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奥日光編(11):日光(15.10)

 向こう岸には、金谷ホテルの一角が木の間から見えました。うむ、いつか泊まってみたいものです、高そうだけど。余談ですが、この日光金谷ホテルも属している「日本クラシックホテルの会」があるそうです。残る八つは、富士屋ホテル、万平ホテル奈良ホテル、東京ステーションホテル、ホテルニューグランド、蒲郡クラシックホテル、雲仙観光ホテル、川奈ホテル。泊まったことがあるのは奈良ホテルだけですね。全館制覇は老後の愉しみにとっておきましょう、ま、年金制度が破綻していなければの話ですが。ちなみに一番泊まってみたいのは雲仙観光ホテル、ウィリアム・モリスの壁紙の張ってある部屋でくつろいでみたいものです。
 日光物産商会はごてごてとしたキッチュな建物ですが、もとは日光金谷ホテルの土産品店として創業したそうです。現在は蕎麦屋・カフェ・パン屋・土産物屋が入っています。店頭にはロープウェイのゴンドラを再利用した電話ボックスがありました。やるな、お主。
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 「ひしや」は羊羹で有名な老舗ですが、閉店した様子です。後継者難なのでしょうか、無念です。
 高台の上に見える和風建築は、もと日光市役所で、今は市役所の分室・日光総合支所庁舎となっているそうです。さらにルーツをたどれば、1905(明治38)年に外国人向けに作られた「大名ホテル」で、その後古川電工日光精銅所の工員アパート、進駐軍の社交場と時代の波をかぶりながら、今に至っているとのこと。
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 十分ほど歩くと東武日光駅に到着、近くにあるレストラン「明治の館」で、美味しいと評判のチーズケーキ「ニルバーナ(日瑠華)」を購入。しかし大仰な名称ですね、後学のためインターネットで調べたら、仏教用語で"最も優れたもの"を意味するそうです。「日に輝く瑠璃の華の如し」の想いを込めて、日光山輪王寺門跡・柴田昌源深題大僧正が付けたとのこと。"So what"と言われたら"So it goes on"としか言えませんが。
 そして東武日光駅に入ると、「日光東照宮四百年式年大祭」の顔はめ看板がありました。徳川家康と…となりの娘さんは誰? 山ノ神に、「二人で顔をはめて誰かに写真を撮ってもらおうか」と誘ったら、「いや」と即座に却下。やれやれ。
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 そして特急スペーシアに乗り込んで帰郷。イギリス大使館別荘が公開されたら、また訪れたいものです。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2019-03-30 06:58 | 関東 | Comments(0)

奥日光編(10):日光(15.10)

 そして近くにある日光真光教会礼拝堂へ、重厚にして貫禄のある堂々とした石造の教会です。解説があったので、後学のために転記します。
 明治・大正期において米国人建築設計家、宣教師、教育者として日本に大きな足跡を残したJ・M・ガーディナーの晩年の秀作で、大正3年に建築された礼拝堂である。
 構造は、石積スレート葺のゴシック式建築であり、外壁面は大谷川から採取した安山岩の乱石積で、内壁は鹿沼石の平張りである。
 東壁面上部のキリストの変容を描いた桜花形のステンドグラスと、西壁面上部の12面のステンドグラスが唯一の彩りで、簡素な中にも清楚な落ち着きともつ洋風建築物である。
 ガーディナーの関与した建築物には、明治40年に建築された重要文化財の京都聖ヨハネ教会(現在は明治村に保存)が有名であるが、この礼拝堂は石造りの素朴な建築物として、ガーディナー建築の特色を示しています。
 なお、彼の手による教会は、日本聖公会聖アグネス教会聖堂弘前昇天教会教会堂を訪れたことがあります。よろしければご笑覧ください。
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 さて、まだ時間に余裕があるので東武日光駅まで歩いて行くことにしましょう。赤漆のきれいなは、聖地日光の表玄関を飾る神橋ですね。なお日本三大奇橋の一つに挙げられることもあるようです。しかし錦帯橋猿橋は鉄板だとして、残る一つについては諸説あり。日光の神橋、愛本橋(富山県黒部市)、かずら橋(徳島県三好市)が有力な候補です。
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by sabasaba13 | 2019-03-28 06:52 | 関東 | Comments(0)

