円谷幸吉に関して、もう一冊紹介したい本があります。それは芸術新潮の2000年12月号、創刊五十周年記念の特集、『世紀の遺書』。1968 (昭和43)年1月9日、彼は自衛隊体育学校宿舎の自室にて、カミソリで頚動脈を切って自殺しました。享年27歳。その哀切きわまりない血染めの遺書を撮影して掲載したものです。
父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿 もちも美味しうございました。ご馳走になった食べ物の列記と、マントラのように繰り返される「美味しうございました」という言葉に、彼の生に対する執着を感じます。その華奢で神経質そうな文字も印象的でした。それにしても、"疲れ切ってしまって走れ"なくなった長距離ランナーに、「もう走らなくてもいいよ」と言ってあげる人はいなかったのですね。その一言で救われたかもしれないのに。 なお体育学校校長など、自衛隊の関係者への遺書も掲載されています。 校長先生、済みません。親族に対しては「申し訳ありません」、自衛隊関係者に対しては「済みません」、普通は逆だと思うのですが。じゃりっとした異物感を感じます。東京オリンピックで銅メダルを獲得しながらも、「何もなし得ませんでした」と自虐的な言葉を遺書に書き残した彼。その思いは奈辺にあったのでしょう。婚約を破棄させ、円谷が信頼するコーチを左遷してまで、金メダル獲得をなさせようとする自衛隊という冷厳な組織へのひそやかな抗議…と見るのは深読みしすぎでしょうか。 そしてある意味、遺書よりも強烈な印象を受けたのが、彼が書いた扁額「忍耐」という書です。 書家の石川九楊氏が、次のようなコメントを語られています。 それにしても、扁額の「忍耐」という書は痛々しい。一生懸命書いていますが、テンやハネなどたどたどしくて、初めて筆を持った人の書という感じです。周囲がまつり上げて、一筆書かせたんでしょう。スポーツ選手が国家の名誉を負わされていた時代の重圧が、ひしひしと感じられます。(p.19)彼の人生を思い起こしながらこの扁額を見つめると、紙の白地が、切ないまでに弱々しく痛々しい彼の書を取り囲み、圧迫し、押し潰そうとしているように見えてきます。組織の栄誉と利権のために彼を追い詰めた自衛隊の重圧、そしてその背後に大きく拡がる多くの日本人の過重な期待を象徴しているかのようです。それにしても、日本人が世界的に活躍すると自分も偉くなった気になって祭り上げ、旬が過ぎたり下手を打ったりすると祭り下げ祭り棄てるmentality、何とかならぬものでしょうか。四の五の言う前に自分でやれよ、と言いたいですね。 なお本書は、他にも秀吉に利休、赤穂義士、藤村操、乃木希典と静子、芥川龍之介、日航機事故犠牲者、本居宣長、永井荷風、森鴎外、太宰治、北一輝、松井須磨子、平塚らいてう、宇野千代、武満徹、田村隆一、黒澤明、手塚治虫、正岡子規、寺山修司、澁澤龍彦、竹久夢二などの遺書がおさめられています。メメント・モリ。 ▲
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| 2014-10-31 06:16
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円谷幸吉を描いた作品がもう一つあります。森田信吾による『栄光なき天才たち』(集英社文庫)というマンガです。その第三巻、タイトルは「アベベそして円谷」。家族のために走り続けるアベベ・ビキラの不屈と、婚約者と師を奪われた円谷の悲劇を対比させた好編です。絵自体はそれほど上手いわけでも、斬新なわけでもありませんが、充実した内容を実直に伝えてくれる手堅いもので好感が持てます。
