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秩父編(4):(14.10)

 向かい側にあるのが旧大月旅館別館。解説を転記します。
 この建物は、番場通りと昭和通りの交差する角地に建てられた木造2階建てで、屋根の四周に外壁が立ち上がり、最上部にコーニスが施してあります。簡潔な装飾で統一されており、アールデコの意匠を感じさせるたたずまいとなっております。
 建物は、交差点を意識して、建物の正面を隅部として出入り口を設け、角地の立地を生かした配置となっております。
 大正15年(1926)に旅館の別館として建築された当時は、1階が遊技場、2階が従業員の部屋として使用されていました。
 この付近には、昭和時代初期から昭和30年代にかけての賑わいを伝える近代商店建築が集中している所で、この建物も当時をしのばせる貴重なものとなっています。
 そうですね、全体としてシャープな造形がアールデコを感じさせます。コーニスの下に配置された四本のラインがいいアクセントになっています。
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 その向かい側が安田屋です。解説を転記します。
 この建物は、番場通りと昭和通りの交差する角地に建てられた木造2階建て片流れ造金属板葺き屋根となっています。屋根は北東側(昭和通り側)が高くなっており、この屋根を隠す位置までモルタル塗の外壁が四周に大きく立ち上がり、最上部にコーニスを廻しています。また、屋根裏部屋の位置には窓を付け3階に見えるような外観となっており、この屋根裏の窓が建築当初のものとなっています。窓の上にはアカンサスをあしらった装飾をつけています。洋風意匠を摂取した店舗兼用住宅となっています。
この付近には、昭和時代初期から昭和30年代にかけての賑わいを伝える近代商店建築が集中している所で、この建物も当時をしのばせる貴重なものとなっています。
 ちなみにアカンサスとは地中海アザミのことですね、ギリシアのデロス島で見たことがあります。
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by sabasaba13 | 2016-08-08 06:32 | 関東 | Comments(0)

秩父編(3):(14.10)

 それでは西武秩父駅に戻って昼食をいただくことにしましょう。途中に格安チケットの自販機がありました。駅からは、どんどんどんどんとチェロ・ケースを背負った四人の女性がこちらに闊歩してきます。チェリストの末席を汚す者としてお近づきに…いかんいかん、良識を失わないようにしましょう。
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 お食事処「仲見世」に入って注文したのは、もちろん秩父名物のB級グルメ、わらじカツ丼とみそポテトです。ま、それなりに美味しかったです。
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 ここから歩いて秩父鉄道御花畑駅へ、このあたりから秩父駅にかけてレトロな建物が目白押しとのことです。事前に調べて印刷してきた地図を片手に、Here we go! おっカラオケスナック「HELMES」があるぞ。旅人の守護神にして文化英雄(トリックスター)ヘルメス、こいつは端から縁起がいいわい。
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 片山医院は偶然に見つけた物件ですが、下見板張りの洒落た洋館です。
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 番場通りと昭和通りの交差する四つ角には、四つのレトロ建築がどんどんどんどんとありました。まずは小池煙草店。解説を転記します。
 この建物は、番場通りと昭和通りの交差する角地に建てられた木造二階建てで、北西側(番場通り側)の屋根が高くした片流れ造金属板葺きとなっています。外壁は屋根を隠す位置まで大きく立ち上がり、最上部にはコーニスと葉飾りのモールディングを施し、交差点隅部を曲面として、煙草売場カウンターを設け正面としています。正面建具は1階の出入り口と販売カウンターを除いてほぼ建築当時のもので、2階の窓周りの縁取りなど装飾性に富んだ店舗兼用住宅となっています。
 開店当時は東京の専売公社からモデル店舗に指定され写真入りで関係機関に宣伝されたと伝えられています。昭和時代初期の近代商店建築の好例として貴重な建造物となっています。
 ちなみにコーニスは水平の出っ張り、モールディングは縁のことです。それにしても異形の物件ですね、どこが煙草屋なのだろう。意味不明の巨大なメダリオン、窓の桟のア――ルデコ風の意匠、インパクトがあります。角のところを丸くして売場カウンターにしたのは良い仕事です。
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by sabasaba13 | 2016-08-07 08:09 | 関東 | Comments(0)

