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『ロイヤル・コンセルトヘボウ オーケストラがやって来る』

 拙ブログで何度か触れたことがありますが、大学時代にオーケストラでコントラバスを弾いていました。もともと高校生の時は、ジャズマンになりたいという夢を持っていました。きっかけは当時、夢中になって読んでいた五木寛之の『青年は荒野をめざす』という小説です。たしか主人公の名前はジュンだと思いましたが、そのかっこいい生き方に惚れ込んでしまった次第です。はじめて買ったジャズのレコードはマイルス・デイビスの『アット・カーネギーホール』、あまり評価されていませんが、よくスイングするクインテットだったと思います。とくにウィントン・ケリーのコロコロところがるようなのりのいいピアノと、ポール・チェンバースの地を揺るがすような重厚なベースに夢中になりました。よし、ベースマンになるぞ、と一念発起、しかし基礎をしっかりとやるべきであろう(私は変なところで堅実なのです)、大学オーケストラに入部してコントラバスの練習に勤しみました。同時にジャズの教則本や理論書を買い込んで独学で学んだのですが…結局ものになりませんでした。即興演奏のなんと難しいことよ。以後、ジャズはもっぱら聴くだけとなり、またオーケストラでコントラバスを弾くことでクラシック音楽の魅力にはまって、今に至ります。今では楽器をチェロに変え、チェリストの末席を汚しております。
 オーケストラの思い出には酸いも甘いもありますが、三:七で後者の方が多いです。前者に関しては、高い技量を持つOBとOGがオーケストラを牛耳っていたことですね。例えば、演奏会の選曲や人選などの決定に、明治の元老の如き発言力をもち辣腕をふるっていました。良い演奏をするためには仕方がないところではありますが、不愉快な思いをいくつか記憶しています。後者については、やはり音楽の素晴らしさを心の底から実感できたことです。思うに、オーケストラというのは、コミュニティとして理想的な集団です。各人がそれぞれ違う音を出す楽器を持ちながらも、合奏をするとひとつの素敵な音楽となる。各人の個性を尊重し、それを活かしみんなで協力して、より大きな良きものをつくりあげる。稀有なる体験でした。

c0051620_6303644.jpg その大好きなオーケストラの演奏旅行を描いたドキュメンタリー映画が上映されていることを新聞で知りました。しかも、アムステルダムのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団! ベルリン・フィル、ウィーン・フィルと並び世界三大オーケストラのひとつに挙げられるオランダ王立のオーケストラです。タイトルは『ロイヤル・コンセルトヘボウ オーケストラがやって来る』。2013年に、創立125周年を記念して行なわれたワールドツアーの様子を、世界屈指のドキュメンタリー作家エディ・ホニグマンが監督した映画です。
 何といっても、彼ら/彼女らが奏でる音楽の素晴らしさ! ブルックナーの交響曲第7番、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、プロコフィエフの「ピーターと狼」、ヴェルディのレクイエム、マーラーの交響曲第2番などなど、ただ聞きほれるだけです。真剣なリハーサル風景や、個別練習の様子、ショスタコーヴィチの交響曲第10番について熱く語るコントラバス奏者など、団員たちの音楽にかける情熱がひしひしと伝わってきます。また、ふつう私たちが知ることができない、団員の素顔や裏方さんたちの仕事も興味深いものでした。遠く離れた家族とインターネットでのやりとり、出身国ウルグアイのサッカー・チームを礼賛するファゴット奏者、なじみの店へのお礼にいきなり店内で演奏をするコンサート・マスター、楽器の運搬・楽譜の準備・ホテルの部屋の割り振りなど縁の下の力持ち的仕事。RCOがちょっと身近に思えてきました。
 そして何といってもこの映画の白眉は、訪れた国・町と、そこに暮らす一人の人間を、深く描いていることです。アルゼンチンのブエノスアイレス、南アフリカのプレトリアとソウェト、そしてロシアのサンクトペテルブルクの三か所ですが、たんなるロード・ムービーには終っていないのはさすがです。
 ブエノスアイレスでは、コンサートを聴きにきたタクシー運転手が登場します。彼はいつも孤独に客を待ちながら、クラシック音楽に慰められているのですね。それを暗示するかのように、冒頭のシーンでは、ブルックナーの交響曲第7番で一度しかない出番を待つ打楽器奏者が「待つことが私の仕事」と語ります。さらに、(たぶん)移動するバスの車中からブエノスアイレスの延々と続く貧民街を写したシーンと(BGMはマーラーの交響曲第1番第3楽章)、その後に出てくる豪華なオペラ・ハウス「テアトル・コロン」と着飾った人びとの対比が、心に残りました。また多くの人名が刻まれたモニュメントを団員たちが訪問し、その一人が「25歳…妊婦」と呟いたのも印象的でした。おそらく軍事政権によるテロの犠牲者を追悼する記念碑だと思いましたが、ちゃんとこうした場所も訪れるのですね。その見識には敬意を表します。なお購入したパンフレットによると、「パルケ・デ・ラ・メモリア プラタ川岸にある記念公園。軍事政権時代に虐殺または行方不明になった人々の名前が記念碑に刻まれている」とありました。『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』(ナオミ・クライン 岩波書店)に以下の記述があります。
 ショック・ドクトリンというレンズを通すと、過去35年間の世界の動きもまるで違って見えてくる。この間に世界各地で起きた数々の忌まわしい人権侵害は、とかく非民主的政権による残虐行為だと片づけられてきたが、じつのところその裏には、自由市場の過激な「改革」を導入する環境を整えるために一般大衆を恐怖に陥れようとする巧妙な意図が隠されていた。1970年代、アルゼンチンの軍事政権下では三万人が「行方不明」となったが、そのほとんどが国内のシカゴ学派の経済強行策に反対する主要勢力の左翼活動家だった。(上p.12)

