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『私が殺したリー・モーガン』

c0051620_627361.jpg えっ、リー・モーガンを描いた映画『私が殺したリー・モーガン』が上映されている! 驚き桃の木山椒の木、狸に錻力に蓄音機ですね。若き名ジャズ・トランぺッターとして大活躍をしますが、妻に射殺されるという悲劇的な最期をとげたリー・モーガン。「キャンディ」「ザ・サイドワインダー」「ソニック・ブーム」という三枚のCD、サイドマンとして参加した「サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ」「ケリー・グレイト」「ブルー・トレイン」を持っていますが、ときどきその輝かしい音色とエキサイティングなアドリブに耳を傾けます。その彼の死に至るまでの人生を描いたドキュメンタリー映画、さっそく山ノ神を誘ってアップリンク渋谷に見に行きました。
 監督はカスパー・コリン、公式サイトから紹介文を引用します。
 今なお深く傷を遺す、「ジャズ史上最悪の悲劇」の愛と哀しみに迫る。
 若干18歳で名門ブルーノート・レコードからデビューするなど稀なる才能で駆け上がったスターダム。ドラッグでの転落。二人三脚で救い出したひと回り歳上の女性ヘレンとの出会い。そんな二人に対するミュージシャン仲間からの温かい眼差し、評価。その関係を崩壊させる新恋人の登場と凶行―。
 銃と運命の引き金を引いた内縁の妻ヘレン・モーガンが最晩年に残した唯一のインタビューに、友人や関係者たちの証言を加え、リーとヘレンをとりまく周囲の人間模様と変化が徐々に明らかになる。
 ヘレン・モーガンが通う市民学校の教員が、事件の経緯に興味をもち彼女にインタビューをし、テープに録音します。その直後に彼女は亡くなってしまうのですが、そのインタビューを軸に、仲間のジャズメンや知人のインタビュー、実写フィルムをまじえながら二人の人生を再現していきます。まずインタビュイーが凄い、ビリー・ハーパー、ジミー・メリット、ベニー・モウピン、ウェイン・ショーターといった錚々たるジャズメンが登場します。ウェザー・リポートのファンなもので、ちょっとお腹が出ていたとはいえ、ウェイン・ショーターが登場したときには、風景が涙で揺すれてしまいました。
 十代にして婚外子二人を出産し、苦労に苦労を重ねてようやく自立したヘレン。若干18歳でディジー・ガレスピーに見出され、同年ブルーノート・レコードより『Lee Morgan indeed!』でデビューし、クリフォード・ブラウンの再来とも呼ばれたリー。しかし彼は麻薬に溺れていきます。母と息子ほど歳が離れた二人は知りあいとなりますが、とある厳冬のニューヨーク、リーが突然ヘレンのもとを訪れます。麻薬を買うためにコートを質に入れたので、ジャケットしか着ていないボロボロのリーを見て、ヘレンは救いの手を差し出します。さまざまな援助やマネージャーとしてのサポートなどで、リーは立ち直っていきました。ウェイン・ショーターが、「彼女は、ミュージシャンとして、人間として彼を立ち直らせた」という言葉に胸がジンとしました。
 しかし、リーはジュディス・ジョンソンという女性と逢瀬を重ね、彼の心はヘレンから離れていきます。そして1972年2月18日、NYのジャズクラブ「スラッグス」での演奏中、その2ステージ目と3ステージ目の合間の休憩時間に、ヘレン・モーガンが彼を拳銃で撃ちます。大雪のため救急車の到着が遅れ、ベルビュー病院に移送されましたが間もなく死亡が確認されました。

 何とも悲しくやるせない話です。殺人を擁護する気はありませんが、我が子のようにリーを愛したヘレンの気持ちが痛い程伝わってきます。せめてもの救いは、彼の素晴らしい演奏が、録音や画像で数多く残されていることです。いま、「ソニック・ブーム」を聴きながらキーボードをたたいていますが、輝かしい音色、天馬空を駆けるようなハイトーン、泉のように湧きいでるメロディに耳を奪われます。映画に挿入される実写フィルムにも躍動的な演奏、子どものような笑顔、お道化た仕草が映しだされ、心躍りました。

