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京都錦秋編(15):霊山護国神社(12.12)

 そして霊山護国神社に着きました。1868年6月、維新を目前にして倒れた志士たちを祀るため、明治天皇の命によって創建された神社だそうです。祭神は"護国の英霊"約七万三千柱。なるほど境内のいたるところに、軍人や部隊の顕彰碑が櫛比しています。
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 今回のお目当ては、「パール博士顕彰碑」の見学です。「大東亜戦争」を記念してつくられたという「昭和の杜」に行くと、パール博士の肖像写真をとりまくような大きな石碑がありました。碑文を転記しましょう。
 当時カルカッタ大学の総長であったラダ・ビノード・パール博士は、1946年、東京に於いて開廷された「極東国際軍事裁判」にインド代表判事として着任致しました。既に世界的な国際法学者であったパール博士は、法の真理と、研鑽探求した歴史的事実に基づき、この裁判が法に違反するものであり、戦勝国の敗戦国に対する復讐劇に過ぎないと主張し、連合国側の判事でありながら、ただ一人、被告全員の無罪を判決されたのであります。
 今やこの判決は世界の国際法学会の輿論となり、独立したインドの対日外交の基本となっております。パール博士は、その後国連の国際法委員長を務めるなど活躍されましたが、日本にも度々来訪されて日本国民を激励されました。
 インド独立後十年を慶祝し、日印両国の友好発展を祈念する年にあたり、私共日本国民は有志相携え、茲に、パール博士の法の正義を守った勇気と、アジアを愛し、正しい世界の平和を希われた遺徳を顕彰し、生前愛された京都の聖地にこの碑を建立し、その芳徳を千古に伝えるものであります。

一九九七年十一月二十日
パール博士顕彰碑建立委員会
 そして極東国際軍事裁判におけるパール判事の勧告文の一節が刻まれています。
 時が熱狂と偏見をやわらげた暁には また理性が虚偽からその假面をはぎとった暁には その時こそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら 過去の賞罰の多くにそのところを変えることを要求するであろう
 注目すべきなのはこの碑文の揮毫、および建立委員会委員長が故瀬島龍三であることです。隠岐編で述べたことを再言します。ウィキペディアに準拠して彼の履歴を簡単に紹介しますと、瀬島龍三(1911- 2007)、大日本帝国陸軍の軍人、日本の実業家。陸軍士官学校第44期次席、陸軍大学校第51期首席。大本営作戦参謀などを歴任し、最終階級は陸軍中佐。戦後は伊藤忠商事会長。詳細については、『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか』(共同通信社社会部編 新潮文庫)を是非読んでいただきたいのですが、巻末の船戸与一氏の秀逸な解説をもとに彼という存在について紹介したいと思います。抜群の成績で陸軍士官学校・陸軍大学校を卒業して参謀本部に入り、作戦参謀としてマレー作戦、フィリピン作戦、ガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦、インパール作戦、台湾沖航空戦、捷一号作戦、菊水作戦、決号作戦、対ソ防衛戦を指導しました。言わば軍事テクノクラートとして軍の中枢に君臨し、事実上、大本営命令によって陸軍を動かした人物だったのですね。後輩参謀の田中耕二は「このころ対米戦のあらゆる情報が瀬島さんの元に集まっていた。瀬島さんが起案した作戦命令には、上司もうかつに手を入れられない雰囲気があった。僕らには彼の発言は天の声のように思えた」と証言しています(p.128)。また元参謀の山本筑郎が、瀬島に大本営命令の書き方を尋ねると「瀬島さんは『大本営命令は第一項に敵情を書かず、ずばり天皇の決心を書く。天皇は敵情などで決心を左右されないからだ』と言った。なるほど大本営参謀は作戦命令を起案することで天皇と同格になり、強大な権限を持つんだと納得したよ」と回想しています(p.129)。その後関東軍参謀として敗戦を迎え、シベリアに連行され、十一年間の抑留生活を送ります。帰国後、元陸軍中将・本郷義夫の紹介によって伊藤忠商事に入社、参謀時代の人脈をフルに活用して、インドネシア賠償ビジネス、日韓条約ビジネス、二次防バッジ・システム・ビジネスを成功させ、それにともない田中角栄や中曽根康弘といった大物政治家との繋がりを深めていきます。そして伊藤忠商事会長になりビジネスマンとしての階段を駆け昇るとともに、政界フィクサーとしても底知れない力を貯えていきます。1995年、軍事史学会の特別講師として招かれた彼は、自衛官の前で次のように語ります。「日本は、少なくとも対英米戦争は自存自衛のために立ちあがった。大東亜戦争を侵略戦争とする議論には絶対に同意できません」 享年九十五歳。
 船戸氏はこう述べておられます。「アジア諸国の二千万の死。日本人三百万の死。これについて瀬島龍三の真摯な発言は聞かれない。要するに、この膨大な死者については彼のこころに触れることがないのだろう。したがって責任の問題は脳裏に浮上して来ることもない。徹底したプラグマチストにとって数字はただの数字なのだ。それは次のステップのための予備知識に過ぎないだろう」(p.434) よって彼にとって、被告全員を無罪としたパール判事は、「アジア・太平洋戦争に関して日本に罪は無い」という持論を補強してくれた方として感謝すべき対象なのでしょう。そういえば、市ヶ谷の防衛省にある旧士官学校大講堂(東京裁判の法廷) を見学した時にも、パール判決書がガラスケース内に展示されていましたっけ。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2014-05-20 06:16 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(14):清水寺(12.12)

