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越後編(19):ドッペリ坂(13.3)

 すぐ近くにあるのが、旧金井写真館本店。いやはや、なんともド派手な建物です。東京ディズニーランドにあってもまったく違和感はなさそう。建築年はおそらく明治中期、設計は中島泉次郎。設計者の中島氏は、コンドルの教え子と共に大阪郵便局(現存せず)を設計し、後に文部省建築課時代に米沢高等工業学校本館を設計した人物だそうです。そういえば似ているような似ていないような。現在は金井文化財館ですが、中に入ることはできませんでした。一体どんな活動をしているのでしょうか、旧写真館として保存し内部を見せてくれた方が嬉しいのに。北方文化博物館新潟分館は、明治末期に北方文化博物館の六代目伊藤文吉氏が取得した建物で、この中の洋館に、歌人・美術史家・書家として名高い會津八一がその晩年を過ごしました。
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 現在は博物館として、八一の書や資料、良寛の書を展示しています。會津八一といえば、大学時代、『自註鹿鳴集』(新潮文庫)を片手に、大和路を貧乏旅行した思い出がよみがえります。"かすがの に おし てる つき の ほがらか に あき の ゆふべ と なり に ける かも" ♪わーかーかあったあの頃♪ですね。珍しい意匠の透かしブロックを撮影して新潟カトリック教会へ。空に聳える双塔が印象的な白亜の聖堂で竣工は1927(昭和2)年、設計は日本のカトリック教会施設の設計者として活躍したマックス・ヒンデルです。その近くにあるのが1921(大正10)年築の旧副知事公舎、市内で最も古い洋館付住宅です。なおここに戦後間もなく作家の野坂昭如が住んだとのこと。空襲で焼けた神戸を逃れ、その当時新潟県副知事であった父を頼って移り住み、旧制新潟高校に入学。後妻の母親は新橋の芸者だった人で、彼はその母に連れられて古町で芸者遊びを覚えました。彼の自伝小説『行き暮れて雪』にその模様が綴られているそうです。現在は「ネルソンの庭」というレストランとして、第二の人生を送っています。
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 そしてドッペリ坂へ。解説板によると、この坂の上にはかつて旧制新潟高等学校や学生寮「六花寮」があり、弊衣破帽の学生たちが花街・古町に通う近道としてこの坂を利用しました。あまりこの坂を行き来して遊びが過ぎると落第するぞという戒めのため、ドッペリ坂と名づけられたそうです。ドイツ語のドッペルン(doppeln)=二重にする=落第という洒落ですね。なお新たにつくられた階段は、及第点の60点に一つ足りない59段になっているとのこと。また坂の下には高台の砂丘から湧きだす地下水によってできた大小二つの池があり、異人池と呼ばれていたそうです。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2014-06-20 06:32 | 中部 | Comments(0)

越後編(18):旧齋藤家別邸(13.3)

 まずは主屋へ、数寄屋造りを基調とした近代和風建築ですが、贅を尽くした意匠や趣向、欄間や建具に驚かされます。
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 凝った意匠の引手を、眼を皿のようにして眺めて写真におさめていると、ボランティア・ガイドさんがやってきて「気づきませんでした」と驚愕されました。
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 また庭園全景を展望できるように設計され、庭園と建物が融合した「庭屋一如」の空間となっています。
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 それではお庭を拝見させていただきましょう。面積約4,500平方メートルの敷地内に、玄関庭、中庭、そして広大な主庭があり、それぞれ園路で結ばれています。主庭は回遊式で、自然の砂丘地形を上手に活かした斜面にしつらえてあり、歩きながら主屋と池を眺められるようになっています。高低差のある斜面を利用して水の流れや滝を設けられ、巨石や奇石が配置され、さまざまな植栽がほどこされていました。最上部には独立した茶室「松鼓庵」と茶庭があります。これといった特徴はないのですが、たいへん趣味のよい、ほっとするようなお庭です。
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 庭師は二代目松本幾次郎と弟の松本亀吉、前者はわが敬愛する小川治兵衛(植治)と並び称される方だそうです。そしてこの庭のコンセプトは「自然主義的風景式庭園」、主屋にあった解説より転記します。
 明治時代までの古典的な日本庭園は、浄土や禅といった精神的なものを表現したり、鶴亀の庭や三尊石組のように一定の約束事に基づいて庭石や植栽を配置したりするなど、象徴的・形式的な作り方が主流でした。これに対して、西洋文化の影響を受けていた近代数寄者たちは、自然のなかにある心地よい景観を写実的に庭園に取り入れることを理想としました。そういった新しい庭園の様式を「自然主義風景式庭園」と呼びます。
 2代松本幾次郎・亀吉が作庭した旧齋藤家別邸の庭園は、構図が分かりやすく、雄大でのびのびとしています。特に主庭は、季節感をベースに陰影のある奥山の風景や野辺の明るさを基調とした、誰にもわかる美しい自然が表現されています。これらは、近代数寄者の影響を受けながら、2代幾次郎・亀吉が生み出した自然主義的な作風と言えます。このような作風は、「雑木の庭」の創始者である飯田十基や小形研三らに引き継がれました。
 飯田十基(1890~1977)は、2代幾次郎や岩本勝五郎に師事し、2代幾次郎の下で渋沢栄一邸、阪谷芳郎邸、岩本の下では山縣有朋の邸宅である椿山荘、古希庵などを手懸けました。大正7年(1918)に独立した飯田は、武蔵野の雑木林を取り入れた数寄屋の庭を数多くつくり、自然主義風景式庭園の潮流を大きく発展させました。その弟子である小形研三(1912~1988)は、昭和時代に「雑木の庭」を庶民の庭として定着させ、さらに雑木を公共造園に組み入れて全国的に普及させました。
 旧齋藤家別邸庭園にも見られる自然主義風景式庭園の潮流は、現代の庭園スタイル「雑木の庭」を誕生させる先駆けとなっています。
 なお「近代数寄者」とは、茶の湯や骨董収集に熱心な明治の財界人・政治家たちで、益田孝(鈍翁)や高橋義雄(箒庵)が代表的な人物です。彼らの庭に対する考えが、幾次郎・亀吉に大きな影響を与えたのですね。余談ですが、益田孝が佐渡の出身だとはじめて知りました。というわけで、庭園についてはまだまだ勉強すべきところがたくさんあります。生涯の楽しみとしてつきあっていきたいと思います。2代松本幾次郎・亀吉、岩本勝五郎、飯田十基、小形研三、小川治兵衛、重森三玲、そして小堀遠州、まだ見ぬ名園を求めて明日も旅ゆく。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2014-06-19 06:23 | 中部 | Comments(0)