 リー・モーガンという素晴らしいミュージシャンがいたことを、そして彼を愛したヘレン・モーガンという女性がいたことを教えてくれる映画です。

 なお映画のなかで、ジミー・メリットが作曲した「アンジェラ」という曲が演奏され、黒人解放運動のために逮捕されたアンジェラ・デイヴィスという女性を激励するためにつくられたという説明がありました。不学にしてこの女性について知りませんでしたので、『コトバンク』の「20世紀西洋人名事典」で調べてみました。
アンジェラ・デイヴィス Angela Yvonne Davis 1944.1.26 -
 米国の黒人政治運動家。アラバマ州バーミングハム生まれ。10代から母親と共に公民権運動に参加する。1961年にブランダイズ大学で学んだ後に、パリ、ドイツに留学した。帰国後'68年に米国共産党に入党。'69年UCLA哲学科助教授となるが共産党員であることを理由に解任される。'70年に黒人運動団体ソルダット・ブラザース事件で逮捕されるが、国際的な支援運動が実り、無罪判決を得る。'80年に共産党から副大統領候補として出馬をしている。'85年には国連婦人の10年ナイロビ会議に出席した。
 アフリカ系アメリカ人への差別、その結果としての貧困が、この悲劇の背後にあったと暗示しているのかもしれません。でも麻薬には手を出してほしくなかった。ビリー・ホリデイがこう言っています。
 麻薬をやって、ジャズがうまくなるはずがない。もしそんなことをいう先輩がいたら、麻薬についてビリー・ホリデイ以上に、何を知っているかとききただしてみるといい。
 余談です。若きジャズマン菊池オサムの青春を描いた傑作漫画『BLOW UP !』(細野不二彦 小学館)第2巻session 3「DESERT MOONLIGHT」にリー・モーガンが登場します。彼が雇われているキャバレーを経営する暴力団の代貸・砂田が銃で撃たれて入院、その彼に菊池オサムがプレゼントしたのが「ザ・ランプローラー」です。砂田はハーモニカでよく「月の砂漠」を吹いていたからですね。また第2巻session 10最終話「EVERY TIME WE SAY GOOD-BYE (Take 2)」ではオサムの良きライバルである混血青年・油井大明(ts)が恋人に射殺されたる場面が出てきます。リー・モーガンの悲劇を意識したのかもしれません。
by sabasaba13 | 2018-01-10 06:29 | 映画 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 60

 そして最後に考えたいのは、当時の人びとが、なぜこうした虐殺を、そしてそれを生みだした制度・社会構造・価値観を許容してしまったのかという問題です。

 まず、自らの不幸と苦悩の原因が国家機構や社会制度にあるということを見抜けなかったことが挙げられます。既述のように、その鬱憤を晴らすために、集団に埋没して、弱者を差別・迫害したわけです。きちんと考え抜いて、議論をして、社会を改革して正当な分配を実現すれば、その不幸と苦悩も多少は軽減されたことと思います。しかし、国家権力によって、そうしたことを考えさせない教育、実行させない制度(ex.軍隊・警察・法律・裁判…)が網の目のようにはりめぐらされ、大きな困難が伴いました。そして民衆自身が考えることを怠り、面倒くさがり、思考や判断を集団や権威に丸投げしてしまったことも見逃せないと考えます。楽ですから。『日本の百年6 震災にゆらぐ』(今井清一 千曲学芸文庫)で知ったのですが、里見弴が書いた小説『安城家の兄弟』の中に次のような一節があるそうです。(p.168~70)
 …翻って、狭い中の口の三和土に押し並んで立っている二人の自警団的人物はというに、これはまた、大杉についても、甘粕についても、二人のあいだに起こった事件についても、自分自身のあたまで、時間で言えば一分とつづけて、とっくり考えてみたことなどないにきまっている人間だった。何もこれは、この場合に限ったことではなく、じたい民衆というものが、群り動く性質をもっていて、ものの感じ方が、凡庸な常識一点ばりに陥り、たちまち『輿論』というものを生みだすのだ。それを思うと、雨に濡れ、護謨底足袋を泥だらけにして、目の前に突ッ立っている、この『輿論』の手先どもも、馬鹿げて見えこそすれ、憎むまでの気にはなれなかった。
 そして「どんな事態になっても、人間にはしてはならないことがなければならない」(『レイテ戦記』 大岡昇平)という道義性が欠けていたということ。夏目漱石の恩師マードック先生言うところの"モラル・バックボーン"ですね。(『漱石文明論集』 岩波文庫 p.222) あるいは加藤周一氏の表現を借りれば、"目の前で子どもを殺されたら怒る能力"です。(『歴史の分岐点に立って 加藤周一対話集5』 かもがわ出版 p.153~4) それを支える想像力や人間的な感情が、なぜ麻痺してしまったのか。わかりません。わかりませんが、政治学者ハンナ・アーレントが言う"悪の凡庸さ"とは、このことではないかと思います。映画『ハンナ・アーレント』から、彼女のセリフを引用します。
 彼のようなナチの犯罪者は、人間というものを否定したのです。そこには罰するという選択肢も、許すという選択肢もない。彼は検察に反論しました。何度も繰り返しね。"自発的に行ったことは何もない""善悪を問わず自分の意思は介在しない""命令に従っただけなのだ"と。こうした典型的なナチの弁解で分かります。世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そしてこの現象を、私は"悪の凡庸さ"と名づけました。

by sabasaba13 | 2018-01-09 06:27 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