 それでは清水寺へと参りましょう。途中に「あぶない自転車のおにごっこ」という看板がありました。面白そうだけれど、傍迷惑ですね。あるお寺さんには「待ったなしやり直しなしに木の葉散る」という掲示。深いような浅いような。
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 五条坂をのぼりきったところにある駐車場に自転車を置き、清水寺本堂へ。舞台のあたりは立ち入り禁止でした。奥の院へ行こうとすると、お寺の方が、おみくじが結ばれている鉄の棒を引き抜き、ざざざっと大きな紙袋へ流し込みました。おみくじの運命や如何に、やはり焼却処分なのかな。
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恒例の絵馬ウォッチングをしていると、「(1)レチェルが勝つように(2)外人になれますように(3)色々と大成したい(4)那覇の町が平和になるように」「誠実な人間であれます様に」というものがありましたが、♪人生いろいろ♪ですね。
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 そして奥の院から、清水の舞台全景を撮影。申し遅れましたが、紅葉はほとんど散っておりました。音羽の滝を通って下へ降り舞台を見上げていると、「北天の雄 阿弖流為・母禮之碑」に気づきました。解説によると、石碑に刻まれているのは、現在の岩手県奥州市地域を本拠地とした蝦夷の首長・阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)の名前です。二人は平安朝廷の東北平定政策に対して勇敢に戦いましたが、郷土の犠牲に心を痛め、征夷大将軍・坂上田村麻呂の軍門に下りました。将軍は両雄の武勇、器量を惜しみ朝廷に助命嘆願しましたが、許されず処刑されてしまいました。田村麻呂が清水寺と所縁が深いということで、彼らの顕彰碑が建てられたのですね。地方を犠牲にして中央が富み栄えるという構図、日本の歴史を連綿と貫いているようです。なお弘前で「阿弖流為」という日本酒を呑んだことを思い出しました。
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 そして清水坂、三年坂、二年坂を歩いて八坂の塔へ。このあたりの落ち着いた雰囲気の景観はいつ来てもいいですね、心がほっとします。
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 それでは霊山護国神社へと向かいましょう。途中に「翠紅館(すいこうかん)跡」という解説板がありましたので、その一部を引用します。
 ここに幕末の頃、翠紅館と呼ばれていた屋敷があり、たびたび志士達の会合の場となっていた。(中略)
 文久三年(1863)正月二十七日には、土佐藩の武市半平太、長州藩の井上聞多、久坂玄瑞ら多数が集まり、ついで同年六月十七日にも、長州藩の桂小五郎、久留米藩の真木保臣(和泉守)らが集まった。この数年前から、攘夷運動は次第に高まり、反幕府の政治勢力となりつつあったが、これら各藩の志士代表者会議で、攘夷の具体的方法が検討され、世にこれを翠紅館会議という。同年八月十三日には、孝明天皇の大和行幸の詔書が出されて攘夷運動は頂点に達した。
 しかし八月十八日に政変が起こり、その結果攘夷派は失脚、代って公武合体派が主導権を握り、幕末の政局は混迷の度を増していった。
 なるほど、幕末の志士たちのたまり場だったのですね。現在は「京大和」という料亭になっています。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2014-05-19 06:34 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(13):大谷本廟(12.12)

 朝目覚めて天気予報を見ると今日の天気は曇り、雨の心配はないようですので諒としましょう。ホテルにある「美濃吉」で朝食をいただき、チェックアウト。
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 荷物をフロントで預かってもらい、自転車にまたがりました。現在の時刻は午前七時、これからがっしゅがっしゅと東山を走りまわる予定です。まずは私の大好きな養源院へ、いつ来ても観光客の"か"の字もなく、ゆったりと紅葉を楽しむことができます。散りはじめているとはいえ、参道を覆うモミジのトンネル、その脇にある古木の紅葉を満喫しました。
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 そして大谷本廟へ、円通橋のあたりのモミジがきれいに色づいていました。
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 なおこちらには「師弟愛の碑」があります。1934(昭和9)年、瞬間最大風速84.5m/sという日本気象観測史上最高記録を記録し、死者2702名、行方不明者334名をだした超大型の室戸台風が近畿地方を襲い、大阪府豊能郡豊津尋常高等小学校の校舎が倒壊しました。51人の生徒が死亡、二人の女性教師が殉職したのですが、その一人横山仁和子先生は自らの体の下に学童三人をかばって命を救いました。彼女が、西本願寺系の流れをくむ京都女子高等専門学校(現京都女子大学)の卒業生であった縁で、ここに慰霊碑が建てられたそうです。合掌。実は、この大きな被害には、人災と言うべき一面があります。室戸測候所ではこの途方もない台風の襲来を連絡しようとしますが、唯一の通信手段である郵便局の有線が停電で使用できませんでした。当時の日本は、軍事を優先していたために防災システムがお粗末だったのですね。このことを、寺田寅彦が瞋恚の炎を冷静な筆致でおさえて書いた随筆が「天災と国防」(寺田寅彦随筆集(5) 岩波文庫)です。
 戦争はぜひとも避けようと思えば人間の力で避けられなくはないであろうが、天災ばかりは科学の力でもその襲来を中止させるわけには行かない。その上に、いついかなる程度の地震暴風津波洪水が来るか今のところ容易に予知することができない。最後通牒も何もなしに突然襲来するのである。それだから国家を脅かす敵としてこれほど恐ろしい敵はないはずである。

