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筑波山編(2):石岡(10.5)

 岩間駅より一つ南よりの羽鳥駅でおろしてもらいましたが、この間に要した時間は約一時間、出費は一万円弱、手痛い打撃ですが覆轍を踏まないための授業料と考えるしかありません。そして入線した列車に乗り込み、五分ほどで石岡に到着です。鎌倉時代には大掾(だいじょう)氏が支配、江戸時代は府中藩(石岡藩)松平氏の城下町でした。酒、みそ、しょうゆなどの醸造業が発達し、とくに酒は「関東の灘」といわれたそうで、クリ・ナシの産地でもあります。見どころは何といっても、昭和のフレーバーが香る看板建築や古い商家の町並み。駅に併設された観光案内所で観光地図をもらって、いざ出陣。おおっ、いきなり「ヨット食堂」と「さつま本格焼酎 明るい農村」(これはあまり関係ないか)をゲット。こいつは春から縁起がいいわい、なにやら恋の予感がします。
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 御幸通りを西へ歩いていくと、コンクリートで塗り上げられた洋館風のお宅に「豊穣の角」、コルヌコピア(cornucopia)の飾りがとりつけられていました。
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 その先にある「石岡印刷」は洋風の意匠と和風の破風のミスマッチが魅力的。破風を支える、繊細なアール・デコ調の金具にも眼を引かれます。
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 水戸信用金庫左折すると、金丸寿通り。このあたりから、さきほどいただいた「いしおか散策まっぷ まちなかの登録文化財」を片手に、建物ウォッチングと洒落込みましょう。なお"登録文化財"については、このパンフレットに的確な説明があったので紹介しておきます。
 平成8年の文化財保護法の一部改正によりスタートした建造物の登録制度です。建築後50年を経過し、「歴史的景観に寄与している」「デザインが時代や建造物の種類の特徴を示している」「優れた技術が用いられて再現すること容易でない」の基準にあてはまる住宅・事務所・社寺・橋・水門・トンネル・煙突などの建造物がその対象となります。外観を大きく変えなければ、レストランや資料館などの事業資産や観光資源として利用することが可能で、「活用しながら次の世代に伝えていく」ということを目的としています。

by sabasaba13 | 2011-07-08 06:15 | 関東 | Comments(0)

筑波山編(1):加波山(10.5)

 真壁下館熱塩温泉など、加波山事件関連の史跡をいくつか経巡ってきましたが、そろそろ本家本元の加波山に行ってみたくなりました。インターネットでいろいろ調べてみると、車で頂上近くまで上ることができ、すぐ近くに「自由の楷」の碑や旗立石があるそうです。登山道をこつこつと上っていくのが真っ当な人間だということは重々承知しておりますが、未踏の地・筑波山にも寄って日帰りという予定なので、タクシーを利用することにしました。さて近くに面白いところはないかとガイドブックを紐解くと、石岡という地名が眼に飛び込んできました。石岡…たしか昭和の雰囲気を色濃く残す町だと記憶しております。まず常磐線の岩間駅まで行きタクシーで加波山事件の史跡を見学、岩間から石岡へ列車で移動して町並みを散策、そして土浦まで行きバスで筑波山へ、時間が余ったら土浦徘徊、こんな感じですかね。持参した本は「日本人の経済観念」(武田晴人 岩波現代文庫)です。

 皐月の某日曜日、幸いなことに好天に恵まれました。予定通り、まずは常磐線岩間駅へと向かいます。北千住駅のあたりからも建設中のスカイツリーが見えるのですね、ちょっと驚きでした。やがて田園地帯へと入ると、代掻きされた水田が周囲の景観を美しく映しています。この時期の旅行ではこれを見るのが楽しみの一つ。
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 そして岩間駅に到着、駅前ではタクシーが客待ちをしていました。さっそく乗り込んで運転手さんに事情を話したところ、「うーん、よくわからないけど、とにかく行ってみましょう」というお返事でした。加波山に向かって走ること約三十分、山容はもう目前にあるのですが、インターネットに載っていた山頂近くの駐車場への上り道がどうしても見つかりません。運転手さんも、何人かの地元の方に訊ねてくれたのですが、埒が明きません。
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 ようやくそれらしき道に辿り着いたのですが、工事車両専用で一般車両は通行止め。チェック・メイト。捜索を断念し、駅に戻ってもらうことにしました。せっかくここまで来たのだから、車を停めてもらい、加波山を撮影。やはり事前の準備が足りませんでした、再訪を山に誓いました。振り返ると、水を張った水田が鏡のように山並みや木立を映しだしています。なんと美しい風景よ、こちらも写真におさめました。

