<   2010年 07月 ( 27 )   > この月の画像一覧

五島・対馬・壱岐編(12):頭ヶ島教会(09.9)

 外へ出ると、店の前には塩作りの守護神、塩ノ目恵美須が鎮座していました。そしてタクシーに乗り込み、頭ヶ島へと向かいます。
c0051620_9373291.jpg

 途中で立ち寄ったのが海童神社、なんと1973(昭和48)年に捕獲された体長18.2mのナガスクジラの顎の骨でできた鳥居があります。捕鯨で栄えたこの有川地区を象徴する神社ですね。後ろを振り返るとかつて鯨を見張っていた鯨見山、見張り役が鯨を発見するとふもとにある納屋場に合図を送ると、男たちが勇壮に荒海に漕ぎ出していったそうです。
c0051620_938093.jpg

 そして有川湾に沿って東へと進み、中通島と頭ヶ島を結ぶ頭ヶ島大橋を渡ると、集落はおろか人の気配すらない山道をしばらく走ります。昔は船で行き来をしていたのでしょうね。この島には上五島空港があったそうですが、今はほとんど使用されていないとのことです。しばらくすると狭い平地に肩を寄せ合うように佇む集落と教会が見えてきました。羊腸の山道をおりると頭ヶ島教会に到着です。海童神社からここまで二十分ほどでした。ここ頭ヶ島は幕末期までは無人島で、鯛ノ浦のキリシタンが迫害を逃れて1859(安政6)年頃に移り住んだそうです。1868(明治元)年、時の代官松園嘉平が弾圧に乗りだし、十数人の戸主全員を縛り上げて有川の牢に入れ、三ケ月に及ぶ過酷な拷問が行われました。遂に耐えかねて改心の申し出をしたが役人は男たちを放免せず、今度は頭ケ島に移して、残された婦女もろとも全員を捕らえて長屋に幽閉してしまいました。ここに至り信者たちは役人の手薄を見計らい、船を使って全員が島を脱出してしまったそうです。キリスト教解禁後、島民は再び島に戻りはじめ、資金難に苦しみながらも7 年の歳月をかけて1917(大正6)年に完成させたのがこの頭ヶ島教会です。建設を指導したのは大崎八重神父で、付近に産出する砂岩を利用した石造教会堂の設計を、気心の知れた鉄川与助に依頼しました。当時の信者は四十数戸であったが、対岸の友住の山からの石の切り出しや運搬等、献身的な奉仕がなされ、さらに金銭的な負担を行うなどまさに全財産をなげうっての造営事業だったそうです。
 といった事前に仕入れた知識を思い浮かべながら、しばし教会を見つめていました。失礼ですがこのような僻陬の地に、まるで大地から生え出たような石造りの見事な教会。凛とし、毅然とした佇まいながらも、どことなく温かみを感じるのは、そうした信者たちの熱く固い思いによってつくりあげられたからでしょうか。信仰が公認されたことへのあふれるような歓びをもって、信者自らが切り出し運び積み上げた石でできた教会。荘厳さすら感じます。外壁の石にたどたどしく数字が刻んであるのはその名残りなのでしょう。中に入ると、外観とは印象が一変します。(たぶん)日本では珍しい折り上げ天井が柔らかな雰囲気を醸し出し、随所にちりばめられた花の意匠とあいまって、得も言われぬチャーミングな空間となっています。典礼当番表や掃除当番表、「ごミサ願い」の封筒などが、信仰が生き生きと継がれていることを物語っていました。なお隣にある司祭館も石造りでベランダを配するなど貴重な物件なので、お見逃しなく。
c0051620_9382970.jpg

 すぐ前の海岸には、十字架が林立するキリシタン墓地。この島の歴史を無言で見つめ続けてきたのでしょう。名残りは尽きませぬが出発、次の目的地鯛ノ浦へ向かいましょう。
c0051620_9385413.jpg


 本日の三枚です。
c0051620_9391824.jpg

c0051620_939415.jpg

c0051620_940375.jpg

by sabasaba13 | 2010-07-18 09:40 | 九州 | Comments(0)

五島・対馬・壱岐編(11):青砂ヶ浦天主堂(09.9)