基本的な視点は、「長距離ランナーの遺書」とほぼ変わりませんが、1960年代という時代背景をより強調している点が鋭いと思います。例えば日本陸上競技連盟のある方がこう言っています。 オリンピックは国家事業だ! 我々はその責任を負っている 敗戦後十数年… 我々はここまで復興して来た! だが ここに来て安保騒動や何やらで国民は右往左往し始めておる! ここらで一つパアーッと国民の士気を高め一枚岩にまとまるような夢が必要なのだよ!なるほど、これはいかにもありそうですね。2020年の東京オリンピック誘致を主導した方々も、「原発事故や大震災で右往左往している国民の士気を高め一枚岩にまとめる夢が必要」などと議論していたのかもしれません。 円谷が婚約者に出した手紙の一節です。 何よりも 自分が情無いと思うのは 校長が 自分を陸上と関係ない人たちの前に引き出し その人たちに頭を下げさせる事です…体育学校の校長は、破談を求めて婚約者にこう詰め寄ります。 幸吉くんは 今や自衛隊の…いや日本の宝ですぞ 身勝手な行動など許されるはずも無いのですよ!国家事業のためには、自衛隊の利益のためには、個人の尊厳や意思など弊履の如く踏みにじってもかまわない、ということでしょう。 そして婚約の破談を告げられて苦悩する円谷の姿を背景に、筆者はこう語ります。併記されている年表も興味深いですね。 日本の高度経済成長が爛熟期を迎えたこの時期 その繁栄と引きかえに 列島のあちこちにため込まれた膿が一斉にふき出していたなお円谷幸吉が命を断ったのは1968(昭和43)年1月9日です。そうか、彼は1968年に亡くなったんだ… この1968年前後には、世界でも、日本においても、大きな激動が起きています。例えば、『転移する時代 世界システムの軌道 1945-2025』(藤原書店)の中で、イマニュエル・ウォーラーステインは、世界革命とさえ表現しています。 世界福祉の後退、とりわけ世界福祉が向上するという信念の後退は、国家の凝集力に重大な打撃を与える。そうした打撃にとどまらず、既成の反システム運動に対する信頼の大幅な後退、ひいては合理的改革主義の実効性に対する信頼の崩壊という、深刻な結果につながる。それは単なる循環的浮沈ではなく、それ以上の意味を持つ。われわれの見たところでは、1968年を頂点に1989年まで続いた世界革命は、集団としての社会心理を不可逆的に変容させてゆくプロセスであった。この革命は近代化の夢との訣別を決定的にした。すなわち、人間の解放と平等を求める近代の目標追及を終わらせたのではなく、資本主義世界経済を構成する国家がそうした目標の達成に向かって着実に前進することを容易にし、保証する手段であるとは、もはや見なされなくなったということなのである。前掲した年表と附合させれば、経済成長とアメリカ的自由という"夢"との訣別ということでしょうか。世界的な規模での若者の叛乱は、そうした偽善的は"夢"への反発・反感から炸裂したのかもしれません。一方日本においても、同様の若者による叛乱が起こっています。これに関しては、小熊英二が『1968年』(新曜社)において鋭く分析されています。あの叛乱は、高度経済成長の持つ毒性―アイデンティティの不安・未来への閉塞感・生の実感の欠落・リアリティの希薄さなど―に対する集団摩擦現象であり表現行為であった、と。 うーむ、これに「集団や組織による個人の緊縛」という一項をつけくわえると、彼を死に追いこんだものが見えてくるような気がします。 ▲
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| 2014-10-30 06:28
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朝日新聞夕刊(2014.10.10)に、1964年の東京オリンピックのマラソンで、ゴール直前に円谷幸吉を抜き去り、銀メダルを獲得したバジル・ヒートリーが来日して、円谷の故郷を訪れたというニュースが載っていました。まあたんなる美談として聞き流せばいいのでしょうが、彼の名前を聞くと心がちくりと痛みます。
