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九月、東京の路上で

c0051620_20494381.jpg 九月一日がやってきます。そう、1923年に関東大震災が起きた日、そして朝鮮人・中国人らに対する日本軍・警察・民衆の虐殺が始まった日です。その歴史的背景や起きた状況、責任の所在、その後の経過などが知りたくて慰霊碑や史跡をまわりいろいろと調べています。それについては拙ブログに掲載していますので、よろしけばご覧ください。その結果つくづく感じたのは、弱者に対する侮蔑・差別・暴力という底知れぬ闇が、この国の近現代史に潜んでいるのではないかということです。さらに今に至るも、日本政府はきちんとした調査をしておらず、ましてや謝罪や賠償なども一切しておりません。彼らの常套手段、「なかったことにしてしまう」ということでしょう。やれやれ恥知らずにも程があります。
 この虐殺の重大性について教示してくれたのが加藤直樹氏の『九月、東京の路上で』(ころから)という一冊です。氏によると、そのきっかとなったのが、東京・新大久保などで「在日特権を許さない市民の会(在特会)」などによるデモです。カタログハウスのインタビューから引用します。
 たぶん「朝鮮人を殺せ」という集団が現れて、街中を堂々と練り歩くというのは、関東大震災以降で初めて起こったことです。そして、関東大震災のときにはその「殺せ」が実行されてしまったわけで……単なる過去としてではなく今を考えるためのきっかけとして、関東大震災の記憶を共有することが絶対に必要なんじゃないかと思いました。それで、反対行動に一緒に参加していた友人たちと相談して、朝鮮人虐殺に関する記録を綴るブログをはじめたんです。
 そのブログをまとめたのが本書です。その本にインスパイアされた坂手洋二氏が劇化・演出し、彼が主催する「燐光群」が上演するというニュースを知りました。そのいきさつについて、坂手氏はパンフレットの中でこう述べられています。
 そしてそれ以上に、災害事故ではない、差別が暴力として爆発した「朝鮮人の虐殺」という、厳然たる歴史上の事実に、戦慄した。今回の企画のために資料を集めても、なかなかその全貌がつかめない。多くの証拠は隠滅されている。そして今も、やはり隠されている。この社会から隠そうとする者たちの意志を、感じる。
 昨年九月、加藤直樹さんに誘われ、「朝鮮人虐殺犠牲者追悼式典に対しての追悼メッセージ送付を取りやめた小池百合子知事の決定に抗議する声明」を出す連名に加わった。
 追悼メッセージ送付取りやめは、史実を隠ぺいし歪曲しようとする動きに、東京都がお墨付きを与えてしまうことになる。それは追悼碑そのものの撤去にまで進むのではないか。差別による暴力を容認することで、災害時の民族差別的流言の拡散に再びつながってしまうのではないか。新たな事件が起きることを誘導してしまわないか。と、この声明は指摘している。
 その機会に、あらためて「九月、東京の路上で」を読み、これを劇にしようと思った。
 山ノ神が所用で忙しいので、一人で東京都世田谷区下北沢にある「ザ・スズナリ」に行きました。目の前がすぐ舞台という小さな劇場ですが、嬉しいことにほぼ満席。得も言われぬ熱気が伝わってきました。
 劇は、東京都世田谷区にある烏山神社に、『九月、東京の路上で』を持参した13人の男女が集まる場面から始まります。彼ら/彼女らは2020年東京オリンピックに向けて町おこしを計画している方々で、この神社には虐殺された朝鮮人13人を慰霊するために13本(※12本?)の椎の木が植樹されたという話を知り、これを町おこしに使えないかと考えます。(現存するのは4本) しかし本を読む進めると、この椎の木は慰霊のためではなく、虐殺に関与して起訴された地元民12人が釈放された際に、彼らを顕彰するために植えられたのではないか、ということが分かってきます。なおこの事件の詳細については、拙ブログの当該記事をご覧ください。また歌手の中川五郎氏が、この事件を題材として「トーキング烏山神社の椎ノ木ブルース」という曲を作り歌われています。
 そしてここから時空は95年前に遡り、本で綴られたさまざまな虐殺事件の様相を、13人の役者が入れ代わり演じ、再現していきます。いずれもいろいろな研究書を読み、知っていた事件ですが、生身の人間が眼前で迫真の演技で再現してくれたために、まるでその場に居合わせたような錯覚すら覚えました。虐殺事件のおぞましさ・卑劣さ・下劣さをあらためて体感することができたと同時に、もしその場に自分が居合わせたらどうするだろう、という問いかけも沸き起こりました。一緒に暴行を加えてなぶり殺すか、傍観するか、体を張って制止するか、足早にその場を立ち去るか。正直に言って…わかりません。もちろん制止するのが人間としての義務だと思いますが、そうしたらどうなるか。肌に粟が生じます。
 そして時空は現在へと戻り、13人が烏山神社を再訪すると、4本の椎の木は伐採されて金網がまわりを囲っています。彼ら/彼女らが金網の中に入り訝しんでいると、突然レイシストの大集団が13人を取り巻いたことが大音声で表現されます。と同時に、役者たちによって金網が動かされ観客席を囲み、観客も同じ立場に置かれます。暴走するレイシストの恐怖を感じさせてくれる演出でしたが、もう一工夫した外連味のある演出でもいいのでは。当時の朝鮮の方々が感じたそれの何分の一でもいいから、顔面蒼白となるような真の恐怖を味あわせてほしかったと思います。

