<   2014年 05月 ( 27 )   > この月の画像一覧

京都錦秋編(8):尹東柱詩碑(12.12)

 なお同志社礼拝堂の東側の庭に、「尹東柱(ユン・ドンジュ)詩碑」があるという情報を得て探したのですが見つかりませんでした。工事による立ち入り禁止区域にあったのかなあ、これは是非再訪したいものです。なお私の大好きな詩人、茨木のり子氏に「空と風と星と詩」という素晴らしい随筆があるので、かなり長文ですが引用します。
 韓国で「好きな詩人は?」と尋ねると、「尹東柱」という答えが返ってくることが多い。

序詩

死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。

今宵も星が風に吹き晒らされる。(伊吹郷訳)

 二十代でなければ絶対に書けないその清冽な詩風は、若者をとらえるに十分な内容を持っている。長生きするほど恥多き人生となり、こんなふうにはとても書けなくなってくる。詩人には夭折の特権ともいうべきものがあって、若さや純潔をそのまま凍結してしまったような清らかさは、後世の読者をもひきつけずにはおかないし、ひらけば常に水仙のようないい匂いが薫り立つ。

 夭折と書いたが、尹東柱は事故や病気で逝ったのではない。一九四五年、敗戦の日をさかのぼることわずか半年前に、満二十七歳の若さで福岡刑務所で獄死した人である。最初は立教大学英文科に留学、やがて同志社大学英文科に移り、独立運動の嫌疑により下鴨警察につかまり、福岡へ送られる。そこで中身のよくわからない注射をくり返し打たれたという。亡くなるまぎわには、母国語で何事かを大きく叫んで息絶えたそうだが、その言葉が何であったか、日本の看守にはわからなかった。だが、「東柱さんは、何の意味かわからぬが、大声で叫び絶命しました。」という証言は残った。

 痛恨の思いなくしてこの詩人に触れることはできない。いずれは日本人の手によって、その全貌が明らかにされなければならない人だったし、その存在を知ってから私も少しずつ尹東柱の詩を訳しはじめていたのだが、彼が逝ってから三十九年目にあたる一九八四年に、伊吹郷氏によって、全詩集『空と風と星と詩』の完訳が成った。私の気勢はそがれたが、伊吹郷氏のみごとな訳と研究には完全に脱帽で、可憐な童謡にいたるまで日本語で読めるようになったのは、なんともうれしいことだった。

 原詩を知る者にとっては、なみなみならぬ労作であることがわかるが、そればかりではなく、尹東柱の背景を知るために徹底的に足で歩いて調べあげた情熱にも打たれる。留学先の東京、京都、福岡刑務所とその足跡をたどり、八十代の元特高刑事とも会い、あたうかぎりの努力をして、ついに獄死の真相を突きとめられないことを記している。残念ではあるが、その実証精神にはむしろ信頼がおける。動かぬ証拠で、いずれの日にかは明瞭になってほしいところである。
 伊吹郷氏にお目にかかった折、調査の過程での日本検察関係の壁の厚さというものをつぶさに聞くことができた。四十年前のことである。なぜそんなに秘密主義、隠蔽主義なのだろうか。日本人であれ韓国人であれ真摯な研究者に対しては、もっと資料を公開すべきではないか。

 そしてまた、尹東柱のかつての下宿先やゆかりの地など訪ねて証言を求めようとしても、だれ一人彼を覚えている日本人もいなかったという。写真を見ると、実に清潔な美青年であり、けっして淡い印象ではない。ありふれてもいない。実のところ私が尹東柱の詩を読みはじめたきっかけは彼の写真であった。こんなりりしい青年がどんな詩を書いているのだろうという興味、いわばまことに不純な動機だった。大学生らしい知的な雰囲気、それこそ汚れ一点だにとどめていない若い顔、私が子供のころ仰ぎみた大学生とはこういう人々が多かったなあというあるなつかしみの感情。印象はきわめて鮮烈である。それなのに日本人のだれの記憶にもとどまっていなかった。英文学演習八十五点、東洋哲学史八十点とその成績も優秀なのに、教授の印象にもとどまらなかったのだろうか。魯迅における藤野先生のような存在も一人だになかったのだ。尹東柱の深い孤独をおもわざるを得ない。

たやすく書かれた詩

窓辺に夜の雨がささやき
六畳部屋は他人の国、

詩人とは悲しい天命と知りつつも
一行の詩を書きとめてみるか、

汗の匂いと愛の香りふくよかに漂う
送られてきた学費封筒を受けとり

大学ノートを小脇に
老教授の講義を聴きに行く。

かえりみれば 幼友達を
ひとり、ふたり、とみな失い

わたしはなにを願い
ただひとり思いしずむのか?