 本日の二枚、上が加波山です。
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by sabasaba13 | 2011-07-07 06:16 | 関東 | Comments(0)

「全体主義」

 「全体主義」(エンツォ・トラヴェルソ 平凡社新書522)読了。「宇宙船地球号」という物言いをときどき耳にします。本当に、みんながそう考えそう行動してくれればよいのですが、現実は地球全体がアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所と化しているのではないかという、身が縮むような悪夢にとらわれています。人類全体が管理する側/管理される側に二分され、前者が富を独占し、後者はさらに価値のある人間/価値のない人間に二分される。富はないけれども価値がある人間は死ぬまで酷使され、富も価値もない人間はある時には虐殺されある時には死に至ろうとも放置される。私たちに深甚なる衝撃を与えた、もう二度と繰り返すまいと誓ったはずの絶滅収容所が、ワールド・ワイドに現出しているのではないのか。より巧妙な形で、ある地域では隠微な形で、ある地域では露骨な形で… だとすると(でなければよいのですが)、こうした収容所を作りだしたナチズムやスターリニズム、いわゆる全体主義について、もう一度振り返ってみる必要があるのではないかと思います。そうした思いにとらわれていた矢先に、書店の店頭で出あったのが本書です。
 あるときは資本主義の一つのかたちであるナチスドイツの批判に使われ、あるときは共産主義から生まれたスターリンが君臨するソヴィエト連邦の批判に使われてきた曖昧な概念、〈全体主義〉。それを精緻に分析しながら、二十世紀を読み解こうというのが著者の意図です。さて全体主義とは何ぞや? 氏はこう定義されています。
 その終末論的な約束、そのイコン、その儀式とともに、全体主義は「世俗の宗教」として現われ、そうして市民社会を解体し、人びとを信者の集団にかえてしまう。個人は粉々にされ、国家に吸収されて無にも等しいものになる。国家はひとつの緊密な単位であり、そのなかに個人は溶解し、人間は〈大衆〉を形成するのである。(p.20)