 熱のこもった、そして真摯な芝居でした。機会があったらぜひ多くの人に見ていただき、かつて東京などで起きた凄惨な事件を知ってほしいと思います。そしてこの事件に対して、私たちはきちんと向き合い清算をしていないことも。パンフレットにあった「ここはほんとうに、オリンピックにふさわしい場所なのか」という言葉を噛み締めながら。
 なお東京新聞(18.8.2)によると、小池百合子都知事は朝鮮人追悼文の送付を今年も控えるそうです。
 東京都の小池百合子知事は一日、知事就任から二年の節目となる二日を前に本紙の単独インタビューに応じた。毎年九月に都内で営まれる関東大震災で虐殺された朝鮮人犠牲者追悼式で、歴代知事が送ってきた追悼文の送付を昨年取りやめた問題で、今年も送付しないと明言した。追悼文送付を求めて署名を集めている市民団体は近く、小池氏に面会を要請して署名を手渡し、再考を訴えたいと希望している。
 小池氏は、都慰霊協会が主催する関東大震災の大法要で、「都知事として全ての犠牲者に哀悼の意を示している。個別の形での追悼文の送付は控える」と、昨年と同じ理由を説明。「慰霊の気持ちには変わりはない」とも付け加えた。
 都民らからは反発の声が上がる。追悼式を主催し、署名に取り組む市民団体の一つ、日朝協会都連合会の赤石英夫さん(77)は「震災の犠牲者と、人の手で虐殺された死は違う。その事実を認めず、埋没させるのは負の歴史を反省せず、現代において民族排外主義やヘイトスピーチの容認にもつながる」と批判する。
 署名は約八千人と百三十近い団体から集まっている。「事実を忘却させず、二度と同じ過ちを繰り返させない」と訴える内容だ。
 朝鮮人虐殺を伝える劇を東京都世田谷区で上演中の劇団「燐光群」の坂手洋二さん(56)は「五輪の国際協調の精神を尊ぶのなら、送付をやめるのは問題。加害者であった事実を葬り去り、歴史を捏造する動きに拍車をかける」と憂える。
 朝鮮人虐殺を扱う企画展を開催中の認定NPO法人高麗博物館(新宿区)の新井勝紘館長(73)は「朝鮮人というだけで殺してしまった、その歴史の中での重みを知事は理解されてないのか」と残念がった。
 追記です。当時の日本人がなぜ朝鮮人に対して、強烈な差別意識を持ったのか。その理由の一つとして、中野敏男氏が『詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」』(NHKブックス1191)の中で、次のように述べられています。長文ですが、引用します。
 それにより見えてきたことは、植民地帝国=日本の拡大という時代状況であり、またその趨勢に乗りながら自ら植民地主義を担って日本の外に移動していく民衆の姿でした。日本国家として対外的な拡張という前途が開かれているこの時代の中で、それに加担して移動する個々の民衆の心情は、一方でそこに開かれた経済的・社会的なチャンスをものにしようという渇望と野心に満ちていたのでしたが、他方ではもちろん異郷に向かう大きな不安に苛まれるものでもあったでしょう。このような植民地拡張の時代に、人々は「さすらひの唄」や「流浪の旅」にその不安な心情を仮託して歌い、郷愁をかき立てる詩歌曲の抒情に慰めを求めていたのです。しかしそこにわだかまる不安は、やがて立ちふさがる他者への不信や敵意につながり、この他者への蔑視や偏見を生み出し、それがまた倒錯した被害者意識にも結びついて、その極限では攻撃的な暴力として爆発していく。そんな事態がまさに現実のものになっているという意味で、関東大震災に襲われたその頃は、植民地主義への参与が民衆の心情を大きく揺り動かす時代に入っていたということです。
 そのような時代状況を理解すると、この時代の民衆が北原白秋の童謡に深く心を揺さぶられた理由もよく感得できるとわたしは思います。小笠原への旅の体験、そこで受けた二つの傷の痛みを癒すべく白秋自身が童心主義に光を求めたように、異郷に向かう植民者・移住者たちがその不安ゆえに白秋童謡に表現された郷愁に強く惹きつけられ、そこに示された「優しさ」や「童心」に日本人の本質を見出すことで癒される、そんな心情の機制がここに作動していたということです。そう考えてみると、この時代に特に広がった詩歌曲の抒情への関心と民衆の植民地主義との照応関係がよく理解できます。わたしたちは、1919年に朝鮮で三・一独立運動が起こり、21年には日本で「流浪の旅」が流行し白秋は「童謡復興」を唱えていて、その翌々年である23年に関東大震災という大災害がありその時に朝鮮人虐殺も起こったという、この一連の事実の同時代性を忘れるわけにはいきません。この震災を前後する文化史の流れの底には、植民地主義と移動の時代に翻弄されている日本民衆の心情の強い不安や揺らぎが、確かに読み取れるだろうと考えるからです。(p.97~8)

by sabasaba13 | 2018-08-31 06:54 | 演劇 | Comments(0)

言葉の花綵181

 愛国心とは、ならず者達の最後の避難所である。(サミュエル・ジョンソン)

 今日の大きな悪魔は愛国心、愛国心が大戦をもたらすのだ。(チャールズ・スペンサー・チャップリン)