 「文明社会の良心を掻き乱すこれらの出来事は、しかし、アルゼンチン国民を見舞った最大の苦しみではないし、あなた方が犯した最悪の人権蹂躙でもない。この政府の経済政策こそ、これらの犯罪がなぜ行なわれたかを説明するものであり、何百万もの人々を計画された困難のなかに陥れるという、より重大な残虐行為そのものなのだ。(中略)ブエノスアイレスの街を数時間歩いてみれば、そうした政策によってこの都市が、いかに急速に人口1000万の「スラム街」へと変貌しつつあるかは一目瞭然だ」 (上p.133)

 トマセラはこう主張した。自分や農業連盟の仲間が受けた虐待は、その身体を破壊し、活動のネットワークを破壊することで有利になる巨大な経済的利害と切り離せないと主張した。したがって彼は自分を虐待した兵士の名前を挙げるのではなく、アルゼンチンが経済的に依存し続けることで利益を得る国内外の企業の名前を挙げた。「外国の独占企業はわれわれに作物を押しつけ、われわれの国土を汚染する化学物質を押しつけ、技術やイデオロギーを押しつけます。そしてこれらすべては土地を所有し、政治を支配するごく一部の人々を通して行なわれるのです。でも忘れてはならないのは、彼らのような大富豪もまた同じ独占企業、同じフォード・モーター、モンサント、フィリップ・モリスといった企業によってコントロールされているということです。私はこのことを非難するためにここにやってきた。ただそれだけです」
 会場には割れるような喝采が沸き起こった。トマセラは証言を次のように締めくくった。「最後には真実と正義が勝利すると私は信じています。何世代もの年月がかかるかもしれないし、もしこの戦いのさなかに死ぬことになったとしてもかまわない。でもいつの日か、私たちは必ず勝利します。私は敵が誰なのか知っています。そして敵も私が誰なのかを知っているのです」 (上p.179~80)
 新自由主義(シカゴ学派)勢力による反対派へのテロ、そして絶望的な格差、こういった状況に対して、音楽は、音楽家は何ができるのか。ホニグマン監督はそう問いかけているように思えます。

 南アフリカでは、二人の人物が登場します。ヨハネスブルクのソウェト地区で、レイプや誘拐に怯えながらもスチーム・ドラム・バンドに所属して音楽を支えに生きる黒人の少女。そしてアパルトヘイトの時代に苦労してヴァイオリンを学び、今は貧しい子供たちに音楽を教える黒人の男性。RCOは、そのソウェト・シアターで、貧しい子供たちを対象とした教育プログラムを行ない、プロコフィエフの「ピーターと狼」を演奏します。ピーターが、いろいろな動物たちと協力しながら狼をやっつけるという曲ですが、この選曲にもオーケストラの見識を感じます。敵を見定めること、みんなと協力することの大切さを伝えたかったのではないでしょうか。ラフな服装と愉快な解説とパフォーマンスで、子供たちも大喜びした楽しいコンサートでした。なおアパルトヘイトという「狼」はいなくなったように思いがちですが、実は新たな、そしてより獰猛な「狼」が徘徊していることを、前掲書で知りました。長文ですが、引用します。
 この交渉で、ANCは新たな種類の"網"にからめ取られてしまった。難解な規則や規制でできたこの網は、選挙によって選ばれた指導者の権力を抑制し、制限することを目的にしていた。この網が南アをすっぽり覆ったとき、その存在に気づいた者はわずかしかいなかった。だが新政権が発足し、いざ有権者に具体的な解放の恩恵-つまり、人々が投票によって得られると期待していたものを与えようとすると、網の紐がきつく締まり、政府は自らの権限が大きく制限されていたことに気づいた。新政権発足後の数年間、マンデラ政権の経済顧問を務めたパトリック・ボンドは、当時、政府内でこんな皮肉が飛び交ったと言う-「政権は取ったのに、権力はどこに行ってしまったんだ?」。新政権が自由憲章に込められた夢を具体化しようとしたとき、それを行なうための権限は別のところにあることが明らかになったのだ。
 土地の再分配は不可能になった。交渉の最終段階で、新憲法にすべての私有財産を保護する条項が付け加えられることになったため、土地改革は事実上不可能になってしまったのだ。何百万にも上る失業者のために職を創出することもできない。ANCが世界貿易機関(WTO)の前身であるGATTに加盟したため、自動車工場や繊維工場を出すことは違法になったからである。AIDSが恐ろしいほどの勢いで広がっているタウンシップに、無料のAIDS治療薬を提供することもできない。GATTの延長としてANCが国民の議論なしに加盟した、WTOの知的財産権保護に関する規定に違反するためだ。貧困層のためにもっと広い住宅を数多く建設し、黒人居住区に無料で電気を提供することも不可能。アパルトヘイト時代からひそかに引き継がれた巨大な債務の返済のため、予算にそんな余裕はないのだ。紙幣の増刷も、中央銀行総裁がアパルトヘイト時代と同じである以上、許可するわけはない。すべての人に無料で水道水を提供することも、できそうにない。国内の経済学者や研究者、教官など「知識バンク」を自称する人々を大量に味方につけた世銀が、民間部門との提携を公共サービスの基準にしているからだ。無謀な投機を防止するために通貨統制を行なうことも、IMFから8億5000万ドルの融資(都合よく選挙の直前に承認された)を受けるための条件に違反するので無理。同様に、アパルトヘイト時代の所得格差を緩和するために最低賃金を引き上げることも、IMFとの取り決めに「賃金抑制」があるからできない。これらの約束を無視することなど、もってのほかだ。取り決めを守らなければ信用できない危険な国とみなされ、「改革」への熱意が不足し、「ルールに基づく制度」が欠けていると受け取られてしまう。そしてもし、これらのことが実行されれば通貨は暴落し、援助はカットされ、資本は逃避する。ひとことで言えば、南アは自由であると同時に束縛されていた。一般の人々には理解しがたいこれらのアルファベットの頭文字を並べた専門用語のひとつひとつが網を構成する糸となり、新政権の手足をがんじがらめに縛っていたのだ。(上p.285~6)
 RCOがこの地を選んだのも、こうした問題に関心をもっていたからかもしれません。

