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仁淀川編(47):高知(15.8)

 見るべきほどのことは見つ、それでは高知龍馬空港へと向かいましょう。タクシーの運転手さんに、JR高知駅まで行ってと言うと、彼は必死の形相で「空港まで送らせてくれ」と哀願します。鰹のタタキが美味しい店を紹介する、食事の間はメーターを止める、空港に向かう途中でメーターを止める、といったオファーを提示しました。うーん、どうしよう、山ノ神と相談し、情けは人の為ならず、タクシー業界の不況も聞いたことがあるので、受諾しました。
 弾けるような笑顔とともに、運転手さんが連れていってくれたのが「葉牡丹」というお店です。鰹たたき(タレと塩)、スタミナ豆腐、焼ナス、串フライと串焼きの盛り合わせをたいらげました。うん、安くて美味しかったですね。後でわかったのですが、「高知家グルメガイド」では、高知県民が選んだ54店舗にもランキングされていました。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-10-18 06:14 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(46):寺田寅彦墓所(15.8)

 さて受付で寅彦の墓所を訊ねると、一所懸命調べてくれました。東久万にある「アンク犬猫病院」の脇道を行ったところの高台中腹にあるそうです。また小津神社に、寅彦ゆかりの石灯籠と石橋があることも教えてくれました。多謝。よろしい、タクシーで廻ってもらいましょう。ミュージアム・ショップで「寺田寅彦 -天然に育まれし眼差し-」と、彼の絵・サインが描かれた珈琲カップを購入しました。
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 そしてふたたび「ひろめ広場」に行きましたが、「明神丸」は大混雑。いさぎよく藁焼き鰹たたきは諦めました。近くでタクシーに乗り、まずは小津神社に寄ってもらいました。こちらにある石灯籠と石橋は、父・寺田利正によって奉納されたものです。解説を転記します。
 この石灯籠は寺田寅彦先生が青年時代に肺を患い尊父利正氏ともども氏神様の小津神社に病気平癒のお願をかけられ祈願成就お願ほどきに奉納されたものであります。
 なお後日、寅彦が通学した江ノ口小学校に、彼の記念碑があるとのことがわかりました。
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 次は掃苔です。東久万にある「アンク犬猫病院」の脇道でタクシーを降りると、「寺田寅彦墓 この上約40M登る・目標は桜の樹」という立て札がありました。やった。急な山道をすこし登ると、街を見晴らせるところに、六つの墓が肩を寄せ合うように並んでいました。
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 解説を転記します。
 王子谷の墓地には寅彦、父利正、母亀、三人の妻夏子、寛(ゆた)子、紳の6人が眠っている。利正は宇賀家の出、陸軍会計監督。退役後山内家の財政顧問。寅彦は一人息子。寅彦が高知に住んだのは長くないが、大川筋での幼少年時代須崎での療養生活は彼の随筆に散文詩的に懐かしく回想されている。夏子は20才、寛子は31才で亡くなる。この科学的天才も妻の運には恵まれなかった。寅彦は1935年東京で病没。58才。墓誌は友人の小宮豊隆の撰と書。
 合掌。しばらくは彼の背中を追い続けていくつもりです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-10-16 06:22 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(45):高知県立文学館(15.8)

 山内一豊騎馬像の前を通り、高知県立文学館に着きました。
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中江兆民、植木枝盛、幸徳秋水、田中英光、タカクラテル、安岡章太郎、清岡卓行、宮尾登美子、倉橋由美子など、高知県ゆかりの作家、文学者と作品を紹介する文学館です。お目当ては何と言っても、寺田寅彦記念室です。彼のプロフィール、作品、業績などが丁寧に紹介されており、しかも見学している方は数人、静寂な空気の中、寅彦ワールドを堪能することができました。愛用の帽子や、彼が弾いていたチェロなども展示されています。なお『バイオリンを弾く物理学者』(末延芳晴 平凡社)の中に、弦楽器に関する興味深い随筆『「手首」の問題』が収められています。
 バイオリンやセロをひいてよい音を出すのはなかなかむつかしいものである。同じ楽器を同じ弓でひくのに、下手と上手ではまるで別の楽器のような音が出る。下手な者は無理に弓の毛を弦に押しつけこすりつけてそうしてしいていやな音をしぼり出しているように見えるが、上手な玄人となると実にふわりと軽くあてがった弓を通じてあたかも楽器の中からやすやすと美しい音の流れをぬき出しているかのように見える。これはわれわれ素人の目には実際一種の魔術であるとしか思われない。

