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アイルランド編(25):Avoca(08.8)

 さきほどの大型トラックとのトラブルで時刻はもう昼時をとうに過ぎています。バスはAvocaという小さな町に到着し、ここで昼食のために一時間ほど休憩とあいなりました。町の方が経営しているらしき小奇麗で美味しそうな食堂でしたが、アイリッシュ・ブレックファストをしこたま仕込んだわれわれとしては軽食ですませ、町の散策にくりだすことにしました。珈琲とコテージ・パイを所望して席に着きふと壁をみるとアイルランド名物の生クリームぶっかけイチゴがあるのを発見。さっそくこれも注文、ま、美味しいことは美味しかったのですが(特に生クリーム)、その値段には驚き桃の木山椒の木ブリキに狸に蓄音機。5.5ユーロオオオオオオオオ… 約935円! アイルランドの物価高については事前に耳にしてはいたのですが、この瞬間に骨の髄まで脳の襞々までランゲルハンス島の岸辺まで思い知らされました。その原因について分析する能力はとてもありませんが、これからの旅行中もしばしば愕然とすることになります。はあ…
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 さてそれでは町へとくりだしましょう。天候はみるみるうちに回復し、陽光が燦燦とふりそそぐ晴天と相成りました。日向にでるとさすがに熱く、テニス用のウォームアップ長袖上着を脱いで、アイルランドに来てはじめて半袖となりました。食堂の前にはきれいな小川と石橋があり、少し上流には石造りの小屋が建てられていますが、おそらくかつての水車小屋でしょう。シューベルトの「美しき水車屋の娘」第一曲「さすらい」を口ずさ…めるはずもなく、町の中心部へと向かいました。
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 とは行っても、大きな川ぞいに並行する道の両側200mほどに家々が建ち並ぶだけの、大きな建物は教会だけのほんとうにほんとうに小さい、でも愛くるしい町です。統一された意匠の家々の壁や窓枠は白・黄・緑・青できれいに塗られ、ドアや窓は花々で飾り付けられています。別段、観光地でもないと思うのですが、わが町を美しく飾りたいという人々の気持ちがひしひしと伝わってきました。この後も、アイルランドの小さな町をいくつか訪れたのですが、特段の観光地でなくとも日本のように見るも無残に衰微した町はありませんでした。地元資本の商店を中心に、ブランドや流行に振り回されず、みんなで肩を寄せ合って細々としかし地に足をつけて暮らしているような印象を受けました。
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 閑雅な午後のひと時を楽しんで、バスに乗り込み、ダブリンへの帰途につきました。視界も格段に良くなり、果てしなく広がる緑色の牧草地、それらを区切って延々とつづく手積みの石垣、そして長閑に群れ微睡む牛や羊や馬たちを車窓から楽しむことができました。しばらくすると、右手ににぶい銀色に輝く海が見えてきましたが、イギリスとの間に広がるアイリッシュ海ですね。「イギリス海」とすべきだという反論がイギリスから出なかったのかしらん。その果てにはリバプールがあるはずです。
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 二時間弱でダブリン市街地に到着、二階席から町のいろいろな顔や情景を眺めていると見飽きることがありません。自転車専用道路はないようですね、車道の端の部分が自転車用のレーンになっていました。
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 学校の校庭は緑の芝生、そしてサッカーゴールの両端が二本の高いポールになっているのはラグビーのゴールと兼用にしているのでしょうか。(これについては後ほど判明) 棺桶を積んだ黒いワゴンが眼下を通り過ぎていきましたが、霊柩車ですね。
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 車輪のところに黄色い錠がはめられているのは駐車違反の車でしょう。旧そうな電話ボックスも発見しました。モリー・マローン像のあたりは相変わらずの人だかり。
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 その近くでは若者たちが噴水にシャボンを入れて大騒ぎをしています。客を乗せた自転車、輪タクも見かけました。
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 本日の六枚です。
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by sabasaba13 | 2009-04-11 08:06 | 海外 | Comments(0)