越後編(17):地獄極楽小路(13.3)

 その近くにあるのが本間歯科医院、瓦屋根をいただいた荒壁仕立ての古い洋館でした。寺嶋旗幕染工場は1872(明治5)年創業、新潟県屈指の染物店。その恰幅のよい木造建築が老舗の心意気を感じさせてくれます。イタリア軒の脇にたつのが蕗谷虹児の「花嫁人形の碑」。
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 解説板を転記します。
 多才な画家・詩人として知られる蕗谷虹児(1898‐1979)は、少年期このイタリア小路近くに赤貧の中ですごしました。15歳で虹児を生み、29歳の若さで逝った薄幸の母の面影を、西堀を行き交う舞妓の姿に求めて、しばしばイタリア軒前にたたずんでいた虹児の想いがこの詩を生み、杉田長谷夫の旋律にともなわれて、哀愁に満ちた不朽の名曲として今に歌われています。
 その先にあるのが地獄極楽小路、凄まじいネーミングですが、左には高級料亭「行形亭(いきなりや)」、右には新潟刑務所があったことからつけられたそうです。刑務所は移転され、アーチ門が縮小されて復元されていました。
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 行形亭は道路に面した蔵の一部しか見えませんが、鏝絵がほどこされた立派なもの。いつの日にかここで酒池肉林の酒宴を…なんて夢のまた夢ですね。
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 その前の通りが白壁通、白漆喰の壁、なまこ壁、和風建築が連なる風情ある通りです。そして旧齋藤家別邸に到着、豪商齋藤家の四代齋藤喜十郎(庫吉1864~1941)が、1918(大正7)年に別荘として造ったものです。砂丘地形を利用した回遊式の庭園と、近代和風建築の秀作といわれる開放的な建物は、大正時代における港町・商都新潟の繁栄ぶりを物語る文化遺産だそうです。これは楽しみだ、それでは中に入ってみることにしましょう。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2014-06-18 07:22 | 中部 | Comments(0)

越後編(16):鍋茶屋(13.3)

 それでは自転車にまたがり徘徊をはじめましょう。「写真指名が出来るサロン」という看板に旅情をかきたてられながらペダルをふんでいると、三業会館がありました。現在はこちらが検番を行なっているとのことです。
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 趣のある路地や、洒落た意匠の料亭・茶屋を愛でながら彷徨っていると、ひときわ目立つ木造三階建ての料亭が「鍋茶屋」がありました。創業は1846(弘化3)年、「新潟に鍋茶屋あり」と言われた名料亭です。
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 さてそろそろ体感温度が低くなり指先もかじかんできました。小腹もへったし、ここは一時避難、昼食に新潟B級グルメのイタリアンを食べに行きましょう。途中の交差点で見かけた看板が「大工道具建築金物 中静商店」、七つ道具をかついだ弁慶を描いたキッチュな物件です。新潟の歩行者用信号は横長なのですね。萬代橋のたもとには、高浜虚子の「千二百七十歩なり露の橋」という句碑がありました。なお近くの料亭には吉井勇の歌碑があるそうなので行ってみましたが、ちょっと入れるような雰囲気ではなく見学は断念。ふたたび萬代橋を渡り、バスセンタービル二階へ。ファーストフード店「みかづき」で噂のイタリアンをいただきました。ま、簡単に言えば、ソース焼きそばにいろいろな具が入ったトマトソースをかけたしろもの。空腹は最上のソース、美味しくいただきました。
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 近くにあった全国チェーンの珈琲店でコーヒーをいただいて体を温めながら、「まち遺産マップ 異人池・ドッペリ坂界隈」を参考にこれからの行程を確認。まずはオギノ公園をめざしましょう。自転車にまたがり寒風を切って萬代橋をまた渡り、しばらく走っていると荻野久作の銅像があるオギノ公園がありました。そう、あのオギノ式避妊法を発見された医師ですね。彼の功績を称えるために、その居宅跡につくられた公園です。説明板から引用しましょう。
 荻野久作 産婦人科医。明治15(1882)年3月、愛知県に生まれる。42年、東京帝国大学医科大学を卒業し、45年に新潟市竹山病院の産婦人科医長に迎えられた。
 大正13(1924)年、女性の月経の周期と受胎日の関係を明らかにした論文を発表し、画期的な受胎調節法として世界に認められた。また、子宮ガンの手術方式を改良し、現在の子宮ガン手術の基礎を築いた。
 敬意を表して、銅像と公園を撮影。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2014-06-17 06:38 | 中部 | Comments(0)

言葉の花綵105

 パンののちには、教育が国民にとって最もたいせつなものである。(ダントン)

 行き過ぎた自由はそれぞれが勝手気ままに主張する喧噪を生み、行き過ぎた秩序は誰ひとり口を開かない沈黙を生む。(ジャック・アタリ)

 おれたちは忘れる機械だ。人間てものは、少しは物を考えるが、忘れるのが第一なんだ。(『砲火』 アンリ・バルビュス)

 どこにどんな宗教があってもよい。なぜなら、あらゆる宗教は、自制心、物事を肯定する心、寛容の心、他の宗教を理解する心を求めるからだ。(アショーカ王 磨崖法勅第七章)

 貧乏は人の社会的感情を殺し、人と人との間におけるいっさいの関係を破壊し去る。すべての人々によりて捨てられた人は、かかる境遇に彼を置き去りにせし人々に対しもはやなんらの感情ももち得ぬものである。(『犯罪と経済状態』 ボンガー)