奥日光編(9):日光(15.10)

 閑話休題。数分で「金谷ホテル歴史館」に着きました。1871(明治4)年、ヘボン式ローマ字綴りで有名なアメリカ人宣教医ヘボン(ジェームス・カーティス・ヘップバーン)博士が日光の地を訪れましたが、外国人を泊めてくれる宿がなく困っていました。そこへ東照宮の楽人・金谷善一郎が自宅へ招じ入れて宿を提供しました。大層感激したヘボン博士は、今後日光を訪れる外国人は増加の一途を辿るので、ぜひ外国人相手の宿泊施設を作るようにと善一郎に進言しました。善一郎はこの言葉を受けて民宿創業を決意し、自宅を改造して、1873(明治6)年に「金谷カテッジイン」を開業、これが金谷ホテルの始まりです。
 その民宿として使われた武家屋敷を一般公開しているのが「金谷ホテル歴史館」です。お目当ては、わが敬慕するイザベラ・バード女史が宿泊した部屋です。『日本奥地紀行』に記されている一文が、紹介されていました。
 部屋の一方の端は少し奥まって二つの〈床の間〉になり、この床もきれいに磨かれている。その片方には〈掛物〉といわれる壁絵(掛け軸)が掛かっている。
 満開の桜の花の小枝を白絹に描いたもので、一級の芸術品であり、このおかげで部屋全体がすがすがしさと美しさに満ちている。
 もう一つのへこんだ所(床の間)の棚の上にはまことに見事な袋戸棚があって引き戸がつき、金地に牡丹が描かれている。
 光沢のある柱の一つには真っ白の花器が掛かり、薔薇色の躑躅の小枝が一輪生けてある。もう一つの花器には一輪の菖蒲が生けられている。飾りはこれだけである。
 インクをこぼさないだろうか、畳を傷つけないだろうか、障子を破らないだろうかと常に心配になるので、こんなにも美しい部屋でなければよいのにと思うことしきりである。
 なるほど袋戸棚に描かれた牡丹の絵も残されていました。彼女がここに滞在していたのかと思うと感無量です。
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 それにしても彼女に指摘されて、今さらながら気づいたのですが、和室というものはたいへん繊細な造りなのですね。藺草を編んだ絨毯に、和紙の窓や戸。この部屋を汚し傷つけぬよう立ち居振る舞いに気を配る。それが心の在り様を美しくする。先人たちから受け継がなければいけない文化ですね。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-03-26 07:18 | 関東 | Comments(0)

奥日光編(8):日光(15.10)

 そして待っていてもらったタクシーに乗り込み、日光駅へと向かってもらいました。なお途中にあったベルギー大使館とフランス大使館の別荘の存在を教えてくれたが、こちらは公開の予定はあるのかな。第一いろは坂はずっと一車線なので、タクシーはスムーズに走りぬけていきます。運転手さん曰く、紅葉も第二よりきれいとのこと。なるほど、そのとおりでした。
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 なお途中で有料道路に入り渋滞を避けてくれましたが、その料金100円を運転手さんが支払ってくれました。結果論としてタクシーで正解でした。JR日光駅に着いたのは午後四時、これなら余裕の吉田健一で17:27発の特急に間に合い、お釣りがくるくらいです。
 まずは貴婦人のような優美さがただようJR日光駅の駅舎を拝見しましょう。水平線を強調した嫋やかなフォルム、白亜の壁、洒落た窓、質朴なハーフチンバー様式、見惚れてしまう素敵な駅舎です。大正天皇の静養地となる日光田母沢御用邸が設置されて、皇室関係者が多く利用するようになったことや、外国人観光客が増加したことなどから、1912(大正元)年に大改築されてこのような姿になったそうです。設計については、フランク・ロイド・ライト説もあったそうですが、鉄道院の名もなき若手建築家・明石虎雄によるものだということが判明しました。
 天皇のための貴賓室も残されていますが、残念ながら公開されていません。二階は外国人専用の待合室だったらしく、広い空間となっています。豪華なシャンデリアや台座の鏝絵なども見どころです。構内に顔はめ看板があったので、とりあえず撮影。
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 それでは金谷歴史館へ参りましょう。少し離れたところにあるのでタクシーを利用しました。運転手さんによると、今日の渋滞は凄まじく、午前中は神橋まで一時間もかかったとのことでした。桑原桑原鶴亀鶴亀。おっと"桑原"は雷除けの呪文でした。桑原荘は菅原道真が所有していた荘園で、その名を唱えれば、雷神となった道真も自分の荘園だと勘違いして雷を落とさないだろうという論拠です。論より証拠、私はこの呪文のおかげで一度も落雷に直撃されたことがありません。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2019-03-24 07:25 | 関東 | Comments(0)