 ナショナリズムは小児病である。それは国家の麻疹(はしか)である。(アルベルト・アインシュタイン)

 不思議なことだ、いつの時代においても悪人は自分の下劣な行為に、 宗教や道徳や愛国心のために奉仕したのだという仮面を着せようとつとめている。(ハイネ)

 愛国心を持つなら地球に持て。魂を国家に管理させるな! (ジミ・ヘンドリックス)

 愛国心は人類愛と同一である。(マハトマ・ガンディー)

 最高の愛国心とは、あなたの国が不名誉で、悪辣で、馬鹿みたいなことをしている時に、それを言ってやることだ。(ジュリアン・バーンズ)

 愛国心とは喜んで人を殺し、つまらぬことのために死ぬことだ。(バートランド・ラッセル)

 愛国者は常に祖国のために死ぬことを口にするが、祖国のために殺すことについては決して語らない。(バートランド・ラッセル)

 恐怖心や愛国心によって人を殺すのは、怒りや貪欲によって人を殺すのとまったく同じく悪い。(ヘンリー・ミラー)

 愛国心と言う卵から、戦争が孵化する。(モーパッサン)

 人類から愛国心を叩き出してしまわないかぎり、あなたがたは決して平穏な世界を持たないだろう。(バーナード・ショウ)

 愛国心とは、自分がそこに生まれたという理由で、その国が他より優っているとする信念のことだ。(バーナード・ショウ)

 愛国心とは、道理を超えた自国崇拝である。(ジョージ・ジーン・ネイサン)

 憂国の士という連中がいて、彼らが国を滅ぼすのだ。(勝海舟)

 国の為に戦っても、国の為に嘘を吐きたくはない。(ゾーラ・ニール・ハーストン)

 愛国者と売国奴で国が真っ二つ。おまけにどっちがどっちか誰にも分からない。(マーク・トウェイン)

 国への愛を表明するのは、それに対する褒賞を期待している徴である。(ヘンリー・ルイス・メンケン)
by sabasaba13 | 2018-08-29 08:12 | 言葉の花綵 | Comments(0)

ジハード

c0051620_10223696.jpg 彩の国さいたま芸術劇場で開催されている「世界最前線の演劇」シリーズの『ジハード -Djihad-』の紹介記事を読んでいたく興味をひかれました。作者のイスマエル・サイディはモロッコ系移民の子として、ベルギーで生まれ育った方です。彼の元同級生がイスラム国の戦闘員となってテレビに映し出された姿を見て、"イスラム教徒の移民コミュニティで育った若者たちがいかにジハード(聖戦)に関心を示し、なぜ加担してしまうのか"を、演劇を通じて多くの人に伝える必要があると考え、生まれた作品です。2014年12月にベルギーで初演されると多くの議論と共感を呼び、ベルギー政府公認のもと国内の学校で教育の一環として上演されているほか、現在もヨーロッパ各地で上演され続けているそうです。
 さっそくチケットを購入して、山ノ神と一緒に彩の国さいたま芸術劇場へ行ってきました。JR埼京線与野本町駅から、カンカン照りの酷暑の中を喪家の狗のようになりながら十分ほど歩いて到着。ぜいぜい。山ノ神は何度もここに観劇に来ており、一昨年逝去された演出家の蜷川幸雄氏が芸術監督を務めていたと教えてくれました。なお役者の方々が所属する「さいたまネクスト・シアター?」も次代を担う若手の育成を目的として2009年に故蜷川幸雄氏が立ち上げ、以降公演を通した実践的な俳優育成を行っている若手演劇集団です。きっと蜷川氏の罵声と怒号に鍛え上げられた若き役者たち、素晴らしい演技を期待します。
 会場は、「NINAGAWA STUDIO」という愛称が付けられた大稽古場、殺伐とした粗削りな雰囲気がこの芝居にマッチしそうです。席は一番上、後ろの壁との間に隙間があって、覗き込むとまるで奈落です。これも登場人物の心象風景を予感させてくれました。
まずはパンフレットから、あらすじを引用します。
 ベルギーのブリュッセルに住む移民2世の若者、ベン、レダ、イスマエル。3人は「ジハード(聖戦)」に参加するため、内戦の続くシリアに旅立とうとしている。ベルギー社会とイスラム教コミュニティのはざまで、自分の愛するものを禁じられ、行き場のない思いを抱える彼らは「ここではないどこか」を求めていた。彼らは戦場で何を見つけるのか、そして愛と情熱の行方とは─。
 冒頭、イスマエル役の堀源起が語るモノローグの中で、「ジハード(聖戦)とは、より良い社会をつくるための格闘だ」という言葉が心に残りました。ジハード=自爆テロという私たちが抱えがちな偏見や予断を解きほぐすような一言です。ムスリムだって、キリスト教徒だって、仏教徒だって、無神論者だって、より良い社会を求めているだけなんだと信じたくなりますね。
 物語は、アラブ人移民二世青年三人組が、シリアでのジハードに参加するための資金づくりに四苦八苦する場面から始まります。漫画を描くのが趣味のイスマエル(堀源起)、信仰心が篤くエルビス・プレスリーが大好きなベン(竪山隼太)、信仰心が薄くキリスト教徒の白人女性と交際しているレダ(小久保寿人)。ベルギー社会で受ける差別に苛立つ一方、シリア内戦での悲惨な被害者たちへの同情心からシリアへ赴こうとする三人です。『9・11後の現代史』(講談社現代新書2459)の中で、酒井啓子氏がこう的確に述べられています。
 ヨーロッパ社会から疎外され、ドロップアウトしたイスラーム系移民二世が、「ひとかどの人物」になれる機会かもしれないと期待して合流したのが、ISだったのだろう。ISに限らない。後に触れるアルカーイダもまた、欧米在住のイスラーム教徒に対して、似たような勧誘を行っていた。そしてそうしたイスラーム系ヨーロッパ人の多くが、連日報道されるシリア内戦での被害者の無惨な姿を見、アサド政権やシリアを空爆する欧米諸国に一矢報いてやりたいと考えて、シリアに馳せ参じたのである。(p.40)
 なおこのあたりまではコミカルなタッチで笑いが絶えず、特にレダのボケとイスマエルのツッコミは抱腹絶倒でした。ブリュッセルから空路イスタンブールへ、そしてアレッポ、ダマスカスへと到着した三人ですが、そこは大義も正義もない殺戮の場でした。その恐怖と緊張と絶望を、三人は迫真の演技で表現しています。やがてベンは狙撃されて殺され、イスマエルとレダは自分たちの居場所はやはりブリュッセルしかないと帰国を決意しますが、そのレダもドローンによって殺されてしまいます。このレダは実に愛すべきキャラクターで、明るくて軽くて良い加減で優しく、こんな友人がいたらなあとすっかり感情移入していました。その彼が、遠隔操作で動く機械により匿名の加害者によって殺害される。劇とはいえ、激しい怒りを覚えました。実際に、友人や家族や恋人をドローンに殺されたら、どのような憤怒を感じるでしょう。絶対に殺されない安全な場所でぬくぬくとしながら、ドローンを操作してゲームの如く他者を殺害する卑劣な行為。テロリズムを生む温床の一つでしょう。
 一人ブリュッセルに帰ったイスマエルは職業安定所へ行きますが、ジハードに参加したムスリムということで「ここはあなたが来る所ではない」と言い放たれてしまいます。職がないことは殺されるも同然、緩慢なる恐怖、そう失業もテロリズムなのですね。絶望したイスマエルは胸をはだけて体に巻き付けたダイナマイトを見せ、起爆装置に手に掛けますが押すことに躊躇します。すると死んだベンが現われて自爆を促し、レダも現れて思い留まるよう説得します。彼は…

