<   2018年 02月 ( 26 )   > この月の画像一覧

京都観桜編(21):高台寺(15.3)

 そして観光客の雑踏で混みあう二年坂から三年坂へ、満開の枝垂れ桜を坂から見下ろす一枚を撮れました。
c0051620_9293833.jpg

 八坂の塔を遠望し、霊山観音を撮影して、高台寺へ。
c0051620_9295345.jpg

 方丈の前に広がる「波心庭」では、枝垂れ桜が見事な紅色の花を咲かせています、眼福眼福。なお朱印をもらうために長い行列ができていましたが、若者が多いのにはすこし驚きですね。怪力乱神や儀式を好む若者が増えているとしたら、少し気がかりです。彼ら/彼女らには自由を愛するリアリストでいてほしいのですが。
c0051620_930862.jpg

 なおこのあたりから、甍の波を睥睨するように聳える、山鉾のような異形の建物が見えます。以前から気になっていたのですが、今調べてみたら「祇園閣」という建築でした。大雲院という寺の中に建ち、もともとは大倉喜八郎の別邸の一部で、「祇園祭の鉾を一年中見られるように」という彼の願いが込められて建てられたそうです。設計は伊東忠太、築地本願寺や東京都慰霊堂(震災記念堂)も彼の作品ですね。屋根は銅板葺きですが、これは大倉喜八郎が金閣、銀閣に次ぐ銅閣として作ったためなのだとか。ほんとかな。最上部からの眺望は絶景だそうです。ときどき特別公開されるそうなので、ぜひ上ってみたいですね。
 近くの月真院には、「御陵衛士屯所跡」という解説板がありました。
c0051620_931283.jpg

 後学のために転記します。
 ここ高台寺月真院は、慶応三年(1867)六月から十一月にかけて、熱烈な勤王主義者であり、孝明天皇の御陵衛士と称した伊東甲子太郎ら十五名が屯所として寺院である。彼らはこの寺院を本拠として活動していたため「高台寺党」とも呼ばれている。
 伊東は常陸(茨城県)の出身で学問優秀、剣は北辰一刀流の名手であった。元治元年(1864)江戸から京に移り、新撰組に入隊し参謀となったが、やがて近藤勇や土方歳三らと意見を異にし、遂に慶応三年三月、新撰組と袂を分かち、同志十四名を連れて御陵衛士に任名(ママ)され、ここを屯所とした。この中には江戸の試衛館時代からの隊士、藤堂平助の姿もあった。それ以降、薩摩藩の援助をうけ、雄藩(勢力の強い藩)をまわってさかんに勤王を説いた。
 慶応三年十一月十八日、伊東は近藤勇から酒席の接待を受けた帰り、油小路木津屋橋で待ち伏せをしていた新撰組に謀殺され、さらに伊東の遺体を引き取りに来た多くの同志も、新撰組隊士によって斬られ、御陵衛士隊の活動は終止符を打った。
 寡聞にしてはじめて知りました。薩摩藩と関係をもったことを新撰組に睨まれたのかな。旅をするといろいろ勉強になりますね。

 本日の二枚です。
c0051620_932196.jpg

c0051620_932332.jpg

by sabasaba13 | 2018-02-28 06:28 | 京都 | Comments(0)

京都観桜編(20):城南宮・清水寺(15.3)

 JR嵯峨嵐山駅から嵯峨野線に乗って京都駅へ。八条口から「らくなんエクスプレス」に乗って、城南宮に行こうと思うのですが、バス停が見つかりません。案内表示もないし、係員もいません。駅構内の観光案内所に行き、100円払ってインターネットで調べてやっとわかりました。やれやれ。バス停留所にはスーツ姿の若い女性とその保護者らしき女性がたくさんいましたが、どうやら京都女子大の入学式のようです。私は、大学の入学式にも卒業式にも出た記憶がないのですが、儀式が好きな若者が増えているのでしょうか。男子大学生らしき方々が何やら勧誘をしているようでしたが、兄弟/姉妹大学の学生さんかな。
c0051620_19251340.jpg

 女性ドライバーが運転するバスに乗って城南宮へ。
c0051620_19254254.jpg

 都の守護と国の安泰を願って、平安遷都の際に京都の南に創建された神社ですが、お目当ては昭和の小堀遠州と讃えられる中根金作の手によるお庭です。島根県の足立美術館庭園も彼による作庭ですね。桜が満開には程遠かったのが残念ですが、風情あるお庭を楽しむことができました。春の草木が花開く「春の山」、寝殿造りの庭をモデルにし、遣水が流れる「平安の庭」、室町時代の様式でつくられた池泉回遊式庭園の「室町の庭」、枯山水様式の「桃山の庭」、平安時代後期の様子を表す枯山水の「城南離宮の庭」と、それぞれ趣きの違う五つのお庭が連続しています。桜が満開のころに、再訪を期したいですね。
c0051620_19262265.jpg

 バスで京都駅に戻って、烏丸口から再びバスに乗って、私御用達の養源院へ。桜の古木があるのですが、残念ながら一分咲きでした。
c0051620_19263963.jpg

 ここから歩いて清水寺へ参りましょう。ハイアット・リージェンシーと京都国立博物館の桜を撮影してテクテク歩き、大谷本廟へ。あまり桜はありませんでしたが、満開の木が一本ありました。
c0051620_19265666.jpg