ユージン・スミス展

c0051620_8182516.jpg ユージン・スミス、その名を聞くと心が震えます。常に弱者や市井の人々の側に立ち、現実を写しつづけたカメラマン。以前に「gallery bauhaus」で彼の展覧会を見たことがあるのですが、生誕100年を回顧する大規模な展覧会が東京都写真美術館で開かれていると知り、山ノ神を誘って見に行きました。
 JR恵比寿駅で降りて、十分ほど動く歩道を歩いていくと、美術館に到着です。コンコースの壁に、ロベール・ドアノー、ロバート・キャパ植田正治の写真が大きくプリントされているのが印象的です。
まずは美術館の公式サイトから、紹介文を引用します。
生誕100年 ユージン・スミス写真展
 W.ユージン・スミス(1918-1978)は、写真史上、もっとも偉大なドキュメンタリー写真家のひとりです。グラフ雑誌『ライフ』を中心に「カントリー・ドクター」、「スペインの村」、「助産師モード」、「慈悲の人」など数多くの優れたフォト・エッセイを発表し、フォト・ジャーナリズムの歴史に多大な功績を残しました。とりわけ日本とのかかわりが深く、17歳のときニューヨークで偶然であった日系写真家の作品につよい感銘をうけ写真の道を志すきっかけになったこと、太平洋戦争に従軍して、戦争の悲惨で冷酷な現実をカメラで世に伝えんとして自らも沖縄戦で重傷を負ったこと、戦後の日本経済復興の象徴ともいえる巨大企業を取材した「日立」、その経済復興の過程で生じた公害汚染に苦しむ「水俣」の漁民たちによりそった取材などがあります。
 本展覧会は、生誕100年を回顧するもので、スミス自身が生前にネガ、作品保管を寄託したアリゾナ大学クリエイティヴ写真センターによる協力のもと、同館所蔵の貴重なヴィンテージ・プリント作品を150点展示します。情報あふれる現代社会に生きる私たちにとって、ジャーナリズムの原点をいま一度見つめ直すきっかけになることでしょう。
【1. 初期作品 1934-43】 解説を読んで知ったのですが、彼が写真家を志したのは、17歳のときにニューヨークで出会った日本人カメラマンの写真を見て感動したことがきっかけだったのですね。いったい誰なのでしょう。この時期の写真は、リベット打ちの労働者や溶接工を撮影するなど、後年の彼の姿勢がすでにあらわれています。

【2. 太平洋戦争 1943-45】 ユージン・スミスは『ライフ』誌所属の従軍カメラマンとして、サイパン島、硫黄島、沖縄などで激戦を取材しました。彼の言です。
 私は、戦争は悲惨だというとらえ方で仕事をしてきた。これらの写真で試みてきたことを、私はこれからも続けていきたい。戦争はこの世の縮図であり、様ざまな事柄が誤魔化しようもなく鮮明に現れる。人種的偏見、貧困、憎悪、偏狭は、平時の生活のうちにも蔓延するが、戦争の中でほど、否応なくはっきりとはとらえられない。
 戦争の中に、人種的偏見と貧困を見て取ったことは鋭いですね。「米軍の発煙手榴弾で、山中の洞窟から追い立てられる民間日本人」(1944)や「家畜のように連行される民間人」(1945)など、レイシズムにとらわれていない写真が印象的です。なお沖縄戦において迫撃弾の破片が左腕をひどく損傷し、回復に数カ月を要することになりました。その後にはじめて撮った写真が、私の大好きな一枚「楽園への歩み」(1946)だったのですね。森の闇の中から光溢れる世界に歩み出そうとする息子のパトリックと娘のホヮニータ、金儲けのために戦争をくりかえす世界の指導者たちに送り付けたい写真です。

【3. カントリー・ドクター 1948】 『ライフ』誌に掲載されたフォト・エッセイの傑作です。限界まで疲労困憊しながら人々を救おうとする地方の医者アーネスト・セリアーニを写した連作ですが、「分娩中に母子を死なせたアーネスト・セリアーニ医師」(1948)での、彼の静かな苦悶に満ちた表情が心に残ります。