秩父編(2):(14.10)

 まずは外観から拝見。下部に大谷石を使用し、水平線を強調しているところは、フランク・ロイド・ライトのテイストを感じます。さまざまな形の窓が多用されていて、全体的に軽やかな印象を受けました。車寄せが武骨で無愛想すぎるかな。200円を支払って中に入ると、窓の洒落た装飾に目を引かれます。
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 時代を感じさせる渡り廊下を歩いて工場棟へ、明かり取りのための三角屋根を頂いた昔ながらの工場です。中には往時の機械などが展示してありました。
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 おっ「秩父事件130周年記念事業」というポスターがありました。もう130年もたつのですね。日本近代の転換点とも言うべき重要な事件だと考えており、おりにふれていろいろと調べたり、関連の史跡を訪れたりしています。岩波日本史辞典より引用します。
 1884年秩父地方やその周辺の負債農民と地元の自由党員らが結成した秩父困民党による武装蜂起。秩父騒動・秩父暴動とも。自由民権運動期の最大の激化事件であり、また近世以来の負債弁済慣行に基づく農民騒動とも評価される。松方デフレ政策や恐慌により、関東・中部地方を中心に生糸価格が暴落、学校や新道工事のための負担増・地方税増税で金融会社・高利貸に対する負債を抱える農民が、返済延期・金利引下げ・納税延期・減税などを求めて請願・騒擾を繰返し、村ごとに困民党を結成、自由党に入る者も増えた。やがて30か村で総代を選び、84年9月には秩父困民党として組織され、田代栄助・加藤織平・井上伝蔵・菊池貫平らを幹部として在地オルグ100名も活動を始めた。
 合法的な請願・交渉が行詰り、また下部の突上げもあり、幹部の反対を押切って、10.26下吉田村(現秩父市内)粟野山会議で11.1蜂起を決定した。秩父郡風布村ではその前日から行動を開始、群馬県西南部の農民も参加した。11.1下吉田村椋(むく)神社で総理田代・副総理加藤・参謀長菊池・会計長井上以下の役割と軍律を発表。銃・刀・竹槍を備えた2個大隊の武装組織を結成して蜂起、小鹿野町・大宮郷(秩父市内)から皆野村に達した。途中では高利貸・戸長役場・郡役所などを襲撃、借金証文・借金台帳などを焼払い、警官隊・憲兵隊・鎮台兵と衝突。当初から武装行動に消極的であった田代・井上ら幹部は11.4皆野の本陣から逃亡したが、120人の分遣隊は菊池が総理となり、石間村から群馬県山中谷・長野県南佐久郡に至り、9日東馬流 (まながし)(現小海町内)で高崎鎮台兵・警官隊に攻撃され、解体した。参加者約1万人、処罰者は4000人以上、戦死者23名。田代は11.14逮捕され85.5.17熊谷刑場で死刑。加藤・落合寅市・高岸善吉・坂本宗作の4名も死刑。井上は逃亡。菊池は死刑判決後、大赦により無期徒刑、1905年恩赦で出獄した。
 私思うに、秩父事件とは、進行しつつある近代(優勝劣敗の競争社会)化に対し、「弱者を助けない強者には制裁を加えてよい」という前近代の社会通念(モラル・エコノミー)に基づいた抵抗でした。しかし警察と軍隊(!)の前に敗れ去り、こうした抵抗は消滅しました。言うなれば、秩父事件は近代化に対する最後の抵抗でした。以後民衆は、他者を蹴落とすためにひたすら勤勉に働くことになります。しかし(当然ですが)ほとんどの民衆は強者・富者になれず、心には不安感・孤立感・劣等感が宿ることになります。それらを解消するために、ナショナリズムと差別が、民衆の間に浸透していったのではないでしょうか。強大な国家の一員であると意識して、自尊心と一体感を感じるナショナリズム。弱者(女性・被差別部落・アイヌ・沖縄人・朝鮮人・中国人)を見出すことによって、優越感・満足感を充足させる差別。
 ふたたびナショナリズムと差別が猖獗を極めそうな悪寒に襲われる現今、その根底にあるのはやはり人々の中に音もなく浸潤する不安感・孤立感・劣等感だと思います。モラル・エコノミー的なるものの再構築はできないものでしょうか。
 なお秩父近辺の関連史跡は以前にめぐったことがあるのですが、拙ブログをはじめる前でしたので旅行記としてはまとめてありません。波久礼にある秩父事件の顕彰碑と追悼碑、最後の激戦地・馬流については記事がありますので、よろしければご笑覧ください。