 支配階級よ、共産主義革命のまえにおののくがいい。プロレタリアは、革命においてくさりのほか失うべきものをもたない。かれらが獲得するものは世界である。(『共産党宣言』 マルクス エンゲルス)

 勝利は目標の実現にあるのではなく、つねに目標を追いつづけるなかにあるのだ。(ロマン・ロラン)

 真理よりも権利。(『ウィーン愛憎』 中島義道)

 いくさの準備をすれば、いくさが寄せてきますよ。(『琉球処分』 大城立裕)

 どんなに科学が進歩しても、ホレーショ君、この天地には科学ではわからぬことが沢山あるのだ。(『ハムレット』 シェークスピア)

 教師たちは暴君で若者への思いやりなどなかった。彼らの目的はただ一つ、われわれの頭に知識を詰め込んで、自分たちのような頭でっかちの猿に仕上げることだ。独創性のかけらでも見せた生徒は、とことん迫害された。(アドルフ・ヒトラー)
by sabasaba13 | 2014-06-16 06:33 | 言葉の花綵 | Comments(0)

『アメリカ帝国とは何か』

 『アメリカ帝国とは何か -21世紀世界紀秩の行方-』(ロイド・ガードナー/マリリン・ヤング編著 ミネルヴァ書房)読了。イラクは大量破壊兵器を所持しておらず、かつそれを知りながら、なぜアメリカ・イギリスはイラクを攻撃したのか。支援した日本は勿論、当事国のアメリカではもうすっかり過去の話となり水に流してしまったようで、責任を追及する気配すらありません。しかしイギリスではいまだにその真相の究明と責任の所在を明らかにしようという動きが続いています。こうした知的強靭さは見習うべきですね、知りたがりの怒りんぼにならなければ。
 もし日本が集団的自衛権を容認した場合、強盗から守ってあげるべき友だち(笑)であるアメリカはどういう外交政策を基調とする国なのかを知ることは必須です。本書は、アメリカ外交の逸脱に憂慮の念を示すアメリカの著名な歴史家が一堂に会して行われた討論集会の結晶。イラク戦争は「アメリカ帝国」の抱える諸問題の氷山の一角にすぎないという考えをもとに、近年の合衆国の対外行動とその論理を考察した好著、読み応えがありました。発言・執筆者は、チャールズ・S・メイアー、ロイド・C・ガードナー、マリリン・B・ヤング、ジョン・プラドス、トマス・マコーミック、メリー・ノーラン、グレグ・グランディン、マイケル・エイダス、ジョン・W・ダワー、キャロル・グラック、エドワード・ローズ、アンダース・ステファンソンの諸氏。小生の能力不足故、全体の論調をまとめあげることはできません。注目すべき指摘を挙げることで、読者の考察の資になれば幸甚です。

【トマス・マコーミック】

 冷戦の終結とソ連の崩壊によって、常識とは逆にヘゲモニーを回復する事業がいっそう難しくなった。確かに、新たに発見され、かつ仰々しく宣伝された「唯一の超大国」としての地位を反映して、アメリカの軍事力は鎖を解かれたプロメーテウスのように、いかなる制約からも自由になった。同時に冷戦の終結は、冷戦がそれまで重石の働きをして抑えてきた分離主義的で不安定にさせる数多くの勢力を解き放った。それにしても冷戦は-特にキューバ・ミサイル危機以降-かなり安定した共生的なシステム(メアリー・カルドーはそれを「想像上の戦争」と呼んでいる)に様変わりした。もっとも冷戦は、一見無秩序で危険きわまりない戦争と思われていたのであるが、そのシステムの下で、米ソ両超大国は、北大西洋条約機構の同盟国ならびにワルシャワ条約機構の衛星国だけでなく第三世界の自国の従属国に対しても自国のヘゲモニーを維持するため暗黙のうちに共謀し、それらの国々の「他者」への恐怖心を操作した。しかしソ連帝国の崩壊に加え冷戦の終結によって、その管理能力はかなり低下し、不安定と爆発の危険性を孕んだ新時代が到来した。(p.104)

 …商品、資本、サービス、人間、文化、イデオロギーの自由な流れを特徴とするグローバル化の波は、一段とその勢いを増す一方、他方ではグローバル化が限界点に達したことをはっきりと予示する激しい反グローバル化の巻き返し運動を引き起こした。それらは、グローバル化がもたらすはずの経済的恩恵が公平に配分されていないために、勝ち組と負け組が造り出されたのであり、またグローバル化の影響である文化の均質化と宗教の世俗化により、伝統文化と宗教が脅かされたために発生したのであった。弧を描くように西アフリカからインドネシアまでの地域一帯に高まったイスラム過激主義の波ほど、そのことを劇的かつ明示的に物語っているものはなかった。
 しかしながらのそれらの諸問題のお株を奪ってしまう事件が発生した。それは、1992年のマースリヒト条約に具体的に表れたヨーロッパの挑戦であった。…それが独国であれ、あるいはロシアであれ、欧州が一強国の支配下に入ることは、合衆国にとって20世紀を通して最大の悪夢であった。したがってヨーロッパ連合が今もなお多くの問題を抱えていようとも、またそれが現在進行中であっても、合衆国はすぐさまヨーロッパ連合に対抗して封じ込め、合衆国に受け入れられるような方向にヨーロッパ連合を誘導する必要があった。(p.105~7)

 ちょうど湾岸戦争そのものが、冷戦後の世界において欧州が世界の原料を入手するためにはこれまでどおり合衆国を必要とすることを思い知らせるための「資源戦争」であったように、対イラクの低度の戦争は、ペルシャ湾地域の安定とヨーロッパ連合(と日本)が依存する原油生産の維持のためには、これまでどおりアメリカの保護が必要であることを今後もずっとヨーロッパ連合(と日本)に思い知らせる役割を果たした。アメリカの保護が必要であるということは、ヨーロッパ連合(と日本)が今後も国際政治においてヘゲモニー国アメリカの指導力に敬意を払い続けることを意味していた。(p.108)