 茶碗坂をのぼっていきますが、覚悟の上とはいえ、やはり大変な混雑です。恐るべし、清水寺。全体的に見ごろにはまだ早かったですが、満開に咲き誇る桜もあって楽しむことができました。清水の舞台を望む景観は、何度見ても素晴らしい。たしか何年か前に大雨で斜面が大きく崩れたと聞きましたが、そこに桜を植樹するあたりは、"受領は倒るる所に土を掴め"(『今昔物語集』巻28)的な不屈の清水魂を感じます。なお人柄の良さがにじみでるのか、スマートフォンによる撮影を三回も頼まれました。しかし私はスマホを扱ったことがないので、変なボタンにさわってすべて失敗。申しわけない。なおすべて中国か台湾の方のようでした。
c0051620_19271347.jpg

 本日の三枚、上から城南宮室町の庭、清水寺(2枚)です。
c0051620_19281377.jpg

c0051620_19282839.jpg

c0051620_19284482.jpg

by sabasaba13 | 2018-02-27 06:28 | 京都 | Comments(0)

京都観桜編(19):嵐山公園(15.3)

 本日は雨模様、自転車ではなく公共輸送機関と徒歩で桜めぐりをしましょう。草津駅に歩いていくと途中で、滋賀県特産の「飛び出し小僧」と、マンションのわきに満開の桜がありました。
c0051620_8365518.jpg

 琵琶湖線に乗って京都駅へ、嵯峨野線に乗り換えて嵯峨嵐山駅に到着。嵐山公園にも桜がたくさんあるという情報を得たので寄ってみましょう。渡月橋を渡って嵐山公園に行くと、なるほど満開の桜が数多ありました。しかし残念ながら、雨天のためいまひとつ気分もさえません。いや残念ではないな、小雨にけぶる嵐山と遠景の桜もなかなか風情があります、と引かれ者の小唄。
c0051620_837133.jpg

 「絶景 大悲閣千光寺 GREAT VIEW →1km」という看板がありましたが、この雨だしなあ、1km歩くのは大変だなあ、と蒲柳の質の私は挫けました。渡月橋のたもとでは人力車夫の方々がそぼ降る雨の中、客待ちをしておられました。幸多かれと祈ります。
c0051620_8372877.jpg

 京福電気鉄道の嵐山駅で観光パフレットをもらって、ふと駅のホームを見ると、パトカー仕様の嵐電が停まっていました。ま、別にコメントはしませんけれど。駅構内にあった嵐電のマスコット・キャラクター「あらんくん」を撮影。なお京福電鉄(嵐電)のサイトによると、2009年に嵐電は江ノ電と姉妹提携を結び、翌年にそのイメージキャラクターのデザインとして誕生したそうです。ちなみに江ノ電のキャラクターは「えのん」。ま、だからどうした(So what)と言われれば、そういうものだ(So it goes on)としか答えられませんが。
c0051620_8385131.jpg

 それではJR嵯峨嵐山駅へと向かいましょう。途中に「廣瀬コーヒー」という喫茶店があったので、モーニングサービスをいただくことにしました。地元資本の喫茶店で、地元民のお喋りを聞きながら、トーストと珈琲をいただき、これからの旅程に思いを馳せる。私にとっての小確幸(小さいけれど確固たる幸せ)です。店には、暇そうな初老の方々が数人、楽しそうに雑談をされていました。「今年の桜はきたない」「ねてへん」「黄砂のせいや」「いやいや持てば半紙も重い。すすんで持てば重荷も軽い」「ほい、モーニング饅頭おすそわけ」、いやあ耳がダンボになってしまうような面白い会話でした。トイレに"他人と過去は変わらない 自分と未来は変へられる""あなたはキット幸わせになります。あなたには「禍いを転じて福となす」知恵があるから"という色紙があるのもチャーム・ポイント。ちょっとお薦めの喫茶店です。
c0051620_839679.jpg

 本日の四枚です。
c0051620_8393994.jpg

c0051620_8395480.jpg

c0051620_840951.jpg

c0051620_8402125.jpg

by sabasaba13 | 2018-02-26 06:30 | 京都 | Comments(0)

