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関東大震災と虐殺 37

 9月16日、いわゆる甘粕事件が起こります。スーパーニッポニカ(小学館)と国史大辞典1(吉川弘文館)を参考にして、概要を紹介します。

 無政府主義者の大杉栄はこのころ柏木に住み、みずから夜警にも参加していました。16日、妻の伊藤野枝とともに鶴見に住む妹を見舞い、その子橘宗一を同行しての帰り、東京憲兵隊麹町分隊長甘粕正彦大尉らに連行され、憲兵隊本部において3人とも絞殺され、遺体は古井戸に投げ込まれました。大杉が行方不明になると、友人安成二郎らが探索を始め、9月20日の『時事新報』『読売新聞』も号外で大杉殺害を報じたので、軍も隠しきれず、また軍と警察の対立もあって、同日付けで甘粕を軍法会議に送致し、福田雅太郎戒厳司令官を更迭、小泉六一憲兵司令官、小山介蔵東京憲兵隊長を停職処分とし、24日に事件の概要を発表しました。軍法会議は12月4日、甘粕に懲役10年、憲兵隊の森慶次郎曹長に同3年、部下3名に無罪の判決を下しました。犯人は麻布歩兵第三連隊といわれますが、そこには秩父宮がいるため甘粕らが身代りになったといわれます。1923年12月26日の大杉の葬儀の際、遺骨が右翼団体大化会の岩田富美夫らに奪われました。その報復のため無政府主義者古田大次郎らは翌年9月1日、福田雅太郎大将狙撃事件を起こします。この大杉の死によりアナキズム運動は大打撃を受けることになりました。
 なお甘粕雅彦のその後ですが、1926年10月に釈放され、陸軍の費用で渡仏しました。そして1929年には満洲に渡って諜報謀略活動に従事し、協和会総務部長、満洲映画協会理事長を歴任し、大いに権勢を振るったのは、この事件の代償といわれます。1945年8月20日、ソ連軍による侵攻のなか自殺、辞世は「大ばくち 身ぐるみ脱いで すってんてん」でした。
 既述の王希天事件は、功名心に駆られた現場の暴走という面が強いように思いますが、この甘粕事件は感触が違います。混乱が収まり、社会主義者による蜂起はないとほぼ判明した状況の中で起きた事件です。国家権力にとってこの先も有害な大杉栄を、軍あるいは政府の中枢が命令して殺させた計画的事件ではないでしょうか。戒厳令が解除されないうちに、"処理"してしまおうとしたのかもしれません。

 そして自警団の検束と検挙が、9月17日から東京で、9月19日から群馬・埼玉で、9月20日から横浜・千葉ではじまりました。しかし当然の如く、流言を流布し殺人を教唆・黙認し、みずからの手も血で染めた官憲の責任を不問にしてよいのかという声があがります。例えば上杉慎吉(法学者)は「警察官憲の明答を求む」とし、「憲兵方面では甘粕大尉が軍法会議に移されたと云うだけで、大杉と野枝と子供と三人ころしたと云う事実はまだ疑わしいのに、断然司令官迄が責を引きたるが如く警察や政府の方面でも即時罷免其他責任を明にする処置を執らねばならぬであろう」(『国民新聞』1923.10.14)と指摘しています。また菊地義郎(植民政策学者)らも、自警団の幹部、行動右翼、町村長などが自警団員の罪に比べて「人殺しまで逆上させた宣伝役を今なお縛らないのはなぜか」「一段と油をかけて逆上させ後で縛るなんて芸は部下の警察ではやるまいな」「県知事は恥知らずの標本」「内相の責任重大」などと騒ぎ、牽制の詰問状を発し、「死を賭しても汚名を雪ぐ」とすごみ、「私は三田警察署長に質問する。九月二日の夜××襲来の警報を貴下の部下から受けた私どもが御注意によって自警団を組織した時『××と見たらば本署につれてこい、抵抗したら○しても差し仕えない』と親しく貴下からうけたまった、あの一言は寝言であったか、それとも証拠のないのをいいことに覚えがないと否定されるゝのか」(『東京日日新聞』 1923.10.22)と、官憲の責任を鋭く追及しています。(①p.254~5)

 自警団の側からも批判は起きました。例えば関東自警団同盟からは、次のような声があがっています。(①p.251~2)
 災害当時我等に告げて『某々方面より鮮人襲来の虞れあり男子は武装せよ女子は避難せよ鮮人とみれば倒(殺)しても差支へない、主義者と判れば殴っても宜い彼らは凶器を携へて到る処に殺人強盗陵辱放火等あらゆる悪事を働いている』とふれ廻ったのは何者であったか。

 警察と軍隊との欠を補って…一命を賭して防禦の任に当たった幾多の同志は何れも殺人暴行傷害の極悪人として起訴収監せられつゝあるではないか。

 若しそれ防禦のための過失が果して悪いとするならば自警団以外の手によって行われた多くの殺人傷害はこれまた何とする。
 最後の批判は痛烈です。自警団による朝鮮人殺人が犯罪ならば、"自警団以外の手"、つまり軍隊や警察が行なった殺人も犯罪ではないのか、ということですね。もっともです。その上で次の六項目の決議を当局につきつけました。
決議
我等は当局に対して左の事項を訊す
一、流言の出所につき当局がその責を負わずこれを民衆に転移せんとする理由如何
二、当局が目のあたり自警団の暴行を放任し後日に到り其の罪を問はんとする理由如何
三、自警団員の罪悪のみこれを天下にあばき幾多警官の暴行はこれを秘せんとする理由如何
我等は当局に対して左の事項を要求す
四、過失により犯したる自警団の傷害罪は悉くこれを免ずること
五、過失により犯したる自警団の殺人罪は悉く異例の恩典に浴せしめ採決すること
六、自警団員中の功労者を表彰し、とくに警備のために生命を失いたる者の遺族に対しては適当に慰藉の方法をとること (『報知新聞』 1923.10.23)
 自警団による殺人・暴行を免責してくれないのならば、警察による流言の流布と殺人・暴行をあばいて道連れにするぞという恐喝ですね。軍隊による殺人・暴行にまで踏み込んでいないのは、腰が引けたのでしょう。よって何とかして責任を免れ隠蔽したい官憲としては、法治国家という体面上、形だけ裁判にかけるが、できるだけ寛典に処すというスタンスをとることになりました。
by sabasaba13 | 2017-11-18 06:32 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(49):彦根(15.3)