奥日光編(7):イタリア大使館別荘(15.10)

 それでは中を見学させていただきましょう。竣工は1928(昭和3)年、設計はアントニン・レーモンドです。玄関から入った瞬間、まずその広々とした明るい室内に驚きました。居間、書斎、食堂を一室とし、湖を臨む西面にはサンルーム風ベランダを設けられて、壁面はすべてガラス戸になっています。そこから差し込む自然光に、思わず♪やさしさに包まれたなら♪と口ずさむ私。♪目にうつる全てのことはメッセージ♪と合いの手を入れる山ノ神。ベランダからは、美しい中禅寺湖と山なみを手に取るように一望できます。ぶんだばー!
 そして圧巻は内装です。地元の木材・日光杉の杉皮と杉板を割り竹で固定し、市松、網代、亀甲、矢羽など、ありとあらゆる意匠で壁面や天井を飾っています。凄い… これほど心愉しく、心地良く、心落ち着く空間には、めったにお目にかかれるものではありません。
 レーモンドの建築は、これまでもカトリック新発田教会聖パウロ教会東京女子大学聖路加国際病院群馬音楽センターを訪れたことがありますが、この別荘が最高傑作です。ここを整備し公開にふみきってくれた日光市(なのかな)の英断と見識に、衷心より感謝いたします。ほんとうに来てよかった。

 本日の八枚です。
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by sabasaba13 | 2019-03-22 06:24 | 関東 | Comments(0)

奥日光編(6):イタリア大使館別荘(15.10)

 そして数分走ると、イタリア大使館別荘記念公園に着きました。ここの存在を知ったのはテレビ東京の『美の巨人たち』という番組のおかげです。設計はわが敬慕するアントニン・レーモンド、杉皮をふんだんに使った見事な意匠に息を呑みました。いつの日にか必ず訪れるぞと♪空に灯がつく通天閣におれの♪闘志を燃やしていたのですが、やっと夢がかないました。
 まずは彼のプロフィールを、エアスケープ建築設計事務所の「houzz」というサイトから引用します。簡にして要を得たすばらしい紹介です。
 チェコに生まれ、のちにアメリカ国籍を取得したレーモンド(1888-1976)が、フランス生まれのアーティストである妻のノエミ・ペルネッサンとともにライトのもとで働き始めたのは、1916年のことだった。1919年、帝国ホテル建設に携わるライトを手伝うため夫妻は東京にやって来る。それから40年以上にわたり日本で過ごすなかで、400件を超える設計を手掛け、レーモンド自身の仕事だけでなく、彼の事務所で働いていた吉村順三や前川國男らの仕事をとおして日本のモダニズム建築に大きな影響を与えることになる。
 師のライトと同じく、レーモンドも建物内で使う家具や照明すべてをノエミとともに設計しており、その土地の伝統や風土を尊重することが重要であると理解していた。1921年に独立して事務所を構えると、帝国ホテルと同じ現場打ち鉄筋コンクリートを使いながらも、その中に伝統的な日本の木造建築を思わせるディテールを加えるなど、ライトの影響下から脱する試みを始めている。またレーモンドは、1923年の関東大震災で多くの建物が崩壊してしまった東京で、フランス大使ポール・クローデルなどのために小規模な木造住宅をいくつか設計している。
 イタリア大使館別荘プロジェクトを引き受けたレーモンドは、ともに帝国ホテル設計にも携わっていた内山隈三、そして伝統的工法だけでなく新しい技術を取り入れることにも抵抗のなかった日光大工の名棟梁・赤坂藤吉と協働して作業を進めていった。赤坂は、オープンプランの間取りにも伝統的な尺貫法による間(けん)を用い、建材選びを助けたほか、天然の木材の扱いにおいて驚くべき能力を発揮した。モダンでありながら日本建築の伝統を反映したレーモンドのデザインは、用いた自然素材と絶妙に一体化しており、永久的に建物が周囲の環境に溶け込んでいるようだ。レーモンドはのちにこう記している。「日本は美しい国だ。ここでは、家のなかに自然を取り込んで人間がその恩恵を受け、身近に自然と触れながら健康的で現代的な生活を送るべきとされており、またそれが可能なのだ。」

