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スイス編(95):ジュネーヴ(14.8)

 さてこれからル・コルビュジェが1931年に設計した"クラルテの集合住宅"に向かいます。ガイドブックにも載っていない物件なので、事前に正確な住所を調べておき、一昨日にiで確認をしておきました。ちなみに名称は「イムーブル・クラルテ(Immeuble Clarte)」、住所は「2, rue St Laurent」です。iで所在地を書き込んでもらった地図を片手に、二十分ほど歩くと到着です。ル・コルビュジェの都市計画に対する考え方が確立された時期のもので、彼が設計した最初のアパートだそうです。一階おきに設置された大きなバルコニーと、明かりとりの大きなブロック・ガラスが印象的でした。
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 事前に入手できた資料を紹介します。
『ル・コルビュジエ 終わりなき挑戦の日々』(ジャン・ジャンジェ 創元社)
 スイスのクラルテ・アパートでは、鉄鋼業者エドモンド・ワナーの依頼でクラルテ・アパートを建てた。ル・コルビュジエはこのアパートで、2階分の高さがある吹き抜けの居間を設計し、金属部品や窓枠などを厳格に規格化し、ガラスを多く使うなど、さまざまな実験を試みている。(p.67)

『ル・コルビュジエを見る』(越後島研一 中公新書)
 同時期の作に、ジュネーヴの集合住宅クラルテ(1933)がある。坂道の途中に建つ姿が印象的だ。各住戸は、居間が二階分の高さをもつ。だから外観では、バルコニーが一階おきに現れ、通常の集合住宅よりずっとゆったりした表情をもっている。…10年前の、二階分の高さをもつ大きな凹部が繰り返された集合住宅「イムーブルヴィラ」と、類似した効果だ。クラルテでは凹型ではなく、突出したバルコニーだが、通常の住宅のスケールを超えた大きなリズムが刻まれているために、おおらかさを印象づける。
 南側もガラス張りで、個々の窓の外部には、バルコニーにかぶさる赤いブラインドがついている。ここでも室内の奥行きは深くはない。スイスであっても、透明な建築の中は住みづらいほどの高温になってしまう。だから陽あたりがよい南側では、日除けを工夫する必要があったことがわかる。(p.90~1)
 なお「屋上庭園があり住む人に太陽・空間・緑を享受する喜びを与える」とのことですが、中に入る勇気はありませんでした。事前にもう少しきちんと調べておけばよかったと後悔しています。

 本日の二枚、下の地図の★にあります。
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by sabasaba13 | 2016-02-17 06:17 | 海外 | Comments(0)

スイス編(94):ジュネーヴ(14.8)

 その近くにあったのが「ルソーと文学の家」、ルソーの生家をリニューアルして彼に関する博物館として公開されています。
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 そしてジュネーヴ大学の前にあるバスティヨン公園へ、緑に包まれた広大な公園で、市民のみなさんが大きなチェスやチェッカーを楽しまれていました。
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 そこにあったのがジャン・ピアジェ(Jean Piaget)の胸像で、日本語で「前人未到の自然発生的認識論を築いた20世紀の巨人ジャン・ピアジェ博士に感謝をこめて 日本幼年教育会 理事長 松井公男 他 会員一同」と刻まれていました。
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 スーパーニッポニカ(小学館)から引用します。
ジャン・ピアジェ (1896‐1980) スイスの心理学者。ジュネーブ大学教授。ヌーシャテルに生まれる。ヌーシャテル大学で動物学を専攻したが、その後、子供の認知発達の分野に関心を向け、1921年以来ジュネーブのルソー研究所でこの分野の研究に没頭した。
 そして宗教改革記念碑へ。カルヴァンの生誕400年を記念して造られたモニュメントで、ローマのキリスト教会に敢然と立ち向かい、プロテスタントの旗印を打ち上げた四人の聖職者、左からファレル、カルヴァン、ベーズ、ノックスの巨像です。その気鬱な表情が印象的でした。安倍伍長の顔がだぶってきます。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2016-02-16 06:39 | 海外 | Comments(0)

スイス編(93):ジュネーヴ(14.8)