 アメリカの軍事化を促した最後の事例はイラク戦争である。おそらくイラク戦争は、軍事化を実行に移すうえでふさわしい出来事であったかったかもしれない。すでに述べたように、制裁、査察、飛行禁止区域の設定、散発的な空爆の形をとった初期の政策は、ペルシャ湾地域および油田海域の安定を維持するためにはアメリカの庇護が必要であることを欧州に思い知らせるうえで一定の役割を果たした。(p.118)

 これらの動かしがたい事実は、欧州が-無視すべき意気地なしとか、当然視すべき同盟国といった存在であるどころか-むしろ中東地域の恐るべき競争相手であることをはっきり示していた。また地域建設というアメリカの政策を成功させるためには、政策において欧州を圧倒する必要があることも明示していた。そのような認識を抱いていたからこそ、合衆国は総じて欧州を周辺部に追いやり、欧州がまったく役割を果たすことのないように、特にイラク戦争それに続くイラク占領の際に、欧州を排除したのであった。(p.128)

 しかし、おそらくアメリカ軍の駐留はそれで終わらないであろう。合衆国は、戦後保護国となるであろうイラクの石油省内で影響力を行使することによって石油輸出国機構の事実上の加盟国となり、同機構の石油政策の調停役を演じるか、あるいは危機の際には石油産出国の「カルテル」の解体さえできるようになるであろう(『ファイナンシャル・タイムズ』紙によると、戦後のイラクは、石油輸出国機構内に留まるが石油輸出国機構が定めた石油生産量の割当てには拘束されないという決定がすでになされているという)。そのような戦略的地位につくことによって、合衆国はカスピ海やカフカスの石油や天然ガス資源、それにそれらの資源を輸送するパイプラインをめぐってロシアや西欧との間で展開される荒々しい経済戦争や外交舞台での戦いにおいて立場を強めることになるだろう。いずれにせよ、合衆国がそのような戦略的地位につくことになれば、中東地域やそれよりも広域の「危機の弧」における死活的なエネルギー源の入手権を確実に手にする際に、欧州はますますアメリカの保護と温情に依存しなければならないことになろう。(p.129)

 しかしながら、アメリカの多角貿易主義からの明らかな退却はそれ以上のことを示唆している。アメリカのヘゲモニーは、双子関係にある経済力と軍事力に常に依拠していた。つまり、それは、同盟国が自らの力で手に入れる経済的繁栄と安全保障を同盟国により確実に提供し得る力を意味していた。しかしながら、もしヨーロッパ連合の経済発展の見通しがアメリカ主導の多角的世界市場ではなく、ヨーロッパ共同市場ならびに中東地域やアフリカとの自由貿易協定にますます依拠することになれば、それは、アメリカの政策や規則へのヨーロッパの敬意を得る際にこれまで手助けをしてきたアメリカの経済的影響力をもはや欧州に及ぼしえなくなったことを意味していた。もしそうであるとすれば、アメリカのヘゲモニーは二つの柱というより一つの柱により大きく依存しなければならなくなることを意味している。つまり、一つの柱とは、他国の追随を許さないほどの圧倒的な軍事的優位を指している。そして、先制攻撃による戦争の原理の発表、巨額の軍事費、アフガニスタン戦争、そして現在戦っているイラク戦争は、すでに述べたように、明らかにアメリカの対外政策が軍事化へさらに傾斜していることを示唆している。(p.131)

 さらに、合衆国がアフガニスタンおよびイラクで先制攻撃によって戦争を開始したことは、核の拡散を促進することになり、それによって期待した効果のまったく逆の結果をもたらすことになった。というのは、いわゆる悪の枢軸と名指しされた北朝鮮とイランの両国はおそらく、アメリカの敵対的な行動を抑止できるのは核兵器を保有することであるとの結論を抱くにいたったからである。このことは、私たち読者を最初のテーマに立ち返してくれる。つまり、合衆国が欧州に提供しなければならない重要な安全保障とは、いわゆる危機の弧に眠る莫大なエネルギー源の入手権を、現在および将来においても、欧州に保障することを意味している。危機の弧とは、カスピ海からペルシャ湾を通ってアラビア半島に至り、さらに西へはリビア、南へはアデン湾にまで広がっている地域のことであり、イラク戦争はアメリカの中東政策の要であった。(p.132)

 ヘゲモニーの本質は、各国が独自に手に入れるよりも一層しっかりとした基盤の上に立つ安全保障と経済繁栄を、集団安全保障体制と経済的国際主義によってヘゲモニー国は各国に提供できると約束する。その代わりに各国は納得したうえで国家主権の一部を断念し、そうすることによって政治と経済の間の互いに矛盾し合う傾向の折り合いをつけるという点にあった。冷戦とアジアでの熱戦に払った大きな代価にもかかわらず、20世紀後半のアメリカのヘゲモニーは、世界の強国間の不安定な均衡が引き起こした世界戦争と経済恐慌よりも、一層安定しかつ経済的にも繁栄した世界秩序を作り出した。
 徐々にではあるがヘゲモニーの衰退は、国民国家に狭い視野から自国の経済的および政治的国益のみを追求させないために必要な装置(見える手)を世界システムから奪っている。ヘゲモニー国家自身がその責任を放棄し、ますます世界システムの利益よりも自国の利益を優先する時、その状態は加速的に悪化の一途をたどる。ヘゲモニー国は、他国の行動を抑制できないばかりか自己抑制もできない。現在の合衆国が示す傾向は、管理された保護主義、二国間協定主義、先制攻撃による戦争、それに北大西洋条約機構のような恒久的な同盟関係からの暗黙の退却といった実験を敢行することにより、合衆国が確実にそのような危険を冒しているということである。(p.135)

