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近江編(10):近江八幡(15.3)

 40分ほど走って近江八幡駅前に到着、そして本日のお目当て、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計の建物めぐりです。まず観光案内所でいただいた資料から、彼のプロフィールを転記します。
 ヴォーリズは1880年10月28日アメリカのカンザス州レブンワースに生まれた。少年時代より音楽と絵を描くことを好み、建築家になろうと志した。「学生伝道隊運動」の世界大会にYMCAより出席をし、キリスト教の教えを海外で伝道をしようと決意をした。
 1905年2月2日に八幡に着き、県立商業学校の英語の教師として教鞭をとった。授業でも、また授業以外のバイブルクラスでも大変人気があり、生徒の心を掴んで2年間活躍した。その後もヴォーリズは八幡に留まり、キリストの教えを生活の中に生かそうと決意し建築の設計を始めた。
 1907年にヴォーリズ自身が近江八幡YMCA会館(現在のアンドリュース記念館)を設計、その後も仕事が順調に増えた。多くの人々と出会い、信仰により結ばれて支えられていた。
 グループの事業は
1.建築設計事務所 (ヴォーリズ建築事務所)
2.医療事業 (肺結核診療所としてツッカーハウス(現在のヴォーリズ記念病院))
3.製薬会社 (メンソレータム(現メンターム)の製造、販売)
4.教育事業 (近江兄弟社学園の幼・小・中・高等学校)
5.図書館 (旧伴庄右衛門邸を利用して近江兄弟社図書館)
 を擁するまでに拡大した。中でもヴォーリズの建築が人の心を惹きつけている。
 1906年から1925年の18年間に設計された建物は、日本国内で確認されているものだけでも住宅が164棟、学校・図書館・寄宿舎が118棟、病院が6棟、教会・音楽堂・講堂が114棟、銀行・会社・デパートが24棟ある。こうした数多くの建築の中でも、ヴォーリズ建築の特徴を、またその人柄や心を最もよく顕しているのは住宅である。
 1919年に一柳満喜子と結婚をし、1941年に日本に帰化をし、日本国籍を取得して一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と改名をした。これは米国より来て留まるという決意を示している。その後1957年8月に蜘蛛膜下出血のために病床に就き、1964年5月7日享年83歳で天に召された。
 彼の作品は、これまで東華菜館日本福音ルーテル市川教会会堂九州学院高等学校講堂兼礼拝堂大丸ヴィラ芝山口記念会館山の上ホテルを見てきましたが、肩ひじを張らず奇を衒わず、住みやすそうな使いやすそうな印象の好建築ばかりでした。ここ近江八幡には、彼の作品が数多残っているので、できうる限り見てまわりたいと思います。

 まず駅前にヴォーリズが設計した日本基督教団近江金田教会がありました。観光パンフレットから引用します。
 赤い瓦屋根と真っ白なスタッコ壁、正面から見て左側にある鐘楼が特徴的でシンプルな外観でヴォーリズらしい優しさや暖かさを感じさせる建物である。農村伝道を目的として建てられた木造2階建てである。外壁の窓枠や表札などは当時のままで趣きがある。2階に礼拝堂がある。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-21 06:32 | 近畿 | Comments(0)

近江編(9):近江八幡へ(15.3)

 そして愛知川に架かる近江鉄道愛知川橋梁に着きました。接近はできそうもないので、望遠で撮影。「文化遺産オンライン」によると、"橋長239m、単線仕様の鉄道橋で、9連プレートガーダーと単ポニーワーレントラスよりなる。J形スティフナーと、トラスの台形フレームや横桁の配置等にイギリス橋梁技術の特徴をよく示す。明治後期造の現役の鉄道橋として貴重"だそうです。と、当該の記事をコピー&ペーストしただけで、私にはよく分かりません。ごめんなさい。
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 それでは能登川駅へ向けて一路、ペダルをぶんまわしましょう。さすがは"とびだし坊や発祥の地"、少年少女にじさま・ばさまと百花繚乱の飛び出し人形に出会えました。
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 丁重にお礼を言って代金を支払い、自転車を返却。能登川駅から琵琶湖線快速列車に乗ると、六分ほどで近江八幡駅に到着です。観光案内所で地図と資料、そしてレンタサイクルの所在地を教えてもらいました。駅の近くにある、JR西日本提供の「駅リンくん」で自転車を拝借。一日500円というのは格安ですね。
 それでサドルにまたがりいざ出発、まず目指すは旧八幡警察署武佐分署庁舎です。持参した地図を頼りに、東へ向かいペダルをこいでいると、毎度おなじみになった「とびだし坊や」と、アヒルのガードレール・アニマルを発見しました。
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 三十分ほどでお目当ての旧八幡警察署武佐分署庁舎に到着。とても警察署とは思えない、まるで別荘のような洒落た洋館です。
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 なおこのあたりは中山道第六十七番の宿場、武佐宿ですが、その面影はありません。往時は旅籠が二十三軒もあり、享保13(1728)年には輸入された象もここを通ったそうです。また、八日市・永源寺を通り八風峠を越え伊勢へとつながる八風街道の起点で、海産物、紙、布等の物資が行き交ったとのことです。
 それでは近江八幡へと向かいましょう。途中で交通安全足型と、ボクサー風の飛び出し小僧を撮影。♪Li la lie…♪
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by sabasaba13 | 2017-07-20 06:32 | 近畿 | Comments(0)