 古代から十九世紀までに現われた独裁政治とは質的に異なる政治システム、全体主義は、ボルシェヴィズムのロシア、ファシズムのイタリア、ナチズムのドイツに体現されているが、これら三つの体制には数多くの共通点がある。極端な中央集権、社会の軍事化、統制経済政策、学校やコミュニケーション・システムの政治的管理などである。(p.49)
 また他の箇所では、「人間の多様性が出会う場としての政治的なものを破壊するという、実践的活動(p.23)」、「人間を、その意見、その振舞い、その生活様式を、規格化する意志(p.145)」と定義されています。一言で言えば、多様性の否定と個人の消滅ということでしょうか。一個の人物また法的な人格としての個性を抹殺し、人間を裸に、非人間的なものにしてしまうのですね。その対極に、国民国家のシステムから除外され、一切の法的認知を受けていない、この世に生きる価値のない集団を生み出し、その物理的な排除へと向かうのも全体主義の特徴です。それを最もよく現わしているのが強制収容所です。えてしてわれわれは、こうした事態は"二十世紀の悪夢"と考えがちなのですが、実は十九世紀半ばに、人類を優等種と劣等種に分けるイデオロギーおよび行動はヨーロッパで始まっているのですね。そう、帝国主義・人種主義・植民地主義です。
 大量殺戮と官僚制度を融合させた植民地主義は二十世紀の殺戮の壮大な実験室となった。アジアやアフリカで、軍隊と植民地政府を手段にして「文明化の使命」が遂行されたが、その帰結は、多くの場合、合法的と見なされた「劣等人種」の虐殺であった。ナチズムは、同じ事柄をヨーロッパの中心に適用したにすぎないのである。(p.111)
 このコアとなる人種差別主義に、科学技術を駆使した道具的合理性を加えたのが強制収容所です。著者はこの"地獄の同盟"が二十世紀の恐怖を理解する鍵だと述べられています。
 ただしばしば一括りにされて語られるスターリズムとナチズムを、きちんと峻別することが重要であり、さもないと歴史の解読を困難にするだろうと指摘されています。いずれも断罪されるべきことに疑問の余地はありませんが、スターリニズムは、ツァーリ独裁の延長線上に近代技術を組み合わせたもので、その至上目的は経済の発展にありました。よって目的は合理的だが、鉄道や化学工場を建設するために、何百万もの人間を強制的に移住させ奴隷化して用いるなどその手段は不合理でした。言うなれば、経済発展に必要な本源的蓄積を、最も悲劇的な形で強行したとも言えます。ちなみにヨーロッパはこの過程を労働者と植民地民衆の犠牲の上にすでにすませていました。またスターリニズムが牙を剥いたのはソヴィエト市民、言わば内に向けられた暴力です。これに対してナチズムが展開した暴力のさまざまな形態のすべて、優生学、収容所の実践、植民地での虐殺、第一次世界大戦中におこなわれた大量虐殺の最初の実験などは、西洋の長い伝統に由来しています。そしてその目的はユダヤ人という"劣等人種"を抹殺し、ドイツ人という"優等人種"のための「生存圏(Lebensraum)」をヨーロッパに確保するためという不合理なものでしたが、その手段はきわめてシステマティックかつ合理的なものでした。またナチズムが牙を剥いたのは、ユダヤ人・ロマ・同性愛者といった外に向けられたものです。
 こうした分析でかなり頭の中がすっきりとしました。もちろん、ナチズムとスターリニズムを峻別することも重要ですが、現今の世界を考察する上でその共通点に目を向けることも大きな意味があると思います。国家権力が個人の多様性を否定し規格化し、ある目的を達成するために、内であれ外であれ"価値がない"というレッテルを貼りつけた人々を科学技術を駆使してシステマティックに"抹殺"していく。全体主義をそう考えると、今まさに世界がそういう状況に陥りつつあるのではないでしょうか。ただ、価値の有無を決めるのが、市場であり巨大企業であるというのが新しい状況だと思います。ふたたび眼前に現出した荒涼たる風景… 筆者は最後にこう語っておられます。
 全体主義の概念はあまりにも悪用されてきたが、新しい世紀のなかで、自由の地平はひらいておかねばならない。強制ではなく社会関係の物象化を通して行為や思考が画一化される時代、ビッグ・ブラザーではなく経済とその「抑制しえない」法が絶対的な権威となり、領土の征服ではなく市場の征服が権力の目的であるような時代、つまり「グローバリゼーション」の時代にあって、全体主義の概念が他の脅威を隠蔽してはならないだろう。全体主義批判の糸をふたたび手に取ることは、二十世紀が経験した政治的挫折の記憶を新たにすることであり、深淵をまえにして柵をめぐらせ、荒涼たる風景にひらいた露台に欄干を設けて、精神の防衛線を整備することである。(p.190~1)

by sabasaba13 | 2011-07-06 06:14 | | Comments(0)

「無縁所の中世」

 「無縁所の中世」(伊藤正敏 ちくま新書843)読了。市井のしょぼい一歴史学徒として歴史書にはできうる限り眼を配るようにはしていますが、どうも日本史の研究書が面白くありません。まるで歴史学者が互いの飯の種をつくりあっているような、視野狭窄で無味乾燥で気の抜けた知的バイタリティーのない叙述には辟易してしまいます。"まだ青い素人浄瑠璃玄人がって赤い顔して奇な声を出す"(「寝床」)な、と誰かからの叱責には、"門外漢に理解できないような「歴史」に、いったい何ほどの意味があるのだろうか"という岡田暁生氏の名文句でお答えしましょう。しかし最近、本書の著者である伊藤氏や本郷和人氏のような意気のいい研究者が優れた書を上梓されて、溜飲が下がりました。史実に基づいた論理的な分析、先入観や学界の常識にとらわれない柔軟な思考、大胆な仮説と提言、そしてユーモアをちりばめながらも歯に衣着せぬ叙述。「やはり歴史書はこうでなくちゃいかん」と仙道彰のように呟きたくなりました。
 本書は、世俗の束縛と縁を切って、ゼロからスタートしようとする人々が集まった場所が無縁所であると定義し、その代表が興福寺・延暦寺・祇園社などの巨大な寺院や神社であるとされています。そうした人々の駆込みによって寺社の人口は急増し、いずれも氏が「境内都市」と表現される大都市となりました。そして商工業の大部分をこうした寺社=「境内都市」が掌握し、さらには武家にひけをとらぬ武力を持った、重要な存在でした。"中世という武威の世にあって、無縁所(境内都市・寺社勢力)が、平和と博愛、そして自由と平等を求めてよろめきながら苦闘した姿を、もう一度振り返って(p.19)"みるのが、狙いであると述べられています。なるほどこれは目から鱗が落ちてコンタクトレンズを入れられたような提言です。ちなみに無味乾燥さでは定評のある「詳説日本史」(山川出版社)の索引で確認したところ、延暦寺が取り上げられているのはわずか二カ所。「その死後、大乗戒壇の設立が公認され、最澄のひらいた草庵にはじまる比叡山延暦寺は仏教教学の中心となっていった」(p.55)と「信長は…翌年には比叡山延暦寺の焼打ちをおこなって、強大な宗教的権威を屈服させた」(p.150)とあるだけでした。あくまでも宗教的な存在として触れているだけで、社会的・経済的な力については無視。余談ですが、この教科書と大学入試が協力して、たくさんの歴史嫌いを生み出しているような気がします。
 さて、武力・経済力・宗教的権威・文化力のみならず国家から独立した意志を持ち、堂々と政権を揺さぶり、唯一中世を生き抜いた存在である寺社勢力の具体的な諸相については、ぜひ本書を読んでいただくとして、本書の販売促進につながるような叙述を二つほど紹介します。
 「日本で初めて歴史観を持って書かれた歴史書」と持ち上げられる『愚管抄』だが、慈円の関心は、摂関家の「家庭の問題」に集中し、「史観」レベルに達しない。愚の後に「痴」の一字を加えたほうがよいだろう。しかしこの慈円の貴族的偏見が後世の歴史学をねじ曲げた。(p.29)