 人類が進歩するに従って愛国心も大和魂もやはり進化すべきではないかと思う。砲煙弾雨の中に身を賭して敵の陣営に突撃するのもたしかに貴い日本魂であるが、○国や△国よりも強い天然の強敵に対して平生から国民一致協力して適当な科学的対策を講ずるのもまた現代にふさわしい大和魂の進化の一相として期待してしかるべきことではないかと思われる。天災の起こった時に始めて大急ぎでそうした愛国心を発揮するのも結構であるが、昆虫や鳥獣でない二十世紀の科学的文明国民の愛国心の発露にはもう少しちがった、もう少し合理的な様式があってしかるべきではないかと思う次第である。
 書評にも書きましたが、彼はおそらくこう言いたかったのではないでしょうか。「天災への対策を講ぜず、不合理な戦争を熱狂的に支持する日本国民は昆虫や鳥獣と同等の存在である。」 昆虫・鳥獣に失礼な言い方だという留保はつけますが… 当時の軍国主義的な風潮に対する、これほど合理的で痛烈な批判にはなかなかお目にかかれません。ふりかって現在のわれわれは「二十一世紀の科学的文明国民」に値するのでしょうか。昨今相次いだ天災による被害を見るにつけ、疑問に思います。天災に対する研究・対策・救援・補償にかける予算は、防衛費に較べて微々たるものなのが現状では。「国益」という言葉が氾濫して辟易しておりますが、この列島で暮らしている人々の生命・財産を守るのがその本来の意味であるべきです。という書評を掲載したのが2005年、すこしは先見の明があったかなと自負するとともに、東日本大震災の後もそれほど状況に変化がないのには落胆しています。金のかかる東京オリンピックを熱狂的に支持する方々に「金の使い道が違うでしょ」と半畳を入れたくなります。

 本日の二枚は、養源院と師弟愛の碑です。
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by sabasaba13 | 2014-05-18 07:41 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(12):妙心寺大法院(12.12)

 そして本日の打ち止めは妙心寺。途中にあった優美な透かしブロックを撮影し、十数分ほどペダルをこぐと到着です。数ある塔頭の中から、どこを選んで拝見しようかと境内をうろうろ、まずは大心院に入りましたが、紅葉はほとんどなし。
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 またうろうろしていると、大法院が特別公開されていました。こちらは訪れたことがないなあ、よし入ってみましょう。失礼ながらあまり期待もせずに拝観したのですが、これが大当たり。客殿をとりかこむ庭は、茶室「有隣軒」の露地庭となっています。草木が生い茂る侘びた雰囲気、美しい紅葉、よいアクセントとして景観をひきしめる茅葺の待合、蔀戸、石灯籠、蹲踞、飛石、延段。いやあ素晴らしい。寒さにがたがたと震えながらいただいた抹茶の味も忘れられません。なお茶室の名の"有隣"とは、『論語』の「徳不孤 必有隣」に拠るという解説がありました。「徳は孤ならず、必ず隣有り」か、いいお言葉ですね。さきほどの「吾唯足知」もそうですが、人間の英知は二千年以上も前に語り尽くされ、その後進歩していないのかもしれません。なおここ大法院を訪れたU2のボノの写真が飾ってありました。
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 さてそれではホテルへと戻りますか。途中で法輪寺の達磨堂と珍しい形の透かしブロックと京都警察本部を撮影。
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 時刻は午後五時を過ぎ、寒さもいっそう厳しくなってきました。ほとんど感覚がなくなりかじかんだ手でハンドルを握りしめながら、京都駅近くの「新福菜館」に到着。こてこてのラーメンとやきめしに舌鼓を打ち、跨線橋を越えてホテルへ。
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 本日の二枚は大法院です。
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by sabasaba13 | 2014-05-17 09:30 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(11):竜安寺(12.12)

 そしてきぬかけの道をひた走り竜安寺へ。石庭で有名なお寺さんですが、モミジの多さもなかなかのものです。山門で拝観料を支払い、まずは鏡容池(きょうようち)のほとりを散策。湖上へと大きく枝をはりだす紅葉を堪能しました。
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 庫裡へと続く石段の参道の両側には割り竹を菱形に張った竜安寺垣、そして頭上を覆う真っ赤に色づいた紅葉。ここは絵になります。
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 それでは方丈庭園(石庭)を拝見いたしましょう。さすがに観光名所、黒山の人でした。白砂の上に15個の石を5・2・3・2・3と配した枯山水庭園。4の5の言わず、その石の形と配置の美を純粋に楽しみましょう。額縁とも言うべき油土塀からは美しい紅葉が顔をのぞかせていました。そして裏にある蹲踞(つくばい)を撮影。「吾唯足知(われただたることをしる)」の四文字を図案化した蹲踞で、徳川光圀の寄進したものだそうです。ホームページによると、釈迦が説いた「知足のものは、貧しといえども富めり、不知足のものは、富めりといえども貧し」という教え、「知足」の心を表現したもの。「不知足」を駆動力とする経済成長を、真っ向幹竹割りにする痛快な四文字ですね。
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 それでは等持院へと参りましょう。竜安寺参道から狭い路地をくねくねとすこし走ると等持院に到着です。観光客の少ない閑静な雰囲気が好きなのですが、残念ながら紅葉は見頃を過ぎていました。足利尊氏のお墓を撮影して退出し、自転車で走りだすと墓地のところに「マキノ省三先生像」がありました。日本映画の父といわれる牧野省三が、ここ等持院境内に撮影所を建設し、京都の映画界の復興のため尽力したとのことです。
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 ふたたびきぬかけの道へ戻り、仁和寺へ。御殿や境内をひとまわりしたのですが、こちらも紅葉は散りかけておりました。なお靴箱のところに、履物を間違えないようにとの注意書きがありましたが、その下に「特に高級靴、ブーツのお客様はご注意下さい」と記された紙が貼ってあったのには苦笑。
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 本日の三枚は竜安寺です。
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by sabasaba13 | 2014-05-16 06:28 | 京都 | Comments(0)