近江編(8):五個荘(15.3)

 さてそれでは付近にある近代化遺産を経巡りながら、能登川駅へと戻りましょう。ペダルをこいでいると、噂の飛び出し小僧と「コバタ物件」を見つけました。
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 そして日本でも数少ない書道の専門学校・淡海書道文化専門学校の旧校舎を撮影。
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 情報誌「三方よし」(第36号 2011.9)に紹介文があったので引用します。
 塚本さとは近江商人の家に生まれ、商家の妻として生涯を送った女性です。大正8年(1919)、さとは念願だった淡海(たんかい)女子実務学校を創立します。杉浦重剛、下田歌子、嘉悦孝子らとともに、仮校舎から授業をスタートさせました。 翌年、校舎を隣に移転。さとは校長として全力で運営にあたり、多くの学生たちに生き方の指針を示しました。カリキュラムは、一般教養から家事、作法、芸術までを幅広く網羅していました。経営にあたっては私財を投じ、最後まで学校の存続を望みますが、経営状態が悪化し、大正13年には閉校にまで追い込まれます。
 その後、さとの志を引き継いで学校経営を引き受けたのは創立以来の顧問であり、歌人であった下田歌子でした。大正15年、淡海実践女学校は下田歌子校長とともに、淡海高等女学校として再スタートを切りました。その際、滋賀県から交付を受けた校舎(県立神崎商業学校旧校舎)に移転しています。淡海書道文化専門学校の旧校舎です。
 実践女子学院を創設した、近代日本における女子教育の第一人者・下田歌子が関係していたのですね。彼女の出身地・岩村で銅像を見た記憶があります。
 竜田公会堂は、マンサール屋根が小粋な洒落た建物です。
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 旧五個荘郵便局は、キレッキレのシャープな意匠です。正面を三列の縦長壁で構成して垂直性を強調し、直線・直角・四角を組み合わせた装飾がちりばめられています。いわゆるセッション様式ですね、いろいろと郵便局物件を見てきましたがまごうことなき逸品です。
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 珍しい透かしブロックを撮影して、しばらく走ると「あんた! 何したん!!」という京都新聞の広告看板がありました。いや、その、突然そう言われても、もごもご。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-19 06:33 | 近畿 | Comments(0)

言葉の花綵164

 私亡きあと、盛大な葬儀をして人民の時間とお金を浪費しないようにしてほしい。(ホー・チ・ミン)

 わたしたちは、自分のつとめをはたしたのだ。もう一度くりかえそう。私たちは幸福のために生き、幸福のために闘い、幸福のために死んでゆく。だから、けっしてわたしの名まえを、かなしみとむすびつけないように―。(ユリウス・フーチク 『絞首台からのレポート』)

 暴力が障害物を速やかに一掃してしまうことはある。しかし、暴力そのものが創造的であると証明されたことは一度もない。(アルバート・アインシュタイン)

 賢さを伴わない勇気は乱暴であり、勇気を伴わない賢さなどはくそにもなりません! 世界の歴史には、おろかな連中が勇気をもち、賢い人たちが臆病だったような時代がいくらもあります。(エーリヒ・ケストナー)

 私の記憶でのファシズムは、一寸きざみの、時には後退を伴うジグザグの進行を示すものであって、そのどの段階も危険であるし、また、どの段階でも防止手段が皆無ではない、という形に私の内部では定式化されている。(竹内好 『日本とアジア』)