 これを言うのはタブーなのかもしれないが、国家制度というものは、…今日でもそうだが…首都が地方を食い荒らすように、本質的にできている。だから国内移民は必然的に発生する。飢饉や災害、さらに不況の際にはそれが極端になる。移民・難民は調整できる便利な労働力である反面、暴徒化しうる潜在失業者でもあった。それを政治が便利に使ってきたのが歴史である。(p.106)
 うわあ、鋭いなあ、きついなあ。前者など、大学入試問題を作成している方が聞いたら、泡を吹いて卒倒しそうですね。後者についても、なぜ多くの都民が石原強制収容所所長に投票し続けたのか理解する一助となりそうです。地方を食い荒らす強い東京を体現する人物として、共感したのではないかな。でも人の聞きたがらない真実を伝えるのも歴史の大事な使命です。その意気やよし。
 そして個人的に圧倒されたのは、武士の歴史をわずか1329字でまとめた下記の一文です。凄い… これだけ本質をずばりとついた語り口で、わかりやすく面白く歴史を語る叙述にはちょっとやそっとではお目にかかれません。長文ですが引用します。ぜひご一読を。
 武士は公務員または准公務員に任じられている場合があるが、やはり暴力集団としての側面を無視することはできない。弱くては話にならないからだ。武士の力の源泉は、武官の官職を持つが故の威(朝廷の警察権の分有)にあるか、私的な武力にあるか、どちらかとなれば、後者を重視せざるを得ないだろう。
 少しだけ武士の歴史を見ておこう。中央で出世できず、生活が成り立たなくなった皇族・貴族の傍流子弟は、こぞって地方の国司となった。…九・十世紀、巨富を得て中央に戻る者がいる一方、任期が切れた後、そのまま地方に居座る者がいた(このことは厳禁されていた)。農地を開発するもの、馬を使って地方の運輸業に携わるもの、党を結び群盗となって百姓から私財を奪ったり、農業を妨害したりするものもいた。ハゲタカ崩れである。
 暴政を専らにした国司は、ボディーガード(私兵)として、この種の暴力集団を各地で登用した。群盗やならずものを少なからず含む。四年任期限定の怪しい准公務員である。…
 彼らは代々の国司に仕えて、国衙の武士名簿に登録され、公的武力はもちろんのこと、私的武力を半ば公然と振うお墨付きをもらった。傭兵に身分がついたこの段階を、もっともらしく「つわものの家の成立」と呼ぶ。警官に拳銃を与えたのではなく、武器を持つものを警官にしたというほうが正しい。前科があろうとなかろうと関係ない。似たことは後世にも見られる。江戸時代の関東の「二足のわらじ」、賭場を開帳しつつ十手を預かる親分衆を見ればよい。こういうことは近代警察機構では原則的に否定される。
 彼らの一部は京に上り、朝廷の傭兵としても働いた。この連中の多くが、頼朝の下で御家人というもっともらしい身分をもらう。かりにこの御家人を典型的武士と見なすならば、その多くは南北朝時代に没落する。
 後世の系図で武士は王臣の子孫ということになっているが、その証拠はほとんどない。…本当の王臣の末裔か、地方勢力が自称しただけなのか、実はそれはどちらでもよいことなのだ。彼らがのし上がるのに①実力②武官の官職③系図(真偽にかかわりなく)の三つが必要だったわけだ。もちろん絶対条件は①だ。②③は後からついてくる。
 暴力集団の長であった源頼朝が、特別警察のトップ役人「日本国惣追捕使」に任じられた1185年を、鎌倉幕府の成立とする説が多数説となっているのは、ここが①②③のちょうどいい着地点だからだ。
 鎌倉末期の楠正成・赤松円心、山僧の道場坊祐覚らは、御家人ではなく悪党から身を起して、後醍醐天皇や尊氏と個別に主従関係を結んだ新型武士だ。…楠正成や赤松円心は、商業的基盤を持ち、関東武士とは随分タイプが違う。彼らにとって乱は、恰好の下剋上、なりあがりのチャンスであり、あるものは建武政権の立役者となった。…
 その後の戦国時代に古い御家人秩序はほぼ崩壊する。…大半の戦国大名や秀吉・家康など、もとをただせば(ただす方法はないが)、みな凡下だ。…彼らは新・新型武士とでもいうべきだろう。確かなことは、勝ったものが生き残ったということだけだ。
 鎌倉・室町幕府は、役人と暴力団の二足のわらじをはいた存在といえる。江戸時代になると武士は、暴力団的気質を残すゆがんだ小役人という性格が強くなる。(p.129~132)