【4. イギリス 1950】 イギリスのクレメント・アトリー首相の選挙運動を取材したフォト・エッセイですが、ウェールズの炭坑労働者やその暮らしの様子も撮影しています。余談ですが、政敵のW.チャーチルが"羊の皮をかぶった羊"と罵倒したアトリーですが、『今夜、自由を』(D・ラピエール&L・コリンズ ハヤカワ文庫NF)を読むと、インド独立に尽力した見識のある政治家であったことがわかります。

【5. スペインの村 1950】 イギリス取材中にスペインにも立ち寄り、「独裁者とその警察(※フランコ政権)に踏みにじられた生活がどのようなものか」を読者に伝えるために撮影したフォト・エッセイです。彼の言です。
 真のスペインとは、貧困のうちに沈みながらも、人々が恵みの少ない大地から、つましい生活の糧を得るために、のろのろと、だが、たゆまず働き続けているというような村々から成り立っている。
 数世紀に亘る忘却と、更に現在の強大な権力政治が、いまのスペイン人の上に重々しくのしかかっている。しかも、彼らは全体として見るとき、決して打ちのめされてはいないのである。人々は日中は働き、日没とともに眠る。そして、現世の生をたのみつつ、死の中から逃れようと働いているのである。
 私たちが村(※デレイトーサ)に着いた翌日、一人の婆さんが私たちについてきて、いろんな話をしたが、その中でこんなことをいった。「わたしら、お前さんが何商売だか知らないけど、誰かがアメリカの新聞記者だろうといってるだ。もし本当にそうなら、お前さんたちが見た通りのことを書いてもらいたいもんだね」。
 これは、政府のお役人たちの態度や希望とは全く違ったものであった。
 見た通りのことを書く(写す)、つまり"Post Truth"ではなく"Truth"を伝えてほしいということですね。彼の生涯を貫く姿勢だと思います。痩せ衰えた老人の死をみとる貧しい家族を撮った、まるで絵画のような「通夜」(1950)が印象的です。

【6. 助産師モード 1951】 彼は産婆術に関心をもっていたようで、サウスカロライナ州で出産の介助や地域の健康管理を行なうアフリカ系女性のモード・カレンを撮影したフォト・エッセイです。「火の気のないストーブと間に合わせのベビーベッドに寝る新生児」(1951)や「思いやりに感激する老人」(1951)などの作品から、アフリカ系アメリカ人の困窮への同情と差別への怒りが伝わってきます。

【7. 化学の君臨 1952】 化学洗剤をつくる工場を取材したフォト・エッセイです。さりげなく写した貨物列車に"MONSANTO"と記されていることから、ベトナム戦争で米軍が散布した枯葉剤をつくり、そして今は遺伝子組み換え作物の種の世界シェア90%を誇るモンサント社であることがわかります。ベルトコンベア、メーター機器、ローラーなどの機械の造形的な面白さに焦点を当てたようにも思える写真です。しかし写真の隅に労働者の小さな姿が写されているのを見ると、違うような気がします。最近読んだ『フクシマ・沖縄・四日市 差別と棄民の構造』(土井淑平 星雲社)にこのような一節がありました。
 赤と白の美しいコントラストを描いてそそり立つ煙突。白銀色のタンクの列。広大な土地と空間を占拠して臨海部に立ちはだかる四日市石油化学コンビナートの工場群-。それは動く抽象画を思わせる。しかし工場に足を踏み入れるとそんな感傷も一瞬のうちに吹き飛んでしまう。ごうごうと地響きを立ててうなり続ける機械の音。鼻をつく異様なにおい。それにもまして無気味なのは、どこまでも続く機械と装置の厚い壁である。そしてこの機械の壁に閉じ込められて働く人間の姿がまばらなのが目につく。それはあまりにも小さく、また機械の付属物のようにも見える。(p.215)
 そう、人間を機械の付属物とする社会への批判ではないでしょうか。ちなみに四日市ぜんそくを引き起こした企業の一つが、三菱化成との合併子会社、三菱モンサント化成です。(前掲書p.159)

【8. 季節農場労働 1953】 小さな子どもを含めた家族全員で果物摘みに従事するミラー一家を撮影したフォト・エッセイです。

【9. 慈悲の人 1954】 密林の聖者、アルベルト・シュヴァイツァーを撮影したフォト・エッセイです。彼は、シュヴァイツァーを単なる「慈悲の人」としてだけではなく「孤独な老人」として撮影しますが、『ライフ』誌が掲載した点数が少ないことに不満をもち、同社を辞めてしまいます。肩を落とし俯く「アルベルト・シュヴァイツァー」(1949)が忘れられない一枚です。なお『水と原生林のはざまで』(岩波文庫)を読むと、彼の考えがよくわかります。私事ですが、昔よく家に招き入れた野良猫に「ランバレネ」という名前を献上しました。

