カテゴリ:関東( 355 )

鎌倉錦秋編(7):安国論寺・妙本寺(15.12)

 そして安国論寺に着きました。解説にあったように、安房から鎌倉に入った日蓮が初めて草庵を結んだ所の一つです。彼は、20年この地で過ごし、その跡が寺となりました。『立正安国論』は、ここで著されました。熱心な法華信者であった土光敏夫の墓所もあるそうです。
 なお「鎌倉の松葉が谷の道の辺に法を説きたる日蓮大菩薩」と刻まれた、正岡子規の歌碑がありました。後学のため、解説を転記します。
正岡 子規
 慶応3年9月17日(1867年10月14日)生、明治35年(1902年)9月19日没。
 俳句・短歌・新体詩・評論・随筆など多方面にわたり革新的な創作活動をし、日本の近代文学に大きな影響を与えた。
 明治21年7月・明治26年3月と2回鎌倉に遊んでいる。本歌は当山に参詣した時のことを、『竹乃里歌』に鎌倉懐古の題で詠んだ中の一首である。日蓮聖人の強烈な精神性に共鳴し、随筆「日蓮」を遺している。讃仰者といってもよいだろう。当歌碑は自筆から製作したもので、レリーフは門下の香取秀眞の子息正彦の作である。
c0051620_12525987.jpg

c0051620_12531894.jpg

c0051620_12533595.jpg

 すぐ近くにある長勝寺も、日蓮が結んだ草庵の跡ですね。石段を覆うような大きなカエデが見事でした。なおこのお寺さんは桜の名所とのこと、春には再訪したいものです。
c0051620_12535037.jpg

 安養院は、1225 (嘉禄元)年、北条政子が夫・源頼朝の冥福を祈って建てた長楽寺が前身といわれます。"安養院"は政子の法名ですね。政子の墓と伝えられる宝篋印塔がありました。あまり紅葉はありませんが、5月にはオオムラサキツツジが寺を埋め尽くすそうです。なお黒澤明の墓もありますが、残念ながら非公開です。
c0051620_1254514.jpg

 そして本日の〆は妙本寺です。日蓮宗の寺院ですが、もともとは比企能員の屋敷で、1203(建仁3)年、比企一族が、北条氏を中心とする大軍に攻められて滅ぼされた悲劇の地でもあります。広々とした境内と静謐な雰囲気、私の大好きなお寺さんです。これで今年の紅葉狩りもおそらく最後、名残惜しいですが去りゆく錦秋を見送りました。
c0051620_1254217.jpg

c0051620_12543489.jpg

by sabasaba13 | 2019-09-07 06:26 | 関東 | Comments(0)

鎌倉錦秋編(6):報国寺(15.12)

 報国寺は境内の1000本の孟宗竹林で有名な「竹の寺」です。期待はしていませんでしたが、やはり紅葉はあまりありません。なお「やぐら」がありましたが、報国寺の開基である足利家時や永享の乱で自刃した足利義久のものだそうです。
c0051620_12351782.jpg

c0051620_12353142.jpg

 それでは安国論寺へと参りましょう。久しぶりに迫力ある釈迦堂切通しをくぐれるなと、旧友に再会するような気持ちで向かいます。洞門のような切通しゆえ崖崩れの危険があり、通行禁止となっているのですが、そこはそれ、蛇の道は蛇と言いますか…むにゃむにゃ… ん? 前回は通行禁止の看板が一枚だけだったのですが、今回は行政当局の断固たる不退転の決意を示すように五枚に増殖しています。ただならぬ妖気を感じますね。近所の方はどうしているのでしょうか、しばらく紫煙をくゆらして待っていましたが誰も現れません。よろしい、×××××××、×××××××××××××。
c0051620_12361050.jpg