 玄人の談によると、強いフォルテを出すのでも必ずしも弓の圧力や速度だけではうまく出るものではないそうである。たとえばイザイの持っていたバイオリンはブリジが低くて弦が指板にすれすれになっていた、他人が少し強くひこうとすると弦が指板にぶつかって困ったが、イザイはこれでやすやすと驚くべき強大なよい音を出したそうである。

 この魔術のだいじの品玉は全くあの弓を導く右手の手首にあるらしい。手首の関節が完全に柔らかく自由な屈撓性を備えていて、きわめて微妙な外力の変化に対しても鋭敏にかつ規則正しく弾性的に反応するということが必要条件であるらしい。もちろんこれに関してはまだ充分に科学的な研究はできていないからあまり正確な事は言われないであろうが、しかし、いわゆるボーイングの秘密の最も主要な点がここにあるだけは疑いのないことのようである。

 物理学的に考えてみると、一度始まった弦の振動をその自然の進行のままに進行させ、そうしてそのエネルギーの逸散を補うに足るだけの供給を、弦と弓の毛との摩擦に打ち勝つ仕事によって注ぎ込んで行くのであるが、その際もし用弓に少しでも無理があると、せっかく規則正しく進行している振動を一時邪魔したり、また急に途中から別なよけいな振動を紛れ込ませたりしてそのために音がきたなくなってしまうのである。そういうことのないようにするためには弓がきわめて敏感に弦の振動状態に反応して、ちょうど弦の要求するエネルギーを必要にしてかつ有効な位相において供給しなければならない。

 この微妙な反応機巧は弦と弓とが一つの有機的な全系統を形成していて、そうして外部からわがままな無理押しの加わらない事が緊要である。
 このように楽器の部分としての手首、あるいはむしろ手首の屈曲を支配する筋肉は、少しも強直しない、全く弛緩した状態になっていて、しかもいかなる微細の力の変化に対しても弾性的に反応するのでなければならないのである。
 なるほど、チェリストの末席を汚す者としてたいへん参考になります。他にも「渦巻きの実験」「地滑りの実験」「割れ目と生命の実験」といったビデオもあり、食い入るように全部見てしまいました。中でも、三毛猫の模様を布にうつして切り取り、ひとつにすると球体になるという実験には、目から鱗が落ちました。細胞分裂が進んだ受精卵(胚)の割れ目が、毛の模様となるという仮説です。恐るべし、寺田寅彦。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-10-14 06:46 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(44):高知(15.8)

 「大橋通」で下りると、「高知城200m→ 私のお城500m→」という、不動産業の看板がありました。山田くん、座布団を一枚。そして「ひろめ市場」に到着です。
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 かつてここに土佐藩家老・深尾弘人蕃顕(ふかおひろめしげあき)の屋敷があったことによる名称で、中に入ると高知名物を食べさせてくれるいろいろな飲食店が蝟集した屋台村です。しかし…とんでもない混雑で、とても落ち着いて食べる気にはなれません。文学館を見た後に、もう一度寄ることにしました。なお『週刊金曜日』(№1175 18.3.9)の「写日記」で、松元ヒロ氏がこう語られていました。
 土佐の高知市でライブを演りました。お昼からの公演でしたので前日入りして皆さんと一杯。翌朝、迎えの方と会場に行く時「ちょっとここを通って行きましょう」と入ったのがこの写真の「ひろめ市場」です。高知城のすぐ下の帯屋町。土佐藩の家老、深尾弘人蕃顕(ふかおひろめしげあき)の「ひろめ屋敷」があった場所にできたので「ひろめ市場」。「高知の文化をひろめ、人情をひろめる」ための屋台村です。見てください。午前10時半にビールやお酒を飲んでいるのです。日曜日なので観光客も入り乱れてこの賑わい。「スゴイですね」と聞くと「さすがに平日は少し減りますが」「少しですか?」「はい」。姫路や高松でもこれを真似た店をオープンさせたそうですが、二年ともたずに閉店。
 高知は特別なんです。昔から老若男女、飲むそうです。会社で会議をやっていても「あとは一杯やりながら話そうじゃないか」とお店に全員で。お酒が入ると「課長、部下だからって、なめたらいかんぜよ!」「なんだと!」となっても、翌日「課長、昨日は失礼しました」「えいき、えいき、ちくと飲んで行こう」となるのです。坂本龍馬もこうして仲間を増やしていったのかもしれません。飲むと一気に距離が縮まって友だちになれます。その友だちの輪が広がれば平和になります。そう、自由民権運動もこの土佐からはじまりました。ライブを取材に来た『高知新聞』の部長さんが教えてくれました「高知は安倍政権の不支持率が最も高いんですよ」。どうりで、反権力、反体制の空気を客席に感じました。「佐川国税庁長官? ウソこくぜい庁長官だ!」「そうぜよ!」と盛り上がり、長く演りすぎたため、すぐ空港へ。「アチャ~ 飲めなかったぜよ!」 (p.61)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-10-12 08:02 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(43):高知(15.8)