「伝説の日中文化サロン 上海・内山書店」

 「伝説の日中文化サロン 上海・内山書店」(太田尚樹 平凡社新書436)読了。近代の中国に関する本を読んでいると、時々内山完造という名にでくわします。戦前の上海で書店を経営するとともに、多くの中国知識人たちと友人となりその文化的サロンの役割を果した伝説的な書店、内山書店の主ですね。ぜひ彼の生涯について知りたいなとつねづね思っていたので、本書を見かけた瞬間に即購入しました。
 彼の生い立ちから書店を開くいきさつ、そしてさまざまな人物との交友、サロンの雰囲気など、過不足ない平明な記述によってよくわかりました。中国の読書人に対する彼の思い入れには胸をつかれます。立ち読みは何時間でもOK、つけによる書籍の購入も無制限、店内にはテーブルと椅子があって茶がふるまわれ気の合った仲間たちの談話が深夜まで続く。万引きに対してさえ「本を盗もうとする人は、金さえ手に入れば、必ず本を買いたがるものです。今は盗まれたとしても、金を貸したのと同じことですよ」と意に介しません。こうしてさまざまな出会いや交流の広がりの結果、内山書店は上海、いや中国の文化創造の核となるサロンとなっていきます。なお彼の中国人に対する熱い思いの底には、民族や国籍に関係なく信頼した人物へ誠意を尽くすという行動様式への敬意があったようです。例えば、抗日運動が激しくなり郵便局が日本人による郵便物の発送を拒否するようになっても、局員は「内山書店なら仕方がない。でも今日だけは特別に引き受けるが、明日からは駄目だよ」と毎日言いながら受け取ってくれる。贈収賄や汚職の温床になるという負の面もあるでしょうが、人よりもルールを尊重するという官僚的手法にはない人間らしい温もりがありますね、内山はそこに惚れ込んだようです。もっとも魯迅は「日本人の生真面目さ」が必要だとこうした面を否定しています。まあすべての中国人が情に厚く、すべての日本人が生真面目なわけではありませんけれどね。

 そして内山書店が営まれていた1917年から1945年といえば、激動の時代です。二十一か条要求、五・四運動、第一次国共合作とその破綻、北伐、満州事変と第一次上海事変、そして日中戦争と第二次上海事変。本書は、そうした時代背景に立ち向かいあるいは翻弄される中国知識人の動きと、内山書店に関わりにも詳しく言及されています。中でも魯迅や郭沫若たちとの友情、そして身を挺して国民党の弾圧から彼らを護る場面には思わず引き込まれてしまいました。「友人を敵に売り渡さない人間は、日本人の中にだっていますよ」とは彼の言です。特に中国の独立を求めて闘い続けた魯迅にとって、情報の発信と入手、さまざまな援助、隠れ家の提供など内山完造の存在がいかに大きなものであったか、本書を読んでよくわかりました。著者の太田氏は「親友であると同時に確固たる兵站部」と表現されています。
 日中戦争の拡大につれ、利にさとい日本の商社、商店は商売の手を広げていきますが、彼は「私は断然発展的行動はとりません。…戦争に便乗する(商売の)発展は、中国ではしてはならんのです」としてあくまでも上海の人びとのために尽力します。敗戦時には日本の指導的立場の人間たちは、十万の居留民を見捨てて、われ先に家族同伴で避難したり帰国したりしてしまったのですが、彼は上海に踏みとどまり引揚げがスムーズにすすむよう力を尽します。そして戦後は民間人として、郭沫若らかつての旧友たちと協力しながら日中友好の礎となりました。1959(昭和34)年、北京滞在中に脳梗塞で逝去、享年七十四。内山完造・美喜夫妻の墓は上海の万国公墓にあるそうです。墓碑は「書肆を以て津梁となし、文化の交流を期す。生きては中華の友となり、没して華中の土となる。ああ、此くの如き夫婦」

 一番印象に残ったところを紹介して筆を置きます。魯迅の未亡人・許広平が反政府運動関係者に関する情報を求められて、日本の憲兵隊本部に七十数日間拘留されます。内山完造が手を尽くした結果、彼女は釈放されますが、凄まじい拷問に耐え秘密を守りぬきます。その間のことについて彼女は語らず、内山は彼女が書いた『暗い夜の記録』を読みはじめて事実を知ることになります。温厚な彼にしては珍しく、憤怒をあらわにこう述べられています。
 わたしは今日まで、まことにお人好しであったわけだ。この鬼畜、この悪魔が私の同胞であることを思うと、灰をかぶって懺悔謝罪しなければならないと、独り密かに祈ったのである。
 うーむ、憲兵や特高(特別高等警察)による拷問が、日本人・中国人を問わず、いかに多くの人を傷つけたか、またその精神や行動をいかに害し圧したのか。歴史書ではあまり多く語られていないと思います。その実態や社会への影響、責任問題などしっかり捉えなおすべきでしょう。国民の生命・福祉・財産を屁とも思わない公務員の体質を理解する上で欠かせない作業ではないでしょうか。日本国憲法で唯一「絶対」という語が使われている条文は「第36条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」であることを肝に銘じましょう。
 中国との関係がぎくしゃくしている今、そして「中国人は~だ」「日本人は~だ」というまるで虫の標本にレッテルを貼るような安直な言説が飛び交っている今だからこそ、こういう人物がいたことを思い出すべきだと思います。