 途中に「日蓮上人辻説法跡」という記念碑がありました。後学のために解説を転記しておきます。
 日蓮上人は建長5年(1253)、安房(千葉県)から鎌倉に来て、松葉ヶ谷(まつばがやつ)(現在の長勝寺、安国論寺の辺り)に草庵を結びました。
 鎌倉時代、この辺りは武士の屋敷と商家町が混在した地域と考えられ、毎日のようにこの辺りを訪れて、法華経の功徳を説く辻説法を行ったと伝えられます。
 文応元年(1260)、五代執権・北条時頼に提出した『立正安国論』が原因で、松葉ヶ谷の草庵は焼き討ちされました。
 この辺りの道路は、道幅も歩道も狭く、自転車で走るのに難渋しました。たまたま持参した本が奇しくも『自転車に冷たい国、ニッポン 安心して走れる街へ』ですが、ほんとにその通り。人間や環境について本気で考えるのであれば、行政は自転車をもっと厚遇し、自動車をもっと冷遇すべきだと思います。
c0051620_12365785.jpg

 本日の一枚は、安国論寺へ行く途中で見かけた紅葉です。
c0051620_1237343.jpg

by sabasaba13 | 2019-09-06 06:26 | 関東 | Comments(0)

鎌倉錦秋編(5):瑞泉寺・旧華頂宮邸(15.12)

 そして鎌倉宮へ。1869(明治2)年に明治天皇の勅命により創建された神社で、祭神は大塔宮護良親王です。境内には、足利氏により親王が幽閉された土牢があります。
c0051620_11203171.jpg

c0051620_11204891.jpg

 落着いた雰囲気の小道をすこし走ると、瑞泉寺に到着。開基は二階堂道蘊、開山は夢窓疎石で1327(嘉暦2)年に創建されました。鎌倉御所初代公方、足利基氏がここに葬られてから公方家の塔所となりました。四季折々に咲き誇る「花の寺」としても有名ですね。仏殿の後ろには夢想疎石の作と伝えられる、岩盤を削って池を配した簡素な庭園があります。たいへん厳しい表情の佇まいで、武家の都にふさわしいお庭です。夢想疎石と言えば、京都の西芳寺(苔寺)天竜寺の庭園も彼の手によるものですね。
 「松陰吉田先生留跡碑」がありましたが、母方の伯父にあたる瑞泉寺第二十五世住職・竹院和尚に会いにこの寺を訪れたそうです。揮毫は徳富蘇峰。松陰を主人公にした司馬遼太郎の小説『世に棲む日々』でも、鎌倉で松陰が瑞泉寺を訪ねるエピソードを取り上げているとのこと。未読ですが。
c0051620_1216951.jpg

c0051620_1216444.jpg

c0051620_121704.jpg

c0051620_1217125.jpg

 それでは杉本寺へ向かいましょう。途中で珍しい意匠の透かしブロックを見かけたので、撮影。杉本寺は行基が開山と伝えられ、源頼朝入府以前からあった鎌倉最古の霊場といわれます。苔むした鎌倉石の階段が印象的ですが、ここは立入り禁止。
c0051620_12174843.jpg

c0051620_1218136.jpg

c0051620_121843100.jpg

 淨妙寺は臨済宗建長寺派の古刹、鎌倉五山の第五位です。たまたま立ち寄ったのですが、思いの外紅葉がきれいでした。
c0051620_12185921.jpg

c0051620_12191479.jpg

 そして旧華頂宮邸へ、ここは初めて訪れたのですが、洒落た洋館と洋風庭園に心惹かれました。解説を転記します。
 旧華頂宮邸は、昭和4年(1929)に華頂博信侯爵邸として建てられたもので、県内にある戦前の洋風住宅建築としては鎌倉文学館とともに最大規模の建築物です。
 外観はハーフティンバーと呼ばれる西洋の民家調で、極めて整然かつ古典的な意匠となっています。建築物の内部は、玄関ホールの小ヴォールドと呼ばれる珍しい天井や洋室にあるマントルピースなどが魅力的な空間を演出しています。フランス式庭園では、バラやアジサイなど四季折々の花や緑を楽しむことができます。
 こちらも紅葉が多く、静謐な雰囲気のなかで鎌倉の錦秋を心行くまで愉しむことができました。なお庭園は通年公開されていますが、邸宅は春秋それぞれ二日間のみ公開されるようです。これはぜひ訪れてみたいですね。
c0051620_12195374.jpg

c0051620_1220815.jpg

c0051620_12202180.jpg

by sabasaba13 | 2019-09-05 06:32 | 関東 | Comments(0)