 JR佐川駅のホームで列車を待っていると、「米日旅館」という看板が見えました。「日米関係とか、日米安保条約とか、"日米"という表記が当たり前にされているが、宗主国-属国という関係からすれば"米日"とするのが正しい、現実から逃避してはいけない」という主張を感じますが、深読みかな。でも気になります。
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 「チャレンジショップさかわ&まちブラ(昼間編)」には以下のような説明がありましたが、"米日"の由来についてはわかりません。ご教示を乞う。
ビジネス旅館米日屋
 初代店主さんは戦時中カラフトで「ロ日(ろにち)商会」という店名で商売をされてたそうです。そして時代は流れ、終戦後店主さんご夫婦が食堂や旅館を営んでいたのを平成7年に二代目店主さんが建て直されビジネスホテルとして開業されました。店先の看板は昔「米日旅館」として付けられてた物をそのまま残されています。
 土讃線の列車に乗り込み、一時間ほどで高知駅に到着。まずは駅前にある観光案内所で、寺田寅彦のお墓があるところを訊ねましたが…わからないとのこと。しかたない、県立文学館で教えてもらいましょう。
 まずは食事、雨が降りそうなので、路面電車で「ひろめ広場」に行き、「明神丸」で藁焼き鰹たたきをいただくことにしまた。高知駅前から路面電車に乗って「はりまや橋」で乗り換えます。目の前を「ごめん」行きの電車が通り過ぎていきましたが、変わった地名ですね。
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 たまたま最近読んだ『白い道』(吉村昭 岩波現代文庫)の中におさめられている「致命傷の地名」という随筆に、この地名が出てきたので紹介します。
 地名を手当り次第に変えてしまった時期がある。調べてみたわけではないので、しかとはわからぬが、それは郵便番号の設定された時と一致しているように思える。郵便を配達するのに便利なように、町を勝手に区割りし、記号のような名に変えてしまった。
 その乱暴な行為の背後には、地方自治体の議員、役人の顔がのぞいている。由緒ある町名は次々に消え、気がついた時は手遅れであった。
 これは、東京都にかぎらず全国的な風潮で、なぜこんなことになってしまったのか。
 町名は、それぞれの歴史的な性格をそのまましめすもので、歴史を尊重するなら到底できぬことを、それこそ手当り次第という表現そのままに変えてしまったことは、神を恐れぬ仕業と言っても過言ではない。
 高知県の南国市に行った時、郷土史家と昼食をとりながら南国市という地名について話をきき、頭をかかえるような気分になった。
 その地の旧名は、御免であった。
 土佐藩の奉行職として藩財政を確立した野中兼山が、新しい耕地をひらくため用水路を開通させた。その中心地として町を設け、商人その他を集めるため諸税を免除し、これによって町は栄えて御免町と名づけられ、元禄以後、御免町になったのである。
 この御免町が市に昇格することになったが、なぜか御免市とはしなかった。新しい市名をつけようとしてさまざまな意見が出され、ニュー高知市という案まで出たという。ニューという英語まで半ば真面目に論議の対象となったことには、茫然とした。
 結局、南国市に決定したが、もしも御免市としたら、全国の人々に特徴のある地名として印象づけられたはずである。そして、御免という地名が歴史に裏付けされたものであることを知れば、さらに由緒ある名であることに深い感慨をおぼえたにちがいない。駅名が御免であることが、わずかな慰めである。(中略)
 過ぎ去ったことは仕方がないが、それぞれに先人のつけた由緒ある地名をいたずらに変えてしまうことは、断じてやめてほしい。(p.189~91)
 まったくもって同感です。ストーカーのように愛国心を強要するくせに、先人たちの営為に敬意を評さない政治家や官僚が多すぎます。猛省を促します。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-10-10 06:21 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(42):高知へ(15.8)