 おまけの写真です。本書にも登場する「義勇軍行進曲」を作曲した聶耳(ニエアル)の記念碑(鵠沼海岸)と、岡山市後楽園にある郭沫若の記念碑です。なお彼がかつて暮らした家が千葉県市川市に記念館として保存されているそうです。ホームページはこちら。
http://www.city.ichikawa.lg.jp/cul01/1541000031.html
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 追記。先日、東京神保町にある内山書店の前を通ったのですが、その看板の字は郭沫若によるものでした。感無量。
by sabasaba13 | 2009-04-10 06:07 | | Comments(2)

ご当地ポスト koneta

ちびまる子ちゃんランド(静岡県清水)
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旭山動物園(北海道)
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笠岡市(岡山県)
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倉敷市(岡山県)
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横手駅前(秋田県)
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白石駅前(宮城県)
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水沢駅前(岩手県)
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石巻市(宮城県)
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石巻市(宮城県)
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高岡駅(富山県)
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金森赤レンガ倉庫(北海道函館)
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函館駅前(北海道)
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彦根城(滋賀県)
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近江鉄道八日市駅前(滋賀県)
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上野公園(東京都)
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東京駅(東京都)
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後楽園(岡山県)
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柳井(山口県)
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JR宇治駅前(京都府)
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天童駅前(山形県)
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境港(鳥取県)
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熊野本宮大社(和歌山県)
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日本橋郵便局(東京都)
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京都駅前
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一ノ関駅前
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平泉駅前
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奈良駅前
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岡山駅前
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三嶋駅前
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小浜駅前
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青森駅前
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富山駅前
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木之本駅前
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柳井駅前
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徳島駅前
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by sabasaba13 | 2009-04-09 06:12 | 写真館 | Comments(2)