南方熊楠展 2

c0051620_1718741.jpg そして国立科学博物館へ、いやあ何十年ぶりでしょう。幸いというか、不幸にしてというか、行列はできておりませんでした。入場料を支払い、日本館一階の企画展示室へ。
まずは展覧会のコンセプトを紹介しましょう。
南方熊楠生誕150周年記念企画展 南方熊楠-100年早かった智の人-
 南方熊楠は、森羅万象を探求した「研究者」とされてきましたが、近年の研究では、むしろ広く資料を収集し、蓄積して提供しようとした「情報提供者」として評価されるようになってきました。本展覧会では、熊楠の活動のキーアイテムである日記・書簡・抜書(さまざまな文献からの筆写ノート)・菌類図譜を展示。"熊楠の頭の中をのぞく旅"に誘います。同時開催企画展「地衣類―藻類と共生した菌類たち―」も是非ご覧ください。
 それではじっくりと拝見しましょう。なお嬉しいことに展示物の写真撮影は可能、そして展示物や解説をまとめた冊子をいただけました。ブンダバー、公立の博物館はこうでなくてはいけません。武器や原発に湯水のように金を投じるよりは、博物館・美術館といった文化的施設に潤沢な予算を配した方が、世の為人の為になるのにね。でも絶対にそんなことはしないであろう政府を多くの人たちが支持しているのだから仕方ありません。熊楠さんが見たら何と言うでしょうか。
 展示は六部構成となっていました。まず「1 熊楠の智の生涯」、幼いころから天才的な記憶力を発揮し、博物学や語学に優れていたという熊楠の生涯を概観します。幼いころから、和漢の百科事典や本草学書の筆写に精を出しており、中でも『和漢三才図絵』に出会って知識を集めることに大きな喜びを見出したそうです。実は、今読んでいる『歴史の話 日本史を問いなおす』(網野善彦・鶴見俊輔 朝日文庫)の中に、偶然ですがその話が紹介されていました。
 『和漢三才図絵』 寺島良安編著。江戸時代に刊行された、和漢古今にわたる事物を人物・器具・動植物などに分類した図説百科事典。南方熊楠が少年時代に三年かけて、これを筆写した話がある。(p.197)
 東京帝国大学予備門に入学するも落第、しかし博物学への憧れを捨てきれずに、アメリカへ渡って標本採集に熱中しました。25歳の時にイギリスに渡り、大英博物館図書室に籠って膨大な書物を読みあさり、民俗学や自然科学などの知識を収集していきます。雑誌『ネイチャー』などに投稿し始めたのもこの頃からですね。また亡命中の孫文とも交友関係をもちます。父の死を機に帰国、那智そして紀伊田辺に暮らしながら隠花植物の採集や論文執筆に明け暮れました。なお田辺時代に闘鶏神社宮司の娘・松枝と結婚、これ以後、充実した生活を送れるようになりました。昭和天皇への御進講の際に、キャラメルの大箱に入れた標本を献上したというエピソードはこの時代です。その同型の箱が展示されていました。また神社合祀反対運動に尽力したのもこの頃でした。そして盟友たちの他界に気落ちしつつ、1941年12月29日に彼も鬼籍の人となりました。享年70歳。
 彼の写真や手紙、大英博物館入館許可書など興味深い展示でしたが、何と言っても圧巻は「抜書」です。彼は、ロンドン在住時代と田辺在住時代に、様々な文献や聞いた話などを自分のノートに抜き書きしたものです。紙面を埋め尽くす文字、中には罫線に二行書き込んだもの、罫線を上へ下へ文字が溢れだしたものもありました。知識に対する熊楠の執念と愛を、ひしひしと感じさせてくれました。
 「2 一切智を求めて」では、絵具・描画道具入り採集箱や微細藻類プレパラート入れなど、熊楠使用のフィールドワークの道具類が展示されていました。
 「3 智の広がり」では、熊楠が収集し"隠花植物"(菌類・地衣類・大型藻類・微細藻類)を、熊楠の標本と現在の標本を対比しながら紹介しています。
 「4 智の集積-菌類図譜-」では、多数の菌類を集め、描写・記載した「菌類図譜」と、最近新しく発見された「菌類図譜・第二集」を、合わせてバーチャル展示していました。
 「5 智の展開-神社合祀と南方二書-」では、神社合祀に反対し、自然保護を訴える「南方二書」を紹介しています。そもそも神社合祀とは何か、解説文より転記します。
 明治政府は、1906年、神社合祀に関する2つの勅令を発布します。これは、町村合併に伴って複数の神社を一町村で一つに統合し、廃止された神社の土地を民間に払い下げるというものです。実は、払い下げられた土地の森林資源を売却し日露戦争(1904~1905年)の戦費の借金を返納するという経済的な目的がありました。貴重な生物をはぐくんだ鎮守の森が消えてしまう…。熊楠は、各界の有識者に支援を求め、反対運動を展開していきます。
 天皇や神々の権威を隠れ蓑にして臣民を支配しておきながら、国益のためにはその神々を弊履の如く打ち捨てる官僚たちの酷薄さと下劣さがよくわかります。熊楠は、東京帝国大学教授の松村任三に宛てた二通の手紙で神社合祀反対を訴え、これが柳田國男によって出版され、「南方二書」として世に知られることになりました。その重要な手紙の原本が展示されていました。
 解説文に「植物の全滅は狭い範囲から一斉に起こり、どんなに後でも回復しないことを自分は見てきたのだ」という彼の言葉が紹介されていましたが、長いフィールドワークの経験から、自然破壊の不可逆性についてよくわかっていたのですね。
 「6 智の構造を探る」では、代表作「十二支考・虎」のメモ書き(腹稿)から、熊楠の頭の中で、情報をまとめていく過程に迫ります。
最後に、最近発見されたという、熊楠を映した数十秒の映像が流されていました。残念ながら音声はなかったのですが、動いている南方熊楠を見られて感無量です。