言葉の花綵103

 われわれは一本の木につながる葉である。人類という木に。(パブロ・カザルス)

 われらに護ることの可能な智恵は、ただ謙譲の智恵だけだ。謙譲には終止がない。(T・S・エリオット)

 歩くことで解決される。(聖アウグスチヌス)

 私が恐れているのは世界の終末だ。もし我々がこの恐るべき兵器を始末しなければ、兵器の方が我々を始末するだろう。(バートランド・ラッセル)

 精神的貧しさに苦しみながらも自らを裕福だと考える社会は、究極の妄想に取り憑かれているのである。(E・F・シューマッハ―)

 生きとし生けるものは神聖である。(ウィリアム・ブレイク)

 ひとつぶの砂にも世界を
 いちりんの野の花にも天国を見
 きみのたなごころに無限を
 そしてひとときのうちに永遠をとらえる (ウィリアム・ブレイク)

 成功は、それを探し求めるには忙しすぎる人々の所へやって来る。(ソロー)

 私は人間と呼ばれる生物とだけではなく、すべての生物、地を這うような生物とさえ兄弟となりたい。なぜなら、私たちは皆同じ神の子孫なのだから。(ガンジー)

 自分たちの行為が七代先の人々にどう影響するだろう? (アメリカ先住民)

 ある問題の発生につながったのと同じ思考方法によって、その問題を解決することはできない。(アルバート・アインシュタイン)

 話をするのが不可能なことについては、人は沈黙しなければならない。(ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン)
by sabasaba13 | 2014-05-15 06:35 | 言葉の花綵 | Comments(0)

『ニコライの日記』

 『ニコライの日記 ロシア人宣教師が生きた明治日本(上・中・下)』(岩波文庫)読了。厠上(しじょう)本として読み終えました、イオアン・ディミトリビッチ・カサーツキンさん、御免なさい。ロシア正教の日本への伝道に障害を捧げたニコライの日記です。スーパーニッポニカ(小学館)より抜粋して引用します。
ニコライ (1836-1912) ロシア正教会の宣教師。日本ハリストス正教会の創始者。ペテルブルグ神学大学在学中にゴロウニンの『日本幽囚記』を読み日本への興味をもつ。1861年(文久1)箱館のロシア領事館付司祭として来日。日本語、日本文化を学び、いったん帰国。伝道会社を設立して71年(明治4)ふたたび来日。翌年東京に出て神学校設立、また東京復活大聖堂(ニコライ堂)の建立(1891)などによって伝道活動を行い、日本人による正教会の確立を目ざした。日露戦争(1903~04)の際にも日本にとどまった。1906年に大主教。12年2月16日東京駿河台の本会内の住まいで心臓病で死去。
 本書は、1870(明治3)年から、亡くなる直前の1911(明治44)年までの彼の日記がおさめられています。日本人信徒や関係者との軋轢やトラブル、資金不足、山積する仕事、そして病苦、立ち眩みをするような困難の中、日本人へのロシア正教伝道に尽力した彼の姿には感銘を覚えます。中でも、日露戦争という最悪の事態のなか日本に踏みとどまり、両国の架け橋になろうと苦慮するあたりの日記には思わずひきこまれました。編訳者の中村健之介が、「ロシアはむかしもいまも豊かな悪口雑言文化の国である。もちろんニコライもその中で育った」(上p.54 1871.3.4)と記されていましたが、時々彼が放つ罵詈にも思わず緩頬してしまいました。「この男の頭には、まるで脳味噌の代わりに水に浸したごみがつまっているかのようだ」(上p.54 1871.3.18)なんてね。
 そして歴史上の人物とのさまざまな出会いに関する挿話も興味深いものです。何人か列挙しましょうか。ドストエフスキー(上p.166 1880.6.1)、「五日市憲法草案」を起草した自由民権運動家・千葉卓三郎(上p.210 1881.5.27)、イコン画家の山下りん(上p.281 1884.10.1)、建築家・河村伊蔵(上p.418 1892.7.24)、ジョサイア・コンドル(中p.33 1892.10.27)、副島種臣(中p.162 1896.3.21)、ロシア公使・ローゼン(中p.227 1897.8.10)、三浦梧楼(中p.426 1901.7.17)、田中正造(下p.14~5 1902.1.17)、賀古鶴所(下p.104~5 1903.12.26)、エルウィン・ベルツ(下p.104~5 1903.12.26)などなど。
 同時代に起きた歴史的事件や社会的事件に対する目配りも随所に見られます。十津川の山津波(上p.331 1889.10.19)、日清戦争(中p.119 1894.9.19)、閔妃暗殺事件(中p.142 1895.10.10)、三陸の大津波(中p.171 1896.6.7)、田中正造の天皇への直訴(下p.14~5 1902.1.17)、八甲田山事件(下p.15 1902.1.18)、足尾鉱毒事件(下p.17 1902.1.29)、第一次ロシア革命(下p.223 1905.7.3)、韓国併合(下p.370 1910.8.9)、大逆事件(下p.387 1911.1.5)などなど。
 彼が日本への興味を抱くきっかけとなったのが、ゴロウニンの『日本幽囚記』だというのははじめて知りました。彼についてもスーパーニッポニカから引用しましょう。
ゴロウニン(1776-1831) ロシアの海軍軍人。1806年スループ艦ディアナ号の艦長に就任。翌年世界周航に上り、その途上、千島列島南西部を調査するため南下し、1811年(文化8)国後島で部下7人とともに同島警備の幕吏に捕縛された。フボストフとダビドフの来襲事件のあとだけに厳しい取調べを受け、松前奉行の監視下に松前で2年間にわたる拘禁生活を送り、13年高田屋嘉兵衛らと交換に釈放された。この間、間宮林蔵の天文・測量などの諮問に応じ、また、幕府天文方出役の足立左内、馬場佐十郎にロシア語を教授し、わが国ロシア語研究の進展に重要な役割を果たした。ゴロウニンの滞日中の生活は、その著『日本幽囚記』によって詳細に知ることができる。
 不学にしていまだ読んでいないのですが、渡辺京二氏の『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)や『黒船前夜 ロシア・アイヌ・日本の三国志』(洋泉社)のおかげで多少の知識はあります。ゴロウニンが深く感銘を受けたのは、当時の日本人の親切心や優しさだったのですね。渡辺氏は前書でこう述べられています。
 私にとって重要なのは在りし日のこの国の文明が、人間の生存をできうるかぎり気持のよいものにしようとする合意と、それにもとづく工夫によって成り立っていたという事実だ。ひと言でいって、それは情愛の深い社会であった。真率な感情を無邪気に、しかも礼節とデリカシーを保ちながら伝えあうことのできる社会だった。(p.183)
 ニコライもそうした人びとへの憧れを心に燃やして、日本にやってきたのでしょう。しかしその人びとや社会を含む文明を滅ぼさなければ近代はありえなかった。渡辺氏曰く、"日本近代が経験したドラマをどのように叙述するにせよ、それがひとつの文明の扼殺と葬送の上にしか始まらなかったドラマだということは銘記されるべきである"。ニコライも変貌していく日本人に幻滅や失望を感じていたでしょう、日記のはしばしにそれが感じられます。当時の日本人に対して、異文化の人・ニコライが感じた日本への幻滅と愛情、これも読みどころの一つです。