【10. ピッツバーグ 1955-56】 『ライフ』誌から離脱した後、彼はマグナム・フォトに加わりました。そして200年祭を迎えるピッツバーグ市についての本に掲載するための連作を撮影します。「ピッツバーグの艀」(1955-56)など、明暗の対比と見事な構図が印象的です。

【11. ロフトの暮らし 1957-60s】 マンハッタンの古ぼけたロフトに移り済んだスミスは、借金、そして沖縄戦で負傷した古傷の痛みや、それを和らげるための薬・アルコール依存に苦しみながらも、街の風景やロフトに集まるジャズマンを撮影しつづけます。「ピアノを演奏中のセロニアス・モンク」(1960s)や「アルバート・アイラ―」(1965)がいいですね。展示はされていませんが、他にもチャールズ・ミンガスビル・エヴァンスソニー・ロリンズのポートレートもあるそうです。ぜひ見てみたいですね。

【12. 日立 1961-62】 日立製作所やその製品を写真で紹介するという業務契約を結んで、来日したユージン・スミス。日本的なるものを写真で表現しようという試みでもあります。

【13. 水俣 1971-73】 その経緯については拙ブログの書評『写真集 水俣』をご一読ください。最後に図録にあった「水俣で写真を撮る理由」を紹介して、終わりたいと思います。
 写真はせいぜい小さな声にすぎないが、ときたま-ほんのときたま-一枚の写真、あるいは、ひと組の写真がわれわれの意識を呼び覚すことができる。写真を見る人間によるところが大きいが、ときには写真が、思考への触媒となるのに充分な感情を呼び起こすことができる。われわれのうちにあるもの-たぶん少なからぬもの-は影響を受け、道理に心をかたむけ、誤りを正す方法を見つけるだろう。そして、ひとつの病いの治癒の探究に必要な献身へと奮いたつことさえあるだろう。そうでないものも、たぶん、われわれ自身の生活から遠い存在である人びとをずっとよく理解し、共感するだろう。写真は小さな声だ。私の生活の重要な声である。それが唯一というわけでなないが、私は写真を信じている。もし充分に熟成されていれば、写真はときには物を言う。それが私-そしてアイリーン―が水俣で写真をとる理由である。

by sabasaba13 | 2018-01-08 08:19 | 美術 | Comments(0)

関東大震災と虐殺 59

 そしてこうした差別に、しばしば残虐性や非人間的行為がともなっていたのをどう理解すればよいのでしょうか。もちろん差別自体が人権を軽視した非人間的行為なのですが、目を覆うような残虐な行為があまりにもしばしば付随しています。
 まずは民衆自身の人権や尊厳が、国家によって軽視されていた状況があると考えます。国益のために、労働者や農民の人権を軽視して搾取し酷使し使い捨てる。国益とは言っても、足尾鉱毒事件や谷中村の運命を見てもわかるように、事実上は官僚・軍人・財界の利益なのですが。しかし人びとは自分たちを支え包んでくれる大きな集団の栄光と威信のためと信憑し、忍苦することになります。あるいは諦めてしまいます。その結果、当然の如く、自分自身に尊厳を見出せない人びとは、他者の尊厳を感じることができません。また自分がかけがえのない存在として尊重されていないので、他者をかけがえのない存在として尊重することを知りません。そして人権や尊厳を一顧だにせず、弱者・劣位者に対して蛮行をふるい、鬱憤を晴らす。
 その残虐性については、前述の「体罰の文化」も関係していると思いますが、残虐さを楽しんでいた面もあるのかもしれません。魯迅は「随感録 六十五 暴君の臣民」の中で、こう述べています。(『魯迅選集』 第六巻 岩波書店)
 暴君の治下の臣民は、たいてい暴君よりもっと暴である。(中略) 暴君の臣民は、暴政が他人の頭上にだけふるわれるのを願い、彼はそれを見物して面白がる。「残酷」を娯楽とし、「他人の苦しみ」を賞玩し、慰安にする。自分の手腕はただ「うまく免れる」ことである。「うまく免れた」ものの中からまた犠牲者が選び出されて、暴君の治下の臣民の、血にかわいた慾望に供給される、だが誰であるかは分からない。死ぬものが「アア」と言えば、生きているものが面白がるのだ。(p.57~8)
 日本軍によるシンガポール侵攻を経験したシンガポール上級相リー・クアンユーは、これを「組織的な残虐性(システマティック・ブルータリティー)」と表現されています。(『朝日新聞』 1994.12.31)
 日本軍の侵攻から二、三日後に、彼らは切り落とした首、人間の首を、木のくいや横木にのせて、シンガポールの大きな七、八カ所の橋の上でさらしものにしました。私もその一つを、オーチャード通り(市の目抜き通り)の高層ビルの近くで見ました。首には漢字の札が下げられ、悪いことをすれば、同じように処理される、と書かれていた。
 また、日本兵の歩哨が、将校の車が通過する際、敬礼が遅かったというだけで、将校が車をわざわざ戻し、兵隊を平手打ちにし、空中に投げて、道路にたたきつけるのを見ました。
 私は、これは異なる文化だ、組織的な残虐性を信奉する、異なる人々なのだ、と結論しました。

