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函館・札幌編(9):函館(15.9)

 はこだて明治館は、1911(明治44)年に函館郵便局として建てられた赤レンガの重厚な建造物ですが、現在はショッピングモールとして活用されています。
 そして金森赤レンガ倉庫に向かいますが、小腹がへったので「みなとの森」というカフェに立ち寄ってワッフルと珈琲をいただきました。味にうるさい山ノ神はワッフルの生クリームを絶賛。
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 なおこちらのトイレ男女表示は、アルベルト・ジャコメッティの彫刻の如くソリッドなものでした。
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 金森赤レンガ倉庫は、長崎から来函し、輸入雑貨や船具などの販売を手掛けていた初代渡邉熊四郎が1887(明治20)年、既存の建物を買い取って営業倉庫業に乗り出したのが始まりです。海運の活況により、荷物の取扱量が年々増加していったため、倉庫の増築で営業規模を拡大していきました。そんな最中、1907(明治40)年に発生した大火で倉庫6棟を焼失し、不燃質の倉庫として1909(明治42)年に再建されたのが、現在の建物です。現在では、飲食店や土産物店が入居する複合施設へと姿を変えて、観光スポットとなっています。函館山を背景に、櫛比する重厚なレンガ倉庫群、フォトジェニックな光景です。なおその中には、赤レンガ倉庫を模したご当地ポストがありました。
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 海岸に出ると、新島襄のブロンズ像がありました。以下、「公式観光情報はこぶら」から引用します。
 新島襄は、五稜郭を設計した武田斐三郎が教授をしていた諸術調所に入るために箱館にやって来ました。しかし、武田は江戸へ帰っていたため、塾頭の長岡藩士・菅沼精一郎の紹介で、ロシア領事館付きの司祭ニコライの日本語教師となりました。その後、鎖国の禁を破ってでも海外見聞をしたいという強い情熱のもと、1864(元治元)年6月14日夜、大町の築島の波止場から1艘の小舟で沖に出た後、湾内に停泊するアメリカ商船ベルリン号にたどり着き、密出国に成功。海外で見聞を広め、後に同志社英学校(現在の同志社大学)を創設しました。ブロンズ像では、小舟に乗って密出国する時の姿が表現されており、変装した服装などの様子がわかります。
 その意気やよし。彼の建学の言を紹介します。
 我が校の門をくぐりたるものは、政治家になるもよし、宗教家になるもよし、実業家になるもよし、教育家になるもよし、文学家になるもよし、且つ少々角あるも可、気骨あるも可。ただかの優柔不断にして安逸を貪り、苟も姑息の計を為すが如き軟骨漢には決してならぬこと、これ予の切に望み、ひとえに希うところである。
 嗚呼、"姑息の計を為すが如き軟骨漢"が溢れた、根腐れした今の日本を見たら、彼は何と言うでしょうか。なお彼が海老名弾正と共に設立した安中教会も以前に訪れたことがありました。

 本日の三枚です。
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 追記です。最近読んだ『日本史の論点 邪馬台国から象徴天皇制まで』 (中公新書編集部編 中公新書2500)に、次の一文がありました。

 西洋の文物も、幕府許可のもと、ある程度入ってきた。江戸の人々は、「イソップ物語」(「伊曽保物語」)を読み、キリスト教の知識もあった。幕末期、アメリカに密航する上野安中藩の新島襄は、若い頃友人からキリスト教の翻訳書を借りて勉強した。彼は、これらの本を読んでキリスト教に興味をもち、渡米を決意する。その後、箱館での潜伏を経て、国禁を犯し渡米するが、なんとアメリカで、国元(上野安中藩領)の実家と手紙を交わしている。幕府が倒れたこともアメリカにいながら知っており、帰国した際に、禁を犯した彼を家族が追い払うこともなかった。(p.108)
by sabasaba13 | 2018-11-17 06:25 | 北海道 | Comments(0)

函館・札幌編(8):函館(15.9)

