散歩の変人:関東
2024-03-28T07:54:02+09:00
sabasaba13
地球を彷徨し、本と音楽の海を漂う
Excite Blog
渡良瀬渓谷編(2):間藤駅(17.11)
http://sabasaba13.exblog.jp/33293005/
2024-03-28T07:54:00+09:00
2024-03-28T07:54:02+09:00
2024-03-28T07:54:02+09:00
sabasaba13
関東
旅客終着の着の間藤駅 足尾線は私鉄により開設され、この駅は大正3年(1914)11月1日に営業を開始した。時あたかも足尾銅山全盛期であり、鉄道は物資の輸送増強に必要であった。同7年に国鉄に移った。
しかし、昭和62年(1987)に全町民の猛烈な反対も空しく、赤字により廃止されJR'に移った。平成元年(1989)から第3セクター「わたらせ渓谷鉄道」として出発した。その間、昭和45年に無地化され(最高時18人)され淋しい駅となったが、平成6年に陶芸教室と合築し「カモシカの見られる駅」として新装され注目されている。
なるほど、駅舎の壁面に「カモシカの見られる駅」と記してありますが、どこで見られるのでしょう? まさかカモシカ駅長がいるわけはないですよね。
なおこの間藤駅は紀行作家の宮脇俊三が1977(昭和52)年に国鉄全線を完乗した場所で、著書「時刻表2万キロ」の終着駅として、今も訪れるファンが絶えないそうです。
また駅の近くに「山口青邨の句」という解説板があったので、後学のために転記します。
昭和を代表する俳人。「夏草」を創刊し多くの句集を上梓した。青邨(本名・吉朗、1892~1988)は、明治25年に盛岡市https://sabasaba13.exblog.jp/2208360/に生まれた。大正2年に東京大学採鉱学科を卒業して、古河鉱業足尾鉱業所に入り、2年間勤務したことがある。その後、たびたび足尾を訪ずれ句を詠じ、次の作品などを残している。
合歓咲きて駅長室によき陰を (昭和11年)
風花やをろがみ申す山の神 (昭和18年)
青邨の作風は、清純高潔でその詩情は穏健で調和的である。
(とちぎ文学散歩から)]]>
渡良瀬渓谷編(1):間藤へ(17.11)
http://sabasaba13.exblog.jp/33292307/
2024-03-27T07:35:00+09:00
2024-03-27T07:35:04+09:00
2024-03-27T07:35:04+09:00
sabasaba13
関東
霜月好日、どうやら雨の心配はなさそうです。晴れ間も見える格好のサイクリング日和、電車を乗り継いで桐生まで行き、「わっしー1号」に乗り込みました。
ちなみに「わっしー」とはわたらせ渓谷鐵道のマスコットキャラクターです。
名前:わっしー
身長:内緒
体重:101キロ
生年月日:2010年10月10日
お仕事:安全パトロール隊長
趣味:ぼぉぉっとすること
特技:スーパー検索
好きなもの:線路
嫌いなもの:うそつき
一言:「とんとん拍子で一件落着」
今回の旅が、とんとん拍子で一件落着するよう期待しましょう。
車内に「平成26年5月22日、天皇皇后両陛下が「トロッコわっしー1号」にご乗車になられました」という写真が掲示されていました。とくにコメントはありませんが。
しばし車窓を流れるきれいな景色を堪能。
一時間半ほどで終点の間藤駅が近づいてきました。車窓からは、精錬所の施設でしょうか、巨大な円形プールが見えました。
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高崎・川越編(18):練馬(23.7)
http://sabasaba13.exblog.jp/33197098/
2023-12-22T06:12:00+09:00
2023-12-22T06:12:03+09:00
2023-12-22T06:12:03+09:00
sabasaba13
関東
レジへ行こうとすると、すれちがった係の女性が、私が来ていた「素劇 楢山節考」のTシャツを見て「私も観劇しましたが素晴らしいお芝居でしたね」と声をかけてくれました。同志よ、これからも身銭を切ってお芝居を見続けましょう。
入口のところには、何と私の大好きなノーマン・ロックウェルの絵が飾ってありました。レジの方に本物なのかと訊ねると、オーナーがいないのでわからないとのこと。ま、偽物でもいいや、眼福眼福。