 もう贅言はやめましょう。私が面白いと思った既述を紹介して筆を置くことにします。
 いろいろな悲しみや不幸が来るものだとわたしは予期している。地獄の怪物どもめ、みんなそろってやってこい。やってきて、わたしを苦しめるがいい。勝負しようじゃないか。わたしに勝てるか。地獄よ、呪われよ、百度呪われよ。戦場へ出てこい。こちらは去年と同様、ことしも戦う覚悟はできているぞ。(上p.57 1872.1.1)

 たとえ八つ裂きにされるのであれ、ただ日本にキリスト教が根づきさえすればいい! (上p.93 1880.1.12)

 このところずっと、憂愁感が消えない。一人になるやいなや、生き生きとした仕事がないという感じに襲われて死にたいくらいだ。いろいろな教会を回ってぼろを集めて歩く、これが仕事と言えるか。あっちこっちを駆けずり回って、いつもほとんど戦果なし、これにはもううんざりしている。寄付集め、これは苦痛だ。それに、みんなほんとうに出したがらないのだ。(上p.97 1880.1.19)

 わたしはまるで打ち込まれた釘のように一つのことにすっかり没頭してしまい、それ以外は全然だめだ。狭くて小さいのだ。しかし、仕方がないではないか。そうでなかったら、水の中の石鹸のように溶けてなくなってしまう。(上p.107 1880.2.4)

 かれらは、はなはだ漠然としたものではあるが、宗教的欲求をもっている。しかし、同時に、ナショナルな嫉妬心から、すべての人の警戒心が高まっている。話が、何か、国民に直接関連するようなことにふれると、かれらはたちまち反発する。(上p.330 1889.10.16)

 ロシアだったら、こういう裕福な人物は自前で布教するだろうし、そればかりでなく他の者たちをも養うだろうに、日本では最良の人たちにおいてさえ、ある矯正不可能なエゴイズムがあって、それはハンマーをもってしても打ち砕くことはできない。(中p.19 1892.10.9)

 それで、いま日本人は自己満足の波の上を動きまわっている。その波は、清国人に対する勝利〔日清戦争。1894年8月開戦〕のおかげで(日本軍は三度の戦闘で勝利をおさめた)、ますます高まっている。日本人の自己称賛は果てしがない。
 いま新聞に出ている多くの記事は「日本人は道徳性において世界に冠たる国民である」という仮説を、二×二=四のように明瞭に論証しようとやっきになっているものだ(なぜなら、日本は「朝鮮に対する無償の愛」のゆえに清国と戦っている、という仮説なのだ)。そうした記事を集めたら、おもしろいコレクションができるだろう。(中p.119 1894.9.19)

 日本人は群れる傾向のつよい国民である。自分たちの群れのなかから立派な角を持つ者が先頭に立つと、みんなどっとその後についてゆく。(中p.153 1896.1.11)

 そういうわけで、ロシアがある面で「遅れている」のは、「遅れている」のではなく、「追いついていない」ということなのだ。それは〔若い〕ロシアと〔長い歴史をもつ〕日本の、国としての年齢を比較してみれば、当然のことだ。たとえば庶民の識字率などは、日本はヨーロッパのどの国と比べても上まわっているだろう。もう三五年もむかしになるが、函館で、本を背負って回る貸本屋が何人もいて、だれもがそれを利用しているのを知って、ほんとうにびっくりしたものだ。(中p.158 1896.2.11)