 それでは旧川原町に向かいましょう。五分ほどペダルをこぐと、交差点に屹立する滋賀中央信用金庫銀座支店が眼に飛び込んできました。交差点側を隅切りして腰折れ破風を載せ、左右に切妻破風を並べ、縦長窓を配する印象的なデザインです。ひと目みたら忘れない、街角のアイストップですね。
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 その先にあるのが高﨑家住宅主屋で、かつては旧川原町郵便局でした。タイル貼りの壁面、上部のコーニス、入口のペディメントなど、小粋な物件です。
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 宇水理髪館は、その奇天烈な意匠が圧巻。正面のアーチ頂部には巨大なバリカン、その左右にアカンサスの装飾、アシンメトリーな入口一階部にはタイルが貼られています。もうむちゃくちゃでござりまするがな、と花菱アチャコのように唸ってしまいました。
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 それはそうと、「バリカン」の語源は何かという疑問がふとわきおこりました。こういう時にインターネットは本当に便利、すぐにわかりました。「喜多床」という老舗理髪店のホームページから転記します。
 喜多床は、明治四年(1871年)、断髪令が施行された年に、旗本舩越家の四男喜太郎が、東京の本郷に創業した、日本で一番古い理髪店です。
 喜太郎は、明治維新後に加賀藩前田家の軍隊に入り、前田公の髪結い方を務めました。そこで、フランス人の軍人から、それまでの丁髷とは異なる、断髪を作り上げる西洋理髪の技術を学びました。その後、軍隊を辞め、前田邸の正門前に西洋理髪の店舗を構えました。それが、喜多床です。
 加賀百万石十三代目当主前田斉泰公の断髪は、初代の手で行われました。髷を切り落とされた後、公は一筆、「本日、髪を洋夷にす。涙燦然として、降る」としたためたそうです。喜多床の屋号は、前田公の命名によるものです。
 創業当時の喜多床は、当時としては珍しい三階建ての洋館で、店内の壁にはガラス製の大鏡がかけられ、従業員は揃いの洋装、使う道具はフランスからの舶来品とあって、「東京の新名所」として名が広まったそうです。
 明治十七年に、前田邸が帝国大学になると、喜多床は、学生や教授、文士など知識人が集まるサロンになりました。
 文豪夏目漱石も、得意客の一人で、「吾輩は猫である」「三四郎」に、喜多床の名前が登場します。
 その漱石先生の思い出を、喜多床二代目景輝が、古い理髪雑誌に語っています。
 「先生、良いお天気です」というと、先生は一言、「大きなお世話だ」。頭を刈られながら気持ちよさそうに寝ていたため、終わって起こすのが悪い気がしてそのままにしておいたら、「終わったのか。遅いぞ」と叱られたそうです。
 内田百閒の「ねじり棒」や、徳田秋声の「大東京繁盛記」にも、喜多床のことが取り上げられています。
 二代目景輝は、たいそう勉強熱心な人で、理髪の発達している米国から、専門誌を輸入して、研究に努めました。そして、日本で初めての理髪研究団体を結成し、講習会を開催しました。
 ある日、顧客の一人だった言語学者の金田一京助氏が店に来て、「バリカンと呼ぶ国はないか」とつぶやいたそうです。外来語辞典を編集しているが、この語源だけがわからないということでした。景輝は、「ありませんよ」と答え、バリカンの名称を英語、仏語、独語など各国語で言って金田一氏をびっくりさせました。さらに、景輝は、刃の刻印に「バリカン・アンド・マール」という製造会社の名前を見つけ、金田一氏の三年越しの疑問を解決しました。
 金田一氏は、石川啄木が上京した時のお世話役でした。景輝に、啄木の下宿先を相談し、啄木は一時、喜多床の3階に下宿し、その後、のれんわけした喜乃床に移っていきました。
 その後の歴史はホームページを見ていただくとして、『吾輩は猫である』には"吾輩だって喜多床へ行つて顔さへ剃つて貰やあ、そんなに人間と異なつたところはありやしない"という一文があるそうです。
 というわけで、「バリカン・アンド・マール(Bariquand et Marre)」というフランスの製造会社名が語源だということが、金田一京助の尽力で判明したわけです。余談ですが、今年の夏は北海道旅行を計画しており、いろいろ調べていると、旭川に知里幸恵の文学碑があることがわかりました。アイヌの口承叙事詩"カムイユカラ"を祖母たちから聞き覚え『アイヌ神謡集』(岩波文庫)として出版、しかし19歳で夭逝したアイヌ女性です。いたく興味を抱き、『知里幸恵 十七歳のウエペケレ』(藤本英夫 草風館)を読み終えたのですが、その出版に金田一京助が深く関わっていたことがよくわかりました。こんなところで彼と出会うとは思ってもみませんでした。読書の快楽ですね。
by sabasaba13 | 2017-11-17 06:23 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 36

