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房総編(1):千葉高架水槽(12.7)

 2012年文月某日、千葉県を二泊三日でまわってきました。今回は大きなテーマはなく、言わば落ち穂拾いの旅でした。初日に、千葉市にある高架水槽と*ポートタワーを見物し、*木更津に移動して宿泊。二日目は下郡にある古い郵便局を訪れた後、久留里を徘徊。*鋸山を彷徨して木更津市内を散策。この日も木更津泊です。三日目は佐倉を訪問、帰りに*京成バラ園に立ち寄るという旅程を立ててみました。え、*印は何だとお訊ねになりますか… 気づかれてしまったか、ええと、実は「恋人の聖地」として認定されているところです。思い起こせばはじめて出会ったのが福岡タワー、当初はぶつぶつぐちぐち半畳を入れていたのですが、諸所で遭遇を重ねるうちにだんだんと愛着が湧いてまいりました。妻帯の身でありながら不遜な、と言われれば返す言葉もありませぬが、ま、ジョルジュ・サンドも"愛せよ。人生においてよいものはそれのみである"と言っていることだし、若者のロマンティシズムをかきたてる場を訪れてそのお裾分けをいただくのも一興。というわけで、いつもにも増してチャンプルーのような徘徊のはじまりはじまり。持参した本は『トクヴィル 現代へのまなざし』(富永茂樹 岩波新書1268)です。

 まずは千葉高架水槽へと向かいます。JR千葉駅東口から京成バス「大学病院」行きに15分ほど乗って「中央博物館」で下車。大きな物件なのですぐに見つかると思いきや、鵜の目鷹の目、周辺を見回しましたが見当たりません。通りすがりの方に訊ねて、大学病院の敷地を通り抜けると、おおっ墓地の向こうに屹立しているではあーりませんか。全国でも稀な正12角形のなかなかソリッドな形状、現在でも水道施設として稼動している働き者です。そのため敷地内に入れず遠望するしかないのが残念、とりあえず小道に沿って周囲を歩きました。しばらく歩くと、直方体の突出部がある側が見えてきます。
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 それにしてもこの高架水槽ができたおかげで、人々の暮らしがどれほど助けられたでしょう。先日読んだ賀川豊彦の自伝的小説『死線を越えて(中)』(今吹出版社)の中に、次のような一節がありました。
 水飢饉で貧民窟は水が無い。一里半も先の灘の酒屋が飲料水を持って来てくれた。北本町六丁目人口千三百人に対して水道の活栓はたった二つしか無かったが、午後五時にちょっと水が出たが、その時には喜恵子はバケツ一杯の水を汲むために五十八人目に立っていた。(p.416)
 もちろん単純な比較はできませんが、水を確保しづらい苛酷な生活の一端を想像することができます。人間のこうした生きづらさを少しでもやわらげるのが、科学や技術だと思います。ブレヒトが"私は科学の唯一の目的は、人間の生存条件の辛さを軽くすることにあると思うんだ"(『ガリレイの生涯』)と言っている通りです。人々の暮らしや故郷や末来を完膚無きまでに破壊し尽くす核(原子力)発電という科学技術は、はたしてその名に値するものなのでしょうか。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2013-10-20 08:18 | 関東 | Comments(0)

言葉の花綵92

 神には脇にいてもらおう。いわゆる偉大な進歩的な理想には脇にいてもらおう。人間からはじめよう。それが誰であれ―主教、百姓、百万長者の工場主、サハリンの徒刑囚、食堂の給仕であれ―人間に対して優しくし、思いやりをもとう。人間を尊敬し、憐れみ、愛することからはじめよう。それなしにはなにもはじまらない。(チェーホフ)

 無知というのは知識がないことではない。疑問を発せられない状態を指す。(フランツ・ファノン)

 勇気を持って、事実を見る。(チャールズ・ダーウィン)

 人が真の男になるためには、四つのことを成し遂げなくてはならない。木を植える、闘牛をする、本を書く、そして息子をつくることだ。(アーネスト・ヘミングウェイ)

 猫に名前をつけるのはむずかしいことです。(T・S・エリオット)

 普通の人が想像の中でしか見られないものを、私はこの目で見てきた。(アルチュール・ランボー)