鎌倉錦秋編(4):鎌倉近代美術館・川喜多映画記念館(15.12)

 それでは鎌倉近代美術館へと参りましょう。途中にあったのが鎌倉市川喜多映画記念館、へえー初めて知りました。面白そうなので入館してみましょう。公式サイトから、紹介文を転記します。
 鎌倉市川喜多映画記念館は、映画の発展に大きく貢献した川喜多長政・かしこ夫妻の旧宅跡に、鎌倉市における映画文化の発展を期して、2010年4月に開館しました。
 本記念館では、映画資料の展示、映画上映をはじめとし、映画関連資料の閲覧やWeb検索も行なっていただくことができます。また講座・講演会やワークショップなども年間を通じて開催いたします。
 建物は平屋建ての和風建築で、数寄屋造りのイメージを表現し周囲の環境に調和しています。板塀もかつての面影をそのままに復元しており、展示室の明るく広い開口部からは緑豊かな庭園も眺められ、古都鎌倉の落ち着いた雰囲気をかもし出しています。
 「鎌倉の映画人 監督小津安二郎と俳優笠智衆」という企画展が開催されており、二人の愛用の品々や映画資料の展示などを興味深く拝見しました。なおこちらには、『E.T.』、『タイタニック』、『七年目の浮気』の顔はめ看板がありました。
c0051620_8223667.jpg

 川喜多映画記念館からペダルをこぐこと数分で美術館に到着、ここについての訪問記は以前に拙ブログにて掲載したので、よろしければご笑覧ください。
 そして源頼朝のお墓へ。長い石段をのぼると小高い丘の上に石塔がありました。
c0051620_10313889.jpg

 解説文を転記します。
 源頼朝は、治承4年(1180)平家打倒のため挙兵、鎌倉を本拠として元暦2年(1185)に平家を滅ぼしました。また、鎌倉幕府を大蔵(現在の雪ノ下三丁目付近)に開いて武家政治の基礎を築きました。
 正治元年(1199)に五十三歳で没すると、自身の持仏堂であった法華堂に葬られ、法華堂は頼朝の墓所として厚く信仰されました。法華堂は後に廃絶しましたが、この丘の上一帯がその跡です。
 現在建っている塔は、後に島津藩主・島津重豪(しげひで)が整備したものとされます。
 いま読んでいる『考える日本史』(本郷和人 河出新書)によると、島津家初代の忠久は頼朝の落胤であると、『尊卑分脈』に出ているそうです。以下、引用します。
 江戸時代の島津家は、「うちは頼朝様の血を受け継いだ家である。だから徳川将軍家などには負けない」という気風があった。今に鎌倉に残る頼朝の墓は、この島津が「うちのご先祖様だから」ということで、お金を出して整備したといわれています。そうした事業を行うことで、家の血を強調する意図もあったのでしょう。(p.56)

 本日の一枚は、川喜多映画記念館です。
c0051620_10323721.jpg

by sabasaba13 | 2019-09-04 06:24 | 関東 | Comments(0)

鎌倉錦秋編(3):建長寺・寿福寺(15.12)

 鎌倉街道をすこし走って浄智寺へ。鎌倉五山の第四位で、北条宗政の妻と子の師時が1281(弘安4)年ごろに創建しました。苔むした石段と上に鐘楼のある山門が印象的ですが、モミジはそれほど多くありません。
c0051620_7584186.jpg

c0051620_759082.jpg

 横須賀線の踏切を渡って、鎌倉街道をさらに進むと建長寺に到着。鎌倉五山の第一位で、北条時頼が1253(建長5)年に宋から蘭渓道隆を招いて創建した古刹です。こちらもモミジは多くはありません。仏殿の前にある樹齢約730年のビャクシンの古木は一見の価値あり。おっ、境内では坊さんたちが餅をついて参拝客に配っていました。
c0051620_7593040.jpg

c0051620_7594725.jpg

c0051620_80589.jpg

 すぐ近くにある長寿寺は、錦秋の週末のみ特別公開される紅葉の隠れ名所と聞いたのですが、残念ながら特別拝観は先週で終わっていました。再訪を期しましょう。門から、きれいに色づいた紅葉を撮影しました。
c0051620_802154.jpg