 というわけで、小振りながらも充実した展示でした。会場で放映されていた、展示企画者・安田忠典氏(関西大学人間健康学部准教授)の言葉が心に残ります。
 熊楠は、キノコでも粘菌でもわらしべ長者の説話でも、とにかくたくさん集めようとしました。集めた資料を分析するよりも「どうだ、こんなに集めたんだ、凄いだろう」と無邪気に自慢します。楽しいですね。本来、学問には楽しさや喜びが伴うもので、熊楠の仕事を狭い意味での研究業績から評価するだけでは不十分なのかもしれません。また、資料についての価値判断を読み手にゆだね、できるだけたくさん紹介しようとするやり方は、現代のネット上での情報検索に近いといえるのではないでしょうか。
 なるほど、「喜ばしき学問」か。熊楠に惹かれる理由のひとつが、わかったような気がします。またできるだけたくさんの資料を集めて、後学の徒に益しようという姿勢は、わが敬愛する渋澤敬三にも通じるものがあります。『歴史の話 日本史を問いなおす』(網野善彦・鶴見俊輔 朝日文庫)から網野善彦氏の話を引用します。
 その点、渋澤(※敬三)さんは偉い人で、自分は学者ではないので-本当は大変な学者ですが-、後世の学者がどういう関心を持つかわからないから、自分は史料を選択しない、史料をできるだけ完全な形で漏れなくすべてを提供する、これが自分の生涯の仕事だ、ということを繰り返し言っています。実際に渋澤さんの主宰した日本常民文化研究所が長年やってきた仕事、刊行物は、基本的にすべてそういうものになっているんです。(p.143)
 さて、せっかく久しぶりに科博に来たのですから、少し徘徊しましょう。リニューアルされたため、以前に比べて展示がたいへん見やすく、分かりやすくなっています。昔のおどろおどろしい雰囲気も悪くはなかったのですが。学芸員さんの解説に熱心に耳を傾ける子どもたちの姿が印象的でした。そうそうこの建物、現日本館、旧本館は重要文化財なのですね。解説板があったので転記しておきます。
 日本館建物は、関東大震災による震災復旧を目的として昭和6年(1931)に完成した。ネオ・ルネサンス調の建物は、文部省大臣官房建築課の設計による。鉄骨鉄筋コンクリートで建設されるなど耐震・耐火構造にも注意が払われた。中央ホール上部などに使われているステンドグラスは小川三知のアトリエ製作で、日本のステンドグラス作品の中でも傑作といえる。また、建物の内外に使われている装飾性の高い飾りなども、戦後の建物には無くこの建物のみどころである。
 上から見ると、そのころの最先端の科学技術の象徴だった飛行機の形をしている。
 へー、このステンドグラスは小川三知の作品だったのか、おみそれしました。
 昼食は、上野駅貴賓室を利用したレストラン、「ブラッスリー・レカン」でいただきました。うーむ、値段の割には味はいま一つだったかな。せっかくここまで来たのだから、すこし歩いて「うさぎや」のどら焼きを購入。なんとも幸せな日曜日でした。

 本日の三枚です。
c0051620_17222898.jpg

c0051620_17224062.jpg

c0051620_17225536.jpg

by sabasaba13 | 2018-02-25 07:56 | 鶏肋 | Comments(0)

南方熊楠展 1

 東京上野にある国立科学博物館で、南方熊楠生誕150周年記念企画展、「南方熊楠 100年早かった智の人」が開かれているというビッグ・ニュースが耳に入りました。こりゃあ女房をし…もとい、山ノ神を誘って是が非でも見にいかなければ。

 まずは岩波日本史辞典から彼についての記述を引用します。
 南方熊楠。1867‐1941(慶応3.4.15‐昭和16.12.29) 植物学者、民俗学者。和歌山市生れ。1886年大学予備門を中退して渡米、中南米を放浪し、動植物の観察収集に努めた。92年イギリスに渡り、学界で認められ、大英博物館東洋調査部に入る。1900年帰国、和歌山県田辺町に定住し、県下一帯の隠花・顕花植物の採集とその分類整理に没頭した。人間と自然との共生の立場から明治政府がすすめた神社合祀に反対し、また民俗学の分野でも独自の方法論による地球的規模での民俗の比較を試みた。
 そう、国家という檻に縛られず、世界と地域を自由自在に行き来して、人間と自然を考究する、そのスケールの大きさに魅せられます。

 彼の言葉をすこし紹介しましょう。まずは『南方熊楠随筆集』(ちくま学芸文庫)です。
 この人(※熊楠の友人)の言に、日本今日の生物学は徳川時代の本草学、物産学よりも質が劣ると、これは強語のごときが実に真実語に候。けだしかかる学問をせし人はみな本心よりこれを好めり。しかるに今のはこれをもって、卒業また糊口の方便とせんとのみ心がけるゆえ、おちついて実地を観察することに力めず、ただただ洋書を翻訳して聞きかじり学問に誇るのみなり。それでは、何たる創見も実用も挙がらぬはずなり。(p.35)

 小生のごときつまらぬものの履歴書は、また他のいわゆる正則に(正則とは何の変ったことなき平凡極まるということ)博士号などとりし人々のものとかわり、なかなか面黒きことなども散在することと存じ申し候。これは深窓に育ったお嬢さんなどは木や泥で作った人形同然美しいばかりで何の面白みもなきが、茶屋女や旅宿の仲居、お三どんの横扁たきやつには、種々雑多の腰の使い分けなど千万無量に面白くおかしきことがあると一般なるべしと候。(p.38)
 次に『一日一言』(桑原武夫 岩波新書)からの""です。
 かつ小生、従来、一にも二にも官とか政府とかいうて、万事官もたれで、東京のみに書庫や図書館あって、地方には何にもなきのみならず、中央に集権して田舎ものをおどかさんと、万事、田舎を枯らし、市都を肥やす風、学問にまで行わるるを見、大いにこれを忌む。(「土宜法竜への手紙」 p.215)
 そして白川郷の看板に掲げられていた言葉です。
 すぐに儲けにならないものの中には、貴重なものがいっぱいあるのだ。生命の世界もそう、それに景色だってそうだ。なんの儲けになるかと思っているかもしれないが、それがいまにいちばんの貴重品になる時代がやってくる。景色を護らなくっちゃいけない。その景色の中に生きている、生命の世界を金儲けの魔力から護らなくてはいけない。
 「知」に対する無垢な愛情、国家権力や金儲けの魔力への批判と抵抗、地域への眼差し、そして人間を含めた全ての命への敬意。ほんとうにスケールの大きい人物です。
 それに加えて、常識や慣習に縛られない言行も好きです。読んでいて思わず微苦笑してしまった文章を『南方熊楠随筆集』(ちくま学芸文庫)から紹介します。
 予が現住宅地に大きな樟の樹あり。その下が快晴にも薄暗いばかり枝葉繁茂し居り、炎天にも熱からず、屋根も大風に損せず、急雨の節書斎から本宅へ走り赴くと掩護するその功抜群だ。日傘雨傘足駄全く無用で、衣類もというところだが、予は年中多く裸か暮しゆえ皮膚も沾(ぬ)れず、こんな貧人に都合のよいことは又とないから、樹が盛えるよう朝夕なるべく根本に小便を垂れてお礼を申し居る。(p.108)