 サン・ピエール大聖堂を撮影して、宗教改革記念碑の方へ歩いていくと、ある建物に記念プレートが掲げられていました。フランス語なので詳細はわかりませんでしたが、赤十字とアンリ・デュナンに関係する物件のようです。気になったので、今、インターネットで調べてみると、「swissinfo.ch」というサイトに詳しい説明がありました。小生の文責で要約して紹介します。アンリ・デュナンは1828年5月8日ジュネーヴで、人道主義的な気風の漂う敬虔なプロテスタントの家庭に生まれた。しかし学業は振るわず、高校を中退した後、実業界に入り、アルジェリアで広大な土地を開発する工業・金融の会社を興しました。31歳の年、事業に必要な水利権の獲得をナポレオン3世に直訴しようという大胆な考えを思いつき、北イタリアに向かいました。当時ナポレオン3世は、イタリアからオーストリア軍を退却させようとイタリア・フランス連合軍を指揮していました。こうしてデュナンは、北イタリアのソルフェリーノの戦いに遭遇します。イタリアの独立を目指し戦うフランス・サルディニア連合軍とオーストリア軍の激しい戦いはガルダ湖の近くで、1859年6月24日に始まります。戦いが終わるころ、両軍の4万人を越える兵士が深い傷を負い、戦場でもがき苦しんでいました。その悲惨な有様にデュナンは、即座に地元住民の助けを借り救助隊を組織ました。ジュネーヴに戻ったデュナンは、戦争の悲惨さを緩和し、より人道的な「傷ついた兵士を援助する組織」の構想を発展させていきます。ソルフェリーノでの記憶がまだ生々しい1863 年、デュナンは4人の友人と、後の「赤十字国際委員会(ICRC)」の基礎となる「5人委員会」を立ち上げました。一年後、5人の交渉力に支えられ、スイス政府は16カ国を招待して国際会議を開催し、最初の「ジュネーブ条約」の調印式が行われました。条約は戦争のルールを規定し、戦場での負傷兵の取り扱いと白地に赤十字の旗を制定しました。しかし、その後の30年間はこうした輝かしい人生の前半とは大きなコントラストをなすことになります。アルジェリアでの事業は、人道問題に力を注ぎ過ぎたことも災いし難航。1867年ジュネーヴの金融機関の倒産はデュナンも巻き込み、翌1868年には詐欺罪に問われ、ました。多くの友人を巻き込んだこの事件の後、デュナンはジュネーヴの社会から事実上追放され、数年後には、ほとんど物乞いをするような生活を送るようになりました。深く失望したデュナンは、ジュネーブを去り1875年、小さな町ハイデンに移り住み、ここで残りの生涯の18年間を過ごすことになります。だがデュナンは完全に忘れ去られたわけではありませんでした。1895年ドイツのジャーナリスト、ゲオルグ・バウムベルガーがデュナンについての記事を書き、それが世界の新聞に取り上げられたのです。デュナンは再び世間の注目を浴びるようになりました。1901年、デュナンは国際赤十字運動の基礎を築き、ジュネーヴ条約を創設した功績をたたえられ初のノーベル平和賞を贈られました。だがその後、1910年10月30日に特別な葬儀もなくチューリヒで埋葬されました。なるほど、そういう歴史があったのか。勉強になりました。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-02-15 06:35 | 海外 | Comments(0)

スイス編(92):ジュネーヴ(14.8)

 それはさておき、カルヴァンはジュネーヴにおける政治の実権を握ると、彼の教義を批判する者を弾圧するようになり、三位一体説を批判したセルヴェートを火刑に処すなどの恐怖政治を行ないました。これに対してバーゼル大学の貧しい神学者にしてヒューマニストのジャン・カステリオンは、異端者を処刑するのはかつてカトリック教会が行なったのと同じであり、カルヴァン自身もかつて否定した、と彼の『キリスト教綱要』を引用して強く批判しました。これに対して怒ったカルヴァンは、政治権力を使ってバーゼル市にカステリオンの引き渡しを求めます。しかし当時の都市国家の独立性は強く、彼の引き渡しを拒否。そしてカステリオンはカルヴァンに対して礼儀正しく反論しますが、論争の疲れから病死してしまいます。この一連の経過は、前述のツヴァイク著『権力とたたかう良心』でくわしく描かれています。中でも『異端者について。これを迫害すべきや』の中で、カステリオンが述べた言葉は記憶にとどめたいと思います。
 人を殺すことは教義を守ることにはならない。それはあくまでも人を殺すことなのだ。
 シュテファン・ツヴァイク、忘れ去ってしまうにはあまりに惜しい作家です。本書と、『エラスムスの勝利と悲劇』(みすず書房)、『人類の星の時間』(みすず書房)、『ジョゼフ・フーシェ』(岩波文庫)は特にお薦めです。
 それにしてもこの状況が、昨今の日本のそれと酷似しているように思えるのは杞憂でしょうか。まるで日本人は「選民」であると言わんばかりの傲慢な言行の横溢、経済成長(その実は民主制を否定して企業の利益を優先すること)しか眼中にない偏執、それを批判する知識人・メディアへの硬軟とりまぜた抑圧。安倍伍長がジャン・カルヴァンに、日本人が当時のジュネーヴ市民に、二重写しに見えてきます。