 生きるのは健康によくない。(マーク・トウェイン)

 私が緑の絵の具を置いても、それは草を描こうとしたことを意味しない。青色を手にしても、まだ空を描いていることを意味しない。(アンリ・マチス)

 夜明け前がいちばん暗い。(飯田哲也)

 教育の失敗だ。理想と、教養なく、ただ「技術」だけを習得した結果だ。(清沢洌 『暗黒日記』)

 信用は求むるものに非ず得るものなり (橘周太)

 愛嬌は人類共通の親和力を持っている。親しまんと欲するものはまずこれに頼るべし。(石光真清)

 われわれは常に二つのアメリカ国旗を持っている。一つは豊かな人々のためのもの、もう一つは貧しい人々のためのもの。(ヘンリー・ミラー)

 サルでも訓練すればアメリカ国旗を振る。だが、それは、サルを愛国者にすることではない。(スコット・リッター)
by sabasaba13 | 2013-10-19 06:21 | 言葉の花綵 | Comments(0)

『未来のための江戸学』

 『未来のための江戸学 この国のカタチをどう作るのか』(田中優子 小学館新書101)読了。不安定な世界と不透明な未来、私たちを囲繞する不安と苛立ち、そこにつけこみ支持を得ようとするポピュリスト政治家の跋扈。こんな時だからこそ歴史を振り返り、なぜこうなってしまったのか、これからどうすればよいのか、冷静に考えたいものです。本書は、先入観にまみれた江戸時代を見直し、その価値観について考察するとともに、その価値観を否定して欧米から学び取った新たな価値観=近代が今の日本を形作った経緯について論及したものです。
 著者は1540年から1640年までの100年、戦国時代から江戸時代初期の日本は、銀によってアジアの物資を買いあさり、世界最大量の鉄砲を製造し、輸入した硝石で火薬を大量に作り、それらを国内戦争と外国侵略に投入し、大量の伐採をして城下町建設を行ない、運河を重要に開削し、埋め立てし、大規模に新田を開発した、軍事と経済成長を最優先したイケイケ国家であったと指摘されています。しかしこのままでは日本は破滅すると危惧した為政者たちは1640年ごろを契機に、この国はまったくちがったカタチへと劇的に変えました。技術力によってアジア依存型経済から自立し、国内市場を活性化し、侵略や植民地化という事態をかぶることのない、世界の中で立ちゆく力をつけること。それにともない、外交政策も再構築されていきます。オランダ東インド会社との、出島というセキュリティ対策も含めた正式な関係、秀吉が侵略した朝鮮半島との、関係回復と正式な外交の発足、琉球王国との決して平等とはいえない新たな関係、そして、そのころ明の厦門沿岸防衛総督を務めていた鄭芝龍との強い結びつきによる台湾との貿易拡大。著者が言われるように、ここには「国を鎖す」意志を感じることはできません。ヨーロッパ勢力への警戒とアジア諸国との友好を軸に、新たな外交を築いたのですね。琉球とアイヌに対する支配と搾取については、留保が必要ですが。そしてこの大転換とともに、"時代の思想"が育まれます。以下、引用しましょう。
 熊沢蕃山の考え方はいわば、財の量的拡大をめざさないこと、つまり高度成長でも拡大成長でもない思想である。これは江戸時代そのものの、時代の思想ともいうべきものだった。江戸時代の森林伐採の禁止は、環境保全と経済成長を両立させようなどというむしのいい発想ではなく、「すたり」(無用の費え、無駄)をなくすことによって、健全なサイクルを作り、誰もが貧困状態にならないよう世の中を経営する(富有大業)、という考え方だった。ここには、資源(財)は有限である、という認識と、すべての人が救われなければ意味がない、という「仁政」の考え方が通っている。(p.63)
 その結果としての当時の日本人の陽気さ、満足感、幸福感、そして、自己顕示欲や競争心がなく欲しいものもなければ余分なものもない簡素な生活については、江戸時代から明治初期に来日した外国人のさまざまな証言があることは、渡辺京二氏が『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)の中で多数紹介されています。
 しかしアメリカの軍事力によって強要された開国、そして明治維新以来、私たちが"江戸の思想"と引き換えに、勝ち負けを争う自由競争と暴力を取り入れることになります。戦前においては力に屈服しないために力をつけようとする"暴力の連鎖"を、戦後においては貪欲と浪費を公然と肯定する"経済成長"を、近現代の日本は追い求めてきた/いるわけですね。
 以上、拙い要約ですが、本書の魅力の一端でもお伝えできれば幸甚です。世界史を視野に入れた鋭い論考も多々あり、それらもたいへん勉強になりました。例えば、江戸幕府と交易していたオランダ東インド会社は軍隊を持った会社で、すきあらばアジアを植民地にしようと、常に狙っていたという指摘。実際、同社はバタヴィア、スリランカ、ジャワ東岸、インドのマラバール等々に17カ所の拠点を持ち、そこをほぼ占領していました。しかし江戸幕府と長崎会所は、そのもくろみを出島という作戦で封じ込めたため、25000人にのぼる従業員のうち、長崎に駐留した者はわずか11人でしかありませんでした。こうした緊張関係を知らずに、「日本とオランダは仲良しだった」などという牧歌的な物言いは控えるべきですね。