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」

 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(マックス・ヴェーバー 大塚久雄訳 岩波文庫)読了。マネーゲームに文字通り狂奔する昨今の世界や日本を見るにつけ、あらためて考え込んでしまいます。ぶっちゃけて言えば「手段を選ばず、結果や未来について考慮せず、ひたすら金を増やし続けようとする」という思考・行動様式がこのゲームの本質だと愚考しております。まるでやくざなばくち打ち、と言ったら博徒のみなさんに失礼かな。今、人類が抱える巨大な三つの宿痾、環境破壊・経済格差・軍事紛争も、つきつめればここに起因するのではないでしょうか。金を儲けるためなら、どんなに環境が破壊されても、どんなに貧しい人が増えても、どんなに人が殺されようと、知ったこっちゃない… もしこの惑星を後に続くものたちに十全なかたちで受け渡す気があるのなら、真剣に考え行動しないと奈落はもう眼前です。そのために、もう「マネーゲーム」などという事態を矮小化するような表現はやめませんか。まるで一過性の伝染病みたいに聞こえてしまいます。そうではなく、これこそが、いわゆる先進国を中心にここ二百数十年の間に作り上げてきた資本主義の本質であるという視点をもつべきではないでしょうか。(どういうわけか「資本主義」という言葉を最近耳にしなくなりましたね) イデオロギーにふりまわされず、資本主義というシステムの歴史・特質を冷静に怜悧に考察すべき時だと思います。となると避けては通れない古典中の古典が本書。実は大学時代に、大学生だったら読まなくてはという根拠のない動機に押されて一読したのですが生半可な理解しかできませんでした。その頃よりは己が多少なりとも進歩しているはずだと信じて、蟷螂の斧をふるいました。
 まず大前提として、できるだけ多くの貨幣を得ようとする心情や行動は、歴史上決して自明のものではないというのが筆者の主張です。いやそれどころではなく、そうした行為は道徳的なものではないとさえ考えられていたということです。
 貨幣の獲得を人間に義務づけられた自己目的、すなわち天職とみるような見解が、他のどの時代の道徳感覚にも背反するものだということは、ほとんど証明を要しない。(p.82)
 習慣としてきた生活をつづけ、それに必要なものを手に入れることだけを願う簡素な生き方が理想であったということです。それでは際限のない利潤追求というエートス(人間の血となり肉となってしまった社会の倫理的雰囲気)がなぜ生まれたのか? 彼は、カルビニズムやピューリタニズムなどの禁欲的プロテスタンティズムの倫理が、その精神的支柱となったと論じます。カルバンらの主張では、善行によって人は救われるのではなく、すでに神によって誰が救われるか決められている(予定説)。よって信徒は、「救いの確かさ」の確証を、懸命に働くことによって得ようとします。解説の中で訳者の大塚久雄氏が、あらゆる他のことがらへの欲望はすべて抑えてしまって(禁欲)、そのエネルギーのすべてをゴールインのために注ぎ込むマラソンランナーにたとえられていますが、卓抜な比喩ですね。そしてタイムが早くなればなるほど、「救いの確証を得た」「神の栄光を増した」という至福に恍惚となることができる。より早く走るためには、トレーニングや生活習慣を徹底的に合理化しなければならない。ヴェーバーは下記のように述べています。
 「聖徒」たちの生活はひたすら救いの至福という超越的な目標に向けられた。が、また、まさしくそのために現世の生活は、地上で神の栄光を増し加えるという観点によってもっぱら支配され、徹底的に合理化されることになった。―しかも「すべてを神の栄光の増さんがために」との立場を、彼らほど真剣に考えたものはかつてなかった。(p.197)
 ところが、彼らのそうした行動は意図せずして、合理的産業経営を土台とする資本主義の社会的機構をだんだんと作り上げていく結果となりました。やがてそれが鋼鉄のようなメカニズム(鉄の檻)と化して、マラソンランナーのような禁欲的行動を外側から諸個人に強制するようになります。そして宗教的・倫理的な意味は消え失せ、貨幣の獲得のみが職業における有能さの結果であると信じ、徹底的に合理化された思考・行動によって競争相手を打ち負かし利潤を増やそうとする人間類型が登場することになります。手段を選ばず、敗れた競争相手のことを顧みることもせず、徹底的に合理化した練習によってひたすらタイムを早くすることのみに人生を捧げるランナー… ヴェーバーは次のような恐るべき予言で本書を結んでいます。
 こうした文化発展の最後に現われる「末人たち」(letzte Menschen)にとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。「精神のない専門人、心情のない享楽人。この無のものは、人間性のかつて達したことのない段階にまですでに登りつめた、と自惚れるだろう」と。(p.366)
 マネーゲームに狂奔し、「これほど楽して大きく稼いだ人間はいまだかつていない」と自惚れる昨今の末人たち・無のものに、もしヴェーバーが生きていたらどのような眼差しを向け何と語りかけるでしょう。悲しげに「金儲けだけに専念して意味のない競争をするのはやめなさい」と言うのではないかな。こうした人間類型に対して、彼が本書で掲げているのが「ファウスト的な人間の全面性」という表現です。「ファウスト」について論じる能力はとてもありませんが、「人間の全面性」という言葉がこの奈落から脱け出すためのポイントになりそうですね。
by sabasaba13 | 2009-04-08 06:14 | | Comments(0)

言葉の花綵4

役人の書類の書き方
第一に、決して言質を取られず、責任の所在が明らかにできないようにする。
第二に、できるだけ現状維持の状態を保てるような内容にする。
第三に、聞いているだれもが不満を言わないような文章にする。
第四に、突っこんでくるような質問に対しては、はぐらかしていないようで、実 際には上手にはぐらかすような文体とする。(宮本政於)

 僕、僕がいま、ほんたうに寂しがつてゐる寂しさは、この零落の方向とは反対に、ひとりふみとどまつて、寂しさの根元をがつきとつきとめようとして、世界といつしよに歩いてゐるたつた一人の意欲も僕のまはりに感じられない、そのことだ。そのことだけなのだ。(金子光晴)

あなたはどのようにお苦しいのですか。
Quel est ton tourment ? (シモ-ヌ・ヴェイユ)

 ある人が西暦元年に1マルク預金したとして、それを年5%の複利で計算すると現在その人は太陽と同じ大きさの金塊を4個分所有することになる。一方、別の人が、西暦元年から毎日8時間働き続けたとする。彼の財産はどれくらいになるか。驚いたことに、1.5kgの金の延べ棒一本にすぎないのだ。この大きな差額の勘定書は、いったいだれが払っているのか。(ミヒャエル・エンデ)