by sabasaba13 | 2018-01-07 07:23 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

『ロダン』

c0051620_76150.jpg 『CODA』を「角川シネマ有楽町」で見たときに、『ロダン カミーユと永遠のアトリエ』という映画のチラシが置いてありました。天才彫刻家オーギュスト・ロダンを描いた映画ですね。カミーユとは、カミーユ・クローデルのことでしょう。ロダンの高弟にして愛人、そしてロダンを凌駕する才能をもった彫刻家にして、彼との間のさまざまな確執を経て悲劇的な最期をとげた女性。「ウィキペディア」にはこうありました。
 この悩める時期に教え子のカミーユ・クローデルと出会い、この若き才能と魅力に夢中になった。だが優柔不断なロダンは、カミーユと妻ローズの間で絶えず揺れた。数年後ローズが病に倒れ、カミーユがローズと自分との選択を突付けるまで決断できなかった。ロダンはローズの元に逃げ帰り、ショックを受けたカミーユは以後、徐々に精神のバランスを欠き、ついには精神病院に入院、死ぬまでそこで過ごすことになる。
 これは面白そうな映画です。さっそく山ノ神を誘って東劇に見に行きました。都営地下鉄浅草線の東銀座駅でおりて地上へでると、すぐ目の前が歌舞伎座です。ここから東へ数分歩くと東劇に到着です。監督はジャック・ドワイヨン、公式サイトから、あらすじを引用します。
 1880年パリ。彫刻家オーギュスト・ロダンは40歳にしてようやく国から注文を受ける。そのとき制作したのが、後に《接吻》や《考える人》と並び彼の代表作となる《地獄の門》である。その頃、内妻ローズと暮らしていたオーギュストは、弟子入りを願う若いカミーユ・クローデルと出会う。
 才能溢れるカミーユに魅せられた彼は、すぐに彼女を自分の助手とし、そして愛人とした。その後10年に渡って、二人は情熱的に愛し合い、お互いを尊敬しつつも複雑な関係が続く。二人の関係が破局を迎えると、ロダンは創作活動にのめり込んでいく。感覚的欲望を呼び起こす彼の作品には賛否両論が巻き起こり…。
 この映画は二つの観点が貫かれています。ロダンの創造活動と、カミーユ・クローデルとの愛憎。「創った。愛した。それが人生だった」というサブタイトルが示す通りです。
 まずは何といっても、主役のヴァンサン・ランドンの演技には舌を巻きました。もちろんご本人にはお会いしたことはないのですが、風貌、仕草、言動、すべてがロダンに生き写しのように思えます。彫刻家の創作現場の様子もよくわかりました。そして、己の芸術に対する信念を枉げず、周囲の無理解に抗い、製作を続けるロダンの姿勢もよく描かれています。「カレーの市民」や「地獄の門」といったおなじみの名作も随所に登場します。そして圧巻は、「バルザック像」の製作過程です。箱根彫刻の森美術館のサイトから転記します。
 ロダンは文芸家協会から、小説家オノレ・ド・バルザック(1799-1850)の記念像の制作を依頼され、肖像写真をもとにして制作した。1898年のサロンにガウンをまとった石膏像を発表したが、これが雪だるま、溶岩、異教神などと言われ、「フランスが誇る偉大な作家を侮辱した」と、協会から作品の引き取りを拒否された。ロダンは石膏像を引き取り、終生外に出さなかった。彼の死後、1939年になってパリ市内に設置、除幕された。ガウンによって写実的なディテールが覆われ、大胆に要約された形態は、ロダンの作品の中でも最も現代に通じるものである。
 バルザックという巨大な作家の本質を表現するために、ビア樽のような腹とペニスを晒して腕を組む裸体像を造形するロダン。それに対する囂々たる非難と悪罵。苦悩しながらもとてつもない方法でクリアしますが、それは見てのお楽しみ。創作行為の現場に立ち会えたような、スリリングな場面でした。