というわけで最後までアートに包まれた幸せな一日です。Sさん、Tさん、いろいろと我儘を言ってすみませんでした。またご一緒に旅をしましょう。
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高崎・川越編(17):川越(23.7)
http://sabasaba13.exblog.jp/33194553/
2023-12-21T06:07:00+09:00
2023-12-21T06:07:37+09:00
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sabasaba13
関東
写真を撮影して歩きはじめると、ガレージに停めてあった珍しいデザインの車を指さして、物知りで目敏いSさんが「おっ光岡自動車だ」と呟きました。へーはじめて知りました。いま「ウィキペディア」で調べてみると、富山県富山市に本社を置く日本の自動車メーカーおよび中古車・輸入車ディーラーで、日本メーカー製の乗用車の外観や内装を取り替えるなどした改造車を自社工場で生産するという、他の自動車メーカーには見られない特徴を持っているそうです。旅に出ると、いろいろ勉強になります。
そして時の鐘と一番街を撮影して駐車場へ。
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高崎・川越編(16):川越(23.7)
http://sabasaba13.exblog.jp/33192128/
2023-12-20T06:08:00+09:00
2023-12-20T06:08:28+09:00
2023-12-20T06:08:28+09:00
sabasaba13
関東
山崎家には、大正6年(1917)から昭和16年(1941)までの間に皇族が何度か宿泊されており、大正14年(1925)以降は、陸軍大演習の際などに旧山崎家別邸に宿泊された記録が残されています。特に元大韓帝国皇帝の息子である李王垠(ぎん)殿下は2度訪問し、自ら松を植樹しており庭園内にはそれを記念する石柱が残されています。
そして李王垠がここを訪れたときの写真。(上段右)
ん? 山ノ神と思わず顔を見合わせてしまいました。実はわれわれ二人、最近『李の花は散っても』(深沢潮 朝日新聞出版)という滅法面白い小説を読み終えました。あらすじは…
皇族でありながら政策によって李王朝に嫁いだ李方子王妃の数奇な運命を縦糸に、また方子を半島から来た革命家と恋に落ち社会から転落していく女性・マサを横糸に、戦前・戦中・戦後の日本と朝鮮半島を舞台に描く、著者渾身の力作。
日本という国家に翻弄される李王垠も主人公の一人ですが、たとえばこんな一文がありました。
しかし、こうして幸福に彩られた生活にも、不穏な影はちらついていた。
東京での皇族親族会に出ると、まわりの、垠と方子へのよそよそしい態度は、以前にも増していた。その背景には、国粋主義の台頭により他民族を排斥しようという空気が世間で強まっていることがあった。
「皇族に朝鮮系がまじっている。追放しよう」と書かれたビラが巷にまかれた。青年将校たちが酒に酔って「朝鮮の王族なんて抹殺してしまえ」と騒いだ、といったことが、方子の耳にまで入ってくる。
朝鮮人がかかわる事件が内外で起こるたびに、眉をひそめて、「すでに広い満州が日本のものなのに、朝鮮などがいまごろ騒いだところで…」と聞こえよがしに話しているのを目にする。いっそ自治をさせたらどうだ、という意見から。李王家の皇族待遇をやめてしまえ、という主張まで、さまざまな声が聞こえてきて、方子はやりきれない。当然、垠にも届いているだろうが、全く動じていないように表面的には見えた。(p.203)
この屋敷を訪れたときの垠の思いは、どのようなものだったでしょう。心なしか表情に憂いの影を感じます。
そして庭園へ。解説を転記します。
庭園と茶室
旧山崎家別邸は、建物もさることながら、庭園と茶室までも含めて建築家・保岡勝也が設計しました。この庭園は座観式庭園として作庭されています。そのため、「川越・山崎様別邸 新築配置図」には、30種類の樹木や庭石などが、細かく配置されています。各部屋から見える景色に変化を持たせ、建築との調和が保たれるようになっています。また、この時代の多くの樹木は仕立物が主流でしたが、保岡勝也は人工的な感じを除き、自然風の庭を目指したようです。つまり、回遊や実用を主眼として庭ではなかったことが伺えます。客間(9畳)から茶室を見渡すと、緻密な計算の上にそれぞれの物が配置されていることがわかります。
