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仁淀川編(5):自由民権記念館(15.8)

 たいへん充実した展示内容でしたが、残念ながらじっくり見る時間もありません。流しながら展示を拝見していると、「土佐弁憲法九条」がありました。面白いので転記します。
 もう絶対に戦争はせんぜよ。
 戦争は止めた。ほんで戦争をする力や権力は認めんぜよ。

 日本の国の主人公の自分らあは、人間としての道理・すじ道・きまりのある生き方をせんといかん。
 それにゃあ、国同士の間で、揉めごとが起こっても、真心をもって話し合いをせんといかん。力づくや脅かしはいかんぜよ。
 国の戦争をする権利はもちろんのこと、戦車や軍艦・地雷や原爆・戦闘機らあは持たん。持たせんぞ。
 国同士・人間同士、殺しあう戦争は、揉めごとのおさめにするこたあいかん。
 よその国と、今までにあったこと、したことらを忘れられんぞ。
 これから先、どんなことがあったち、殺し合いはやめる。
 こりょう、守るというこたあ、まっこと大事じゃ。陸も海も空も世界はひっとつや。
 人間としての尊厳を大事にして、戦力は持たんぜよ。国が戦争する権利は一切無いぜよ。戦争はせん。戦争はまっことせん。させんぜよ。
 イワン・イリイチ言うところのヴァナキュラーな(民衆固有の、日常の)言葉で語られる平和、いいですねえ。余談ですが、話題になった『日本国憲法を口語訳してみたら』(塚田薫 幻冬舎)ではこうなっています。
第9条 俺たちは筋と話し合いで成り立ってる国どうしの平和な状態こそ、大事だと思う。だから国として、武器を持って相手をおどかしたり、直接なぐったり、殺したりはしないよ。もし外国となにかトラブルが起こったとしても、それを暴力で解決することは、もう永久にしない。戦争放棄だ。
2項 で、1項で決めた戦争放棄をいう目的のために軍隊や戦力を持たないし、交戦権も認めないよ。大事なことだから釘さしとくよ。(p.20)
 こうなったら津軽弁やウチナーグチでも聞きたいところですね。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2018-05-31 06:18 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(4):自由民権記念館(15.8)

 鏡川を渡り、ガタコンガタコンと走り抜ける路面電車と競争しながらペダルをこぎ、自由民権記念館へと向かいます。なお山ノ神のサングラスが破損したので、途中にあったコンビニエンス・ストアで瞬間接着剤を購入。これが後に、思わぬところで役に立ちました。
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 そして自由民権記念館に到着。公式サイトより、設立の趣旨について引用します。
 「自由は土佐の山間より」といわれるように、近代日本の歴史に土佐の自由民権運動は大きな役割を果たしました。高知市は、この壮大な日本最初の民主主義運動の高まりの中で誕生しました。高知市制100周年を記念するに当たり、自由民権運動の資料を中心に土佐の近代に関する資料を広く収集・保管・展示して、確実に次の世代へ引き継いで行くために自由民権記念館を建設しました。自由民権記念館は、自由民権運動と土佐の近代史から学び、その意義を現代および未来に生かすものとして市民自治と文化の新たな発展に寄与することを目的としています。また、高知市民・県民が誇る最大の財産である自由民権の思想を継承・発展させ自由民権記念館を高知市の新たな100年へのシンボル施設とします。
 うーむ、"壮大な日本最初の民主主義運動"か… 気持ちはわかるし、確かにその通りだと思いますが、自由民権運動にはさまざまな陰影や複雑な襞があったことも忘れずにいたいものです。不勉強の故、それをまとめる力は私にはありませんが、識者による指摘をいくつか紹介してお茶を濁します。
(片山杜秀) さて、暴力的な反乱が鎮圧されると、士族の怒りは自由民権運動というかたちで展開します。自由民権運動というと、デモクラシーの萌芽のように言われますし、たしかにそういう側面もあるのですが、事の起こりを見れば、薩長だけがいい思いをしていることに対して怒った士族たちが「自分たちも政治に参加させろ」という動機で動いていた面が強くありました。(『近代天皇論 -「神聖」か、「象徴」か』 片山杜秀・島薗進 集英社新書0865 p.78)