 そして最後は、ロシアのサンクトペテルブルクでのコンサートです。ここロシアも新自由主義の餌食にされた国で、ホニグマン監督の強いメッセージを感じます。ふたたび前掲書より引用します。
 エリツィンのクーデター後、IMFのスタンレー・フィッシャー筆頭副専務理事(1970年代のシカゴ・ボーイでもある)は、「あらゆる領域で可能な限り早急に事を進める」よう提言した。当時、クリントン政権下でロシアの政策策定に協力していたローレンス・サマーズ財務次官も同じく、「民営化、安定化、自由化の三つの「促進」をすべて、できるだけ早く行なうべきだ」と助言した。
 だが変化のスピードがあまりにも速すぎて、国民はついていけなかった。多くの労働者は、自分の働く工場や炭鉱が売却されたことすら知らず、ましてやどのような形で誰に売られたのかなど知るよしもなかった(10年後、私はこれと同様の深刻な混乱をイラクの国営工場で目にすることになる)。理論上はこれらの戦略が好景気をもたらし、ロシアを不況から脱却させるはずだった。ところが実際には、共産主義国家がコーポラティズム国家に取って代わられただけだった。にわか景気から利益を得たのはごく少数のロシア人(元共産党政治局員も少なくなかった)と、ひと握りの西側の投資信託のファンドマネージャーで、彼らは新たに民営化されたロシア企業に投資して、目もくらむような利益を手にしていた。(上p.324~5)

 大飢饉や天災、戦闘もないのに、これほど短期間に、これほど多くの人がこれほど多くのものを失ったことはなかった。1998年にはロシアの農場の八割以上が破産し、およそ七万の国営工場が閉鎖、大量の失業者が生まれた。ショック療法が実施される前の1989年、ロシアでは約200万人が一日当たりの生活費4ドル未満の貧困状態にあったが、世銀の報告によれば、ショック療法の「苦い薬」が投与された90年代半ばには、貧困ラインを下回る生活を送る人は7400万人にも上った。ロシアの「経済改革」によって、たった八年間で7200万人が貧困に追いやられたことになる。1996年にはロシア人の25%、約3700万人が、貧困のなかでも「極貧」とされるレベルの生活を送っていた。(上p.335)
 このシーンで登場するのは、スターリンによる大粛清で父を失い、自らもナチス・ドイツの強制収容所を体験した老人です。妻にも先立たれ、うちひしがれた日々を送っている彼が、RCOのコンサートを聴きにきます。演奏されたのは、ヴェルディの「レクイエム」とマーラーの交響曲第2番「復活」。後者の最終楽章では、オーケストラと合唱がきずきあげる音の大伽藍から、「甦るのだ、そう、お前は甦る」というメッセージが響き渡ります。感極まった老人は涙ぐみ…私の涙腺も決壊しました。

 本当に素晴らしい映画でした。音楽で世界を変えることはできない。でも音楽は人間を、何度でも慰め、勇気づけ、甦らせてくれる。そして世界を変えるのは、そうした人間たちなんだ。そんなふうに思いました。
 素敵な音楽と重要なメッセージを贈ってくれたロイヤル・コンセルトヘボウ・オーケストラ(RCO)と、それを見事に映像化してくれたホニグマン監督に心から感謝します。ありがとうございました。
by sabasaba13 | 2016-03-17 06:32 | 映画 | Comments(0)