 いやあ素晴らしい劇でした。最後尾の席ということもあって、思わずスタンディング・オベーションをしてしまいました。ブラービ!
演出された瀬戸山美咲氏が、パンフレットの中でこう語られています。
 『ジハード -Djihad-』は、イスマエル・サイディさんが「今、自分たちがやらなければならない」という強い意志を持って生み出した作品です。その熱は広がり、ヨーロッパでは30万人以上の人がこの舞台を観ました。その中には、移民やイスラム教徒に対して偏見を抱いていた人もいたかもしれません。テロ組織に参加しようとしていた人もいたかもしれません。この作品を観たことで彼らの意識は少しだけ変わったかもしれません。「演劇に世界は変えられるか」という問いはよく掲げられますが、この作品は実際に世界を変え始めています。
 イスマエルさんたちの熱は日本まで届きました。そして堀源起さんたちが手を挙げてくれて上演が実現しました。さいたまネクスト・シアターのメンバーにとっても、この作品は「今、自分たちがやらなければならない」ことだったのだと思います。この戯曲は、「テロに参加する移民2世のムスリムの現実」という日本で暮らしていると少し遠く感じそうなことが書かれています。しかし、登場人物たちの抱く感情は、同時代を生きる私たちと通じるものです。居場所が見つけられずもがく彼らは、まるで私たちや私たちの友達のようです。
 そういった「わかる」感覚と、「わからない」ことのはざまを全員で行き来しながら稽古を重ねました。私たちの日常に置き換えられることもあれば、前提から積み上げていかなければならないこともありました。前提を知るために、人にお会いしたり、本を読んだりするうちに、日本にも同様の問題があることを知りました。私たちの身の回りには気づいていないだけで、たくさんの孤独が存在していました。今、あらためてこの戯曲を上演する意味について考えています。
 漫画やプレスリーの好きなありふれた若者が、差別によって居場所を奪われ自己実現の道を阻まれ、テロや暴力へと追いこまれていく。犠牲やリスクを少数者や弱者に押し付けて、多数者や強者が安穏に暮らす、そうした構造的な差別がなくならない限り、世界から暴力はなくならないのでしょうか。大きな視点から言うと、下記の状況だと思います。『9・11事件の省察 偽りの反テロ戦争とつくられる戦争構造』(木村朗編 凱風社)から引用します。
 世界自然保護基金(WWF)がエコロジカル・フットプリント分析(環境負荷や資源消費を面積に換算する手法)を用いて試算した「生きている地球レポート(Living Planet Report)」によると、世界中が「大量採取・大量生産・大量消費・大量廃棄」の「アメリカ式生活様式(American Way of Life)」を採用するならば、「五・三個の地球」が必要になるという。世界中が日本並みの消費をすると「二・四個の地球」が必要になるという。しかし、地球は一個しかない。「先進国(特に米国)の現存世代が第三世界と将来世代と自然界を犠牲にして豊かさを享受する石油文明」という構造的暴力を維持するために、戦争が必要」なのであろう。(p.178~9)
 そして"より良い社会をつくるための格闘"にどうやって加わるかについても考えさせられました。まずは私たちの身の回りにあふれている「差別」について関心を持ち、憤り、そうした状況を放置・黙認している政党の候補者にはびた一票投じないことでしょう。
 例えば沖縄。
ガリコ美恵子さんインタビュー 日本はパレスチナ弾圧の"共犯"になるのか