 ブラーボ! 武士の歴史をぐわっしと鷲掴みにして簡潔明瞭に提示したその力技に頭を垂れましょう。こういう授業だったら歴史を好きになる生徒もきっと増えると思います。してみると、武士道=暴力団的気質を残すゆがんだ小役人の処世術、などという連想もわいてきます。さらにこの"暴力団的気質"というのは、日本の文化を貫く一つの背骨だったのではないか。また、近代以降、この"暴力団的気質"がどのように変容していったのか、そして現在私たちはこの気質と克服できたのか、といった問題にもつながってきます。実はこの言葉から連想したのが、リー・クアン・ユー氏の「(日本人は)組織的な残虐性(systematic brutality)を信奉する人々だと確信した」というインタビューです。(朝日新聞94.12.31)  "暴力団的気質"と"systematic brutality"、どこかつながっているような気がします。これは外部・他者に向う場合と、集団内部に向けられる場合があると思いますが、後者を見事に活写したのが宮本政於の「お役所のご法度」(講談社)です。"「しごき」とは、年功序列とか終身雇用により格づけが大きくものを言う社会において、自分より下位にいるものに対し、集団の価値観を徹底させるため、加虐的な力、すなわち暴力からはじまり精神的な圧力まで広範囲な手段を用いて、相手の意思とは無関係に、集団が正しいとしている価値観を浸透させるための手段のひとつ。すなわち、組織的な残虐性を正義とした行動様式である。(p.65)" 集団の価値観を、外部/内部に対して、有形無形の暴力を用いながら強要する行動様式とでも定義しましょうか。日本文化におけるsystematic brutalityを、歴史からアプローチして考察するのは面白い試みではないかな、などと連想(妄想?)はどんどん広がっていきます。きりがないのでやめますが、良書とは、さまざまな問いを引き出してくれる触媒なのだとつくづく思いました。なお"こういうことは近代警察機構では原則的に否定される"という一文には思わず緩頬、山田君、座布団二枚です。
 そして最後に筆者から宿題が出されます。"ローマは、建国者ロムルスが作ったアジール(避難所)に始まり、後に世界帝国となったと言われ、移民が作った国、今日のアメリカ帝国に似ている"と述べた上で…
 今回も読者に考えていただきたいことがある。延暦寺・興福寺が、あるいは境内都市の連合が、ローマに、アメリカになることはありえなかったのだろうか。現代の七万六千という寺院の数字、また全国各地の天満宮・八幡宮・祇園社(八坂神社)・日吉社・春日社の存在は、何を物語るのだろうか。ものを覚えることはつまらないが、ものを考えるということは無上の楽しみである。この問いに正解はないかもしれないが、それでも考えてみてほしい。みなさんから新しいヒントをいただきたいのだ。(p.231)
 蟷螂の斧、ヒントになるかどうかわかりませんが、考えてみましょう。とは言っても引用だらけなので恐縮ですが。ローマの嚆矢が避難所であったのかどうかはわかりません。ただアメリカに関しては、流刑地というのがより正確な表現だと思います。川北稔氏は「イギリス近代史講義」(講談社現代新書2070)の中で、「イギリスの刑罰のかたちを見ると、他のヨーロッパの国とはまったくちがいます。いちばんちがうのは投獄、つまり、刑務所に入れておくという方法がほとんどないということです。刑務所に入れておくかわりに、アメリカ植民地に行かせるのです。屈強な犯罪者であればあるほど、アメリカに行けば、貴重な労働力として売れます。孤児、あるいは親が貧しくて育てられない子どもも、そういうかたちでアメリカに流されていきます」(p.148)と述べられています。それはさておき、そのローマやアメリカが世界帝国になれたのは何故か、なぜ寺社勢力は世界帝国とはいかぬとしても日本を統一する権力として立ち現れることができなかったのか。これはエメ・セゼールの「帰郷ノート/植民地主義論」(平凡社ライブラリー)で教示されたのですが、フランスの歴史学者エドガー・キネに次のような言葉があるそうです。「古代文明のシステムは、たとえ敵同士に見え、あるいはそれぞれが相手の存在を知らなかった場合でさえ、互いに相手を保護し、支え、防御し合う一定数の民族、国家より成っていた。…文明というこの社会的大建造物は、それぞれの民族が大理石や斑岩の円柱の一本一本となることで支えられていたのである」(p.194~5) エメ・セゼールは、これをずばり「多様性の根幹」(p.196)と表現しています。そう、ローマもアメリカも、多様性をもった民族や文化を内に抱えていたから豊饒なる力を持つことができた。しかし、狭い島国ゆえ、異文化との接触が限られていた寺社勢力は、多様性を内に持つことができなかった。いかがでしょう。私もいつか伊藤氏をはじめこうした先賢のように、自分の頭で考えるようになりたいと思います。ほんとうに偶然なのですが、今、この駄文を書きながら聞いている曲は、カルマン・マキ&OZの「空へ」です。♪明日はきっとおまえのように翔んでみせるよ、私も♪
 知的好奇心を限りなくかきたててくれる一冊、お薦めです。
by sabasaba13 | 2011-07-05 06:15 | | Comments(0)