 …女は年をとるほど、また場数を経る広くなる。西洋人などはことに広くなり吾輩のなんかを持って行くと、九段招魂社の大鳥居のあいだでステッキ一本持ってふりまわすような、何の手ごたえもなきようなのが多い。ゆえに洋人は一たび子を生むと、はや前からするも奥は味を覚えず、かならず後ろから取ること多し。これをラテン語でVenus aversaと申すなり。(支那では、隔山取火という)。されど子を生めば生むほど雑具が多くなり、あたかも烏賊が鰯をからみとり、章魚が梃に吸いつくように撫でまわす等の妙味あり。夢中になってうなりだすゆえ盗賊の禦ぎにもなる理屈なり。(p.68)
 もう、熊楠さんたら。

 彼の後塵を拝するために、ゆかりの地をいくつか訪れたこともいい思い出です。紀伊田辺の旧居と闘鶏神社、彼のお墓がある高山寺野中の一方杉、彼が三年間滞在した大阪屋旅館跡、紀伊白浜にある南方熊楠記念館などなど、よろしければ拙ブログをご笑覧ください。
 なお、彼の伝記である『縛られた巨人-南方熊楠の生涯』(神坂次郎 新潮文庫)もお薦めです。

 というわけで前口上が長くなりましたが、睦月某日、山ノ神と一緒に上野に行きました。JR上野駅公園口から出ると、たくさんの方々が足早に歩いておられます。すわ、熊楠展へ向かう人の群れか、だとしたら行列は必至です。でも知的好奇心にあふれた方々がこれほどいるのなら日本は安泰…と思ったら、パンダのシャンシャンを見るために動物園へ向かう人たちでした。無念。
 先日、『ロダン』という素晴らしい映画を見たので、敬意を表してル・コルビュジェ設計の国立西洋美術館の前庭に立ち寄りました。「地獄の門」「アダム」「イブ」「カレーの市民」「考える人」といったロダンの彫刻群が野外展示されており、しかもここまではロハで入れます。その圧倒的な表現力をもつ作品を見詰めていると、山ノ神曰く、幼い頃に両親に連れられて「地獄の門」を見た時に、その恐ろしさのあまり泣き出したそうです。今でもそうですが、感受性が強かったのですね。私は「この門、開けられるのかな」と思っただけでした。余談ですが、愛煙家の方に朗報、「地獄の門」のすぐ隣に喫煙コーナーがありました。ロダンの作品を見ながら紫煙をくゆらす、絶滅危惧種の末席を汚す一人としてはほんとうに嬉しい場所です。

 本日の五枚です。
c0051620_15514046.jpg

c0051620_15515696.jpg

c0051620_1552975.jpg

c0051620_15522734.jpg

c0051620_15524245.jpg

by sabasaba13 | 2018-02-24 06:30 | 鶏肋 | Comments(0)

いつもいつも君を憶ふ

c0051620_10573050.jpg 先日、タモリ風に言えば"ギロッポン"の"ブシャブシャ"じゃなくて俳優座劇場で、同劇団による「いつもいつも君を憶ふ」を山ノ神と見てきました。『週刊金曜日』の演劇評で紹介されていたものですが、なかなか面白そうです。ほんとうはもっと演劇鑑賞をしたいのですが、音楽や映画と違い、演劇についての情報はなかなか耳に入りません。本誌の演劇評は重宝しております。
 まずはチラシから、あらすじについて引用します。
1923年―関東大震災。その翌年の初めから物語は始まる。
お茶の間の流行歌と共に時は流れ、二度目の東京オリンピックを終えた2021年元旦。
この約100年間を、埼玉県川越市のある一軒家を舞台に、時を隔てた七つの正月の景色で描き継ぐ。
変わらないはずの日常は時にもろく崩れ、消えないはずの絆はその糸がほどける時もくる。
でも、いつもそこには人がいた、歌があった、そして一瞬の命のきらめきが溢れていた―。
 今年は明治維新150年、行政による手放し礼賛キャンペーンが渦巻きそうで気鬱になりますが、ひとつの節目として、日本の近代とは何だったのか自分なりに振りかえってみたいと考えていたところです。その約三分の二にあたる約100年を、ある家族の歴史を通してつづる、興味深い作品です。これは愉しみ。

