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函館・札幌編(1):函館へ(15.9)

 山ノ神がテレビの旅番組を見ながら何やら騒いでいます。「きゃー函館の夜景って綺麗!」 そうか、彼女は函館に行ったことがないんだ。「きゃー北海道の尾っぽが全部見える!」 ??? もしや渡島半島と勘違いしているのかな。ま、いいか。「きゃーイカが美味しそう、函館行きたーい」 よろしい、「人生意気に感ず、功名誰か論ぜん」、連れていってあげましょう。
 というわけで、2015年の長月、三泊四日で北海道旅行をしてきました。初日は函館観光と函館山からの夜景を堪能。二日目の午前も函館をぶらついて、大沼公園へ。しばし散策してから札幌へ移動。カニを腹いっぱい食べて札幌泊。三日目は、「まっさん」ファンである彼女の要望を入れて余市のニッカ工場を見学。そしてモエレ沼公園「海の噴水」のライトアップを楽しみましょう。そして「やまか」でジンギスカンを満喫。四日目は新千歳空港10:30発の飛行機しかとれなかったので、観光は無理ですね。おとなしく帰郷しましょう。持参した本は、『沖縄現代史 新版』(新崎盛暉 岩波新書)と『沖縄と米軍基地』(前泊博盛 角川oneテーマ21)です。

 2015年9月中旬の土曜日、6:55発のAIR DO 057便で函館に飛び立ちました。そういえばAIR DOに乗るのは初めてです。機内誌『ラポラ』を紐解くと、「北海道人物伝」という特集記事に"秀作「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」を描き、人々を圧倒した松前藩家老 蠣崎波響(かきざきはきょう)"という見出しがありました。そして一番下に「夷酋列像」が小さな写真で紹介されていたのですが…どこかで見たことがあるぞ。そうだ! 「週刊朝日百科 日本の歴史」で見た覚えがある。不敵な面構えをしたアイヌの長の全身像、今でも網膜に焼きついて忘れられない絵です。ちなみに今、確認したところ、中世Ⅱ‐④「海 環シナ海と環日本海」(p.5-125)に掲載されています。ただし「市立函館図書館蔵」と記してあるので、模写のようですね。その「夷酋列像」のオリジナルが里がえりして今年の4月にオープンした北海道博物館で展示されているとのことです。へえー、これは万難を排してでも見に行かなければ。でもマニアックな絵だしなあ、山ノ神が賛同してくれるかどうか。"Persuade, or perish."(E.H.ノーマン)、何とか説得しましょう。
by sabasaba13 | 2018-10-30 06:24 | 北海道 | Comments(0)

卵かけご飯

 ひさしぶりの「だまたべ(騙されたと思って、食べてみて)」コーナーです。以前に「瓢亭たまご」の作り方を紹介しましたが、もうひとつ美味しい卵の食べ方を披露します。ちなみに某料理番組を見た山ノ神が教えてくれたレシピです。
 いや、レシピというほど大仰なものではありません。用意するものは炊き立ての熱々のご飯、醤油、生卵、それだけ。あっ一徹さん、卓袱台を倒さないで、普通の卵かけご飯とは手順が違います。まずはご飯に醤油をたらしてよくかき混ぜる。そこに溶いた生卵をかけてフィニート。あっ大魔神さん、顔を変えないで、百聞は一食に如かず、とにかく食べてみてください。

 ねっ美味しいでしょ。ご飯の熱で暖められた醤油のかぐわしい香りと、卵のピュアな味わいの、奇跡のマリアージュ。お試しあれ。

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by sabasaba13 | 2018-10-28 07:05 | 料理 | Comments(0)

言葉の花綵184

 戦争のように大切なことを、軍人に任せておけるかね。(ジョルジュ・クレマンソー)

 ひとというものは、ひとのために、何かしてあげるために生まれてきたのス。(宮沢イチ)

なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ (宮沢賢治 『告別』)

 どうか今のご生活を大切にお護り下さい。上のそらでなしに、しっかり落ちついて、一時の感激や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで行きませう。(宮沢賢治)

 自分が楽になる方を選んじゃいけないね。苦しくなる方へ進むと道がひらけるんじゃないかな。(高木仁三郎)

 それ見ろ、だから言ったんだ。(H・G・ウェルズの墓碑銘)

 私が長い人生で学んだ最大の教訓は、誰かを信頼に値する存在にしたければ、その相手を信頼するしかないということです。相手を信頼に値しない存在にしたければ、最も確実な方法は相手を信頼せず不信感をあらわにすることなのです。(ヘンリー・スティムソン)

