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仁淀川編(33):中津渓谷(15.8)

 さて本日は中津渓谷を散策することにしましょう。朝食の時、宿の女将と談笑した際に、「大渡」バス停まで歩いていって、バスで中津渓谷に行く計画だと話すと、車で送ってくれるという嬉しいオファーがありました。かたじけない、有難くご厚情に甘えます。それにしても高知の方々のホスピタリティには頭が下がります。やはりお遍路さんをもてなすという伝統文化のなせる業なのでしょうか。出発の時刻まで宿の周辺を散策、長者川にかかる橋の上から写真を撮影。おっ妖気漂うマネキンにご令嬢がいることに気づきました。
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 そして午前10時、女将の車に乗せてもらい、十分ほどで中津渓谷に着きました。国道33号線から坂をのぼると、すぐそこが渓谷の入り口でした。中津山(明神山)を源に流れる中津川がつくりだしたのが中津渓谷。約2.3キロにおよぶ遊歩道が整備されているので安心して歩けます。ブヨもいないし。巨岩や奇岩を縫うように歩きながら、美しく青い水のさまざまな表情を堪能。
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 途中にあった展望台からは、畳々とした山なみを眺望することができました。
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 そして神秘的な青い水をたたえる竜宮渕へ。
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 遊歩道の最上流部は、渓谷の中で最も幅が狭く、険しい岩盤が切り立っています。その岩盤をえぐるようにしてできているのが、高さ約20mの石柱です。かつては鳥しか近づけなかった秘境ですが、遊歩道が整備されて手軽に見られるようになったということです。中津渓谷のハイライトは雨竜の滝。多方向へ勢いよく吹き出す水は落差20m、その雄大な姿から「竜吐水」とも呼ばれているそうです。雨が降らなかったためか水量が少ないのがちょっと残念でしたが、間近で自然がつくりだした美を愛でることができました。
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 というわけで約二時間半、渓谷美と仁淀ブルーを心ゆくまで満喫。ここ中津渓谷はお薦めですね、ブヨもいないし。入り口のところにある「中津渓谷ゆの森」という温泉・宿泊施設に入って昼食をいただこうとしましたが、大勢の観光客がおしよせて三十分待ち。はい、やめやめ。「土佐地産地消ドリンク とまとぶんたん」を飲んで一休みするだけにしました。
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 本日の九枚です。
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by sabasaba13 | 2018-09-10 05:51 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(32):森(15.8)

