、二度と歴史の過ちを繰り返さぬことを誓い、ここに芳名を記し、追悼の碑を建立するものである」という一文を刻む提案があったそうです。しかし結果的に刻まれませんでした。ただ裏面の左側にやや広めの空白部分があり、いつの日にか、この一文を刻むことを想定しているのかもしれません。

 そして夕闇が刻一刻と心身を包みゆく中、一心不乱にブロンプトンのペダルをこいで梅郷駅に到着。一路、帰途につきました。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-29 08:11 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編2(9):なぎの原(16.12)

 そして本に掲載されている地図を頼りに二十分ほどペダルをこぐと、虐殺の現場となった「なぎの原」に着きました。しかし私有地か共有地なのでしょうか、柵で囲われており中には入れません。
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 ここが先述した『震災日記』に"又鮮人を貰ひに行く九時頃に至り二人貰ってくる都合五人(ナギノ原山番ノ墓場の有場所)へ穴を掘り座せて首を切る事に決定"と記されていた場所です。合計六人の朝鮮人が殺害されてここに埋められました。

 合掌

 『地域に学ぶ関東大震災』によると、聞き取り調査によってこの事件が明らかにされたのが1973年、それ以来住民の方々は毎年慰霊祭を行なわれているそうです。それから25年経った1998年9月24日に「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」によって遺骨の発掘が行なわれました。大竹米子さんによると、地域住民を説得するのに時間がかかり、記録を残さず写真を撮らない、マスコミなど関係者以外は入れない、という条件で行なわれました。そして土に還る直前の遺骨六体が見つかりました。大竹さんによると、遺体はバラバラではなくきちんと重ねられて埋められていたそうです。なお発掘の費用は、「自分たちの問題だから」ということで全額この地区の方々が負担しました。
 そして遺骨を火葬にし、高津観音寺の納骨堂に納め、1999年には「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」が建立されましたが、その費用も地区の方々が負担したとのことです。なお実行委員会は、慰霊碑の裏に事件の概要を刻んで欲しいと望みましたが、「軍隊にやらされたとはいえ、今でも辛い」という住民の方々の思いにより、それはなされませんでした。

 ブロンプトンにまたがり十五分ほど走ると、大和田新田にある「無縁仏之墓」に着きました。1972年に付近の住民によって建てられた墓で、このあたりで交通事故で行き倒れになった無縁の方との合葬だそうです。なお石の下に骨はおさめられていません。碑文には「大和田新田下区有志一同建立」とありました。

 合掌

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-28 08:25 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編2(8):八千代(16.12)

 それではこの事件に関する慰霊碑を訪ねましょう。これらは広範囲に点在しているので、ブロンプトンの威力が発揮されました。まずは八千代中央駅からほど近い萱田長福寺にある「震災異国人犠牲者 至心供養塔」です。幸い、境内をお掃除されていた女性がいらっしゃったので場所を尋ねると、墓地の一番奥にあるとのこと。指さす方向に向かって進むとすぐにわかりました。
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 1983年に建立、村の共同墓地移転の際、そこに埋められていた三人の朝鮮人の遺骨が移され、納められています。事件を目撃した住民の提案で建てられました。

 合掌

 そして京成線のガードをくぐって八千代市市民会館へ。入口右側に中台墓地があり、中へ入ると「無縁供養塔」がすぐに見つかりました。関東大震災七〇周年記念集会で、目撃者が証言した後、1995年に地区の発意で建立されました。これだけでは朝鮮人慰霊のためとはわかりませんが、後ろにまわると、卒塔婆の一つに「関東大震災朝鮮人犠牲者」と記されていました。
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 合掌

 さて、さすがに空腹になりましたが、渡りに舟、すぐ近くにラーメン屋「こてメン堂」と和食「味の民芸」がありました。ラーメン屋は店内で行列ができていたのでパス、それにしても風変わりな店名ですね。こてメン堂…こてめんどう…こて・めん・どう… そうか! (パンッ) 篭手・面・胴、剣道の決まり手ですね。ま、それはともかく隣にあった「味の民芸」で皿うどん定食をいただきました。
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 ふたたびブロンプトンにまたがって、近くにある村上橋を渡って土手をすこし左に走ると、「戦災水難横死萬施餓鬼流灯供養菩提也」と記された角塔婆があります。"横死"という表現ですが虐殺された朝鮮人を慰霊するためのもので、八千代仏教会が毎年たてかえているそうです。
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 合掌

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-27 06:31 | 関東 | Comments(0)

虐殺行脚 千葉編2(7):八千代(16.12)

 前置きが長くなりましたが、朝鮮人の「保護」「選別」「殺害」の舞台となった習志野収容所(高津廠舎)跡を訪れてみましょう。どのあたりだったのでしょう…わからない。実は『地域に学ぶ関東大震災』に掲載されている地図が詳しいものではなく、また私も探知能力の欠如とあいまって、結局わかりませんでした。実籾駅の近くであることは間違いないのですが。「猪木ピンチ」という状況にもなり、無念ですが探索を断念しました。