 血の流れにここまで踏みこんでしまった以上、今さら引き返せるものではない。思いきって渡ってしまうのだ。(『マクベス』 シェークスピア)

 美しい〈花〉がある。〈花〉の美しさという様なものはない。(小林秀雄)

 望ムトコロハ瓦全ニアラズシテ玉砕ニアリ (朝日平吾)

 政治は力である。(原敬)

 政治は妥協である。(床次竹二郎)

 政治は倫理である。(後藤新平)

 政治的行動と動機とがそこに還元される特殊に政治的な識別とは、友と敵に関する識別である。(カール・シュミット)
by sabasaba13 | 2018-10-26 06:24 | 言葉の花綵 | Comments(0)

望月衣塑子講演会

c0051620_21492128.jpg 『武器輸出と日本企業』(角川新書)を読んで以来注目してきたのですが、東京新聞社会部記者の望月衣塑子氏が、最近脚光を浴びるようになってきました。嬉しいことです。木で鼻を括ったような、上から目線の、誠意の「せ」の字も真摯の「し」の字も感じさせない、傲岸不遜な態度の菅義偉官房長官を舌鋒鋭く問い詰める場面には、思わず快哉を叫びたくなります。
 その彼女を支えているのは、真実を隠そうとする政治家や官僚に対する怒りだと思います。最近読んだ『新聞記者』(角川新書)の中で、望月氏はこう述べられていました。
 …500回以上の官邸会見を見続けてきた南記者によれば、会見で手を挙げているのに、内閣記者会の記者が質問を打ち切るという光景は、いまだかつて見たことがないという。
 なぜ同じ記者が打ち切るのか…
 信じられない思いで取材してみると、おどろくような事実がわかってきた。
 8月下旬、菅長官は幹事社を通じて菅番の担当記者に、会見時間を短縮したいとの趣旨を打診してきたという。番記者は「時間制限はできない」と突っぱね、要求は呑んでいないというが、あと「〇人」「あと〇回」と官邸の広報官が質問を打ち切っているのを認めているのが現状だ。
 これは、メディアの自殺行為ではないか。
 あまりの出来事に呆然とし、愕然とした気持ちで涙があふれそうになった。日本のメディアの限界なのかと足が震えるほどの衝撃を受けた。
 さらに、事前に質問を渡すことも本格化しているように思える。この手法は以前からあり、官房長官会見に限らないが、最近は菅長官が手元のペーパーを見ながら答えることがほとんどになってきた。これをシャンシャン会見といわずになんというのか。
 以前私は、前川事務次官に対する「教育者としてあるまじき行為…」という非難の言葉までも菅氏が下を向いて発していたので、思わずこう聞いてしまった。
 「事前に準備されたペーパーを読み上げているのですか」
 すると菅氏が怒りをあらわにこういった。
 「あなたにそんなことを答える必要はない」
 このごろは最初から手を上げてもぜんぜん指名してもらえない。挙手しているのが私しかいなくなると、やっと当てられるという状況だ。(p.185~7)
 呆然、愕然、涙、衝撃。氏の熱い思いが伝わってくる一文です。詩人の茨木のり子氏が、詩歌とは"喜怒哀楽"を表現するものだが、日本の詩歌にもっとも欠けているのは"怒"だとおっしゃっていました。これはジャーナリズムにも言えるのではないでしょうか。真実を隠蔽する権力者への怒りが、ジャーナリズムの根幹にあるべきだと考えます。

 その望月衣塑子氏が、練馬文化センター小ホールで講演会を行なうという耳寄りな知らせが届きました。これは是非聞きたいものです。山ノ神といっしょに駈けつけました。
 嬉しいことに小ホールはほぼ満席、残念なことに若者の姿があまりありません。韓国でも、香港でも、台湾でも、若者は社会や政治に強い関心をもって闘っているのになあ、残念だなあ。