 そして青方港を通り過ぎ、小さな入江のほとり、まるで集落を上から見守るように小高いところに建てられている大曾教会に到着。中ノ浦からここまで二十分強といったところです。1916(大正5)年に竣工、設計は鉄川与助です。正面中央に屹立する八角ドームをいただく鐘楼が印象的な、赤煉瓦造りの重厚な建物です。煉瓦の色の違いやその凹凸を巧みに使った意匠(ロンバルディアベルト)や、瓦屋根など、軽やかな佇まいも心に残りました。中に入ると、肌理が美しい木材を多用した列柱やリブ・ヴォールト天井が清々しい雰囲気を醸し出しています。入口上部の木彫や柱の彫刻などに手づくりの温もりを感じます。ステンドグラスは桜花をデザインした質素なもの、柔らかい光で堂内を満たしていました。人々を祝福しているようなキリスト像に一礼をし、対岸から集落と巨魁を撮影。この地にもキリシタン禁教令が厳しい頃、大村藩外海地方から信仰の自由を求めて逃れて来た信徒が、数多くいたそうです。現在でも大曾は、地区住民のほぼ100%がカトリック信徒とのこと。なお時間の関係で寄れませんでしたが、この近くに教会や、洋上石油備蓄基地、青方の街を一望できる標高160mの観音岳展望台があるそうです。
c0051620_611592.jpg

 そして十分強で冷水教会に到着。奈摩湾を望む高台に建てられた、かわいらしい尖塔をもつ木造の質素な教会です。1907(明治40)年に竣工、設計は鉄川与助、彼が27歳の時に独立してはじめて手がけた教会だそうです。中に入ると、彫りの深いリブ・ヴォールト天井が厳かな雰囲気でした。火の見櫓のような鐘楼が、別棟で建てられています。静かな入り江と対岸の山なみを一望できる素晴らしい眺望でした。この地の信者も、外海地方からの移住者の末裔で、多くの方々が漁業によって生計を営んでいるとのことです。
c0051620_6122896.jpg

 湾をぐるりとまわって数分走ると、ちょうど対岸のあたりにあるのが青砂ヶ浦天主堂です。堂々とした煉瓦造りの天主堂で、均整のとれた落ち着きのある佇まい。正面中央にある尖頭アーチ形の入口のまわりを石材で飾るなど、意匠にも凝っています。竣工は1910(明治43)年で、設計は鉄川与助です。中に入ると、リブ・ヴォールト天井と見事に磨き上げられた列柱に眼を引かれます。扉の質朴な彫刻もいいですね。ステンドグラスは何かの花弁をデザインしたものでしょうか。他のほとんどの教会と同様、信者の献身的な協力によって工事は進められ、海岸から小高い建設地まで、老若男女を問わず各自に見合った分量の煉瓦を背負う人達の姿を写した写真が残っているそうです。
c0051620_613436.jpg

 さてそろそろお腹がへってきました。運転手さんに有川のあたりで五島うどんの美味しい店はないかと訊ねると「竹酔亭」を薦めてくれました。十数分走って到着、彼は弁当持参ということでしたので、三十分後に落ち合うことで了解。お店に入り、品書きをつらつら眺めるといろいろなうどんのバリエーションがあります。係りの方にお薦めの一品を聞くと、俺の目を見ろ何にも言うな、という風情で不適な笑みを浮かべ、ぼそっと「かけうどんです」。嗚呼、その一言を待っていたのだ、わたしゃ。もちろんかけうどんを注文し、待つこと数分にしてご来臨です。前歯で細麺をぷつんと噛み切った瞬間に意識が飛びましたね。エンドルフィンがぴしぴしと分泌し、陶酔感が奔流のように心身を押し流していきます。いわゆるイーターズ・ハイというやつですね。この間、うどんと一如、忘我の境地で、気がつくとどんぶりの底に描かれた飛魚のトンちゃん(仮名)が「完食ありがとう!」と嬉しそうに中空を飛んでいました。ごっそーさん。
c0051620_6133270.jpg


 本日の七枚、上から大曾教会(3枚)、冷水教会(1枚)、青砂ヶ浦天主堂(2枚)、そして五島うどんです。
c0051620_614638.jpg

c0051620_6143158.jpg

c0051620_6145713.jpg

c0051620_6153835.jpg

c0051620_61614100.jpg

c0051620_6164351.jpg

c0051620_617109.jpg

by sabasaba13 | 2010-07-17 06:18 | 九州 | Comments(0)

五島・対馬・壱岐編(10):中ノ浦教会(09.9)