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2016-08-05 07:02 | 関東 | Comments(0)

秩父編(1):(14.10)

 何の因果か前世の縁か、転車台にはまってしまいまして、日本全国を行脚する際には事前に調べて必ず立ち寄ることにしています。最近得た情報によると、秩父鉄道の三峰口駅に現役の転車台があるそうな。そこまでSLも走っているそうですし。文化遺産オンラインで調べたところ、秩父にはレトロな建物もかなり残っているようです。よろしい、今度の日曜日に訪れてみましょう。山ノ神を誘ったところ、「行かない」と即答。ま、そりゃそうですよね、何を好んでたまの休日に転車台を見に秩父まで行くのか、常人では理解できないでしょう。というわけで、インターネットでSLパレオエクスプレスの自由席券を予約して、2014年10月のとある好天の日曜日、秩父まで行ってきました。
 特急レッドアローに乗って西武秩父駅に着いたのが午前十時、駅と接続している仲見世通りには、秩父三十四ヶ所巡りの巡礼と、秩父名物しゃくしな漬の顔はめ看板がありました。駅前に出ると、鎮座まします武甲山の魁偉な容貌が陽光に輝いています。観光案内書で地図をいただき、まず目指すは「ちちぶ銘仙館」です。
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 マンホールの蓋やを撮影しながら十分ほどぶらぶらと歩くと、到着です。
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 解説板を転記します。
 この施設は、昭和五年九月に秩父絹織物同業組合(現秩父織物商工組合)が秩父地域の繊維産業の向上と振興を図るため建築し、埼玉県秩父工業試験場を誘致いたしました。
 昭和五十八年四月に埼玉県繊維工業試験場秩父支場に改組され、秩父地域繊維産業の発展のために大きな役割を果たしてきましたが、平成十年三月に県内工業試験場の再編・統合で廃止されることになり、その後土地・建物が秩父市に譲渡されることとなりました。
 本館はアメリカ人建築家ライト氏が考案した大谷石積みの外装や昭和初期の特徴的な装飾との調和が建築的に非常に優れており、三角屋根の工場棟や渡り廊下も含め、平成十三年十月に国の登録有形文化財に指定されております。
 このたび、ちちぶ銘仙館として、秩父織物・銘仙等の歴史上貴重な史料の展示や伝統的な技術を伝承するための施設として、昭和初期の面影を残した形で改修いたしました。
 秩父銘仙の歴史を刻んだ建物をゆっくりご覧ください。
 なお当館のホームページによると、「秩父銘仙」とは規格外の繭を使った「太織」と呼ばれる絹織物で、野良着や普段着として好んで使われたそうです。秩父は山に囲まれた地形で、稲作に向かないことから養蚕業が盛んなのですね。大正から昭和初期にかけては、養蚕業などを含めると市民の約七割が織物関係の仕事に関わっていたと言われ、まさに秩父地域の基幹産業でした。「銘仙」の語源については諸説ありますが、明治20年ころから太織は「めいせん」の名前で販売されはじめ、明治30年初期に東京三越で販売された際に、「産地それぞれが責任を持って優良品を選んだ」との意味から「銘撰」の字が当てられ、その後に「撰」が「仙」に変わり「銘仙」となったとされています。おしまい。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2016-08-04 08:12 | 関東 | Comments(0)