 余談ですが、フランス大使ポール・クローデルは彫刻家カミーユ・クローデルの弟ですね。また関東大震災に際して、次のように述べていることも記憶に留めましょう。
 災害後の何日かのあいだ、日本国民をとらえた奇妙なパニックのことを指摘しなければなりません。いたるところで耳にしたことですが、朝鮮人が火災をあおり、殺人や略奪をしているというのです。こうして人々は不幸な朝鮮人たちを追跡しはじめ、見つけしだい、犬のように殺しています。私は目の前で一人が殺されるのを見、別のもう一人が警官に虐待されているのを目にしました。宇都宮では16人が殺されました。日本政府はこの暴力をやめさせました。しかしながら、コミュニケのなかで、明らかに朝鮮人が革命家や無政府主義者と同調して起こした犯罪の事例があると、へたな説明をしています。(『孤独な帝国 日本の1920年代』 草思社)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-03-20 06:21 | 関東 | Comments(0)

奥日光編(5):奥日光(15.10)

 イタリア大使館別荘に向かう途中で、イギリス大使館別荘の整備し工事をしていました。中禅寺湖畔には、各国大使館の別荘が蝟集していたのですね。当時の日光には中禅寺湖畔に数ヵ国の大使館別荘があり、「夏には外務省が日光へ移る」といわれたそうです。今では整備も終わり、公開されています。わが敬慕するイザベラ・バード女史も滞在し、友人あての手紙に「山荘から眺める風景の素晴らしさ」を綴っているそうです。いつか訪れてみたいなあ。

 後日談。朝日新聞「be」(2016.5.14)に載った「みちのものがたり」という記事に、以下の記述がありました。
 1872(明治5)年3月、まだ雪が残るこの寂しい山道を、奥日光を目指して歩く外国人青年がいた。後に駐日英国公使となる書記官アーネスト・サトウ(1843~1929)だ。
 1872年、奥日光を旅した後、サトウは英字新聞に日光案内記を連載した。3年後には英文では初の『日光ガイドブック』(ジャパン・メイル社)を出版。すでに有名だった箱根を引き合いに、中禅寺湖をこう絶賛している。「箱根の湖よりずっと絵のように美しい」 外国人として奥日光観光の口火を切っただけでなく、ほかの外国人に、その魅力を伝える役割も担った。
 それに応じ、多くの外国人が奥日光を訪れ、魅了されたことは、様々な文章から今に伝わる。たとえばベルギー公使夫人メアリー・ダヌタンは、アルプスの名勝を連想したと日記に書き留めている。「イタリアのコモ湖の風景が私の心の中に浮かんできた」…
 この湖畔の外交官らの別荘ブームを先導したのもサトウだった。日本を一時離れた後、95年に全権公使として12年ぶりに赴任したサトウは翌年、最も眺望が良い湖の南岸に別荘を建てた。英国人法律家に続く別荘だった。この公使時代の約5年間に、サトウは奥日光を31回訪れ、滞在期間はのべ218日に達した。…
 中禅寺湖に浮かべたボートに初老の男と、学生服の青年が乗った一枚の絵が残っている。サトウは日本人女性の武田兼と結婚し、2男1女をもうけた。描かれた二人は、サトウとその次男の姿だ。
 日本の後、清国の公使に転任したサトウは1906年、その職務を終えて英国に戻る途中に立ち寄ったのが、最後の日本訪問となった。船が出航延期になると、サトウは次男と連れ立ってつづら折りを登り、奥日光に向かった。絵はその1シーンだ。
 次男とは、日本山岳会の創始者の一人として知られる武田久吉(1883~1972)。サトウの勧めで英国へ留学して博士号を取り、尾瀬の高山植物保護に力を尽くして、「尾瀬の父」とも呼ばれている。
 「父は周囲の好奇な目から私たちを守ろうと英国人だった祖父の話を一切しなかった」。そうふり返るのは、久吉の孫の林静枝さん(86)だ。自分が外国人の孫であることを知ったのは、大学時代に戸籍を取り寄せてから。その後で母に、祖父が奥日光を愛した英国外交官だったことなどを教えられた。
 「サトウが険しい中禅寺坂を何度も往復し、山歩きと植物採集への情熱を傾けたことは、父にしっかりと受け継がれていたのですね」
 『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫)の著者、アーネスト・サトウの知られざる顔ですね。だから人間は面白い。
by sabasaba13 | 2019-03-18 09:54 | 関東 | Comments(0)