言葉の花綵55

 地上に天国をつくろうとしない者は、地上に地獄を創造する。(フランツ・ヒンケルハンメルト)

 われわれが唯一つ真に所有しているのは、時間である。(セネカ)

 夜明けに目覚めると、彼は朝日に向かって歩んでいった。…片足をひきずりながら。(ウォルト・ホイットマン)

 悲劇的なほど弱い手、その手はいまはまだ結び合わされてはいない。だがしかし、犠牲者たちもいつかは一つに結ばれないはずはない。そしてその暁には、彼らのかざす炬火は火炎となって燃え広がり、古い世界を灰燼に帰せしめるだろう (ジル・ペロー)

 強制収容所、大量虐殺、世界戦争、原子爆弾は、野蛮状態に落ちた結果ではない。それは科学や技術や開発のとどまるところを知らない近代的成果の帰結だった。(マルクーゼ)

 ある階級もしくはある集団を皆殺しにする考えをはじめて実行に移したのはフランス革命である。(ノルテ)

 反啓蒙主義の<反人間主義と道具的合理性との地獄の同盟>の内に、二十世紀の恐怖を理解する鍵があるのだ。(エンツォ・トラヴェルソ)

 平和こそ自然が人間に授けた最良のもの。(シーリウス)

 およそいかなる平和も、たとえそれがどんなに正しくないものであろうと、最も正しいとされる戦争よりは良いものなのです。(エラスムス 『平和の訴え』)

 お互いに親切の手をさしのべることを、一般に人間的と呼んでいることは申しあげるまでもありません。(エラスムス 『平和の訴え』)

 干戈を交えるところ、法は沈黙する。(キケロ)

 富は積もれど人びと窮し
 荒廃疲弊がこの地を襲う (オリヴァー・ゴールドスミス 「廃村を行く」)

 憂慮に耐えないことだが、人びとはやがてあらゆる新理論を危険物と考え、すべての新基軸を骨折り損の厄介事と思い、社会進歩のことごとくを革命の第一歩と見なすようになって、いささかでも前進することを断固拒否してしまうのではないか。(アレクシ・ド・トクヴィル)

 鼻先にあるものを見ようとすると、絶えず身を捩っていなければならない。(ジョージ・オーウェル)
by sabasaba13 | 2011-07-04 18:54 | 言葉の花綵 | Comments(0)