 われわれがそれについて話している文明は、われわれの世代のみの所有ではない。われわれはその所有者ではなくて、単に保管者なのである。それはわれわれより無限に大きく、重要ななにものかである。それは全体であり、われわれは単なる部分である。われわれがそれを達成したのではなく、ほかの者たちが達成したのだ。われわれはそれを創造しなかった。われわれはそれを受け継いだのだ。それはわれわれにあたえられた。しかも、次のような暗黙の義務とともにあたえられたのだ。それを慈しみ、よく保ち、発展させ、望むべくは改良して、あるいはすくなくとも壊さず、そのままに、われわれの後にくるべき者らに渡せという、そのような暗黙の義務とともに。(ジョ-ジ・ケナン)

 それは苦しい立場であつた。私はそれを取り上げて、手にもつてゐた。私は震へてゐた。何故といふに私は、永久に、二つのうちどちらかを取るやうに決めなければならなかつたから。私は、息をこらすやうにして、一分間じつと考へた。それからかう心の中で言ふ。「ぢやあ、よろしい、僕は地獄に行かう。」-さう言つてその紙片を引き裂いた。それは恐ろしい考へであり、恐ろしい言葉であつた。だが私はさう言つたのだ。そしてさう言つたままにしてゐるのだ。そしてそれを変へようなどとは一度だつて思つたことがないのだ。(ハックルベリ-・フィン)

 国家が人間性質にとっていとわしいやり方で行動する場合には、その国を滅ぼす方が害悪が軽微で済む。(スピノザ)

 なぜなら、私が生きていたという事実をなにものも改めることはできないからだ。もしそれがいかにも短かい時であれ、私が生きてきた、という事実を。(ミルチア・エリア-デ)

 戦争に抗議しない人間は共謀者である。(クリストフ・ニ-ロップ)
by sabasaba13 | 2009-04-07 06:07 | 言葉の花綵 | Comments(0)

アイルランド編(24):グレンダー・ロッホ(08.8)

 そしてようやく雨もあがり、バスはウィックロー渓谷を過ぎてグレンダー・ロッホに到着です。6世紀、人里はなれた静かな環境を捜し求めた聖ケビンが、この地を見出しひっそりと修行をしながら暮らしたとされています。498年に彼がこの地に立てた修道院はその後何千もの人を集める聖地となり、その後ヨーロッパからも学者が訪れる初期キリスト教期随一の修道院として発展しました。度重なるヴァイキングの襲来にも耐えましたが、後にイギリスによって破壊され衰微してしまいました。この廃墟となりながらもほぼ原型を保つ教会遺跡群がグレンダー・ロッホです。立派なビジター・センターの脇を抜けると、木立の間から鉛筆のようなラウンド・タワーが見え隠れしてきます。数分歩くとまずゲート・ハウス。石積みアーチの門が二つ並んで残っています。初期キリスト教教会の入り口としては、アイルランドで唯一残っているものだそうな。もともとは二階建ての建物だったそうですので、もしかすると日本の中世武士の館のように櫓(矢倉)になっていて敵を撃退するためのものだったのかな。
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 この門をくぐり右手に曲がると正面に高さ33メートルの円塔、ラウンド・タワーが屹立しています。1000年近く前に聖ケビンの修道僧により建てられたこの尖塔は鐘楼、あるいは外敵に備えての物見の塔・避難所としての役割を果たしたようです。ちょうどヴァイキングの襲来が猖獗をきわめていた頃ですね。出入り口が地上から5mほどのところにしつらえてあるのが、ヴァイキングの猛攻・掠奪の恐ろしさを物語っているようです。でもどう見ても、数十人を収容できるような内部の広さには思えません。聖遺物など貴重な物品を抱えた高位の修道士だけが逃げ込めたのかな、などと想像してしまいます。なおこうしたラウンド・タワーはアイルランド各地に残存しているそうです。
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 その近くには大聖堂がありますが、屋根は崩れ落ち外壁のみが残る廃墟になっています。
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 そして11世紀ごろに建てられた小さな教会、聖ケビン教会。建物の東側に晩餐用具置き場があったことから、「炊事場」とも呼ばれています。ほぼ原型をとどめており、急勾配の石組み屋根が印象的。ひととおりガイド氏による解説がすむと三十分の自由時間となりました。
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 聖ケビン教会の奥にはきれいな小川(泥炭のためでしょうかまるでギネスビールのように水が黒っぽい)が流れ、橋を渡ったあたりで振り返ると聖ケビン教会とラウンド・タワーを一望できます。
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 ここのT字路を右へ行くと湖へと続く森の中のハイキング・コースとなっています。できればツァーではなく、公共輸送機関を利用してやってきて、ハイキングも楽しみたかったのですが、いかんせん鉄道や路線バスが通じていません。素晴らしい遺跡と景勝の地なのですから公共輸送機関を整備してほしいと思う反面、あまりにも多くの観光客が来て雰囲気や環境をぶちこわすのを防ぐためにはいたしかたないのかな、などとも考えてしまいます。地元観光業者の利害もからんでいるのかもしれません。さてまだ時間もあるので、もう少し散策をしましょう。そこかしこに林立する新旧のハイ・クロス(石造りのケルト十字架)も物珍しく、景観の味わい深さに一役買っています。
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 草叢をすこし入ったところには、緩やかな丘陵の斜面にハイ・クロスが立ち並ぶ墓地がありました。そして眼前には緑なす穏やかな風情の山々が連なり、遠くに湖面が光っています。小説「嵐が丘」の結句、「こんな静かな大地に休らう人々が静かに眠れぬわけがあるだろうか」を思い起こさせてくれる光景でした。さあそろそろ集合時間です、バスへと戻りましょう。