人生は生きがたいものなのに
詩がこう たやすく書けるのは
恥ずかしいことだ。

六畳部屋は他人の国
窓辺に夜の雨がささやいているが、
灯火をつけて 暗闇をすこし追いやり、
時代のように 訪れる朝を待つ最後のわたし、

わたしはわたしに小さな手をさしのべ
涙と慰めで握る最初の握手。

 尹東柱が抵抗詩人か否か、韓国でもいろいろ論議されているが、朝鮮語弾圧の当時、敢然とハングルで書いたこれらの詩は、手紙と一緒に送られた友人が、甕に入れ地下深く隠して保存したため残ったという。それらを全部集めても百余編、日本の官憲に押収された詩は、あと行方知れず。そのころ、ハングルで詩を書くことじたいが大変な抵抗であったと言える。あと半年生きのびたら、戦後の故国で第一線の活動をすぐさま開始できた人だったろう。生前は一冊の詩集もなく、無名の青年だった。

 一九八四年秋、日本で尹東柱の実弟、尹一柱氏にお目にかかることができた。一柱さんは建築学者で、成均館大学教授でもあるのだが、たまたま東大生産技術研究所の客員教授として来日されていた。尹東柱の詩に「弟の印象画」というのがあり、彼の詩の中でもっとも好きな一編であったから、その弟さんに実際お会いできたことに感慨ひとしおであった。

弟の印象画

あかい額に冷たい月光がにじみ
弟の顔は悲しい絵だ。

歩みをとめて
そっと小さな手を握り
「大きくなったらなんになる」
「人になるの」
弟の哀しい、まことに哀しい答えだ。

握った手を静かに放し
弟の顔をまた覗いて見る。

冷たい月光があかい額に射して
弟の顔は哀しい絵だ。

 十歳違いの幼い弟の、手の感触まで伝わってくるようだ。「人になるの」は「人間になるの」とも訳せるが、いずれにしても兄貴の意表をついた答えで、それが一編の詩を成立せしめたといえる。犬も犬たらんとし、猫も猫たらんとするのだろうか? 人は生まれた時は動物にすぎないが、長い間かかっておそらくは死ぬ寸前まで人間たらんとする志向を持続するふしぎないきものだ。尹東柱もそういう志向の強い人だったからこそ、幼い弟の「人になるの」という返事に打たれ、反応したのだろう。しかも、この弟が成長するころ、今のままの母国では正当な人間にもなれないのではないか、という暗澹たる思いが、「弟の顔は哀しい絵だ」という行になって噴き出しているような気がする。
 幼いころのあどけない予言のごとく、弟の一柱さんは、今、五十八歳ぐらいか、まさしくりっぱな「人になって」その時の兄との問答は、かすかにかすかに覚えていると言われる。篤実で陰翳深いお人柄、そこはかとない茶目っ気もあり、「私はなんだか兄の後始末をするために生まれてきたようで…。」 ほほえみながら言われたが、確かに散逸したまま残された詩稿を、今日見るように整然と跡づけ、詩集としてまとめられたのも弟さんだし、延世大学にある尹東柱詩碑の設計をされたのも一柱さんである。専門の仕事を進めるかたわら、どれだけ多くの時間と労力を兄上のために使われたことか。
 その時、夫人とお嬢さんも御一緒だったが、「この子は伯父(尹東柱)を大変誇りに思っております。」と夫人は言われ、その大学生のお嬢さんは、はにかみながら澄んだ声で「星をかぞえる夜」一編を朗読してくださった。一柱さんは淡々と言われた。「このごろ、父のことをよく思うのですよ、どんな思いで兄の骨を抱いて、福岡から釜山、それから汽車にゆられて北間島(旧満州)の家まで戻っていったのかと…。」 朝鮮半島の端から端までの長い道のり、当時はいったいどれぐらいの時間がかかったものだろう。遺骨を抱いて、忿懣やるかたない父君(死亡)の、当時の心情をおもいやる息子の言葉は、どんな烈しい弾劾よりも、ぐさりとこちらの胸を刺した。尋常ではない息子の死は、親にとっては、はっきりと虐殺と受けとめられていたはずである。なんでもない世間ばなしのように言われた一柱さんの言葉が、こんなにも強くまっすぐにこちらの心に届くとは…。伝達のメカニズムということにも思いを至さないわけにはいかなかった。