【グレグ・グランディン】

 ちなみに、国家安全保障会議(NSC)中東部長エリオット・エイブラムス、ジョージ・W・ブッシュ政権下の新イラク大使ジョン・ネグロポンテ、そしてアメリカの世界的なヘゲモニーの獲得を熱心に提唱するロバート・ケーガンといった現政権の顧問や政府高官の多くは、レーガン政権がニカラグアのサンディニスタ革命政権を転覆させようとしたコントラ戦争の実施にすべて関与していた。しかしながら、ロナルド・レーガンの中米における強硬路線-当時は説明しがたいほど極端な政策だと多くの人が考えていた-と、現ブッシュ政権の対外政策との間の関連性の方がはるかに興味をそそられる。多くの点で中米は、現在中東で起こっていることの舞台稽古のようなものとして理解できる。と言うのは、ニューライトの好戦派は、中東においてヴェトナムの亡霊を払拭するために、はるかに弱い敵に対して、ほぼ自由にアメリカの全権力を傾注してきたからである。(p.169)

【ジョン・W・ダワー】

 私の専門領域である日本史から学び、最近私の頭から離れようとしない「教訓」が一つある。それは、日本が1930年代初頭に戦争への道を歩み、1945年になってやっと戦争を終えたということについてである。最近まで歴史家はこの悲劇の原因を日本の「後進性」とか「半封建性」という言葉で説明してきた。日本にはこれら武士の旧い伝統がある。日本は民主国家ではなかった―そしてもちろん、民主主義国家は侵略的な戦争をしない。しかしながら、近年の研究は日本の戦争への道をこれまでとは違った、もっと恐ろしい視点からとらえている。
 なぜ「恐ろしい」というのか。第一に、最近の研究の多くが、戦争に対しタカ派的な指導者が日本を全面戦争に動員できた要因は日本社会および文化の「後進性」にあるのではなくむしろ近代性にある、と示唆している。近代の大衆伝達手段によって政治家やイデオローグたちは戦争感情を煽るとともに、戦争の準備を批判する人たちを国賊として厳しく非難した。海外市場や国外の資源に対する関心から、近代日本は満州、中国、それに東南アジアへと進出した。近代兵器に対する需要によって、技術革新が見られた。トップレベルの企画者たちは国(および周辺の地域)のすべての資源を「総力戦」に動員するための最新の理論を編み出した。詭弁にたけた名言家たちは、本土を守り、アジア全土の「共存と共栄」を促進する宣伝文句を注入した。暴力の文化、軍国主義の文化、国家の危機に際しての最高権威への無条件の服従―これらすべてが宣伝と支配の精巧な機関によって育まれた。そして振り返ってみると、これらのうちどれ一つを見ても特に時代遅れだとか、特に現在の「日本」にだけ当てはまるようなものは何一つない。
 あまりにも恐ろしくて熟視さえできないもう一つの側面は、事実上あらゆる段階において、軍事的解決以外に解決の道がないとの結論を下した日本の指導者たちは大変頭がよくて、自分たちの技術的専門知識や特殊な知識、それに不吉な兆しの世界において感傷的にならない自分たちの「現実主義」に誇りを持っていたという点であった。これらの企画者の多くは、アメリカ人の言葉を借りれば、「ベスト・アンド・ブライテスト」たちであった。私たちは、彼らが審議ならびに企画用に作った論文の詳細な文書を目にすることができる。そしてその文書の大部分がきわめて合理的な言葉で表現されている。戦争を新たに拡大するごとに、その決定は国益にとって不可欠なものと考えられた。そして振り返って考えてみても、いわゆるこの現実主義がどの段階において境を越えて狂気となったかを言い当てることは難しい。しかし、結局それは狂気であった。(p.233~4)

 それにしても、失敗した日本帝国と現在興起しつつあるアメリカ帝国との間の相似点は著しい。両者とも、帝国建設の構想が壮大な右翼急進主義思想のなかにしっかりと位置づけられており、そして両者とも、侵略的でかつ、その対外政策は国内の優先課題や実践方法の全面的な変容を伴う基本的には単独路線を採用している。
 研究者は、戦争と版図拡大への「近代的な」帝国日本による動員が実際にどれほど正道を踏みはずしたものであったかを、今になってやっと十分理解しつつある。自称愛国的革新官僚たちは、国外における「新秩序」の建設と国内における「新構造」の構築の機会を率先してとらえただけでなく、その二つの目標が不分離の関係にあることを鮮明にした。彼らの熱心な提言は力強く大胆かつ明確であった。彼らは目的を達成するためには口実や脅迫それに既成事実を使うことに躊躇しなかった。彼らは、前代未聞の強力な権力を軍部に付与するとともに、大企業家、官僚、政治家からなる強力な同盟を形成した。そして彼らは、新興のマスメディアを巧妙に操作しながら、国内では国民からの支持を取り付けた。
 振り返ってみるに、私たちにはこれらの人たちの傲慢や狂気を取り上げ論じる傾向がある。短命に終わった彼らの帝国は、日本人の言葉を借りれば、「夢のまた夢」以外の何ものでもなかった、と簡単に片づけられている。しかしこのような扱い方はあまりにも短絡的である。束の間ではあったが、破竹の勢いで勝利を収めていったこれらの右翼急進派は、想像できないほどアジアの位相を変えただけでなく、日本をも永久に変えてしまった。そして彼らの大きな関心事、野望、それに成し遂げた事柄は、不気味で恐ろしいことでもあるが、現在私たちが目の当たりにしているアメリカの政策と多くの点で共鳴して合っている。政権交代、国家建設、従属国家の創造、戦略的資源の支配、批判的国際世論の公然たる無視、「総力戦」への動員、文明の衝突といった誇張的な言辞、人の心をつかむこと、国外はもちろん国内においてもテロと戦うこと―虚栄心の強い日本が、アジアで「共存と共栄」の新秩序建設を目指そうとした企ては、これらすべての部分から成り立っていた。(p.234)

【キャロル・グラック】

 南原繁や野坂参三がそのような提案をしたことは事実であるが、しかし彼らのうちどちらか(あるいは他の誰であっても)が天皇の意思―「天皇の名において」行動していると主張することで利益を得ていた人たちの支持があるなかで―をくつがえして退位を迫ることができたと想像するのは難しい。(p.248)