 そうこうしているうちにタクシーが到着、丁重にお礼を言って彼と別れ、車に乗り込みました。そして観光地図を見せながら、四時間の貸切、まわりたい教会の提示、有川で昼食、15:05発のフェリーに間に合うように奈良尾港に戻ること、あとはお任せ、ということで話がまとまりました。四十代なかばでしょうか、運転手さんは大変腰の低い方で、はいはいはいはいと請け負ってくれましたが、ご本人曰く「新人ですのでよろしくお願いします」。でも中通島出身ということなので、(たぶん)大丈夫でしょう。♪命預けます♪ それでは出発、しばらくは車窓からの眺めを満喫しました。いやあ、この中通島は素晴らしい景観です。複雑に入り組んだ海岸線、静かな入り江、千変万化の妙を奏でる山なみ、そして肩を寄せ合うように家々がうずくまる集落、それを見守るように佇む教会、天気のよい時に必ずや再訪するぞと心に誓いました。
c0051620_6215392.jpg

 そして二十分ほどで最初の目的地、中ノ浦教会に到着です。ここで薀蓄をひとくさり。なぜここ五島には個性あふれる教会が多いのでしょうか。禁教令の廃止(1873)によって信仰の自由が黙認されると、長い弾圧から解放された信者は、その喜びを表すために競って教会を造りました。フランス人神父の指導のもと、貧しい暮らしの中で自分たちの勤労奉仕で建てた質素な教会がこの時期の特徴です。やがて1890(明治22)年の明治憲法で信仰の自由が保障されると、信者の増加に対応して堂々たる外観の煉瓦造りの教会が建てられるようになります。明治末期になると、日本人が設計から施工までを行なうケースが増えてきます。その代表格が上五島出身の鉄川与助で、代々大工の棟梁を勤める家系に生まれ、1976(昭和51)年に97才の天寿を全うするまで、九州各地において多くの教会建築を残しました。在来の技術をベースに積極的に西洋建築技術を取り入れて独創的な作品を作り続けていった与助の人生は、近代建築の発展史そのものであり、彼のことを「棟梁建築家」と呼ぶ研究者もいるそうです。なお2007年にはユネスコの世界遺産暫定リストに「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として登録されたとのことです。
 というわけで信仰を公認されたという信者たちの喜びと島でいちばん美しい教会をつくりたいという熱い思い、鉄川与助の稀有なる才能、これが答えでしょうか。この中ノ浦教会は1925(大正14)年に建立されたもので、木造に重層屋根、尖塔をもち、静かで小さな入江のほとりにたたずむ白亜の美しい教会です。中に入ると、一面に白色とアイボリーが塗られ、上部に島の名物、椿の花のレリーフが並んでいる、何とも瀟洒で愛らしい雰囲気です。外に出ると、水面に映る優美な姿がまるで白鳥のようです。建築した棟梁は不明ですが、発注者とも思われる大崎八重神父は鉄川与助と深い関わりを持った方なので、彼が設計等に関与している可能性もあるのではないか、ということです。なおこの地区の信者の祖先は、寛政年間に、西彼杵半島外海地区の黒崎から移住してきたキリシタンだそうです。
c0051620_6222268.jpg


 本日の二枚です。
c0051620_622447.jpg

c0051620_623147.jpg

by sabasaba13 | 2010-07-16 06:23 | 九州 | Comments(0)