 日本兵は捕虜になるより死を選ぶが、彼らの死にものぐるいの戦闘ぶりは、単純に勇気のせいとはいえない。それは罪の意識と恐怖なのだ。ひじょうに多くのわが人民を殺し、婦女に暴行を加えた。だからわれわれに捕まるのを怖れているのだ。彼らは公然と「虐殺戦」を自慢している。そして彼らが捕えた中国兵をなぶり殺しにしているように、われわれも彼らをなぶり殺すものと考えている。(朱徳 『偉大なる道』)

 中国人が千何百万人も殺されたこと。こうした不幸な子が何百万人とも知れずできたこと。その原因は、「人間が生みだした最大の怪物、戦争」ではない。なぜハッキリと、日本軍が中国へ攻めこんだことが原因だといわないのか。こんなにもハッキリしていることを、どうして大新聞や大放送局は、必死でごまかすのだろうか。(本多勝一 『中国の日本軍』)

(つぅ) おかね…おかね…どうしてそんなにほしいのかしら…
(与ひょう) そら、金があれば、何でもええもんを買うだ。
(つぅ) かう? 「かう」ってなに? いいもんってなに? あたしのほかに何がほしいの? (木下順二 『夕鶴』)

 逝いて還らぬ教え子よ/私の手は血まみれだ!/君を縊ったその綱の/端を私も持っていた/しかも人の子の師の名において…/逝った君はもう還らない/今ぞ私は汚濁の手をすすぎ/涙を払って君の墓標に誓う/「繰り返さぬぞ絶対に!」 (竹本源治)
by sabasaba13 | 2017-07-18 19:27 | 言葉の花綵 | Comments(0)

『茨木のり子詩集』

 年がら年中というわけではありませんが、時として無性に詩が読みたくなります。磨き上げられた言葉の凄みに触れたくなるのかもしれません。好きな詩人は、萩原朔太郎金子光晴山之口獏井伏鱒二宮沢賢治茨木のり子田村隆一、ジャック・プレヴェール、ラングストン・ヒューズ、ディラン・トマス、ベルトルト・ブレヒト…とは言っても失礼なことに読み散らかしただけですが。

 先日、ふらりと本屋に入ると、書棚に『茨木のり子詩集』(谷川俊太郎選 岩波文庫)があるのを見つけました。これは嬉しい、「わたしが一番きれいだったとき」と詩集『倚りかからず』(筑摩書房)しか読んだことがなかったので、彼女の詩をまとめて読む格好の機会です。すぐに購入し、一気に読み終えました。
 以前に読んだ『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書9)の中で、彼女はこう言っておられました。
 つづまるところ詩歌は、一人の人間の喜怒哀楽の表出にすぎないと思うのですが、日本の詩歌はこれまで「哀」において多くの傑作を生んできました。「喜」や「楽」にも見るべきものがあります。ただ「怒」の部門が非常に弱く、外国の詩にくらべると、そこがどうも日本の詩歌のアキレス腱ではあるまいか、というのが私の考えです。
 この詩集を読んで、あらためて茨木のり子が詩で表現する真摯で力強い「怒」を感じることができました。いくつか紹介しましょう。
樫の木の若者を曠野にねむらせ
しなやかなアキレス腱を海底につなぎ
おびただしい死の宝石をついやして
ついに
永遠の一片をも掠め得なかった民族よ (「ひそかに」 p.20)


ひとびとは
怒りの火薬をしめらせてはならない
まことの自己の名において立つ日のために (「内部からくさる桃」 p.25)


ああ わたしたちが
もっともっと貪婪にならないかぎり
なにごとも始まりはしないのだ。(「もっと強く」 p.34)


女たちは長く長く許してきた
あまりに長く許してきたので
どこの国の女たちも鉛の兵隊しか
生めなくなったのではないか?
このあたりでひとつ
男の鼻っぱしらをボイーンと殴り
アマゾンの焚火でも囲むべきではないか?
女のひとのやさしさは
長く世界の潤滑油であったけれど
それがなにを生んできたというのだろう? (「怒るときと許すとき」 p.64~5)


どうして こうおとなしいんだろう みんな (「ゆめゆめ疑う」 p.132)


田中正造が白髪ふりみだし
声を限りに呼ばはった足尾鉱毒事件
祖父母ら ちゃらんぽらんに聞き お茶を濁したことどもは
いま拡大再生産されつつある

分別ざかりの大人たち
ゆめ 思うな
われわれの手にあまることどもは
孫子の代が切りひらいてくれるだろうなどと
いま解決できなかったことは くりかえされる
より悪質に より深く 広く
これは厳たる法則のようだ (「くりかえしのうた」 p.145)