 河村(※九淵)はキリスト教徒ではあったかもしれないが、しかしそれ以上に、そこがいかにも日本流なのだが、超(ハイパー)愛国主義者だったのだ。ある日、かれは生徒たちを神道の神社へ連れていった。そしてそこで全員そろって神道の神に頭を垂れて礼拝を行なった。(中p.191 1896.11.29)

 ローゼン男爵〔ロシア公使。再任〕夫妻が見えた。夫人は気さくで、おしゃべり好き。
 男爵は一五年前に日本を去ったのだが、「あの頃と比べると日本人は大きく変わった」、「あの頃の日本人は笑顔だったし、愛想が良かった。いまは真剣な顔で、無愛想だ」という。(中p.227 1897.8.10)

 白河の伝教者イオアン小野〔帰一。旧姓山崎〕から手紙がきた。白河で仏教の祭りがあった。たくさんの偶像などを乗せて飾り立てた何台もの山車を、町中引き回すのである。われわれの信徒たちは、この騒ぎのための参加費を払うのを断わった。そのためにひどい仕返しをうけた。一人の信徒は、山車で家の半分を壊された。もう一人は家に無数の石を投げつけられた。三人目も家に石を投げられ、部屋に寝ていた赤ん坊が危うく殺されるところだった。四人目はさんざんになぐられた。五人目もなぐられて、殺されそうになった。この五人目の信徒をなぐって半殺しにした暴漢たちのうち、三人は警察につかまった。裁判にかけられるだろう。しかしどうやら警察は連中を大目に見ているようだ。
 イオアン小野は、白河の官憲がキリスト教徒に対するこの集団暴行(ポグロム)に真剣に対処しない場合は、東京で内務大臣に訴えてほしいと求めている。(中p.287 1898.9.7)

 将軍の統治が帝(ミカド)の統治に変わり、その変化のために日本社会に階級の崩壊と再編成の動きが起きた。それが続いていた間は、どう生きたらよいのかわからない人間がたくさんいた。伝教学校を満たしていたのは、そういう人たちだった。
 いまは、すべてが常態にもどった。階級は再び形成され、確定され、それぞれの階級が自分に合う考えの流れを開き、その流れに従っている。この実際的で唯物論的な国民のなかには、何をしてよいかわからないあぶれ者はいなくなった。理想主義者はいわずもがなだ。(中p.327 1899.6.23)

 神学校校長のイオアン瀬沼〔恪三郎〕が来て、生徒が三人退校しましたと報告した。どこか一般の学校へ入るつもりらしい。おそらくこれも、やがて教会より実入りのいい職にありつくためだろう。
 こういうことは、われわれのせいではない。だから、われわれは悲しむことはない。
 しかし、日本の現状は悲しむべき有様だ。実利優先主義は完全に日本を虜にした。日本は、上げ潮へ向かわない〔精神的に向上しないと〕、上辺だけは文明の皮をかぶっているが全体が畜生の群れと化すことになる。精神的に下落し、道徳的に弱体化し、感受性は鈍化してぐらつき、肉体的にも虚弱になっていくかもしれない。
 いや、たぶんそうはならないだろう。主は日本を眠りから覚まそうとしておられるのは、日本がそういう状態にならないようにするためだ。いま日本の国民は、自分のことを家畜の子であるかのように思い込んで、緑の谷間に頭を垂れてゆたかな牧草をむさぼっている。かれらはそれ以上のことは何も欲してはいない。しかし、少しずつ、もっと高貴な意欲が湧いてきて広がっていくだろう。日本国民の内にも人間としての品位が現れてくるだろう。(中p.400~1 1901.1.31)

 年齢も六〇を超え、数々の失敗や失望の体験で鍛えられてきたからよかったものの、そうでなかったら、絶望してしまいそうなことだ。(下p.40 1902.8.14)

 一人きりで友がいないこと、戦争、そして資金が底をついてきていることなどで、あまりにも苦しく、耐えがたいほどだ。ロシアから切り離され、日本からも締め出されて、苦しい。自然死がそこまで迫ってきているのなら、喜んで死んでしまいたいくらいだ。(下p.160 1904.5.23)

 しかし、これが日本のやり方だ。日本は法律と規則が支配している。日本はそれがゆえに強いのだ。それによっていまロシアを打ち負かしているとも言える。
 ロシアにあるのは法律ではなく、「裁量」だ。そしてそのために混乱と無秩序が生じている。法律は、「裁量」権を持っている者によっていつでも破られうるものであることは、だれもが知っている。だから、その権利を持っていない者たちは、法律を知ろうともしない。日本はそうではない。法律と規則を守ってさえいれば、「ご安心ください。だれもあなたの生活もあなたのやることも邪魔しません」だ。ところが、決められた規則をほんの少しでも破ると、すぐさま馘首だとくる。今度のアレキセイ神父もそれだ。
 疑いもなく、この点では、ロシアは日本を模範としなければならない。
 とはいうものの、次のことも言っておくべきだ。すなわち、もしロシアの「裁量」を―いまロシアに蔓延している、限度を知らない、めちゃくちゃな勝手極まる裁量ではなく、良識のある、事情をよく勘案する裁量であるが―それを取り入れることによって、日本の形骸化したやり方をいくらかでも活性化させるならば、日本は大いに得をするだろう、と。(下p.224~5 1905.7.19)

