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瀬戸内編(8):下関(12.3)

 そして「床屋発祥之地」という記念碑を撮影、鎌倉時代中期に藤原政之がここ下関で、新羅人の髪結職からその技術を学び、日本初の結髪所を開いたそうです。その結髪所の奥には、亀山天皇と藤原家祖先を祀る立派な床の間(祭壇)があり、いつとはなしに「床の間のある店」と呼ばれ、転じて「床場」、さらに「床屋」という屋号で呼ばれるようになり、下関から全国へ「床屋」が広まったそうな。おしまい。なおこのあたりに金子みすゞが住んでいたので、彼女に関連する場所に「金子みすゞ 詩の小径」という碑がいくつかたっています。亀山八幡宮の近くにあったのが「三好写真館跡」、自殺する前日の1930(昭和5)年3月9日にここで最後の写真を撮ったそうです。その心情はいかばかりであったか、想像しようとしても言葉になりません。
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 そして詩碑「日の光」を拝見し、「商品館跡」の碑へ。上山文英堂支店があったところで、みすゞはここで働きながら多くの詩を創作しました。
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 ベランダの連続アーチが印象的な赤煉瓦建築・旧宮崎商館、ちょっとぶっとんだ感じのモダンな旧電信電話庁舎(田中絹代ぶんか館)を撮影。彼女は下関出身だったのですね。今、ウィキペディアで彼女が出演した映画を調べてみましたが、私が見たものは「陸軍」(1944年、木下惠介監督)、「雨月物語」(1953年、溝口健二監督)、「赤ひげ」(1965年、黒澤明監督)、「サンダカン八番娼館 望郷」(1974年、熊井啓監督)の四本でした。お恥ずかしい。なお余談ですが、「煙突の見える場所」(1953年、五所平之助監督)という映画にも出演していますが、故井上ひさし氏によるとこれをもじった「煙突の入る場所」というストリップ・ショーがあったそうです。ごめんなさい、もう言いません。「ろうきん下関支店」は、正面に屹立する日本のドーリア式柱が印象的な恰幅のよい建築。その近くに「上山文英堂書店本店跡」の碑がありました。
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 みすゞが住んでいたところで、結婚の後、自殺したのもここです。刻まれていた「みんなを好きに」という詩を引用しましょう。
「みんなを好きに」

私は好きになりたいな、
何でもかんでもみいんな。

葱も、トマトも、おさかなも、
残らず好きになりたいな。

うちのおかずは、みいんな、
母さまがおつくりなったもの。

私は好きになりたいな
誰でもかれでもみいんな。

お医者さんでも、烏でも、
残らず好きになりたいな。

世界のものはみィんな、
神さまがおつくりなったもの。
 何という底無しの優しさよ。まさに「愛せよ。人生においてよいものはそれのみである」ですね。それゆえに、夫の非道な行為への憎しみとの板挟みにあって苦悶し、自らの死を選んだのかもしれません。いや勝手な詮索はやめましょう、こんな素敵な詩を残してくれたことをせめて感謝したいと思います。

 本日の三枚、上から一枚目が旧宮崎商館、二枚目が旧電信電話庁舎です。
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by sabasaba13 | 2013-07-08 06:16 | 山陽 | Comments(0)

瀬戸内編(7):下関(12.3)