 9月12日、水曜日。この日の未明、9月9日に拘束されていた王希天(ワン・シテイエン)が軍隊によって殺害されます。彼は1917年頃に日本に留学し、周恩来とも知り合いでした。五四運動(1919)を受けて東京で行われたデモのリーダーの一人として警察にマークされるようになります。その後、中華メソジスト教会の牧師、中華YMCAの幹事として活躍。中国人労働者が多く住んでいた東京府南葛飾郡大島町に中国人救済組織、僑日共済会を結成して在日中国人を助ける運動をしていました。また救世軍の山室軍平とも親しく交際しています。
 この王希天に敵意を向けていたのが、まず人夫差配師たちです。彼が僑日共済会を結成したために、中国人労働者に「組織と指導者」がうまれ、甘い汁が吸えなくなったのですね。そして亀戸署の刑事たちです。官憲の目には、仮想敵国・中国の得体の知れないインテリが過激な労働運動・社会主義運動を煽っていると映りました。(⑩p.23~4)

 9月9日、中国人虐殺(大島事件)の噂を聞き、共済会の様子を見に大島へ行く途中で、王希天は不審人物として憲兵隊拘束されました。その後、中国人を習志野収容所へ護送する業務に協力、そして解放されますが、改めて亀戸署に拘束されました。スネに傷をもつ警察・軍にしてみれば、彼は大島事件をはじめとする数々の不祥事を「知りすぎた男」に見えたのでしょう。またそうした事件を嗅ぎまわっているようにも思えました。『一司法第十九号』に「支那思想団ノ一部亀戸付近ニ潜入シ何等カ画策セル形跡アリ、野重砲第三旅団報告」とあります。(⑩p.56~7)
 野重砲第三旅団第七連隊長・中岡弥高は、この機に彼を殺害しようと決意しました。田原洋氏が再現した、彼の言です。(⑩p.62~5)
 こいつは相当の大物です。表向きは、YMCAの幹事、メソジスト派の代理牧師を名乗り、社会事業家のような顔をしているが、…YMCAもメソジストも、相当、米陸軍のスパイを入れていますから、そいつらと連携しているにちがいない。そろそろ我々の直接警備を引き揚げる時機になっておりますが、こういう過激思想の持主を野放しにしていては、軍の引き揚げたあとは、どうなるか心配です。警察のお粗末な警備では、心もとないです。

 いまさら習志野送りしたら、腰抜けと思われる。支那過激思想団の禍根を一気に断つ好機ではありませんか。

 王は五・四運動いらいの闘士だ。秘密党員かもわからん。ヤソ教の仮面をかぶってアメリカとも連絡がある得体の知れんやつだ。…あいつをやれば手柄だぞ。

 王を殺りたがっているヤツは、はいて捨てるほどいる。金鵄勲章だといえば、みんな喜んでやりたがる。
 そして中岡弥高の意を受けた者にそれとなく話をもちかけられ、亀戸署から引き取った王希天を殺害したのは、剣道の達人・垣内八洲夫中尉でした。彼は震災の際に帰省中で、帰隊すると、同年輩の少尉・中尉や部下の下士官たちが、鮮人や支那人を何人斬ったと自慢しあっていました。とくに、親しくしていた岩波清貞少尉の手柄話には羨望を禁じ得ませんでした。岩波は、既述のように大量虐殺を遂行した軍人で、隊内では「金鵄勲章が出る」と噂されていました。垣内は、「活躍」するチャンスが欲しかったのですね。そして旧中川の逆井橋付近で王希天を斬殺。死体は、身元がわからぬように処理して、中川に投げ込んだという証言があります。(⑩p.65~70)

 支配体制の現状を維持しようとする使命感とプライド、その支配体制の根幹である国家の利益を最優先する思考、その支配体制を批判し動揺させる存在への敵意、中国人・朝鮮人への差別・侮蔑意識、ねじまがった功名心、そして人命・人権の軽視。当時の軍人の思考と行動様式を如実に物語る事件です。

 なおこの事件をもみ消した第一師団野戦重砲兵第三旅団第一連隊第三中隊長・遠藤三郎大尉は、後にこう語っています。
 あのとき、私が妙な正義感などもたず、犯罪必罰の考えでいたら、どうだったろうかとは思うねえ。親しい同僚や後輩が放っておいては罪に問われる。あるいは、自分の属していた部隊の汚名が喧伝される-それは防がなきゃならん、それを防ぐのが部隊参謀の正義だと思いこんでいたんだなあ。心の底に、中国人や社会主義者を軽視し、蔑む意識があって、同僚を救うほうが正しい選択だと錯覚していた。しかも、それができる最適任者は自分だという自負心もあった。どう転ぶかわからない国際問題でもあり、あえて火中の栗を拾おうとするには、私にしろ、武田さんにしろ、それなりの覚悟は必要としたんだ。だが、非を認めるべきときに認めない、謝罪すべきときにそうしない(とくに中国をはじめとするアジア諸民族とその主権侵害に関して)日本軍国主義の体質は、このころから顕著になったといえるだろう。軍隊の独善の論理に、すっかり染まっていたんだなあ。(⑩p.105)

by sabasaba13 | 2017-11-16 06:28 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(48):彦根(15.3)