【エドワード・ローズ】

 要するに、ブッシュ政権の念頭にあるのは、グローバルな非公式アメリカ帝国である。(p.285)
by sabasaba13 | 2014-06-15 08:13 | | Comments(0)

集団的自衛権

 憲法解釈による集団的自衛権容認へと、ぶいぶいぶいぶいと邁進する安倍晋三伍長と石破茂上等兵。政官財黒い三角形の走狗にして天下無双の御用新聞・産経新聞ニュース(2014.2.13)によると、その石破上等兵が、『日本人のための「集団的自衛権」入門』(新潮新書)という本を上梓されたそうです。"最も大事なことは敵から教わった"(アリストパネス)、ほんとは読まなくてはいけないのでしょうが、"盗人に追い銭"、とても購入する気にはなれません。よって確認はできないのですが、本書で氏は、日本が集団的自衛権を行使できない現状について、友人が強盗に襲われた時には家の掟で助けに行けないけど、僕がやられたら助けにきて、と身勝手な要求をするようなものだ、と例え話で説明しているそうです。この程度の与太話で国民が騙せると考えるほど石破上等兵の知的レベルが低いのか、あるいはこの程度の与太話で本当に騙されてしまうほど国民の知的レベルが低いのか、断定できないのが辛いところです。前者だとよいのですが。
 それはさておき、上等兵は一般論にすりかえて誤魔化そうとしていますが、その友だち(宗主国にそんな馴れ馴れしい口をきいてよいのかという点はおいといて)というのは、そんじょそこらの国でありません。世界で最も凶暴なならず者国家・アメリカ合衆国です。いったいどこの国がアメリカに強盗をはたらくのか、教えていただきたいものです。アメリカ外交政策の基調は、「目障りな相手を強盗と決めつけて叩き潰す」、いわゆるブッシュ・ドクトリンです。「脅威が増大すればするほど行動しないことの危険性が増大し、かくて、たとえ敵の攻撃の時間と場所が不確定な場合であっても、我々を防衛するために先制的に行動する」、いわゆる先制攻撃論ですね。なお豊下楢彦氏は、『集団的自衛権とは何か』(岩波新書)の中で、レーガン政権によるグレナダ侵攻(1983)や、ブッシュ・シニア政権によるパナマ侵攻(1989)など、これは米国外交における"伝統"であると指摘されていますが。
 そして悪質なのは、脅威を隠れ蓑にして、軍事力によってアメリカの国益や大企業の利益を貫徹してきたことです。イラク戦争を例にとり、石破上等兵にもわかるようなたとえ話にすると、「奴は金持ちだから、ピストルをもって俺を狙っている強盗だということにしてぶちのめし、金目の物をふんだくってやろう」ということですよね、たぶん。"嘘だと言ってよ、ジョー"と言いたいところですが、残念ながらこれが歴史的な事実です。詳しいことを知りたい方は、ぜひ、『日本は悪くない 悪いのはアメリカだ』(下村治 文春文庫)、『(株)貧困大国アメリカ』(堤未果 岩波新書1430)、『戦争はなぜ必要か』(トーマス・バーネット 講談社インターナショナル)、『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策』(ジョン・J・ミアシャイマー スティーヴン・M・ウォルト 講談社)、『アメリカ帝国の悲劇』(チャルマーズ・ジョンソン 集英社)、『パクス・アメリカーナの五十年』(トマス・J・マコーミック 東京創元社)、『好戦の共和国アメリカ』(油井大三郎 岩波新書1148)、『ポスト・アメリカ』(イマニュエル・ウォーラーステイン 藤原書店)、『素晴らしきアメリカ帝国』(ノーム・チョムスキー 岡崎玲子訳 集英社)、『狂気の核武装大国アメリカ』(ヘレン・カルディコット 岡野内正/ミグリアーチ慶子訳 集英社新書0450A)、『「テロリスト」がアメリカを憎む理由』(芝生瑞和 毎日新聞社)、『お節介なアメリカ』(ノーム・チョムスキー ちくま新書676)、『戦争中毒 アメリカが軍国主義を抜け出せない本当の理由』(ジョエル・アンドレアス きくちゆみ監約 グローバルピースキャンペーン有志訳 合同出版)、『アメリカの国家犯罪全書』(ウィリアム・ブルム著 作品社)をご一読ください。ああ疲れた。

 ということで、集団的自衛権、同盟を結んだ国への攻撃を自国への攻撃と見なしそれを阻止することを憲法解釈によって容認するとどうなるのか。結果は火を見るより明らかです。どういう状態がアメリカに対する強盗行為なのかを認定するのはもちろんアメリカ政府であり、日本政府はその先制攻撃に加担させられるでしょう。いわばアメリカの"やれやれ詐欺"の方棒を担ぐことになりますね。理不尽かつ没義道な殺戮を受けた人々はアメリカとその属国・日本に刃を向け、テロルによって復讐をはたす可能性は大です。後者については簡単ですね、54基もある核(原子力)原子力発電所の数カ所に自爆攻撃を仕掛ければ、瞬時にして亡国とすることができます。荒唐無稽な戯言でしょうか?
 いくさの準備をすれば、いくさが寄せてきますよ。(『琉球処分』 大城立裕)
 安倍晋三伍長に熨斗をつけて進呈したい言葉です。それにしても、安倍伍長といい、石破上等兵といい、なぜシオマネキのように"いくさ"を呼び寄せとするのでしょうか。もちろん、日本が戦火やテロルに巻き込まれた時には、ご本人およびご親族ご一行様が脱出する手段およびのうのうと暮らせる避難場所はすでに確保されていると思いますので後顧の憂いはないとは思いますが、なぜ私たちを犠牲にしてまで"いくさ"の準備をするのか。アメリカの属国としての地位を未来永劫維持したい、日本の軍需産業の要望に応えたい、中国・韓国・北朝鮮に強面で対したい、戦争の出来る国になって自尊心を満足させたい、純粋に(自分たちは安全な所にいて)日本が戦争する場面を見てみたい、理由はいろいろ考えられます。が、いま一つほんとうのところが見えてきません。安倍伍長、石破上等兵、そろそろ本音を語っていただけませんか。もう与太話は聞き飽きました。
by sabasaba13 | 2014-06-14 06:30 | 鶏肋 | Comments(0)