 それでは亀ヶ谷切通しを通り抜けて海蔵寺へ向かいましょう。途中に「田中智学師子王文庫趾」という石碑がありますが、田中智学、宮沢賢治や石原莞爾に大きな影響を与えた日蓮宗の宗教家で、国柱会を主宰した方ですね。余談ですが、関東大震災時の朝鮮人虐殺を調べている時に、朝鮮人排撃を主張し「鮮人暴動」など無根の報道を流布する『天業民報』を彼が発行していたことを知りました。
c0051620_804116.jpg

 ふたたび横須賀線の踏切を渡って少し走ると、海蔵寺に着きました。知る人ぞ知る「花の寺」ですが、モミジはあまりありませんでした。無念。
c0051620_81157.jpg

 また踏切を渡って常光明寺へ。こぢんまりとした小さなお寺さんですが、綺麗な紅葉を愛でることができました。観光客もなく、静謐な雰囲気がいいですね。ちょっとした穴場でした。
c0051620_811476.jpg

c0051620_812833.jpg

 またまた踏切を渡って寿福寺へ。1180(正治2)年に、源義朝の居館跡に北条政子が創建した古刹で、鎌倉五山の第三位です。紅葉はあまりありませんが、並木の中を通る長い参道とリズミカルな桂敷きの敷石が見たくてしばしば立ち寄ります。新緑の頃は、とりわけ美しい光景です。なお墓地には源実朝、北条政子の墓と伝えられる五輪塔、陸奥宗光、高浜虚子、大佛次郎などのお墓があるそうです。
c0051620_81404.jpg

c0051620_815367.jpg

by sabasaba13 | 2019-09-03 06:22 | 関東 | Comments(0)

鎌倉錦秋編(2):東慶寺・円覚寺(15.12)

 そして「花の寺」東慶寺へ。臨済宗円覚寺派に属し、開山は北条時宗夫人・覚山尼です。1902(明治35)年に至るまで「駆け込み寺」「縁切り寺」として、不憫な女性を救済してきた尼寺でもあります。また、西田幾多郎、鈴木大拙、高見順、小林秀雄など著名人の墓があることでも知られています。私は墓苑のあたりの静謐な雰囲気が好きですね。それほど多くはありませんが、きれいな紅葉を堪能しました。なお「夏目漱石参禅百年記念碑」があったので、後学のため転記しておきます。
 漱石は明治27(1894)年末より翌年1月10日まで円覚寺内の帰源院(石段の真向かいの寺)に止宿し時の円覚寺管長釈宗演(1859~1919)に参禅した。帰源院には当時帝大の哲学生鈴木貞太郎(後の大拙居士)も参禅中であった。この参禅の体験は「門」にくわしい。18年後の大正元年(1912)9月11日当時寺この東慶寺に遷住の宗演を再訪した。
 碑の上段の宗演の書簡と下段の漱石の文は、それを示す書簡の「鹿山に来山」とは瑞鹿山円覚寺に来山して参禅したということ。Zは満鉄総裁中村是公「その顰に倣った」とは「連れション」のこと、ここが文学である。
 宗演は漱石来参の前年(1892)秋、シカゴの万国宗教大会に日本仏教代表として出席し禅を英語で説き、後に鈴木大拙渡米してZENが世界に知られるに至る。漱石のこの文中に宗演を「智識」と讃えるとおり、釈宗演は近代仏教界の高僧である。宗演の墓は当山寺墓の奥に在る。
c0051620_2125237.jpg