 食事をしながら、さきほど観光案内所でいただいた資料を読んでいると、滋賀県民のソウルフード、「近江ちゃんぽん」というご当地B級グルメがあることを知りました。遅かりし由良之助、無念です。せめて「ちゃんぽん亭」のホームページから、「近江ちゃんぽん」の歴史についてご教示していただきましょう。
 ちゃんぽんと言えば、長崎ちゃんぽん。皆さんはそう思っていませんか?しかし実は、日本各地には長崎ちゃんぽんをルーツにしながらも、独自の進化を遂げた「ご当地ちゃんぽん」が数多く存在します。「近江ちゃんぽん」もその中のひとつです。近江ちゃんぽんは当店で半世紀以上前に誕生して以来、彦根を中心に滋賀県全域に定着し、「滋賀県民のソウルフード」と呼ばれるほどの存在感を放っています。
 ちゃんぽんのルーツは古く、明治32年長崎創業の中華料理店「四海楼」で誕生しました。中国からの留学生達のために、福建料理の「湯肉絲麺」を日本流にアレンジして、中華鍋で具材を炒め豚骨と鶏ガラでとったスープと麺を一緒に入れて煮込んだ麺を店主の陳さんが作ったことが始まりとされています。
 その後、その麺は「長崎ちゃんぽん」と名付けられ、長崎市内の中華料理店を経由して全国に広まりました。このような流れから、今でも全国的にはちゃんぽん=長崎ちゃんぽんとして認識されており、また中華料理店の麺メニューのひとつとして置かれることが多い理由でもあります。
 しかし、実は日本各地には長崎ちゃんぽんをルーツにしながらも、独自の進化を遂げたご当地ちゃんぽんが数多く存在します。代表的なものとして、長崎県雲仙市小浜町には「小浜ちゃんぽん」と呼ばれるご当地ちゃんぽんがあり、特徴は小浜町の近海でとれたキジエビを殻付きのまま入れる点です。小浜町内の多くの飲食店で提供しており、寿司屋や居酒屋でも食べることができます。また、熊本県天草市では大きな海老の乗った「天草ちゃんぽん」が有名です。その他にも、水俣ちゃんぽん、武雄ちゃんぽん、唐津上場ちゃんぽん、八幡浜ちゃんぽんなど、全国にご当地ちゃんぽんは15種類以上あると言われています。
 近江ちゃんぽんも彦根で独自に進化したご当地ちゃんぽんのひとつです。近江ちゃんぽんは当店の前身である「麺類をかべ」で誕生しました。当時の麺類をかべはうどん・そばを主体とする麺類食堂で、彦根という土地柄、だし汁は削り節と昆布からとった「京風だし」でした。あるとき、お客様へ「おいしく健康的な一杯を届けたい」との想いで、京風だしをアレンジしたスープに、野菜や豚肉などの具をたっぷり入れて手鍋を使って煮込み、中華麺と一緒に盛り付けてお客様へ提供したところ、「これは旨い!」と評判になりました。そしてたちまち看板商品になったのです。
 さまざまなご当地ちゃんぽんの中でも、特に異彩を放つのが他でもなく当店の近江ちゃんぽんと言えます。なぜならば、ほとんどのご当地ちゃんぽんはルーツである長崎ちゃんぽんとの共通項を持っていますが、近江ちゃんぽんだけはほとんど共通項がないからです。
 スープは白濁したとんこつでも鶏ガラではなく、京風だしをアレンジした和風醤油味です。具は海老や烏賊など定番の海鮮は一切入らず、豚肉と野菜だけです。麺は唐灰汁を使ったちゃんぽん麺ではなく、かんすいを使った中華麺を使います。調理方法も中華鍋で炒めるのではなく手鍋で煮込みます。あえて唯一の共通点を挙げると「具がたくさん乗った麺料理」という点です。
 近江ちゃんぽんがこのような特徴を持つことになったのは、それが麺類をかべで生まれたからに他なりません。長崎ちゃんぽんは中華料理店で生まれた中華料理のひとつです。しかし、近江ちゃんぽんは麺類食堂で生まれた和食のひとつなのです。
 ちゃんぽんに歴史あり、ですね。これはぜひ試してみたいものです。
by sabasaba13 | 2017-11-15 06:27 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 35

 9月11日、火曜日。大江志乃夫氏によると前日の9月10日までに関東戒厳司令官の指揮下に入り戒厳服務についた軍隊は、歩兵57大隊、騎兵22中隊、砲兵34中隊、工兵47中隊、鉄道14中隊、電信13中隊など兵員約5万人に達していました。この大兵力が、恣意的な無制限の人権抑圧権限を与えられ、「広ク兵力ヲ分散配置シテ、昼夜連続劇務ニ従事シ」、権限行使に関する判断が血気の初級士官や下士官に委ねられたのですから、至る処での朝鮮人の大量虐殺をはじめ、中国人、社会主義者の虐殺事件をひき起こしたことは、必然であったと、氏は指摘されています。やはりこうした事件が発生した要因は、戒厳宣告それ自体のなかに準備されていたのですね。(②p.137~8)