 7月に北海道パレスチナ医療奉仕団の招待で来日した、ショーファット難民キャンプの国連医療診察所所長、サリーム・アナッティ医師が沖縄を訪問してパレスチナに帰国後、「パレスチナの状況は沖縄とそっくりだ」と語りました。
 人権を顧みない国家権力に対して声を上げ、生きる権利を守ろうとする闘いは沖縄でも、ここパレスチナでも続きます。(『週刊金曜日』 1153号p.39)
 例えば福島。ぜひ『地図から消される街』(青木美希 講談社現代新書2472)をご一読ください。
 そして日本に逃れてきたクルド人の方々。
日本に暮らすクルド人 法の外で生きる フェデリコ・ボレッラ

 トルコの治安当局による迫害を逃れて家族とともに10年前に来日したAさんは、家族を養うためにさまざまな会社で道路工事や住宅の建設、下水道の整備などの仕事をしてきた。仮放免の許可書を手にしながら身の上を語る彼は、日本への入国時に東京入国管理局に収容され、一時的に解放されている身分であり、働くことを許されていない。入国管理局は現在、彼の難民申請を審査中だが、いつどんな理由で再び収容されても不思議ではない。
 6年前に来日したBさんは、就労が可能な「在留特別許可」を持っており、古い家屋の解体作業などをして働いている。同じ仕事場ではほかにも4人のクルド人が働いているが、彼らは労働の許可が得られていない。
 人口減少が進む日本では、労働者不足が叫ばれはじめて久しい。中でも建設業界は、2020年の東京オリンピックに向けて人手不足が深刻だ。高齢者と女性の労働力を活用すべきだと宣言している安倍晋三首相は、「建設産業で働く女性がカッコイイ!」というモットーを掲げたウェブサイトまで立ち上げた。そして、何千人もの外国人「インターン」の力と、いわゆる「技能実習制度」を最長10年へと延長することでこの人手不足を乗り切ろうとしている。
 政府は、日本に逃れてきたクルド人に対し、難民としての保護や、移民としてこの国で生きるための権利を与えることはせず、いつでも追い出せるような形で、違法とはしながらも日本人が敬遠しがちなきつい仕事に就くことを黙認している。難民申請者の多くが危険な建設現場や解体業者の元で違法に働くという矛盾した状況は、政策として意図的につくりだされているのだ。
 日本は2016年の時点で、難民問題を扱う国連難民高等弁務官事務所への拠出金ランキングは世界第5位だ。しかし、国際人権組織に多くのお金を出すこの国は、難民性の高い人々の保護はおろか、何年も一緒に暮らし、ともに働いている外国人たちを迎え入れることには、決して熱心ではない。(『DAYS JAPAN』 2018 6月p.24)
 まず知ることから始めましょう。

 劇場から出る時に、故蜷川幸雄氏のメモリアルプレートがあり、次の言葉が刻まれていました。
 最後まで、枯れずに、過剰で、創造する仕事に冒険的に挑む、疾走するジジイであり続けたい。

by sabasaba13 | 2018-08-27 06:46 | 演劇 | Comments(0)

アイスランド頌

 一昨日、アイスランド旅行から帰ってきました。噂に聞いていた風雨にも悩まされず、自然の美しさと凄まじさに触れることができました。全く期待していなかったのですが、満天を飾るオーロラを見ることもでき、もう言うことはありません。
 またマネーゲームに狂奔することもなく、厳しい自然と共に地道に人間らしく暮らそうとするアイスランド人の生き方の一端を感じることができたと思います。

 いつの日にか旅行記を上梓するつもりですが、とるものもとりあえず、写真を掲載しました。自然に対する驚嘆と畏怖の念を感じていただければ幸甚です。

ニューハウン (デンマーク・コペンハーゲン)
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シンクヴェトリル国立公園
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シンクヴェトリル国立公園
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シンクヴェトリル国立公園
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ゲイシール
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グトルフォス
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セーリャラントスフォス
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スコガフォス
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ソウルヘイマ氷河
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レイニスファラ
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ヨークルサルロン氷河湖近くの海岸
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ヨークルサルロン氷河湖
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ヨークルサルロン氷河湖
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とある氷河湖
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スカフタフェル氷河
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オーロラ
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スカフタフェル
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スカフタフェル氷河
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ヴィーク
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ハトルグリムス教会より
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by sabasaba13 | 2018-08-25 06:53 | 海外 | Comments(0)

2018 残暑見舞

 残暑お見舞い申し上げます。

 日頃「散歩の変人」を御愛読していただき、ありがとうございます。これからしばらくアイスランド旅行に行ってきます。炎熱地を焼く日々がまだ続くかと思いますが、ご自愛を。

 暑気払いに、手持ちの写真の中で涼しそうな一枚をどうぞ。西沢渓谷七ツ釜五段の滝(山梨県)です。

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by sabasaba13 | 2018-08-16 05:44 | 鶏肋 | Comments(0)