越後編(15):本町通(13.3)

 石山味噌工場の味噌蔵は切妻造・桟瓦葺・黒漆喰塗の重厚な建築、1906(明治39)創業時の施設だと言われています。なおこの地域で味噌醤油造りが盛んなのは、北海道へ荷を送った後、帰りの積み荷が空だと勿体ないので、大豆を積んで北海道から戻ったことに始まるそうです。それにしても、こういう鉄人28号のような物件にいきなりでくわすとは、恐るべし新潟。このあたりで雁木が設置されたお宅をいくつか発見。公共のものではなく、個人所有の雁木のようです。
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 上大川通にある渡辺益二商店は1886(明治19)年の創業以来、納豆一筋に商いをされてきたお店、その志を物語るような凛とした佇まいが魅力的な町屋です。二階の格子窓がいいアクセントになっています。清広刃物製作所は、「各種刃物研ぎ修繕承ります」という看板を掲げた古い町屋で、花街料亭料理人のための高級包丁をつくっているそうです。脇の茂作(もさ)小路に入ると、煙出しが見えました。ガラス戸からのぞくと、中にはお仕事中のご主人とまどろむ猫。「みなとまち豪商の館めぐり」によると、このあたりには、かのこちゃん、はんちゃん、カズちゃん、くろいの、お母さん、和田さん、という猫が住まわれているそうです。猫を邪慳にしない町っていいですね、住んでいる方々の心のゆとりを感じます。
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 旧小澤家住宅は、江戸時代後期から新潟町で活躍していた商家・小澤家の店舗兼住宅。公開されていますが、時間の関係で省略しました。この上大川通や本町通には、古い町屋や不思議なお宅が数多くあり、徘徊していて飽きません。
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 なお、本文を執筆中に、六日の菖蒲、十日の菊、「新潟シティガイドがお勧めするみなとまち新潟・まちあるきのマップ」という面白いサイトを見つけました。古い町屋だけでなく、「押しチャリ社会実験」「戦中の防火用水」「もじゃもじゃの家」といった通好みの物件が紹介されています。それによると、このあたりに高橋留美子の生家跡があるそうです。ま、別にファンではないのでどうでもいいのですが。
 それでは古町へと参りましょう。歩道の半分を占める広い自転車レーンがあるのには新潟市の見識を感じます。イヴァン・イリイチ曰く、「社会主義への道は自転車社会を通る」「自転車は、環境を汚染せず化石燃料も燃やさない(総有効速度では)地上で最も高速で自律的な移動手段である」。交差点のあたりで、キリンのガードレール・アニマルを発見。
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 そして花街(かがい)・古町に到着。前述の「柳都新潟 古町花街たてものマップ」を参考にして、この町を紹介します。花街とは、お座敷で芸妓の舞などの芸を楽しめる店がある街のことです。明治以降、娼妓がいる遊郭とは分離され、「くるわ」「はなまち」などとも呼びます。花街には料亭(料理店)・茶屋(座敷を貸すが料理は作らない店)・置屋(芸妓が籍を置き居住する場所)という三つの業種があり、三業と呼ばれます。これらに加えて、料亭や茶屋への芸妓の派遣を取り仕切る検番(見番)があります。古町花街は、江戸時代から料亭が軒を連ねた花柳界で、堀と柳の風光と相俟って「柳都」と呼ばれました。第二次世界大戦による空襲を受けなかったこともあり、殷賑を極めた往時の風情を色濃く残しているのが、ここ古町です。おしまい。補足いたしますと、新潟が米軍による無差別爆撃を受けなかったのは、京都・広島・小倉とともに原子爆弾の投下予定地として選ばれていたためですね。その威力を検証するために新潟を無傷の状態にしておいたアメリカの冷酷なる合理性には…言葉もありません。

 本日の二枚、石山味噌工場と渡辺益二商店です。
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by sabasaba13 | 2014-06-13 06:36 | 中部 | Comments(0)

越後編(14):新潟税関(13.3)

 朝、目覚めてカーテンを開けるとどんよりとした曇天、でも雨の心配はなさそうです。朝食をいただいて荷物をまとめ、チェックアウト。歩いてフェリーターミナルまで向かいます。両津市街のすぐ後ろに広がる加茂湖沿いを、雪を戴く山々を眺めながら歩いていると、牡蠣小屋を見かけました。
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 ある通りでは、珍しい意匠の透かしブロックを二つゲット。
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 両津小学校でひさしぶりに見かけた二宮金次郎像と、民家と一体化したような御嶽山神社を撮影。
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 かつては「金澤楼」という妓楼であったという金沢屋旅館は、往時の殷賑をわずかに物語っているようなレトロな建物です。なお「北」という表札をいくつか見かけましたが、あらためて北一輝の故郷なのだなあと実感。
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 そして大きな「佐渡おけさ」像のあるターミナルに到着、7:20出航のジェットフォイルに乗り込み、佐渡に別れを告げました。
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 そして8:25に新潟港に到着、バスに乗って新潟駅前まで行き、近くのファミリー・レストランでモーニング・サービスをいただきながら、事前に入手した観光パンフレットを熟読。ちなみに、新潟市には多くの歴史的建造物が残されており、それらを保存継承していくために結成されたのが「新潟まち遺産の会」。そこにメールで連絡をとり、郵送していただいた資料が「まち遺産マップ 異人池・ドッペリ坂界隈」「柳都新潟 古町花街たてものマップ」「NIIGATA MACHIYA MAP 2007」ですが、新潟街歩きには必携の好資料でした。これらをもとに、本日の行程を決定。余談ですが、目玉焼きにかける醤油をお願いしたところ、すぐに持ってきてくれました。多謝。
 駅の近くで自転車を借りいざ出発…と意気込んでペダルを踏んだものの身を切るような寒風にハンドルを握る手がかじかんでしまいました。これは心してかからねば、低体温症になる前に喫茶店に撤退する勇気も必要ですね。ま、弱音を吐いていないでとるものもとりあえず萬代橋をめざしましょう。駅から十分ほどで、信濃川にかかる六連アーチが優美な萬代橋に着きました。竣工は1929(昭和4)年、新潟のランドマークとも言うべき名橋です。そして信濃川に沿って走り、新潟市歴史博物館「みなとぴあ」へと向かいます。旧新潟市庁舎を模した博物館本館や旧第四銀行住吉町支店がありますが、何といってもお目当ては旧新潟税関庁舎。
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 1858(安政5)年に結ばれた日米通商修好条約により、下田・箱館に加えて神奈川・長崎・新潟・兵庫が開港され、1869(明治2)年に運上所としてつくられたのがこの建物です。ただ新潟港は信濃川の河口港であるため水深が浅く、大型船が入港できなかったため貿易は不振で、ほとんど関税事務は行われなかったとのこと。それにしても惚れ惚れするくらい、けれん味にあふれた物件です。壁面を埋めつくすなまこ壁、ちょこんと載った塔屋、アーチの入口、きんちゃく型の窓。よく「擬洋風建築」と言われますが、なまこ壁を採用した時点で、洋風に見せかけるという意図は破綻していると思います。どうしようもなくなった当時の大工さんが、「もうどうでもええわい」と半ば投げやり、半ば遊び心で建てた建築ではないのかな。眼福眼福。近くにあった、なまこ壁を模したご当地トイレを撮影し、それでは「NIIGATA MACHIYA MAP 2007」を片手に、古い町屋を探訪していきましょう。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2014-06-12 06:33 | 中部 | Comments(0)