 そして横須賀線の踏切を渡って円覚寺へ。総門前の境内を横須賀線の線路が横切っているのは、軍港のある横須賀と東海道本線を結ぶ鉄道として1889 (明治22) 年に開通した際に、最短距離を通すために強引にここに線路をひいてしまったためです。軍隊の本質をよくあらわしていますね。円覚寺は、文永・弘安の役の戦死者を慰霊するため、北条時宗が無学祖元を招いて1282(弘安5)年に創建した臨済宗の古刹です。鎌倉五山第二位。おっ、総門の脇に狛犬の如くお寺を護るがいました。おわあ、こんにちは。広い境内には、きれいに色づいたモミジがところどころにありました。
 禅宗様の名建築、舎利殿は正月三が日に公開されるとのことです。今度来てみようかな。またこちらの墓地には、田中絹代、開高健、坂本弁護士、木下恵介、小津安二郎のお墓がありますが、以前に掃苔しましたので今回は省略。
c0051620_21265013.jpg

 本日の五枚、上から東慶寺と円覚寺(四枚)です。
c0051620_21273927.jpg

c0051620_21275411.jpg

c0051620_2128618.jpg

c0051620_21281866.jpg

c0051620_21283096.jpg

by sabasaba13 | 2019-09-02 07:57 | 関東 | Comments(0)

鎌倉錦秋編(1):明月院(15.12)

 2015年の12月、ひさかたぶりに鎌倉の紅葉を愛でてきました。鎌倉は大好きです。古刹、自然、ハイキング、サイクリング、花、桜と紅葉、切通し、美術館、落ち着いた街並み、四季おりおりいつ訪れてもいろいろな愉しみをもって迎えてくれます。拙ブログでも、2006年12月の紅葉、2007年5月の新緑を上梓してあります。
 今回は鎌倉駅前で自転車を借りて、北鎌倉と天園あたりを徘徊することにしましょう。持参した本は『自転車に冷たい国、ニッポン 安心して走れる街へ』(馬場直子 岩波ブックレット909)です。
 池袋から湘南新宿ライン逗子行きに乗って、鎌倉に着いたのが午前九時ごろ。さっそく駅にある観光案内所で資料や地図をもらい、駅前のビル内にあった喫茶店「鎌倉館」でモーニング・サービスをいただきながら本日の計画を立てました。このひと時が村上春樹氏曰く「小確幸(小さいけれど確固たる幸せ)」なのですね、うん。
 
c0051620_2025698.jpg
ん? パンフレットに、神奈川県立近代美術館鎌倉で最後の展覧会が行われている記事が載っていました。敗戦後のアートを牽引した前衛、ル・コルビュジエの弟子・坂倉準三によるモダニズム建築の傑作、そして老朽化のために閉館せざるを得ない、といった話は何となく知っていたのですがもう最後の展覧会になろうとは。"つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを"、ちょっと西行の心境です。よろしい、手向けの花でも添えに訪れてみることにしましょう。
 それでは出発。鶴岡八幡宮を通り過ぎて北鎌倉へと向かいますが、こちらにあった「タイムズ」の看板は、見慣れた黄色ではなく地味な白でした。京都ではよく見かけますが、鎌倉にもありました。古都の景観への配慮でしょうか、何の変哲もない普通の町にも気を使ってほしいものです。落ち着いた気持で散歩もできやしない。
c0051620_20254993.jpg

 巨福呂坂を走り抜け、向かうは明月院です。このあたりは木々が多く、しっとりとした和風の家が建ち並ぶ、気持ちのいい界隈です。
c0051620_2026181.jpg

 そして臨済宗建長寺派に属する明月院に着きました。このお寺さんは紫陽花で有名ですが、錦秋の頃もまたいいものです。初夏の喧騒もなく、ゆったりと紅葉を愛でることができました。丸く庭と紅葉を切り取る方丈の円窓は一幅の絵のようです。
c0051620_21111013.jpg

 本日の一枚です。
c0051620_20262457.jpg

by sabasaba13 | 2019-09-01 08:15 | 関東 | Comments(0)

宇都宮編(9):宇都宮(15.12)

 見るべき程の事をば見つ、それでは帰郷の途につきましょう。なお宇都宮は「カクテルの街」「ジャズの街」としても名をあげているそうです。
c0051620_18314886.jpg