 本日は最終日です。朝食をたべていると宿のおばあさんが、実家の茶をくれました。ありがとうございます。会計は五泊六日でひとり65000円でした。思い出の縁として食堂や部屋や物干し台を記念撮影。
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 荷物をまとめて、親切だった宿の方々にお礼とお別れを言い、付近の風景を撮影してバス停「森」から町民バスに乗り込みました。あっ、妖気にあふれたマネキン親子にお別れを言うのを忘れた。
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 そして大崎で乗り換え、川口橋を撮影して、佐川駅行きのバスに乗りました。
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 そろそろ吾川郡仁淀川町とお別れかと思うと感無量です。そうそう、最近読んだ『移民たちの「満州」 満蒙開拓団の虚と実』(二松啓紀 平凡社新書782)に、こういうエピソードが書かれていました。これは忘れてはいけない歴史ですね。
 1944年3月には、吾川、幡多、安芸三郡の10ヵ町村から成る大土佐開拓団を編成し、高知県の満蒙開拓事業は結実していく。高知県出身の宮尾登美子の自伝的小説『朱夏』でも知られる開拓団であり、44年6月までに1682人が吉林省九台県に入植した後、11月14日の『高知新聞』に、満州視察から帰った県地方課事務官は「合計二百町歩を耕作し大開拓団としての威力を発揮し、その成果は全満の注視の的となっている」との談話を寄せた。
 さらに高知市が母体となった初月郷開拓団(1944年4月入植、163人)や高南開拓団(45年入植、143人)、吾川郡名野川村(現在の吾川郡仁淀川町)の名野川開拓団(45年3月、39人)などと戦争末期まで満蒙開拓団の送出は続いた。吾川郡池川町(現在の仁淀川町)では、町内の適正人口を1316戸6513人とし、44年から47年までの四年間、「不適正戸数」とした200戸800人を池川開拓団として満州へ送り出す分村計画を立て、先遣隊40戸が45年1月に出発したが、詳しい記録は残っていないとある。
 敗戦までに高知県が送出した満蒙開拓団は9151人、満蒙開拓青少年義勇軍は1331人、合計で全国10位、四国地方に限れば第一位だった。長野県大日向村に端を発した分村計画は波紋となって全国各地に行き渡り、時間差で高知県に達した「波」は、一段と高く強くなって現れた。(p.127~8)
 ったく。国益・国策のためには、弱者・少数者の犠牲はやむをえないという、日本という国家のお家芸ですね。この国の近現代史には、犠牲にされ、切り捨てられ、忘却の彼方に押しやられた死屍が累々としています。その国益とは強者(官僚・政治家・財界・軍部)の利益のことだと気づかずに、騙される方も悪いのですけれど。そして強者たちは、その犠牲を隠し、誤魔化し、忘れさせ、なかったことにしようとし、それをメディアが忖度し幇助する。だから同じようなことが何度でも繰り返される。水俣で、三里塚で、沖縄で、そして福島で。夏目漱石ではありませんが"日本国中どこを見渡したって、輝いてる断面は一寸四方もないじゃないか。悉く暗黒だ"と呻きたくなります。(『それから』より)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-10-08 07:08 | 四国 | Comments(0)

言葉の花綵183

 私の行動は結局、可能な術を使おうとしすぎ、不合理なものの価値を過小評価していた。(ヴァイツゼッカー)

 危機を克服するにはまず危機を認識する必要がある。(イアン・カーショー)

 何人にもあれ誠実を妨ぐるものは、人類進歩の活力を妨ぐる。(ジョン・モーレー)

 流行に従っている阿呆であるほうが、流行を外れている阿呆であるよりは、とにかくましである。(イマヌエル・カント)

 これでよい。(Es ist gut) (イマヌエル・カント)

 ユニゾンはハーモニーになりません。ハーモニーには不協和音が必要です。ユニゾンが退屈で、暴力的なのは、和声、調和、したがって不協和音がないためです。(原子林二郎)

 常に利害を考ふる前に正邪を判断する事。(本間雅晴)

 どんな事態になっても、人間にはしてはならないことがなければならない。(『レイテ戦記』 大岡昇平)

 どんな方法であれ知られることはよいことだ。(ナチ党のモットー)

 貧しい人を、今のままにそっとしておくだけの愛のわざでは足りません。正義を求め、貧しい人がもう貧しくなくなる道を見出すことを、求めます。(ローマ法王フランシスコ)

 すべての人間は、他人の中に鏡を持っている。(ショーペンハウエル)

 日々の暮らし以上に、かけがえのないものはない。(花森安治)

 古来いかにおおぜいの親はこういう言葉を繰り返したであろう。-「わたしは畢竟失敗者だった。しかしこの子だけは成功させなければならぬ。」 (『侏儒の言葉』 芥川竜之介)

 われわれに武器を執らしめるものはいつも恐怖である。しかもしばしば実在しない架空の敵に対する恐怖である。(『侏儒の言葉』 芥川竜之介)
by sabasaba13 | 2018-10-06 06:23 | 言葉の花綵 | Comments(0)