 六本木に着いて劇場に入り、開演を待っていると、時を刻む時計の音が静かに流されていました。"時"が、この劇における重要なモチーフであることを暗示しているのでしょう。
 関東大震災の翌年にあたる1924(大正13)年の元日、朝鮮人父娘が川越に住む医師・岡崎一家を訪れ、大きな柱時計をプレゼントします。前年に起きた大震災の時に吹き荒れた朝鮮人虐殺の最中に、多くの朝鮮人を匿ってくれたことへのお礼です。この時計を擬人化して役者(小笠原良知)が演じ、以後約100年にわたってこの家族を見守るという演出、上手いですね。その後、軍国主義に雪崩れていった日本は、満州事変・日中戦争へと突入していきます。やんちゃ坊主だった岡崎家の息子・勝(芦田崇)が冷酷な軍人となって、重慶への無差別爆撃を誇らしげに語る場面が印象的でした。時は人間をこうも変えてしまうのですね。そして時は、日本本土への無差別爆撃という結果も招来します。因果は巡る…
 やがて太平洋戦争、敗戦、シベリア抑留、戦後復興、東日本大震災と原発事故と時代が移り行くなかで、岡崎家と隣りの田宮家の人びとは、死・生・恋愛・別れとともに健気に生きて行きます。中でも、シベリア抑留によって精神に異常をきたした田宮肇(河原崎次郎)、日本を美化する祖母・岡崎静(川口敦子)に抗して、父・勝の戦争犯罪を告発する孫・清(芦田崇)、福島原発事故によって甲状腺ガンになり、その手術の傷痕をマフラーで隠す少女(飯見沙織)といったエピソードが心に残りました。こうしてみると、この劇のモチーフは、時に加えて、国家であるのかもしれません。国家に翻弄されながらも、互いに思いやりながら懸命に生きる人びと。さて、時はどちらの味方なのでしょう。国家か、はたまた人か。

 最後の場面は2021年。そう、東京オリンピックの翌年、そしておそらく憲法改正/改悪の是非が私たちに問われてその結果が出ている頃でしょう。その時に、日本はどうなっているのか。いや、私たちは、そして国家はどんな日本にするつもりなのか。劇中人物が演じたように、他者を"憶ふ"心を忘れずにいれば、その答えは自ずと出てくるような気がします。そもそもこの柱時計は、朝鮮人が日本人を憶って贈ったものでした。

 いろいろと考えさせられ、そして楽しめた、すばらしい公演でした。生身の人間が、眼前でリアルタイムに人間を演じる演劇を見る喜びを伝えてくれた俳優座のみなさんに感謝します。これからは足繁く、さまざまな劇場に通いたいと思います。

 なおタイトルの「いつもいつも君を憶ふ」は、与謝野晶子の「賀川豐彦さん」という詩からつけられています。とても素敵な詩ですので「青空文庫」から引用して紹介したいと思います。
わが心、程を踰えて
高ぶり、他を凌ぐ時、
何時も何時も君を憶ふ。

わが心、消えなんばかり
はかなげに滅入れば、また
何時も何時も君を憶ふ。

つつましく、謙り、
しかも命と身を投げ出だして
人と真理の愛に強き君、
ああ我が賀川豐彦の君。

by sabasaba13 | 2018-02-23 06:42 | 演劇 | Comments(0)

京都観桜編(18):ホテルにて(15.3)

 それはさておき、アメリカで証拠となる文書が開示され、当事者も証言しているのに、いまだに密約の存在を否定する、つまり嘘をつき続ける外務省、そして日本政府とはいったい何様なのでしょう。欧米だったら、政治犯罪として責任を問われて罷免されるでしょうに。結局、こうした問題についてまともに追及と批判をしない大手メディア、そして選挙でこうした政府に免罪符を与えつづけている日本国民の責任だと思います。このニュース番組でも、わざわざ密約を「」に入れているところがメディアの立ち位置をよく物語っています。政府の立場を忖度しているのでしょう。やれやれ。
 また、この米日の密約に関して、矢部宏治氏が鋭い指摘をされているので紹介します。『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること』(前泊博盛監修 書籍情報社)からの引用です。
 そして重要なのが、(※日米合同委員会で)議事録と合意文書は作成されるが、それらは原則として公表されないということ。少し大げさにいえば、日本のエリート官僚と米軍の高官たちが、必ず月2回会って、密約を結んでいるということです。
 この合意文書の法的な位置づけをチャートにすると、次のようになります。

 日本国憲法→日米安保条約→日米地位協定→日米合同委員会・合意文書(密約)

 つまり上位の取り決めに入れるとマズいものを、どんどん下位に送って密約にしているわけです。まず憲法で戦争および戦力の放棄をうたいながら、日米安保条約を結びます。この条約について吉田首相は、ずっと「交渉中」と偽り、国会ではほとんど議論しませんでした。そして調印する日どり(講和条約と同じ9月8日)は前日の夜11時まで、場所と正確な時間は当日の正午まで教えてもらえませんでした。安保条約そのものが、ほとんど密約だったわけです。
 次に日米地位協定の前身である日米行政協定は、旧安保条約が調印された2カ月以上あとになってから、ようやく内容についての交渉が開始されています。条約とちがって国会での承認を必要としないため、吉田首相はこの協定に「基地の原則的継続使用」や「米軍兵士や家族に対する治外法権」など、都合の悪い問題をすべて放りこんでいきました。さらにはその日米行政協定(現在の日米地位協定)にも書けないことを、日米合同委員会という密室の会議のなかで、だれからもチェックされることなく、どんどん決めてしまっているのです(ちなみにこの手法は現在、日本の官僚のお家芸となっており、多くの法律がわざとあいまいな言葉で書かれるようになっています)。(p.263)