 宇都宮観光コンベンション協会の公式サイトから転記します。
 カクテル技能競技の全国大会で、数多くの優勝者を輩出してきた宇都宮。バーテンダーの業界では、その人数とバーテンダーのレベルは、銀座と比肩するほどといわれています。
 その理由は、水割りを作れればバーテンダーといわれていた1970年代、ある老舗のオーナーバーテンダーが「バーテンダーの使命・役割・ステータス・アイデンティティを確立する」と技術向上と人間育成に力を注いだからです。その結果、宇都宮で技術を磨いたバーテンダーが全国大会で史上初の4連覇を達成し、市内のバーテンダー全体のレベルが向上したのです。
 このような背景から、1999年に市内のバーなどにより「宇都宮カクテル倶楽部」が発足し、各種イベント・学会などへの出展や他団体との事業協力などを通じて「カクテルの街 宇都宮」のPRに努めています。

 世界で活躍するジャズプレーヤーを数多く輩出する宇都宮。世界的なアルトサックス奏者の渡辺貞夫氏、トランペット奏者の外山喜雄氏、ギタリストの高内晴彦氏をはじめ、様々なミュージシャンが現在も国内外で活躍されています。
 市内には数多くのジャズライブハウスが点在し、夜にはジャズライブが実施され、飲食をしながらジャズを楽しむ方たちが年々増えています。
 このようなことから、本市を日常的に街角に音楽があふれる街にしようと、2002年10月にジャズライブハウスなどによって構成された「宇都宮ジャズ協会」が設立されました。その結果、毎日加盟店のどこかの店ではジャズライブが開催されており、現在は今まで以上にジャズの街宇都宮が推進されています。
 カクテルにジャズ、宇都宮は大人の街なのですね。「嵐」の活動停止が一大ニュースになるほど文化の低年齢化が顕著なこの国で、貴重な存在です。いつの日にか、ギムレットを飲みに、ジャズを聴きに、再訪しましょう。

 帰りの列車の中で『ひとはなぜ戦争をするのか』(A・アインシュタイン S・フロイト 講談社学術文庫)を読んでいたら、次のような「アインシュタインへの手紙」がありました。
 ともあれ、あなたもご指摘の通り、人間の攻撃性を完全に取り除くことが問題なのではありません。人間の攻撃性を戦争という形で発揮させなければよいのです。戦争とは別のはけ口を見つけてやればよいのです。
 ですから、戦争を克服する間接的な方法が求められることになります。そして、精神分析の神話的な欲動理論から出発すれば、そのための公式を見つけるのは難しくはないのです。人間がすぐに戦火を交えてしまうのが破壊欲動のなせる業だとしたら、その反対の欲動、つまりエロスを呼び覚ませばよいことになります。だから、人と人との間の感情と心の絆を作り上げるものは、すべて戦争を阻むはずなのです。(p.46)
 なるほど。攻撃性や破壊欲動を喚起しやすいスポーツよりも、エロスを満たす音楽や食べ物のほうが、戦争を阻むきっかけになるのかもしれません。あらためて2020東京オリンピックに反対するとともに、餃子とカクテルとジャズの街・宇都宮を賞揚したいと思います。
by sabasaba13 | 2019-08-12 10:59 | 関東 | Comments(0)

宇都宮編(8):鹿沼(15.12)

 お目当ての物件に向かって歩いていると、「三峰神社」という解説板がありました。後学のために転記します。
 「三峰神社」は麻苧町の氏神で、安政6年(1859)コレラが流行したとき、埼玉県秩父の三峰神社から眷属の神犬(神札)を迎えて、今宮通り(現屋台蔵)に祀ったといわれている。戦前は踊り・芝居などが催されて賑わった。戦後、安房神社を合祀して「安房三峰神社」と社名を改めた。
 階段をのぼると建物の二階に小さな祠がありました。伝染病に対して無力だった当時の庶民の、藁にもすがるような切ない思いをひしひしと感じます。
c0051620_18285875.jpg

 そしてお目当ての駒橋歯科医院に到着。切妻造の棟が並ぶハーフティンバー風仕上げの洒落た建物です。幾何学模様の装飾もいいですね。1925(大正14)年に、初代院長の駒橋寅春が自ら設計して建設したそうです。
c0051620_1829326.jpg