『母と暮せば』

c0051620_610786.jpg 山ノ神に誘われて、ユナイテッド・シネマとしまえんで『母と暮せば』を見てきました。なにはさておき、パンフレットの冒頭に掲載されていた山田洋次監督の言葉を紹介します。
 50年以上の間、たくさんの映画を作ってきましたが、終戦70年という年にこの企画に巡り合ったことに幸運な縁と運命すら感じています。井上ひさしさんが、「父と暮せば」と対になる作品を「母と暮せば」という題で長崎を舞台に作りたいと言われていたことを知り、それならば私が形にしたいと考え、泉下の井上さんと語り合うような思いで脚本を書きました。生涯で一番大事な作品を作ろうという思いでこの映画の製作にのぞみます。
 その舞台劇を映画化した『父と暮らせば』も良い作品でした。宮沢りえの最後の科白、「おとったん、ありがとありました」が忘れられません。
 本作は、冒頭の言葉通り、故井上ひさし氏に捧げるオマージュとも言うべき映画です。1945年8月9日、長崎で助産婦をしている福原伸子(吉永小百合)は、たったひとりの家族だった次男の浩二(二宮和也)を原爆で亡くしました。なお夫は肺結核で死去、長男はビルマで戦死しています。それから3年後、伸子の前に浩二の亡霊がひょっこりと現れます。母さんの諦めが悪いから、なかなか出て来られなかったと笑いながら。その日から浩二はたびたび伸子を訪れますが、いつも気になるのは恋人の町子(黒木華)のことです。新しい幸せを見つけてほしい-そう願いながらも寂しい気持ちは母も息子も同じでした。楽しかった家族の思い出話は尽きることがなく、ふたりが取り戻した幸せな時間は永遠に続くように見えたのですが……。

 まず命を生むのを助ける助産婦と、命を奪い尽くす原爆という対比の設定が秀逸ですね。そして主人公・伸子の持つさまざまな顔や、揺れ動く気持ちを、自然に演じ切った吉永小百合の演技には脱帽しましょう。息子への思慕、彼の死への諦観と固執、気丈さと心弱さ、町子への愛情と微かな憎悪。「なぜあなたが死んで、あの娘は幸せになるの」という哀切きわまる科白には胸をつかれました。その町子を演じる黒木華もすばらしい。亡き浩二への思いと同僚への恋心に引き裂かれる若き女性の姿を表現したみごとな演技でした。二宮和也がすこし軽いかなと思いましたが、その軽さが映画全体を明るくもしているので諒としましょう。
 またこの映画を通奏低音のように支える、静謐さにも心打たれました。伸子と浩二が、思い出話を静かに語り合うシーンが好きです。好きな食べ物、蓄音器、学園祭… 浩二が憲兵に連行された時に伸子が本部に乗り込んでとりもどした思い出、その後ふたりで食べたタンメン。何気ないけれど、大事な、幸せだった日常を、二人が慈しむように語り合うシーンが印象的です。その日常を死滅させたのが、アメリカ政府が長崎に投下した原子爆弾でした。「日常を守れ」というのが山田監督のメッセージなのではないかと思います。実は故井上ひさし氏もこう言っています。
 このところわたしは、「平和」という言葉を「日常」と言い換えるようにしています。平和はあまり使われすぎて、意味が消えかかっている。そこで意味をはっきりさせるために日常を使っています。「平和を守れ」というかわりに「この日常を守れ」と。(『ボローニャ紀行』p.357 文春文庫)
 忘れてはならないのは、「原子爆弾はアメリカが投下した」という視点が随所に挿入されていることです。「運命だ」と諦める浩二に対して、「いや違う」と否定する伸子。冒頭のシーンでは、被爆者と思われる初老の男性が、丘から海を眺めながら、「人間のすることじゃなか」と呟きます。
「あなた方アメリカは原子爆弾によって、人々の日常を残虐に破壊した。それは人間のすることではなかった」 これも監督から私が受けとったメッセージです。日本がその非人間性をきちんと批判してこなかったことが、現在における核兵器の拡散、および核兵器は場合によっては使用してもよい兵器なのだという考えにつながっているのではないでしょうか。結果はどうあれ、アメリカ政府に対して、核兵器投下について謝罪を要求すべきだと思います。もちろん、日本が行なったさまざまな戦争犯罪についての謝罪を済ませた後での話ですが。

 なお原爆投下ハゴイ空軍基地エイブル滑走路に関する拙ブログの記事がありますので、よろしければご覧ください。またこの映画の、長崎におけるロケ地ガイドを掲載したサイトもありました。
by sabasaba13 | 2016-03-16 06:10 | 映画 | Comments(0)

伊勢・美濃編(10):丸山千枚田(14.9)