 自由民権運動とは、政府に向かって「国民の権利」を要求すると同時に、民衆に向かって「国民としての自覚」を喚起する、すぐれて国民主義的な運動であった。
 要するに、自由民権運動と明治政府は、近代国家の建設という基本的な目標を共有していたのであり、しかも、地租改正や自由主義経済などの基盤は、すでに政府が実現させていた。にもかかわらず、政府は国民の政治参加を拒否したから、民権派とは対立せざるをえなかったし、基本的な価値観と目標を共有したからこそ、両者はかえって激しく敵対しなければならなかったのだ。だとすれば、この時期の政治的対抗関係は、政府と民権派の二極対立ではなく、両者と異なる位相に立つ民衆を加えた三極関係としてとらえたほうがよいだろう。戊辰戦争期や西欧市民革命期の民衆の位置づけと同じである。
 同時に、民権派への共感を媒介にして、民衆のなかに「愛国心」や「天皇」が浸透したことも見逃せない。国家は人民と政府からなっており、国家と政府を同一視してはいけないと民権派は強調した。これは現在のわれわれも忘れてはならない視点だ。(『日本の歴史13 幕末から明治時代前期 文明国をめざして』 牧原憲夫 小学館 p.272~3)

 自由民権運動は、その「血なまぐさい」空気をたっぷり吸って発展してゆく。育ちざかりに吸った匂いは、その後の運動にまつわる一種の体臭ともなるだろう。
 ともあれ、西南戦争の折、高知立志社が岐路に立たされた三つの道、武力・言論・テロの、その第二の言論への道へ戦後の民権運動がすんなり移行したとは言えなかった。ひたむきに第三の道へつき進む者たちもいた。
 彼らの眼にもっとも大きく映ったのが、ワンマン大久保の頑固一徹、保守反動の巨影だった。(『日本の百年2 わき立つ民論』 松本三之介 ちくま学芸文庫 p.49)

(中島岳志) なぜ「愛国」という言葉で、板垣は自由民権運動を語ろうとしたのか。それは、彼にとって自由民権運動は、天皇のもとで「一君万民」を実現する愛国運動であり、万民の平等によって封建政治を打ち破ろうとするものだったからです。(『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』 中島岳志・島薗進 集英社新書0822 p.41)

本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-05-29 06:31 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(3):高知(15.8)

 得も言われぬ意匠の門柱を撮影して百足屋社屋へ。円筒形につきでた階段室やファサードのピラスターが印象的な社屋で、竣工は1951(昭和26)年だそうです。ワイシャツの卸などを営まれている会社で、靴下も扱っているそうです。さすがは「むかで」屋。
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 そして「日本三大がっかり名所」のひとつ、はりまや橋を撮影。なお「がっかり名所」については、札幌時計台、首里城の守礼門長崎オランダ坂京都タワー、名古屋テレビ塔、大仙陵古墳などいろいろと取り沙汰されていますが、私見でははりまや橋がダントツの第一位ですね。第二位が仙台の青葉城、倉敷は再訪して評価が上がったのでランク外としましょう。以前に見かけた銘菓「かんざし」の顔はめ看板もご健在でした。「とさけんぴ」の顔はめ看板と、アンパンマンの石像もついでに撮影して、そろそろ昼食にしますか。
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 郷土料理「司」に入って、鯛そうめん、かつお丼、かつおのたたき、あおさのりの天ぷらを注文し、ふたりで分け合いました。
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 それでは自由民権記念館へと参りましょう。そうそう、ペダルをこいでいて気がついたのですが、地元資本の喫茶店をよく見かけました。喫茶店と古本屋と銭湯の多い町って大好きです。
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 そういえば、『路地裏の資本主義』(平川克美 角川SSC新書231)に、次の一文がありました。
 これらの理由以上に喫茶店減少に拍車をかけたのは、日本人のライフスタイルの変化だろうと思います。どういうことかと言うと、喫茶店の椅子に座ってボーッと半日を過ごすような人間が生きていくのが、難しい時代になったということです。当時の私が、今を生きていることを想像すると、アルバイトの収入では食べるのがやっとで、コーヒー代を払って無為の時間を過ごす余裕は、どこを探しても見つからないように思えます。
 あの頃は、何であんなに余裕があったのだろうかと不思議です。喫茶店主にしても、お客にしても、非効率のモデルのような場所が喫茶店だったのです。それでも、町のあちこちに喫茶店が存在し、やっていけたわけです。無為の時間を生み出す場所がやっていける時代だったのです。
 喫茶店での無為の時間とは、本を読んだり、書き物をしたり、議論を戦わせたりする時間であり、文化が育まれる場所でもありました。こういう文化自体が廃れ、人々は駅前で朝のコーヒーを飲んで仕事へ向かい、バリバリと稼ぎを増やすことに熱中し始めました。
 いやそうしたくてしているわけではなく、そうせざるを得ないから時間を刻んでいるのです。いつの間にか、日本は東アジアの発展途上の文化国家というよりは、経済発展が極点にまで達した経済大国になっていたということです。(p.71~2)
 やれやれ、経済成長などしなくてもよいから、"喫茶店の椅子に座ってボーッと半日を過ごすような"方々が増えてほしいものだし、自分もそうなりたいですね。そこから、さまざまな文化やアイディアが生まれるものだと思います。アベノミクスに騙されて尻の毛まで抜かれる前に、「失業なきゼロ成長」と「無為」について本気で考えてみたいものです。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2018-05-27 08:29 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(2):高知(15.8)