仁淀川編(28):佐川(15.8)

 それでは出発、申し遅れましたがこのあたりは上町といって風情のある建物が点在しています。白い漆喰壁となまこ壁が印象的なマルキュウ屋敷は、幕末~明治初期に建てられた旧竹村呉服店。
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 竹村家住宅は国の重要文化財で、江戸時代より造り酒屋として栄えた商家。徳川幕府の巡検使の宿としても使われたそうで、風格のある建物です。
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 清酒「司牡丹」の白壁の大きな酒蔵も見もの。土佐藩筆頭家老・佐川領主深尾氏に従って来た御酒屋が、1603(慶長8)年に創業した造り酒屋で、土佐を代表する日本酒です。
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 名教館は士分の教育に資した郷校で県指定文化財。
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 その近くにある洒落た洋館は、かつての須崎警察署の佐川分署で県下最古の木造洋館です。
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 内部を見学でき、いろいろな解説がありました。二つ紹介します。
自由民権運動と佐川
 憲法制定、議会開設、地租軽減などの要求を掲げた自由民権運動は、高知の立志社設立で広まりを見せます。佐川町出身の古沢滋は、民選議員設立建白書の起草に携わり、佐川でも明治11(1876)年に南山社が設立され、多くの自由民権運動家を輩出しました。
 牧野富太郎や水野龍なども運動に参加しており、牧野の回顧録によると、牧野らが公正社(夜学会)を結社した際、この建物に呼ばれ、警察の取り調べを受けたとあります。

選挙大干渉と佐川
 明治25(1892)年の第2回衆議院議員選挙の際、第1回選挙で民党(政府に対抗する勢力)に敗れていた政府は、選挙の大干渉を行います。
 自由党の総理である板垣退助の出身地・高知での干渉は特に激しく、民権派(自由党)と帝政派(国民党)の争いが加熱する中、この建物は高吾北地区の帝政派の指令所ともなりました。
 佐川の各地でも多くの暴力や流血事件が発生しますが、中でも明治25(1892)年1月29日に起こった斗賀野村野地(現在佐川町斗賀野村)での衝突は、国民党員(警官隊を含む)と自由党員の合計約400人が血で血を洗う大激戦を繰り広げ、数名の死傷者を出しました。
 へえー、牧野富太郎も自由民権運動に参加していたんだ。そしてこの建物の中で取り調べを受けたのか。後の特別高等警察による拷問とまではいかないでしょうが、それでもかなり暴力的な取り調べが行なわれていたのではないかな。すこし空気が冷たく感じられました。またあの有名な選挙干渉も、この佐川でも猖獗を極めていたことがわかりました。これに関して、最近読んだ『TN君の伝記』(なだいなだ 福音館書店)の中に、以下のような記述があったので紹介します。なお「TN」とは中江兆民のことです。
 このときの選挙では、しばらくのあいだ語りぐさになったほど、警察の干渉がひどかった。全国で、死者が二十五名、負傷者が四百名ちかくにものぼった。
 このとき弾圧を指揮したのが品川弥二郎だが、どういうわけか、この人の銅像が、いまでも東京の靖国神社にちかい、千鳥が淵のほとりに立てられている。政治家の銅像がすくない東京の街だが、えりにえって、この男の銅像が立っているのは、ぼくにはどうも皮肉なことのように思われる。彼は選挙が終わったあと、民党がふたたび多数をしめた第三議会で、この選挙干渉を非難する決議案が通る前に、それを避けるために辞職させられた。しかし、決議案は通った。この決議案は、政府の選挙干渉を天皇に上奏して、天皇の耳にいれろという要求だったのだが、松方内閣は、国会を一週間休会させることで、それに応じた。松方は、成立したばかりの議会を解散させようとした。もし、そうして、議会と政府が対決していたら、おそらくいまの日本がどうなっていたかわからない。だが、民党のほうも、二度の選挙で、すっかり貧乏になっていた。自分たちがはっきりと勝っていたのに、解散がおそろしかった。そこに弱みがあった。最後のところまで、松方内閣を追いつめながら、民党はたたかう気力を失っていた。(p.352~3)
 行政府による議会の軽視というのは、現今の安倍上等兵内閣の態度を見るまでもなく、この国の宿痾なのですね。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-08-15 07:06 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(27):佐川(15.8)

 もう一つ心に残った展示は、牧野富太郎が18~19歳の頃、心中に抱えていた思いを書き付けた「赭鞭一撻(しゃべんいったつ)」です。十五条あるのですが、その中のひとつが印象的でした。市井の一読書家として銘肝します。
14、書を家とせずして友とすべし
  (書物に書いてあることが全てを鵜呑みにしてはいけない。誤りがある場合は正すべきであり、書物を先生ではなく友人とすべきである)
 なおこちらには、武家屋敷の雰囲気を感じさせる江戸時代の庭園、九如園がありました。
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 旧浜口家住宅は古い商家で、現在は観光案内所として利用されています。解説板を転記します。
 浜口家住宅は幕末期には酒造商家の一つであり、周辺に酒蔵を構える大きな商家であった。近代期には当主の浜口駒次郎大阪市議会議員を務め、海運業にも転じて第1次世界大戦の海運業活況に乗じて、「舟成金」といわれるくらいの豪商に上り詰め、全国に名をとどろかせた。
 太い柱と梁、竹皮を編んだ網代壁、趣きのある蹲などが印象的でした。また解説によると、外壁の一部は伝統的意匠である土佐松煙(しょうえん)漆喰塗りの黒壁。また高知県は台風常襲地帯なので、外壁を守るための水切り瓦をしつらえ、雨漏りを防ぐために桟瓦の重ねを風下側に設置されているそうです(左瓦)。
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 それではここで一休みしましょう。牛乳とブルーベリー・シュークリームとプリンをいただき、名産の茶と牧野富太郎ペーパーウェイトを購入しました。彼はひらがなの「の」を渦巻きのようにぐるぐる巻いて、「巻きの→牧野」と読ませる印を使用していたそうで、それを模したペーパーウェイトです。すると係の女性、われわれが散財したことに感激して「富太郎くんストラップ」を二つくれました。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2018-08-13 17:31 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(26):佐川(15.8)