 数年前、私は船で下関から釜山まで、玄海灘を渡ったことがある。夕方出航し、だんだんに九州も遠ざかり、海のいろも藍壺のように濃くなり、六千トンの船も一枚の木の葉のようにたよりなく、よるべなく、大きなうねりに身を任せていた。荒れると聞いていた玄海灘も、その日はおだやかで、刻々変わる海のいろ、夕日、漆黒の闇、またたきはじめ、やがて満天にきらめき出す初秋の星座、島の灯かと見まがういかつり船、それらに目を凝らしつつ私は深夜まで甲板を離れることができなかった。晴夜であったにもかかわらず、私のまわりを濃霧のようなものが取りかこんでいた。空気が濃密と言ったほうが当たっていただろうか。なんともいえない哀しみの気。ぞっとするようなものではなく、さりとてさわやかでもない霊気。あえて言えば歴史の悲愁とでも名づけたいような何か。古代からもっとも早くひらけた海の道、数知れぬひとびとの往還、あまたの思い、波の上にも波の下にも濃く漂う目には見えない何か。ふだんけっして霊感の強いほうではないので、この時の異様な感覚はあとあとまで残った。今にして思えば尹東柱のおもいも、遺骨を抱いて帰った父君のおもいもあのなかに混じっていたのだ。あとで知ったことだが、骨壺に入りきらなかった尹東柱の骨灰を、父君は玄海灘にまきちらしたという。

 弟の一柱さんと話していると、そのお人柄にどんどんひきつけられていった。私の脳裡に「人間の質」という言葉がゆらめき出て、ぴたりと止まった。あまり意識してこなかったけれど、思えば若いころからずっと「人間の質とは何か? どのように決定されるのか?」ということを折々にずいぶん長く考えつづけてきた、見つづけてきた、という覚醒が不意にきた。ふしぎな体験だった。それも尹一柱さんというすばらしい「人間の質」に触れ得て、照らしだされてきたことで、いきおい兄である尹東柱もまた、こういう人ではなかったか? と想像された。もの静かで、あたたかく、底知れぬ深さを感じさせる人格。だが三年間近くの日本留学生時代、伊吹郷氏の丹念な調査にもかかわらず、だれ一人、彼を記憶していないということは…なんとも言えない情けなさである。
 ともあれ尹東柱・一柱兄弟に出会えたことは、最近の私の大きな喜びである。

by sabasaba13 | 2014-05-10 08:04 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(7):同志社大学(12.12)

 飛び出し小僧を写真に撮り、丸太町通から御所東側の路地を行き新島襄旧宅の外観を撮影。
c0051620_6252941.jpg

 そして梨木神社に着きました。尊王攘夷派の公家、三条実万(さねつむ)と実美を祀った神社ですが、紅葉の穴場だそうです。なるほど、参道や本殿付近にきれいに色づいたカエデやイチョウが散見され、こちらも観光客の姿が見えないので、ゆったりと鑑賞することができました。
c0051620_6255069.jpg

 道をはさんだ向かいにあるのが廬山寺(ろざんじ)、紫式部の邸宅跡と言われます。こちらについての紅葉穴場情報はなかったのですが、ま、「犬も歩けば棒に当たる」、ためしに入ってみました。ここは紫式部の邸宅跡だそうで、源氏庭という白砂と苔のお庭には、それはそれは見事に色づいた一本のカエデがありました。なお、彼女はここで源氏物語を執筆したそうですが、あれ? 石山寺でもそんな話を聞きましたが… 執筆場所についてははっきりとはわかっていない、ということでしょうか。あるいは数カ所で書かれたのか。それはともかく、人口に膾炙するこの大作、汗顔の至りですが読んだことがありません。退職後の楽しみの一つにしておきましょう。
c0051620_6261352.jpg