『1987、ある闘いの真実』

c0051620_21241115.jpg とてつもない映画を見てしまいました。絶句。『1987、ある闘いの真実』という映画です。

 アメリカと日本に支えられた苛烈な軍事独裁政権に対して、体を張って民主化を求め、粘り強い闘いの結果それを勝ち取った韓国の市民には常々敬意を表し、羨望を覚えています。そして歴史の恥部とも言うべき政権の腐敗・不法・人権蹂躙をフィルムに焼き付けた、韓国映画界の勇気と剛毅に対しても。光州事件を描いた『タクシー運転手』も、そうした素晴らしい映画でした。
 本作は、チャン・ジュナン監督が、全斗煥軍事政権下における韓国民主化闘争を描いた社会派ドラマです。さっそく山ノ神を誘って「シネマート新宿」に見に行きました。
 念のため、インターネットで席をおさえておいたのですが大正解。ほとんど満席でした。こんなシリアスな映画に観客が押し寄せるなんて嬉しいなあ、でも若者が少ないのが残念だなあ。

 まずはあらすじを紹介します。
 1987年1月、全斗煥大統領による軍事政権下の韓国。徹底的に北分子を排除したい南営洞警察のパク所長(キム・ユンソク)が指揮する取り調べは、日に日に激化していた。そんな中、ソウル大学の学生が行き過ぎた取り調べ中に死亡する。隠蔽のために警察は親にも遺体を見せず火葬を申請するが、何かおかしいと感じたチェ検事(ハ・ジョンウ)は検死解剖を命じる。解剖により学生は拷問致死であったことが判明するが、政府は取り調べをした刑事二人を逮捕することで事件を終わらせようと画策する。これに気付いた新聞記者、刑務所看守らは、事実を白日のもとにさらそうと奔走するが、警察による妨害もエスカレートしていく。また、拷問で仲間を失った大学生たち(カン・ドンウォン)も立ち上がろうとしていた。
 まるでフィクションのようですが、歴史的事実なのですね。補足のために『韓国現代史』(文京洙[ムン・ギョンス] 岩波新書984)から引用します。
 韓国で主思派(チュサパ)が台頭する1980年代半ばは、大統領直接選挙制改憲をもとめる民主勢力と、改憲棚上げによって現状維持をはかろうとする新軍部政権との緊迫した攻防に揺れ動いた時期でもある。よく知られているように、その攻防にいちおうの決着をつけたのが六月民主抗争であった。87年6月の民衆デモの巨大なうねりが、この改憲政局を実力で突破しようとした軍事政権を逆に力でねじふせたのである。
 学生の動きは、全斗煥が現行憲法維持を表明した(四・一三護憲措置)直後から活発化していた。5月の五・一八追悼会には全国から62の大学が参加し、27日には国本(※民主憲法争取国民運動本部)が成立して野党と学生・運動圏の足並みがそろった。抗争は、ソウル大生拷問致死(*)への抗議と改憲を求める6月10日の国民大会にはじまった。その日から26日の「民主憲法争取国民平和大行進」までの十数日間、学生をはじめ、野党政治家、在野人士、教育、言論、宗教の各界関係者、タクシードライバー、バス運転手、サラリーマン、OL、主婦、商店主、露天商、はては子供にいたるまで、まさにありとあらゆる立場や階層・分野の市民が街頭に進出し、新軍部を包囲した。

*87年1月、他の手配中のソウル大生の居所を追及する警察が水攻めや電気拷問で朴鐘哲(パクチョンチョル)を死なせた事件。警察は当初、ショック死と偽ったが、検死医などの証言で暴露され、国民的な怒りをかった。六月抗争への重要なきっかけとなった。

 6月29日、新軍部政権は、直選制改革、拘束者釈放、言論の自由の保障、地方自治制の実施、大学の自律化、そして反体制運動家の赦免・復権などを盛り込んだ「六・二九民主化宣言」の発表を余儀なくされる。新軍部の敗北であった。翌年にソウル五輪を控えていたこともあって、六月抗争は、軍の投入による流血事態には至らなかった。(中略)
 ともあれ、四半世紀に及ぶ軍部の強権支配が退けられ、民主主義は勝利した。六月抗争を組織的にリードしたのは、国本、つまり民主憲法争取国民運動本部であったが、戦闘警察(機動隊)と真っ向から対峙し、デモ闘争を主導したのはなんといっても学生たち、とりわけNL(※民族解放民衆民主主義革命論)派の青年・学生たちであった。デモ隊と警察との衝突は激烈で、延世大学校の李韓烈(イハンニョル)が催涙弾の直撃をうけ重症を負い7月5日に死亡している。民主化は、そういう無数の犠牲の上にうちたてられた金字塔であった。(p.163~6)