 本日の二枚、カルヴァンが拠点としたサン・ピエール大聖堂と彼の家です。
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by sabasaba13 | 2016-02-14 06:23 | 海外 | Comments(0)

スイス編(91):ジュネーヴ(14.8)

 橋を渡って対岸に行くと、そこが旧市街。迷路のように狭い路地や階段が入り組んでいます。
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 水飲み場には"EAU POTABLE"というフランス語、たぶん飲料水ということなのでしょう。石段の端には、自転車用の鉄製のレールが敷かれていました。そして着いたのが"Rue Jean-Calvin"、カルヴァン通りです。
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 カルヴァンが拠点としたサン・ピエール大聖堂の尖塔が見える細い路地に、彼が住んでいた家がありました。カルヴァンについて、『図説 世界の歴史6 近代ヨーロッパ文明の成立』(J.M.ロバーツ 創元社)から引用しましょう。
 さらにカルヴァン派とよばれる非常に重要な一派も生まれていました。カルヴァン派を創設したのはジャン・カルヴァンというフランス人でしたが、その運動の拠点はスイスのジュネーヴにありました。神学者だったカルヴァンは、まだ若い時分に、のちに大きな影響をおよぼすことになる独自の神学をまとめあげています。彼の神学の中心にあったのは、ごく少数の人びと、つまり神によってあらかじめ救済を約束されている「選民」をのぞいて、人間の救済は不可能だという思想です。
 この暗く陰鬱な思想がもっていた魅力を理解することは、容易なことではありません。けれどもカルヴァンの影響力はジュネーヴだけでなく、フランス、イギリス、スコットランド、オランダ、イギリス領北アメリカなど、多くの国に広がっていき、その後の各国の歴史を動かしていくことになりました。彼の教えでは自分が「選民」であると確信できるかどうかという点がもっとも重要なポイントだったのですが、神の戒律を守りながら聖礼典(サクラメント)に参加すれば「選民」の兆しが現れるとされていたため、そのような確信を得ることは、実はそれほどむずかしくはなかったようです。
 カルヴァンはジュネーヴに理想のキリスト教都市を実現するため、教会法規を制定しています。また、神を冒?した者と魔術を行なう者は死刑に処するとしましたが、そのことは同時代の人を特別驚かせはしなかったようです。一方、不義密通についても死刑に処すとしたことは、従来よりもはるかにきびしい罰則としてとらえられました(密通した女は水死刑に、男は斬首刑に処せられました)。もちろん異端の罪を犯した者は、もっともきびしい刑罰(火刑)が待っていました。(p.71~2)
 またシュテファン・ツヴァイクは『権力とたたかう良心』(みすず書房)の中で、こう語っています。
 カルヴァンが現実の世界で勝利したのは、まさにこの強情なまでの自信、予言者的な狂信、偉大な偏執狂のおかげであった。(中略) 暗示にかかりやすい一般のひとびとが寛容な正義のひとに従ったためしは、かつて一度もない。彼らはつねに、自分の真理こそ唯一の真理であり、自分の意志こそ世の法律の基本原則だと公言してはばからないような偉大な偏執狂にだけ従うのである。(p.46)
 これ以後、世界を席巻するヨーロッパやアメリカ合州国の資本主義、植民地主義、帝国主義、そして新自由主義を支えたのは、この暗く陰鬱だが魅力的なカルヴァンの教えなのかもしれません。自らを「選民」とする傲慢さと自信、自分の真理と意志が唯一のものであるとする狂信と偏執、そして選ばれない他者に対する不寛容と差別と暴力。奈落の底へ落ちつつある世界、やり直すにはここから始めなければならないのでしょうか。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-02-13 07:35 | 海外 | Comments(0)

言葉の花綵135

 あんたは、人類はもうおしまいだと観念しないのかね。わたしはそう観念している。わたしたちは打ちのめされたんだ。負けたのだ。(『宇宙戦争』 H・G・ウェルズ)

 愚者は自らの経験に学び、賢者は他者の経験に学ぶ。(ビスマルク)