同記事は"円谷さんは東京五輪の直後、「68年のメキシコ五輪を目指す」と宣言したが、68年1月、「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」という遺書をのこし、27歳で自ら命を絶った"と紹介するのみです。ただそれだけ。なぜ彼が自殺をしたのか、その原因についての言及はありません。走ることに疲れたアスリートの自殺ということだけで片付けてよいとは思えぬ背景があるのですが。彼をそこまで追いつめたのは何か、鋭く追及した優れたスポーツ・ノンフィクションがあるので紹介します。 それは沢木耕太郎による『敗れざる者たち』(文春文庫)。ボクサーのカシアス内藤と輪島功一、円谷幸吉、野球選手の榎本喜八と難波昭二郎、競走馬のイシノヒカルなど、もはや忘れ去られたけれど忘れ難い者たちを哀惜と共感をもって描いた連作です。いずれも面白いのですが、中でも円谷幸吉を描いた作品が出色。そのあまりの切なさに心が痛みます。 実は、彼は競技の際に一度も振り返らないのですね。振り返ってヒートリーが迫っているのを視認すればそれなりの駆け引きもできたはず。本書によると、小学生の時の徒競走で振り返り、厳父に叱責されたそうです。「男が走り出したら振り向くな」と。(p.105) また中学時代の担任はこう語っています。「あの子は、目上の人のいうことは悪いわけがないという感じ方を持っていたから、上の命令はよく守った」(p.108) また円谷と苦楽を共にした教官・畠野洋夫に出した手紙の中で、彼はこう書きます。畠野がいなくなって自分のことを叱り命令してくれる人がいなくなった、すべて自分の思うようになる、それが辛い、と。(p.138) 権威への服従、批判精神の欠如、そして自我の消失。ハードな練習によって体を壊しつつも、彼は上官のため、仲間のため、父親のため、そして何より自衛隊という組織のために走り続けます。その彼のはじめての自己主張とも言うべき行為が、好きな女性との結婚でした。しかし… 恐らく事情はこういうことだった。縁談はまとまり、細部まで決まったが、そこに思いがけぬ邪魔が入った。体育学校の上官から「待った」がかかったのだ。メキシコに行けるかどうかもわからないのに結婚どころではないはずだ、というようなことだったろう。いくら自衛隊といっても個人の私生活にまで干渉はできない。だが、その「参考意見」は、父親の幸七にしてみれば命令も同然だった。幸七はそういうタイプの人間だった。その上官は、それを見越して意見を述べたのかもしれない。(p.129)個人を犠牲にしてまでも、己の利益を貫徹しようとする組織の冷徹さ。結局、円谷は婚約を破棄します。円谷のために上官に異を唱えた畠野洋夫は北海道へ左遷され、そして婚約者は彼がくれたお土産を詰めた箱を車で運んできて、それを返すとすぐに帰ってしまったそうです。彼の胸中に飛来したものは何か。孤独、絶望、責任、義務… もはや誰にもわかりませんが、彼が自殺という結末を選びます。 さて、彼を死に追いつめたものは何だったのでしょう。それは今の社会から払拭されたのでしょうか。円谷幸吉、忘れられない、そして忘れてはいけないアスリートです。 ▲
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| 2014-10-29 06:31
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しばらく歩くと、新大聖堂の高い尖塔が見えてきました。高さは134m、ウィーンのシュテファン寺院に次いでオーストリアで二番目だそうです。この付近にあった刃物屋さんで面白い看板を見かけました。ナイフが壁につきささっているワイルドな代物、もちろんカメラにおさめました。新大聖堂と、昨晩ケバブを買ったお店を撮影して散策を終了。
![]() なおリンツはアドルフ・ヒトラーと所縁が深い町なのですが、情報と努力不足のため彼に関する史跡めぐりはできませんでした。せめて『ヒトラーのウィーン』(中島義道 新潮社)を参考に、彼とリンツの関係を紹介したいと思います。ヒトラーは1889年にブラウナウで生まれ、1894年にリンツに移住して実科学校(Realschule)に入りますが成績不良でした。なお同じ学校にヴィトゲンシュタインがいたそうです。母親はリンツから40キロ離れたシュタイアーの実科学校に転校させますがここでも成績不良となります。この時に彼と確執が深かった父親が他界しました。父アロイスは、息子を自分と同じ官吏にしようと望みますが、アドルフは画家を志望。