 まず肌に粟が生じるほど衝撃的だったのが、警察による拷問シーンです。直接的に描くことを避けながらも、その恐ろしさと悍ましさがひしひしと伝わってきます。ふと思ったのですが、併合されて日本の植民地にされていた時代に、日本の特高警察が独立運動家などに行なった拷問技術が使われたのではないか。傍証ですが、最近読んだ『夢を食いつづけた男 おやじ徹誠一代記』(植木等 ちくま文庫)に、映画と同じ拷問が出てきました。
 おやじがやられたのか、そうではなくて他の人がやられたのかしらないが、もっと恐ろしい拷問があった。足の爪、手のツメと肉との間に針を刺し、そこに電流を通すのだ。電源のスイッチを入れると、体がガクガク震えたり、ンガッ、ンガッと突んのめるようになったりするらしい。それで「白状しろ、さあ白状しろ」と、いわれる。(p.170)
 そしてデモ隊に対する機動隊の暴力的な弾圧にも息を呑みました。殴る、蹴る、警棒で叩く、催涙弾を水平に射撃する。
 民主化を求める学生や民衆に「共産主義者」「北朝鮮分子」というレッテルを貼り、あらゆる手練手管を使ってこれを弾圧した全斗煥政権、そしてその爪牙となった警察。その恐ろしさが、迫真のリアリティをもって迫ってきます。

 私だったら恐怖と保身のために、口を噤み、耳を閉ざし、見て見ぬふりをしてしまう状況の中、民主化を求めて敢然と立ち上がり闘った韓国の人びとも見事に描かれています。検事、新聞記者、刑務所看守、牧師、そして学生たちが、それぞれの職分を活かしながら協力し、闘いのネットワークを編み上げていくシーンには胸が熱くなりました。中でも印象的だったのが、新聞記者諸氏の気迫です。権力による圧力や脅迫に屈せず、その腐敗を追求し、真実を市民に伝えようとするその迫力には頭が下がります。アルコール依存症のチェ検事も、飄々としたいい味を出していました。したたかに権力と対峙する一匹狼ですが、大学生の拷問死を証明する書類をわざと置き忘れて新聞記者に提供するシーンが心に残ります。
 ラストシーンでは、ノンポリだった女子大学生(キム・テリ)がさまざまな事件と関わることによって、闘いの輪の中に入っていきます。知らず知らずのうちに、抗議集会の檀上に上がってしまった彼女が、腕を振り上げる場面では涙腺が決壊しました。

 前掲書の中で文京洙氏が述べていたように、"民主化は、そういう無数の犠牲の上にうちたてられた金字塔であった"ことを思い知らせてくれる素晴らしい映画でした。国家権力に抗い力で民主化を実現した韓国、国家権力に抗う人びとを「反日」と罵倒する方のいる日本、あるいは国家権力を私物のように使い民主化を後退させる御仁を長期にわたって政権の座につかせている日本。その懸隔は目が眩むほどですが、一歩一歩進むしかないですね。

 なお朴正熙および全斗煥という軍事独裁政権と、アメリカ・日本の関係についてはほとんど語られていません。これは私たちに課せられた宿題と受け止めます。それを考える一助となる指摘が、権赫泰(クォン・ヒョクテ)氏によってなされていました。『平和なき「平和主義」』(法政大学出版局)から引用します。
 軍備を禁止した憲法を、軍備が支えるという奇妙な構造があるのだ。
 こうした奇妙な構造は、「片面講和」と日米安保条約の締結により生まれたため、冷戦体制と分離できない。憲法の「平和主義」は冷戦体制下での米国の対アジア戦略の産物でもある。米国は、日本とアジアを米国を頂点とする分業関係のネットワークのもとに位置づけた。韓国には戦闘基地の役割が、日本には兵站基地の役割が与えられた。日本が「平和」を維持できたのは、在日米軍の70%以上を沖縄に駐屯させ、韓国が戦闘基地、すなわち軍事的バンパーとしての役割を担い、周辺地域が軍事的リスクを負担したからだ。そして、この地域では、米国に与えられた役割に適合的な政治体制が必要であった。それが日本の自民党長期政権であり、韓国の反共軍事独裁政権であった。(p.ⅹ)

 「凶器論」は、基本的に朝鮮半島を日本の安全保障にとっての「生命線」とみなす。日本にとって少しでも対立的な勢力下に置かれれば、日本列島を脅かす「凶器」になりうると見ているからだ。よって朝鮮半島は直接支配するか、最低限でも日本に友好的な勢力のもとに置かなければならない。前者が日本の植民地支配だったとすれば、後者は日米同盟と韓米同盟に立脚した韓日同盟関係だ。よって少しでも米国と日本の勢力下から抜け出ようとする動きが朝鮮半島にあれば、すぐさま「凶器」になったとみなされることになる。
 朴正熙から全斗煥にいたる独裁政権は、日本にとってひじょうに友好的な勢力であった。なぜなら、植民地支配責任を日本に問わないのみならず、それを求める声を力で抑え込み、さらには日本列島を共産主義から守る役割も忠実に遂行したからである。(p.11)

by sabasaba13 | 2018-10-04 06:15 | 映画 | Comments(0)