「私の従軍中国戦線 一兵士が写した戦場の記録」

 「新版 私の従軍中国戦線 〈村瀬守保写真集〉 一兵士が写した戦場の記録」(日本機関紙出版センター)読了。村瀬氏の思いは、「はじめに」で十全な形で述べられています。
 私は一九三七年(昭和十二)の七月に召集され、中国大陸を二年半にわたって転戦し、さまざまな体験をして参りました。
 当時、私は戦争反対の意見をもっておりましたが、その事を他人に洩らすことはできませんでした。
 中国ではカメラ二台を持参して、中隊全員の写真をとっていたので、中隊の非公式の写真班として認められ、約三千枚の写真を写すことができたのです。
 現地でシャッターをおすとき、できるだけ平静な気持ちで、人間らしい態度を失わないよう心がけました。
 今、終戦後四十二年をむかえて、日本軍の残虐があばかれ、世論に問われています。
 この時、戦場の狂気に巻き込まれなかった、一兵卒が見た戦場の一場面を、国民の皆様に見ていただくことも、無駄ではないと思い、写真集を出版することに致しました。
 氏の言われる"人間らしい態度"が、写真を通してひしひしと伝わってきます。思うに、人間にはしてはならないことがあるという信念、国籍や民族で人間を差別しないという心情、そして事実を曲げずに記録するという決意のことではないでしょうか。日本軍が中国戦線で行なった行為を、静かで真摯な怒りと悲しみを込めて記録してくれたことに心から感謝したいと思います。歴史書などでよく見かける写真、例えば南京大虐殺後に長江の河岸に折り重なる多数の死体、あるいは慰安所の前で今か今かと順番を待つ日本軍の兵士たち、村瀬氏が撮られた写真だったのですね。哈爾浜(ハルビン)、山西省、漢口、徐州、南京、上海、盧溝橋と転戦しながら、その行軍の様子、戦闘後の状況、都市や農村の風景、日本軍兵士の日常生活、そして中国民衆とその暮らしを撮影した貴重な写真が多数収められています。中でも、やはり軍靴に踏みにじられた中国民衆の姿が心に突き刺さります。表紙も飾った一枚の写真、絶望のあまりか力なくうなだれる母親、その膝にはぐったりとして横たわる乳児。不安と怒りと悲しみに満ちた表情でカメラをきっと見据える少女、そして中央には無表情に無感情に虚空を見つめる老婆。逃げ遅れた四人家族、解説によると、八十歳になる彼女は日本兵に犯され怪我をしたそうです。「なぜあなた方は私たちをこんな目にあわせるのですか」という問いを、数十年の時を超えてつきつけられるような思いです。その一方で、彼の戦友である日本兵の日常生活を写したスナップでは、屈託のない優しく朗らかな表情を見せています。そのギャップには鳥肌がたちます。おそらく良き父、良き子、良き有人、良き隣人であった人たちがなぜ中国戦線で数々の非人間的な行為をなしたのか。「戦争の世紀を超えて」(森達也・姜尚中 講談社)の中で、森氏は、加害者の生理や心の動きをきちっとおさえて語り継ぐことが重要なのではないのかと指摘されています。何がどうなったら、人はモンスターになってしまうかという記憶が途切れているから、何度でもモンスターが現われてしまう。そして氏は何かの回路が駆動したのではなく、何かの回路の機能が停止して非道な行為におよんだのではないかと分析されていました。それに対して姜氏は、価値がないものは、たとえ人間でも、抹殺してよいという資本主義の淘汰メカニズムが、その回路を機能停止させているのではないかと述べられています。
 もしそうだとしたら、「経済的価値のないもの・人間・生物は必要ない」という、今まさに私たちが直面している事態を考える上でも、普通の市民であった日本兵がなぜこうした行為におよんだのか、その生理や心の動きをきちっとおさえることは必要だと思います。一度、この写真集を手に取り、一枚一枚の写真をじっくりと眺め、思いを馳せてみませんか。何故、この善良そうな兵が、彼女をこんな目にあわせたのか。戦争反対と唱えるのももちろん重要ですが、それと同時に加害者の病理について考えるのも必要だと思います。モンスターにならないためにも。いろいろと考えさせてくれる一冊です、お薦め。
by sabasaba13 | 2010-07-15 06:25 | | Comments(0)

「世界でもっとも阿呆な旅」

 「世界でもっとも阿呆な旅」(安居良基 幻冬舎)読了。1970年代の後半に高校生活を送りましたが、当然の如く携帯電話もパソコンもインターネットもカラオケもゲームもコンビニエンス・ストアもない、あったとしても普及していない時代でした。よって、無為な青春の日々においていかにして金をかけずに暇をつぶすかが、高校生にとって大きな課題でした。と一般論にするのは言い過ぎかな、ま、私の周囲ではと限定しておきます。私の場合は、図書館で本を借りての読書が中心でした。他にもいろいろと工夫をしましたが、忘れられないのは地図帳を使って友人と行なう暇潰しです。あるページを開いて、一人がある地名を宣言し、だれが一番早く見つけられるか。コツは、小さな字で記された地名ではなく、できるだけ大きく記された地名を提示することです。「アペニン山脈」とかね。これはエドガー・アラン・ポーの「盗まれた手紙」で知った手法です。"知能が、あまりひどく、あまり明白にわかりきっていすぎる事がらを気づかずに過すという精神的の不注意" もう一つは、珍奇な、猥褻な地名探しを競うこと。特に後者には夢中になりました。レマン湖、ピレネー山脈のマラデッタ山、嗚呼どんなところなんだろう、いつの日にか行ってみたい、と小さな胸は夢と憧れではちきれんばかりになった…というのは大袈裟ですが、とにかく興味はありました。
 その夢を実現してくれたのが安居良基氏です。コンセプトはいたって単純、珍奇・猥褻な地名をもつ場所へ行き、その表示と己のツーショットを撮ってくる、ただそれだけ。スケベニンゲン、エロマンガ、アホ、キンタマーニ、エロマンガ島、ぷに、ハゲ、チンポー湖、ヤキマンコ、シリフケ、シリブリ、パンティ、シワ、ナンパ、オナラスカ、マルデアホ、チンボテ、マラ、クサイ島、いやはやよくぞ行ったり、ここまで"不毛"だと高貴な輝きすらおびてきます。なにせいずれも観光地とは無縁の代物、そこにたどりつくための労苦・費用・時間、たいへんなものでしょう。たとえばマルデアホ(アルゼンチン)に行くには…
 まずは日本からブエノスアイレスへ。そこから2号線でChascomus経由でDoloresまで行き、63号線に乗り換え、11号線を東南方向に向います。途中、2、3カ所、料金所があります。ブエノスアイレスから約350km、4時間ほどの道のりです。(p.91)
 また、モスクワでは二十歳ぐらいの足の長いスレンダーな美女がいきなりビール瓶をラッパ飲みするのを見て驚いたり、アエロフロートのイリューシン62の座席は前に倒れるので前の席が空いていたらそこに足を乗せられたり、と面白い旅のエピソードも満載。国内編は海外編ほどインパクトはありませんが、ヤリキレナイ川、貧乏山、馬鹿川など、それなりの物件が紹介されています。
 精神分析学者の岸田秀氏が「人に迷惑のかからないくだらないことに人生の意味を見出すのがいちばんすばらしい生き方である」と言っておられましたが、それを文字通り実践された偉業です。何の役にも立たず何の意味もない1500円の本ですが、私のかつて胸をときめかせたささやかな夢を紡ぎ続けてもらうためのサポートと考えれば安いもの。安居さん、陰ながら応援します。