戦争責任を問われて
その人は言った
  そういう言葉のアヤについて
  文学方面はあまり研究していないので
  お答えできかねます
思わず笑いが込みあげて
どす黒い笑い吐血のように
噴きあげては 止り また噴きあげる (「四海波静」 p.183)


過去に釣瓶をおろし
ゆったりと一杯の水も汲みあげられない愚鈍さ (「苦い味」 p.192)


言葉が多すぎる
というより
言葉らしきものが多すぎる
というより
言葉と言えるほどのものが無い

この不毛 この荒野
賑々しきなかの亡国のきざし
さびしいなあ
うるさいなあ
顔ひんまがる (「賑々しきなかの」 p.202)


それぞれの土から
陽炎のように
ふっと匂い立った旋律がある
愛されてひとびとに
永くうたいつがれてきた民謡がある
なぜ国歌など
ものものしくうたう必要がありましょう
おおかたは侵略の血でよごれ
腹黒の過去を隠しもちながら
口を拭って起立して
直立不動でうたわなければならないか
聞かなければならないか
   私は立たない 坐っています (「鄙ぶりの唄」 p.236)


車がない
ワープロがない
ビデオデッキがない
ファックスがない
パソコン インターネット 見たこともない
けれど格別支障もない

  そんなに情報集めてどうするの
  そんなに急いで何をするの
  頭はからっぽのまま (「時代おくれ」 p.241~2)
 こうしてみると、彼女の怒りの矛先は、国家に対してだけではなく、その「腹黒の過去」を「お茶」に濁し、「口を拭」い、その「過去に釣瓶をおろし」て「ゆったりと一杯の水も汲みあげられない愚鈍」な日本の民衆にも向けられているのですね。あらためて「腹黒の過去」を隠し、「拡大再生産」しようとする安倍上等兵政権と自民党、それと癒着する財界に対して、きちんと怒らねば、と思いました。

 追記その一。中国や朝鮮に対して日本が行なった「腹黒の過去」を謳った詩がいくつかあることも知りました。例えば、朝鮮の人々が日本による植民地支配をどう見ているかを詩にした「総督府へ行ってくる」という作品です。
日本人数人が立ったまま日本語を少し喋ったとき
老人の顔に畏怖と嫌悪の情
さっと走るのを視た
千万言を費やされるより強烈に
日本がしてきたことを
そこに視た (p.224~5)
 また中国から北海道へ炭鉱労働者として強制連行され、鉱業所での屈辱に耐えきれず脱走し、終戦を知らずに13年間、北海道の山中での逃避行を続けた劉連仁氏を謳った「りゅうりぇんれんの物語」という詩もあります。
昭和三十三年三月りゅうりぇんれんは雨にけむる東京についた
罪もない 兵士でもない 百姓を
こんなひどい目にあわせた
「華人労務者移入方針」
かつてこの案を練った商工大臣が
今は総理大臣となっている不思議な首都へ

ぬらりくらりとした政府
言いぬけばかりを考える官僚のくらげども (p.120~1)
 罪のない中国人をひどい目に合わせたこの御仁のお孫さんが、今の総理大臣ですね。そしてくらげのような官僚のみなさんは、今だにぬらりくらりと言いぬけばかり考えています。相も変わらず不思議な首都です。

 追記その二。大岡信との対談の中で、茨木のり子はこう語っています。
 わたし選挙を一度も棄権していないのは、やはり明治時代から女の参政権のために闘ってきた人たちがいたわけですから、その人たちへの敬意もあって雨が降ろうが嵐だろうが…。(p.345)

 追記その三。若い頃によく見ていたTVドラマ、『俺は男だ!』に印象的な場面がありました。詳細は憶えていないのですが、何かトラブルがあってクラス全員が国語の授業をボイコットしました。しかし主人公(森田健作)だけが一人教室に残り、先生の前で教科書の詩を朗読します。するとそれに唱和しながら、クラスメートが次々と教室に戻ってきます。その詩がなんと、茨木のり子の「六月」という詩だったのですね。忘れていた旧友に出会えたようで、嬉しくなりました。
どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒
鍬を立てかけ 籠を置き
男も女も大きなジョッキをかたむける

どこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろした夕暮は
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる

どこかに美しい人と人との力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって たちあらわれる (p.51~2)

by sabasaba13 | 2017-07-16 05:25 | | Comments(0)