 そして観光案内処に戻って自転車を返却したのが午前十二時半。今夜は鳥羽に泊まるので、熊野市駅15:42発の列車に乗らねばなりませんが、これから丸山千枚田を見にいく時間的余裕は充分あります。できればバスで行きたかったのですが、事前に調べたところでは本数も少ないので、泣いて馬謖を切る、タクシーを利用することにしました。観光案内処の方にお願いしてタクシーを呼んでもらい、一時間4000円の貸切ということで交渉が成立。Here we go !
 40分ほど走ると、丸山千枚田を一望できる場所で、運転手さんが車を停めてくれました。凄い…息を呑むような景観です。広大な山の斜面に幾重にも刻まれた大小の田、田、田。どれほどの艱難辛苦を乗り越えてきたのか、想像しただけで頭が垂れてしまいます。
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 近くまで行き、しばし散策。耕作放棄地が目立つのはいたしかたないですね。ユニークな案山子も散見されました。ところどころに名前が記された木の札がたてられていましたが、オーナー制度が行なわれているのですね。後日に調べたところ、会費は年間30,000円で、(財)紀和町ふるさと公社 0597(97)-0640に連絡すればよいとのことでした。棚田の中央に鎮座する巨岩も印象的です。彼岸花を撮影しながらぶらついていると、「千枚田で一番小さな田」がありました。千枚田を数えたら999枚しかなく、残りの一枚は笠の下に隠れていたという伝承がよくありますが、納得できます。ここまで丹精を込めて土と向かい合ってきたのですね。
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 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2016-03-15 06:38 | 近畿 | Comments(0)

伊勢・美濃編(9):花の窟神社(14.9)

 獅子岩から自転車で十分ほど走ると、産田神社があります。お目当ては神籬(ひもろぎ)跡、神を招くための石で囲んだ祀り場です。全国で二か所しかない珍しい遺跡とのこと。本殿の脇に、十数個の石を長方形に組んだ神籬跡がありました。古代では、神社に建物はなく、こうした依代に神を迎えていたのですね。珍しいものを見せてもろた。
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 そして花の窟神社へと向かいます。途中でユニークな形の透かしブロックを二つ見つけました。後者は透かしというよりは穴ですが。
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 「原発反対」の看板を掲げたお宅もありました。自転車で走ること十分ほどで神社に着きましたが、お腹もへってきたので、お綱茶屋で熊野地鶏親子丼をいただきました。
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 そして花の窟(いわや)神社へ、高さ約45mの巨巌を御神体としている神社です。観光バスから次々と押し寄せる人波とともに境内へ入りました。なるほど、これは凄い。ちっぽけな人間どもを睥睨するように屹立する巨岩、その足下にいるだけで身のすくむ思いです。自然の力に畏敬を感じる心性を失わないようにしたいものです。いやあ、ええもん見せてもろた。なお、毎年2月2日と10月2日には、110尋(約180m)の大綱に季節の花や扇を括りつけて巌と松を結ぶ「お綱かけ神事」が行われるそうです。
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 そして恒例の絵馬ウォッチング、今回の逸品は「○○が3番もらえますように。やる気100%がんばれ!」でした。社務所の前では、ご朱印をもらうための人だかりができていましたが、最近よく見かける光景ですね。面倒くさいので人事を尽くさずに、天命を手に入れようとする方が増えているのでしょうか。ちょっと気になります。
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 現在の時刻は午前11時、これなら自転車で木本隧道と鬼ヶ城を訪れて観光案内処に戻り、タクシーで丸山千枚田を見に行く余裕は十二分にあります。御慶。電動アシストのおかげで、十五分ほどでまず木本隧道に到着です。坑門はイギリス積み煉瓦でできており、壁柱と帯石・笠石・迫石・扁額を備えた重厚なものです。竣工は1925(大正14)年、完成当時は栗子トンネル(福島県/山形県)に次ぐ長さ(509m)だったそうです。自転車で走るとその長さを実感できました。
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 トンネルを抜けて十分ほど走ると鬼ヶ城に着きました。まずは眺望が良さそうなので室町時代に有馬忠親が築いた山城跡へとのぼりましたが、期待はずれでした。たくさんの桜が植えられていたので、春には見事な景観になるでしょう。そして地盤の隆起と風蝕・海蝕によって造り出された奇観、鬼ヶ城を見物。平安時代初期、征夷大将軍・坂上田村麻呂がここを根城にして鬼と恐れられた海賊「多娥丸(たがまる)」を征討したという伝説が残っています。
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 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2016-03-14 06:47 | 近畿 | Comments(0)

伊勢・美濃編(8):獅子岩(14.9)

 重厚な造りの酒甚旅館はもう店仕舞でした。丸田商店では消防用品を売っているのですね。よく見ると、白い下見板張りの洒落た洋館でした。公衆電話が現役で働いているのは嬉しい、「悪魔の機械」に負けずに頑張ってください。
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 「加田捨」は銃砲・火薬を商っておられますが、珍しい屋号ですね。何と読むのでしょうか。古い看板が並んでいる酒屋さんもありました。
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 そして古い商家を再利用した「熊野古道おもてなし館」に着きました。入口には、熊野市がソレント市(イタリア)・バストス市(ブラジル)と姉妹都市であるという解説が掲示してありましたが、前者は海に面した観光地、後者は熊野市から多くの移民が入植したという関係だそうです。それではこちらでひと休み、フライド・マッシュポテトと珈琲を中庭でいただきました。観光パンフレットや地図をもらいながら館内をぶらついていると、レンタサイクルを見つけました。これから少し遠い所にある花の窟神社に行きたいので、渡りに舟。さっそく拝借しようとすると、係の方が、駅前にある観光案内処のほうが新しい自転車があると教えてくれました。移動を考えるとその方がベターですね、お礼を言って熊野市駅へと向かいました。
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 すぐ近くにあった西衣料品店は、半円を大胆にデザインしたファサードが印象的です。ペンギンの交通安全足型があったので撮影。
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 十分ほど歩くと、駅前にある観光案内処に到着。こちらで電動アシスト自転車を借りました。まずは七里御浜へ行き、獅子岩を拝見。なかなか素晴らしい風景ですね、熊野灘に臨んで長く延びる海岸、そして獅子吼する巨岩。
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 解説板を転記します。
七里御浜
 熊野市から鵜殿村に至る約25kmも続く砂利浜が七里御浜。荒々しい黒潮をおおらかに優しく受け止めるこの浜には、熊野川の上流から新宮を経て、熊野灘の荒波に磨かれた小石が敷き詰められている。「みはま小石」と呼ばれる色とりどりの小石は、アクセサリーや建材、観賞魚用水槽などに利用されている。