 なお本書に掲載されたところで、私が行ったことがあるのは、御免(高知県)、大歩危・小歩危(徳島県)、漫湖(沖縄県)、伊武部ビーチ(沖縄県)ぐらいです。氏の足元にも及びませんね。また「線路を楽しむ鉄道学」(今尾恵介 講談社現代新書1995)によると、かつて運行されていた大社宮島鉄道に「乙立(おつたち)」という駅名があったそうです(p.157)。まだまだおもしろい地名がありそう、私も珍地名探訪の一翼を担う所存です。
by sabasaba13 | 2010-07-14 06:25 | | Comments(0)

言葉の花綵32

 野に落ちし種子の行方を問いますな 東風吹く春の日を待ちたまへ (管野スガ)

 おらは絶対騙されねえ。(小泉金吾)

 人間の努力のたまものが、人間の手で破壊されるのを見るのはつらい。(イスラエル軍兵士 ペレツ・キドロン)

 国籍が違っても階級が違っても、人間の生活感情や思想は互いに共通する部分の方が、相違する部分より遥かに多いのに、相違点を誇大に強調して対立抗争をしている。僅かな意見の相違や派閥や行きがかりのために、ただでさえ不幸になりがちな人生を救い難い不幸に追い込んでしまう。情けないことである。なにか大きいものが間違っていて、私たち人間を奴隷のようにかりたてている。一国の歴史、一民族の歴史は、英雄と賢者と聖人によって作られたかのように教えられた。教えられ、そう信じ己れを律して暮して来たが……だが待て、それは間違っていなかったか。野心と打算と怯懦と誤解と無知と惰性によって作られたことはなかったか。胸の中が熱くなり、また冷えた。(石光真清)

 大石誠之助は死にました/いい気味な/機械に挟まれて死にました/人の名前に誠之助は沢山ある/然し、然し/わたしの友達の誠之助は唯一人/わたしはもうその誠之助に逢はれない/なんの、構ふもんか/機械に挟まれて死ぬやうな/馬鹿な、大馬鹿な、わたしの一人の友達の誠之助/それでも誠之助は死にました/おお、死にました/日本人で無かつた誠之助/立派な気ちがひの誠之助/有ることか、無いことか/神様を最初に無視した誠之助/大逆無道の誠之助/ほんにまあ、皆さん、いい気味な/その誠之助は死にました/誠之助と誠之助の一味が死んだので/忠良な日本人はこれから気楽に寝られます/おめでたう (与謝野鉄幹)

 私たちが負けつづける限り、権力はいつまでも勝っておらねばならない。強者には一度の負けが決定的だが、弱者には負けることを止めたときが敗退なのだ。(金時鐘)

 国家というのは魂をもたない怪獣だ。(シモーヌ・ヴェイユ)

 おまえを殺してしまわないものは、すべておまえを強くしてくれる。(unknown)

 視えない像を視なさい、聞こえない音を聞きなさい。(unknown)

 いいえないもの、語りえないものを言葉として純粋な結晶として抽出すること。(ヴァルター・ベンヤミン)

 悲観主義は気分の問題であり、楽観主義は意思の問題である。(unknown)
 