 さて、安倍伍長を筆頭に、財界・政界・官界・メディアがあいもかわらず「経済成長」を大合唱している現今の日本。"大規模にものを作り続けることや、おおぜいが観光地に押しかけることや、大量の車が高速道路を行き交うことや、電気製品を買い換えることや、安物を手に入れ続ける"ことで経済は回復し成長するという迷夢からまだ脱していないようです。大企業がもっともっと稼ぎ、そのおこぼれをわれわれ庶民にちょびっと下賜することでしかないのにね。こうして世界から富を搾取しつづければ、何が起こるのか、いいかげんに気づいてもよさそうなものです。そうではなくて「世界とは均等な配分と魂の安定をともにめざす場である」という価値観をもった文明もかつて多々あったこと、江戸時代もその一つであったことを知ることは迷夢から目覚めるための手助けになると確信します。
by sabasaba13 | 2013-10-18 06:16 | | Comments(0)

『「フクシマ」論』

 『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(開沼博 青土社)読了。補章の中で、開沼氏はこう述べられています。 
 本書前章までは、2011年1月14日に東京大学大学院学際情報学府に修士論文として提出された「戦後成長のエネルギー-原子力ムラの歴史社会学」に導入部の追加や全体にわたり最低限の加筆修正をほどこしたものである。同年2月22日に受理されたこの論文は、3月15日の修了の確定を静かに待つのみの存在だった。2011年3月11日のあの時までは。(p.366)