獅子岩
 海岸の隆起と海蝕現象によって生まれた奇勝で、高さ25m、周囲約210mの巨岩があたかも熊野灘に向かってほえる獅子のように見えるところから日本のスフィンクスと呼ばれている。
 また、昔から南側の吽の岩(雌岩)に対して阿の岩(雄岩)といわれ、総称して阿吽の岩とも呼ばれているが、これは、この奥にある大馬神社の狛犬にたとえられているからである。
 このため、大馬神社では、今も狛犬を置かない習わしとなっている。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-03-13 08:01 | 近畿 | Comments(0)

伊勢・美濃編(7):松本峠(14.9)

 御親切にたくさんの竹の杖が用意されていました。そして…うぉっと、「スズメバチ出没注意!!」という注意書き。やれやれ、熊の次はスズメバチか。そういえば、タウシュベツ橋梁見学でお世話になったガイドさんが、ヒグマよりも怖いとおっしゃっていました。たしか「黒の服を着ているとやってくる」「手で払ったら攻撃されるのでじっとしているしかない」とコメントされていたのを覚えています。夏も終わっているので攻撃的でないことを祈りましょう。
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 かなり急勾配な石畳をのぼること十五分ほどで峠に到着、なるほどお地蔵さんがぽつねんと佇んでおられます。
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 解説板を転記しましょう。
松本峠
 ここから木本町側に下ると、七里御浜の延々と続くなぎさが一望のもとに見渡せる。大泊町から木本町に抜けるこの道はトンネルが整備されるまで重要な生活道路だった。江戸時代、元禄のころ、鉄砲撃ちの大馬新左衛門が、夜中に峠に差しかかると月下に得体の知れないものが立ちはだかってきた。思わず発砲し、命中したが近づいてよく見るとそれはこの峠のお地蔵様であったという。今もここに立つ地蔵尊の足元をよく見るとそのときの弾痕が残っている。また茶屋や廃寺もあり、学問所として読み書き、算術を教えていたという。今は、庵寺の先生の顕彰碑が、当時の寺子屋教育の遺徳を物語っている。
 なんだ、要するに「うっかり八兵衛」だっただけか、撃たれたお地蔵さんもいい迷惑です。足元をよく見たのですが、弾痕を視認することはできませんでした。男…もといっ弾痕ファンとしてはちょっと残念です。
 そして熊野市へ向けて道を下っていきました。途中で七里御浜と紀伊山地を見晴らせると期待したのですが、あまりよく見えませんでした。こちらも残念。とある石仏には、小さな白い石がたくさん奉納されていました。
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 十五分ほどで木本町に到着、町内の見どころ地図が掲示してあったので撮影しておきました。ベルリンオリンピック体操選手の有本彦六生家跡? ミュンヘンオリンピック体操選手の笠松茂生家? ディープですね。体操選手をたくさん輩出する土地柄なのかな。笛吹橋という橋がありましたが、平安時代、人びとを苦しめていた鬼たちを、坂上田村麻呂が清水寺の観音さまの助けを借りて退治した時に、勝利を祝って笛を吹きながらこの橋を渡ったそうです。なるほど、欄干が横笛の意匠になっていました。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-03-12 08:12 | 近畿 | Comments(0)

伊勢・美濃編(6):波田須の道(14.9)