 80%の力で、淡々とやれ。(某航空管制官)

 立ち止まらないことが希望だ。(池澤夏樹)

 あたしなんぞ、道楽大学の優等卒業生なんだけれども、月謝はずいぶん高くついてますよ、何しろ在学期間が永かったんでネ。(古今亭志ん生)

 人の短所を、短所と指摘しないこと。(高田真治)

 科学は政治を支配したが、科学者は政治家に支配されている。ここに現代及び将来の不安がある。(永井隆)

 商人が自分の商品に興味を失う時代は、やがて官吏が職務を忘却し、学者が学問に倦怠し、職人が仕事をごまかす時代でありはしないか。(寺田寅彦)

 男泣くなら人形のように、顔で泣かずに腹で泣け。(鶴田浩二)

 ピカは、人がおとさにゃ、おちてこん。(丸木スマ)

 ああ金の世や金の世や/地獄の沙汰も金次第/笑うも金よ泣くも金/一も二も金三も金/親子の仲を割くも金/夫婦の縁を切るも金/強欲非道と譏ろうが/我利我利亡者と罵ろうが/痛くも痒くもあるものか/金になりさえすればよい/人の難儀や迷惑に/遠慮していちゃ身がたたぬ (添田唖蝉坊)

 ああわからないわからない/賢い人がなんぼでも/ある世の中に馬鹿者が/議員になるのがわからない/議員というのは名ばかりで/間抜けでふぬけで腰抜けで/いつもぼんやり椅子の番 (添田唖蝉坊)

 人間には、銘々に自分の流儀という奴がある。人生に対処するには、自分の流儀でやるより仕方ないんだ。他人の流儀を真似たり、他人に教えられた流儀で生きようとしたら、そいつは自分が自分でなくなっちゃうことだよ。(尾崎士郎)

 芸術は短く、貧乏は長し。(直木三十五)
by sabasaba13 | 2016-02-12 06:38 | 言葉の花綵 | Comments(0)