 そして望月氏の登壇。さあどんな語り口で報道について述べてくれるのでしょう。キャリア・ウーマンのような冷徹で抑制的な語り口かな、と勝手に予断をしていたのですが… 飛んでも八分歩いて十六分。その早口、声のでかさと張り、大げさな抑揚、迫力、まるでMG08重機関銃のようです。それに加えて、手ぶり身振り顔振りをまじえたオーバー・アクション。いやはや圧倒されました。
 肝心の内容ですが、「記者として私のテーマ」として「権力側が隠そうとすることを明るみに出すこと!」を挙げられていました。また取材で感じていることは「記者会見の発表は、当局に都合のいい事実」「不都合な真実は隠したい」「キーマンを見つけ、何度も聞く」「嘘をつかれて当たり前」「隠すことにすべての関係者が納得しているわけではない」「だんだん嘘と真実の見分けがつくように」と、現場で場数を踏んだ記者でなければ言えない言葉ばかりでした。
 中でも一番印象的だったのが、官僚たちがメディアを恐れていること、政治家はそれに加えて選挙を恐れていることです。ある防衛官僚のところへ取材に行って、「あんな記事を書きやがって!」「あなたは国防がわかってない」と恫喝されたそうですが、その際、その官僚がいかに「東京新聞」を隈なく丁寧に読んでいるかがわかったそうです。「東京新聞の一番の愛読者は防衛官僚のみなさん」と笑っておられましたが。官僚諸氏は、自分たちの政策や発言がどう報道されるのかについて、ほんとうに細心の注意を払っておられるのですね。
 政治家については、9月30日の沖縄県知事選の敗北で、官邸の空気が一変したと紹介されていました。
 真実を伝える報道によって正確な判断をして、少しでもまともな候補者に一票を入れる。"愚者の楽園"に堕したこの国を立て直すための直近の道はそれしかないと痛感しました。頑張れ、望月さん。

 第2部のパネルディスカッションでパネラーとして登壇したのが猿田佐世氏(弁護士)です。シンクタンク「新外交イニシアティブ(ND)として、さまざまな外交・政治問題について、ワシントンにおいて米議会等にロビイングを行う他、国会議員や地方公共団体等の訪米行動を実施されている方です。つい最近、氏の著『自発的対米従属』(角川新書)を読んだばかりでしたので、どんな話を聞けるのか楽しみにしていました。
 望月氏を"動"とすれば、猿田氏は"静"。ひとつひとつの言葉を吟味しながら、理性的に話す冷静沈着な語り口が印象的でした。望月氏とのあまりの違いに思わず緩頬。
 内容については、前掲書をほぼ踏襲するものでしたので、引用します。
 典型的な「アメリカの声」の発信源となってきたアメリカの知日派は、アメリカの中の少人数の集まりにすぎない。しかも、その限られた人たちに情報と資金、そして発言の機会を広く与え、その声を日本で拡散しているのは日本政府であり日本のメディアである。日本の既得権益層が、いわば一面「日本製の"アメリカの外圧"」ともいえるものを使って、日本国内で進めたい政策を日本で進める-。これが長年続いた手法となっているのである。このように、日本も関与したアメリカからの外圧作りを私は「ワシントンの拡声器効果」を利用するものと表現してきた。(p.9)
 この「日本製の"アメリカの外圧"」を破砕するためにも、外交を政府の専権事項と決めつけるのではなく、さまざまなチャンネルを通した外交が必要という主張には納得しました。

 望月氏の報道と猿田氏の活動、これからも注目していきたいと思います。

 追記。望月氏のレジュメに次の一文がありました。
ニュース23での質問で…
加計問題で「利害関係者と頻繁にゴルフ好ましくないのでは?」
安倍首相「ゴルフに偏見をもっておられると思います。ゴルフはオリンピックの種目にもなっていますから。ゴルフはダメで、テニスや将棋は良いのか」…
 また猿田氏の前掲書からも引用します。
 2016年4月7日の衆議院TPP特別委員会で、民進党の柿沢未途議員はこの点を突き、かつては断固反対と言っていたTPPに活路を見出そうとしているのではないか、と阿部首相に質問した。
 すると安倍首相は、こう答えたのである。
 「私自身は、TPP断固反対などと言ったことは一回も、ただの一回もございませんから。まるで私が言ったかのごとくの発言は慎んでいただきたい」
 しかし、2012年12月の総選挙で「ウソつかない。TPP断固反対。ブレない。」のスローガンを掲げたとき、安倍氏は自民党総裁だったのである。このような詭弁が許されるだろうか。(p.107)
 嗚呼、こんな暗愚な嘘つきが日本の首相なのか… そして彼に、彼が率いる政党の候補者に一票を入れる有権者は…

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2018-10-24 06:25 | 講演会 | Comments(0)