 3・11以前には福島にも何の興味もなかった「知識人」の虚妄と醜態こそあぶり出されなければならない。それが、四十年も動き続ける「他の原発に比べて明らかにボロくてびっくりした」福島原発を今日まで生きながらえさせ、そして3・11 を引き起こしたことは確かなのだから。(p.372)
 そう、本書は、3・11以前から著者が取り組んできた論考で、福島がなぜ原子力を欲望してきたかを、日本の戦後成長は中央にとっての成長に過ぎなかったという視点とからめて分析した力作です。日本の近現代、特に戦後において、中央と地方は「中心と周縁」「上と下」「主と従」という二項対立的関係にあり、それがあったからこそ日本の戦後成長が達成されたというのが著者の主張です。その歴史が、簡潔にまとめられている部分を引用しましょう。
(1) 中央とムラの分離:明治以来、日本は中央集権体制確立を目指して、官選知事を中央のエージェントとして地方に送ることによる統治を目指していたことに象徴されるような、直接的な統治を目指していた。しかし、それは一方で地方-ムラの側に自生的に存在していた秩序、権力構造と対峙することになり、地方の側の自律性・独自性を完全に切り崩すことはできなかった。例えば、中央から地方に送られた官選知事は短い期間で移動させられ、ムラの利害を代弁する地方政治家や地元メディアを前に強い権威を持つこともできず中央集権は不明確なものとなっていったのだった。
(2) 中央とムラの接合:しかし、戦時下から戦後改革にかけて、新たな形の中央集権体制が形成される。それは、一方が「総力戦」、もう一方が「民主化」という一見相反する目標を掲げつつも、とも地方やムラを「国のために」と国家の体系のなかに動員することをすすめていき、そのなかで形成された体制だと言える。ここにおいて地方やムラは、中央の必要性に応じた変化を、必ずしも一方的に強制されてではなく、時には自ら望みながら遂げていった。例えば「なんかすごいけど、よくわからない」原子力を進んで受け入れていったのだ。
(3) 中央とムラの再分離:90年代以降、一方に経済成長の鈍化、他方に新自由主義的な政策があるなかで中央とムラの関係は新たな段階を迎える。確かに、地方の中央に対して自発的に貢献をしていく状況は今日も続いている。しかし、今日においては、それが自動化していると言える。それは本書で「地方」としてきた、植民地政策でいうところのコラボレーター(協力者)の役割をしてきた中間集団が、ムラにとって必要ではなくなったということを示す。ここにおいてムラは自動的かつ自発的に服従する存在へと変化したと言える。原発をおきたい中央とおかれたいムラが共鳴し強固な原発維持の体制をつくったのだ。(p.304~5)
 そうした関係の中で、福島が貧困と欠乏から逃れるために、いかにして原子力発電を欲望し受け入れていったかについては、ぜひ本書をご覧ください。ただ、"地方同士が生存を求め合いなりふり構わない弱肉強食の闘争のなかに追いやられ"ている現状にあって、脱原発を純粋に求めることは、彼らの生存の基盤を脅かす暴力になりかねないという著者の言も紹介しておきましょう。もちろん原発を動かし続けることへの志向も暴力です。この二つの暴力という圧倒的なジレンマのなかに、地方の現実があるのですね。いかにしてこのジレンマから抜け出すのか。下記の一文がその糸口になるのかもしれません。    
 経済成長によって「元気な日本」が蘇るのだとすれば、経済成長なき日本は「病の日本」だというのか。国民の多くに「日本は成長できるはずだ、そうでなければならない」という前提が共有されているのかもしれない。(p.22)

by sabasaba13 | 2013-10-17 06:16 | | Comments(0)

尾瀬編(9):大清水(12.6)

 三平下までは、右手に尾瀬沼や燧ヶ岳を眺めながら湖畔に広がる湿原を歩きます。そして沼尻平から二時間強で到着。こちらには尾瀬沼山荘やトイレがありました。
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 さてそれでは三平峠をめざしてのぼっていきましょう。ところどころで木道は残雪に埋もれ、倒木などもありましたが、さほどの困難もなく三平峠に着きました。二十分ほどかかったでしょうか。
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 ここから一ノ瀬休憩所をめざして山道をくだっていきます。途中から残雪も消え、萌えいずる若葉や清らかな渓流を愛でながらハイキングを楽しめました。
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 三平橋を渡り、食堂とトイレのある一ノ瀬休憩所に着いたのが午後1時45分、三平峠から一時間半ほどかかりました。後は車も通れるような砂利道を歩くこと45分で、駐車場のある大清水に到着です。やれやれ、無事に辿り着くことができました。
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 それにしてもこの二日間、自動車をまったく見なかった眼には、駐車場を埋めつくし走りまわるきゃつらの存在が禍々しいものに感じられます。最近読んだ宮本常一の『私の日本地図10 武蔵野・青梅』(末来社)に下記のような記述があったことを思い起こしました。
 ところが、その道すらが、たえず自動車が通るようになった。それを気にしながらあるくと、話も想念も中断せられてしまう。あるきながら考えるというのは実にいいことである。それができなくなったのである。そのうえ自動車は無礼なものである。歩いている者に思いやりなどしない。若い者の乗っている車だと、わざわざ歩いている方へ寄て来てさらに人を片隅に追いつめて面白がっていくのが多い。(p.250)
 とるものもとりあえず、レストハウスに入って珈琲を所望。なんと、こちらでもドリップで入れてくれました。尾瀬全域で協定を結んでいるのかと思い、店の方に訊ねたところそのようなことはないそうです。hospitalityの為せる業でしょうか、有難いことです。
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 香り高い珈琲を愉しみ、小用を済ませようと公衆トイレに行くと、いかにも尾瀬らしい水芭蕉とニッコウキスゲの男女表示でした。
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 そして到着したバスに乗り込み帰郷の途につきました。途中の老神温泉で若いカップルをピックアップしましたが、尾瀬散策+老神温泉というコースを選んだ方でしょう。そして定番通り、沼田の近くにある「原田農園」というお土産屋に拉致されました。手持無沙汰なので煙草を吸いながら付近をぶらぶらしていると、「ゆったり四時間尾瀬ヶ原ハイク」と掲げた大型バスが駐車していました。日帰り尾瀬散策コースですね、なるほど四時間だったら牛首で引き返すわけだ。関越自動車道を走り三芳PAで休憩、「みよし縁日堂」でご当地B級グルメ・川越太麺焼きそばをいただきました。そして無事に帰郷。
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 というわけではじめての尾瀬、素晴らしい自然を満喫することができました。やはり鳩待峠から入って正解でしたね、大清水からだとかなり長い上り道に喘ぐことになります。今度はぜひとも、ニッコウキスゲの咲き誇る初夏に訪れたいものです。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2013-10-16 07:01 | 関東 | Comments(0)