一方、敷地の東には児童室から直接下りられる場所に温室や花壇を配置し、子どもの遊び場として設計されていました。旧山崎家別邸の庭園は、観賞用の庭と実用の庭を融合させた大正時代の住宅庭園の特徴を表現したものになっています。平成23年(2011)には「旧山崎家別邸庭園」として、国の登録記念物に登録されています。
茶室は図面によると「我前庵写し数寄屋」と題されています。我前庵は、京都の仁和寺にある尾形光琳遺愛の茶室のことで、保岡勝也は著書「茶室と茶庭」(昭和2年(1927))でも、仁和寺構内にある遼廓亭の茶室として紹介しています。
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高崎・川越編(15):川越(23.7)
http://sabasaba13.exblog.jp/33190196/
2023-12-19T05:57:00+09:00
2023-12-19T05:57:26+09:00
2023-12-19T05:57:26+09:00
sabasaba13
関東
そして洋室へ、階段のところにあるステンドグラスが素敵ですが、そのうち縦長のものは小川三知がつくったとのこと。これまでも小笠原伯爵邸や、国立科学博物館で彼の作品を拝見しましたが、こちらでも出会うことができました。なお安藤記念教会にもあるそうですが、ここは未見です。
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高崎・川越編(14):川越(23.7)
http://sabasaba13.exblog.jp/33188910/
2023-12-18T07:51:00+09:00
2023-12-18T07:51:38+09:00
2023-12-18T07:51:38+09:00
sabasaba13
関東
まず目に飛び込んできたのが、まるでパルテノン神殿のような恰幅のよい建物。1928(昭和3)年に竣工された武州銀行川越支店を川越商工会議所が譲り受け、現在も現役で使われているそうです。林立するドリス様式の柱がお見事です。
その先にあるお茶屋さんも蔵造りと煉瓦造りを組み合わせた重厚な建物。川越は何度も来ているのですが、あまり路地に入ったことはありません。ちょっと脇道に行くだけでこんな逸品が見られるのですね。恐るべし川越。
そして旧山崎家別邸にとうちゃこ。こちらは幸い、午後六時まで見学ができます。まずは解説を転記します。
旧山崎家別邸は、川越の老舗菓子屋「亀屋」の五代目である山崎嘉七氏の隠居所として建てられました。山崎家は、信州高井郡下笠原村(現在の長野県中野市)出身の初代嘉七氏が安永元年(1772年)ごろに川越に来て上菓子製造業の亀屋清右衛門のもとで修行し、天明3年(1783年)に「亀屋」の暖簾を許され創業したと伝わっています。
四代目嘉七氏は、明治11年(1878年)第八十五国立銀行の創立に関わり、当時の川越経済界を主導する存在でした。 旧山崎家別邸は、重要伝統的建造物保存地区に隣接する川越市松江町2丁目7番地8にあります。我が国最初の住宅建築家の一人とされる保岡勝也の設計により、大正13年(1924)に上棟し、翌14年に完成しました。母屋、茶室、車待ちの3棟の建物は、平成12年(2000)に川越市指定文化財となっています。また、庭園については、平成23年(2011)に「旧山崎家別邸庭園」として、国の登録記念物として登録されています。旧山崎家別邸は建物だけでなく、庭も保岡勝也の設計によるもので、建物は大きな改造もなく維持管理されてきました。建設当初の設計図や工事代金の領収書、竣工写真などの資料も多数残されていることも価値を高める要因となっています。大正時代は、あらゆる分野において旧来の生活を見直す気運がみなぎっていた時代でした。そのような中、旧山崎家別邸は、庭から家具、カーテンに至るまで保岡勝也一人で設計した住宅で、全国的にも貴重な例といえます。
旧山崎家別邸の敷地面積は、約2,300㎡で、母屋の南側には座観式の庭が広がり、庭の東側には茶室があります。母屋は木造モルタル仕上げの洋館が和室棟と溶け合ったデザインとなっています。洋館西側の階段踊り場には、旧山崎家別邸で最も象徴的な装飾である泰山木とブルージェという鳥をデザインしたステンドグラスが入る上下窓があります。]]>
高崎・川越編(13):県立公園「群馬の森」へ(23.7)
http://sabasaba13.exblog.jp/33184563/