豊橋編(16):豊川稲荷(10.4)

 私が見落としたのかもしれませんが、町並みにはそれほど見るべきものはありませんでした。洋館風にあしらった日本家屋、松葉の意匠がほどこされた戸袋、入口に千鳥破風がある謎のお宅、格子窓の家ぐらいだったかな。そして駅に戻り、丁重にお礼を言って自転車を返却。
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 やってきた列車に乗り込みました。このまま帰郷してもいいのですが、せっかくここまで来たのだから未踏の地・豊川稲荷に寄ってみますか。三十分ほどで新豊橋駅に到着、豊橋から飯田線に乗って十分強で豊川稲荷駅に着きました。時刻は午後五時半、もう参拝客の姿もあまりなく、門前町「なつかし青春商店街」は閑散としています。狐のオブジェや稲荷寿司の看板が眼につくのは当然ですね。
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 そして数分歩くと豊川稲荷に到着、さすがは日本三大稲荷の一つ(他は伏見稲荷・祐徳稲荷)、広大な境内と豪壮な社殿です。
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 そして豊川稲荷駅に戻り、入線した飯田線の列車に乗り込むと「魅惑の飯田線 秘境駅探訪マップ」という車内吊り広告がありました。なんでも牛山隆信氏が提唱している物件で、人気がないところにあり、駅周辺に人家や人の気配がほとんど感じられず、鉄道以外での到達が難しい駅を指すそうです。さっそく氏のホームページを拝見すると、秘境度・雰囲気・列車到達難易度・車到達難易度を総合評価して、200位までの秘境駅がランクされています。そのうち、この飯田線からは、第二位に小和田駅、第四位に田本駅、第十三位に金野駅がノミネートされていました。なるほどねえ、こういうディープな楽しみ方もあるのか。旅の奥深さと豊饒さをあらためて感じ入った次第です。つねづね思うのですが、人に迷惑をかけず、環境に負荷をかけず、金をかけず、いかにして楽しく暇を潰すかという課題に直面しているのが現代という時代です。私の答えは、公共輸送機関を利用する旅。これからも寂しさの終てなむ処を求めて、幾山河を越えていくつもりです。もちろん、そういう贅沢を許されているのは地球上でもほんの一部の人々に過ぎないという批判は甘んじて受けますが。
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 そして豊橋駅に戻り、駅構内にある「鈴の屋」で菜めし田楽をいただきました。
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 さあそれでは新幹線に乗って帰郷することにしましょう。そうそう山ノ神に奉納する赤福を買わなければ。駅のお土産屋さんで訊ねたところ…売っていないとのこと。嗚呼、豊橋は赤福文化圏ではないのか。もしかすると、赤福販売の有無の境界が、東西文化圏の境界と重なっているのかもしれません。丸い餅と四角い餅、アホとバカ、エスカレーターで立ち止まる時の左右、そうした境界とも重複するような気がします。ま、これは仮説ですが、いずれは実証…できないだろうなあ、などと馬鹿なことを考えながら新幹線に乗り込みました。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2011-07-03 05:51 | 中部 | Comments(0)

豊橋編(15):田原(10.4)