 そしてこの9月11日、臨時震災救護事務局警備部司法委員会は、朝鮮人を虐殺した自警団の処理方針を次のように定めました。
一、今回ノ変災ニ際シ行ワレタル傷害事件ハ司法上之ヲ放任スルヲ許サズ、之ヲ糾弾スルノ必要ナルハ閣議ニ於テ決定セル処ナリ然レドモ情状酌量スベキ点少カラザルヲ以テ騒擾ニ加ワリタル全員ヲ検挙スルコトナク検挙ノ範囲ヲ顕著ナルモノノミニ限定スルコト
二、警察権ニ犯行ノ実アルモノノ検挙ハ厳正ナルベキコト
三、検挙ノ時機ニ就テハ慎重ニ定ムルヲ要シ現今ハ人心安定セザルヲ以テ直ニ着手スルコトナク唯証拠ノ保全ニ力メ検挙ノ開始ニ就テハ検事ハ司法省ノ指揮ヲ待チ行ウコト
四、検挙ノ時機ハ各地方ノ情況ニヨリ異ナルベキモ東京及横浜ヲ除キ其他ノ地方ハ同時一斉ニ始ルコト
五、検挙ニ対スル準備トシテ警察力ノ恢復ノ為警察ニ保護中ノ鮮人ヲ其他ニ取纏メ保護スル方法ヲ取ルコト
六、鮮人等ノ不逞行為ニ就テモ厳正ナル捜査検察ヲ行ウコト (『東京震災録』)
 官憲が朝鮮人暴動の誤認情報を流したのですから、自警団全員を検挙すれば、彼らから強い反発が起こることは必定です。そこで「顕著な者」のみを検挙することにしたのである。しかし警察に収容されている朝鮮人を虐殺するために、警察署や警察官を襲撃した者は厳しく処罰するということです。朝鮮人殺害は大目に見るが、警察への反抗は許さないという姿勢ですね。また、検挙の時期は、司法省の指揮を待て、あるいは一斉に始めろ、ということはそれまでに証拠を湮滅しておけ、あるいは口裏を合わせておけ、ということでしょうか。さらに朝鮮人の「不逞行為」についても厳正に捜査しろということは、官憲の責任を免れるために、朝鮮人による暴動や放火が事実であってほしいという願望ですね。
 この方針のもと、9月中旬ごろより自警団の検挙が始まりました。
by sabasaba13 | 2017-11-14 06:31 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

近江編(47):彦根(15.3)

 それでは彦根へと移動しましょう。ふたたび近江鉄道に乗って高宮へ、米原行に乗り換えて彦根に着きました。なお彦根のひとつ先の鳥居本に古い駅舎があるという情報を入手していたのですが、いかんせん列車の本数が少なく訪問は断念しました。
 言うまでもありませんが、江戸時代は井伊氏35万石の城下町、現存十二天守のひとつ彦根城が残されています。お目当てはもちろん彦根城と、旧川原町に点在する戦前の建物、そして滋賀大学の古い校舎です。
 彦根駅の構内には「彦根屏風」のレプリカが展示されていました。後学のため、日本大百科全書(小学館)から引用します。
 江戸初期の風俗画の名作。国宝。彦根藩主の井伊家に伝来したゆえの愛称で、正式名称は『風俗図』。遊里の一室にくつろぎ遊ぶ男女15人の姿を、全面金箔地の画面に描いた遊楽風俗画で、寛永年間(1624~44)前半の町絵師の作と推定される。漢画の伝統的な画題である「琴棋書画」が意識されて、本来は士大夫がたしなむべき四つの芸を、琉球渡来の新しい楽器である三味線、中国から伝わって当時流行の双六、遊女が書き遊客が読む手紙、人物の背後に飾られる室内調度の屏風絵に、それぞれあてている。華やかな色彩による細密描写と理知的な画面構成を特色とする。
 なお現在は彦根城博物館に収蔵されているとのことです。

 駅前にある観光案内所で資料をもらい、自転車を借りていざ出発。まずは腹ごしらえをしたいのですが、事前に調べたところでは彦根のご当地B級グルメはないようです。せんかたなし、夢京橋キャッスルロードという目抜き通りに行って、「ほっこりや」で比内地鶏親子丼をいただきました。彦根でなぜ比内地鶏?という疑問はさておき、まあまあ美味しうございました。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-11-13 06:52 | 近畿 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 34

 9月7日、金曜日。この日から9日にかけて、習志野に駐屯する騎兵隊は、習志野収容所に収容されている朝鮮人を周辺の村の農民に渡して殺させました。これは大竹米子先生と習志野市立第四中学校郷土史研究会の生徒たちによる聞き取り調査と、地域住民から提供された日記史料によって明らかとなりました。7日の午後4時頃、高津廠舎より「鮮人を呉れるから取りにこい」との知らせがあって、7日夜から9日夜にかけて二度にわけて18人をもらってきました。高津地区では新木戸地区と共同で6人を切りました。5人は入会地の山番小屋付近の寺の境内で、残る1人は大きなイチョウの木にしばりつけて殺したということでした。提供された『震災日記』から引用します。(①p.211~2)
 七日 …午后四時頃バラック(※習志野収容所高津廠舎)から鮮人を呉れるから取りに来いと知せが有ったとて急に集合させ主望者に受取り行って貰ふことにした。東京へ送るべく米二俵本家の牛で桝次に搗きにやらせる事にして牛を借りにやると大和田からとりに来ると云ふので荷車で付けてやる。夜中に鮮人十五人貰ひ各区に配当し高津は新木戸と共同して三人引受お寺の庭に置き番をして居る。

 八日 太左ヱ門の富治に車で野菜と正伯から米を付けて行って貰ふにする小石川に二斗本郷に二斗麻布に二斗朝三時頃出発。又鮮人を貰ひに行く九時頃に至り二人貰ってくる都合五人(ナギノ原山番ノ墓場の有場所)へ穴を掘り座せて首を切る事に決定。第一番邦光スパリと見事に首が切れた。第二番啓次ボクリと是は中バしか切れぬ。第三番高治首の皮が少し残った。第四番光雄、邦光の切った刀で見事コロリと行った。第五番 吉之助力足らず中バしか切れぬ二太刀切。穴の中に入れて埋め仕舞ふ皆労れたらしく皆其處此處に寝て居る夜になるとまた各持場の警戒線に付く。