2023-12-13T06:17:00+09:00
2023-12-13T06:17:47+09:00
2023-12-13T06:17:47+09:00
sabasaba13
関東
朝鮮人追悼碑の設置不許可は違法 最高裁決定 「強制撤去には実力阻止」 北野隆一 群馬県高崎市の県立公園「群馬の森」にある朝鮮人追悼碑が撤去を求められる可能性が高まっている。碑を管理する市民団体が県を提訴した訴訟で最高裁が上告を退け、原告敗訴が確定したからだ。
原告の団体は、碑に刻まれた言葉を冠した「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会」。判決などによると碑は2004年に建立され、戦時中に動員された朝鮮人労働者の追悼式が12年まで、碑の前で開かれてきた。
しかし同年以降、「碑文の内容は事実ではなく、碑は撤去すべきだ」と主張するグループが抗議活動を展開。14年6月、群馬県議会で碑の設置許可の取り消しを求める請願が採択された。追悼式の集会で「強制連行」への言及があったことを県は問題視。設置許可の際の「政治的行事を禁止する」との条件に反するとして同年7月、設置期限の更新を不許可とした。団体側は不許可処分の取り消しを求め、11月に県を相手に提訴した。
追悼式で05年、06年、12年の3回、「強制連行」への言及があったことが、裁判でも争点となった。18年2月の前橋地裁判決は発言を「政治的発言」と認定したが、「政治的行事を行なったから直ちに公園の効用を喪失したとはいえない」とも述べ、県の不許可処分を「裁量権を逸脱し違法」として取り消した。被告の県が控訴した。
21年8月、東京高裁は正反対の結論を出した。「強制連行」発言について「政治的発言にあたり、歴史認識に関する主義主張を訴えるための政治的行事」と判断。発言は県の許可条件に違反し「公園施設」として存立する前提を失ったとして、不許可処分を適法とする逆転判決を言い渡した。原告側が上告。最高裁第二小法廷(岡村和美裁判長)は今年6月15日の決定で上告を退けた。
群馬県の山本一太知事は翌16日の記者会見で、「県の主張が全面的に認められた高裁判決が確定した。極めて妥当だと受け止めている。今後速やかに手続きを進め、設置者に自主的に撤去を求めていく」と述べた。碑の撤去を求める運動を続けてき団体「日本女性の会 そよ風」は、ブログで「群馬県の歴史的完勝」と書いた。
原告らは6月20日、東京で抗議集会を開いた。角田義一・原告弁護団長は「いま追悼碑を撤去しなければならない理由はまったくない。任意の撤去には応じないし、県が強制撤去するなら実力で阻止する」と強調した。
集会では歴史研究者の竹内康人氏が講演した。戦時中に群馬県に朝鮮人が労務動員されたことを示す資料を列挙したうえで、「戦時下に政府の政策で朝鮮人が強制連行されたことは歴史的事実だ。それなのに『強制連行』を語ることが政治的で誤っているかのように県が主張し、その見方を高裁も最高裁も認めたというのは異様な状況だ」と批判した。
下山順・原告弁護団事務局長は「追悼式で『強制連行』と発言しただけで『碑の中立性が失われる』と判断した東京高裁判決は、政治的に偏向し政府に忖度した不当な内容だ。重大な憲法問題が含まれる高裁判決を最高裁が維持したことに驚き、強い怒りを感じる」と語気を強めた。
集会では「憲法の番人である最高裁が役割を放棄した決定」と批判し「碑を存続させる運動を進める」とする抗議文が採択された。(p.7)
はたして撤去されてしまったのか。それとも存在しているのか。カー・ナビゲーションを頼りに山ノ神の運転で「群馬の森」に向かいましたが…着いたところは公園の「こ」の字も見えない市街地です。案内標識の「あ」の字もありません。おかしいなあ、四人で鳩首会議をしながら右往左往東奔西走しましたが見つかりません。やはりプリントアウトした地図を持ってくるべきであった、不覚でした。
九品寺の虐殺された朝鮮人を追悼する地蔵、そして「群馬の森」の朝鮮人追悼碑。外人への差別と迫害、都合の悪い歴史の隠蔽、これらは今の日本にとって"The Problem we All Live with"ですね。
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高崎・川越編(12):九品寺(23.7)
http://sabasaba13.exblog.jp/33183761/
2023-12-12T06:03:00+09:00
2023-12-12T06:03:00+09:00