 その近くにあるのが「大谷好美館」という元写真館です。下見板張り、入母屋造妻入の洋館で、妻壁には植物模様や「美」の文字を鏝絵で飾っています。採光のための天窓も設けられています。明治期に、同志社大学で学んだ大谷養三が帰郷後、神戸の異人館を参考にして建築したそうです。
c0051620_1830922.jpg

c0051620_18302716.jpg

by sabasaba13 | 2019-08-07 06:52 | 関東 | Comments(0)

宇都宮編(7):宇都宮・鹿沼(15.12)

 そして宇都宮大学に到着、お目当ては峰ケ丘講堂という古い校舎です。宇都宮大学の前身である宇都宮農林学校の講堂として1924(大正13)年に竣工されました。ファサードのアール・デコ風装飾、リズミカルに連なる三角破風、車寄せの柱など、洒落た意匠にあふれた瀟洒な建築でした。校内には大谷石造りの倉庫が散見されました。なおこちらの大学のオリジナルキャラクターが、脱力感にあふれる「宇~太」。でもこの安っぽさが、そこはかとなく気持ちを和ませてくれます。東日本大震災や福島原発事故の救済のために使われるべき私たちの血税を湯水のように注ぎこんで、東京オリンピックのために考案させたマスコット「ミライトワ」「ソメイティ」のあざとさに比べれば提灯と釣り鐘です。
c0051620_1817919.jpg

 それでは新鹿沼へと向かいましょう。大学の近くにスフィンクスらしき石像が置かれていましたが、どういう由緒なのでしょう。ご教示を乞う。宇都宮駅近くの公衆便所は、大谷石造りの豪奢な建物でした。
c0051620_18175147.jpg

 宇都宮駅から湘南新宿ラインに乗って小山へ、両毛線に乗り換えて栃木へ、東武日光線に乗り換えて新鹿沼に着きました。以前に鹿沼にある川上澄生美術館を訪れたことがありますが、新鹿沼ははじめてです。駅前には幽鬼のように立つ松尾芭蕉の木像がありましたが、チェーンソーによるアートでした。解説を転記します。
「ようこそ鹿沼に」 チェーンソーカービング 松尾芭蕉像

 私、松尾芭蕉は、今から325年前、元禄2年3月29日(旧暦)に、おくのほそ道の道中、曾良とともにここ鹿沼に一泊しました。
 千住(足立区)を矢立て初めの地とし、一泊目は春日部、翌日間々田に泊まって室の八島(栃木市)を訪ね、三泊目が鹿沼でした。今走っている特急スペーシアの停車駅と同じ間隔で宿をとってきたことになりますね。

 その日の夕暮れ、私は「入りあいのかねもきこえすはるのくれ」と詠みました。その句碑を屋台のまち中央公園の掬翠園に建てていただきました。笠が傷んでしまったので西鹿沼町の光太寺置いていきました。お寺にはごていねいにその笠塚をつくって供養していただき、そこには、私の弟子たちが何人も訪れ碑等を立てたそうです。今宮神社や銀座二丁目の薬師堂、永野の大越路峠にも、私に縁の句碑等があります。
 私は、蕎麦やこんにゃくが好きでした。鹿沼の特産ですが、あの時蕎麦を食べたかどうかは忘れてしまいました。今は「芭蕉のそば屋」というお菓子もあるんですね。
 鹿沼は「木のまち」として昔から有名です。この像は、地場産の杉材で市内のチェーンソーアーティスト小林哲二さんにチェーンソーだけで彫ってもらいました。「まちの駅"新・鹿沼宿"にも小林さん作の私と曾良の像があります。

 東武鉄道でお越しみなさん、鹿沼は、私芭蕉が日光に向かう前の日に宿をとりお世話になった町です。ぜひ、句碑等を訪ね、お蕎麦などを食べながら彫刻屋台等の伝統文化や美しい自然を満喫する旅を楽しんでください。
 駅前広場には、岡本太郎の「たわわに実る夢の樹」という彫刻がありました。
c0051620_18191625.jpg

 本日の一枚です。
c0051620_18194299.jpg

by sabasaba13 | 2019-08-05 08:10 | 関東 | Comments(0)