 次に向かうは京都御所の北側にある同志社大学今出川キャンパス、赤レンガの古い学舎群を見学させていただきましょう。創立者の新島襄は、幕末の1864(元治元)年、激動する日本の将来を憂い、国禁を犯して脱国し、約10年間にわたってアメリカ、ヨーロッパで学び、キリスト教の洗礼を受けて帰国しました。そして、1875(明治8)年、この地に同志社大学の前身となる同志社英学校を設立。キリスト教プロテスタント系の会衆派教会(組合教会)の流れをくみますが、いわゆるミッションスクールとは性質が異なり、キリスト教伝道を主たる目的とはしません。キリスト教主義・自由主義・国際主義を通じて「一国の良心」たる人物を世に送り出すのが建学の精神だそうです。彼の言です。
 我が校の門をくぐりたるものは、政治家になるもよし、宗教家になるもよし、実業家になるもよし、教育家になるもよし、文学家になるもよし、且つ少々角あるも可、気骨あるも可。ただかの優柔不断にして安逸を貪り、苟も姑息の計を為すが如き軟骨漢には決してならぬこと、これ予の切に望み、ひとえに希うところである。
 まずは1887(明治20)年竣工の有終館、初代図書館として建てられた煉瓦造の建物です。屹立する塔屋が印象的なクラーク記念館は1893(明治26)年に竣工、B.W.クラーク夫妻が逝去されたご子息の記念として寄せた寄付によって建てられた神学館です。設計は、「官庁集中計画」のためにお雇い建築士として招聘されたドイツ人のR.ゼール。こうした重厚な意匠を、ドイツ・ネオ・ゴチックというそうです。その先にある礼拝堂はD.C.グリーンによる設計で、1886(明治19)年竣工。解説板によると、徳冨蘆花が同志社時代を題材にした小説『黒い眼と茶色の目』の中で「五色の光線」が降ると形容したステンドグラスがあるそうですが、残念ながら中には入れませんでした。そうか、蘆花は同志社英学校で学んだんだ。
c0051620_6264055.jpg


 本日の三枚は、梨木神社とクラーク記念館です。
c0051620_627356.jpg

c0051620_6272684.jpg

c0051620_6274493.jpg

by sabasaba13 | 2014-05-09 06:28 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(6):渉成園(12.12)

 朝目覚めて天気情報を見ると、午前中はおおむね晴れ、午後にかけて曇り時々雨ということです。うむむ、"天下無双の晴れ男"という看板を下ろさねばならぬか。最上階のレストランで朝食をいただき、窓から京都の町を撮影。それでは駅の北側にある京都サイクリングツアープロジェクト(KCTP)まで歩いていき、自転車を借り受けましょう。京都駅構内は、観光客で大混雑。朝一番の紅葉は、やはり心静かに眺めたいものです。というわけで、穴場of the 穴場、渉成園をまず訪れることにしました。燃えるように黄色く色づいた東本願寺のイチョウを横目に路地へと入り、すこし走ると渉成園に到着です。
c0051620_6262749.jpg

 池泉回遊式庭園をもつ東本願寺の飛地境内地(別邸)で、1641(寛永18)年に三代将軍・徳川家光から当地約一万坪が寄進され、石川丈山の趣向を入れた作庭がなされました。二度にわたる火災のために園内の諸殿は焼失。現在の建物は明治初期から末年ごろに至る間に順次再建されたものだそうです。それでは中に入りましょう。見頃をやや過ぎたとはいえ、端正な趣のお庭にはきれいな紅葉が散見されます。なによりも嬉しいのは、その森閑とした雰囲気です。参拝客はほんの数名、さきほどの京都駅の雑踏が別世界のようです。困った時の渉成園、何はなくとも渉成園、当たり前田の渉成園ですね。ユニークな意匠をした楼門造りの傍花閣(ぼうかかく)のあたりや印月池(いんげつち)のほとりをそぞろ歩き、写真を撮りまくりました。
c0051620_62651100.jpg

 これから京都御所の東にある梨木神社へと向かいます。自転車にまたがり、近くのお宅でフェイス・ハンティング。東洞院通をひたすら北上し四条通を渡ったところで、いかつい感じの洋館、辻医院を発見。
c0051620_6271386.jpg