『乱世備忘』

c0051620_214275.jpg 小熊英二氏が監督した映画『首相官邸の前で』上映後のトーク・ショーで、歴史・文化社会学者のCheung Yuk Man氏と学生運動にコミットしている香港在住の女子大学生・周庭(アグネス・チョウ)氏の話を聞いて以来、そして『香港 中国と向き合う自由都市』(倉田徹/Cheung Yuk Man 岩波新書1578)を読んで以来、香港における民主化運動に興味を抱いています。
 中でも前掲書での「雨傘運動」に関する叙述は圧巻でした。2014年、中国は、2017年に予定される香港初の政府トップ・行政長官の選挙において、北京と対立する民主派が出馬できなくなるような制度を決定しました。民主派と学生はこれに怒り、9月28日から12月15日までの79日間、香港中心部を占拠しました。催涙弾に雨傘を差して耐える市民の姿から、この運動は「雨傘運動」と称されます。占拠された地域の近くに住み、自らこの運動を体験したCheung氏が、占拠区の個人がそれぞれどうこの運動を作り上げたかを証言されています。例えば…
 2014年9月28日午後4時ごろ、学生たちを支援にきた市民が車道に溢れた。彼らは学生を包囲した警察の封鎖線を突破しようとしたため、警察による催涙ガスでの攻撃と、傘の防御陣との間での攻防戦が繰り返されていた。午後5時58分、一発目の催涙弾が発射された。市民はいったんは一斉に散ったが、一部はやがて方々から戻ってきた。暴徒と見なされると、警察の暴力に口実を与えるので、市民は手をあげて降参のポーズで、時に逃げたり、時に機動隊に立ちふさがったりして、平和主義を貫いた。大量の市民を全員逮捕することはできないし、報道カメラを前に市民に発砲もできない警察は、催涙弾を乱発するしかない。
 ゲリラ戦術といえば聞こえはいいが、香港人らしい弱虫戦術だ。一人ひとりの命と身の安全が大事、危険なら一時的に避ける。無駄な犠牲は要らないが、屈服しない。武装抵抗ではなく、野次馬根性で粘りぬいたことは、雨傘運動の長さと広がり、そして死者が出なかったことの理由のひとつだ。(p.173~4)
 "弱虫戦術"…いいですね。これなら私たちの闘いにも応用できそうです。この雨傘運動に加わった陳梓桓(チャン・ジーウン)監督が撮ったドキュメンタリー映画『乱世備忘 僕らの雨傘運動』が、ポレポレ東中野で上映されるとの耳よりな情報をキャッチ。さっそく山ノ神を誘って見にいってきました。
 まずは公式サイトから、雨傘運動のいきさつを転記します。
 1997年、中国に返還された香港は「特別行政区」となった。「香港特別行政区基本法」には将来、「普通選挙」で行政長官を選ぶ事ができるとされたが、2014年北京は、共産党が支持しない候補を選挙から排除する仕組みを導入する「8.31決定」を下し、民主主義的な普通選挙の道は閉ざされた。「8.31決定」の撤回、「真の普通選挙」の実施を求め、香港の金融街・中環(セントラル)を占拠する「オキュパイ・セントラル」が計画された。大学では授業ボイコットが行われ、黄之鋒(ジョシュア・ウォン)ら若者による組織「学民思潮」は、政府本庁舎前で抗議活動を開いた。催涙弾で鎮圧しようする警察に、数万人におよぶ学生、市民たちが雨傘で抵抗した事により「雨傘運動」と呼ばれるようになった。しかし成果を得ないまま占拠を続ける運動に対して徐々に市民からの反発も強まり、79日間に及ぶ「雨傘運動」は終了した。金鐘(アドミラルティ)に残ったバリケードには、「It's just the beginning /まだこれからだ」というメッセージが残されていた。
 その後、黄之鋒は「民主の女神」こと周庭(アグネス・チョウ)と共に、香港の自決権を掲げる政党「香港衆志(デモシスト)」を創設。2018年、周庭が立法会議員補欠選挙出馬の届け出を行うも認められず、香港の「高度な自治」が脅かされているとの懸念が高まっている。
 へえー、周庭(アグネス・チョウ)は「民主の女神」と呼ばれていたのですね。ま、それはさておき、当時27歳だった陳梓桓監督が、ハンディ・カメラを片手に民主化を求めるデモや集会の輪の中に入り、臨場感と熱気に溢れる映像を贈ってくれました。ただ自分たちの真の代表を選びたい、自分たちの未来は自分たちで決めたい、そうしたシンプルな思いに駆られて集まった若者たちを、カメラは優しくとらえていきます。彼が出会った大学生のレイチェル、ラッキー、仕事が終わってからデモに駆けつけてくる建築業のユウ、授業のあと1人でデモに来た中学生のレイチェル、みんな自然体でいい表情をしていました。テントを張り、雑魚寝をして、水を運び、掃除をし、勉強を教え合いながら闘うその姿は、まるでコミューンのようでした。話し合い、助け合い、悩み、笑いながら闘った79日間。若者たちが、自己決定権を求めて軽やかに闘うその姿には感銘を覚えました。敗れはしたものの、It's just the beginning、そう、闘いは始まったばかりです。