 途中にあった物見岩はたいへん眺望の良いところで、ここから見晴らせる佐川の町はまるで山間にたたずむ小宇宙です。なお12:00に鳴り響いたチャイムは「恋は水色」。
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 そして1603(慶長8)年、佐川領主・深尾家の菩提寺として創建された青源寺へ。池と岸壁を中心として構成された枯淡な味わいの庭園で、乗台寺と共に土佐三大名園の一つとされています。蓮が一輪の華麗な花を咲かせていました。苔むした石段と石垣も、落ち着いた雰囲気で素敵ですね。なおこの後に訪れた「牧野富太郎ふるさと館」の展示で知ったのですが、彼はこの寺の裏山でヤマモモの実をとっているところを愚仲和尚に見つかり、お目玉をくらって逃げ帰ったことがあるそうです。またシイの実の季節には、大きな幹に石をぶつけて落した実を拾うのが楽しみだったそうです。
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 青山(せいざん)文庫は、佐川郵便局長・川田豊太郎が私設図書館として創立し、その活動に感銘を受けた田中光顕が基金や蔵書などを寄贈し、幕末の貴重な資料も多数収蔵した博物館として今に至ります。
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 牧野富太郎のスケッチや、坂本龍馬・中岡慎太郎の書状も展示されていましたが、興味をひかれたのが「中国からの手紙」という展示です。解説を転記します。
 これらの手紙は、梁震東という中国人から蘭林に宛てて送られた手紙である。
 当時の中国は清の時代で、清人・梁震東と日本人・伊藤蘭林が文通を介して、詩の批評をしあっていたことがわかる。
 梁については詳しくはわからないが、手紙の内容から、職業は教師で、蘭林の息子ほどの年齢だったようである。この梁が住む隆都は、香港やマカオの北に位置する広東省にあり、現在は、辛亥革命の指導者・孫文の出身地であるため、孫文の号にちなみ、中山市と改称されている。
 明治26(1893)年と27(1894)年の手紙であるが、明治27年には日清戦争が勃発し、その翌年には蘭林が死去する。二人の交際がどのように続いたかは不明であるが、これらの手紙は国や年齢を越えての文化交流があった証である。
 伊藤蘭林(1814-1895)とは、郷校・名教館の教授となった儒学者で、多くの若者を教導した方です。梁震東と伊藤蘭林、日本と清国が朝鮮をめぐって激しく対立し、それぞれの国民がナショナリズムに煽られて憎悪しあう中、この二人が、国籍にとらわれず、詩を愛する人間として交流をしたことに感動を覚えます。嫌中と嫌日の雰囲気が渦巻く今だからこそ、記憶に留めたい手紙です。

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2018-08-11 07:36 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(25):佐川(15.8)

 まずは観光パンフレットで知った古畑の棚田へ行きましょう。駅前で客待ちをしていたタクシーに乗って十数分で古畑地区に到着、このあたりは通称"石垣の里"とも呼ばれ、昨日訪れた長者の棚田のスケールには及びませんが、丹精こめて積み上げられた石垣の棚田があります。
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 写真撮影をして、牧野公園で下ろしてもらいました。ここはかつての佐川城、長宗我部元親が土佐を統一した天正の初め、その重臣である久武内蔵助が築城したものですが、1616(元和2)年、徳川幕府の一国一城令で廃城となりました。その城跡に1902(明治35)年、植物学者の牧野富太郎が東京染井で見つけた桜ソメイヨシノの苗を送り、それを地元の有志が植えたことから桜の名所となりました。現在は「牧野公園」と称することとなり、中腹には富太郎と田中光顕の墓があるそうです。まずは二人のお墓を掃苔しましょう。木々や草花にあふれた園内をのんびりと歩いていくと、自然の中に二人のお墓がひっそりと佇んでいました。
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 佐川観光協会のサイトから、二人のプロフィールを引用します。
牧野富太郎
 後に、「日本植物学の父」と称された植物学者・牧野富太郎博士が産声をあげたのは、文久2(1862)年4月24日、かの坂本龍馬が土佐を脱藩して一ケ月後のことでした。
 土佐国高岡郡佐川村(現在の佐川町)に、父・佐平、母・久寿のもと誕生。生家は酒造業と雑貨商を営む裕福な商家でしたが、幼くして両親を亡くし、祖母の手で育てられました。
 豊かな自然環境の中で育った富太郎少年は、幼い頃から植物に興味を持ち、小学校を2年で退学するも、植物採集をしたり、書物で植物の名前を覚えたりと、独学で植物学の研究を続けました。
 23歳で上京。東京大学理学部植物学教室への出入りを特別に許され、以後、東京と高知をたびたび行き来しながら植物分類学の研究に打ち込みます。
 26歳のとき、友人と『植物学雑誌』を創刊。その2年後、同誌上に共著で記載したヤマトグサは日本国内での最初の新種発表でした。
 96年の生涯において収集した標本は約40万枚。新種や新品種など約1500種類以上の植物を命名し、日本植物分類学の基礎を築いた一人として知られています。
 成功を収めてからも、牧野博士はたびたび帰郷し、故郷への思いを生涯持ち続けました。あまり知られてはいませんが、故郷への功績として明治21(1888)年には、郷里の子どもたちの文化向上や科学教育の普及をはかるため、「佐川理学会」を創設。自らも指導にあたるほど、熱心に取り組みました。
 明治35(1902)年、佐川に送ったソメイヨシノの苗木は、桜の名所となり、多くの人の目を楽しませています。春の訪れをつげる愛らしい花、バイカオウレンは、晩年東京で暮らした牧野博士にとって、故郷を思わせる懐かしい花でした。いまも生家の裏山にたくさん自生しています。