2023-12-12T06:03:00+09:00
sabasaba13
関東
すぐ後ろにブロック塀があり見づらかったのですが、かろうじて「大正拾参年(※1924年)」「倉賀野町民」という文字を視認でき、そばにあった卒塔婆には「大施餓鬼会為関東大震災朝鮮人犠牲者追善」と記されていたので間違いないでしょう。あらためて合掌。
これまでも、埼玉・群馬、神奈川、千葉(その一)、千葉(その二)、そして東京と、関東大震災時の朝鮮人虐殺を追いかけてきました。またこの事件の全体像について、自分なりに整理しました。これからもこだわり続けるつもりですが、この事件に無関心であり続ける限りこの国は「恥知らず」という汚名を免れないと考えます。しかし今回の訪問で救いだったのは、倉賀野の町民が事件の翌年にこの地蔵をつくったことです。やはり良心の呵責を感じたのでしょう。
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高崎・川越編(11):九品寺へ(23.7)
http://sabasaba13.exblog.jp/33178877/
2023-12-10T06:02:00+09:00
2023-12-10T06:02:29+09:00
2023-12-10T06:02:29+09:00
sabasaba13
関東
外へ出ると、小糠雨が降っています。これから訪れる九品寺にちなんだ涙雨でしょうか。さて免許証を忘れたTさんが運転するわけにはいかないので、山ノ神が代行することになりました。しばらく車の運転からご無沙汰していた山ノ神ですが、最近何を思ったのか教習所に通って運転の練習を始めました。よろしい、わがファム・ファタルの運転です、この命を捧げましょう。
駐車場内でTさんから操作のレクチャーを受け、恐る恐る発進。向かうは倉賀野町にある九品寺です。『震災・戒厳令・虐殺』(関東大震災85周年シンポジウム実行委員会編 三一書房)から引用します。
なお、倉賀野町でも朝鮮人虐殺事件が起こった。九月四日午前九時頃、群衆が倉賀野町巡査駐在所に拘留されていた年齢二〇くらいの朝鮮人を引き出し、駐在所前の中山道で乱打し、近くの九品寺の墓地で日本刀によって殺害した。この事件を審理した前橋地裁高崎支部は1924年3月10日に一名懲役1年6ヵ月、二名に懲役8ヵ月(2ヵ年執行猶予)、一名に懲役4ヵ月(同)判決を言い渡した。
墓は1924年4月4日、倉賀野町民により九品寺の墓地に建立された。(p.134)]]>
高崎・川越編(10):高崎市美術館(23.7)
http://sabasaba13.exblog.jp/33174756/
2023-12-09T06:35:00+09:00
2023-12-09T06:35:35+09:00
2023-12-09T06:35:35+09:00
sabasaba13
関東
宮崎学(1949-)は中央アルプスの麓、長野県上伊那郡南向(みなかた)村(現・中川村)に生まれ、伊那谷の自然豊かな環境を活かし、1972年よりフリーの写真家として活動を開始しました。「自然界の報道写真家」として、現在も日本中の自然を観察しています。
宮崎は動物たちの通り道に自作の赤外線センサー付きロボットカメラを設置し、撮影困難な野生の姿を撮影した<けもの道>のシリーズなど、哺乳類、猛禽類の撮影において独自の分野を開拓してきました。また、人間の生活空間近くに出没する野生動物や、外来動物の影響など、動物の生態を通して人間社会を浮き上がらせる社会性のあるテーマにも取り組んでいます。シリーズ最新作となる<新・アニマルアイズ><君に見せたい空がある>は「動物たちの住む森を動物の目線で見る」をコンセプトに、動物たちの痕跡を注意深く読み解き、自作のロボットカメラで人間の目が及ばない世界をみごとに写し出しています。本展覧会は、半世紀にわたる宮崎の作家活動の軌跡をたどりながら、黙して語らぬ自然の姿を浮き彫りにしようとするものです。
ロボットカメラの撮影による野生動物の自然な姿や、人間の生活空間に出没する野生動物の様子も面白かったのですが、シリーズ<死>には目を奪われました。死んだ鹿や狸に虫や鳥や獣が群がり、食し、その死骸の一部を利用し、やがて骨のみになっていく。ある命が死ぬことによって他の命を生かす、自然の摂理を目の当りにした思いです。
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高崎・川越編(9):旧井上房一郎邸(23.7)