 さらに北へ走ると三条通沿いに中京(なかぎょう)郵便局がありました。1902(明治35)年に建設されたネオルネサンス様式で、赤レンガ造りの美しい外観が特徴です。一時は局舎の取壊しが決定されましたが、反対運動などもあり、外壁を残したままで内部のみを新築する建築手法(ファサード保存)を用いて改築されました。最近よく見かけるこの手法の、日本における最初の実施例だそうです。その先にあるのが、仏教関係の学術書を扱う老舗出版社、平楽寺書店。1927(昭和2)年に建築されたそうですが、2階と3階を貫くトスカナ式のジャイアントオーダー(数階の高さに渡る柱)や、可愛いバルコニーには驚きます。なぜ本屋さんがこのような意匠にしたのでしょう???
c0051620_6273411.jpg


 本日の二枚です。
c0051620_6275811.jpg

c0051620_6281719.jpg

by sabasaba13 | 2014-05-08 06:29 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(5):京都(12.12)

 そして新幹線のぞみに乗り込み、一路京都をめざします。車窓から眺める富士は、薄雲の中ぼんやりと浮かび上がっていました。天気情報によると、今回の旅行はあまり好天には恵まれないようです。午後五時ごろ、京都駅に到着。一人旅ということで快適さよりも利便性を選択し、常宿の琵琶湖ホテルではなく、八条東口のすぐ目の前にあるホテル京阪京都に泊まることにしました。チェックインをして部屋に荷物を置き、京都駅地下ポルタにあるカフェグリル「東洋亭」で夕食、とろとろ卵にデミグラスソースがかかったオムライス、美味しうございました。
c0051620_625348.jpg

 地上に出ると、極彩色に光るイルミネーションの前に黒山の人だかり。この手の光りものを好む人ってけっこう多いのですね。寝酒とつまみを購入してホテルに戻ると、フロントのところに「京阪沿線紅葉だより」が掲示してありました。うーむ、貴船神社・鞍馬寺・もみじのトンネル(叡山電鉄)は落葉、延暦寺・三千院・実相院・圓光寺・真如堂・毘沙門堂・日吉大社・南禅寺・東福寺・清水寺・泉涌寺・善法律寺・三室戸寺・石山寺が見頃過ぎかあ。どうやら今年の錦秋は早かったようです。
c0051620_6255643.jpg

 部屋に戻ってシャワーを浴び、ちびちびと日本酒を呑みながらテレビをつけると、松任谷由美デビュー40周年の記念番組が放映されていました。ま、わりと彼女の曲は好きなので、しばらく拝見することにしました。「ひこうき雲」など往年の名曲や、プロコル・ハルムとの共演による「青い影」を堪能。荒井由美時代のバッキングをした名バンド、キャラメル・ママのメンバー、細野晴臣、松任谷正隆、林立夫、鈴木茂との対談も楽しめました。ちなみにこの一風変わった名前は、当時学生運動に参加している最中の息子にキャラメルを差し入れた母親がいた、という時事的なフレーズを細野が引用し、命名したそうです。また、数々の傑作アルバム・ジャケットを製作してきたヒプノシスというデザイナー集団のことを知ったのも収穫でした。ピンク・フロイドの「原子心母」「狂気」「おせっかい」「アニマルズ」、レッド・ツェッペリンの「聖なる館」、私の大好きな「ビコ」が収録されている「ピーター・ガブリエルⅢ」のジャケットも、彼らのデザインだったんだ、知らなんだ。松任谷由美のアルバムでは、「昨晩お会いしましょう」「VOYAGER」を手掛けているとのことです。こうしてみると、約30cm四方のレコードのはジャケットは、デザイナーにとって格好のキャンバスだったのですね。CDだと小さすぎて、思う存分に腕をふるえないでしょう。ちなみに私の一番好きなジャケットは、マイルス・デイヴィスの「クッキン」です。
c0051620_6261986.jpg

 ほろ酔いになってきたので、そろそろ床につきましょう。明日は自転車で洛西あたりを徘徊する予定です。

 本日の一枚です。
c0051620_6264032.jpg

by sabasaba13 | 2014-05-07 06:27 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(4):東京駅(12.12)