 午前六時ごろに目覚めて物干し台に出て、朝日と長者川にご挨拶。今日も天気は良さそうです。朝食をいただき、食堂に置いてあった『高知新聞』(2015.8.14)を読んでいると、「奇妙な敗戦国 日本」という記事がありました。
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 以下、引用します。
「永続敗戦論」著者 白井聡さんに聞く
 明日の15日で70年になる「戦後」とは、どういう時代だったのだろう。
 一昨年、「永続敗戦論」(太田出版)を出版し、大きな議論を巻き起こした政治学者の白井聡さん(37)=京都精華大学講師=は、こう訴えた。「敗戦という事実をごまかし、戦後も対米従属がずっと続いている」-。
 焦土から再出発し、急速な経済発展を遂げてきた日本。一方で、2011年の東日本大震災と福島第1原発事故をめぐる混沌とした状況は「この国の『統治構造』を露呈させた」という。
 白井さんの主張する本当の統治構造とは、対米従属の特殊性にある。それはどんなかたちで、どこに存在し、どうして続いてきたのか。白井さんは「これほど奇妙な敗戦国は世界史上、類を見ない」と言う。その核心である「永続敗戦レジーム(統治の枠組み)」について、じっくり語ってもらった。
 内容については、拙ブログに掲載した書評を見ていただきたいのですが、現在の日本に対する歯に衣着せぬ舌鋒鋭い批判には、共感を覚えます。例えば…
 …現在問題となっているのは、われわれが「恥知らず」であることによる精神的堕落・腐敗のみならず、それがもたらしつつあるより現実的な帰結、すなわち、われわれが対内的にも対外的にも無能で「恥ずかしい」政府しか持つことができず、そのことがわれわれの物質的な日常生活をも直接的に破壊するに至る(福島原発事故について言えば、すでに破壊している)ことになるという事実にほかならない。(p.50)
 なお白井氏の最近作『国体論 菊と星条旗』(集英社新書0928)と、矢部宏治氏の『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書2439)と『もうすぐやってくる尊皇攘夷思想のために』(加藤典洋 幻戯書房)を読むと、この国と国民が骨の髄まで腐敗し劣化していることが、嫌になるほどよくわかります。たとえば前掲書の中で加藤氏はこう述べられています。
 ここではキリがないので例は出さないが、明治以来の憲政史上、たぶん軍国主義下を含んで、現在の安倍内閣ほど、主権者国民、またその象徴たる天皇をバカにした傍若無人の内閣はないだろう、と思われる。とはいえ理解を絶するのは、そうした内閣を奉戴して、世論調査でその支持率がなお半数を超えている、というもう一つの事実、国民というものに関する憲政史上例の少ない事実である。
 個人の自由、平等、人権といった戦後的な価値だけではない。国家主権、国の独立、「愛国心」、さらに「廉恥心」といったかつての国家主義、復古主義、保守主義に通底する感覚までが、この政府にあってはうっちゃられている。しかも、そのことへの国民の反応は鈍い。メディアが悪いというよりは、メディアも野党も内閣も、こぞってこの世論調査の主、国民動向にしたがって動いている。その結果が、これなのである。(p.315)
 そうそう、余談ですが、最近読んだ『日米同盟の正体 迷走する安全保障』(孫崎享 講談社現代新書)の中に、高知新聞に関する話が出てきました。以下、引用します。
 (高知新聞は警察の)捜査費問題を2003年7月に報道します。…警察の裏金問題というのは、大変なエネルギーが必要だったようです。…(担当の記者は)書くか、書かないかで究極の選択を迫られていた。警察幹部から「書いたらおまえは敵になる」「尾行する」「携帯電話の履歴を調べる」と言われ、「書かなかったら一生おまえにネタをやる」と言われます。そこで彼は悩む。…書いたら…他社がガサ入れに行っているのに、高知新聞だけが知らないということもあるかもしれない。反対に、書かなかったら…。おそらく本当にネタを一生くれるだろう。彼が迫られたのは、新聞社員として生きるのか、新聞記者なのか、ということだったと思います。(中略)
 社員として出世しようと思ったら、会社の嫌がる原稿は、会社の思いを忖度して取り下げるという選択があったかもしれません。捜査費のときにも、社員として出世しようと思えば警察と取り引きする手もあった。(中略) 抜かれないため、組織の中で何とか生き残っていくための仕事をやって、それだけで手いっぱい。(中略) しかし自己保身のために忠実な会社員の道を選んだら、つまり新聞記者を捨ててしまったら、新聞記者になった意味はありません。(依光隆明高知新聞社編集局次長「新聞記者なのか、新聞社員なのか」 『朝日総研リポート、2008年5月』)  (p.106)
 もちろんこれは高知新聞だけの話ではないでしょう。この国と国民がここまで劣化した責任の一端は、ジャーナリズムにあると思います。新聞社員ではなく新聞記者として、社会の木鐸、炭坑のカナリアとしての重責を果たしてほしいと強く望みます。
by sabasaba13 | 2018-09-08 06:21 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(31):森(15.8)