奥日光編(4):奥日光(15.10)

 湯川に沿って40分ほど歩くと、華厳滝、湯滝とともに奥日光三名瀑の一つと称えられる竜頭の滝に着きました。男体山の噴火によってできた溶岩の上を210mにわたり流れ落ちる渓流瀑で、滝壺付近が大きな岩によって二分されており、その様子が龍の頭に似ていることからこの名が付けられたそうです。きれいな紅葉とあいまって、見事な景観を堪能することができました。
 それではイタリア大使館別荘へと向かいましょう。菖蒲ヶ浜停留所でバスを待ちますが、もう下りの渋滞がはじまっている模様です。バスも十五分遅れでやってきましたが、ほぼ満員で座ることができません。中禅寺湖温泉手前で乗客が降り、やっと座れました。さて、ここで思案のしどころです。帰りは、東武日光17:27発のスペーシアを予約してありますが、これからさらに激しくなりそうな渋滞にはまると間に合わないかもしれません。このまま座って日光駅まで行き、その周辺をぶらつくのも一つの手。あるいは、中禅寺湖温泉で降りてイタリア大使館別荘までタクシーで行けば、渋滞のピークの前に駅に戻れそうな気もします。一か八か、のるかそるか、後者を選びました。中禅寺湖温泉で降りると…日光駅行きのバス停にはすでに長い長い長い行列ができています。やれやれ、はずしたか。気を取り直して熊と猿の顔はめ看板を撮影。
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 そして観光案内所に寄り、地図をもらって訊ねると、歩けば35分ほどだと教えてくれました。またタクシーをつかまえるのは難しく、客をおろしたタクシーに偶然出くわすのを祈るしかないとのこと。やれやれ、どうしよう。山ノ神と相談していると、案内所の前でタクシーが客をおろしました。盲亀の浮木優曇華の花! しかし係の方が、あの運転手さんは短距離では乗車拒否すると教えてくれました。しかし千載一遇の機会、駄目でもともと、近づいて運転手さんにイタリア大使館別荘まで乗せてくれと所望。すると、いっそのこと日光駅まで乗らないかと提案されました。別荘を30分見学、その間待っていて、日光駅まで5000円でよいとのこと。よろしい、のった。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2019-03-15 06:23 | 関東 | Comments(0)

奥日光編(3):奥日光(15.10)