 新幹線乗り場の手前には、浜口雄幸首相が撃たれた現場を示すプレートと解説があります。
浜口首相遭難現場

昭和5年11月14日午前8時58分、内閣総理大臣浜口雄幸は、岡山県下の陸軍特別大演習参観のため、午前9時発の特急「つばめ」号の1等車に向ってプラットホームを歩いていた。このとき、一発の銃声がおこり浜口首相は腹部をおさえてうずくまった。かけつけた医師の手によって応急手当が加えられ、東京帝国大学医学部附属病院で手術を受け、一時は快方に向ったが翌昭和6年8月26日死去した。犯人は、立憲民政党の浜口内閣が、ロンドン条約批准問題などで軍部の圧力に抵抗したことに不満を抱き、犯行におよんだものといわれている。
 前述のように、犯人の佐郷屋留雄は殺人未遂罪により死刑判決を受け、1934年恩赦で無期懲役に減刑され、1940年に仮出所しました。浜口雄幸についても、協調外交と軍縮を推し進めた気骨のある政党人という山川出版社的イメージを持っていました。しかしそれが平板な理解であることを思い知らせてくれたのが、『国の死に方』(片山杜秀 新潮新書500)です。政府の心胆を寒からしめた米騒動(1918)の後、二度とこうした全国的暴動が起こらぬよう、どうやって米穀を確保するかが大きな課題となりました。もう一つの課題が朝鮮の反日運動を抑えること。そこで政府が目をつけたのが、朝鮮における米の増産です。政府が大規模に投資を行なって朝鮮米を増産し日本に移入すれば、二度と米騒動は起きない。また朝鮮農民の増収にもつながり、懐柔することができる。日本の農村は大きな打撃を受けるが、その労働力をいよいよ本格化してきた重化学工業にふりむければよい。農業は植民地に分担させ、内地では重化学工業を振興する、こうして産業構造の転換が完成する。というわけで、ここに内地の農業に犠牲を強いても、植民地の農業の振興を優先する国策が遂行されることになりました。1920年からの、いわゆる「朝鮮産米増殖十五か年計画」です。それを援護し、特に東北の農民を追い詰めていくひとつの契機を作ったのが、のちにテロで倒される政党政治家たち、浜口雄幸や井上準之助だったのですね。そういえば、金本位制への復帰(金輸出解禁)も円高ドル安の旧平価で行ない、意図的に円高不況をひきおこして不良企業をつぶし、経済のスリム化を推し進めたのもこの二人でした。経済成長のためには、民衆の一部が犠牲になるのはやむをえないとする考えが、近現代日本の官僚や政治家の言動を支える通奏低音であったようです。
 歴史学者のマルク・ブロックが『歴史のための弁明』の中でこう言ったそうです。
 ロベスピエールを称える人も、憎む人も後生だからお願いだ。ロベスピエールとは何者であったのか、それだけを言ってくれたまえ。
 好悪でも毀誉褒貶でもなく、ただその人物が何をしたのか、何者であったのかを冷徹に見つめること、銘肝しましょう。

 本日の一枚です。
c0051620_6294229.jpg

by sabasaba13 | 2014-05-06 06:30 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(3):東京駅(12.12)

 丸の内南口から外へ出ると、旧東京中央郵便局の局舎の一部を再生・保存したJPタワーが屹立していました。そして駅正面へと行き、復元工事が終わった東京駅の全景を撮影。ここまで来るとついつい日本工業倶楽部に足が向いてしまいます。正面の最上部に据え付けられた鉱夫と工女像を撮影し、日本の近代化を支えた/支えさせられた彼ら/彼女らの心血に想いを馳せました。
c0051620_6272489.jpg