 16:00、落出行きバスに乗って「大渡(おおど)」に着いたのが16:36。ほんとうは宿近くの「森」まで行きたいのですが、大崎から森へのバスが一日四本しかないので諦めました。停留所からわき道にはいり、廃校となった高知県立仁淀高等学校の門を通り過ぎて、橋をふたつ渡ります。ん? 眼下には沈下橋がふたつありましたが、そちらを歩いた方が近道ですね。今度試してみましょう。途中で赤とんぼが群舞しているところがありましたが、格好のタイミングで「赤とんぼ」の夕焼けチャイムが鳴り響きました。二十分ほどで宿に到着。
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 ひとっ風呂あびて、物干し台に出て、長者川を眺めビールを飲みながら夕涼み。そして階下に行って美味しい夕食をいただきました。
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 部屋の戻ろうとすると、窓ガラスにヤモリがへばりついています。沖縄では家の守り神だそうですが、高知ではどうなのかな。そういうことにしておきましょう。ベッドに寝転んで観光パンフレットを見ていると、8月23日(日)の9:00~16:00に波川公園(仁淀川橋の下)で第12回仁淀川国際水切り大会が開かれることが分かりました。
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 日本一の清流仁淀川にふれてもらうため、水面に川原の石を投げて跳ね返らせる「水切り」の技術を競う競技会。現地で自分の石探しからはじまり、子ども・女性・男性の各部門に分かれ、水切りの美しさ、飛距離、回数などを競う。またハートの形をした石を見つけるコンテストも行われる。
 水切りか、いいなあ。常々思っているのですが、"経済成長"などという幻想がもう破綻した現在、いかにして脱成長を軸にした社会・経済システムを構築するかが私たちの大きな課題です。その際に欠かせないのが、いかにして、金がかからず、環境に悪影響を及ぼさず、資源を浪費せず、しかも楽しい暇潰しを日々の暮しに取り入れるか。これはけっこう重要な課題だと考えております。その点、江戸時代の文化に学ぶところ大でしょう。水切りという遊びも、この条件をクリアしています。日程の関係で見に行くことも参加もできませんが、ぜひ楽しんでください。
 ベッドに寝転んで読書三昧、息抜きに物干し台に出て夜風をあびながら紫煙をくゆらし、「ダバダ火振」を飲みながら午前0時を待ちました。実は、ペルセウス流星群が明日0:00~3:00にかけて見えるそうです。0:00に二人で外に出て橋の上で夜空を凝視。あっ流れた。眼の悪い私でも三つほど見ることができました。三つ目の流れ星に「安倍上等兵内閣が一日も早く倒れますように」と願いを込めたのですが、なんと未だに実現していません。やれやれ。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2018-09-06 06:22 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(30):佐川(15.8)

 ふるさと館でお土産の押し花ストラップをいただき乗台寺へと向かいました。途中に、牧野富太郎が帰郷の折、朱を摺った跡を懐かしんだという「手洗石」がありました。その近くには「この地にゆかりのある人々」という看板がありましたが、漫画家の黒鉄ヒロシ氏もこの地出身なのですね。また指揮者・作曲家の外山雄三氏のご尊父、声楽家の外山国彦氏も佐川出身とのことです。
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 白壁・なまこ壁・水切り瓦の古い蔵や、恵比寿さまの飾りを撮影しながらぶらぶら歩き、乗台寺に到着。
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 南北朝時代に建立された佐川最古の寺院で、「ひさご園」と呼ばれる庭園は藩政初期、領主深尾氏夫人の難病を治癒したこの寺の霊験により、その快起と解願祝をかねて造園されたと言われています。青源寺庭園と並び土佐三大名園の一つですが、残念ながら本堂修復のため見学できません。住職が同情して絵葉書をくれました。風情のある苔むした石段を撮影して、見るべきほどのことは見つ、そろそろ宿へと戻りましょう。ほんとうはJR西佐川駅の木造跨線橋にも心そそられるのですが、時間の関係で断念しました。
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 乗台寺近くの停留所からバスに乗りますが、すこし時間があるので「ブルーベリー・ソフトクリーム」という幟がはためくお店に入っていただきました。おっここにも牧野富太郎のスケッチを描いたシャッターがあるぞ。
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 そして見知らぬ土地では高い所と市場に行くという経験則に従い、「サンシャイン佐川」というスーパーマーケットに入店。山ノ神はお茶とふりかけを購入しました。ちなみに生カツオたたきは高知産ではなく鹿児島産。なぜ、なんだろう。どうして、なんだろう。バス停の近くには、「脱藩志士集合記念碑 (川内ヶ谷赤土峠)」という解説板がありました。
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 後学のために転記します。
 元治元年、8月14日、夜半を期して、勤皇の志士、浜田辰弥(後の田中光顕)、橋本鉄猪(大橋慎三)、那須守馬(片岡利和)、池大六(山中安敬)、井原応輔の五志士は、折からの風潮の中、赤土峠に集合の上、脱藩を決行、これを記念して建てたものが赤土峠の記念碑である。
 月明き夜の脱藩、この時、志士達が集合の場とした峠に茶店を営む篠原百太郎は昵懇の仲であった彼等の前途を祝し、一献を沸かしたと云う。
 後に田中光顕が
 真心の赤土峠に待ちあわせ 生きてかえらぬ誓ひなしてき
 と当時を述懐して詠った和歌が記念碑に刻まれている。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-09-04 06:42 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(29):佐川(15.8)