 紅葉や水面に映る木々を愛でながら湯川に沿って木道を歩いていくと、二十分ほどで小滝にとうちゃこ。水がきれいな、小振りで愛らしい滝でした。
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 さらに湯川に沿って、平坦な道を歩いていきます。爽やかな青空、清冽な空気、煌く川の流れ、そしてさまざまな木々の紅葉を満喫しながらの心楽しいハイキングでした。
 三十分ほど歩き、小田代橋を渡ると湧水の綺麗な泉門池(いずみやどいけ)です。その遠景には、雄渾な男体山が聳えています。
 そして少し歩くと、いよいよ戦場ヶ原が見えてきました。奥日光のほぼ中心に広がる湿原で、その昔中禅寺湖をめぐって、男体山の神と赤城山の神が争った「戦場」だったという神話から、「戦場ヶ原」と呼ばれるようになったそうです。かつては湖であったものが、400ヘクタールの広大な湿原となり、今では高山植物や野生動物の宝庫となっています。国際的に重要な湿地として「ラムサール条約」にも登録されています。心が広がるような湿原を彩る草紅葉、それを見まもるように聳える山なみ、素晴らしい景色です。
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 そこに凛として屹立する白樺の孤独な佇まいに心惹かれました。田村隆一の「きみと話がしたいのだ」という素敵な詩の一節を思い出します。『詩集 1977~1986 田村隆一』(河出書房新社)から引用します。(p.72~3)
孤立はしているが孤独ではない木
ぼくらの目には見えない深いところに
生の源泉があって
根は無数にわかれ原色にきらめく暗黒の世界から
乳白色の地下水をたえまなく吸いあげ
その大きな手で透明な樹液を養い
空と地を二等分に分割し
太陽と星と鳥と風を支配する大きな木
その木のことで
ぼくはきみと話がしたいのだ

 本日の七枚です。
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by sabasaba13 | 2019-03-13 06:24 | 関東 | Comments(0)

奥日光編(2):奥日光(15.10)

 そして07:43発の東武日光線快速に乗り込みましたが、かろうじて座れたもののけっこうな混雑でした。新栃木と下今市の間の谷に、ブルーシートが敷かれてありましたが、先日の豪雨の爪痕でしょう。下今市駅で列車を切り離し。前部が鬼怒川へ、後部二両が日光へ向かいます。先頭一両がいやに込んでいたので二両目へ避難しました。山ノ神が小耳にはさんだところによると、すぐに降りてダッシュ、バスに乗るためだそうです。08:25に東武日光駅に着きますが、その少し前から車内の空気が殺気立ち、みなさん心なしかそわそわとし始めます。到着と同時にダッシュしてバスに乗り込み座席を確保するためですね。とうちゃこ、われわれも速足で駅前の停留所へ、やれやれどうにか座ることができました。そしてバスは通路に乗客をぎっしり詰め込んで出発。
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 それにしても、ほんとうに人間を大切にしない国ですね、ここは。以前に、カナダのウィスラーでスキーをした時、バスが満席になると、すぐに増便されて次のバスがやってきました。法律で、乗客を立たせてバスを走らせる行為は禁止されているのかもしれません。乗客を立たせたまま羊腸のいろは坂をのぼるなどという没義道な行為は、観光地にあるまじきものだと思います。
 日光物産商会の古い建物、神橋の前を走り抜け、バスは第二いろは坂を登りはじめます。
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 そろそろ山も錦に染まり、車窓からの眺望を楽しめました。なおカーブごとに「と 7カーブ」といった看板が設置されていました。明智平の駐車場にはもうたくさんの車が停めてありましたが、ここから標高473mの展望台までロープウェイが出発するのですね。男体山・いろは坂・日光市街の眺望がよいそうです。
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 明智平からは二車線が一車線となり、いよいよ渋滞がはじまりました。やがてバスは中禅寺湖畔へ、紅葉の綺麗な山々と青い湖を満喫していれば渋滞もさほど気になりません。
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 バスは菖蒲ヶ浜のあたりで右折し、奥日光へと向かいます。「さかなと森の観察園」を通り過ぎ、「湯滝入口」に到着。やれやれ、東武日光駅から二時間強かかりました。それでは日光戦場ヶ原ハイキングコースを歩きましょう。まずは湯滝、三岳溶岩流の岩壁を湯ノ湖の湖水が流れ落ち、途中で二股に分かれる豪快な滝です。青空と紅葉と相俟って素晴らしい景観をなしていました。
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 なおすれ違ったハイカーの女性が「湯ノ湖の紅葉、綺麗だったね」と話しているのを耳にし、食指が動きましたが、いかんせんもう午前11時をまわっています。帰りの混雑を考慮して、訪れるのは諦めました。いつの日にか、奥日光に宿泊してのんびりと楽しむことにしましょう。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2019-03-11 08:45 | 関東 | Comments(0)