 見るべきほどのことは見つ、守衛さんに丁重にお礼を言って退出。「函館どつく前」行きの市電に乗って、「十字街」で降りました。キノコのような愛らしい市電操車塔もご健在、よかった。なおこの操車塔は1939(昭和14)年に建てられたもので、かつては始発から終電まで職員が詰め、ポイントや信号の切り替えに当たっていたそうです。1995(平成7)年にお役御免となったのですが、ここ十字街前に移設・形態保存した函館市の識見に敬意を表します。
 すぐ目の前にあったのが「北海道坂本龍馬記念館」ですが、龍馬と北海道はどういう関係にあるのでしょうか。今、記念館のホームページを閲覧したところ、彼はずっと北海道開発に意欲をもっていたのですが積年の志を果たせずに暗殺されてしまったとのことです。この記念館は、近代日本の礎を築き、北海道開拓を目指した坂本龍馬の生き方や精神、そして坂本龍馬が生きた幕末・維新の時代背景、また坂本龍馬の意志を継いで北海道に渡った子孫の人々の調査・研究を企図して開館されたそうです。ま、別に見なくていいかな。龍馬の顔はめ看板を撮影して、スルーしました。
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 このあたりには、函館独特の上下和洋折衷住宅が二棟ありました。「公式観光情報はこぶら」からのご教示ですが、一階が和風、二階が洋風に設計された木造二階建ての店舗・住宅が「上下和洋折衷(擬洋風)」様式です。日米和親条約(1854)によって開港された箱館(函館)ですが、土地が狭かったため、神戸や横浜とは違い、領事館・外国人住宅が市街地に雑居状態となりました。外国人と一緒に住むことになった函館の大工たちは、外国人の指導のもとで、まったく経験のない教会や領事館などの洋風建築に取り組みます。その後、宣教師や外国人商人の洋風住宅建築も依頼され、並々ならぬ苦労を重ねながら技術を習得しました。ところが、開港したとはいえ函館の輸出入額はわずかなもので、外国商人はより大きなマーケットを求めて横浜や神戸を目指し、函館を去り始めます。せっかく苦労して洋風建築技術を習得した函館の大工たちには、洋館を建てる機会が減少する一大事。そこで、当時財力があった海産商を中心に、店舗・住宅の建築に洋風の様式を取り入れることを強力に勧誘します。当時の函館商人は、諸外国と不利な商取引を強いられていました。長年の悲願である対等の取引を行うためにも、馴染んだ和風の生活様式を守りつつ、洋風を意識した店舗・住宅で対等な立場を強烈に誇示する必要があると考えられたのでしょう。その後、明治20年代後半から昭和初めまで、商店に限らず庶民の町家にも、洋風を取り入れた「上下和洋折衷住宅」が広まっていきます。特に1907(明治40)年、当時の全戸数の約半分の1万2千戸もが焼失する大火が起きますが、大火後の復興は目覚しく、和洋折衷住宅が函館の街並みを形成していきました。おしまい。なおこうした古い建物の解説板がぜひ欲しいもの、関係者諸氏の善処を期待します。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2018-11-15 06:23 | 北海道 | Comments(0)

函館・札幌編(7):遺愛学院(15.9)

 そして「五稜郭公園前」から市電に乗って、「杉並町」へと向かいます。そうそうこれから仰山市電に乗ることになるので、一日乗車券を購入。600円で市電に乗り放題、これは重宝しました。
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 「杉並町」で下車して、目指すは遺愛学院女子中学校・高等学校です。えっ、あっ、いやいや、そんな猜疑の眼で見ないでください。別に更衣室に忍び込んで盗撮カメラを設置するとか、体操着を頂戴しようなどという魂胆はほとんどありません。実はこちらには戦前の名学舎があるので、ぜひ拝見したいと思った次第です。しかしここは女子高、果たしてこんな貧相で胡散臭い初老のおっさんが校内に入れるのでしょうか。困った時の神頼み、山ノ神におすがりしましょう。「"私の夫は近代建築を探究する市井の一歴史学徒で、貴校の古い学舎を見学したいと申しております。怪しい者ではございません"と頼んでください」「姿勢?」「市井!」「奇行?」「貴校!」と夫婦漫才をしながら門前で作戦会議。そして意を決して『真昼の決闘』のゲイリー・クーパーのように一人で守衛所に向かう山ノ神。"おばはん、頼りにしてまっせ"と、『夫婦善哉』の森?久彌のように呟く私。どきどき。守衛さんとしばし交渉した後、こちらを向いて両腕で大きな輪をつくって微笑む山ノ神。やった。いそいそと守衛所に行くと、快く見学を了承してくれました。
 まずは「公式観光情報はこぶら」を参考にして紹介します。遺愛学院は、1882(明治15)年に元町の高台に開校された、関東以北で最初の女学校です。1908(明治41)年に現在の湯川通りに移転、その時に建てられた本館と旧宣教師館が現存しています。
 それでは拝見させていただきましょう。松並木を抜けて正面にあるのが本館、下見板張りの壁面と連続する縦長のハング・ウィンドウ、ペディメントや四本の円柱、丸い階段室が印象的な瀟洒な建物です。設計は、立教大学の初代校長でもあったアメリカ人建築家J.M.ガーディナー。
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 隣にある講堂もいいですね、装飾はほとんどなく凛とした佇まいが気品を感じさせます。竣工は1935(昭和10)年、設計は何とウィリアム・メレル・ヴォーリズでした。
 敷地奥にある旧宣教師館は、アメリカから来函した教師の住まいとして建てられたもので、白い下見板張りの壁と、さまざまなタイプの窓が魅力的。角にある八角柱の部分がいいアクセントになっていますね、階段室でしょうか。設計はJ.M.ガーディナーです。