 弘前から捕虜のフリサンフ・ビーリチが来た。ビーリチはサハリンで小さな工場をやっていたが、戦争中は志願者で編成した民兵隊の隊長だった。かれは、日本人のぞっとするような残虐行為をいくつも語った。
 サハリンでは外国人記者がいなかったので、日本人は人道的な国民の姿を演じてみせる必要はなかった。それで日本人はありのままの本性を現した。たくさんのおとなしい住民が理由もなくひどく殴られ、女性は暴行された。男性と同じように斬り殺されたり銃殺されたりした女性やこどもたちもいた。囚人は「こいつらは何の役にも立たない」という理由で、集団で多くの者が銃殺された。精神病者たちも病院から引きずり出され、銃殺された。また、まるで家畜のようにデカストリへ連れていかれ、食べ物も与えられず、そこに放置された囚人集団もあった。(下p.242~3 1905.11.17)

 そのために、重い鉛のような無力感が、わたしのたましいを隙間なく包み込もうとする。自分で強がりを言ってもだめだ。両腕は力が入らず、下がっていく。仕事は止まる。心をこめて無理やり働こうとするが、無力感を克服できない。せめて単調で機械的な仕事をすることにしよう。(下p.252 1905.12.6)

 物質主義が日本をすっかり覆ってしまった。われわれの初期の伝教者や司祭たちは理想主義者の間から生まれたが、むかしのようなイデアリストは、いまではまったく見られなくなった。(下p.390 1911.1.27)

 夜中、二時半に喘息で目が覚めてしまい、その後、眠ることができなかった。起きて仕事をしていた。この病気があっても、慣れていけば、生きていくことはできる。神さま、もう少し翻訳するために、もう少しだけ生かしてください。(下p.409 1911.11.3)

by sabasaba13 | 2014-05-14 06:26 | | Comments(0)

ゆるキャラ

「鼎泰豐」(東京都池袋東武デパート)
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はなみちゃん(宮城県柴田町)
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えのん(神奈川県江ノ電)
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ニポネ(北海道網走市)
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こにゅうどうくん(三重県四日市市)
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しまばらん(長崎県島原市)
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角煮まんじゅうちゃん(長崎市)
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軍艦島のガンショーくん(長崎県端島)
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モノルン(東京モノレール)
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ながにゃん(長崎県長崎市)
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みなとミュージロー(山形県酒田)
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カムロちゃん(千葉県佐倉市)
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わ鐵のわっしー(わたらせ渓谷鐵道)
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ぐんまちゃん(群馬県)
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キノピー(桐生市)
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まろん・みやこ(京都府警察)
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京の蔵ちゃん(京都府藤森駅)
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餡焼焼(北海道小樽)
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ちんさ君(賃貸住宅サービス)
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アルクマ(長野県)
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やいちゃん(静岡県焼津市)
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おとのちゃま(静岡県沼津市)
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ころろん(静岡県沼津市)
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みしまるくん・みしまるこちゃん(静岡県三島市)
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のん太(広島県東広島市)
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ソラミィ(広島空港)
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やかっぴー(岡山県矢掛)
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くまなくたびにゃん(岡山県笠岡駅)
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ラマッチくん(岡山県笠岡市)
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カキオ(岡山空港)
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カキコ(岡山空港)
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スイトン(岡山空港)
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ムコナくん(JR水戸支社E657系)
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まっしー(宮城県松島温泉)
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いしぴょん(宮城県石巻市)
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ライ造くん(吉野作造記念館)
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むすび丸(宮城県)
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がくとくん・おんぷちゃん(福島県郡山市)
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そばっち・おもっち・とふっち・うにっち・こくっち(岩手県)
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こじゅうろうくん・ポチ武者こじゅーろう(宮城県白石市)
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ポテくまくん:秩父市
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利長くん:高岡市
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Bankenトミー:富山銀行
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湯巡権三:あわら温泉
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朝倉ゆめまる:福井市
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ちかもんくん:鯖江
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すぱクロくん:山代温泉
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さかもとしんくん:しん証券さかもと
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まち・ゆうき君:高知駅
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宇~太:宇都宮大学
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ミヤリー:宇都宮餃子
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ミーポくん:三重県警察
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とち介:栃木
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どこでもユキちゃん:北海道新幹線
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GO太くん:五稜郭タワー
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ほうらいクンとおとめチャン:仁淀川安居渓谷宝来荘
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ごうらん:箱根強羅
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あらん:嵐電
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こうやくん:高野山
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あべのべあ:ハルカス300
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はにぽん:埼玉県本庄
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えんむちゃん:埼玉県熊谷
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ひこにゃん:大津琵琶湖ホテル
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出汁之介:稚内空港
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えどまる:江戸東京たてもの園
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犬山わん丸君:愛知県犬山
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ちゃちゃも:三重県松阪
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シロモチくん:三重県津
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つつみん:三重県津
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うだつくん:美濃市
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キヨ子とキヨ美:名古屋駅
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ふくまるくん:大阪府池田市
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プルト君:東海村アトムワールド
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せんとくん:近鉄京都駅
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キヨ子:小田原駅
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登山鉄道(のぼりやまてつみち)君:上大平台信号所
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大津ひかる君:石山寺
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サケリン:村上駅
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エコロン:柏崎刈羽原子力発電所
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さくら姫:大平台駅
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末来くん:曼殊院
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すわひめ:野沢菜館
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by sabasaba13 | 2014-05-13 06:39 | 写真館 | Comments(0)