 2015年8月上旬、羽田空港からANA 561便に搭乗して、高知へと飛びました。天気は快晴、気分も上々…この時までは。富士山がきれいに見えるかなと期待したのですが、そこだけ積乱雲が発生して山を覆い尽くしています。無念。やがて高知県の海岸線が見えてきました。
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 そして午前九時過ぎに高知龍馬空港に着陸、ここから空港連絡バスでJR高知駅へ。トイレを拝借しようとすると、表示が日本語・英語・ハングル・中国語で記されていましたが、中国語が二つあります。略字が完全に普及していないのかな、よくわかりません。ご教示を請う。ここにあった高知県おもてなしキャラクターは「まち・ゆうき君」。まち・ゆうき? まちゆうき…土佐弁のまっちゅうき、か。ポン(膝を叩いた音) また「身体の不自由な方の設備です。長時間の御利用はご遠慮下さい。中高生の喫煙は見つけ次第に通報します。」という注意書きもありました。高知の中学生、なかなかやるでねが。
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 そして駅前にある観光案内所に寄って、観光パンフレットをもらい、自転車を借りました。
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 無料というのが嬉しいですね。今夜の宿、宝来荘へは公共輸送機関がないので、「狩山口」というバス停まで迎えにきてくれるよう連絡を入れてあります。それまで高知市内を自転車で散策することにしました。駅前に出ると、武市半平太先生像・坂本龍馬先生像・中岡慎太郎先生像が揃いぶみ。そしてアンパンマンとバイキンマンの石像がありましたが、何故? ポン(膝を叩いた音) そうか、やなせたかしは高知の出身なんだ。
 まずは、中江兆民誕生の地を訪れましょう。事前に調べて、印刷した地図を持ってきたのですが、道に迷って右往左往してしまいました。でも犬も歩けば棒に当たる、戦前の物件らしい古い橋に出会うことができました。そしてようやく発見。
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 解説を転記します。
中江兆民 (1847~1901)
 自由民権の思想家。フランス留学から帰国後「民約訳解」によってルソーの思想を紹介し、また「東洋自由新聞」「政理叢誌」等に自由民権論を発表した。第1回衆議院議員に当選したが民党一部の行動に憤激して辞職。「三酔人経綸問答」「一年有半」等の著作がある。
 なお兆民の長男である中江丑吉も、かなりの傑物です。中国を愛し、北京に住んで中国思想やカント、ヘーゲル、マルクス、マックス・ウェーバーの研究に一生を捧げた在野の知識人で、鋭い知性と観察眼によって枢軸国側の敗北を確信し、私的な立場から警告を発し続けた方です。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2018-05-25 06:32 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(1):前口上(15.8)

 「あー打率がわるい!」 山ノ神の裂帛の叫びが、轟きわたります。彼女はいま、シューマンの『森の情景』を練習しているのですが、「寂しい花」に四苦八苦しているようです。それにしても打率とは…言い得て妙ですね。ピアノは打楽器ですから。