その妥協案が実科学校でした。大学へも進めるし、製図やデッサンなども学べて造形美術アカデミーへの道も開かるというわけです。1903年にその父が死ぬと、実科学校で学ぶ意欲が失せ、ますます反抗的かつ軽蔑的態度で教師やクラスメートたちを眺めるようになりました。結局、留年、そして退学処分となります。1905年6月、母クララはアドルフを勉強させることをあきらめ、リンツ市内のアパートに移住、この時から1908年2月にウィーンに移り住むまでの2年8ヶ月がヒトラーのリンツ時代です。なおそのアパートは現存していて、中央駅とハウプト広場とのあいだのフンボルト通り31番地、四階建てのピンクがかった薄褐色色の小奇麗な建物だそうです。16歳の少年は、学校にも通わず、働くこともせず、といってぐれて遊びまわるわけでもなく、毎日小奇麗な身なりをして、散歩し、読書し、時々オペラ鑑賞に行き…、という定年を迎えた老人のような生活を続けました。男友達もガールフレンドもいなかった。毎晩きちんと家に帰り、母の手料理を食べ、それで彼は至極満足でした。 これはまさに典型的な「ひきこもり」である。彼には基本的に他人が必要ないのだ。ひとりでいることに満足し、まったく孤独を感じないほど孤独だったとも言えよう。(p.189~90)中島氏曰く「他人を理解する能力を絶望的に欠いていた」(p.187)ヒトラー、その特異なパーソナリティを育んだのが、このリンツという町だったのかもしれません。これは、福島や沖縄の人びとの苦しみ・悲しみ・怒りを理解する能力を絶望的に欠いた御仁、安倍晋三伍長にも共通するパーソナリティですね。 本日の一枚は、ハウプト広場です。 ![]() ▲
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| 2014-10-28 06:42
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朝目覚めてカーテンを開けると曇り空、雨が降らなければ諒としましょう。本日は11:32発の列車に乗ってハルシュタット(Hallstatt)へと移動します。少々時間があるので、朝食をいただいた後、リンツを散策することにしました。まずはハウプト広場の近くにあるモーツァルト・ハウスを訪問。1782年に、父や姉の大反対を押し切りコンスタンツェと結婚したモーツァルトは、83年7月に新妻を父と姉に紹介すべくザルツブルクに帰郷しました。3ヶ月の滞在期間中、終始冷淡な扱いを受けた後、ウィーンに向けて出発することになります。その途中にあるここリンツに10月30日到着したモーツァルト夫妻は、ファンであるトゥン伯爵に歓待を受けました。故郷で冷たい仕打ちを受けたモーツァルトは、その反動でいたく感激したようです。そして歓待の席で伯爵から、11月4日に演奏会を開きたいと所望されました。しかし、手元には曲がありません。郵便馬車で取り寄せるにしても、到底演奏会には間に合いません。そこでモーツァルトは、書いた方が早いと判断したのですね。凄い… というわけで、この交響曲第36番は3日で完成し、演奏会で披露されました。よってつけられた名称が「リンツ」。前述のように、私が大学のオーケストラではじめて弾いたモーツァルトの曲でもあります。感無量。入口のところにモーツァルトの胸像と解説のディスプレイがあり、「PRESS BUTTON」と記された赤いボタンがありました。これはもしや…指も折れよとぐいと押し込むと…じゃーん、じゃじゃーん、じゃじゃーん、じゃじゃーん、じゃじゃーん。おおまごうことなく交響曲第36番「リンツ」(KV425)です。さて誰の演奏だろう? ブラインド・フォールド・テストなら任せなさい、しばらく集中して聴き、(はた)ニコラウス・アーノンクール指揮のアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏だ。「なぜわかったの?」と眼をうるうるさせながら畏敬の面持ちで訊ねる山ノ神に、「そりゃあ…そのディスプレイに書いてあったからさ」 ちゃんちゃん。それはともかく、今は、カール・シューリヒト指揮、パリ・オペラ座管弦楽団の溌剌とした「リンツ」を聴きながらキーボードを叩いています。