尾瀬編(8):尾瀬沼(12.6)

 林間ののぼり道をすこし歩くと燧ヶ岳分岐、左の見晴新道を行くと燧ヶ岳山頂に辿り着きますが、尾瀬沼へはこのまま直進します。
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 ところどころで木道が崩壊していますが、歩くのには問題はありません。やがて残雪を目にするようになり、白砂峠のあたりでは残雪の上を歩くようになります。トレッキング・シューズを履いてきてよかった。下りになるとかなり滑りやすく、四苦八苦しているハイカーの方もいて渋滞となっています。
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 そして尾瀬沼の東岸、沼尻平に到着です。見晴から二時間弱かかりました。休憩所があったので、ここで小休止して珈琲を所望。こちらでもドリップで珈琲をいれてくれました。
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 残念ながら雲がどんどん湧き出て曇天と化していますが、まだ雨は降りだしていません。鈍く光る湖面を見ながら紫煙をくゆらし、パノラマ写真を撮影しました。ちなみに、尾瀬ヶ原と尾瀬沼を結ぶルートはこの道しかありません。双方を歩くとすれば、どうしても一泊は必要ですね。
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 これから北岸に設置された木道を歩いて三平下へと向かいます。ところどころで尾瀬沼が見られる木道を歩いていると、ツァーを率いるガイドさんが、小川の底を指差し「ここは尾瀬ヶ原が積もった植物でできていることがよくわかります」と教えていた。御相伴にあずかって私も覗きこむと、なるほどその通りでした。"少しのことにも、先達はあらまほしき事なり"(『徒然草』第52段)ですね。
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 そして大江湿原に到着、ここは春の水芭蕉、初夏のワタスゲやレンゲツツジ、夏のニッコウキスゲ、秋の草紅葉と、四季折々の自然が楽しめるそうです。分岐にベンチがあったので、ここで座って東電小屋でつくっていただいた弁当を食しました。眼前には燧ヶ岳を眺めることができますが、山頂を雲がおおいはじめてきました。
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 ここからすこし歩くと、尾瀬沼ビジターセンターや長蔵小屋・尾瀬沼ヒュッテがある東岸に到着、尾瀬沼散策の基点となっているようでたくさんのハイカーで賑わっていました。これから三平峠を越えて大清水まで行き、帰りのバスに乗る予定です。もうここまで来たら、引き返すわけにもいかず、ひたすら大清水を目指すしかないのですが、いちおう心根を固めるためにビジターセンターで山道の状況を訊いてみることにしましょう。係の方は懇切丁寧に「大清水まで三時間、三平峠を越えれば残雪はないでしょう」と教えてくれました。ということは三平峠までは残雪があるということでしょうが、上りなので何とかなるでしょう。小用を済まし、ふと小屋の壁面を見ると「木陰の展望ベンチこちら 尾瀬沼屈指のビューポイント」という案内板がありました。もちろん訪れてみると、なるほど、尾瀬沼とその対岸に聳える燧ヶ岳を一望できます。しかし厚い雲がすでに山容を隠しはじめており、絶景というわけにはいきませんでした。でもその片鱗は十分に感じられたので、ぜひ再訪したいものです。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2013-10-15 06:21 | 関東 | Comments(0)