『香港』

 小熊英二氏が監督した『首相官邸の前で』の映画評は以前に上梓しましたが、上映後におこなわれたトーク・ショーについて紹介します。ゲストは、歴史・文化社会学、ナショナリズム論、日本研究(鉄道史、サブカルチャー論、近代日本ナショナリズム)を専門とする香港の張…だめだ、漢字が難しすぎる。申し訳ない、Cheung Yuk Man氏。そして学生運動にコミットしている香港在住の女子大学生、周庭(アグネス・チョウ)氏です。
 テーマは民主化運動です。●があったら入りたいほど恥ずかしいのですが、2014年秋に香港では、市民が香港中心部を79日間も占拠するという「雨傘運動」が起きたのですね。正直、あまり実りある話は聞けませんでしたが、張氏が共同執筆された岩波新書を二人のサインをつけて即売するというので、購入しました。
 というわけで『香港 中国と向き合う自由都市』(倉田徹/Cheung Yuk Man 岩波新書1578)読了。「はじめに」で倉田氏はこう述べられています。香港は国なのか、地域なのか、都市なのか。イギリス的なのか、中国的なのか、アジア的なのか。グローバルなのか、ローカルなのか。親中なのか、反中なのか。親日なのか、反日なのか。経済都市なのか、政治都市なのか。これらほとんど全ての問いに対して「イエスでもあり、ノーでもある」としか言えない、と。そしてこう言われます。
 このような、複雑怪奇で千変万化の香港に、万古不易の原理は存在するのか。筆者両名がたどり着いた一つの答えが「自由」であった。植民地期から現在まで、香港は「自由都市」であった。「自由」の意味合いは時によっても変わるし、自由への脅威も常にあった。しかし、香港の人々は、自由を存分に使い、アイデアによって商売を生み出し、知恵によって強権と向き合い、たくましく生き続けた。香港を理解するには、この「自由」の本質に迫る必要がある。…まさに、香港は驚くほど自由なのだ。(p.x~xi)
 そんな香港について、倉田氏が歴史と政治を、張氏が社会と文化を論じたのが本書です。イギリスと中国という二人の巨人に支配されながら、自由にしたたかに生き抜いてきた香港の人々の歴史、たいへん興味深いものでした。中でもやはり「雨傘運動」に関する叙述は圧巻です。2014年、中国は、2017年に予定される香港初の政府トップ・行政長官の選挙において、北京と対立する民主派が出馬できなくなるような制度を決定しました。民主派と学生はこれに怒り、9月28日から12月15日までの79日間、香港中心部を占拠しました。催涙弾に雨傘を差して耐える市民の姿から、この運動は「雨傘運動」と称されます。占拠された地域の近くに住み、自らこの運動を体験した張氏が、占拠区の個人がそれぞれどうこの運動を作り上げたかを証言されています。例えば…
 2014年9月28日午後4時ごろ、学生たちを支援にきた市民が車道に溢れた。彼らは学生を包囲した警察の封鎖線を突破しようとしたため、警察による催涙ガスでの攻撃と、傘の防御陣との間での攻防戦が繰り返されていた。午後5時58分、一発目の催涙弾が発射された。市民はいったんは一斉に散ったが、一部はやがて方々から戻ってきた。暴徒と見なされると、警察の暴力に口実を与えるので、市民は手をあげて降参のポーズで、時に逃げたり、時に機動隊に立ちふさがったりして、平和主義を貫いた。大量の市民を全員逮捕することはできないし、報道カメラを前に市民に発砲もできない警察は、催涙弾を乱発するしかない。
 ゲリラ戦術といえば聞こえはいいが、香港人らしい弱虫戦術だ。一人ひとりの命と身の安全が大事、危険なら一時的に避ける。無駄な犠牲は要らないが、屈服しない。武装抵抗ではなく、野次馬根性で粘りぬいたことは、雨傘運動の長さと広がり、そして死者が出なかったことの理由のひとつだ。(p.173~4)
 弱虫戦術とはご謙遜、たいへん参考になるしたたかな戦い方です。警察の暴力に口実を与えない、報道カメラを利用する、無駄な犠牲はださないが屈服しない、そして野次馬根性。お見事。
 また村上春樹氏がエルサレム賞授賞式スピーチで使った比喩「壁と卵」が、雨傘運動でたびたび引用されたことも知りました。壁=システムを、専制政治と中国共産党の比喩として使ったのですね。また雨傘運動の最中にベルリンで行なわれた文学賞受賞式スピーチでは、香港の若者にエールを送り励ましたそうです。迂闊にもこれは知りませんでした。インターネットで調べたところ、「小さなスナック」というサイトに全文が掲載されており、最後は"まさに、壁と闘っている香港の若者たちにこのメッセージを送りたいと思います"というエールで締めくくられていました。