 ある工場のシャッターには牧野富太郎スケッチによる「トサノミツバツツジ」が描かれていました。そして牧野富太郎ふるさと館に到着、生家跡地に建つ資料館で、彼の遺品や直筆の手紙、原稿等が展示されています。複製でしたが、「草もあり木もあればこそ吾れもあり」という俳句の色紙が心に残りました。
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 なお最近読んだ『南方熊楠』(講談社学芸文庫)の中で、鶴見和子氏が、牧野富太郎と南方熊楠の関係についてこう指摘されていたので紹介します。
 他方、日本の植物分類学の泰斗であった牧野富太郎は、南方の植物学上の業績には否定的であった。

 南方君は往々新聞などでは世界の植物学界に巨大な足跡を印した大植物学者だと書かれまた世人の多くもそう信じているようだが、実は同君は大なる文学者でこそあったが決して大なる植物学者では無かった。植物ことに粘菌についてはそれはかなり研究せられたことはあったようだが、しからばそれについて刊行せられた一の成書かあるいは論文かがあるかというと私はまったくそれが存在しているかを知らない。…
 南方君が不断あまり邦文では書かずその代わりこれを欧文でつづり、断えず西洋で我が文章を発表しつつあったという人があり、また英国発行の"Nature"誌へも頻々と書かれつつあったようにいう人もある。按ずるに欧文で何かを書いて向こうの雑誌へ投書し発表した事は、同君が英国にいられたずっと昔には無論必ずあった事でもあったろうが、しかし今日に至るまで断えずそれを実行しつつ来たという事は果たして真乎、果たして証拠立てられ得る乎。


 南方がかつて知人を介してある植物の名称を牧野に尋ねたことがあったから、自分は南方の師であるという。牧野は田辺町にいったことがある。師が自分の住む町にきていれば、弟子の方から挨拶にくるべきものを、南方は牧野に礼を尽さなかった。そこで牧野は、「何にも吾れから先きに進んでわざわざ先方へ足を運ぶ必要は決して認めないとの見識(ハヽヽヽ)でとうとう同君の門を敲かなかった」。
 皮肉な文章であるが、自分の感情を正直に出している点がおもしろい。アカデミーの学者が、南方をどのように評価していたかをしるための一つのよい見本といえよう。それだけではない。外国語で自説を国外で発表した日本の学者が、日本のアカデミーから、どのような仕返しをうけたか。そのことがよくわかる文章である。この中で、南方が、『ネイチャー』誌その他に帰国後も英文の文章を投稿していたというのはウソだろうと疑っている箇所についていっておきたい。…南方は、『ネイチャー』には1893年から1914年まで、『ノーツ・エンド・クィアリーズ』には1899年から1933年まで、つづけて英文の文章を発表している。ある時は、同じ号に、二つも三つも書いている時もある。合計すると、帰国後のほうが、在英中よりも投稿数は多いのである。わたしのような浅学の者が、ちょっと調べればすぐわかることを、どうして牧野富太郎のような大学者は、調べもせずに、他人を悪しざまに、しかもその人が死んでしまって、反証があげられないことを承知のうえで、罵言するのであろうか(牧野のこの文章は、1942年2月号の文芸春秋に掲載された)。しかし、こういうのも公平ではないだろう。牧野はすでに1957年に没したのだから。(p.64~6)
 牧野富太郎の、あまり人口に膾炙されていない一面を教えてくれるエピソードです。さきほど紹介した「赭鞭一撻」の中に、「6、洋書を講ずるを要す (和漢書の外に洋書も読み理解し、後世に我々が世界の最先端であるべく努めるべきである)」という一文がありました。しかし思うようにならず、西洋の学問に対する劣等感や苛立ちや焦りがあったのではないでしょうか。それを熊楠にぶつけたような気がします。偉大な植物学であることには変わりはないのですが。
 余談ですが、牧野富太郎は1926(大正15)年、野趣豊かであった東京・大泉の地に居を構え、1957(昭和32)年に満94歳の生涯を終えるまで、自邸の庭を「我が植物園」としてこよなく大切にしました。現在、「牧野記念庭園」として公開されており、先日自転車で訪れてきました。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-09-02 07:03 | 四国 | Comments(0)