 本州と九州を結ぶ関門大橋の下をくぐると、「壇ノ浦古戦場址」に到着です。波に乗る源義経と碇を持ち上げる平知盛が対峙する銅像がありました。平知盛、平清盛の四男、清盛の死後平氏一門の中枢を担い、壇ノ浦での平氏滅亡を見届けた後、自害した武将ですね。享年34歳。『平家物語』には、彼の味のあるいい言葉がちりばめられています。息子の知章が討ち取られる間に、自分は逃げ延びた時の言葉「我が身の上になりぬれば、よう命は惜しいもので候けりと、いまこそ思ひ知られて候へ」(巻9)、と嘆いたとあります。また船に乗り切れない愛馬を陸に向けて逃がした時、名馬が敵のものになるのは惜しいと部下が射殺そうとするのを、「わが命を助けたらむものを。あるべうもなし」(巻9)と止めます。壇ノ浦合戦(巻11)では、味方の敗北は決定的と見た知盛は、「世の中はいまはかうと見えて候。見苦しからむものども、みな海へ入れさせ給へ」と言って、自ら御座船の掃除を始め、女房たちには「珍しき東男を御覧ぜられ候らはむずらめ」と冗談を言ったりします。そして最後に「見るべきほどのことは見つ」と言って、海に身を投げます。命への敬虔な思い、どのような状況でも心のゆとりを忘れずに最善を尽くし、それでも及ばない時には従容として運命を受け入れる、素晴らしい人物造形ですね。敬意を込めて写真を撮影。
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 その先は海峡の最も狭いところで、長州藩は幕末に壇ノ浦砲台を築き、1863(文久3)年には外国船への砲撃(攘夷)を決行したのですが、その時に使われたカノン砲が復元されていました。なお翌年には、貿易への障害を排除すると共に攘夷勢力への見せしめのため、四国連合艦隊が攻撃、完膚なきまでに破壊されたのですね。なおフランスが持ち帰った砲が、パリのアンヴァリッド軍事博物館にあるそうでいつか見てみたいものです。
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 そしてUターンし、老舗の料亭「春帆楼」へ。伊藤博文の命名で、「フグ食用禁止令」を解禁した彼が「ふぐ料理」を公許した第一号店だそうです。そして1895(明治28)年、日清戦争の講和会議場となり、その際に使われた調度品などが「日清講和記念館」として無料で公開されています。さっそく入館して、ガラス越しに椅子、ランプ、ストーブなどを拝見。
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 伊藤博文・陸奥宗光と李鴻章がやりあう姿が髣髴と浮かんできますが、勝利した日本側の強硬な要求に清国側は屈することになりました。あまり語られることのない戦争ですが、日本近代史における大きな転換点だと思います。日本を「圧迫された国」から「圧迫する国」に転換させた戦争、貧しい国・日本が豊かになるために、もっと貧しい国・中国を搾取する第一歩となった戦争、そして敗れた中国民衆の悲惨さが「だからこそ対外戦争には負けてはならぬ」「だからこそ大日本帝国はありがたい」という文脈へと誘導されていくきっかけとなった戦争。よろしければ「日清戦争 東アジア近代史の転換点」(藤村道生 岩波新書D127)と「旅順と南京 日中五十年戦争の起源」(一ノ瀬俊也 文春新書605)の書評を拙ブログに上梓してありますのでご覧ください。なお出典を明らかにできず申し訳ないのですが、李鴻章が下記のような覚書を日本側に渡したそうです。
 領土割譲は清国民に復讐心を植えつけ、日本を久遠の仇敵とみなすだろう。日本は開戦にあたり、朝鮮の独立を図り、清国の領土をむさぼるものではない、と内外に宣言したではないか。その初志を失っていないならば、日清間に友好・援助の条約を結び、東アジアの長城を築き、ヨーロッパ列強からあなどられないようにすべきである。
 もしこの訴えが心に響き、それを受け入れていたら大きく歴史は変わっていただろうなあ。なお記念館の脇には伊藤博文と陸奥宗光の胸像があり、すぐ前にある小道は彼がよく散歩したことにちなんで「李鴻章道」と名付けられていました。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2013-07-07 06:43 | 山陽 | Comments(0)