 愛が失われ、対象に対する関心がなくなり、倦怠があきらめのようにはびこる時、私達はすでに墓場にいるのだ。(金芝河)

 松の事は松に習へ (松尾芭蕉)

 単なる攻撃はやせ細った絶望的精神からでも行なえるが、何ものかへの抵抗は、自己の持てるものについての確信なしには行えない。(藤田省三)

 人生とは妥協の原則を探ることである。(藤田省三)
by sabasaba13 | 2010-07-13 06:24 | 言葉の花綵 | Comments(0)

転車台

津山まなびの鉄道館(岡山県)
c0051620_17253128.jpg

横手駅(秋田県)
c0051620_21215765.jpg

三峰口駅(埼玉県)
c0051620_18301245.jpg

北濃駅(岐阜県)
c0051620_16334191.jpg

ヴィンタートゥール駅(スイス)
c0051620_2251276.jpg

ポスキアーヴォ駅(ベルニナ急行)
c0051620_22503653.jpg

ミュルツツーシュラーク駅(オーストリア)
c0051620_11404710.jpg

インスブルック駅(オーストリア)
c0051620_1140236.jpg

坂町駅(新潟県)
c0051620_22145181.jpg

長岡駅(新潟県)
c0051620_22143084.jpg

木更津駅(千葉県)
c0051620_9184847.jpg

豊後森駅(大分県)
c0051620_8282673.jpg

人吉駅(熊本県)
c0051620_828345.jpg

千頭駅(静岡県)
c0051620_9402193.jpg

梅小路蒸気機関車館(京都)
c0051620_1328374.jpg

若桜駅(鳥取県)
c0051620_19131818.jpg

天竜二俣駅(静岡県)
c0051620_6282216.jpg

交通記念館(小樽)
c0051620_6284219.jpg

真岡駅(栃木県)
c0051620_6285351.jpg

水上駅(群馬県)
c0051620_629613.jpg

美濃太田駅(岐阜県)
c0051620_6292057.jpg

新山口駅(山口県)
c0051620_6293230.jpg

茂木駅(栃木県)
c0051620_6294772.jpg

by sabasaba13 | 2010-07-12 06:30 | 写真館 | Comments(0)

五島・対馬・壱岐編(9):奈良尾港(09.9)

 さて船の出航時刻が近づいてきました、そろそろターミナルへ向かいましょう。途中にあったのが「西九州たばこ耕作組合福江支所」という看板、そしてその脇には「五島のたばこは日本一 うんまかよ~ 吸うてくれ! 好いちょっと、国産たばこ」というほのぼのとした手書きのポスターがありました。喫煙者を蛇蝎か悪魔の如く忌み嫌う昨今の風潮のなかで、なかなか剛毅なアピールです。蛇蝎の末席を汚す者としてエールを送りましょう。ふぁいとっ どうやら五島は煙草の産地であるようですね、じゃあせっかくだからお土産に…なぜ買えないのだろう? 地酒・地ビールがあるのだから、地煙草があってもいいじゃないか。税金とのからみなのでしょうが、どうも煙草をめぐる状況にはもやもやとした胡散臭いものを感じます。
c0051620_835665.jpg

 そして福江港ターミナルに到着、9:20発のジェットフォイルに乗り込み、中通島奈良尾港に向けてさあ出航です。あいにくの曇天で視界も悪いのですが、左手の船窓を次から次へと移り過ぎていく様々な形の島影は見ていて飽きません。好天だったらさぞ美しいことでしょう。
c0051620_8353112.jpg

 そして三十分ほどで奈良尾港に着岸です。さっそくターミナル内にある観光案内所でパンフレットをもらい、タクシー会社に電話をしてみました。
c0051620_8355517.jpg

 「あいにく出払っておりまして…」 しようがない、次。「申し訳ありませんが…」 次。「今日は予約がいっぱいで…」 何だ何だ、いったい中通島で何が起こったんだ、世界遺産に急遽登録されたという話も聞いていないし、トライアスロン大会をしている様子もないし、酒井法子が潜伏しているという噂もないし。最後のタクシー会社が、「三十分ほどお待ちいただければ配車します」という地獄に仏的回答をくれたので安堵の溜息をつきながら応諾、やれやれ。それではしばしターミナル内を徘徊しましょう。
 この地でさかんな遠洋まき網漁業のジオラマ展示を拝見し、自衛隊の看護学生募集の要項を斜め読みし、後学のために「暴力団等の不当な要求に対する応対要領」を熟読。外へ出るとモニュメントがあり、その解説で、この奈良尾町は、一説によると1596年ごろに紀州広浦(和歌山県広川町)の漁師たちが、飽和状態となりつつあった瀬戸内海を離れ、命をかけてこの地でカツオ釣りをはじめたことに由来すると記されていました。へえー、宮本常一の世界だなあ。こうした話はけっこう各地で聞きますので(例えば銚子)、あらためて紀州漁師のフロンティア精神と軽やかなフットワークには感嘆の念を覚えます。
c0051620_8362546.jpg