尾瀬編(7):見晴(12.6)

 朝の五時に目覚め、恐る恐る外へ出てみると…おおっ雨はあがっていました。薄い雲が天空をおおっていますが、ほのかに青空になりそうな気配も感じます。さすがは天下無双の晴れ男、と自分を褒め称え、小屋の前に広がる湿原をしばし散策しました。心身に積り積った憂き世の塵埃を洗い流してくれる清冽な空気を浴び、木道を歩いていくと、朝靄の中に至仏山が浮かび上がっています。清楚に並び立つ白樺、湿原には白と黄色の見事な二重奏を歌う水芭蕉とリュウキンカ。
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 小屋に戻ると朝を切り裂く燕たち、軒下の巣にいる雛たちに間断なく餌を運んでいました。この光景を見ると、いつも"のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳ねの母は死にたまふなり"という斎藤茂吉の歌を思い出します。燕は水たまりにも群れ集い、餌をさがしたり水を呑んだりしていました。
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 さて、朝食は六時半ということなので食堂に行ってみるともう満席で、かなり待たされるはめになりました。山小屋とはあまり縁のない衆生ですので、度し難いと言われたら返す言葉もないのですが、もうすこしhospitalityがあってもいいのでは。いくつかのグループに分け、時間を指定してくれたら助かるのですが。
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 部屋に戻って荷物をまとめ、いざ尾瀬沼に向かって出立です。フロントで宿代を支払って注文しておいた弁当を受け取り、外へ出るとさきほどより青空が広がっています。もう一度、さきほどの湿原に行きパノラマ写真を撮影。
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 時刻は午前七時すこし過ぎ、まずは東電小屋分岐をめざしましょう。東京電力が設置してくれている木道の一部が朽ちつつあるのが気になります。予算が不足しているため、人通りの少ない所の補修は後回しということでしょうか。分岐を右に曲がり、しばらく歩くと見晴に到着、東電小屋から一時間弱かかりました。
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 ここでトイレ休憩をとって尾瀬沼へと向かいます。すこし奥まったところにあった簡易トイレに入ったのですが、その汚さは筆舌に尽くし難いもの、写真に撮る勇気もわきませんでした。尾籠な話で恐縮ですが、凄まじいトイレを思い起こせば、大学生の時に奈良から柳生へ向かう途中にあった公衆トイレ、石垣島にあった天井一面に上腕部ほどのヤモリがへばりついていたトイレなどがありました。しかし上には上があるもので、最近読んだ『堕落論・日本文化私観』(坂口安吾 岩波文庫)に、かつて京都に恐るべきトイレがあったことが書かれていました。"嵐山劇場は常に客席の便所に小便が溢れ、臭気芬々たるものがあるのである。我々は用をたすに先立って、被害の最小の位置を選定するに一苦労しなければならない。小便の海を渉り歩いて小便壺まで辿りつかねばならないような時もあった" (p.117) まいった。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2013-10-14 08:17 | 関東 | Comments(0)

尾瀬編(6):赤田代(12.6)