 本日の八枚です。
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by sabasaba13 | 2009-04-06 06:12 | 海外 | Comments(0)

アイルランド編(23):グレンダー・ロッホへ(08.8)

 バスは郊外の小さな町をいくつか通り過ぎますが、時々物乞いの姿を見かけます。「通学路/子供に注意」の交通標識はどこの国に行っても一目でわかりますが、そのデザインにはお国柄がでているような気がします。アイルランドのものは男女が同じ大きさですが、男児がやや上に位置しています。上半身をそむけあうようにしているのは、自立心のあらわれか? 住宅地を通過したので一戸建て住宅を観察すると、けっこう新しく立派なものが多いようです。アイルランド経済の好調さを物語っているのかもしれません。
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 そして人家は減り、ゆるやかな丘陵と牧草地がつづくアイルランドらしい景観がはじまりました。ただいかんせん霧雨のため、視界がよくありません。それでも眼を凝らしていると、打ち捨てられた廃屋を見かけます。ガイドさんの話によると19世紀のジャガイモ飢饉でこのあたりの人口は半減したそうですが、その名残かもしれません。やがて山の斜面をけずった道路となり、幅が狭くなりました。乗用車とならかろうじてすれ違えますが、大型バスやトラックだったらどうするのだろう、と思っていたら案の定突然バスは急停止。どうやら大型トラックと出くわしたようです。回避スペースもなく、後続車も連なっているため、強引にすれ違うしかなさそう。工事用の重機を積んだトラックがそろりそろりと車体がぶつかるぎりぎりのところで進んできますが、無理でした。頭と腕をかかえる運転手、高みの見物をしているわれわれ、さてどうなるのでしょう。するとパトロールらしき車がやってきて、中から大きな鋸を持った人が出てきました。そしてバスの左側に生えている木の枝をかたっぱしから切っていきます。そして路肩ぎりぎりまでバスは左側に寄り、再びにじり進むトラック、固唾を呑んで見守っているわれわれ… するり 無事にすれ違うことに成功、車内では大きな拍手と歓声がわきおこりました。グレンダー・ロッホという売り物にしている観光地への道がこの状態ですから、観光に関してはあまり力を入れていないのかな。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2009-04-05 08:39 | 海外 | Comments(0)

アイルランド編(22):グレンダー・ロッホへ(08.8)