 本日の三枚、上から本館、講堂、旧宣教師館です。
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by sabasaba13 | 2018-11-13 06:18 | 北海道 | Comments(0)

函館・札幌編(6):五稜郭(15.9)

 そして五稜郭へ、入り口のところには「箱館戦争供養塔」がありました。合掌。郭内はまるで桜の園、満開のころにタワーから見下ろしたらピンク色の巨大な五角形となるのでしょうね。見てみたいなあ。設計者である武田斐三郎の顕彰碑がありますが、彼の顔のレリーフに触ると頭が良くなるという言い伝えがあるそうです。以前来函した時に、丹精込めて撫でまわしたのですがあまり効果はなかったようです。よろしい捲土重来、二人で全身全霊を込めて…あれ、心なしか山ノ神の手が顔を重点的に撫でているような気がしますが。気のせい気のせい歳のせい。
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 ほんとうにまったくの余談ですが、クロアチア旅行で三大光りものを撫でてきました。グルグール司教の左足の親指(スプリット)、僧服の銅像の両手・両膝(ドブロヴニク)、プリトヴィッツェ国立公園の謎の男、よろしければご笑覧ください。
 復原された箱館奉行所の前を通り過ぎると、すぐ近くで客に新選組の衣装を着せて撮影している記念写真屋さんがいました。
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 それでは遺愛学院へと向かいましょう。途中にあった五稜郭とイカをデザインしたマンホールの蓋を撮影。
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 おっ先ほど入ったラーメン屋「函館麺厨房あじさい」の前に長蛇の列ができています。人気店だったのですね。土方歳三と、彼にすがる女性の顔はめ看板がありましたが、どんな素性の方なのでしょう。ご教示を乞う。
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 北海道でよく見かけるコンビニエンス・ストア「セイコーマート(Seicomart)」が、やはり函館にもありました。ウィキペディアによると、北海道を地盤とするコンビニエンス・ストア・チェーンで1号店が開店したのは1971 (昭和46)年、コンビニ業界最古参の部類に入るそうです。なお名前の「セイコー」とは、チェーン全体を「成功」させるという意味を込めるとともに、創業者である西尾長光の西と光の2文字からとられているそうな。おしまい。
 啄木の影響でしょうか、「ぢっと手を見る」熊の像がありました。
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 その先には、幸せを呼ぶ「ふしぎな石」がありました。解説を転記します。
 上の国町を流れる「天の川」の上流山奥深く眠っていた「ふしぎな石」です。夜空で流れ星に願いをかけるように石に手をふれて祈って下さい。きっとあなたに「幸運」が訪れます。
 ようがす。さて何を祈りましょうか、頭と顔が良くなる願いはさっきしましたし… 互いに見合わす顔と顔、そう、これしかないですね。「安倍晋三上等兵の政治生命が一刻も早く断たれますように」 それから三年、いまだにのさばっているところを見ると、祈願は成就しなかったようです。やれやれ。
 地下道の入口には「ペリーさんの通り道」と記されていましたが、なにか謂れがあるのでしょうか。インターネットで調べてみると、公募によって命名されたとのことです。1854(安政元)年、ペリー提督率いる黒船5隻が函館に来航。日米和親条約の締結により開港地に選定された箱館を捕鯨船の食糧・燃料の補給基地として活用するため、湾内の測量を実施しているので、その縁でしょうか。
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by sabasaba13 | 2018-11-11 17:08 | 北海道 | Comments(0)

函館・札幌編(5):五稜郭(15.9)