 まとめると、「密約」というのは官僚の悪事や違法行為ではなく、国際法(=大国の圧力)との関係から生まれる外交上の技術にすぎない。問題は、外国軍が条約にもとづいて数万人規模で駐留し、最高裁がその問題について憲法判断を放棄しているという状況そのものにある。その結果として生じる、自国民の権利よりも外国軍の権利が優先するという植民地的状況を、なんとかアメリカに対等なふりをしてもらって見えなくしようとしたのが「密約」であり、文章をいじってごまかそうとしたのが「霞ヶ関文学」だということです。官僚のほうから言わせると、「大もとがおかしいんだから、しかたないだろう。やってられるか」といったところでしょう。(p.271)
 一言もありません。『遠い世界に』(作詞・作曲 西岡たかし)の一節を歌って、●を掘って入りましょう。♪これが日本だ 私の国だ♪
by sabasaba13 | 2018-02-22 06:27 | 京都 | Comments(0)

京都観桜編(17):ホテルにて(15.3)

 それでは夕食をとって自転車を返却しましょう。ひさしぶりに「新福菜館」か「第一旭」の濃厚な中華そばが食べたいな、しかし前者は長い行列、後者は工事中でした。せんかたなし、中華そばが食べられそうなお店を探しましょう。京都駅近くをうろうろ走っていると、「此付近 新選組最後の洛中屋敷跡」という碑がありました。
c0051620_21494086.jpg

 そして「満福」というお店で中華そばを所望、山盛りの九条ねぎが美味しうございました。
c0051620_21495624.jpg

 京都サイクリングツアープロジェクト(KCTP)に自転車を返却し、京都駅から琵琶湖線快速に乗って20分ほどで草津駅に到着。ホテルに向かって歩いていると「COLTRANE」というJAZZ&BARの店がありました。看板は「ブルー・トレーン」のジャケット写真ですね。ジョン・コルトレーンか、無性に「コートにすみれを」が聴きたくなりました。
 ホテルに着いてシャワーを浴び、地酒を飲みながらテレビのニュースを見ていると、"沖縄返還交渉での「密約」初めて認めた吉野氏死去"というテロップと、氏の生前の姿が放映されていました。
c0051620_21501946.jpg

 『日本経済新聞』のサイトから、引用します。
 沖縄返還の際に日本側が必要経費を負担する「密約」があったことを認めた、元外務省アメリカ局長の吉野文六氏が29日午前9時10分、肺炎のため横浜市内の自宅で死去した。96歳だった。告別式は近親者のみで行う。喪主は長男、豊氏。
 長野県松本市で生まれ、1941年に外務省に入省。同省アメリカ局長時代に、沖縄返還交渉を担当した。その後、外務審議官や駐独大使などを歴任した。
 沖縄返還で米側が支払う米軍基地跡地の原状回復費を日本側が肩代わりするとの密約を一貫して否定していたが、2000年に存在を裏付ける米公文書が公開。06年に一転して存在を認めた。
 09年には密約文書を巡る情報公開訴訟に証人として出廷した。
 テロップで、「反対のことを主張するなどして歴史を歪曲しようとすると、歴史をつくる国民のためにはマイナスになることが大きい」という氏の言葉が流されていました。
 この「沖縄密約問題」と深く関わった西山太吉氏が、『沖縄密約』(岩波新書1073)の中で、吉野氏について、こう記されています。
 それにしても、国家機密の王国ともいわれる外務省の高級官僚だった吉野が、なぜ、突然変異のように機密の真相を語りはじめたのであろうか。恐らく、外務省の幹部連は愕然としたに違いない。まさに、日本の近代から現代にかけての外交史上、例のない事件といってよい。しかし、吉野になんら動揺はない。いまなお訪れる記者にひるむことなく語り続けている。もはや、こわいものはなにもないといった風情さえ感じるほどだという。すでに夫人に先立たれ、ひとり身となった吉野は、90歳を前に、自らの外交官生活を回顧して、つかえていたものをはき出し、いいたいこともいって、自分なりの想いをまとめ上げたい衝動に駆られたのであろうか。
 往住記者によれば、吉野は長野県出身で幼少の頃、弁護士だった父親や叔父たちが小作争議や共産党員検挙に際し、その弁護や支援活動に奔走していた姿を見ながら育ったという。だとすれば、彼には"反骨"の血が流れていたといえる。
 同時に、吉野には、日本外交のあり方について、いいたいことが山ほどあったのではないか。彼は1969年から70年にかけての駐米公使時代、佐藤(※栄作)の「私設CIA」あるいは「忍者」(「オーラルヒストリー」)と呼ばれた二人の人物による闇の外交に手を焼いた。その過程で、彼の対米折衝などは"飾り物"に過ぎなかったことを身をもって経験した。さらに、沖縄協定調印の年の1971年初頭、本省のアメリカ局長に就任してからは、これまた大蔵省から理屈に合わないようなツケ(同前)を回され、結局は、条文化できないため、密約を背負いこむハメになるという苦々しい体験の持ち主でもあった。いわば、"きれいごと"(同前)にこだわり過ぎた佐藤によって、散々な目にあったというのが、彼の交渉に対する率直な感想であった。
 吉野発言以降、しばしば訪れるようになった記者たちに、「すべては、協定の批准が先決だった。あとは、野となれ、山となれの気持だった」と、ふつう、交渉当事者としてはタブーとされるような自棄的な表現を使ったのも、それなりに無理からぬ面があったのだ。だからこそ、協定発効後、25年が経過して、米国の秘密文書が開示され、沖縄密約の事実が続々と明らかにされるのを見るにつけ、長年支え続けてきた重しを、この際はずして、積もり積もった感懐を一挙にぶちまけたいという気持ちになったのではないだろうか。それは、若泉敬が、米国の例にならって25年の後、佐藤-ニクソンの核に関する秘密合意の議事録を暴露したのとは、ちょっと異なる動機だったといえよう。(p.206~7)
 なお若泉敬とは、沖縄返還交渉において、佐藤栄作の密使として重要な役割を果たした国際政治学者です。彼が、この交渉の経緯について著した『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋)は面白いですよ。
by sabasaba13 | 2018-02-21 06:29 | 京都 | Comments(0)