西本智実と外山啓介

c0051620_8241056.jpg 先日、所用があって府中の森芸術劇場に行ったところ、西本智実の指揮、外山啓介のピアノ、日本フィルハーモニー交響楽団の演奏で、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番とブラームスの交響曲第1番の演奏会を知らせるチラシがありました。実力ある女性指揮者と新進気鋭のピアニストの競演、これは面白そうだなとチラシを山ノ神に見せたら彼女も大乗り気。西本氏については、以前にテレビ番組で彼女の特集を見たことがあり、ロシアで修行中に日本人女性というハンデを乗り越えて才能を開花させたという経歴に感銘を受けたそうです。外山氏については…そういえば彼女に頼まれて「CHOPIN:HEROIC」を購入しましたっけ。でもどうして? 「こんなに指が長い人は見たことがないから」 はいはい。
 6月末日、ちょうどこの日はテニスの練習が四時間あったのですが、背に腹はかえられない、最初の一時間だけ参加して途中退出、府中の森芸術劇場どりーむホールへと行きました。会場はほぼ満員、われわれの席は二階のやや右あたり。ピアノの鍵盤がかろうじて見える位置です。そして二人が登場、やんちゃな弟を引き連れた鉄火肌の姉御という雰囲気です。そしてラフマニノフのピアノ協奏曲第3番の演奏が始まりました。外山氏のピアノは、ミスタッチがやや多いのと表情や歌いまわしが平板になるのが惜しいのですが、これほどの難曲、それを責めるのは酷というもの。その溌剌とした演奏には、将来の大器を予感させるに十二分です。それにしても、素晴らしい曲ですね。第1楽章の憂愁と激情、第2楽章の神秘と耽美、そして第3楽章の躍動と抒情、私は第2番よりもこちらを愛聴します。たまたま最近、ロシアに関する本を立て続けに読んできました。『石光真清の手記』(石光真清 中公文庫)、『人生と運命』(ワシーリー・グロスマン みすず書房)、『サハリン島』(チェーホフ 中央公論新社)。現在の厠上本は『ニコライの日記』(岩波文庫)、枕上本は『ドクトル・ジバゴ』(パステルナーク 時事通信社)です。その中でしばしば、ロシア人の魂が語られ描写されることがあるのですが、この曲の曲想と合致するように思えます。例えば『ドクトル・ジバゴⅠ』にこういう言葉がありました。
 ああ、人間の雄弁の醸す空ろな退屈さ、薄っぺらな美辞麗句から逃れて、ものいわぬ大自然の中にかくれ、長い、骨もうずく労働、熟睡、真の音楽、感情に圧倒されて言葉を喪った人間間の意思疎通の深い沈黙のなかにひそむことができたら、どんなに素晴らしいだろうか! (p.205)
 ロシア正教にも興味があるし、しばらくロシア文化とのつきあいが続きそうです。
 そして二十分間の休憩をはさんで、いよいよブラームスの交響曲第1番です。雑談となりますが、不肖私、大学のオーケストラでコントラバスを弾いておりました。このいわゆる「ブラいち」も、初心者ゆえ猛練習をしてのぞんだ思い出があります。余談ですが、他にも「ベトいち」、「ベトしち」、「シベに」、「幻想」、「ドボはち」、「ブラに」、モーツァルトの交響曲第40番なども弾くことができました。今にして思うと果報者ですね。ちなみにプロの方はマーラーの交響曲はどう略称するのでしょう、まさか「マラご」? 閑話休題、よって耳に馴染みのある曲だし、CDでもシャルル・ミュンシュの名演を時々聴くし、さほど期待はしていませんでした。しかし聴き進むにつれて、じわじわと感興が湧いてきました。まずこれまで気がつかなかったフレーズが耳に入り、ああブラームスはこれが言いたかったのだなあと納得することがしばしば。良い意味で理知的な演奏です、よほどアナリーゼをしっかりされているのでしょう。そういえばフランス・フォン・シュトレーゼマンが"ブラームスは「交響曲」という大きな物語の中で、無駄な時間は一切使ってないんですヨ"と言っていましたっけ。そしてオーケストラの奏でる音のバランスとハーモニーの良さ。低音部と高音部、さまざまな音色の楽器が溶け合って鳴り響きます。西本氏の耳の良さとともに、日フィルの技量も称賛すべきでしょう。また迫力を出そうとして音が割れるよりは、力強さに欠けても美しい音の響きの方を選ばれたのかなと感じました。以上のことが相俟って、だんだん胸が熱くなり、フィナーレでは思わず目が潤んでしまいました。ブラーバ!
 指揮者の仕事は、練習の時点ですでに終っており、本番では微調整をするにとどまると思います。この素敵な演奏から、彼女とオケの真摯で熱意あふれた練習風景が浮かんでくるようです。万雷の拍手に応えてアンコールを演奏してくれました。てっきり「ガリダン」(※ハンガリアン舞曲)かなと思っていたのですが、意外なことに弦楽合奏によるシューマンの「トロイメライ」でした。脂っこい曲が二曲続いた後だけにまるで一服の清涼剤。最後の一音の後、心に沁みいるような残響に身も心も委ねていると…ばちばちばちばちと拍手が沸き起こってしまいました。うーむ、もう少し待てないものかしらん。なお彼女のブログによると、恩師と仰ぐ諸橋晋六氏が6月23日に逝去されたそうなので、追悼の意が込められていたのかもしれません。なお氏は、三菱商事の社長・会長を歴任した方で、『大漢和辞典』の編著者・諸橋轍次の三男だそうです。
 それはともかく、素晴らしい演奏会でした。次回は、このコンビでブラームスのピアノ協奏曲第1番を聴きたいな。
by sabasaba13 | 2013-07-06 08:25 | 音楽 | Comments(0)