 余談です。私たちはついつい榎本や土方を英雄視してしまいますが、『日本の歴史13 幕末から明治時代前期 文明国をめざして』(牧原憲夫 小学館)に次のような記述があることを付記しておきます。
 箱館五稜郭の旧幕府軍も、金銭の強奪、強制労働はもとより、賭場や遊女にまで上納金を課し、最後は町に放火した。河合敦によれば、函館には今も榎本武揚をもじった「榎本ブヨ」という言葉が残っているという。(p.58)
 そういえば戊辰戦争関連の史跡もずいぶん訪れました。一挙に蔵出ししましょう、よろしければご笑覧ください。光福寺(長岡)、鯨波や長岡の戦いで戦死した官軍の各兵士58名の招魂所(柏崎)、河井継之助記念館(長岡)、「西軍上陸の地」の碑(長岡)、清水園(新発田)、堀粂之助の墓(米沢)、戊辰戦争終結の地(会津若松)、御薬園(会津若松)、鶴ヶ城(会津若松)、旧滝沢本陣(会津若松)、白河口の戦い(白河)、戊辰戦争の戦没者十三名の姓名を刻んだ碑(箱根板橋)、咸臨丸碑(興津)、戊辰戦争戦没者の墓碑(大村)、浜田謹吾の碑(大村)、凌霜隊(郡上八幡)、上野戦争の弾痕(谷中)、上野戦争の弾痕(上野)、彰義隊の墓碑(上野)です。未踏の地では、野辺地戦争の戦死者墓所(野辺地)、官修墓地(保土ヶ谷)です。
 土方歳三像と、五稜郭タワーのゆるキャラ「GO太くん」と北海道新幹線開業PRキャラクター「どこでもユキちゃん」を撮影し、それではタワーを下りて五稜郭へと行きましょう。なお「ゆるキャラグランプリ2017」で、「GO太くん」が107位となったそうです。御慶。
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 一階の売店で、山ノ神は四つで8800円のメロンを購入し、宅配で自宅へ送りました。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-11-08 17:44 | 北海道 | Comments(0)

函館・札幌編(4):五稜郭(15.9)

 そして歩いて五稜郭へ、まずは高さ90mの五稜郭タワーに上ってその全貌を見下ろすことにしましょう。展望室から見ると、ほんとうに見事な五角形の城であることがよくわかります。
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 それではタワーの公式サイトを参考にして、五稜郭の歴史をまとめてみましょう。
 1853(嘉永6)年のペリー来航、そして翌年の日米和親条約締結で、日本は開国し、下田と箱館を開港することになりました。開港を前にした徳川幕府は、外国との交渉や蝦夷地(北海道)の防衛などを担当する「箱館奉行」を配置しましたが、その役所や役宅が密集した市街地にあることや港に近く寒気が厳しいなどの生活環境、並びに上陸した外国人による市街地の遊歩に伴い役所が見透かされるといった幕府の威厳の問題、そして港に至近の位置のため艦船からの標的になりやすいといった防衛上の危機感などの理由から、役所、役宅ともに内陸の平坦地へ移転させることになりました。
 その際、幕府は、箱館奉行の配下にいた蘭学者・武田斐三郎(あやさぶろう)に、役所の外郭施設である土塁の設計を命じました。武田は箱館に入港していたフランス軍艦の軍人からの情報・教授をもとに、ヨーロッパで発達した「城郭都市」をモデルとした土塁を設計しました。五角形にしたのは死角をなくすためですね。
 そして新政府と旧幕府・佐幕派諸藩の戦い、戊辰戦争の勃発です。鳥羽・伏見の戦い、上の戦争、会津戦争と、新政府が勝ち進むなか、旧幕府海軍副総裁・榎本武揚は、無傷の幕府艦隊を率いて箱館に逃走。土方歳三に率いられた新選組などもこれに合流しました。そして五稜郭を奪取し、ここを本営としました。そして上等士官以上の者による入札で総裁以下の役職を選出、1868(明治元)年12月15日には蝦夷地領有を宣言して、暫定的な軍政機構を整えました。いわゆる"榎本政権"あるいは"蝦夷共和国"の成立です。しかし、当時最強の軍艦であった「開陽」の沈没によって戦力は低下し、新政府軍による猛攻撃の末、1869(明治2)年5月18日、旧幕府脱走軍は降伏しました。土方歳三は戦死、榎本武揚は赦免され、明治政府の要職を歴任し大臣としても活躍することになりました。
 なお箱館戦争で戦死した旧幕府軍の死体は新政府の命令により、野晒しにされ放置されました。それを無視して柳川熊吉という人物が遺骸を埋葬し、その後、1875(明治8)年に大鳥圭介・榎本武揚らによって816名を祀る碧血碑が函館山の麓に建立されました。前回の函館訪問で立ち寄ったので、今回は省略します。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2018-11-05 04:40 | 北海道 | Comments(0)