 そして日本の若者たちは、この闘いに連帯できるのか… 爺の繰り言ですが、ちょっと心許なく思えます。"若者にはスマホとコンビニを与えておけ"という、アドミニストレーターたちのせせら笑いが聞こえてきそう。前掲書によると、周庭(アグネス・チョウ)氏が、初来日後のフェイスブックに次のように書き込まれたそうです。
 日本はかなり完璧な民主政治の制度を持っているが、人々の政治参加の度合い、特に若者のそれはかなり低い。日本に来て、私は初めて本当の政治的無関心とは何かを知った。(p.223)
 デイヴィッド・イーストンの定義によると、政治とは、社会に対する価値の権威的配分です。大切なものをどう分けるかを考え、決めるのが政治。難しいことでも、恐いことでも、縁遠いことでもないのにね。これに無関心だということは、大切なものに与れなくても文句は言わないよということ。それでいいのか。頑張れ、日本の若者。

 追記です。ポスト雨傘運動の香港についての状況が、『週刊金曜日』(№1194 18.7.27)に掲載されていました。ふるまいよしこ氏の一文です。
 中国の政治支配に抗議すべく、2014年に香港で起きた雨傘運動。3年半経った今、天安門事件を契機に生まれた伝統的民主派と、ポスト雨傘の若者層の間に、深刻な亀裂が生じている。(p.42)

 運動の失敗、白紙の撤退、そして香港政府と香港警察による暴力的ともいえる強行排除。これらは、ポスト雨傘運動の香港社会に大きな亀裂を生んだ。
 運動中はまだ参加者たちは政府への不満を抱えながらも、香港政府にまだ一縷の信頼と期待を寄せていた。大量の市民が座り込むきっかけとなった催涙弾発射という前代未聞の対応も、その後占拠された路上付近をパトロールする警官たちに対する憎悪に変わることはなかった。
 だが、政府側との交渉はまったく進展せず、さらに強制排除に乗り出した警察の暴力、特にデモ参加者を引き抜いて暗闇に連れ込み、集団で殴る蹴るなどの様子を撮影した映像が公開されるやいなや、運動の失敗に対する失望感から市民の政府や警察の公正性への信頼感は完全に消滅。
 さらに亀裂は香港社会を細かく引き裂いた。
 運動失敗の挫折感はそのまま、香港の現体制に対する全面的な否定に変わった。そこから、「香港がなぜ今みたいになったのか」を彼らなりに探し求めた結果、冒頭のような認識(※中国政府に付け込むスキを与えたのは全部、民主党の責任だ)が共有されるようになってしまったのである。
 ポスト雨傘後に出現した若き民主活動家にとって、中国政府統治下の香港という図式や「一国二制度」という制度もすでにアンタッチャブルなボトムラインではなく、逆に「民主化によって拒絶できるもの」になった。
 そして香港返還前から香港の民主化を叫び続けてきた民主派(一般に「伝統的民主派」と呼ばれる)を「一国二制度という中国の統治を受け入れた、ニセの民主派」とまで呼ぶようになったのだ。
 だが、返還前の香港を見守り続けたわたしからすれば、当時の香港では全般的に「主権返還」と「一国二制度」は来るべき既存の事実であり、伝統的民主派にとってその枠の中でいかに市民が自治に関与できる民主的権利を手に入れるかが最大の課題だった。
 しかし、返還後に生まれた若者たちは「一国二制度を受け入れるかどうか」の選択権を持つはずだと主張。その結果、伝統的民主派は彼らにとって、「中国政府の統治に加担し、香港人の権利を売り渡した勢力」としてみなされるようになった。
 冒頭のような、歪められた自身の歴史を、伝統的民主派は当然否定している。だが、若くパワーと熱気あふれる若者たちの声にそれはかき消されてしまっているのだ。
 中国政府はきっと香港社会のそんな亀裂をほくそ笑んで眺めている。亀裂が深まれば深まるほど、香港社会は二度と団結などできなくなる。世界の耳目を集めた雨傘運動のような抗議活動はもう二度と起こり得なくなった。これからの香港は一体どうなっていくのだろうか。(p.43)

by sabasaba13 | 2018-10-22 06:29 | 映画 | Comments(0)