『少年口伝隊一九四五』

 『少年口伝隊一九四五』(井上ひさし 講談社)読了。2008年2月、日本ペンクラブが各国の作家に呼びかけ、世界P.E.N.フォーラム「災害と文化」を東京で開催しました。その催しのプロデューサー役であるノンフィクション作家の吉岡忍氏が、その準備の段階で、当時日本ペンクラブ会長だった井上氏に依頼した戯曲です。朗読劇の体裁をとっており、舞台は原爆投下前後の広島、登場人物は国民学校六年生の英彦、正夫、勝利、そして大学で哲学を教えている段原一丁目の老人、じいたんです。原爆で家族を失った三人の少年は、新聞を発行できなくなった中国新聞社に雇われ、「口伝(くでん)隊」の一員として、ニュースを口頭で人々に伝えます。なおこの「口伝隊」は軍が指揮し、罹災者の応急救済方針、傷病者の臨時収容場所、救援食糧、被害の状況を伝えるとともに、戦意の高揚や維持にもあたったそうです。原爆病に怯えながらも懸命に生きようとする少年たち。しかし、1945年9月17日、室戸台風・伊勢湾台風と並ぶ昭和の三大台風のひとつ枕崎台風が広島を襲い、沿岸部では土石流が発生、死者・行方不明者あわせて二千人以上もの方々が犠牲となりました。寡聞にして知らなかった出来事ですが、これが単なる自然災害ではなく人災としての側面もあったのですね。
あれは山津波だ。
まわりの山々が崩れ落ちている。
…………
戦に夢中になっているうちに、人びとは、まわりの山々の手入れを怠っていた。
その上、山々の土が原子爆弾の熱で焼かれて脆くなってもいた。(p.67)
 なお室戸台風(1934)については以前も書きましたが、軍事優先のため防災システムがお粗末だったことが被害を倍加させてしまいました。思うに、福島の原発事故も、経済成長を優先させたがための結果ではないでしょうか。この国の姿はあまり変わっていないのですね。そしてこの台風によって勝利は行方不明となり、その二日後に正夫は原爆症で死亡。そして英彦は…
 この少年たちに語りかけるじいたんの言葉が胸に突き刺さります。自然に対して謙虚であること、指導者の言葉を常に批判的に考えること、そして生き残った者には犠牲者に対する責務があるということ。
「声の大きな方へ、ふとか号令の方へ、よう考えもせずになびいてしまうくせが、人間にはあっとってじゃ。ふとか号令は、そのときは耳にうつくしゅう聞こえるけえね。このような現実をつくってしもうたんは、そのくせのせいかもわからん。ほいでその号令がちょろちょろかわりよるけえ、難儀なことよのう。…」 (p.56)

「いのちのあるあいだは、正気でいないけん。おまえたちにゃーことあるごとに狂った命令を出すやつらと正面から向き合ういう務めがまだのこっとるんじゃけえ」 (p.70)

「…わしらの体に潜り込んどる原爆病はの、外見はなんともなげ見せかけといて、やれやれ助かったと安心したころを見計らって、いきなりだましがけにおそうてくる代物じゃ。海も山も川もそうよ。いきなりだましがけにあばれてきよるけえ、いっつも正気で向かいあっとらにゃいけん」 (p.71)

「正夫のしたかったことをやりんさい。広島の子どものなりたかったものになりんさいや。こいから先は、のうなった子どものかわりに生きるんじゃ。いまとなりゃーそれしか方途がなあが。…そんじゃけえ、狂ってはいけん。おまいにゃーやらにゃいけんこつがげえに山ほどあるよってな」 (p.71)
 戦争と災害と放射能という三重の苦難の中、懸命に生きぬいた少年たち。それをあたたかく見守ったじいたん。心に残る佳作です。そして間もなく行なわれる参議院選挙。"ふとか号令"や"狂った命令"を出す御仁が勢いを得るような結果にならぬよう、正気を保ち一票を投じたいものです。放射能被害を放置し、災害対策よりも経済成長を優先し、戦争をしたがっている御仁が、喜色満面で当選者の名前に赤い薔薇をつける場面が報道されるような予感もしますが。