 なおウィキペディアによると、日本工業倶楽部は、当時の有力実業家により「工業家が力を合わせて、わが国の工業を発展させる」ことを目的として1917(大正6)年に創立された法人で、戦後は経済の復興発展の礎のような役割を担い、経済団体連合会(経団連)、日本経営者団体連盟(日経連)をはじめとした経済団体の設立と育成に協力しました。現在は財界人の交流の場として公益法人としての役割を果たしているそうです。ま、原敬の政治的立場と一脈つながる有力者諸氏の団体なのですね。インターネットで調べてみると、第8代理事長が植村甲午郎、軍部と商工省との重要な連携の確立に助力した著名な革新官僚です。(「日本/権力構造の謎」 カレル・ヴァン・ウォルフレン ハヤカワ文庫p.232) そして第11代理事長が平岩外四、明石昇二郎氏が「原発の闇を暴く」(集英社新書0602B)の中で、"東電を主体とした原子力マフィアの強固な地盤をつくったのは、東電の六代目社長だった平岩外四ですよね。それこそ原子力マフィアのボス的存在だったのでしょう?"と評された御仁ですね(p.101)。経済発展のためなら、戦争も原発も辞さない財界人の梁山泊といったところですか。近々、経済発展の人柱にされた方々を顕彰するため、鉱夫・女工像のとなりに福島県民と沖縄県民の像をたてる計画はあるのでしょうか。
 丸の内北口に入り、見事な意匠のドームを撮影、それではそろそろ新幹線乗り場へと参りましょう。東京駅をかたどったご当地ポストがあったのでカメラにおさめました。
c0051620_6274416.jpg


 本日の三枚です。
c0051620_628385.jpg

c0051620_6282218.jpg

c0051620_62909.jpg

by sabasaba13 | 2014-05-02 06:29 | 京都 | Comments(0)

京都錦秋編(2):東京駅(12.12)

 それはさておき、原敬と聞くと、山県有朋を中心とする官僚勢力に立ち向かい、政党政治の確立に尽力した「大正デモクラシー」を代表する政党人という山川出版社的イメージをかつてはもっていました。南樺太の長官について、陸軍をおしきり、武官にかぎらない旨の制度化をおこなったことなどですね。しかしいろいろな本を読むにつれて一筋縄ではいかない政治家だということがわかってきました。坂野潤治氏は、「日本近代史」(ちくま新書948)の中で、"「大正デモクラシー」の内容を普通選挙制と二大政党制と定義すれば、原敬はこのどちらにも反対した"と指摘されています。よって吉野作造は彼を嫌い、「政治を哲学と科学から離し、まったく行き当りバッタリで行くべき筈のものとする、他に類型のない、世界無比の畸型的政治家」とまで酷評しています。
 さらに彼は陸奥宗光の書記官をしており、陸奥の次男・潤吉が古河市兵衛の養子となって古河鉱業の社長をついだとき、副社長として彼を補佐しました。そのためでしょう、内務大臣となった原敬は、足尾銅山の鉱毒を沈澱させるとともに洪水を防ぐため、谷中村を廃村にし、渡良瀬川遊水池とする計画を推し進めました。1907(明治40)年、土地収用法を適用して住宅を破壊し、田中正造と谷中村村民を強制退去させました。
 また原内閣は、社会主義的思想の広まりを、民衆の抑圧された社会的・政治的生活の解放要求の反映と捉えるのではなく、外部から流入し、下層の民衆を上から扇動するものと考えました。したがって、知識人に対する思想弾圧が政策の機軸となります。1920(大正11)年、「クロポトキンの社会思想の研究」が無政府共産主義を宣伝したとの理由で、東大経済学部教授森戸辰男を新聞紙法違反の罪に問いました。シベリア出兵に際し、欧米軍が撤兵した後も単独で駐兵を続けて多くの犠牲者を出した責任が原内閣にあることも忘れてはならないでしょう。
 イアン・ブルマは、「近代日本の誕生」(ランダムハウス講談社)の中で、次のように述べられています。
 議会の権威を高め、政党政治の力を伸ばすために原敬が取った方法とは、後に自民党が採用し、その結果1950年以降ほぼ一貫して政権を握り続けることを可能にした利益誘導型政治であった。(p.88)
 こうして見ると、原敬のほんとうの姿が浮かび上がってくるようです。民主的要求を斥け、政友会と大企業の利益を最優先し、1%が99%を支配できる社会構造を確立し維持するために、見事な手腕を発揮した政治家。ハーバート・ノーマン曰く、"暗黒の反動と専制的気質の人間"。『橋のない川』(住井すゑ 新潮社)によると、当時、下記のような戯れ歌が流行したそうですが、当時の人々もこのことに気づいていたのかもしれません。
艮一は
もとは鉄道の転轍手
今は
時代の転轍手
ヨーイ ヨーイ デッカンショ (第四巻 p.268)

by sabasaba13 | 2014-05-01 06:23 | 京都 | Comments(0)