http://sabasaba13.exblog.jp/33165178/
2023-12-04T07:24:00+09:00
2023-12-04T07:24:47+09:00
2023-12-04T07:24:47+09:00
sabasaba13
関東
パティオをはさんで寝室と和室があります。寝室はパティオから出入りできるようになっている、開放的なつくりです。和室は炉が切ってあり、茶室としても使われていたようです。広い開口部から見える庭には楓の木立、紅葉のころはさぞ見事なことでしょう。和紙でつくられた洒落た照明は、イサム・ノグチの「明かり」。和室の雰囲気によくマッチしています。
なお別棟として仏間と茶室があります。
というわけで素晴らしい建物でした。しかし井上氏の亡き後競売にかけられ、取り壊しの危機にさらされたそうです。駅前の一等地であることから相当の値がつきましたが、市民団体が立ち上がり、寄付を募って買い取ることになりました。高崎市民の高い見識と文化への情熱に頭を垂れましょう。
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高崎・川越編(8):旧井上房一郎邸(23.7)
http://sabasaba13.exblog.jp/33164347/
2023-12-03T07:35:00+09:00
2023-12-03T07:38:10+09:00
2023-12-03T07:35:57+09:00
sabasaba13
関東
横から見ると軒の深さがよくわかりますが、強い日差しをよけるためでしょう。
中央にあるパティオ(中庭)的空間から玄関に入ると、係の方が現れて内部の案内をしてくれました。
そうそう、邸宅内部の見学時間が午前10~11時、午後2時~4時に限定されている理由を訊ねると、ローテーションの関係で…もごもごと口をにごされました。想像するに、やはり人手不足ということではないのかな。先ほどの年齢を証明できなければ定額をとるという対応もふくめて、美術館に対する行政からの締め付けはかなり厳しいものがあるようです。ペンペン草も生えない文化不毛の地・日本の一面がここにも表れています。
それはさておき、まずは玄関の右にある居間へ。広々とした空間、心落ち着く木調、瑞々しい緑を眺められる大きな開口部、とても素敵な居間です。ノエミ・レーモンドが設計した洒落たテーブルや椅子、しぶい暖炉、障子の明かり取り、柱や登り梁を二つ割りの杉の足場丸太で挟み込む構造「鋏状トラス」などもいいアクセントになっています。
なおノエミの家具についての解説があったので転記しておきます。
ノエミ・レーモンド(1889~1980)の家具
フランスのカンヌで生まれスイスのジュネーブで育つ。旧姓、ペルネッサン。母の再婚を機に1900年ニューヨークに移住。コロンビア大学ティーチャーズ・カレッジで学び、日本美術研究家のアーサー・ウェズレイ・ダウから、「自然とデザインについての日本的概念に対する熱狂」を受け継いだという。
ヨーロッパに戻っていたノエミは1914年、第一次世界大戦の戦火を逃れるためヨーロッパからニューヨーク行きの最後の船に乗船、その船上でアントニンと出会う。12月にニューヨークで結婚。当初数年はノエミの手がける広告のイラストやデザインの収入に頼る生活だった。知人だったフランク・ロイド・ライトに誘われ来日し、夫妻で帝国ホテル建設の助手として従事、ノエミは「孔雀の間」の内装と絨毯の図柄などを手がけている。アントニンが設計した建築の家具や照明のデザイン、内装全般をコーディネートし、夫との真のパートナーシップによる仕事を残した。1947年ニューヨーク近代美術館のデザインコンペティションで染織部門の1位に入賞。
植物や動物をこよなく愛し、散歩の途中で見つけた草花をつんできては庭に植えたり、捨て猫や捨て犬をノエミが拾ってくるため、事務所兼自宅には常に数匹の犬や猫がいたという。ノエミデザインの家具はそんなあたたかな人柄を偲ばせる。]]>
高崎・川越編(7):旧井上房一郎邸(23.7)
http://sabasaba13.exblog.jp/33163543/
2023-12-02T07:56:00+09:00
2023-12-03T07:37:37+09:00
2023-12-02T07:56:18+09:00
sabasaba13
関東