 なお衝撃だったのが、次の一文です。
炸裂したのはリトルボーイ。
アメリカ俗語で「おちんちん」。(p.16)
 この名称はコード・ネームなので、ある程度公的に決定され認知されていたものでしょう。そういう意味が本当にあるのか、あるとしたらそれを知っていてつけた名称なのか。即断は控え、心と頭に残し、これから調べていきたいと思います。でももしそれを承知の上でつけた名称だとしたら…慄然とします。
by sabasaba13 | 2013-07-05 06:18 | | Comments(0)

アジサイ便り

 この時期になると、箱根のアジサイが気になります。ふらりと行ってきた箱根・大平台のアジサイの写真です、ご笑覧ください。なお以前に紹介した大平台駅のは、どうやら居ついてしまったようですね。ベンチの上で悠然と午睡をしていました。「駅構内でネコにエサを与えないで下さい」という貼り紙もありましたが、そう邪慳なことを言わずに、猫駅長としてデビューさせていはいかが。

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by sabasaba13 | 2013-07-04 17:07 | 鶏肋 | Comments(0)

瀬戸内編(6):下関(12.3)

 小串駅のホームには、みんなの願い、「安全の柱」という小さな碑がありました。タイヤ人形は、何かを訴えているというよりも、道に立ち塞がり旅人の身ぐるみはごうとしている山賊に見えます。
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 川棚温泉駅越しに見える「エイリアン」は、豊浦の守り神である青竜の像の後ろ姿でした。とある駅では、地元の方でしょうか、「サイン(山陰)は笑顔」という法被を着ていました。うーん、座布団はあげない。
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 綾羅木駅の「駅員さんのうしろに"霊"が…」は、駅前広場にあるモニュメントの不気味な頭部が、駅員さんの背後霊に見えるアングルがあるのですね。そして14:56に下関駅に到着です。
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 ふく(※下関では"ふぐ"を"ふく"と言います)料理「しのだ」に午後五時半の予約を入れてあるので、二時間半ほど下関散策ができます。観光案内所で「下関観光ガイドブック」と「龍馬と下関」というパンフレットをもらい、貸し自転車の所在を確認。駅近くにあった駐車場で自転車を借り、いざ出立です。いきなり、ふぐを頭上に掲げたご当地電話ボックスと、ふぐを描いたマンホールの蓋を発見。数時間後に生まれて初めてふぐ料理への期待が、否が応でも高まります。
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 まずは高さ143mの「海峡ゆめタワー」へと参りましょう。入場料600円(高い!)を支払ってエレベーターに乗り、球形総ガラス張り展望室に到着、関門海峡・下関市街・九州・巌流島の眺望を楽しみました。
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 そして「嫌よ嫌よも好きのうち」、以前は嫌悪していましたが、最近はちょっと惹かれている28階展望室の「恋人の聖地」を訪問。モニュメントを撮影し、ジョルジュ・サンドの「愛せよ。人生においてよいものはそれのみである」という言葉をしかと胸に刻みました。
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 なおここには、ハヤブサのハヤト君とゆめちゃん夫婦がしばしばやってくるそうで、お二人の写真がありました。残念ながらお会いできませんでしたが。
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 タワーの先の唐戸エリアには、レトロな建物がけっこう残っています。次々と現れる下関南部町郵便局、旧秋田商会ビル、旧下関英国領事館を撮影。
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 その近くのカモンワーフは、海産物やお土産を売る店が櫛比するシーサイド・モールですが、「しぶちん」の我々はそげなものには目もくれません。ロハで河豚のオブジェを撮影して終り。海沿いに龍馬とお龍の顔はめ看板がありましたが、彼は薩長同盟締結後、ここ下関を本拠地とし、お龍との仲睦まじい新婚生活を過ごしたのですね。
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 その近くには「聖フランシスコ・ザビエル下関上陸の地」という記念碑がありました。海峡沿いの道を走っていくと、潮流信号を見ることができます。ここ関門海峡は潮の流れが速く、しかも潮流が刻々と変化するので、船の安全のためにこうした信号が必要なのですね。[W(西流)/E(東流)]で方向を、[1~13(ノット)]で早さを、[↑(上げ)/↓(下げ)]で今後の流速の変化を表わしているそうです。
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 本日の三枚、上から二枚目が下関南部町郵便局、三枚目が旧秋田商会ビルです。
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by sabasaba13 | 2013-07-02 06:04 | 山陽 | Comments(0)