越後編(13):両津(13.3)

 そしてタクシーは両津の町に到着、北一輝の生家の前でおろしてもらい、写真を撮影。さらに若宮神社でもおろしてもらい、北一輝と北昤吉兄弟の顕彰碑を撮影しました。なおこの碑に関しては、前述の『北一輝』(渡辺京二 ちくま学芸文庫)に詳しい紹介がありますので、長文ですが引用します。
 昭和44年に建てられたもので、表に一輝と昤吉のレリーフがはめこまれ、裏には安岡正篤による碑文が刻まれている。碑文の内容についても、お世辞にも似ているとはいえないレリーフについても、私は刺すような悲哀を感じた。だが、それはいうまい。この碑は国が建てたものでも、両津市が建てたものでもない。彰徳碑保存会と称するささやかな地元の有志たちが発意し、苦労して金を集めて建てたものである。そしてこれは、そのような善意にふさわしく、厭味なところのない、あえていえばつつましい記念碑なのである。しかし、秘かな北の敬慕者のひとりである私には、一輝が昤吉とならんで記念され顕彰されている事実がたえがたかった。両津、あるいは佐渡との一輝の関係は、結局こういうものでしかありえないのだ。むろん、故郷とそむきあうのはあらゆる思想家の運命であるだろう。だが、一輝が昤吉と名をならべてのみ建碑の対象となりえたということほど、佐渡と一輝の関係を露骨に示す事実はないように思えた。
 周知のように昤吉は一輝のすぐ下の弟であり、早大教授を経て衆議院議員となり、戦後は自民党の長老的存在として、外交調査会長などをつとめた。佐渡人にとって、一輝などよりはるかにまっとうな成功者であることはいうまでもない。しかし昤吉は兄の思想上の同志でなかったことはもちろん、その思想の理解者ですらなかった。彼は若き日に兄の危険な本質を直覚して、それから遠ざかろうと努めることで賢明に自分の一生を確保した人である。西田税の妻初子によれば、一輝は昤吉のことを俗物と呼んでいた。「わしの弟で昤吉というばかがおる」というのは一輝の口癖であったという。むろんこれは一種の親愛を示す表現だとしても、兄から遠ざかっておのれを保とうとするこの弟のことを、彼がつねに揶揄するような思いで見ていたことはこの一語からも読みとれる。むろんこの二人は、蘇峰・蘆花兄弟のように骨肉あい喰む関係ではなかった。しかし昤吉が、大正14年から一輝が二・二六事件によって捕われる昭和11年にいたる十二年間、一度も兄の家の敷居をまたがなかったのは、一個の厳然たる事実である。兄の刑死の前後から、彼はにわかに骨肉の情につき動かされ始めたとみえ、兄の救助に努めもし、また兄を雪冤するていの文章を書きもした。しかしこの弟が兄をなつかしみいとおしむ気持になれたのは、その兄がもはや世になければこそであったのである。(p.16~7)
 そして今夜の塒、天の川荘でおろしてもらい本日の旅程はこれで終了。運転手さんに丁重にお礼を言い、料金を支払ってお別れしました。チェックインをして部屋に荷物を置き、すぐ近くにある両津カトリック教会に行ってみました。白亜の清楚な教会で、解説板によるとフランス人宣教師ドルワールによって1879(明治12)年に創設されましたが火事で焼失、1887(明治20)年にド・ノアイ神父によって再建されたものです。設計は、多くの教会建築を手がけたパピノ神父によるもの。それでは宿ちかくをぶらついて夕食をいただくお店を物色することにしましょう。「しらつゆ」という日本料理屋に入ったら満席、「源八」という洋食屋があったので、こちらでメンチカツ定食をいただきました。本当は海産物系の食事がしたかったのですが、思ったよりも料理店が少なく妥協してしまいました。そして宿へと戻りシャワーを浴び、さきほど購入した佐渡の地酒「北雪」を呑みながら、フェリーのターミナルでいただいた観光パンフレットを拝読。
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 おっ「長岡系ショウガ醤油」「燕三条系背脂」「巻系割りスープ付き味噌」「新潟系あっさり醤油」という「新潟四大ラーメン」があるそうな。すべてとはいかないでしょうが、一つくらい食してみたいものです。さあ明日は新潟に戻り、市内観光と洒落込みましょう。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2014-06-11 06:39 | 中部 | Comments(0)