 朝起きると、空は厚い雲に覆われていますが雨は落ちていません。本日はグレンダー・ロッホへのバス・ツァーです。アイリッシュ・ブレックファストをしこたま腹に詰め込み、餌付け用のパンをいくつかいただきました。外へ出ると、さあっと小雨が降ってきました。これがアイルランド名物のシャワーってやつか、やれやれ。しかし道行く人を見ると、ほとんどの人は傘をさしていません。少々の雨なんざ屁でもない、という風情。ん? 緑色に塗られたポストには王冠のマークがあります。イギリスが支配していた時代のポストを、色を赤から緑に塗り替えて使用しているのですね。過去の植民地支配を思い起こさせる物件、普通なら撤去しそうなものです。歴史を忘れまいという戒めか、はたまた「もったいない」ということなのか。旅行会社から連絡をもらった場所、オコンネル通りのインフォメーションの前で待ちましたが、なかなかバスが来ません。ツァー参加者らしき人も何人か待っていますので注意深く見ていると、係員らしき人がやってきて名前をチェックしています。われわれも名前を確認してもらい、近くに停車していたデッカー(二階建てバス)の、もちろん上階の席を確保しました。さあ出発。
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 まずは眺めのよい二階席から街の様子を見物です。オコンネル通りを南下すると、まず否が応でも眼に入ってくるのが塔、というよりも巨大な針のような新ランドマーク「光りのモニュメント/スパイヤ」。その右手にはイオニア式の優美な円柱がファサードを飾る中央郵便局。イースター蜂起の舞台となった歴史的建造物です。
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 道路清掃車とすれちがいましたが、これもアイルランドのシンボルカラー緑色でした。19世紀前半に独立運動に尽力したダニエル・オコンネルの銅像を過ぎると、オコンネル橋。そしてツァー・バスは昨日訪れたナショナル・ギャラリー、議事堂、セント・スティーヴンス・グリーン、コンサート・ホールの前を走りぬけていきます。
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 前の車の臀部に鼻先をくっつけんばかりに停めている、路上駐車の妙技を見かけたので撮影。前後のスペースがあるのだから、そこまで意地を張ることはないのに。相変わらず霧雨が降っていますが、歩道を行く人々はほとんど傘をさしていません。オフィス・ビルの出入口で煙草を吸っている方もよく見かけました。
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 そうこうしているうちに、バスは市街地を抜け、郊外へと向かいます。このへんで添乗したガイドさんの話がはじまりました。ツァー参加者の中で日本人はわれわれのみ、当然の如く解説は英語です。よって私の語学力では1/7ほどしか理解できず、山ノ神の同時通訳が頼りです。(多謝) どうやら今年は例年になく雨が多いようで、とにかく今日も雨が止むことを祈ろう、ということでした。昨日は特にひどい雨だったらしく、氏曰く、(これは聞き取れました)NIGHTMAREのようだったと嘆息をもらしていました。悪夢のような雨か… なおガイド氏が話の中で、イギリスのことを"new neighbor"と呼んでいたのが印象的でした。アイルランドを支配し苦しめてきた古いイギリスとは違うということなのでしょう。私たちの国も、近隣アジア諸国から「新しい隣人」と呼んでもらえる日はいつか来るのでしょうか。またアイルランドには核(原子力)発電所がないそうです。危険性やコスト、あらゆる点を考慮してそれが真っ当な選択だと思いますね。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2009-04-04 07:25 | 海外 | Comments(0)

アイルランド編(21):ルアス(08.8)

 ヒューストン駅が近くなってきたので南岸へ渡ると、塀に囲まれた大きな工場がありました。どうやらここがギネスビールの工場のようですね。そしてオコンネル橋から五十分ほどで、貴族の大邸宅のような駅に到着です。さっそく明日のキラーニー行列車の指定席を予約しようと窓口に行くと…閉まっています。時刻は午後八時半、基本的に夜は働かないぞという慣行と価値観が根づいているのでしょうか。案内所で訊ねると、インターネットで予約してくれとのお言葉。すぐ近くに1ユーロを投入すると使えるコンピュータが置いてありました。しかし操作してもどうも要領がよくわかりません。ま、自由席でも大丈夫であろうと高をくくり、宿に戻ることにしました。嬉しいことにここからコノリー駅近くまで、ルアスという最新式の路面電車が走っています。路面電車大好きおじさんとしては、乗らにゃあなるめえ。(疲れたし) 自動販売機で1.5ユーロの乗車券を購入、電車を待ちながら紫煙をくゆらしていると初老の人物が近づいてきて横柄な態度で煙草を所望します。ちょっとむかっとしたので断りましたが、今回の旅行ではよく煙草をたかられました。やはり高額ということがあるのでしょう。
 そうこうしているうちにしゅるしゅると電車がホームに静かにすべりこんできました。銀色に輝くモダンな姿、そしてLRV(Light Rail Vehicle/超低床車両)と言うのでしょうか、路面と車両の床がほとんど同じ高さなので乗り降りも便利です。騒音も揺れもほとんどなく、乗り心地も快適。
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 でも汚くてうるさくてがたがた揺れて古臭いリスボンの市電も、あれはあれで味があったな、と感じたのは贅沢かな。それはともかく、こうしたLRT(Light Rail Transit)=渋滞緩和と環境問題の解消を図るための新しい軌道系交通システムを導入したダブリン市の見識には敬意を表しましょう。日本でも、富山市など、その導入を図る自治体がぽちぽち出てきているのは嬉しいかぎりです。なお工事中なのか未開通なのかコノリー駅の二つ手前の停留所Abbey Streetで降ろされました。ここからホテルまで歩いて数分、途中にある商店で明日のためにミネラル・ウォーターを買っておきましょう。そうそう水の話を忘れていました。水道水はがばがば飲みましたが、旅行中も帰国後も下痢の症状はおきていません。安全性に問題はないと思いますが、消毒液の味と匂いがややきついので美味しくはありません。さて水を買うのにCOOPがあればいいのですが、残念ながらないようです。異国の都市に行くとまずCOOPを探すのですが、ダブリン、いやアイルランドではほとんど見かけませんでした。やむをえずSPARというコンビニエンス・ストアに立寄ってミネラル・ウォーターの大きなボトルを購入、レジで代金を支払おうとすると係の方は風貌からして中近東出身、外国人労働者なのでしょうか。てことは明日の夕食はケバブですね。