『日本国憲法を口語訳してみたら』

 都議会選挙での自民党の惨敗、「御慶」と叫びたいですね。これで憲法改悪の野望も潰えたかと思いきや、安倍上等兵は往生際も悪く諦めていないようです。それを頓挫させるためにも、多くの方々に(特に若い人に)憲法について考えてもらいたいものです。そもそも憲法とは何か? 無知な私の蒙を啓いてくれたのが、小室直樹氏です。『痛快! 憲法学』(集英社インターナショナル)から引用します。
 一人の犯罪者ができる悪事より、国家が行なう悪事のほうがずっとスケールが大きいのです。…憲法とは国民に向けて書かれたものではない。誰のために書かれたものかといえば、国家権力すべてを縛るために書かれたものです。司法、行政、立法…これらの権力に対する命令が、憲法には書かれている。国家権力というのは、恐ろしい力を持っている。警察だって軍隊だって動かすことができる。そんな怪物のようなものを縛るための、最強の鎖が憲法というわけです。(中略)
 ホッブズは、国家とはリヴァイアサンであると言った。これはまさしく万古不易の名言です。国家権力が自由に動き出したら、それをくい止める手だてはありません。何しろ近代国家には軍隊や警察という暴力装置がある。また人民の手から財産を丸ごと奪うこともできる。さらに国家の命令一つで、人民は徴兵され、命を戦場に投げ出さなければならない。こんな怪物を野放しにしていたのでは、夜もおちおち寝ていることはできないでしょう。だからこそ、近代西洋文明は持てるかぎりの知恵を振り絞って、この怪物を取り押さえようとした。…そこで法律や制度でぐるぐる巻きにしたうえに、さらに太い鎖をかけることにした。それが憲法というわけです。だから、憲法はあくまでも国家を縛るためのもの。一般国民に対して「仲良くせよ」「平和を愛せ」なんて、訓辞を垂れている余裕はない。敵はリヴァイアサン、そんな悠長なことは言っていられないのです。(p.28~31)
 また最近、『転換期を生きる君たちへ』(晶文社)を読んでいて、岡田憲治氏の一文にも出会えました。
 憲法は、学校の校則を偉くしたみたいなものだと、いい歳をした多数の大人がひどい勘違いをしているので言っておくが、憲法とはそんなものでは断じてない。
 軍隊(大砲)や警察(拳銃)を使って、必要となれば人間を殺したり(戦争)、脅し付けて静かにさせたりすること(治安維持)が例外的に認められている団体は、国家だけだから、暴走して人間や社会を破滅に追い込むことがないように、人々ではなく国家「を」きびしく縛るものが必要だ。そしてそれこそが、憲法がこの世にある最大の理由だ。だから縛られる側である政府にこそ、率先して憲法を守る義務があると書かれている。(p.154)
 はい、よくわかりました。国家という恐るべき怪物を縛る鎖、それが憲法です。よってその怪物が憲法を変えようとしたら要注意、どう考えても暴れるためにその鎖を緩めようとするのは目に見えていますから。自由民主党の改憲案を読めば一目瞭然です。この緊要な本質を理解せず、「押し付けられたから」とか「一度も改正されていないから」とか「時代遅れ」とかいう安直な理由で改正に賛成する方がいることに危惧を覚えます。繰り返しますが、重要なのは、怪物を縛る鎖を、緩めるのか締めるのかという点です。

 ぜひ多くの方々に日本国憲法全文を読んでいただき、その重厚な鎖の質感を感じてほしいのですが、取っつきにくいと思われる方も多いでしょう。そうした方にお薦めしたいのが、『日本国憲法を口語訳してみたら』(幻冬舎)です。法学部学生だった塚田薫氏が、「憲法って何?」という友人の質問に「こんな感じ」と答えたのが好評となり、それを「2ちゃんねる」に書き込んで大きな反響を呼びました。その内容を一冊にまとめたのが本書です。いくつか紹介しましょう。なお括弧内の斜体が原文です。
第17条 俺たちは、もし国や公務員がちゃんとした理由がないのに、俺たちの権利を侵したら、国とか公的なとこに、その補償をしろって要求できるよ。

(第17条 何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる)

第19条 どんな考えでも、それはお前の考えなんだから、大事にされるよ。もし公権力がお前の考えや良心に反することを要求しても、全部無視していいよ。

(第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない)

第21条 みんなで集まって考えたり、自分の考えをしゃべったり、本とかにしたりして表現することは、すべて自由だぜ。どんな表現でも、それはお前の権利だから、胸はってやれよ。
2項 国は検閲っていって、発表される前の本なんかの内容をチェックしたり、いちゃもんをつけたりしちゃだめだよ。あと、どんな話をしたとか、どんな考えをもってるとか探っちゃだめだよ。検閲の禁止と通信の秘密な。