 しとしとと小糠雨が降ってきたので、屋根のある待合室のベンチに座ってさきほどいただいたパンフレットを読み、訪れる教会を確認していました。すると、つかつかと男性が近づいてきて「美鈴タクシーの者ですが」と声をかけられました。満車のため断ったけれど心配になり様子を見に来てくれた、美鈴タクシー営業所の方でした。レンタカーを借りて案内をしましょうかという何とも嬉しいオファーに対し、三十分後にタクシーが来てくれると話すと、ああよかったと安心された表情でした。そのご厚意に恐縮し感謝の言葉を伝え、しばし四方山話をしました。「いまどき携帯電話をお持ちでないとは世界遺産ものですね」とおっしゃるので、「いやまあ、重要無形文化財ぐらいですよ」と謙遜。どういうわけか今日は突然教会めぐりをしたいという客がたくさん押しかけてきて、満車となったそうです。いつもだったらこのへんで運転手がたむろして暇そうにしていますよ、ということでした。教会めぐりについて訊ねると、やはり大曾・青砂ヶ浦・頭ヶ島は外せないので、この三つを中心に回り奈良尾港に帰ってくるとなると四時間は必要でしょう、というお答え。うん、やはり早い船便で来て正解でした。教会群が注目を集めはじめ観光客も増えてきたのですが、どうも島の人間にはもてなしの心(hospitality)が欠けるというのがご不満のようでした。また有川港の近くに美味しい五島うどんが食べられるという耳寄り情報もいただきました。

 本日の一枚です。
c0051620_8364689.jpg

by sabasaba13 | 2010-07-11 08:37 | 九州 | Comments(0)

五島・対馬・壱岐編(8):福江(09.9)

 「王直ゆかりの地」という石碑がたてられているこのあたりが唐人町、川沿いには中国風のお堂「明人堂」がありました。王直ら中国人が、航海の安全を祈るために建てた廟堂跡だそうです。現在の建物は再建されたもので、内部には祭壇と王直の肖像画がありました。
c0051620_7333624.jpg

 こちらの解説が格調高いものなので転記します。
 当時の中国の貿易商人は、五島を東シナ海域の交流において、避けては通れない重要な貿易地と見ており、五島人もまた多様な価値観を持って海域周辺の国や地域との交流を積極的に図ってきた。その証拠となるのが、今に遺るこの「明人堂」であり、「六角井」である。
 だが、彼らは全てに対して海賊行為を行っていたわけではなく、体制の枠に縛られた国家という概念に捕われず、海という舞台を自由に行き来した海洋人であった。
 「海洋人」、海に生きる人々、いい言葉ですね。国家という概念がかっちりと固まったのは国民国家が成立した19世紀以降でしょうから、こうした生き方は五島人だけに限らないとは思いますが、彼らが東シナ海を行き交うヒト/モノ/情報の交流を大いに担ったのは間違いないでしょう。この小さな島が、東シナ海のkey stoneに思えてきました。そして"倭寇"とは、海上交易がうまくゆかなくなった時に商人たちが行う窮余の策であったと考えると、現在のソマリア海賊問題の解決策も見えてこようというものです。
 明人堂のすぐ前にかかるのが唐人橋、ここを渡り右折して川沿いの道を港の方へ歩いていきましょう。石壁の上からこちらを見つめる仔猫、まどろむように揺れている漁船、釣果を語り合う太公望たち、何気ない光景ですが抱きしめたいほど愛おしく感じます。
c0051620_734751.jpg

 そして十分ほどで、江戸時代につくられた堤防と灯台、「常灯鼻」に到着です。灯台フリークとしては見逃せない物件ですね。石田城をつくった大津の石工集団が築造したと推定されているそうですが、150年以上経った今日でもびくともしないその堅牢さには驚かされます。長年にわたり海洋人たちの安全を見守り続けてきた灯台に一礼。
c0051620_7343227.jpg