 閑話休題。

 以前、大久野島に泊まったときに、テレビで四国を流れる清流、仁淀川のことを紹介していました。四万十川は行ったことがあるのですが、この川は初耳です。「仁淀ブルー」と呼ばれる、それはそれは美しい青色に眼を奪われました。行ってみたいものだと思いながら、幾年月。2015年の夏に一念発起して、山ノ神と一緒に訪れることにしました。
 宿ですが、インターネットで調べたところ、観光地化があまり進んでいないようで、付近にはあまりないようです。仁淀川水系のなかでもっともきれいだという安居渓谷にある「宝来荘」のバンガローに五泊することにしました。そして中津渓谷や岩屋川渓谷に足を伸ばせる森の「井上旅館浪漫亭」に五泊という旅程にしました。高知龍馬空港への往復飛行機を予約して準備は万端。もっていくものは、インスタントのドリップ式コーヒー、帽子、サングラス、トレッキングシューズ、水着、杖、酒、煙草、地図、お金、予備の眼鏡。なお「宝来荘」のバンガローにはテレビがないとのことなので、非常用の小さなラジオを持っていくことにしました。今回の旅はがしがし歩き回らずに、のんびり過ごすつもりなので、本はたくさん持っていきましょう。ピックアップしたのが、『朝鮮戦争(上・下)』(デイヴィッド・ハルバースタム 文春文庫)、『嗤う日本の「ナショナリズム」』(北田暁大 NHKブックス)、『昭和天皇の戦後日本』(豊下楢彦 岩波書店)、『新自由主義 その歴史的展開と現在』(デヴィッド・ハーヴェイ 作品社)、『反貧困』(湯浅誠 岩波新書)、『イラクとアメリカ』(酒井啓子 岩波新書)、『能力主義と企業社会』(熊沢誠 岩波新書)の七冊です。清流を眺めて泳いで、部屋でビールを飲んで昼寝をして、本を読んでまた昼寝。うわお、社会復帰できなくなりそうな日々ですね。ほんとにそうなるかどうかは、わかりませんが。
by sabasaba13 | 2018-05-23 06:27 | 四国 | Comments(0)

言葉の花綵176

 かっこいい 理くつはいわぬ母たちが 一ばん先に座りこみに行く (高井としを)

 昔も今も、社会のしくみを知らない弱い者が一番損をしているのや。(高井としを)

 俳優の創造とは、役を演じることにではなく、その役を生きることにある。(スタニスラフスキー)

 男女の愛を前提としないで人口増加を続けるくらいなら人類は死に絶えた方がよい。(トルストイ)

 人間の胃袋はカラになるとしぜんに爆発する。(布施辰治)

 人間は自由なものとして生まれた。しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているような者も、実はその人々以上に奴隷なのだ。(ジャン・ジャック・ルソー)

 人民がみずから承認したものでない法律は、すべて無効であり、断じて法律ではない。(ジャン・ジャック・ルソー)

 遺棄死体数百といひ数千といふいのちをふたつもちしものなし (土岐善麿)

 監督が、あの人はいい人だとしか言われなくなったら、その人はおしまいだ。(ルイス・マイルストン)

 偏見を得ようとするなら、旅行にしくはない。(unknown)

 街を走っている自動車は、あれは自動車ではなくて単なる足だ。どうせ足なら自転車のほうが健康にいい。(スターリング・モス)

 「お洒落」という、いささかインチキ臭い言葉よりも、身嗜みということを大切にしようではないか。(伊丹十三)

 美的感覚とは嫌悪の集積である。(unknown)

 政治家は、先ず、優れた歴史家でなくてはならない。(unknown)
by sabasaba13 | 2018-05-21 07:26 | 言葉の花綵 | Comments(0)

近江編(88):坂本~京都(15.3)

 それでは自転車を返却して京都へとまいりましょう。日吉大社のあたりからは、坂の向こうに琵琶湖を眺めることができました。半鐘がかかったシンプルな火の見櫓を撮影。
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 そして白壁の続く街並みを走っていると、あるお宅でバッタン床几を見かけました。観光案内所で自転車を返却して京阪電車の坂本駅から石山坂本線に乗って京阪膳所駅へ、JR琵琶湖線に乗り換えて京都駅に着きました。時刻は午後四時半、せっかくなので京都で見残した近代化遺産を見物することに決定。駅構内に「日本最大の塑像 大如意輪観音」という飛鳥・岡寺のポスターを発見。
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 そして近鉄京都線に乗り換えて伏見駅へ。駅近くにあった塀の下の方に、木製の小さな鳥居が貼りつけてありました。古典的な小便除けですが、はたして昨今効果はあるのでしょうか。その近くには「お宝・不用品現金化」という道具屋さんのポスターが貼ってありましたが、さすがは歴史のある町ですね。
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 歩くこと十五分ほどで、お目当ての竹田火の見櫓に着きました。長年の風雪を耐え忍び、背筋を伸ばして屹立するその姿には神々しささえ感じます。近くに解説があったので転記します。
 竹田火の見やぐらは、京都市の南部に位置し、北は近鉄京都線、東は竹田街道、西は東高瀬川に囲まれた地域の中心部に、大正12(1923)年8月に設立した竹田村消防組第二支部の装備品として建設され、以後、近隣町内の防火、防災活動に役割を果たしてきた。火の見やぐらは、江戸時代までは木造で作られていたが、近代に至り、製鉄技術の発展に伴って鉄骨造のものが建設されるようになった。しかし、都市環境の変化に伴い、現存するものは少ない。
 竹田火の見やぐらは、鉄骨造としては初期の形態を残しており、また構造部材も当時の国内の製鉄技術を知るうえで、貴重な文化財的建造物であることから、地域住民からの保存要望を受けて、中央緑地敷地内に移転、保存したものである。
 いつまでもお達者でとエールを送って火の見櫓にお別れし、伏見駅から近鉄で京都駅に戻り、JR嵯峨野線に乗り換えて二条駅へ。ここから十数分歩くと、日本聖公会京都聖三一教会に到着です。竣工は1930(昭和5)年、ハーフティンバー様式の瀟洒な教会です。設計はバーガミニー、聖路加国際病院の設計にも関わった建築家ですね。