沖縄は孤立していない

 新知事となられた玉城デニーさん、彼に一票を入れた沖縄のみなさん、ほんとうにほんとうにおめでとうございます。卑劣で愚劣で低劣で下劣な政治状況が続く昨今、ひさかたぶりに山ノ神と一緒に快哉を叫びました。
 なぜ沖縄の民意を踏みにじって、辺野古新基地建設にこだわるのか。アメリカに媚を売るとともに将来は自衛隊の基地として使おうとする日本政府、別に沖縄でなくてもいいのだけれど日本がお金を出してくれるので有難く頂戴しようとするアメリカ軍と政府。両者の思惑が合致した結果だと思いますが、民意によって政策が潰されるという悪しき前例を残したくないという、日本政府の考えも大きいのでしょう。
 これに対して、平和と民主主義と人権を守るために、非暴力の闘いを続けてきた沖縄の人びと。心から敬意を表します。これからも茨の道が続くかと思いますが、これが成就するためには私たち本土の人間の世論と運動が欠かせません。それなのに米軍による犯罪・事故・人権蹂躙・環境破壊に対して、なぜ「日本の怒り」ではなく、「沖縄の怒り」として片付けてしまうのか。無知・無恥・無関心のなせる業、"NIMBY"(Not in my backyard)、差別意識、さまざまな理由が考えられます。
 そう簡単に良くなるようなやわな国ではないことを肝に銘じつつ、粘り強く闘っていきましょう。

 『沖縄は孤立していない 世界から沖縄への声、声、声。』(乗松聡子編著 金曜日)より、世界中から沖縄に寄せられたエールを紹介します。
乗松聡子 (『アジア太平洋ジャーナル・ジャパンフォーカス』エディター)

 むろん沖縄の人権が守られないのは日米安保条約のせいだけではなく、日米安保条約を維持し、その具体的な負担を沖縄に押し付け続けている日本の責任である。沖縄への基地集中を許し、また新たな基地建設を黙認し、沖縄の声に耳を傾けないか他人事として知らんぷりしている多くの日本人の責任である。2015年、総工費2520億円かそれ以上と見込まれた2020年東京オリンピック用の新国立競技場建設計画に「金がかかりすぎる」と反対の嵐が巻き起こり、新聞やテレビは連日トップ扱いで報道した。元オリンピック選手が涙ながらに反対を訴えるシーンも全国に流れ、世論の重圧に耐えきれないかの如くに同年7月17日、安倍首相は計画の白紙撤回を発表した。
 かたや辺野古新基地の総工費は「少なくとも3500億円」と政府は発表しており、米側の情報をもとに、1兆円に上るという指摘もある。同じ国家的プロジェクトでも、辺野古基地よりも予算的に低いものを「お金をかけ過ぎた」との全国的な世論が巻き起こって計画を変更させることが可能なのだという現実を、沖縄の人々は見せつけられた。辺野古の基地建設については、いくら沖縄から声を上げても大勢の日本人は他人事として素通りし、報道したとしても概して「沖縄がわがままを言っている」というような報道しかせず、新国立競技場計画を変更したような勢いの世論が起こることはないからだ。国家で起こる「多数決の暴力」が全国世論レベルでも起こっている。(p.10~1)

ジョン・ダワー (マサチューセッツ工科大学名誉教授)

 1945年の、帝国政府が沖縄とその大衆に強いた残酷な犠牲は、このような、沖縄を日本の他地域とは人種的に分けるような差別感を反映していたと言えるだろう。そして、東京の政府が戦後、「パックス・アメリカーナ」における自らの立場を強めるために沖縄を進んで犠牲にしたのは、このような「三国人」的偏見が根強かったことを示している。(p.22)

ピーター・カズニック (アメリカン大学教授)

 沖縄だけでなく日本列島全体の米軍基地は本質的に、米国の中東と中央アジアへの軍事展開のための前進基地として機能している。かつて米国のベトナム侵攻の時にそうしたように。
日本の他地域ではだめで沖縄に集中する戦略的理由はなく、理由があるとしたら、日本の指導層が米国と同様に沖縄を植民地扱いしているので、自分たちの裏庭に置きたくないものを沖縄に押し込めているからだ。(p.43)