 権力に翻弄されることを拒否する「自己決定の自由」を求めて戦う香港の人たち。そして筆者は、その香港と日本を比較してこう述べられています。長文ですが、たいへん重要なことですので引用します。
 選挙のない時期に、民意を為政者に見える形にするのがデモである。もちろん、デモは選挙と異なり、参加人数を正確に数える仕組みはないし、どれほど大規模なデモも、総人口の過半数の参加を集めることはまずあり得ない。デモ=民意との解釈はむしろ民主主義に反するもので、「沈黙する多数派」の「声なき声」を聴けという主張も、普遍的に見られる。しかし、デモ現場の人数以外に、デモに共鳴しつつも現場には行けない人が多数いると想定されるのは当然である。また、仮に主張に賛同する者が少数派であったとしても、デモという行動に出る人の訴えは、多くの場合沈黙する者や無関心の者よりも切実なものであり、あるいは多数派が彼らの何らかの権利や意思を不当に踏みにじっていることへの強い抗議なのかもしれない。抗議する権利を否定することは、次に自分が権利を侵されたときに、抗議の声をあげる権利を放棄することと同義なのである。こういったことを踏まえずに、デモ現場の人数を総人口で割って比率を求め、それを根拠にして主張を無視するような発想は、民主主義の相当表面的な理解と言わざるを得ない。デモは「権利」であり、ここで発揮されるべきは、多数決の「民主」よりも、権利を侵害されない「自由」なのである。
 香港の人々は、自由の権利の行使として、当たり前のようにデモを起こす。一方の日本では、大規模な抗議デモが発生し、世論調査で反対が多数を占めると報じられる中、安保法案は国会で可決された。香港市民から見れば、これはむしろ不思議な光景である。「民主的」な政治体制の下に住む日本人が、どれだけ「自由」だと言えるだろうか。貿易拡大のために、北海道は農業の犠牲を強いられる。安保を理由に沖縄は基地を強制される。さらに言えば、対米関係が国内世論より優先される日本に、どれほどの「自己決定の自由」があるだろうか。
 制度面で十分な自由の空間が保障されている日本に対して、香港の自由は常に植民地当局や共産党という強権と相対し、極めて脆いもの、不完全なものにも見える。しかし、香港市民はこれまで、与えられた自由の空間を存分に活用してきた。自由を使うことが香港の活力であり、それによって香港そのものが、独自の存在として生き延びてきたのである。
 日本国憲法は集会や表現、言論の自由を保障する。しかし、周囲の空気を読み、強い主張を行って突出することを避けようとする傾向が強いと言われる社会にあって、こういった自由の権利は十分に発揮されていると言えるだろうか。使えない権利は意味を持たないし、使わない自由はやがて錆びつき、劣化する。
 香港式の「自由の使い方」を、日本も学ぶべきではないだろうか? (p.224~6)
 うーむ、考えさせられます。私たちはもはや「卵」ではなく、壁をつくる一個の「煉瓦」なのかもしれません。♪All in all you're just another brick in the wall♪ 壁にぶつかって割れるよりも、壁の一部になった方が楽ですものね、何も考えなくていいし。雨傘運動で中心的役割を果たした学生団体「学民思潮」メンバーで、トークをしてくれた周庭(アグネス・チョウ)氏が、初来日後のフェイスブックに次のように書き込まれたそうです。
 日本はかなり完璧な民主政治の制度を持っているが、人々の政治参加の度合い、特に若者のそれはかなり低い。日本に来て、私は初めて本当の政治的無関心とは何かを知った。(p.223)
 なお1月11日配信の朝日新聞デジタルによると、中国共産党に批判的な本を出版・販売していた香港の書店関係者5人が失踪した事件が、香港で起きました。失踪時の状況から中国当局が越境して香港内で拘束したとの見方が出ており、5人の釈放を求め、民主派団体が呼びかけた抗議デモには、主催者発表で約6千人が参加したとのこと。いま、香港で、そして世界各地で、壁と戦っている卵たちが大勢いることを肝に銘じたいと思います。