 ロダンとカミーユの関係もうまく描かれていました。女性遍歴をくりかえしながらも妻ローズを愛おしむロダン。優柔不断な彼に苛立つ、誇り高い女性カミーユ。己の才能に自信をもつ彼女はロダンと別れて独立しますが、そこで待っていたのは女性差別でした。ただ女性というだけで作品が評価されない現実の前に、彼女は苦悩します。カミーユの作品、両手を伸ばして救いを求めるような「嘆願する女」を見て、顔色を曇らせるロダン。「彼女は脅威だ」という一言も重いですね。ロダンを悪者にして済ませるような単純な解釈ではなく、二人の関係の陰影をみごとに表現していました。

 味わい深く余韻の残る、良い映画でした。お薦めです。

 なお日本人モデルの花子が映画に登場します。パンフレットで知ったのですが、森?外に、彼女をモチーフにした『花子』という作品があるのですね。勉強になりました。
 また静岡県立美術館には、彼の作品を集めたロダン館があります。一見の価値あり。
by sabasaba13 | 2018-01-06 07:06 | 映画 | Comments(1)

関東大震災と虐殺 58

 次に軍隊と戦争です。明治政府は、植民地にされるのを防ぎ独立を守るために、徴兵制を施行して短期間で強力な軍隊を作り上げます。当初は防衛的な軍隊でしたが、日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦を行なうにつれて、賠償金や植民地の獲得、経済的な権益の拡張などをめざす侵略的な軍隊へと変容していきました。国内の治安を維持して、システムの改変を防止するという機能は一貫していますが。
 そしてこうした諸戦争に勝利した結果、官僚・軍人・財界はさまざまな戦時利得を獲得して潤いました。戦闘の最前線に立たされた民衆にも多少の戦時利得は滴り落ちたかと思いますが、最大のそれは、日本の植民地にされた朝鮮、戦争に敗れた中国、欧米列強の植民地にされているアジア諸国・諸地域の人びとに対する優越感と、日本人だけがアジアで唯一近代化に成功して植民地をもつ帝国をつくりあげたという強烈な自負心でしょう。これにより自らと同一化している国家=民族の威信がますます高まり、まるで自分がより強く偉くなった感じ、不安やストレスは多少なりとも解消されたと思います。その代償は、個人の抑圧と国家への隷従ですが。
 また、これは片山杜秀氏が『大東亜共栄圏とTPP』(ARTES)の中で指摘されていることですが、この軍隊において「暴力の文化」とでも言うべきものが民衆に浸透したのではないか。具体的には、強大なロシアと戦うために短期間で精鋭・屈強な兵士に育て上げる必要が生じました。そのために、必要な軍事的スキルを、体罰によって体に叩きこむという軍隊教育がなされるようになりました。このやり方がやがて、軍事教練というかたちで学校教育にも持ち込まれていきました。こうして軍隊や学校において、上官・教員・先輩から日常的に暴力をふるわれる環境が生まれ、暴力に親和的な文化が根づいたのだと思います。

 そして差別です。既述のように「国体」というシステムによって抑圧され貧苦に追い込まれ呻吟する民衆は、その不安・不満・ストレス・無能力感を、国家=民族という大集団に埋没することによって解消しようとしました。さらに戦争の勝利と植民地獲得によってアジア人を劣等視し、彼ら/彼女らに対する優越感を感じるようになりました。ここから人種差別によって無能力感を全能感へと昇華するという心理的からくりが起動したのではないかと考えます。ジョージ・オーウェルはそうした状況を"自分よりもっと弱い者にうっぷんを晴らして、自分の屈辱感に復讐している群居性の動物たち"と的確に表現しています。「自衛」という大義のもとに、おおっぴらに劣等な人種=朝鮮人を痛めつけて鬱憤を晴らし全能感を満喫する。次のような目撃談が、そうした様子を雄弁に物語っています。
 避難者の右往左往する大通りを、鼠色の小倉服を着た、十七八の少年鮮人が、在郷軍人の徽章をつけた男に引っ張られて歩いてゆく。『私、怪しい者ぢゃありません、おやぢと一緒に、神田の家を焼け出された商人です』 少年は真蒼な、恐怖に満ちた顔をして、上手な日本語で弁解した。引っ張ってゆく在郷軍人は、多少解っていると見えて、唯少年の袖を握っているばかりだが、後からぞろぞろとついて行く群衆が、××××××くやら、バケツで××××り飛ばす。一旦擦れちがって行き過ぎた男も、それが××〈鮮人〉だと聞くと、わざわざ後戻りして×××〈なぐり〉つける。(『文章倶楽部』 細田民樹 「運命の醜さ」 新潮社、1923年10月号) (⑤p.104~6)
 ということは、差別・迫害の対象は朝鮮人だけである必要はありません。自分たちより劣等な存在であると国家や中間集団が認知すれば、そして反撃できない弱者・マイノリティであれが誰でもよいということになります。福田・田中村事件のケースがそうだと思います。日本人であると知りつつも、貧しげな行商団=よそ者を劣等な存在として暴行を加えて殺害し、日頃のストレスを発散し、集団としての一体感を確認したのではないでしょうか。
by sabasaba13 | 2018-01-05 06:53 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)