 石畳の坂を下ると街並みが開けて、まるで数百年の時を経て現代に戻ってきたような気分です。ここで折り返して、じっくりと波須田の道を味わいながら戻ります。いったいどれくらいの人たちが、どのような思いで、この石畳を踏んで行き来したのでしょう。細長い平石を踏みしめながらのぼっていくと、腰掛石らしきものも散見されました。途中に丈の低い石垣が連なっていましたが、これが猪垣(ししがき)ですね。
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 ふたたび国道311号線に出ると、「徐福茶屋」があることに気づきました。お茶を一服所望してひと休みしたかったのですが、残念ながら開店しておりません。なおこのあたりは波田須町お薦めのビューポイントで、熊野灘や街並みを一望することができます。こんもりと木立が生い茂っているあたりが徐福の宮、列車が来る時間まで少々余裕があるので立ち寄ってみました。集落の中へとくだり、咲き誇る彼岸花を愛でながらすこし歩くと小さな社と徐福のがありました。なおここの参道修復中に数枚の古銭が発掘され、中国秦の時代の古貨幣「半両銭」と鑑定されたそうです。もしかしたらここが徐福伝説の本命なのかもしれませんね。
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 波田須駅に着くと、津波が発生した時の、列車からの避難方法と避難場所が掲示してありました。そして8:13発の新宮行き普通列車に乗って熊野市方向へと戻ります。
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 次の駅、大泊でおりて、松本峠を越える熊野古道を歩きましょう。幸い案内板があったので、登り口まで迷わずに辿り着けました。
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 そこにあった解説を転記しておきます。
松本峠
 ここから登る松本峠への石畳道は、熊野古道波田須の道から泊観音(熊野市大泊町)へ詣る観音道と、大吹峠を越えて熊野三山や那智山へ詣でる伊勢路が、登りの途中で合流しています。峠には鉄砲傷でよく知られた地蔵さんをはじめ、茶屋跡・南無阿弥陀仏の六字名号碑などがあり、当時の賑わいを偲ばせてくれます。峠を下ると梅林があり、ここからは七里御浜海岸や紀伊山地の山並が眺められて、かつての巡礼や旅人の疲れたからだやこころを和ませてくれた絶景の場所です。松本峠を下ると花の窟(いわや)へ向かう浜街道へと続きます。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2016-03-11 06:23 | 近畿 | Comments(0)

伊勢・美濃編(5):波田須の道(14.9)

 しばらく歩くと斜面にへばりつくようにたたずむ集落が見えてきましたが、あれが矢賀(やいか)ですね。「徐福の宮」があるそうなので、時間があったら帰りに寄ってみましょう。さらにゆるやかな坂道を歩いていくと、山の斜面にラックのついたレールがひかれています。これは静岡県の由比でも見た、蜜柑などを運送するためのモノレール「モノカー」です。
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 そして国道311号線を横断すると熊野古道「波田須の道」の入口です。波田須駅から20分ほどで到着しました。
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 道路端に「表忠碑」があったので近づいてみると、日露戦争と「大東亜戦争」に出征して亡くなられた方々の氏名が刻んでありました。合掌。それでは…うぉっと、「クマ!出没!注意!」という看板がありました。何でも、このあたりでツキノワグマの目撃情報があったそうです。剣呑剣呑桑原桑原鶴亀鶴亀。♪いまさら後へは引けないぞ♪ということで、人間に慣れている熊に出会わないことを祈りつつ前進することにしました。
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 木々の間を抜ける細い山道をすこし歩くと、見事な石畳があらわれました。十分ほど歩いたところに解説板が二つあったので、転記しておきます。
熊野古道(伊勢路)
 熊野への道は、都から紀伊半島の西岸に沿って南下する和歌山県側の「紀伊路」と伊勢参宮の後、熊野三山へ詣でる巡礼の道である三重県側の「伊勢路」があった。伊勢を顕国(うつしくに)とするのに対して、熊野を幽国(かくれくに)とする原始信仰の素地に、日本人の多神教的なおおらかさと神仏習合思想が手伝って、伊勢神宮参拝後の熊野詣がごく自然に定着した。熊野古道「伊勢路」は、江戸時代に一般民衆の熊野詣が盛んになり、おおいに賑わったが、険しく厳しい旅路で遭難したり、病死した巡礼も多かったという。今も市内の所々に熊野古道が残っており、苔むした石碑や石畳道が往時を偲ばせる。

波田須の石畳
 近在の熊野古道の中でもっとも古風で、約80mにわたり鎌倉時代の石敷道がそのまま残っている。敷石は大きく、階段式に敷かれ重厚である。また鎌倉時代の石畳につづく江戸時代の敷石には、雨に備えた流れ溝も設けられている。路傍には休憩用の腰掛石がある。また、王子社があったと伝えられる広場には「熊野三神」と刻まれた自然石が残っている。

波田須の道
 この道に残る石畳は、一つひとつが重厚で大きく、敷き方も豪快で鎌倉時代のものといわれ、伊勢街道では一番古い時代のものである。この素朴な石畳は、江戸時代のものとははっきり区別ができる。
 雨量が多いこの地方では、石材に恵まれていることもあって道路保護のために多くの石畳道が造られた。所々に土砂流出を防ぐため「洗い越し」とよばれる雨水を流すための道路横断側溝も作られている。これら石畳、洗い越し、猪垣、猪落とし等は古道に関連する貴重な歴史的文化遺産となっている。
 ここ波田須の古道周辺には墓地や神社があり、古道が地域住民の皆さんの草刈り、道普請などの奉仕作業により大切に守られてきた。雨天時には滑るため、不便を来すこともあるが、何百年もの時の流れを経て今に至った貴重な文化遺産である古道を、今後も大切に守り続けていきたい。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-03-10 06:31 | 近畿 | Comments(0)

伊勢・美濃編(4):波田須の道(14.9)