![]() それでは新大聖堂へと向かいましょう。途中で、マウンテン・バイクを押し、それ用のウェアでびしっと身を固めた小粋な二人連れのお巡りさん(POLIZEI)に遭遇。そのあまりのかっこよさに、後姿を撮影してしまいました。オーストリア警察の見識には敬意を表したいですね、イヴァン・イリイチは『シャドウ・ワーク』(岩波現代文庫)の中でこう言っています。 都市の自転車交通は、徒歩の四分の一のエネルギー消費で、四倍の速さの移動を可能にする。ところが、自動車は同じだけ進むために、一人一マイルにつき百五十倍の熱量を必要とする。(p.141)またそのスタイルに憧れて、警官を志望する若者も増えるのではないかな。「草食系より大阪府警」などといったベタなギャグで人を集めようとするどこかの国の警察には見習ってほしいものです。 ![]() 本日の二枚です。 ![]() ![]() ▲
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| 2014-10-27 06:34
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そして帰路は修道院近くのバス停"St.Florian Stift"から乗ることができます。少々時間があるのですぐ近くにあった小さな庭園を散策し、お花越しに教会の尖塔を撮影しました。やってきたバスに乗り込み、リンツのバス・ターミナルに到着したのが午後五時半。明日はハルシュタット(Hallstatt)への移動なので、駅で列車を確認しておくことにしました。事前にインターネットで調べたところ、間違いなくハルシュタットへの直通列車があります。しかし掲示してある時刻表をいくら確認しても、ハルシュタット行きの列車が見あたりません。ま、高名な観光地だし、明日駅員に訊ねれば問題なかろうとたかをくくり、リンツの中心街へと歩いていきました。現在市立博物館となっている建物は、その昔はイエズス会の寮で、かつてヨハネス・ケプラーがここで働き、1619年に主著である『ハルモニカエ・ムンディ』を完成させたそうです。
![]() おっ一天にわかにかき曇り、突然の雷雨が襲ってきました。これはたまらん、あわてて旧大聖堂に避難。1855年、ふとしたきっかけからブルックナーが飛び入り参加した試験演奏が素晴らしかったため、オルガン奏者という要職につき、オルガン奏者から交響曲作家へと脱皮するための修業時代(1855‐68)を過ごした大聖堂ですね。記念のプレートが掲げられていました。 ![]() すぐに小降りになったので外へ出ると、空にはきれいな虹がかかっていました。ホテルの近くにあるお店でケバブをテイク・アウトする際に、山ノ神が若い店員さんとお話をすると、彼はスロヴェニア出身とのこと。ブレッド湖は美しかったという話をすると、ほんとうに嬉しそうでした。そして部屋に戻ってケバブをたいらげ、明日の出立に備えて荷物整理。さあいよいよ明日はハルシュタットです。 ![]() 本日の二枚です。 ![]() ![]() ▲
by sabasaba13
| 2014-10-26 07:38
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中庭に入ると、握手をしているブルックナーとブラームスの影絵オブジェがありました。同時代人である両者の関係はどうだったのか、気になったのでインターネットで調べてみると、互いの作品を酷評していたそうですね。1889年10月25日、のことだった。ブラームスが常連だったウィーンのレストラン「赤いはりねずみ亭(Zum Roten Igel)」で食事をとった二人、気まずい沈黙の後、メニューを見たブラームスが「あ、私はこれが好物なんだ」と言うと、ブルックナー曰く「ブラームス博士、その点では私たちは意見が一致するようですよ」 一同大爆笑。それでムードがほぐれ、あとは和やかな雰囲気のうちに食事が進んだとか。また、ブルックナーの交響曲第8番の初演(1892年12月)後、同曲への感想を直接求められたブラームスはきっぱりと「ブルックナーさん、あなたの交響曲は私にはわかりません」。ブルックナーも即座に「私もあなたの交響曲について同感です」と応戦。1896年10月、ブルックナーが死去した時、カール教会での葬儀に現れたブラームスは、堂内に入るよう促されましたが、「すぐに私の番だ」とつぶやき、その場を立ち去ったそうです。なるほど、両者の和解を願ってつくられたオブジェなのかもしれません。