 実籾駅に着き、ブロンプトンを折りたたみ、駅のトイレに駆け込んで用を済ませ、京成本線に乗って勝田台へ。東葉高速線に乗り換えて八千代中央駅で下車し、ブロンプトンを組み立てていざ出発。これから、このあたりの地域住民のみなさんが建立した慰霊碑等をまわります。実は彼らによる朝鮮人虐殺と、既述の習志野収容所が深く関わっています。9月7日から9日にかけて、習志野に駐屯する騎兵隊は、習志野収容所に収容されている朝鮮人を周辺の村の農民に渡して殺させました。これは大竹米子先生と習志野市立第四中学校郷土史研究会の生徒たちによる聞き取り調査と、地域住民から提供された日記史料によって明らかとなりました。7日の午後4時頃、高津廠舎より「鮮人を呉れるから取りにこい」との知らせがあって、7日夜から9日夜にかけて二度にわけて18人をもらってきました。高津地区では新木戸地区と共同で6人を切りました。5人は入会地の山番小屋付近の寺の境内で、残る1人は大きなイチョウの木にしばりつけて殺したということでした。提供された『震災日記』から引用します。(『関東大震災・虐殺の記憶』 p.211~2)
七日 …午后四時頃バラック(※習志野収容所高津廠舎)から鮮人を呉れるから取りに来いと知せが有ったとて急に集合させ主望者に受取り行って貰ふことにした。東京へ送るべく米二俵本家の牛で桝次に搗きにやらせる事にして牛を借りにやると大和田からとりに来ると云ふので荷車で付けてやる。夜中に鮮人十五人貰ひ各区に配当し高津は新木戸と共同して三人引受お寺の庭に置き番をして居る。

八日 太左ヱ門の富治に車で野菜と正伯から米を付けて行って貰ふにする小石川に二斗本郷に二斗麻布に二斗朝三時頃出発。又鮮人を貰ひに行く九時頃に至り二人貰ってくる都合五人(ナギノ原山番ノ墓場の有場所)へ穴を掘り座せて首を切る事に決定。第一番邦光スパリと見事に首が切れた。第二番啓次ボクリと是は中バしか切れぬ。第三番高治首の皮が少し残った。第四番光雄、邦光の切った刀で見事コロリと行った。第五番 吉之助力足らず中バしか切れぬ二太刀切。穴の中に入れて埋め仕舞ふ皆労れたらしく皆其處此處に寝て居る夜になるとまた各持場の警戒線に付く。

九日 今日から日中は十八人で警戒し夜は全部出動する事になり皆非常に労れて何處でもゴロゴロ寝て居る。昨日行った富治が帰って来るかと待って居ると中々帰って来ない。夕方漸く帰る釜壊し仕舞った為買って来て呉れた金四円五十銭富治立替へて呉れる。夜又全部出動十二時過ぎ又鮮人貰って来たと知らせ有る之は直に前側に穴を掘って有るので連れて行って提灯の明りて梅松切る皮が少し残る是で首を切るには刀の善悪により刀が良ければ誰でも切れる事に決定した随分刀も害ったが新木戸中嶋光雄君の刀以外スパリと切れる刀はない。
 聞き取り調査による証言も紹介します。まず萱田地区の君塚国治さんの証言です。(同 p.213~4)
 暴れて困る質の悪いのをつれてきたんだから、生かして置くわけにいかん。部落部落にもらってきた部落のものが処分しなければいかん…朝鮮の奴は何としても鉄砲でうってくれという、そうか、他では夜のうちに三本立てやってつるして下から火を燃やしたところもあるらしいね。そんなまねはできない。本人のいう通りにしてやろう、今のあのもみお墓地に穴ほって、当人のいう通りに鉄砲でうってやれ、うつまでが大変だ、話すれば簡単に言うけれど、同じ人間をひどい目にするんだからね、中にゃこいつ悪いことしただからよ、めんどうくさいから刀でぶっさすべ、いうのもあるしね、みんな刀もってんだからね、そんなこと言わずにまぁ穴ほって倒れれば落ちるようにしておいたのです。最後に撃つ者もあまり気持ちよくないというわけです、なかなかやってくれないんだよね、おめえやれとか、そっちやれとか、カリウドやった人に頼んだけど人をやったらこの鉄砲は使いもんにならないちゅうわね…とうとう鑑札をうけた鉄砲もっている人にやってもらったけどね…葬るまでの間が大変でしたよ…もうそれは地震があってから一か月から、そのくらいたってからだね、涼しくなってたからね。(1977.10)
 同萱田地区、本郷氏と阿部こう氏の証言です。(同 p.214)
 それこそ伝家の宝刀持ち出してさ、猟銃で撃ったりね、手も足もしばっちゃったんだからかわいそうだったね、船橋のマツシマという所に土木工事にきてたんだって、何度も言ってたがもう殺気立ってて聞き入れなかった。(結局、みんなで何とはなしに殺しちゃったが、阿部) 一人やるとき一人見せて、哀号、哀号ってないてたぞって、(二人殺すのを一人は目をあけて見せておいたって言うから、ずい分残酷なことをしたもんだね、阿部)、こっちは二人、二人だもん(そういうことはずっとみんなの中で言わないでこられたでしょう)、だってもう、あたりさわりのない方がいいからね、まして敗戦後、朝鮮そのものがねぇ、下手にしゃべっておかしなことになってもつまらないしさ。(1976.7.29)
 一読、慄然とします。「牛を借りる」「釜を買ってもらう」「代金を立て替えてもらう」といった何気ない日々の営みに、殺人の様子や刀の切れ味といった非人間的な行為が違和感なく同居しています。そして言うまでもなく、国家権力にとって目障りな朝鮮人を選別し、住民に殺害させて責任を転嫁する、その底無しの卑劣さ。民衆の責任と国家の責任、ともに免れることはできないと思います。
by sabasaba13 | 2017-04-26 06:27 | 関東 | Comments(2)