スティーブ・ラブソン (ブラウン大学名誉教授)

 当時沖縄で日常的に行なわれていた抗議集会、デモ行進、座り込みなどはアフリカ系米国人の公民権運動を彷彿とさせた。(p.49)

ガバン・マコーマック (オーストラリア国立大学名誉教授)

 日本の沖縄に対する差別、嘘、欺瞞の歴史を知ったらスコットランド人やカタルーニャ人も驚くであろう。英国やスペインだったら、地域住民の5人に4人が反対しているにもかかわらず大規模な外国基地の建設を進めるなどあり得ない。現在、スコットランドもカタルーニャも、日本における沖縄より大きな自治権を享受してきている。それでも両地域では独立を求める声が高い。(p.55)

ジャン・ユンカーマン (映画監督)

 この映画を制作するにつれて見えてきたことは、辺野古の問題の根源には、この米国にとっての「戦利品」という理解と、日本の沖縄に対する差別が相互に教化し合う形で存在するということだ。日沖、米沖間の関係のこのような性質がなければ、沖縄にさらにもう一つの基地を造るなど考えつきもしないだろう。このような言語道断の計画は、他に解釈のしようがない。(p.161)

オリバー・ストーン (映画監督)

 その原爆から70年がたった。私たちは2013年にともに参加し、カズニックは20年前から広島・長崎の式典に学生とともに参加してきている。70周年の広島の式典は心乱されるものであった。安倍晋三首相が来たことだ。被爆者が「もう、二度と戦争は起こさない」と言っているそばで、彼は日本の若者が遺体袋で戻ってくるようになる準備をしている人間だ。軍事費増大、武器製造輸出、中国敵視、歴史教科書修正といった一連の右翼的政策を推し進めている。
 この男は原爆70周年の広島に何をしに来たのか。最もこの場にいてはいけない人間だ。この男の存在自体、その吸う息、吐く息一つ一つが、平和と核廃絶を訴える被爆者への冒?だ。式典では安倍首相の演説の際、安保法制に反対するプラカードを掲げている人がいた。退場の際は会場中に抗議の声が鳴り響いた。カズニックは過去20年間広島の式典に出てきたが、このような抗議行動を見るのは初めてだ。(p.178~9)

ロジャー・パルバース (作家)

 沖縄からの平和のメッセージは「富国強兵」ではなく、「富国強芸」である。(p.194)

権赫泰(クォン・ヒョクテ) (韓国・聖公会大学教授)

 米国の東アジア冷戦戦略において、「韓国には戦闘基地の役割が、日本には兵站基地の役割が与えられた。日本が『平和』を維持できたのは、在日米軍の70%以上を沖縄に駐屯させ、韓国が戦闘基地、すなわち軍事的バンパーとしての役割を担い、周辺地域が軍事的リスクを負担したからだ」と権氏は述べる。(p.231)

海外識者声明全文

 普天間基地はそもそも1945年の沖縄戦のさ中、米軍が本土決戦に備え、住民の土地を奪って作りました。終戦後返還されるべきであったのに、戦後70年近く経っても米軍は保持したままです。したがって、返還に条件がつくことは本来的に許されないことなのです。(p.292)

 戦後ずっと、沖縄の人々は米国独立宣言が糾弾する「権力の濫用や強奪」に苦しめられ続けています。その例として同宣言が指摘する「われわれの議会による同意なしの常備軍の駐留」もあてはまります。
 沖縄の人々は、米国の20世における公民権運動に見られたように、軍事植民地状態を終わらせるために非暴力のたたかいを続けてきました。(p.293)

普久原均 (『琉球新報』編集局長)

 沖縄本島の2割近くを虫食い状態にして、残った所に100万人以上の住民が苦しみもがきながら日常生活を送るという苛酷な重荷を負わせているにもかかわらず、さらに貴重な美しい自然のある場所を餌食にして潰そうとしている。こんな選択を唯一の選択というのが、詭弁でなくてなんであろう。本当にそうなのか、情報、知識をしっかり駆使して実体を見ることが、米軍基地問題に向き合う主権者の姿であろう。国民一人ひとりにどれほどの財政負担をかけて米軍基地が維持されているのか、若い世代の年金負担問題にもかかってくるのであり、見えやすい問題ではないだろうか。(p.313)

 日本国民の多くが、沖縄に米軍基地を置くことに賛成しているというが、多数決によって決せられないものとして、憲法が基本的人権を保障しているのである。基本的人権を侵害しないという多数決の土俵を守るのが、憲法で主権者とされる国民の責任であろう。(p.314)

by sabasaba13 | 2018-10-02 10:50 | 鶏肋 | Comments(0)