![]() インフォメーション兼売店でコンサートの入場券を購入し、隣りにある付属教会へと入りました。すぐ足下にブルックナーの墓碑、大オルガンの真下の地下室に彼の遺骸は安置されたのですね。合掌。白と金で豪華に装飾されたオルガンを撮影していると、そろそろコンサートの開始時間です。 ![]() プログラムを見ると、本日の曲目は、マックス・レーガーのトッカータ(ニ短調)、ブルックナーの"Perger"Praludium、Andreas EtlingerのFreie Improvisation、J・S・バッハのコラール「もろびとよ、神に感謝せよ」(BWV657)、そしてワグナー作曲、リスト編曲の「タンホイザー」。そしてオルガニストは…三曲目の作曲者、Andreas Etlingerでした。さあはじまりです、わくわく。 ![]() 心を、体を、堂内を、宇宙を揺るがす重厚で荘厳な響きに包まれながら、ただただ音楽に没入するのみ。至福の三十分でした。中でも我ら二人が気に入ったのが、演奏者でもあるEtlinger氏の曲。インプロビゼーションというタイトルなので、即興演奏だったのでしょうか。その一陣の涼風のような軽やかで爽やかな曲想には聴き惚れました。インフォメーションに戻り、修道院のガイドツァーについて尋ねると、ドイツ語オンリーとのこと。われわれは参加せずに、修道院の外観だけを撮影。ショップでさきほど聴いたAndreas Etlingerの CDをさがすことにしました。鵜の目鷹の目、すべてのラックをほじくりかえしましたが演奏されていた曲のCDが見つかりません。詮方なく、同氏が違う曲を演奏したCDを購入、現在愛聴しています。 ![]() 本日の二枚です。 ![]() ![]() ▲
by sabasaba13
| 2014-10-25 08:52
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それではスーパーニッポニカ(小学館)から引用しましょう。
ブルックナー Josef Anton Bruckner (1824―96)私が持っていたCDは交響曲第3・4・5・8・9番だけでしたが、せっかく彼の心の故郷を訪れるのですから、一念発起、残りの5曲を買いそろえて事前に聴きこんで…はいないな、聴き流してきました。午後二時半から、彼が弾いていたブルックナー・オルガンのコンサートがあるということなので駆けつけた次第です。 本日の一枚です。 ![]() ▲
by sabasaba13
| 2014-10-24 06:30
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外に出ると、あちこちで子どもたちや学生たちのグループが、ガイドの話しに耳を傾けているのを見かけました。世界が強制収容所と化しつつある今、希望をもつことができる光景です。なお後日、朝日新聞(14.7.13)を読んではじめて知ったのですが、戦争被害、死、あるいは自然災害などに関する体験や、人類の負の歴史などを対象にした観光を「ダークツーリズム(Dark tourism)」と言うそうですね。私もできうる限り、旅程に織り込むよう努力しています。