(第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2項 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない
)

第25条 俺たちはみんな、健康で人間らしい最低限の生活をする権利があるよ。
2項 国は、このためにできることをちゃんとやれよ。

(第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2項 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない
)

第36条 公務員は、刑罰とかでエグいことすんなよ。拷問なんてもってのほかだからな。絶対な。

(第36条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる)

第83条 国のお金は、国会が決めたことにしたがって使えよ。

(第83条 国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない)

第97条 この憲法が大事にしてる基本的人権っていうのは、世界中の人たちがこれまで何百年もずーっとがんばって考えて、闘って、そして勝ち取った結果だよ。これは俺たちと俺たちのガキ、またそのずっと先のガキまで永久に受け取った、誰にも侵されない超重要な権利なんだ。

(第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである)

第98条 この憲法は日本で一番偉いルールだから、それに逆らうようなことを国がしたら、全部無視していいよ。[※2項は省略]

(第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。[※2項は省略])

第99条 総理大臣やほかの大臣、国会議員、裁判官、公務員、天皇や摂政は、この憲法をきちっと守ってね。これ、義務だからな。

(第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ)
 うわお、これはお見事。ざっくばらんな親しみやすさ、スピード感と力強さが素晴らしい。何よりも国家に対する「上から目線」が、びしびしと伝わってきます。国家権力に対して「~するなよ」「~に逆らうなよ」「~を守れよ」という小気味のよい命令が、フリッカー・ジャブのように次々とくりだされる爽快さ。ぜひ多くの方々が読み、鎖の重要性を実感し、そして原文を読み、憲法改正の国民投票がもし行われた際には参考にしていただきたいと思います。

 余談です。自民党の改憲案では、第97条はそっくり削除され、第36条からは「絶対に」という文言が削除され、第99条には「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」という文言が追加されています。語るに落ちるとはこのこと、彼等の考える憲法とは「国民を縛る鎖」なのですね。また第21条には次の条項が追加されています。
 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
 この改憲案全体の主語が、国民ではなく、国家権力を行使する官僚・政治家であるという印象を強く受けますが、これもそうですね。口語訳してみましょうか。
 表現の自由は認めるけど、俺ら官僚・政治家に損をさせ、俺らの顔にドロをぬるようなことはさせないし、そんなことをするグループはつぶすぜ。
 誰か自民党の改憲案全文を口語訳してくれないかなあ。そして本書と読み比べれば、その違いがいっそう鮮明になると思います。
by sabasaba13 | 2017-07-15 06:19 | | Comments(0)

近江編(7):五個荘(15.3)

 それでは「五個荘観光センター」でお昼ご飯をいただきましょう。ランチセットのキャベツメンチカツを所望したところ、嬉しいことに漬物バイキングがついていました。これは嬉しい、五種類の漬物を少しずつとってすべていただきました。
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 メンチを食べながら、観光パンフレットを読んでいると、近江商人に関する一文がありましたので転記します。
商法を支えた近江商人の理念

 江戸時代、近江商人は天秤棒を肩に全国各地にわたって活躍しました。その精神は現代に至るまで連綿と受け継がれています。
 江戸時代初期から発祥した近江商人たちは、はじめ行商からスタートし、やがて舟や牛馬を使って大規模な卸売を行うようになります。
 特徴的なのは、ただ産物を他の地域で商うだけではなく、各地域の産物を仕入れ、よく売れる地域で商うという「諸国産物廻し」でした。
 また、大福帳による複式簿記を行うなど、独自の資本意識を持って、近江商人たちは今でいう流通システムの確立を行ったのでした。