仁淀川編(48):高知龍馬空港(15.8)

 そしてタクシーで高知龍馬空港へ、結局タクシー代は7000円かかりました。空港の売店で、ずっと気になっていた「高知家」というTシャツを購入。いま調べてわかったのですが、"高知家"とは、高知県振興キャンペーンの名称で、「高知県はひとつの大家族やき」をキャッチフレーズとし、同県全体を「家」と見立てて観光客誘致を行なっているそうです。
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 「帰ろう!変えよう!高知県 林業 出る杭求む」という幟や。レストランのメニュー「おきゃくそうめん」やを撮影していると、「お遍路さん着替コーナー」がありました。さすがは四国ですね。また空港内の一画には吉田茂を紹介するコーナーがありました。
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 後学のために転記します。
名宰相・吉田茂とは-
 明治11年生まれの吉田茂は五回にわたって内閣総理大臣に任命された日本でただ一人の政治家である。
 優れた政治感覚と強いリーダーシップで「サンフランシスコ平和条約」を締結させ、戦後日本の礎を築いた。
 実父は、高知県宿毛市出身の実業家・政治家の竹内綱。
 三歳で東京にいる竹内の親友・吉田健三の養子となるが、後に選挙活動のため度々高知を訪れている。
 しかしながら吉田は地元へ利益誘導を図る政治家ではなく、「私は日本の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴した話は有名である。それでも高知で当選し続けた吉田は、真に偉大な政治家として認められていたと言えるだろう。

 高知が彼を贔屓とする気持ちは分かりますし、"優れた政治感覚と強いリーダーシップ"という点にも異論はありませんが、"真に偉大な政治家"という点は留保したいと思います。『吉田茂とその時代』(中公文庫)の中で、ジョン・ダワー氏がこう述べられています。

 アメリカの冷戦戦略への同調は、広くさまざまな経済的機会と恩恵に門戸を開くことによって、日本に数えきれない経済利益をもたらしたが、しかし吉田自身の考え方からみても、日本の払った代償はかなり大きかった。日本は希望しない基地を受け入れ、最も近い最大の隣国から隔絶し、日本の当局者自身の多くが近視眼的で軍国主義的と認める世界的冷戦政策を支援することを強いられた。(下p.332)
 冷戦の終結によってアメリカは日本を経済的に優遇する必要がなくなり、収奪の対象と見るようになりました。アメリカが与えてくれる経済利益はなくなったにも関わらず、アメリカが望んでいる中国との隔絶、基地の受け入れ、そしてアメリカの軍国主義的世界政策への支援は続いています。これは吉田茂が残した大いなる負の遺産です。彼の功罪をきちんと検証し、清算すべきものは清算する時期に来ていると思います。
 そしてANA 568便に乗って出発、無事に帰郷することができました。

 後日談です。『しんぶん赤旗』(2018.5.31)を読んでいたら、「反戦詩人 槇村浩の町」という記事がありました。槇村浩という詩人の存在を寡聞にもはじめて知ったのですが、高知市生まれなのですね。高知・朝倉の陸軍歩兵第44連隊兵営内に「兵士よ敵をまちがえるな」という反戦ビラをまいたり、朝鮮人の不屈の抵抗を主題にした長編叙事詩「間島パルチザンの歌」を書いたりした詩人です。1932年に逮捕され3年余の獄中生活を送りますが、非転向を貫きます。しかし1936年に再検挙され、拘禁性躁鬱病などを発病して38年に病没されました。享年26歳。
 彼を顕彰する「平和資料館・草の家」や、城西公園内の詩碑が高知市内にあるとのこと。まだまだ知らないことがたくさんあるのですね、当たり前ですが。槇村浩、彼の名前を心に刻んで、高知を訪れる機会があったら、ぜひ訪れてみようと思います。
by sabasaba13 | 2018-10-20 06:13 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(47):高知(15.8)

 見るべきほどのことは見つ、それでは高知龍馬空港へと向かいましょう。タクシーの運転手さんに、JR高知駅まで行ってと言うと、彼は必死の形相で「空港まで送らせてくれ」と哀願します。鰹のタタキが美味しい店を紹介する、食事の間はメーターを止める、空港に向かう途中でメーターを止める、といったオファーを提示しました。うーん、どうしよう、山ノ神と相談し、情けは人の為ならず、タクシー業界の不況も聞いたことがあるので、受諾しました。
 弾けるような笑顔とともに、運転手さんが連れていってくれたのが「葉牡丹」というお店です。鰹たたき(タレと塩)、スタミナ豆腐、焼ナス、串フライと串焼きの盛り合わせをたいらげました。うん、安くて美味しかったですね。後でわかったのですが、「高知家グルメガイド」では、高知県民が選んだ54店舗にもランキングされていました。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-10-18 06:14 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(46):寺田寅彦墓所(15.8)