瀬戸内編(5):孤留島(12.3)

 湯玉駅を通り過ぎると、やがて「孤留島(コルトー)」が沖合に見えてきました。男島、女島、竜宮島、石島の四島からなる島々の総称である厚島(あづしま)の別称です。これはパンフレットには載っていないのですが、ちょっとした謂れがあります。名ピアニストのアルフレッド・コルトー(1877-1962)は、晩年の1952(昭和27)年にただ一度、念願の来日を果たして、宇部公演を控えた三日間、川棚観光ホテルに宿泊したそうです。彼はホテルの窓から見えた厚島と響灘の美しい風景にとても魅せられ、川棚村長に「あの無人島に住みたい。ぜひ売ってくれないか」と交渉しました。居合わせた人々や村長は大変驚き、最初は冗談だと思い断りましたが、それが本気であるとわかると、考えた末に「あの島に永久にお住みになるなら無償で差し上げましょう」と答えたとのこと。コルトーは感激して「トレビアン」を連発、「必ずまた戻る」と村長と何度も握手をし、「私の思いはひとりあの島に残るだろう」とつぶやいたそうです。また、集まった人々により、島の名前を「孤留島(コルトー)」と命名することも提案されました。しかしコルトーは帰国後病に倒れ、思いを果たせぬまま、10年後にこの世を去りました。
 コルトーがパリに設立したエコール・ノルマル音楽院には「カワタナにある夢の島」の話が残されていました。コルトーは、「僕の名前の島が日本にあるんだ」と楽しそうに話し、「孤留島」と彫った印鑑を手紙のサインの脇に必ず押していました。また、すっかり体が弱った晩年にも「日本に夢の島がある。もう一度行きたい」と家族に話していたそうです。
 以上、「しものせき観光ホームページ」の受け売りでした。たった一枚しか持っていない、彼がジャック・ティボー、パブロ・カザルスと演奏するベートーヴェンピアノ三重奏曲第7番「大公」を聴きながらキーボードを叩いていますが、コルトーに関するエピソードを二つ紹介します。まずは指揮者・音楽評論家である宇野功芳の言です。
 一般にすぐれた教師は生徒の欠点には目をつぶり、長所だけをのばすという。しかし、コルトーはその上をいく。欠点に目をつぶればそのまま残る。名教師コルトーは欠点を長所に変えてしまうのだそうな。
 もう一つは、『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』(新潮社)で、カザルス自信が語るエピソードです。彼はフランコ政権やナチスへの非協力の姿勢を崩さずプラードに籠っていたのですが、コルトーはナチスの傀儡であるヴィシー政権に協力していました。戦後、コルトーは黄金のトリオを組んでいたカザルスのもとを訪れて謝罪します。感動的なシーンなので、長文ですが引用します。
 プラードへの帰還後、一つのエピソードが突然の驚きと共に暗い戦争中に私をひきもどした。ある朝、私はプラードの家にいたが、だれかが玄関のドアをノックした。私がドアを開けると、アルフレド・コルトーが立っていた。
 彼を見ると私はひどい痛みを感じた。悲しい過去の日々が、まるで昨日起ったかのようによみがえってきた。私たちは立ってお互いに顔をみあわせたまま、一言もいわなかった。私は手招きで彼を部屋へ入れた。
 彼はぽっつりぽっつり話しだしたが目は伏せたままだった。またひどく疲れているようにみえた。初め彼は自分のおかしな行為を弁明しようともそもそと話しだしたので、私は止めさせた。
 すると、せきを切ったように、「ほんとなんだ、パブロ。世間でいっていることは本当なんだ。私はナチと協力したんだ。私は恥ずかしい、ひどく恥ずかしく思っている。君に許しを乞いにやってきたんだ…」 これ以上なにも言えなかった。
 私も同じだった。私は彼に言った。「君が正直にいってくれてうれしいよ。だから君を許すよ。握手しよう」(p.240~2)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-07-01 05:11 | 山陽 | Comments(0)