 九日 今日から日中は十八人で警戒し夜は全部出動する事になり皆非常に労れて何處でもゴロゴロ寝て居る。昨日行った富治が帰って来るかと待って居ると中々帰って来ない。夕方漸く帰る釜壊し仕舞った為買って来て呉れた金四円五十銭富治立替へて呉れる。夜又全部出動十二時過ぎ又鮮人貰って来たと知らせ有る之は直に前側に穴を掘って有るので連れて行って提灯の明りて梅松切る皮が少し残る是で首を切るには刀の善悪により刀が良ければ誰でも切れる事に決定した随分刀も害ったが新木戸中嶋光雄君の刀以外スパリと切れる刀はない。
 聞き取り調査による証言も紹介します。まず萱田地区の君塚国治さんの証言です。(①p.213~4)
 暴れて困る質の悪いのをつれてきたんだから、生かして置くわけにいかん。部落部落にもらってきた部落のものが処分しなければいかん…朝鮮の奴は何としても鉄砲でうってくれという、そうか、他では夜のうちに三本立てやってつるして下から火を燃やしたところもあるらしいね。そんなまねはできない。本人のいう通りにしてやろう、今のあのもみお墓地に穴ほって、当人のいう通りに鉄砲でうってやれ、うつまでが大変だ、話すれば簡単に言うけれど、同じ人間をひどい目にするんだからね、中にゃこいつ悪いことしただからよ、めんどうくさいから刀でぶっさすべ、いうのもあるしね、みんな刀もってんだからね、そんなこと言わずにまぁ穴ほって倒れれば落ちるようにしておいたのです。最後に撃つ者もあまり気持ちよくないというわけです、なかなかやってくれないんだよね、おめえやれとか、そっちやれとか、カリウドやった人に頼んだけど人をやったらこの鉄砲は使いもんにならないちゅうわね…とうとう鑑札をうけた鉄砲もっている人にやってもらったけどね…葬るまでの間が大変でしたよ…もうそれは地震があってから一か月から、そのくらいたってからだね、涼しくなってたからね。(1977.10)
 同萱田地区、本郷氏と阿部こう氏の証言です。(①p.214)
 それこそ伝家の宝刀持ち出してさ、猟銃で撃ったりね、手も足もしばっちゃったんだからかわいそうだったね、船橋のマツシマという所に土木工事にきてたんだって、何度も言ってたがもう殺気立ってて聞き入れなかった。(結局、みんなで何とはなしに殺しちゃったが、阿部) 一人やるとき一人見せて、哀号、哀号ってないてたぞって、(二人殺すのを一人は目をあけて見せておいたって言うから、ずい分残酷なことをしたもんだね、阿部)、こっちは二人、二人だもん(そういうことはずっとみんなの中で言わないでこられたでしょう)、だってもう、あたりさわりのない方がいいからね、まして敗戦後、朝鮮そのものがねぇ、下手にしゃべっておかしなことになってもつまらないしさ。(1976.7.29)
 一読、慄然とします。「牛を借りる」「釜を買ってもらう」「代金を立て替えてもらう」といった何気ない日々の営みに、殺人の様子や刀の切れ味といった非人間的な行為が違和感なく同居しています。そして言うまでもなく、国家権力にとって目障りな朝鮮人を選別し、住民に殺害させて責任を転嫁する、その底無しの卑劣さ。民衆の責任と国家の責任、ともに免れることはできないと思います。

 なおこの事件に関するさまざまな慰霊碑を訪ね歩きました。高津観音寺なぎの原、大和田新田の「無縁之墓」、萱田長福寺の「震災異国人犠牲者 至心供養塔」、村上橋近くの角塔婆、中台墓地の「無縁供養塔」などですが、よろしければご一読を。

 この9月7日には、緊急勅令として治安維持令(治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件)が公布・施行されたことも重要です。関東大震災下の混乱を収めることを名目とした緊急勅令で、「出版通信其ノ他何等ノ方法ヲ以テスルヲ問ハス暴行騒擾其ノ他生命身体若ハ財産ニ危害ヲ及ホスヘキ犯罪ヲ煽動シ安寧秩序ヲ紊乱スル目的ヲ以テ治安ヲ害スル事項ヲ流布シ又ハ人心ヲ惑乱スル目的ヲ以テ流言浮説ヲナシタル者ハ十年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ三千円以下ノ罰金ニ処ス」という内容です。表面上は震災後に発生した諸事件に対する対応を目的としていましたが、実際にはこれに乗じて社会主義者を弾圧することを意図しており、二年後の1925年に成立する治安維持法の先駆となりました。
by sabasaba13 | 2017-11-12 07:22 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

『エルネスト』

c0051620_627195.jpg 先日、山ノ神と「ユナイテッドシネマとしまえん」で、映画『エルネスト』を見てきました。『週刊金曜日』の映画評で知ったもので、チェ・ゲバラのもとで戦った日系人を主人公とした映画だそうです。ゲバラを描いた映画、『チェ 28歳の革命』と『チェ 39歳別れの手紙』を見て、"人が人を搾取することは許せない"という彼の志にいたく感銘を受けました。その彼とともに戦った日系人がいたとは初耳です。これは楽しみですね。監督は阪本順治、主演はオダギリジョーです。