 本日の二枚は、ヒューストン駅とルアスです。
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by sabasaba13 | 2009-04-03 06:07 | 海外 | Comments(0)

アイルランド編(20):テンプル・バー(08.8)

 オコンネル橋から北に向かって伸びるのが中央郵便局やホテル・銀行が立ち並ぶ目抜き通り、オコンネル通りです。こちらの散策は明日以降にして、今日は川沿いの道を西へと歩いていきましょう。オコンネル橋のすぐ西、北岸にリフィ川を船でクルーズする「リフィ・ボヤージュ」の乗船場がありましたが、どうやら今回の旅では時間の関係で乗れそうにありません。残念。このあたりはボード・ウォークになっており、川風を浴び川や橋や付近の景観を楽しみながら快適な散策ができます。しつらえられたベンチでは、市民の方々が思い思いに夕べのひと時を楽しんでおられます。川面の上を飛び交うカモメたちが、海が近いことを教えてくれました。しかし西の空には暗雲がたちこめ、今にも一雨がきそうです。少し歩くと歩行者専用のハーフ・ペニー橋、1919年まで橋を渡るのに半ペニーの通行税を支払わなければならなかったことからこう呼ばれるようになったそうです。
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 橋を渡り南岸の小路を抜けると、このあたり一帯がテンプル・バーと呼ばれる一種の文化村。イギリス人高官のウィリアム・テンプルが修道院から土地を引き継いだことからこう呼ばれるようになったそうです。なお、"バー"は川沿いの道を表わします。かつてこのあたりに税関があり、この界隈には荷物を保管する倉庫が立ち並び、商店や酒場、宿が密集し、大いに繁栄していたそうです。しかし1791年に北岸に税関が移転されると衰微し、スラム街へと替わっていきました。1960年代に交通公社がリフィ川の北岸にあった中央バスターミナルをこのエリアに移転する計画を立て、土地の買収を開始、その間すでに取得していた建物を短期契約で安く賃貸したところ、小さな店や芸術家が次々と集まってきたそうです。やがて彼らの嘆願によってバスターミナルの移転は中止となり、以来ロンドンのコベントガーデンやパリのレアール地区のような、お洒落なレストランやカフェ、野外劇場やアートミュージアムなどが集まる芸術村となりました。通り抜けただけですが、大勢の人で賑わい、活気と熱気がむんむんと立ち上っています。なおこの一角には、U2のボノがオーナーであるクラレンスホテルがあるそうですが、見つけられませんでした。さて再び橋を渡って川沿いの道に戻り、北岸を西へと歩きましょう。しばらく歩くと見えてくる、円柱で囲まれたドームが印象的な建物がフォー・コーツです。
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 イースター蜂起(1916)の後、20世紀最初のゲリラ戦争ともいわれるアイルランド独立戦争(1919~1921)が勃発、鎮圧政策が行き詰まったイギリスはイギリス・アイルランド条約で、アイルランド自由国(※イギリスの自治領)の樹立を認めることになります。しかし北アイルランドはイギリス領とされ、イギリス王への忠誠宣誓を要求されるなど、強硬派にとっては大きな不満が残るものでした。1922年4月14日、この条約に反対するアイルランド共和国軍がこの建物を占拠して総司令部としますが、自由国政府側の総攻撃を受けて降伏。その際に共和国軍は建物を爆破、その時の火災によって隣接する公文書オフィスが焼失し、12世紀からの文献や権利証書など多くの貴重な資料が失われたそうです。アイルランドはその後、約一年におよぶ内戦(市民戦争)となりました。建物は1932年に修復され、現在は高等裁判所、最高裁判所、地方裁判所として利用されています。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2009-04-02 06:12 | 海外 | Comments(0)