 見るべき程の事は全て見つ、それでは帰郷しましょう。二条駅に向かう途中で、「御近所の皆様へ 瓦が落下するおそれがあります 危険につき御注意ください!!」という貼り紙のある崩壊寸前の家を見かけました。
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 二条駅近くには、「Times」と「MOS BURGER」の看板がありましたが、いずれも白を基調としたおとなしいものです。景観への配慮か、あるいは地域住民からの要望ゆえか。
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 そして京都駅に戻り、「京都牛膳」という駅弁を購入して新幹線に乗り込みました。駅弁に舌鼓を打ち、時おり車窓を流れる夜の闇を見ながら、次なる旅行、京都観桜の旅に思いを馳せました。このひと時が楽しいのですね。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2018-05-19 06:32 | 近畿 | Comments(0)

近江編(87):坂本(15.3)

 JR湖西線に七分ほど乗って比叡山坂本駅に到着。観光案内所で自転車を借りて、坂本の散策です。比叡山延暦寺の門前町として栄えた町で、山上での修行を終えた老僧に与えられた里坊と庭園が散在しています。または穴太(あのう)衆と呼ばれる石工集団の出身地であり、彼らが積み上げた堅固な石垣も見ものです。
 落ち着いた雰囲気の町並みを走っていると、ひと際目立つ恰幅のよい蕎麦屋がありましたが、ここが有名な「鶴喜そば」ですね。
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 石垣や清流を愛でながらペダルを踏んでいると、天台座主となった皇族の居所であったため高い格式を誇る滋賀院門跡に着きました。まずは見事な穴太積みの石垣を堪能。
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 そして拝観料を払い、小堀遠州作と伝えられるお庭を拝見しました。縁側から眺める池泉鑑賞式庭園で、幸いなことに参拝客は私一人。大きな池とそれを取りまく石の饗宴、見事な石橋、滝の音、そして木々の緑。心身に積もった俗塵が洗い流されるような静寂な雰囲気にしばしひたりました。
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 そして比叡山坂本ケーブルの坂本駅へ。昭和初期に建てられた、ヨーロッパの山荘風の洒落た駅舎です。ほんとうはケーブルカーに乗って、頂上の延暦寺駅も見たかったのですが、時間がないため省略しました。無念。なお近くに「長さも景色も日本一」という、ケーブルカーの宣伝がありました。以前に一度、乗ったことがあるのですが、たしかに素晴らしい眺望でした。お薦めです。
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 最後に日吉大社に立ち寄って、日吉三橋と呼ばれる古い石橋を撮影。大宮橋、走井橋、二宮橋、神々しく清冽な雰囲気の中に静かに両岸をつなぐその佇まいに、しばし見惚れました。『かくれ里』(白洲正子 講談社学芸文庫)の中に、次のような一文がありました。
 近江には、優れた石仏が多く、狛坂廃寺の石仏(奈良時代)をはじめ、花園山中の不動明王(鎌倉)、比叡山西塔の弥勒菩薩(鎌倉)、鵜川の四十八体仏(室町)など、それぞれの時代にわたって、美しい作を見ることが出来る。石仏だけでなく、他の石造美術にも傑作が多いが、中でも特筆すべきは、日吉神社の石橋であろう。
 これは天正年間に秀吉が奉納したもので、一の鳥居を入ったところ、紅葉にかこまれた大宮川の清流にかかっている。上流から、大宮橋、走井橋、二の宮橋の順に並び、堂々としていながら少しも重苦しさを感じさせない。お正月か、年の暮か、忘れてしまったが、風花が舞う日に私は、この橋の上で、神主さんの一行と出会ったことがある。十人近くもいただろうか。白一式の、粛々とした行列で、小さな祠や、〆縄をはった木や石に、無言の祈りを捧げて行く。参詣人は一人もいず、寒空にひびくのは、柏手の音ばかり。それはみるからに清々しい、神さびた祭りの光景であった。(p.95~6)