 空を見上げると不気味な黒雲がわきでてきました、明日の天気が心配だなあ。竜宮十字路を過ぎると、ほとんど人を見かけなくなりました。静寂な雰囲気を楽しみながら、燧ヶ岳に向かって歩を進めると見晴に到着です。山ノ鼻から二時間ほどかかりました。
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 十字路のあたりには六軒の山小屋が並び、左に行けば赤田代、右に行けば富士見峠、直進すれば燧ヶ岳・尾瀬沼となります。時刻は午後三時ちょっと前、ここいらで一息つくことにしましょう。桧枝岐(ひのえまた)小屋に入って珈琲を所望すると、嬉しいことにドリップで入れてくれました。小屋の前にある木製ベンチに座り、湿原や山なみを眺めながら香り高い珈琲を堪能。ここから赤田代まで行き、今夜の塒、東電小屋に向かうとしましょう。
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 行き交う人もほとんどなく、暗雲たちこめる曇天の下、索漠とした雰囲気の中、歩を進めます。左には至仏山、そしてところどころに咲き誇る水芭蕉が旅愁をなぐさめてくれました。東電分岐を通り過ぎると、寄り添うように佇む二軒の山小屋が見えてきました。ここが赤田代、見晴から二十分ほどで到着です。
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 折り返して東電分岐に戻り、右へと進みます。只見川を渡ると、ほんの少しだけ新潟県となります。ちなみにこのあたりで標高は1400m。至仏山に向かって歩いていくと、木々の間に東電小屋が見えてきました。赤田代から約三十分かかりました。
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 預かってもらった荷物を受け取り、あたりを見回しましたが、原発事故に対する反省の弁はないようです。向かいにある別棟に入って相部屋の二段ベッドに荷物を置き、小屋の前のベンチに座り、眼前に広がる湿原と遥かかなたの至仏山にビールを献杯。
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 風呂に入って夕食となりましたが、献立は…いや言うまい、強力さんたちがえっさえっさと担いできてくれたことを想起しましょう。部屋に戻ってベッドに寝転び、『怒りの葡萄』を読んでいると、屋根を打つ雨の音が聞こえやがて激しくなってきました。明日の天気が心配です。予定では尾瀬沼を歩き、三平峠を越えて大清水で迎えのバスに乗るつもりですが、どうなることやら。
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 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2013-10-13 06:24 | 関東 | Comments(0)

尾瀬編(5):植物研究見本園(12.6)

 ヨッピ橋から十五分ほどで東電小屋に到着。無料休憩所やトイレもあるので、けっこう人だかりができていました。フロントで雨具や本などを預かってもらい幾許か身軽になって、山ノ鼻にある尾瀬植物研究見本園へと出発です。
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 なおこの東電小屋はすこし小高いところにあり、広い湿原や至仏山を一望することができます。人気の秘密はここかな。ところどころに水芭蕉とリュウキンカが咲き誇り、目を楽しませてくれます。じょじょに雲があらわれてきたのが気になりますが、美しい風景と清新な空気を楽しみながら歩いていると、塔のように積み重ねた荷物を背負った方が木道に坐って休息していました。いわゆる強力(ごうりき)でしょうか、自動車を使えない以上、山小屋が必要とする物資はこうして人間が運ばねばならないのですね。御苦労さまです。
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 ヨッピ橋を過ぎ牛首分岐へ向かう道のあたりは、さまざまな形・大きさの池塘があり、景観に変化を与えています。このあたりでパノラマ写真を撮影。
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 薄雲が空を覆って灰色となし、微風のため水面がやや波打ち、燧ヶ岳をクリアに映す光景が見られなかったのは残念。ゴミをひろう関係者の方とすれちがいましたが、こうした尽力によって尾瀬の自然が守られているのですね。牛首分岐から至仏山に向かって歩を進めると山ノ鼻に到着。東電小屋から二時間弱かかりました。
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 それでは尾瀬植物研究見本園を見学しましょう。尾瀬に咲く湿原植物を移植し、全長約2kmの木道がはりめぐらされたハイキングコースとなっています。ここを素通りして牛首・竜宮へと向かうハイカーがほとんどなので、混雑する時期の土・日でもゆっくりと花の群落地を歩くことができるそうです。なるほど芋を洗うような雑踏もなく、のんびりと心静かに湿原を散策することができました。水芭蕉の群生地も多く、ここはたしかに穴場でした。
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 それでは牛首分岐・竜宮十字路を経て見晴(みはらし)へと向かいましょう。時刻は午後一時、日帰りのハイカーが陸続と戻ってこられます。中には並行する木道を二本とも占有して歩いてくるグループもありました。狭い木道、脇にどいて待っていてあげても、お礼のひと言もない方々がいたのはいかがなものか、というよりも不愉快ですね。途中のベンチで一休みしていると、年配のパーティーがやってきてどかどかと坐り、糖尿病・子供の成績・年金の話に花を咲かせはじめました。目くじらをたてる気は毛頭ありませんが、雰囲気プチ壊し。
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 本日の七枚です。
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by sabasaba13 | 2013-10-12 07:48 | 関東 | Comments(0)

尾瀬編(4):竜宮十字路(12.6)