 さて受付で寅彦の墓所を訊ねると、一所懸命調べてくれました。東久万にある「アンク犬猫病院」の脇道を行ったところの高台中腹にあるそうです。また小津神社に、寅彦ゆかりの石灯籠と石橋があることも教えてくれました。多謝。よろしい、タクシーで廻ってもらいましょう。ミュージアム・ショップで「寺田寅彦 -天然に育まれし眼差し-」と、彼の絵・サインが描かれた珈琲カップを購入しました。
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 そしてふたたび「ひろめ広場」に行きましたが、「明神丸」は大混雑。いさぎよく藁焼き鰹たたきは諦めました。近くでタクシーに乗り、まずは小津神社に寄ってもらいました。こちらにある石灯籠と石橋は、父・寺田利正によって奉納されたものです。解説を転記します。
 この石灯籠は寺田寅彦先生が青年時代に肺を患い尊父利正氏ともども氏神様の小津神社に病気平癒のお願をかけられ祈願成就お願ほどきに奉納されたものであります。
 なお後日、寅彦が通学した江ノ口小学校に、彼の記念碑があるとのことがわかりました。
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 次は掃苔です。東久万にある「アンク犬猫病院」の脇道でタクシーを降りると、「寺田寅彦墓 この上約40M登る・目標は桜の樹」という立て札がありました。やった。急な山道をすこし登ると、街を見晴らせるところに、六つの墓が肩を寄せ合うように並んでいました。
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 解説を転記します。
 王子谷の墓地には寅彦、父利正、母亀、三人の妻夏子、寛(ゆた)子、紳の6人が眠っている。利正は宇賀家の出、陸軍会計監督。退役後山内家の財政顧問。寅彦は一人息子。寅彦が高知に住んだのは長くないが、大川筋での幼少年時代須崎での療養生活は彼の随筆に散文詩的に懐かしく回想されている。夏子は20才、寛子は31才で亡くなる。この科学的天才も妻の運には恵まれなかった。寅彦は1935年東京で病没。58才。墓誌は友人の小宮豊隆の撰と書。
 合掌。しばらくは彼の背中を追い続けていくつもりです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-10-16 06:22 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(45):高知県立文学館(15.8)

 山内一豊騎馬像の前を通り、高知県立文学館に着きました。
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中江兆民、植木枝盛、幸徳秋水、田中英光、タカクラテル、安岡章太郎、清岡卓行、宮尾登美子、倉橋由美子など、高知県ゆかりの作家、文学者と作品を紹介する文学館です。お目当ては何と言っても、寺田寅彦記念室です。彼のプロフィール、作品、業績などが丁寧に紹介されており、しかも見学している方は数人、静寂な空気の中、寅彦ワールドを堪能することができました。愛用の帽子や、彼が弾いていたチェロなども展示されています。なお『バイオリンを弾く物理学者』(末延芳晴 平凡社)の中に、弦楽器に関する興味深い随筆『「手首」の問題』が収められています。
 バイオリンやセロをひいてよい音を出すのはなかなかむつかしいものである。同じ楽器を同じ弓でひくのに、下手と上手ではまるで別の楽器のような音が出る。下手な者は無理に弓の毛を弦に押しつけこすりつけてそうしてしいていやな音をしぼり出しているように見えるが、上手な玄人となると実にふわりと軽くあてがった弓を通じてあたかも楽器の中からやすやすと美しい音の流れをぬき出しているかのように見える。これはわれわれ素人の目には実際一種の魔術であるとしか思われない。

 玄人の談によると、強いフォルテを出すのでも必ずしも弓の圧力や速度だけではうまく出るものではないそうである。たとえばイザイの持っていたバイオリンはブリジが低くて弦が指板にすれすれになっていた、他人が少し強くひこうとすると弦が指板にぶつかって困ったが、イザイはこれでやすやすと驚くべき強大なよい音を出したそうである。