田中光顕
真心の赤土坂に まちあわせ いきてかへらぬ 誓なしてき
 元宮内大臣で、動乱の幕末期を駆け抜け、生き抜いた最後の生き証人としても知られる田中光顕(たなかみつあき)は、天保14(1843)年、土佐国高岡郡佐川村(現在の佐川町)に、深尾家の家臣、浜田金治の息子として生まれました。
 郷校・名教館で学び、叔父・那須信吾の影響を受け、文久元年(1861)、武市半平太を盟主とする土佐勤王党に入党。3年後の元治元年(1864)には、同志らと土佐を脱藩。その時の決意を詠んだのが冒頭の句です。以後田中は長州へ脱藩し、志士としての活動に奔走します。
 坂本龍馬や中岡慎太郎らとともに薩長同盟の実現に尽力。龍馬と慎太郎が暗殺された際、現場に駆け付けた一人としても知られています。明治新政府では、陸軍少将、初代内閣書記官長、警視総監などの要職を歴任。明治31(1898)年からは、12年間という長い間宮内大臣をつとめました。
 政界引退後は、維新で亡くなった志士たちの顕彰に殊に尽力します。志士たちの顕彰を目的として、武市半平太の雅号を冠した「瑞山会」を結成し、記念碑建立や伝記の編集を進めるなど、志半ばでこの世を去ったかつての同志らの地位や名誉を回復するための活動を熱心に行いました。この活動の中で残された遺族の名誉を回復し、さらに生活面でも救済しており、当時困窮していた武市の妻・富とその家族は田中光顕の活動により救われたと言います。さらに、田中が集めた資料の多くは、青山文庫(現佐川町立青山文庫)に寄贈され、いまも当時の貴重な記録として展示されています。無念の同志たちの功績を復活させた郷土の偉人は、昭和14(1939)年、97年の生涯を終えました。従一位勲一等伯爵。号は青山。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2018-08-09 08:12 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(24):佐川へ(15.8)

 6:00、「のばら」のチャイムで叩き起こされました。朝は「のばら」、昼は「ふるさと」、夕は「赤とんぼ」なのですね。この町にすこし溶けこめたような気がします。物干し台に出て朝の新鮮な空気を吸い、長者川を眺めると、そこかしこで太公望たちが釣りにいそしんでおられます。河原、橋の上、なんと向こう岸の家の窓から釣り糸を垂らしている方がいました。何て豊かな暮らしなのでしょう。
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 さて本日は、佐川を散策する予定です。土佐藩筆頭家老深尾氏の城下町として栄え、江戸期から綿々とその伝統を守る造り酒屋の酒蔵や旧商家を中心に風情ある街なみが楽しめるとのことです。また植物学者・牧野富太郎の出身地でもあります。美味しい朝食をいただき、部屋に戻って観光パンフレットを読んでいると、高知市の「ひろめ広場」にある「明神丸」というお店の「藁焼き鰹たたき」が絶品であるという記事がありました。よろしい、頭と心にインプットして最終日にぜひ立ち寄ることにしましょう。
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 宿近くのバス停「森」から9:51発の町民バスに乗って大崎へ。ここで10:22発佐川駅行き黒岩観光バスに乗り換えます。バスを待っていると、移動パン屋さんの車がやってきました。これは珍しい。トイレを拝借すると、"トイレットペーパーを持って帰らないで下さい! 立派な「犯罪」です!"という貼り紙がありました。世知辛い世の中になりましたね、やれやれ。壁にはフリガナをふった「東」という小さなシールが貼ってありましたが、何のためでしょう。
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 やってきたバスに乗り込み、仁淀川に沿った風光明媚な道を三十分ほど走ると、佐川駅に到着です。
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 まずは鰻の老舗「大正軒」に電話で予約をしようとしましたが、満席でした。無念。駅前にあった、子どもに読ませたくない本を入れるための「白いポスト」を撮影。でもどんな本が入っているのだろう、後学のために中を拝見してみたいものです。安倍上等兵の『美しい国へ』(文春新書)かな。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2018-08-07 06:56 | 四国 | Comments(0)