 追記。気になる指摘が二つありました。「異論は認めぬ、経済発展に驀進すべし-典型的な中国共産党型の統治理念である」(p.ⅴ)と、「行政と司法が一体化し、政治的判決が下されることが常態となっている大陸」(p.11)。デジャ・ヴ…これって日本と同じですね。もしかすると共産党政権は、日本をお手本にして突っ走っているのかもしれません。そしてそれがある意味では成功しているのを見た日本の為政者の皆様方が、近親憎悪的な反発を感じているのが「嫌中」の正体なのかな。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-02-11 06:34 | | Comments(0)

春の祭典

 とあるコンサートで貰ったチラシに、小林研一郎が日本フィルを指揮して「シェエラザード」と「春の祭典」を演奏するというものがありました。なんてゴージャスなんだ、山ノ神の了承を得て、A席の切符を二枚購入。先日の土曜日にサントリーホールに聴きにいきました。開演は午後二時、ギロッポンのどこかで昼食をとることにしましたが、実はサントリーホール(六本木)とオーチャードホール(渋谷)のあたりにはわれわれご用達のお店がありません。他のホールにはたいていあるのですけれどね。六本木・渋谷のゲニウス・ロキとボンビーなわれわれは相性が悪いのかもしれません。とは言っても背に腹は代えられません。山ノ神が、ホールとなりのビルに「タコリッコ」というメキシコ料理のお店があるのを、インターネットで見つけたので行ってみることにしました。かつて小田原に「ブエナ・カレラ」というメキシコ料理の名店がありましたが、そこには及ばぬもののそれなりに美味しいタコスをいだだきました。ご馳走さま。
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c0051620_6145581.jpg そして眼前にあるサントリーホールへ。まずは「シェエラザード」、「千夜一夜物語」からインスピレーションを得たリムスキー=コルサコフが、四つの物語を四つの楽章にまとめて仕上げた交響的作品です。多彩で豊かな響きと魅力的な旋律、そして「海とシンドバッドの船」の雄渾、「カランダール王子の物語」の哀愁、「王子と王女」の甘美、そして「バグダードの祭り、海、青銅の騎士の立つ岩での難破、終曲」の爆発と、それぞれの特徴をもつ楽章。私も山ノ神もこの曲は大好き。小林研一郎の指揮と日フィルの力量があいまって、この曲の魅力を十全に引き出した素晴らしい演奏でした。「カランダール王子の物語」と「王子と王女」では、そのあまりの甘美さに思わず睡魔に抱かれそうになることも(ごめんなさい)。でも終曲では、オケの迫力と熱気、そしてトランペットの見事なタンギングでしっかりと目が覚めました。
 ここで十五分の休憩をはさみ、いよいよお待ちかねのストラヴィンスキー作のバレエ音楽「春の祭典」です。チラシによると、日本フィル創立50周年の記念年(2006年)に行われたヨーロッパ・ツァーで取り上げて以来、10年ぶりとなるコバケン先生との「春の祭典」だそうです。マエストロの「そろそろハルサイでも…」という言葉を楽団員のみなさんが聞き逃さなかったというのですから、満を持しての演奏なのでしょう、楽しみです。紫煙をくゆらして席に戻ると、おおっ、ステージを埋め尽くさんばかりに椅子が並んでいます。なにせ五管編成に加えてティンパニが二人、アルト・フルート、イングリッシュ・ホルン、E♭クラリネット、バス・クラリネット、コントラ・ファゴット、テナー・チューバ、ピッコロ・トランペット、バス・トランペットといった普段馴染みの薄い楽器も動員された、超弩級の編成です。そして三々五々ステージにあがるオーケストラのみなさん、心なしか緊張感と興奮のいりまじった不思議なオーラを感じます。そしてコバケン氏の登場、いつものように楽団員に一礼して、静かにタクトがふりおろされました。
 なお自伝によると、ストラヴィンスキーはこう語っているそうです。
 私は空想のうちに、おごそかな異教の祭典を見た。輪になって座った長老たちが、死ぬまで踊る若い娘をみまもっていた。かれらは春の神の心を和らげるために彼女を犠牲に供したのである。
 第一部「大地礼賛」(序奏‐春のきざし・乙女たちの踊り‐誘拐‐春の踊り‐敵の都の人々のたわむれ‐賢人の行列‐大地のくちずけ‐大地の踊り)、第二部「いけにえ」(序奏‐乙女たちの神秘的な集い‐いけにえの賛美‐祖先の呼び出し‐祖先の儀式‐いけにえの踊り)という二部構成です。
 ファゴットによって奏でられる摩訶不思議ですが魅力的な旋律とともに曲は始まります。複雑なリズムと拍子、無調と不協和音、ホールを揺るがすオーケストラの咆哮、聴き惚れるというよりは、巨大な音の塊に包まれ身も心もただ強烈な響きにゆだねるのみ。指揮者の小林研一郎氏は熱い心を保ちながらも、冷静なタクトでこの複雑な曲を見事に組み立てていきます。それによく応えたオーケストラの技量とアンサンブルにも脱帽。気がつけば、「ブラボー」という声とともに曲は終わっていました。ブラービ!

 コバケン+日フィルのハルサイ、次に聴けるのはいつになるか分かりませんが、お聴き逃しなく。なおこの曲の初演は1913年5月、パリのシャンゼリゼ劇場。その時の観客のブーイングと罵倒は伝説になっていますが、時は第一次世界大戦勃発のほぼ一年前です。ヨーロッパ文明崩壊を予感させるこの曲に、人々は畏怖を感じていたのかもしれませんね。
by sabasaba13 | 2016-02-10 06:15 | 音楽 | Comments(0)

スイス編(90):ジュネーヴ(14.8)