バーニー・フュークス展

 ♪つんつくつくつくつん つんつくつくつくつ ひゃらー♪

 迎春

 ふつつかで粗忽なブログですが、今年もよろしくお願いします。


c0051620_7131656.jpg 先日、山ノ神と「美の巨人たち」を観ていたら、「スプリング・トレーニング・マウンテンズ」という気になる絵に出逢いました。大リーグのキャンプ風景をテーマとした作品ですが、異様に縦長のキャンバスに、練習する選手たちとそれを見つめるスタンドの観客、そして残雪を戴く山が描かれています。主人公であるはずの選手たちは下部に小さく描かれ、それを見守る観客と山が主人公のようです。そして画面全体が柔らかな光の粒で充たされ、これから大好きな野球のシーズンが始まるという観客の期待感と幸福感があふれだしてくるようです。魅力的な絵ですね。日本プロ野球のオープン戦を描いた、村上春樹氏の傑作エッセイ「デイヴ・ヒルトンのシーズン」をふと思い出しました。(『雑文集』所収)
 作者はバーニー・フュークス、スポーツと絵画の融合という新しい地平を切り開いた20世紀のアメリカを代表するイラストレーターだそうです。いやはや、私の知らない素晴らしい画家がまだまだたくさんいそうですね。そうした方々との出逢いを思うと、嬉しくなりました。

 彼の展覧会が代官山ヒルサイドフォーラムで開かれているので、山ノ神と一緒に見に行くことにしました。インターネットで所在地を調べると、東横線代官山駅の近くですが、付近に旧朝倉家住宅があることを発見。東京府議会議長や渋谷区議会議長を歴任した朝倉虎治郎氏によって1919(大正8)年に建てられた数寄屋建築と回遊式庭園を見学することができるそうです。よろしい、こちらも寄ってみましょう。

 まずは旧朝倉家住宅、アップダウンの変化に富んだ野趣あふれる庭は、紅葉が見ごろでした。ちょっとした穴場ですね。
 そして代官山ヒルサイドフォーラムへ。小さい会場でしたが、充実した作品群でした。正確な写実力、光の印象的な描写、大胆な構図などに目を瞠られませす。イタリアの街を描いた絵や、エリザベス女王やJFKのポートレートも魅力的でしたが、やはり野球やゴルフなどのスポーツを描いた作品が心に残ります。プレーヤーが、時には観衆と共に、光あふれる美しい自然の中でスポーツに打ち興じる姿に、生きる喜びをひしひしと感じます。しかも、ゴルファーやスキーヤーはキャンバスの端の方に描かれ、主役となるのはあくまでも自然なのですね。
 またドラマを感じさせる何枚かの絵も素晴らしい。前述の「スプリング・トレーニング・マウンテンズ」の観客席には、カップルや子ども、老人などが描かれていて、それぞれの人生に思いを馳せてしまいます。またボストン・レッドソックスの本拠地フェンウェイ・パーク左中間にある巨大なフェンス、グリーン・モンスターを中心に描いた絵や、フェンスの隙間から選手たちを一心不乱に見つめる少年の絵なども面白いですね。いったいどんなドラマがあるのでしょう。

 アメリカの画家ではベン・シャーンノーマン・ロックウェルが大好きですが、またひとり記憶に留めたい画家と出逢えました。

 なおインターネットで、バーニー・フュークスについて調べていると、わが敬愛するパブロ・カザルスのポートレートを描いていることがわかりました。オスカー・ココシュカが描いた肖像画は知っていますが、あまり好きにはなれません。どんな絵だろう、気になったのでインターネットで一所懸命に探したら、ようやく見つかりました。画面の中央に大きくグランド・ピアノが描かれ、パイプをくわえてそれを弾くカザルスが右端に小さく描かれています。しかも逆光の中で影となっており、表情などの細部はよくわかりません。しかし彼の音楽に対する真摯な思いが伝わる一枚です。彼が日課にしていたという、J・S・バッハの「平均律クラヴィーア曲集」を弾いているところでしょうか。
by sabasaba13 | 2018-01-01 07:13 | 美術 | Comments(0)