 公式サイトをもとに、私の文責でストーリーを紹介します。1959年7月24日、日本を訪問していたエルネスト・チェ・ゲバラ(ホワン・ミゲル・バレロ・アコスタ)らが急遽、広島へ向かいます。唯一。中国新聞社・森記者(永山絢斗)だけが取材に同行。ゲバラは、原爆ドームや原爆資料館などを訪れ、こう感想を述べるのでした。「君たちは、アメリカにこんなひどい目に遭わされて、どうして怒らないんだ」と。
 それから数年後の1962年4月、ひとりの日系人青年、フレディ前村(オダギリジョー)が、祖国ボリビアのために医者になることを決意し、ハバナ大学の医学部にやってきました。1963年の元旦に憧れのゲバラが学校にやってきて、フレディと話します。「あなたの絶対的自信はどこから?」と訊くフレディに対してゲバラはこう答えました。「自信とかではなく怒っているんだ、いつも。怒りは、憎しみとは違う。憎しみから始まる戦いは勝てない」。そんな矢先、母国ボリビアで軍事クーデターが起こり、フレディは『革命支援隊』に加わることを決意します。ある日、司令官室に呼ばれたフレディは、ゲバラから戦地での戦士ネームである"エルネスト・メディコ(医者)"という名を授けられ、ボリビアでの戦いへと向かうのでした。

 ほんとうに真面目でまっすぐな映画でした。貧しい人びとのために医学への道を志し、さらには搾取や暴力や貧困をなくすために革命への道を突き進む、愚直なまでに一途なフレディ前村を、オダギリジョーが熱演しています。なかでも心に残ったのが、「見果てぬ夢を見て何が悪い」というセリフです。そういえば、夢を見ること、夢を語ることが、私たちの社会では縁遠くなったような気がします。話題といえば"今だけ、金だけ、自分だけ"、スマホとコンビニとユニクロがあればとりあえず満足といった風潮をそこはかとなく感じます。こういう時代であればこそ、フレディのように、より真っ当な社会をつくろうという夢を臆せずに見たいものです。夢は見ていいんだという勇気を分けてくれた映画でした。そういえば、ゲバラもこう言っていましたっけ。
 もしわれわれが空想家のようだといわれるならば、救いがたい理想主義者だといわれるならば、できもしないことを考えているといわれるならば、何千回でも答えよう、そのとおりだ、と。
 もうひとつ印象的だったのが、広島の平和記念公園と原爆病院を訪れたゲバラの真摯な表情です。映画が進行するにつれ、当時のキューバではアメリカによる核攻撃の可能性を視野に入れていたことがわかりました。核兵器の威力と後遺症を医者の目で冷徹に分析するとともに、この非人道的な兵器と、それを利用してエゴイスティックに権益を追及する超大国への怒りを覚えたことと思います。怒りから始まる戦いは勝てる。核兵器禁止条約に反対する日本政府に怒りましょう。
by sabasaba13 | 2017-11-11 06:28 | 映画 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 33

 こうして軍・警察による厳重な警戒のもと、朝鮮人たちは徒歩で、水・食糧は与えられず、傷病者への手当てもなく、炎天下のなか疲労困憊して習志野への移送されたのでした。しかも道中には移送の噂を聞いたその地の自警団が大勢たむろしていました。心身ともに疲労して歩けなくなった落伍者は放置され、群狼の如き自警団の手中に落ちて落命した朝鮮人も、また些細なことで兵士に射殺された朝鮮人もいました。(①p.202~3)

 習志野収容所に、9月5日から千葉県内および東京方面からおくりこまれた朝鮮人は約3200人、中国人は約600人でした。(⑮p.117) しかしこれで、彼らの生命が保障されたわけではありません。その処遇は避難民というよりは「戦時捕虜」に近いものでした。機関銃さえ用意した物々しい警戒は、自警団による攻撃はありえないので、朝鮮人監視のためでしょう。面会・通信・帰国の自由はいっさいありません。貸与された毛布や食事も貧弱なものでした。