 そして途中にあった橋を渡り、石田城へと向かいましょう。観光朝市「ばらもん朝市」は駐車場の一角にしつらえたもので、今朝は開かれていないのでしょう、閑散としていました。そして石田城(福江城)跡に到着です。五島藩主五島氏はずっと陣屋で過ごしていたのですが、幕末に五島近海に外国船が出没しはじめると、幕府に築城願いを出すことになります。そして1849(嘉永2)年、「海岸防衛を厳重にせよ」という築城許可が下され、1863(文久3)年に完成します。当時は三方を海で囲まれた海城だったそうですが、今ではその名残もありません。こぶりながらも自然石を積み上げた野面積みの石垣とお堀、そこにかかる重厚な石橋をたくさんの高校生たちが渡り、城内に入っていくので、この中に高校があるのでしょうか。
c0051620_735178.jpg

 中に入ると、五島氏庭園が公開されています。1858(安政5)年に、藩主五島盛成(もりあきら)がつくった庭園で、作庭時期が明確なこと、隠殿屋敷と一体で残っていること、そして保存例の少ない城郭内の庭園ということで、国名勝に指定されています。そういえば、城郭の中の庭園というのは見たことがありません。入園料を払って中に入ると、大きな心字池と、空中に突き出た部屋をもつ屋敷が印象的でした。
c0051620_7352750.jpg

 そしてそのとなりが長崎県立五島高等学校の正門、眠そうな生徒諸君がつぎつぎと吸い込まれていきました。
c0051620_7355458.jpg


 本日の二枚です。
c0051620_736194.jpg

c0051620_7365717.jpg

by sabasaba13 | 2010-07-10 07:37 | 九州 | Comments(0)

五島・対馬・壱岐編(7):福江(09.9)

 カーテンを開けると厚い雲が空一面を覆っています。テレビの天気予報によると、曇ときどき雨、やれやれ。己の不徳のいたすところ、泣き言をいってもはじまりません、ホテルで朝食をいただいて福江散策に出発しましょう。まずはホテルの近くにある武家屋敷通りへ。重厚な石垣が続くなかなか見事な景観です。上部に丸い小石が積み上げてあるのは珍しいですね。これは「こぼれ石」と言い、いざという時には武器がわりに用いたそうな。往時の屋敷自体はあまり残存していないようです。
c0051620_6244721.jpg

 武家屋敷がとぎれ、郵便局の方へ右折すると、眼の下に隈ができているフェイス・ハンティング物件を発見。遠くからよく見える尖塔は、カトリック福江教会のものでした。
c0051620_6252028.jpg

 アーケード商店街に入ると、消火栓の蓋に「ばらもん」という五島の絵凧が描かれていました。五島の方言である「ばらか=元気がいい」からついた名称だそうです。歩道に設置してある大きな異形の人形にぎょっとしましたが、「チャンココ」と記してあるのでこの地のお祭り衣装なのでしょう。背中に公衆電話を背負っているのはご愛嬌です。
c0051620_625492.jpg

 そして交差点を左折してすこし歩くと六角井に到着です。平たい長方形の石版を六枚組み合わせた、珍しい形状の井戸です。
c0051620_6261827.jpg

 解説が興味深いものなので、転記します。
 天文9(1540)年、当時、東シナ海を舞台に貿易商として活躍していた明国の王直は通商を求めて福江(当時は深江)に来航した。財政に苦しんでいた領主である宇久盛定は喜んで通商を許し、江川城下の川向こうの高台の地に居住地を与えた。これが現在の唐人町である。その際、王直ら中国人が飲料用水、船舶用水として造ったのが、この六角井といわれている。
 井戸枠を六角形にいた石で囲み、井戸の中も水面下まで六角形井壁が板石で造られているため、ちょうど六角柱を地中に建てたような井戸である。
 市内にはこのような六角井が戸岐にもあり、また、長崎県内にも中国人が造ったとされた六角井が数カ所知られているが、いずれも港町であり、中国との交易が持たれた場所である。
 なるほどねえ、大陸との交易を物語る歴史の生き証人なのですね。平戸でも同型の井戸を見ました。なお瀬戸内海に面した室津でも六角井戸を見かけたのですが、こちらは中国商人との関係はなさそうです。以前調べたところによると、水不足で悩んでいる村に立ち寄った弘法大師が、手に持った六角の錫杖で地面を突くと水が湧き出でてきた、という六角井戸の伝承も各地にあるそうです。
 道路をはさんだ向かい側には、天然記念物「ナタオレノキ」がありました。モクセイ科の常緑高木で、十月中旬になると純白の小花を咲かせ、モクセイのような芳香を放つそうです。気になる名前の由来は、鉈でも切れない硬い樹という意味とのこと。
c0051620_627473.jpg


 本日の一枚です。
c0051620_6272759.jpg

by sabasaba13 | 2010-07-09 06:28 | 九州 | Comments(0)