 この魔術のだいじの品玉は全くあの弓を導く右手の手首にあるらしい。手首の関節が完全に柔らかく自由な屈撓性を備えていて、きわめて微妙な外力の変化に対しても鋭敏にかつ規則正しく弾性的に反応するということが必要条件であるらしい。もちろんこれに関してはまだ充分に科学的な研究はできていないからあまり正確な事は言われないであろうが、しかし、いわゆるボーイングの秘密の最も主要な点がここにあるだけは疑いのないことのようである。

 物理学的に考えてみると、一度始まった弦の振動をその自然の進行のままに進行させ、そうしてそのエネルギーの逸散を補うに足るだけの供給を、弦と弓の毛との摩擦に打ち勝つ仕事によって注ぎ込んで行くのであるが、その際もし用弓に少しでも無理があると、せっかく規則正しく進行している振動を一時邪魔したり、また急に途中から別なよけいな振動を紛れ込ませたりしてそのために音がきたなくなってしまうのである。そういうことのないようにするためには弓がきわめて敏感に弦の振動状態に反応して、ちょうど弦の要求するエネルギーを必要にしてかつ有効な位相において供給しなければならない。

 この微妙な反応機巧は弦と弓とが一つの有機的な全系統を形成していて、そうして外部からわがままな無理押しの加わらない事が緊要である。
 このように楽器の部分としての手首、あるいはむしろ手首の屈曲を支配する筋肉は、少しも強直しない、全く弛緩した状態になっていて、しかもいかなる微細の力の変化に対しても弾性的に反応するのでなければならないのである。
 なるほど、チェリストの末席を汚す者としてたいへん参考になります。他にも「渦巻きの実験」「地滑りの実験」「割れ目と生命の実験」といったビデオもあり、食い入るように全部見てしまいました。中でも、三毛猫の模様を布にうつして切り取り、ひとつにすると球体になるという実験には、目から鱗が落ちました。細胞分裂が進んだ受精卵(胚)の割れ目が、毛の模様となるという仮説です。恐るべし、寺田寅彦。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-10-14 06:46 | 四国 | Comments(0)

仁淀川編(44):高知(15.8)

 「大橋通」で下りると、「高知城200m→ 私のお城500m→」という、不動産業の看板がありました。山田くん、座布団を一枚。そして「ひろめ市場」に到着です。
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 かつてここに土佐藩家老・深尾弘人蕃顕(ふかおひろめしげあき)の屋敷があったことによる名称で、中に入ると高知名物を食べさせてくれるいろいろな飲食店が蝟集した屋台村です。しかし…とんでもない混雑で、とても落ち着いて食べる気にはなれません。文学館を見た後に、もう一度寄ることにしました。なお『週刊金曜日』(№1175 18.3.9)の「写日記」で、松元ヒロ氏がこう語られていました。
 土佐の高知市でライブを演りました。お昼からの公演でしたので前日入りして皆さんと一杯。翌朝、迎えの方と会場に行く時「ちょっとここを通って行きましょう」と入ったのがこの写真の「ひろめ市場」です。高知城のすぐ下の帯屋町。土佐藩の家老、深尾弘人蕃顕(ふかおひろめしげあき)の「ひろめ屋敷」があった場所にできたので「ひろめ市場」。「高知の文化をひろめ、人情をひろめる」ための屋台村です。見てください。午前10時半にビールやお酒を飲んでいるのです。日曜日なので観光客も入り乱れてこの賑わい。「スゴイですね」と聞くと「さすがに平日は少し減りますが」「少しですか?」「はい」。姫路や高松でもこれを真似た店をオープンさせたそうですが、二年ともたずに閉店。
 高知は特別なんです。昔から老若男女、飲むそうです。会社で会議をやっていても「あとは一杯やりながら話そうじゃないか」とお店に全員で。お酒が入ると「課長、部下だからって、なめたらいかんぜよ!」「なんだと!」となっても、翌日「課長、昨日は失礼しました」「えいき、えいき、ちくと飲んで行こう」となるのです。坂本龍馬もこうして仲間を増やしていったのかもしれません。飲むと一気に距離が縮まって友だちになれます。その友だちの輪が広がれば平和になります。そう、自由民権運動もこの土佐からはじまりました。ライブを取材に来た『高知新聞』の部長さんが教えてくれました「高知は安倍政権の不支持率が最も高いんですよ」。どうりで、反権力、反体制の空気を客席に感じました。「佐川国税庁長官? ウソこくぜい庁長官だ!」「そうぜよ!」と盛り上がり、長く演りすぎたため、すぐ空港へ。「アチャ~ 飲めなかったぜよ!」 (p.61)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-10-12 08:02 | 四国 | Comments(0)