 そして選別と抹殺がはじまります。当時、船橋警察署巡査部長であった渡辺良雄さんは以下のように回顧しています。
 わたしは統計(収容者数の)をやってから、毎日、何時現在で朝鮮人何名という日報を出した。現地の駐在巡査が現場に行って、収容所の人が数えたのをわたしに報告してくる。それをわたしが県庁へ報告する。すると、一日に二人か三人くらいずつ足りなくなる。昨日現在いくら、今日出たのがいくら、残りいくらとくるわけだから、すると出入りの関係で数が合わない。
 収容所のなかには、震災で負傷した人、避難の最中で軍隊や自警団に殺されかけて、傷を負いながら収容所にたどり着いた人もいたでしょう。収容所に入る以前の傷がもとで亡くなった人もいたでしょう。しかし、収容者数の減少の原因は、それだけではありませんでした。習志野収容所に収容された18歳の学生・申鴻湜(シンホンシク)さんの証言です。
 習志野へ行くと、身体検査をされ、持ち物全部検査されました。(中略) 兵営が二つ、ドイツ兵捕虜(第一次世界大戦時)を収容していた収容所だと思うのですが、大きいのがいく棟もあって、朝鮮人が二棟つかっていて、むこうにもう一棟中国人がいたんです。(中略)
 ところが、やっぱり人間が大勢いるといろんな事件がおこってくるんです。中国人の収容所の方で、逃げようとして打ち殺されたのがいましたよ。「ここにいたら殺される」と思っていたんでしょうね。それから、食事の時に我先にというと打ち殺すんですからひどいですよ。
 私などは、千葉陸軍歩兵教導連隊の兵営につれて行かれました。(中略)
 私のことを特務曹長は、「お前は運のいいやつだ」といっていましたよ。拡声器かなにかでよばれて、いったら帰ってこないのがいましたからね。それで「だれそれはどうしたのだ」ときくと、いろんなことを言っていましたよ。たいてい、昔の知りあいが訪ねてきたとか、雇主がここにいやせんかと訪ねてきたとか、親戚が来たとか。
 それならば、帰るときにここへきて、「オレはこういうわけで、親戚が来たから帰る」とか、言うわけだけれども、何のあいさつもなしにすっと帰るのはおかしいなと思うわけです。呼び出されたのは、必ずしもそこで委員(自治委員)をやっていた人とは限らないですが、委員をやっていた人の中で呼び出されて帰ってこないのが、私の知っている限りで、一人か二人いましたよ。
 申さんの「運のいい」こととは、教導連隊の特務曹長と申さんの間に偶然にも共通の知人がいたことです。次に会沢泰さん(当時騎兵第十四連隊本部書記)の証言です。
 救護する目的でつれて来たんですけれども、朝鮮人が暴動を起こしそうだっちゅうんで、朝鮮人をひっぱり出せという事で、ひっぱってきたんですねえ。私の連隊の中でも16人営倉に入れた。それが四個連隊あるんですから。おかしいようなのは、みんな連隊にひっぱり出してきては、調査したんです。
 ねえ、軍隊の中で…そしておかしいようなものを…ホラ、よくいうでしょう…切っちゃったんです。日本人か朝鮮人かわからないのも居たわけですね。切ったところは、大久保公民館の裏の墓地でした。そこへひっぱっていってそこで切ったんです。…私は切りません…30人ぐらいいたでしょうね。
 ところが、私の連隊ばかりじゃない。他の連隊もみんなやる。いきなりではなく、(連隊の中で)ある程度調べてね。ナニしとったんだか、どこに居たんだかを。
 会沢さんの証言では、連隊が収容所にいる朝鮮人を「ある程度調べて」殺害したとあります。これを裏付けるのが2003年8月に新聞で報じられた「関東大震災ト救護警戒活動東京憲兵隊(推定)」という資料です。同資料は震災直後の憲兵隊の活動を記録したものとして、次のように記されています。
 習志野鮮人収容所警戒に就ては習志野憲兵分隊を以て之に充当せしむるの外、鮮語に通暁せる上等兵三名を私服にて収容所内に派遣し、鮮人の動静知悉に努めしめ、有力な資料を得たり。
 憲兵が収容所内でスパイとして朝鮮人と接し、監視していたことがわかります。そして、会沢さんの証言にあるように、朝鮮人の中から「おかしいようなもの=民族主義者・社会主義者」を峻別し、そのレッテルを貼られたものは呼び出しをくらい秘密裏に殺されました。(⑭p.69~72)
by sabasaba13 | 2017-11-10 06:28 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

ビル・エヴァンス 『アナザー・タイム』

c0051620_628482.jpg 購読を始めた『週刊金曜日』の書評・音楽評・映画評がなかなか充実していると拙ブログで報告しましたが、今日はそこからビル・エヴァンスのCDを紹介します。

 ふだん家で聴く音楽は、クラシック:ジャズ:ロック:その他が、5:3:1:1ぐらいの割合ですね。ジャズは50~60年代のハード・バップが中心ですが、愛聴しているのはマイルス・デイヴィス、ウィントン・ケリー、ウェス・モンゴメリー、そしてビル・エヴァンスです。一日の仕事を終えて帰宅し、缶ビールを飲みながらビル・エヴァンスのピアノに耳を傾けるのが至福のひと時。類まれなる歌心と心地よいスイング感が、身に積もった俗塵をきれいに洗い流してくれます。主に聴くアルバムは、スコット・ラファロ(b)+ポール・モチアン(ds)によるリバーサイド四部作。ピアノが主役、ベースとドラムスが脇役というこれまでの常識をくつがえし、三者が対等に語り合うと"インター・プレイ"を完成させた黄金トリオです。中でもスコット・ラファロ奏でるベースの素晴らしいこと。重厚な音色、高音をものともしない超絶技巧、そして魅力的なメロディ・ライン、過去最高のベーシストだと思います。
 そしてエディ・ゴメス(b)+ジャック・ディジョネット(ds)による『ビル・エヴァンス・アット・ザ・モントルー・ジャズ・フェスティバル』も捨てがたい愛聴盤です。黄金トリオに匹敵するような素晴らしいインター・プレイですが、残念ながらジャック・ディジョネットがマイルス・デイヴィスに引き抜かれたため、このトリオはわずか六ヵ月しか存続しませんでした。よってアルバムも前記の一枚のみ。ま、一枚だけでも録音が残されたことは僥倖でしょう。
 ところが、ジャズ・プレイヤーの貴重な未発表音源を精力的に発掘しつづけているレゾナンス・レコードのプロデューサー、ゼヴ・フェルドマンがこのトリオのスタジオ録音を発見したのです。それが『アナザー・タイム』、1968年6月22日、オランダ中部のヒルフェルスムにあるネーデルラント・ラジオ・ユニオンのスタジオで行なわれたコンサートを録音したものです。
 さっそく購入して聴きました。うーん、いいですね。歌心に力強さも加わったエヴァンスのピアノ、それを支えつつも雄弁にメロディをつむぎだすゴメスのベース、そして二人を刺戟するようなディジョネットのドラムス、三者のインター・プレイに聴き惚れました。これは黄金のトリオを凌駕するのでは。秋の夜長、ウィスキーの「ストレート・ノー・チェイサー」を味わいながら、ビル・エヴァンス・トリオの奏でる音楽に身と心を浸す。人生はそれほど悪いものではないなと思うひと時です。

 なおフェルドマンは、このトリオが1968年6月20日にドイツのスタジオで録音した音源を見つけ、こちらは『サム・アザー・タイム』として発売されているとのこと。さっそく購入することにしました。
by sabasaba13 | 2017-11-09 06:28 | 音楽 | Comments(0)