 大きな池塘の先で振り返ると、至仏山と木道を一列に歩くハイカーたちを見事に映していました。湿原に咲く一輪の清楚なピンクの花を撮影、いま調べたところ、イワカガミのようです。さて、ガイドブックに載っていた「尾瀬を代表するビューポイント」が近づいてきました。おっ左前方に、カメラを構えた人だかりができています、どうやらあそこのようですね。下ノ大堀の畔へと迂回する木道を進むと…素晴らしい。残雪をかぶる至仏山、それをほのかに映す清らかな下ノ大堀、一面に咲き誇る水芭蕉、もう言うことはなし。みなさんと共に写真を撮りまくりました。
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 そして再び本道へ、このあたりでは前方に燧ヶ岳を、後方に至仏山を手に取るように眺めることができます。体を180度回転させて、強引にパノラマ写真におさめました。
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 足元に咲く黄色い可憐な花は、リュウキンカでしょうか。そして竜宮十字路に到着、牛首分岐から一時間ほどかかりました。左へ向かうとヨッピ橋、右へ向かうと富士見峠、真っ直ぐ進めば見晴です。
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 近くにある竜宮小屋でトイレを拝借し、十字路にあるベンチで旅行者から配給された「尾瀬名物 舞茸おにぎり弁当」をいただくことにしましょう。こんな素敵な風景の中で食べると、なんてことはないおにぎりも王様のブランチと化します。足元には、タテヤマリンドウが侍女のように傅いていました。ここからヨッピ橋に向かい、東電小屋で荷物を預かってもらうことにしましょう。右手には林が見えてきますが、沼尻川に沿って生えている拠水林だそうです。やはり白樺というのは絵になる木ですね。
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 余計なことですが、白樺は燃えつきはいいがすぐに火勢が弱くなる"やくざな"木だと、『ロビンソンの末裔』(開高建 角川文庫)に書いてありました。(p.148) 一時間弱で三叉路に到着、右に曲がってヨッピ橋を渡り、東電小屋へと向かいます。燧ヶ岳に向かって気持よく歩いていると、木道の脇に鐘が吊るされていました。もしや…熊? 「ご通行の皆様へ 熊と出会わないために、人が通ることを知らせてあげましょう。(鐘を鳴らしてください)」と記してありました。
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 険呑険呑、実は私、熊は嫌いではないのですが、道でばったり出会うのは御免蒙りたいと常日頃思っております。さて、音を出せば熊は逃げてくれるのか、以前にも書いたのですが、熊は音に驚くというよりも、人の姿を見れば普通は逃げるほど臆病な生き物です。しかし人馴れした熊は、音も人間の気配も関係なし。よって人馴れした熊には出会わないことを祈るしかない、というのが現在の心境です。桑原桑原。なお『ロビンソンの末裔』(開高建 角川文庫)に、次のような叙述がありました。ほんとに怖いですね。
 ところが、畳屋は秋もおそくなってから山のなかで仲間といっしょにはたらいているとき、熊に出会った。仕事に夢中になっていたのでわからなかったのだが、仲間がとつぜん声をあげて走りだしたのでふりかえると、まっ黒のかたまりがもくもく肩をゆすって迫ってくる。なにもかも投げだして走ったところ、たそがれどきだったので方向を失い、崖ぎわの笹むらに追いつめられてしまった。ハッと思ったとたんに足がすべってたおれたが、二足か三足ぐらいおくれたところで熊は畳屋の仲間に追いつき、おそいかかった。畳屋は仲間がすさまじい悲鳴をあげるのを聞いたけれど、おそろしくて、ただもう草むらのなかでじっとしているよりほかなかった。熊は仲間をたおすと、やがてそれを食いだした。暗いのでよくわからないけれど、畳屋はつい鼻のさきで大きな舌の鳴るのとあえぐ息の音を聞き、バリバリッと骨の噛みくだかれるのを聞いた。ということでした。
 「…おやじのやつはな、それでわかったんだが、人間は腹から食いにかかるもんなんだ。やわらかくて、臓腑があるからだろうな。…焼夷弾でやられたり電車にひかれたりしたやつの体は見たことあるが、熊に食われたやつの体ってのはまた格別のおもむきだね。腹のなかが踏みちゃちゃくにされて泥だらけになっちまってね…」 (p.202~4)

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2013-10-11 06:21 | 関東 | Comments(0)