旧井上房一郎邸は、高崎市の文化振興に大きく貢献した井上房一郎(1898‐1993)の自邸として建てられました。建築家アントニン・レーモンド(1888‐1976)の建築スタイルを取り入れたもので、戦前・戦後を通じて交流した、井上とレーモンドとの友情の証でもあります。レーモンドの「笄(こうがい)町の自邸」と旧井上邸
旧井上房一郎邸は、東京・麻布の笄町に、1951年(昭和26)に建てられたレーモンドの自邸兼事務所を写した建物として知られ、いわゆるレーモンド・スタイルがよく表れている建築です。1952年(昭和27)、高崎の自邸を焼失してしまった井上は、「笄町の自邸」を再現しようと計画し、レーモンドの快諾を受けます。図面の提供を受けた後、井上工業の職員に建物を実測させ、これらを元に新たに井上邸の設計・建築をしました。「笄町の自邸」はレーモンドの没後、事務所移転にともない取り壊されますが、居間部分のみがレーモンド設計事務所新社屋のメモリアルホールに移り保存されています。旧井上房一郎邸は失われたレーモンドの自宅の様子を知ることができる貴重な建築といえます。レーモンド・スタイル
「笄町の自邸」の原型は、レーモンドが建築現場で当時使用していた臨時の現場事務所でした。まだ戦後まもないこの時期、コンクリートや製材が高価で不足していたため、建築には簡易さと経済性が求められました。その結果、レーモンドが木造建築をつくる様式として、現場で用いた杉の足場丸太を使用し、柱や登り梁を二つ割りの丸太で挟み込む構造「鋏状トラス」が生み出されたのです。このほか、杉材縦板張りの外装、地震の時にも潰れないように軽くした鉄板屋根、深い軒、土間コンクリートに床仕上材、無地のベニヤ板に真鍮釘打ちの内壁、引違いの襖による間仕切り、中央の暖炉、柱同士を結ぶラインからずらして敷居を持ってくる「芯外し」の手法と、それにより可能となった南側の広い開口部、これらの要素をもって、いわゆる「レーモンド・スタイル」とよばれる木造建築が構成されています。
旧井上邸は、これらの要素を取り入れ井上自身が群馬の風土を考えアレンジしたものです。中庭を中心に居間と寝室が反転しており、寝室の隣に和室が付け加えられました。その他、「笄町」の自邸では土足で生活するため床材がプラスチックでしたが、ここではじゅうたんとなりました。しかし、レーモンド・スタイルは受け継がれ、居間の引違い戸をすべて開け放つと、テラスの向こうにある庭園と一体にすることができます。これは西洋が自然に対抗した建築であるのに対し、レーモンドが日本に学んだ、四季とともにある建築の在り方でした。]]>
高崎・川越編(6):群馬音楽センター(23.7)
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2023-12-01T06:18:00+09:00
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関東
なお今入手した情報では、隣の高崎市役所最上階の21階から見下ろす音楽センターの全貌はまるで"白いザリガニ"のように見えるそうです。また「群馬音楽センター」という碑の裏面には「ときの高崎市民之を建つ」と刻まれているとのこと。レーモンドの壁画が光の中に浮かび上がる夜の光景も素敵です。再訪を期しましょう。
いつかこのホールで、群馬交響楽団の演奏を聴いてみたいものです。とりあえず『ここに泉あり』のDVDを購入して鑑賞しますか。
なお本当に偶然なのですが、ここを訪れた次の土曜日に「新美の巨人たち」で群馬音楽センターが取り上げられました。誰も誉めてくれないないので、自画自賛。もんだどんない。
そして地下駐車場におりて車に乗り込み高崎駅前に行き、駅前のパーキングに車をあずけました。高崎市美術館は、駅から歩いてすぐのところにありました。
受付で旧井上房一郎邸について尋ねると、美術館で入館料を払うと見学できるとのこと。一般は600円ですが、65歳以上は無料。先日65歳になったばかりの山ノ神は小さなガッツポーズをつくり、どや顔で運転免許証を提示しました。山ノ神は倒るるところに土をつかめ… もちろんTさんもSさんも無料となります。Sさんに続き、免許証を提示しようとハンドバッグの中をごそごそと探すTさんですが…「あらないわ」。お忘れのようです、おうまいがっ。これまで免許証不携帯で運転されてきたのですね。一目でご高齢とわかるのですから顔パスで入れてくれるかなと期待したのですが、甘かった。きっちりと600円を支払うことになりました。
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