 本日の八枚です。
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走井橋
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大宮橋
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二宮橋
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by sabasaba13 | 2018-05-17 06:23 | 近畿 | Comments(0)

近江編(86):堅田(15.3)

 それでは出島(でけじま)の灯台へと向かいましょう。途中に、朽ちた舟が水路に沈む味わい深い風景があったので写真におさめましたが、永楽というところです。そして灯台に到着。キリンのような姿をした愛らしい灯台ですが、その由来が解説板にあったので転記します。
 琵琶湖の最狭部に位置する今堅田の岬の先端に、明治8(1875)年建てられた他に類を見ない木造の灯台です。
 高床形式で四隅に立つ四本の柱と、中心に立つ支柱の計五本の柱で支え、高さ約7・8メートルの支柱の頂部に火袋を取付けます。光源は大正7(1918)年まではランプを使用し、それ以後電灯に切り替えましたが一度途絶え、平成元(1989)年地元有志により点灯が再開されました。
 昭和36(1961)年9月の第二室戸台風により倒壊寸前の状態となりましたが、地元の熱心な保存運動により、昭和48(1973)年、今日見る姿に復旧されました。
 それでは自転車を返却して、堅田駅へと戻りましょう。途中で崩れそうになりながらも健気に営業されている(のかな)銭湯「港湯」を撮影、泡風呂というのが気になりますね。大津市観光キャラクター「おおつ光ルくん」のポスターがあったのでこちらも撮影、以前に石山寺でお目にかかったと記憶しております。
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 「湖族の郷資料館」で自転車を返却してバスで堅田駅へ。駅構内には、伊藤蘭をモデルにした「おとなび」のポスターがあったので思わず撮影。はい…えーと…実は…ファンです。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2018-05-15 06:34 | 近畿 | Comments(0)

近江編(85):堅田(15.3)

 そして満月寺浮御堂へ。恵心僧都源信によって、湖上の安全と衆生済度を祈願して建立されたと伝えられる、琵琶湖につきでたお堂です。いやあ絶景かな絶景かな、お堂に行くと、琵琶湖を一望することができました。
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 「近江八景」のひとつ『堅田の落雁』として古くからその情景が愛されてきたのも頷けます。
 余談ですが、「近江八景」とは、比良の暮雪、堅田の落雁、唐崎の夜雨、三井の晩鐘、粟津の晴嵐、矢橋の帰帆、瀬田の夕照、石山の秋月のことですね。最近読んだ『シリーズ日本近世史③ 天下泰平の時代』(高埜利彦 岩波文庫)の中で、「近江八景」のことが記されていたので紹介します。
 明からの渡来者がもたらした影響として、もう一例を加えることにする。近江八景や金沢八景の八景とは何か。もちろん八つの景色の意味だが、これは「瀟湘八景」という中国の景勝地を見立てたものである。…中国の長江中流の洞庭湖に注ぎ込む湘江と支流の瀟水の流域一帯を「瀟湘八景」と称え、これを価値ある景勝地として、日本にも禅僧たちにより中世期から伝えられた。この「瀟湘八景」という異文化の価値に、琵琶湖周辺の湖水と寺院や山並みなどの風景を見立てて近江八景と呼び、近世初頭に歌人として名声の高かった後陽成天皇や近衛信尹が和歌を詠んだことで、近江八景を景勝地として定着させることになった。(p.136~7)
 なお先代の浮御堂は1934(昭和9)年の室戸台風で倒壊してしまったため、現在のお堂は1937(昭和12)年に再建されたものだそうです。

 そして居初(いそめ)氏庭園へ。古くから運送、漁業などの湖上特権を得、江戸時代には大庄屋として地域に貢献してきた堅田湖族三家のひとつ、居初家の屋敷内に広がる名勝庭園です。琵琶湖や湖東の山々を借景とした見事な枯山水庭園だということで楽しみにしていたのですが、休館日でした。無念。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-05-13 06:20 | 近畿 | Comments(0)