 五十分ほどで三河田原駅前に到着、さっそく駅で自転車を借りて「田原ウォーキングマップ」を籠に入れさあ出発。まずは田原城跡にある市博物館に行ってみました。
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 残念ながら崋山の書画は少なかったのですが、彼が弟子の椿椿山に与えた遺書が入手できたのは収穫です。参考のため引用します。
 1841(天保12)年10月10日
 一筆啓上仕候、私事老母優養仕度より誤て、半香義会に感、三月分迄認、跡ハ二半ニ相成置候処、追追此節風聞無実之事多、必災至り可申候、然ル上ハ主人安危にもかゝハリ候間、今晩自殺仕候、右私御政事をも批評致ながら、不慎の儀と申所落可申候、必竟惰慢不自顧より言行一致不仕之災無相違候、是天ニ非、自取ニ無相違候、然は今日の勢ニテハ、祖母始妻子非常之困苦は勿論、主人定テ一通ニハ相済申まじくや、然レバ右之通相定候、定テ天下物笑ひ悪評も鼎沸可仕尊兄厚御交リニ候とも、先先御忍可下候、数年之後一変も仕候ハゞ、可悲人も可有之や、極秘詠訣如此候、頓首拝具。
   十月十日
  椿山老兄                                          御手紙等ハ皆仕舞申候
 弟子の半香が崋山の窮状をみかねて開こうとした書画会に、蟄居の身には不謹慎であるという風聞がたち、累が藩主をはじめ周囲に及ぶのを恐れて自殺したのだそうです。あらためてその非業の死に胸がつまります。
 博物館の隣には、崋山会館、崋山神社がありました。その前にある民俗資料館は、戦前の物件らしき洒落たビルです。
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 その先にある池ノ原公園には、崋山の銅像と、復元された幽居跡があります。
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 そして伊能忠敬測量地の記念プレートがある街角へ。解説板によると、1803(享和3)年4月7日、田原城下に着き、海岸を測量して吉田(豊橋)方面へと向かったそうです。糞もよけない二歩で一間の愚直な歩み、一身にして二生を経た四千万歩の男、伊能忠敬。富岡八幡宮赤岡函館など、旅をしていると彼の足跡に出会うことが時々ありますが、あらためてその偉業に頭を垂れたいと思います。
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 そして芭蕉の句碑がある龍泉寺へ。「寿久三行や馬上尓氷る影本うし」という句ですが、読みやすくすると「すくみいくや馬上に氷る影ぼうし」。はじめの字余りに、寒風の厳しさに歩が進まぬ様子がよくあらわれているような気がします。芭蕉が渥美半島を訪れたのは1687(貞享4)年、44歳の時で、東海道をたどって吉田(豊橋)から三河湾沿いに保美の里へ向かいました。芭蕉の愛弟子・杜国は尾張の裕福な米問屋でしたが、禁止されていた米相場を行った罪で保美の里に謹慎していたので、彼の境遇を慰めようとしたそうです。この旅は後に「笈の小文」として結実します。
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by sabasaba13 | 2011-07-02 07:19 | 中部 | Comments(0)

豊橋編(14):伊良湖岬(10.4)

 そしてさらに西へと向かうと車道と合流、その歩道を快走していくとやがてゆるやかな上りとなってきました。時々降りて自転車を押しながら上っていくと、恋路ヶ浜を眺望できるビューポイントがいくつかあります。灯台から二十分ほどで「椰子の実記念碑」に到着。島崎藤村の詩が刻んであります。
名も知らぬ 遠き島より/流れ寄る 椰子の実一つ
故郷の岸を 離れて/汝はそも 波に幾月
旧の木は 生いや茂れる/枝はなお 影をやなせる
われもまた 渚を枕/孤身の 浮寝の旅ぞ
実をとりて 胸にあつれば/新なり 流離の憂
海の日の 沈むを見れば/激り落つ 異郷の涙
思いやる 八重の汐々/いずれの日にか 国に帰らん
 民俗学者の柳田國男が、1898(明治31)年の八月から九月にかけて、ここ伊良湖に滞在した時に椰子の実が漂着しているのを見つけ、東京に帰った後に藤村にこの話をしたところ、この話に興味を示して「椰子の実」を書いたのですね。『海上の道』の中で柳田はこう述べているそうです。「今でも明らかに記憶するのは、この小山の裾を東へまはつて、東おもての小松原の外に、舟の出入りにはあまり使はれない四五町ほどの砂浜が、東やゝ南に面して開けて居たが、そこには風のやゝ強かつた次の朝などに、椰子の実の流れ寄つて居たのを、三度まで見たことがある。一度は割れて真白な果肉の露はれ居るもの、他の二つは皮に包まれたもので、どの辺の沖の小島から海に泛んだものかは今でも判らぬが、ともかくも遥かな波路を越えてまだ新らしい姿で斯んな浜辺まで、渡つて来て居ることが私には大きな驚きであった。この話を東京に還つて来て、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。今でも多くの若い人たちに愛誦せられて居る椰子の実の歌といふのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれを貰ひましたよと、自分でも言はれたことがある。」 日本文化のルーツは南方にありと柳田が直感したのがここ伊良湖岬、日本民俗学の聖地の一つですね。なお近くに日出の石門という海上の奇岩がありますが、バスの発車時刻が迫っているので下まで降りて接近する余裕はありません。上から撮影して、急いで戻ることにしましょう。
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 残像が見えるくらいにペダルをぶんまわし、発車十分前に道の駅「クリスタルポルト」に到着、自転車を返却し、売店で「渥美半島育ちポークとキャベツのコロッケ」を購入して頬張りながらバスに駆け込みました。やれやれセーフ。一時間十分ほどの滞在でしたが、見るべきほどのものは見つ、それでは田原を散策することにしましょう。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2011-07-01 06:06 | 中部 | Comments(0)