 それでは出発。ホームからは熊野灘がすこし見えました。家々が点在する集落を貫くゆるやかな坂道をのぼっていくと、あちこちにきれいな彼岸花が咲き誇っています。♪赤い花なら曼珠沙華/阿蘭陀屋敷に雨が降る/濡れて泣いてるじゃがたらお春/未練な出船のあゝ鐘が鳴るララ鐘が鳴る♪と、思わず口ずさみましたが…なんで私はこんな古い歌を知っているんだ?
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 ふりかえっては海を眺めつつしばらく歩くと、集落の掲示板に「ある日、突然、犯人から電話が架かってきます。これ、全部詐欺なんです! ~電話詐欺に注意!~」というポスターが貼ってありました。後学のために転記しておきます。
医療費の還付金があります。ATMへ行ってください。
会社が上場します。社債を買えば、高値で買い取ります。
封筒が届いた人しか購入できません。名義を貸してください。 
早く振り込まないと、他の会員に迷惑がかかります。
警察です。犯人グループを捕まえたらあなたの通帳が使われていた。
銀行協会が、お金をあずかります。
銀行内に犯人がいます。あなたの銀行口座から預金が引き出されるかもしれません。
情報料を支払えば、ロト6が当たります。
 いやはや、いろいろな手口があるものですねえ。こうした手練手管を考える暇があったら、真っ当に地道にざっかけなく汗水かいて働けばいいのに。警察も警察で、もっと悪辣な犯罪の摘発に力を入れてほしいですね。ベルトルト・ブレヒトの言を借りれば、「銀行を創設する奴に比べたら、電話詐欺なんてケチな犯罪だ」。福島や沖縄の人びとの暮らしを破壊して平然としている自由民主党・公明党などは、破壊活動防止法に違反しているでしょ、ねえミーポくん
第一条 この法律は、団体の活動として暴力主義的破壊活動を行つた団体に対する必要な規制措置を定めるとともに、暴力主義的破壊活動に関する刑罰規定を補整し、もつて、公共の安全の確保に寄与することを目的とする。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2016-03-09 06:44 | 近畿 | Comments(0)

伊勢・美濃編(3):波田須の道(14.9)

 朝、目覚めて窓から外を眺めると、川が見えました。おおっあれが熊野川か、念のためガイドブックで調べると、井戸川でした。熊野川の河口は新宮でした。
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 さて本日の旅程ですが、まずは熊野古道の伊勢路にあたる「波田須の道」を歩くために、JR波田須駅に向かいましょう。昨日購入した時刻表で調べておいたのですが、紀勢本線の亀山方面行きの列車は、熊野市駅を6:46に発車します。これを逃すと次の列車は8:21、このタイム・ロスは大きいですね。よって6:46発の列車に乗るために、フロントにモーニング・コールをお願いしておいたという次第です。歯を磨いて洗顔し、♪朝飯食べずに♪熊野市駅前に行くと、幸いなるかな、コンビニエンス・ストア「酒・弁当・氷」が開いておりました。やった。中に入ると嬉しいことにご当地B級グルメ「めはり」寿司がありました。やった。さらに「日本一 熊野大花火」というキッチュなご当地Tシャツも売っています。やった。もちろん両者とも購入、いきなり「やった」三連発とは幸先の良いすべりだしです。なお店先には「木本町寄り道マップ」という、付近の街並みを紹介する地図が貼ってあったので写真におさめました。後ほどこのあたりを徘徊するときに、利用させていただきましょう。
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 そして眼前にある熊野市駅に入り、定刻通りやってきた列車に乗り込みました。腹がへっては戦はできぬ、とるものもとりあえず「めはり」寿司をいただきましょう。高菜の浅漬けでくるんだおにぎりで、その大きさで口にほおばるとき目を見張るから、その名がついたとか。以前に熊野古道の中辺路を歩いたときも、お世話になりました。その質朴を満喫、おいしゅうございました。
 そして6:53に波田須駅に到着、時刻表によると熊野市方面に戻る列車は8:13発、一時間半ほどの予定で「波田須の道」を歩きましょう。なおこの列車に乗り遅れると、次の列車は9:44。ちゃきちゃき、かつ、ガチのローカル線ですね。
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 もちろん無人駅ですが、このあたりを紹介する看板がありましたので、参考のために転記しておきます。
徐福の里 波田須
 ここ波田須は、2,200年以上前に秦の始皇帝から不老長寿の仙薬を探すように命じられた古代中国の方士・徐福の伝承が色濃く残る里です。徐福の船団が上陸したと伝わる「矢賀(やいか)の磯」付近の「徐福の宮」に徐福が祀られて、この波田須を見守っています。また、波田須は弘法大師の伝説や、戦国時代にまつわる伝承が残る民話の里であり、熊野古道に囲まれた歴史の息吹を感じる自然豊かな地域です。
 私がかつて訪れたところでは、新宮にも徐福の墓と徐福公園、また佐賀県の昇開橋の近くには徐福上陸の地がありました。なお奈良文化財研究所飛鳥資料館倶楽部のサイトによると、青森、秋田、山梨、愛知、京都、三重、福岡、宮崎、鹿児島にも徐福伝説があるそうです。なぜ徐福にまつわる伝説を受け入れ語り継いできた地がこれほど多く、かつ北は青森から南は鹿児島にまで広範囲に及んでいるのか、興味深いですね。折口学が説く「まれびと」と関係があるのでしょうか。これはやってこなくていい宿題として抱えておきましょう。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2016-03-08 06:42 | 近畿 | Comments(0)