 売り手よし 買い手よし 世間によし 三方よし

 商いというものは、売り手が利益を得て、買い手が欲しい商品を手に入れるという、売り手も買い手も満足する取引でなければならない。そして、その取引で得られた利益は世間のため、広く公共のために活用されなければならない。
 「売り手よし・買い手よし・世間によし」という、近江商人の格言として有名な「三方よし」の理念を説いた最初の人物は、江戸時代中期、近江国神崎郡石馬寺村(五個荘石馬寺町)の麻布商、中村治兵衛家の二代目宗岸であったと言われています。
 「売り手よし・買い手よし・世間によし」か…これは三思に値する言葉ですね。商売は人や社会を幸せにするために営まれる、経済が社会に埋め込まれていた時代をよく表現しています。経済行為においては、リスクやコストを他者や社会や未来に押しつけぬよう自制すべきである、と言い換えてもいいかな。思うに、近代とはそうした自制を取り払った時代だと考えます。短期間で簡単に大儲けすることを至上命題とし、投機的投資に現を抜かし、ひたすら経済成長をめざす、経済に社会が埋め込まれた時代です。「売り手だけよし」の"一方よし"ですね。そのリスクやコストは、無力な弱者に押しつけて平然とし、どのようなカタストロフが起ころうとも責任を取らない。株式・通貨・不動産の各市場が危機を生み出そうとも、再生不能エネルギー資源が環境を破壊しても、希少資源の支配をめぐる戦争が起ころうとも、それがテロリズムを誘発しようとも、未来の世代が犠牲になろうとも、知ったこっちゃない。今だけ、金だけ、自分だけ。
 やれやれ、「それでも人間か」と罵倒したくなりますが、シェイクスピアだったら「それが人間だ」と切り返すでしょうね。もしdecentな世界と未来を望むのであれば、この近江商人の言葉をもう一度噛みしめるのも悪くないと思います。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-14 06:27 | 近畿 | Comments(0)

近江編(6):五個荘(15.3)

 最後に訪れたのが外村繁邸。呉服木綿問屋を営んでいましたが、外村繁は「草筏」「花筏」など近江商人を題材にした小説を書いた方だそうです。知りませんでしたが。こちらにも素敵なお庭と川戸がありました。
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 なお滋賀の良質な土を磨きあげて光沢をだす「大津壁」は初めて見ました。
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 そして近くにある川並へ、こちらの街並みも素敵でした。
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 お腹がへったので昼食をいただこうと「五個荘観光センター」に行くと、その隣にあった「プラザ三方よし」の入口に、よく見かける飛び出し小僧顔はめ看板が立てかけてありました。ダブルは珍しいわな、とりあえず写真におさめようと近づくと…ぬぅわんと「とびだし坊や発祥の地 東近江市」と記されているではあーりませんか。以前、湖東三山を訪れた時に、やたらと手作りの飛び出し小僧を見かけたので、八日市は飛び出し小僧のサンクチュアリではないかと呟いたことがありますが、発祥の地だったのか。帰郷後にインターネットで調べてみると、「まほろば製作所」のサイトにその由来が紹介されていました。
 それは今から30年以上も前のこと。昭和30年代から40年代にかけて高度経済成長期にあった日本では、車の交通量が急激に増加し、全国で交通事故が増え続けていました。子どもの飛び出しによる事故も多く発生したため、その対策が急務となっていました。"交通戦争"という言葉が頻繁に使われるようになったのもこの頃のことです。そんななか、滋賀県旧八日市市(現・東近江市)の社会福祉協議会が中心となり、急増していた子どもの飛び出し事故を未然に防ぐ啓発活動を展開するという計画が持ち上がりました。当時、同社会福祉協議会から相談を受けた、看板製作業の久田工芸さんが啓発資材の製作を請け負うこととなり、代表者久田泰平さんの手によって、「坊や」が飛び出す様子をかたどった「飛び出し注意」を促す合板製看板、いわゆる「飛び出し人形=飛び出し坊や」が考案されました。昭和48年(1973年)のことだそうです。
 へー、飛び出し小僧に歴史あり、ですね。

 本日の四枚です。一枚目が五個荘、二・三枚目が川並です。
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by sabasaba13 | 2017-07-13 06:30 | 近畿 | Comments(0)

近江編(5):五個荘(15.3)

 それでは五個荘へと向かいましょう。JR大津京駅から湖西線に乗って山科駅へ、琵琶湖線新快速に乗り換えて能登川駅へ、一時間弱で到着しました。ここから近江商人ゆかりの地・五個荘へ行きますが、幸い駅前に「東近江観光案内所」がありました。立ち寄って資料をいただき、レンタサイクルの有無を訊ねると、すぐ近くの「青木自転車商会」で借りられるとのこと。やった。
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 雪を戴く山なみを望みながら田園を爽快に快走、妙齢のマネキン人形もすまし顔で出迎えてくれました。
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 三十分ほどで五個荘です。「滋賀・びわ湖観光情報」から、五個荘についての紹介文を引用します。
 五個荘金堂地区は近江商人ゆかりの地として知られており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。町並みを歩くと舟板塀や白壁をめぐらした蔵屋敷があり、清らかな水が流れ錦鯉が優雅に泳ぐ掘割が縦横に走っています。金堂地区では近江商人屋敷3邸(外村宇兵衛邸・外村繁邸・中江準五郎邸)と金堂まちなみ保存交流館が公開されており、近江商人の本宅の佇まいを知ることができます。平成27年には日本遺産「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産」に認定されました。
 なるほど、情緒にあふれる落ち着いた雰囲気の街並みです。白壁・なまこ壁に舟板塀、掘割が美しい景観をなしていました。
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 なお「東近江観光ナビ」から詳しい地図や資料をダウンロードできますので、よろしければご利用ください。