京都錦秋編(10):金閣寺(12.12)

 さて、小腹がへったのでそろそろ昼食をとりましょう。今出川通を西へと走っていると、「LIEBE(リーベ)」という、いかにも街場の喫茶店という佇まいのお店がありました。中に入ると、ご近所の片らしいご婦人連と店の方が、丁々発止、四方山話に花を咲かせていました。いいですね、こういう雰囲気は。利益を中央に吸い上げられるチェーン店は断固として拒否し、地元に貢献するこうした喫茶店を応援していく所存です。ハンバーグ&ピラフと珈琲をいただきながら、これからの行き先を確認。まずは紅葉の穴場、妙顕寺、そして北野天満宮、金閣寺、竜安寺、等持院、仁和寺、最後に妙心寺で〆、というルートで行きましょう。
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 まずは今出川通からすこし北にある妙顕寺へ、広々とした境内にはたくさんのモミジがありますが、残念ながら散りはじめていました。綺麗な散り紅葉を愛で、途中にあったタイガー・テープでぐるぐる巻きにされた「飛びだし小僧」を写真におさめました。
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 今出川通へ戻り、北野天満宮に到着。こちらには豊臣秀吉が京都の四囲に築造した御土居の一部が残り、もみじ苑として公開されています。入苑料を払って中へ入ると、紙屋川の両側を埋めつくすおよそ250本のモミジが色づいていました。しょうしょう見頃を過ぎていたとはいえ、京の錦秋を堪能。
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 西大路通を北上していると、塀ごしに見事に色づいたモミジがありました。門前で自転車を停めて確認すると、上品蓮台寺というお寺さんでした。もしやこれは、前人未到の穴場を発見したのでは、シュリーマンの気持ちを味わえるのでは、と期待に胸をふくらませて境内に入ると…きれいな紅葉はその一本だけでした。ちゃんちゃん。
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 気を取り直して金閣寺へ向かって西大路通を走ると、突然の驟雨にみまわれました。付近を見渡しても雨宿りができそうな喫茶店はありません。やむなくコンビニエンス・ストアに避難、珈琲を買って飲みながら雨がやむのを待つことにしました。幸いすぐにあがったので、サドルにまたがり金閣寺へと向かいました。さすがは金閣寺、修学旅行の学生や観光客で芋を洗うような大混雑です。期待していた紅葉はそれほど多くなくちょっとがっかりしましたが、文字通り鏡のような鏡湖池(きょうこち)に映る舎利殿は一幅の絵。なんだかんだいっても綺麗ですね。
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 本日の五枚は、妙顕寺(二枚)、北野天満宮もみじ苑(二枚)、金閣寺です。
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by sabasaba13 | 2014-05-12 06:29 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(9):同志社大学(12.12)

 なんて深く、強く、そして優しい詩なのでしょう。その詩人の魂に共鳴した茨木氏のオマージュも素晴らしいですね。彼を殺害し、その真相を究明せず、忘れ去ろうとしている日本という国のあり方にも鋭い批判を投じています。日本人の「人間の質」が問われている問題です。ただ救いとなるのは、この随筆が筑摩書房の「精選 現代文B」という高校の教科書に掲載されているということです。高校生たちがこの一文を読んでどのような感想を抱くのか、日韓・日朝関係の将来はそこにかかっていると思います。
 余談ですが、先日読み終えた厠上本、『ニコライの日記』(岩波文庫)の中に次のような一文がありました。
 実は日本人のほうが米国人(ヤンキー)よりも頭がよくまわり、ヤンキーよりも抜け目がないことがわかった。かれらはみごとにヤンキーをだました。京都の同志社の事件だ。
 アメリカの敬虔な組合教会(コングレゲーショナリスト)の信徒と民間人(金持ち)、そしてかれらの宣教団体は、おしむことなく何百万という金を出して、日本に広大な土地を買い、そこにキリスト教の大学、看護婦(nurses)養成所、病院など、立派なキリスト教の諸施設を造ることにした。学生と教師たちの集団のあらゆる要求を満たす、贅沢なアメリカン・スタイルの建物が次々と建てられていった。教授たちの住居用だけでも、九棟も建てられた。
 管理と教育にあたるのは、新島〔襄〕以外は、全員がアメリカ人の宣教師だった〔新島はこのペテン事件全体の首謀者なのだが〕。ところが、新しく教育を受けた日本人たちが徐々に加わるようになった。そしてついに、日本人が、いろいろと都合のいい口実を設けて、管理担当部門からアメリカ人を一人残らず追い出してしまったのだ。"Trustees of the Doshisha"〔[同志社]評議会〕は全員日本人になり、そのpresident〔社長〕も日本人のKozaki〔小崎弘道のこと〕になった(新島は三年ほど前に死んだ)。アメリカ人たちは教授ということになった。日本人は全権力を手に入れてしまった上で、仮面をぬいだ。
 しかし、かれらはちょっと早まったのではないか。アメリカの支援がなくなったら、日本人の同志社はやってゆけるだろうか。(中p.179~80 1896.7.26)
 へえー、同志社大学の裏面史にはこんな事があったんだ。新島たちの言い分もあるでしょうが、興味深いですね。なお次の厠上本、『三十三年の夢』(岩波文庫)には、宮崎滔天がキリスト教に入信し、小崎弘道に師事したという記述がありました。(p.54) 旅と本で、歴史のネットワークがどんどん広がっていくのを楽しみにしています。
by sabasaba13 | 2014-05-11 06:30 | 京都 | Comments(0)