函館・札幌編(3):トラピスチヌ修道院(15.9)

 正式な名称は「厳律シトー会天使の聖母トラピスチヌ修道院」、日本初の女子観想修道院として1898(明治31)年に創立されました。緑につつまれた広大な敷地には、さまざまな建物や聖像が点在しています。正面の奥にある本館と聖堂は、1927(昭和2)年に再建されたもので、謹厳な佇まいながらもどことなく華があります。ルルドという泉を模した施設は、カトリック教会でときどき見かけるのですが、その由来が解説に記されていたので、後学のために転記します。
 ルルドは南フランスのピレネー山脈の麓にある洞窟です。1858年、この近くに住んでいた14才の少女、ベルナデッタ・スビルーの前に、18回にわたって、聖母マリアがお現われになりました。聖母は、少女に祈りと犠牲を捧げるようにすすめられました。少女が聖母の言われたとおり地面を手で掘ると、そこから泉が湧き出し、その水で多くの病人が癒されました。
 今日、ルルドは世界中から多くの人々が集まる巡礼地となっています。ここにあるルルドの洞窟もそれを模して築かれたものです。
 ベルナデッタは、後に修道女となり、1879年、35才で帰天しました。ローマ法王ピオ11世は、1933年、ベルナデッタを聖人の位にあげました。
 バスの発車時刻まですこし時間があるので、資料室を見学しました。修道女たちは祈り、労働、聖なる読書を日課の3本柱に共同生活を送っており、祈りは3時半の起床から、19時45分の就寝までに7回。生計を立てる収益事業として製造するマダレナケーキやクッキーが、売店で販売されていました。
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 それではバスに乗って五稜郭へと参りましょう。そろそろ昼食をとろうと、JTBの旅行情報誌「るるぶ(食べる肥るデブ)」でお店を物色していると、函館B級グルメの塩ラーメンが食べられる「函館麺厨房あじさい」が五稜郭の近くにありました。バスを降りてさっそく入店、塩ラーメンとチャーマヨ丼を注文しました。繊細な味の塩ラーメンも美味しかったのですが、マヨネーズで和えてある、ほぐしたチャーシューをご飯に乗せたチャーマヨ丼が予想外の美味しさでした。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2018-11-03 08:11 | 北海道 | Comments(0)

函館・札幌編(2):函館(15.9)

 8:15に函館空港に着陸、空港からは函館山を遠望することができました。
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 そしてバスに乗って函館駅へと向かいます。「あっ」と叫ぶ山ノ神。何だ何だ。「"大間原発大間ちがい"という看板があった」 なるほど、大間といえば、津軽海峡をはさんだ対岸、核発電所ができて事故が起こればその被害は確実に函館に及びます。それほど安全だというのなら、電力の最大消費地である東京につくればいいのにね。
 車窓から「漁火通」という標識と、「包丁塚建立の地」という看板を見かけました。
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 20分ほどで函館駅前にとうちゃこ。函館、私は二回目の訪問ですが、山ノ神ははじめてです。よろしい、とことん函館をしゃぶりつくしましょう。
 今夜の塒、「コンフォートホテル函館」はすぐ目の前です。ホテルに行って荷物を預かってもらい、ホテルのフロントで天気について訊ねると、今日は曇り、明日は朝曇りで昼は晴れとのことでした。雨は降らないようなので、予定通りにトラピスチヌ修道院と五稜郭に行くことにしました。
 まずは函館駅で、インターネットで予約をしておいた、札幌行き特急指定席券を購入。明日、この列車に乗り、大沼公園で途中下車して見物し、札幌に移動する予定です。駅構内の観光案内所で観光資料と地図をいただき、駅前にあったイカのご当地ポストを撮影。バス案内所で修道院までのアクセスを教えていただくと、約30分後にシャトルバスがあるそうです。
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 その間、駅近くにあるどんぶり横丁市場と函館朝市をぶらつきました。美味しそうなイカやカニに垂涎し、イカの釣り堀を眺めているとあっという間にバスの出発時刻です。あわてて乗り場に行きバスに乗ること約50分で修道院に着きました。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2018-11-01 06:24 | 北海道 | Comments(0)