さきほどはさほどではなかったのですが、バスの停留所へ歩いていると、たくさんのサイクリストとすれ違いました。これも希望を感じる光景です。たくさんの小さな首を並べたオブジェを見かけましたが、これはマウトハウゼン強制収容所を表現しているのかな。 ![]() 三十分弱で停留所に到着、やってきたバスに乗り込んでリンツ駅へと向かいます。駅横のバス・ターミナルで410番線のバスに乗り換えると、三十分ほどで"Markt St.Florian Gendamerieplatz"という停留所に到着。ここから歩いて十分ほどのところにあるというので、山ノ神にお願いして、バスの運転手さんに方向を尋ねてもらいました。教えてくれた坂道をのぼると、前方に二つの尖塔が見えてきました。どうやらあれがザンクト・フローリアン修道院のようです。のどかな住宅街をのんびりと歩いていると、魔法使いの風見を見つけました。 ![]() そして十分ほどで壮麗な修道院に到着。聖フローリアンは消防の守護聖人、4世紀初めに殉死した彼の亡骸がこの地に葬られたことから、この修道院が設立されました。その付属教会のオルガニストだったのがアントン・ブルックナー、彼が弾いていたオルガンが残されています。 本日の二枚です。 ![]() ![]() ▲
by sabasaba13
| 2014-10-20 06:33
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重い重い時間でした。人間を侮辱し、抑圧し、破壊する圧倒的な暴力の現場と遺跡を前にして、言葉を失い立ち竦むばかりです。しかしこの野蛮さが欧米世界に衝撃を与えたのは、はじめて白人がその被害者にされたという事実によるのではないか。これまで欧米の白人は、非白人に対して、罪責も羞恥も感じずに野蛮な暴力をふるってきたのではないのか。エメ・セゼールの言葉を、「帰郷ノート/植民地主義論」(平凡社ライブラリー)引用します。
彼らは驚き、憤慨する。彼らは言う、「なんとも奇妙なことになってしまった。だが、まあ、こいつはナチズムだ。そのうち収まるさ!」と。そして彼らは待ち、期待する。だが、彼らは真実に目を閉ざす。それがひとつの野望、いやそれどころか、日常性の中のさまざまな野蛮を締めくくり集約する至高の野蛮であるという真実に。それはナチズムだ、確かにそうだ。だが、自分たちは、その犠牲者である前にまず共犯者であったという真実に。このナチズムというやつを、それが自分たちに対して猛威をふるうまでは、許容し、免罪し、目をつぶり、正当化してきた-なぜなら、そいつはそれまで非ヨーロッパ人に対してしか適用されていなかったからだ-という真実に。このナチズムというやつは自分たちが育んだのであり、その責任は自分たちにあるという真実に。ナチズムは、西欧キリスト教文明のありとあらゆる亀裂から湧き出し、浸透し、滴り落ち、ついには血の色に染まったその水面下に、その文明自身を呑み込んでしまおうとしているという真実に。(p.137~8)鋭い。この出来事はナチスという例外的な存在が行なった狂気の犯罪であって、二度と繰り返してはいけない…といった牧歌的な話にしてはいけないのですね。過去、白人が植民地において行なってきたジェノサイド、そしてアフガニスタンやイラクで米英が行なった非人間的行為、アウシュヴィッツ・マウトハウゼン的状況が、いかに普遍的なものか銘肝すべきです。あるいは多くの人間を侮辱し、抑圧し、破壊することによって、一部の人間が富を積み上げる、いわゆる"グローバリゼーション"も同じ状況と言えるかもしれません。テオドール・W・アドルノの有名な言葉、"アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である"は、"コロンブス以後、詩を書くことは野蛮である"と言い換えるべきでしょう。ではどうすればこの状況を変えることができるのか、とてつもなく重い課題を抱きつつ収容所を後にしました。 本日の四枚です。 ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
by sabasaba13
| 2014-10-19 08:36
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自己紹介
東京在住。旅行と本と音楽とテニスと古い学校と灯台と近代化遺産と棚田と鯖と猫と火の見櫓と巨木を愛す。俳号は邪想庵。
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