 まずは近江商人屋敷・中江準五郎邸を訪れましょう。昭和初期、朝鮮半島や中国で三中井百貨店を築いた中江家四兄弟の末の準五郎の本宅です。こちらの見どころはお庭ですね、大きな池とバランスよく配置された庭石が往時の隆盛を物語っています。二階から見下ろす眺めも素敵でした。
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 次は外村宇兵衛邸へ。主に呉服太物を商った近江商人で、明治時代には全国長者番付に名を連ねたそうです。広い座敷や豪華な雛人形には目を瞠りました。
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 二階にのぼると、美しく連なる甍の波を見ることが出来ます。日本の街並みを見る楽しみのひとつですね。こちらのお宅にあったのが川戸(かわと)という、掘割から水を引き込んだ、屋根をかけた洗い場です。てんびん棒をかついだ近江商人の銅像もありました。
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 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-12 06:27 | 近畿 | Comments(0)

近江編(4):大津京駅(15.3)

 大津京駅構内には、大津京に関する展示がありました。そう、ここは663年の白村江の戦いの後、667年3月に中大兄皇子が飛鳥から遷都をしたところですね。その当時の状況について、『日本の歴史03 大王から天皇へ』(熊谷公男 講談社)から引用します。
 667年(天智6)になって、中大兄皇子は王都を近江大津宮に移した。近江は畿外の地にあたる。王都が畿内の外に出たのは、伝説時代を別にすればはじめてのことである。ヤマトの人々にはつよい抵抗があった。『書記』には、遷都のときに「天下の百姓、都遷すことを願わずして、諷(そ)へ諫(あざむ)く(風刺する)者多し。童謡(わざうた:風刺の歌)また衆(おお)し。日日夜夜、失火の処多し」とあって、人々の反発と不穏な情勢とを伝えている。
 近年の調査によって大津市の錦織地区から宮殿とみられる大型の掘立柱建物跡が発見され、近江大津宮跡であることがほぼ確定した。この地域には、比叡山のふもとの傾斜地がおよんでいて、琵琶湖との間にはせまい平地しかない。ここに難波長柄豊碕宮のような巨大な朝堂院をもつ王宮を造営することは困難である。
 このころ半島では、唐は高句麗征討の真っ最中であり、新羅も出兵を命じられている。また国内では、ヤマトに高安城を築くなど、防衛体制の強化に努めていた。東アジア情勢は、依然として緊迫していたのである。そうしたなかで中大兄皇子が、人々の反対を押し切ってヤマトよりさらに奥まった近江に王都を移したのは、防衛体制の強化が主たる目的であったとみてまちがいないであろう。(p.314~5)
 なお疑問なのは、「大津京」という駅名です。熊谷氏が指摘されているように、ここに大きな王宮を造営することは困難です。またウィキペディアによると、日本書紀には、平城京や平安京のような条坊制が存在したことを示す記載はないほか、特別行政区としての「京域」の存在も確認できないとのことです。よって「大津京」ではなく「大津宮」と表記するのが、歴史学的には正しいのではないのか。ま、壮大な王都があった方が、地域の誇りになるし観光客誘致にも資すると考えたい気持ちもわかりますけれど。駅にあった展示資料には「大津宮」と記されていたので、そのあたりは理解しているようです。
 もう一つ、その資料には中大兄皇子が「天智天皇」として即位したと記されていましたが、これについても再考すべきだと思います。「天皇」という称号は、この時点ではまだ成立していないというのが古代史の定説です。同書より引用します。
 …天皇号の成立時期については、一部に推古朝説もあるが、現在は、筆者も含めて天武・持統朝説をとる研究者が多数を占める。筆者は、「天皇」という称号は、まず天武天皇をさす尊称として天武朝に誕生し、没後の持統朝に浄御原令の制定とともに君主号として法制化されたと思う。(p.335~6)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-11 06:22 | 近畿 | Comments(0)