京都観桜編(16):本満寺(15.3)

 そして、穴場だという情報を得た本満寺へ。境内に入ると閑散としておりますが、桜は数本、しかも見ごろにはまだ早い。
c0051620_21331937.jpg

 ま、こんなもんかなと、本堂の方へ行くと…



すごい…

 ほんとに息を呑みました。いや、ほんとに。そこには見事な枝垂れ桜の巨木が屹立していました。均衡のとれた、そして滝のように流れ落ちる素晴らしい枝ぶり、たわわに咲き誇る桜花、その美しい孤高の姿には、心打たれました。迸る生命力をすら感じます。今回の旅で一番感動した桜ですね。何枚も写真を撮ったあと、しばらく見惚れていました。
 それでは「がんこ二条苑」へ向かいましょう。途中にある、シャープな意匠のビルは旧京都中央電話局上分局。1923(大正12)年に上電話局の局舎として、逓信省技師吉田鉄郎が設計した建築です。鉄筋コンクリート造で、周囲の景観に配慮してドイツ民家風の外観が取り入れられています。
 そして「がんこ二条苑」へ。こちらは和食の料理店ですが、小川治兵衛がつくった庭、高瀬川源流庭苑があります。紅葉のころに訪れたことがあるのですが、桜も多いかなと一抹の期待をもって訪れました。しかし、それほど多くなくちょっと残念。でも庭自体は、いつ見ても素晴らしいですね。
c0051620_2134167.jpg

 高瀬川沿いに走ると、満開の桜並木が見事でした。柳の若葉とのマッチングがきれいですね。公衆便所に入ると「棚にゴモク放かさんといてぇ~!」という注意書きがありましたが…ゴモクとはなんぞや? いま、インターネットで調べたところ、関西弁で「ゴミ」のことなのですね。合点合点。
c0051620_21345072.jpg

 本日の九枚、上から本満寺(6枚)、高瀬川(3枚)です。
c0051620_21355769.jpg

c0051620_21361379.jpg

c0051620_21362737.jpg

c0051620_21364235.jpg

c0051620_213710100.jpg

c0051620_21373171.jpg

c0051620_2138283.jpg

c0051620_21381720.jpg

c0051620_21383288.jpg

by sabasaba13 | 2018-02-20 06:34 | 京都 | Comments(0)

京都観桜編(15):上品蓮台寺(15.3)

 上品蓮台寺も穴場ですね。境内をうめつくす桜、桜、桜。すべて満開でないのがすこし残念ですが、訪れている人は数人、静謐な雰囲気の中、落ち着いた心持ちで桜花を堪能できました。
c0051620_21535659.jpg

 次は大徳寺、紅葉が素晴らしい高桐院ですが、桜はどうでしょうか。当たって砕けろ、試しに寄ってみましたが残念、はずしてしまいました。
c0051620_21541315.jpg

 近くあるのが大徳寺塔頭の孤篷庵(こほうあん)、小堀遠州が建立した寺院です。こちらには、知る人ぞ知る、知らない人は知らない名茶室、「忘筌(ぼうせん)」があります。茶の湯の嗜みはまったくないのですが、茶室と露地は大好きです。こちらもぜひ拝見したいのですが、原則非公開。ただ時々特別公開されるようなので、虎視眈々とチャンスを狙っています。指をくわえて眺めていると、テニスラケットをもった坊さんがすたすたとやってきて、中へ入って行きました。何となく悔しいぞ。余談ですが、国宝茶席三名席が、妙喜庵の待庵、大徳寺龍光院の密庵(みったん)、犬山有楽苑にある如庵。京都三名席がここ大徳寺孤篷庵の忘筌席と、曼殊院の八窓軒、金地院の八窓席。密庵は完全非公開ですが、それ以外は機会さえつかめば拝見できます。
c0051620_21551766.jpg

 そして大宮交通公園へ、ここは超穴場ということですが、残念ながら休園日でした。火曜日だから大丈夫だと思っていたのですが…やはりきちんと調べておかなければいけませんね。でも閉ざされた鉄扉越しに、満開の桜が何本も垣間見えました。再訪を期しましょう。
c0051620_21571625.jpg

 高野川にある半木(なからぎ)の道は、ソメイヨシノと紅枝垂れ桜の並木道です。桜のトンネルが遊歩道を覆う素晴らしい景観でした。紅枝垂れ桜は五分咲きだったので、ここも満開のときに再訪したいものです。爽快な気分でペダルをこいで川沿いに南下していきました。
c0051620_21573273.jpg

 本日の六枚、上品蓮台寺(3枚)と半木の道(3枚)です。
c0051620_21584094.jpg

c0051620_21585555.jpg

c0051620_2159784.jpg

c0051620_21592271.jpg

c0051620_21594058.jpg

c0051620_21595389.jpg

by sabasaba13 | 2018-02-19 08:29 | 京都 | Comments(0)