 17:44発の普通列車に乗り込み、ローザンヌで乗り換えです。駅のホームに落ちたバゲットには、雀が群がってお食事中。入線してきた列車には二階建て車両があったので、さっそく一等車の二階座席に陣取りました。
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 ジュネーヴのコルナヴァン駅に着いたのが午後六時半ごろ、ここでいったんAさんとはお別れして、夕食のために20:30にホテルのロビーで落ち合うことにしました。われわれはそれまでの間、ジュネーヴ旧市街を散策することにしましょう。モン・ブラン通りをてくてくと歩き、iが同居している恰幅の良い郵便局を撮影。レマン湖にかかるモン・ブラン橋の欄干には、「CICR」「ICRC」「150ans」と記された大きな旗がたくさん掲げられていましたが、赤十字国際委員会創立150年を祝っているようです。今、調べてみると、CICRはフランス語(Comite international de la Croix-Rouge)、ICRCは英語(International Committee of the Red Cross)でした。
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 湖畔では、子どもを連れた家族が白鳥に餌をあげています。モン・ブラン橋の隣にある橋を渡ると途中にルソー島があり、18世紀フランスを代表する思想家、小説家であるジャン・ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)の銅像がありました。
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 ちなみに彼は1712年6月28日、フランス系スイス人の時計職人の子としてここジュネーヴに生まれたのですね。先述のように、旅をしたあとに読書をしていると、たまたま訪れた所に関する記述に出あうことがよくあります。ルソーに関しても、こんな一節に出会えました。『街場の憂国会議 日本はこれからどうなるのか』(内田樹編 晶文社)所収の「安倍(とお友だち)のことば」の中にある高橋源一郎氏の言葉です。
 …それぞれに異なった、「複雑な」存在である人びとが、それぞれの異なった生活をおくることができるように、即ち、それぞれの異なった形の「幸福」を追い求めることができるように、後ろからそっとサポートすることが、政治のやるべきことなのではあるまいか。
 「民主主義」の根本理念を追い求めたジャン・ジャック・ルソーは、『社会契約論』で、その「民主主義」に参加する人たちの考え方が、全員異なっていることを、もっとも重要なことであると考えた。
 「民主主義」が、なにかを決定する「政治」システムであると考えるなら、参加者の意見が異なれば異なるほど、言い換えるなら、意見が「ねじれ」るほど、決定は困難になる。けれども、「ねじれ」がなければ意味がない、「民主主義」においては「決定の速さ」よりも遥かに大切なものが存在している、とルソーは考えたのである。
 わたしは、そのルソーの思想の淵源が、「文学」にあると考えている。ルソーは、「文学」者として、「人間」の「複雑さ」を知っていた。あるいは、その「複雑さ」にこそ信を置こうとした。「複雑」である「人間」が、その「複雑さ」を忘れずにいられる社会システムを構築するために、彼は、その力のすべてを尽くしたのである。(p.134~5)
 決定の速さ、能率、単純化と画一化が横行し、人間の複雑を無視して「売国奴」「非国民」といった決めつけと怒号が猖獗を極めて今の日本。ルソーの叡智に学びたいものです。

 追記です。つい最近読み終えた『影の学問 窓の学問』(C・ダグラス・ラミス 晶文社)の中でも、ルソーの言葉が紹介されていました。ほんっとにそう思います。
 ある土地に囲いをして『これはおれのものだ』と宣言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者…」が私的所有の発明者だったと書いたのはルソーである。彼は続けてこう言う。

 杭を引き抜きあるいは溝を埋めながら、「こんないかさま師の言うことなんか聞かないように気をつけろ。果実は万人のものであり、土地はだれのものでもないことを忘れるなら、それこそ君たちの身の破滅だぞ!」とその同胞たちにむかって叫んだ者がかりにあったとしたら、その人は、いかに多くの犯罪と戦争と殺人とを、またいかに多くの悲惨と恐怖とを人類に免れさせてくれたことであろう? (ジャン・ジャック・ルソー 『人間不平等起源論』 岩波文庫) (p.44~5)

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-02-09 06:42 | 海外 | Comments(0)

スイス編(89):ラヴォー(14.8)

 駅の時刻表でジュネーヴ行き列車の発車時刻を撮影し駅前に出るとiがありましたが、本日は日曜なので休み。置いてあった地図をもらいましたが大雑把すぎて役に立ちません。また道路標示も不親切。とりあえず高いところをめざしながら、足の向くまま気の向くままのんびりと歩いていきました。
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 線路に沿った道を東の方へ歩いていくと、やがて緩やかな坂道となりました。両側には一面の葡萄畑が広がり、高度が上がるにつれて眺めも良くなってきます。レマン湖と、山の斜面を埋めつくす葡萄畑、そして散在する集落。
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 二十分ほど歩くと、落ち着いた雰囲気の小さな町に着きましたが、ここがリエ(Riex)ですね。質朴だけれど洒落た家並み、花で飾られた素敵な噴水、葡萄を日除けにした玄関わきのベンチ、そして葡萄畑とレマン湖とアルプスの眺望、一度でいいからこんな町で暮らしてみたいものです。
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 この町からさらに上の方へ行く坂道があったので歩いていくと、眺めはもっと良くなりました。ここから葡萄畑の間を縫う小道を西へと歩いていけば、キュリー駅へと戻れそうです。そして絶景を楽しみながら、しばらくウォーキング。清涼な空気、静寂な雰囲気、葡萄と森林の緑、湖と山なみと空の青、体中に積もりに積もった俗塵がきれいさっぱり洗い流されていくようです。やがてキュリーの町が見える坂道があり、下っていくと駅前に出られました。二時間ほどの爽快なハイキング、お薦めです。
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 本日の七枚です。
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by sabasaba13 | 2016-02-08 06:41 | 海外 | Comments(0)