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姫路・大阪・京都編(12):大山崎山荘美術館(15.12)

 琅かん洞という庭園入口のトンネルをくぐると、そこは別世界。池のある広大な庭園には、見事に色づいたたくさんのモミジがあり、紅葉の盛りでした。しかも観光客はまばらで、しっとりとした静謐な雰囲気の中で錦秋を愉しむことができました。おまけに入園は無料、お薦めの穴場です。
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 散策路を二人でそぞろ歩きながら紅葉を愛でていると、時はあっという間に過ぎていきます。美術館を拝見してそろそろ次の訪問先に移動しましょう。入館料を支払って美術館に入り、企画展「かたちのであい ルーシー・リー、ハンス・コパーと英国陶磁」で、薫り高い陶磁器の数々を鑑賞しました。
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 北側の庭の向こうに白いモダンな塔屋がありますが、大山崎山荘で最初に建てられた物見塔、「栖霞楼(せいかろう)」です。当主の加賀正太郎は、ここの最上階から工事を見守り、指示を出したそうです。1階の円形、アーチ形などの出入口、2階南面の縦長窓、3階展望室の大きく開いた横長窓など、多彩な開口部をもつ遊び心あふれる建物だそうですが、残念ながら内部は非公開です。
 「橡の木茶屋」は鉄筋コンクリート造石張の土台の上に張り出して建てられた丸太組のユニークな茶室です。内部を見てみたいのですが、こちらも非公開でした。
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 本日の七枚です。
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by sabasaba13 | 2019-06-16 08:57 | 京都 | Comments(0)

姫路・大阪・京都編(11):大山崎山荘美術館(15.12)

 それでは大山崎山荘美術館へと参りましょう。踏切を渡ると天王山登り口、そう、山崎の戦い(1582)で豊臣秀吉が占有して明智光秀を破った山ですね。ここには「山崎宗鑑冷泉庵跡」という碑もあります。
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 後学のために解説を転記しておきます。
 宗鑑は本名を範重といい、寛正六年(1465)滋賀県栗太郡常盤村志那で生まれた。彼の家は支那地区を支配した支那氏で足利将軍義尚に一族で仕えていた。しかし将軍義尚が佐々木高頼との合戦に破れたため世の無常を感じて剃髪し、入道となり生地を離れて大山崎に隠棲したのである。ここに山崎宗鑑が誕生する。
 彼は八幡宮社頭で月例会として開かれていた連歌会の指導や、冷泉庵での講を主催する一方、世に知られた『犬筑波集』を生み出した。また書も宗鑑流として多くの人々から珍重された。碑文の"うつききてねぶとに鳴や郭公"は掛詞を巧みに使い、その手法は後の俳諧の基礎となった。
 「上の客立ち帰り、中の客其の日帰り、下々の客泊りがけ」と書いた額を庵に掛けていたという風狂の俳人でもあります。

 右に曲がって緩やかな坂道を歩いていくと、カエデがきれいに色づいていました。これは期待できそう、楽しみです。
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 そして数分歩くとアサヒビール大山崎山荘美術館に着きました。公式サイトから、その由緒について引用します。
 アサヒビール大山崎山荘美術館は、京都府大山崎町、天王山の南麓にあります。約5500坪の庭園のなか、英国風山荘である本館と安藤忠雄設計の「地中の宝石箱」、「夢の箱」、その他の建物から構成されています。
 美術館本館である「大山崎山荘」は、もとは関西の実業家・加賀正太郎(1888-1954)の別荘として、大正から昭和にかけ建設されました。
 加賀正太郎は、証券業をはじめ多方面で活躍した実業家である一方、大山崎山荘で蘭の栽培を手がけ、植物図譜《蘭花譜》を刊行するなど、趣味人としても大きな業績を遺しました。加賀は、ニッカウヰスキーの創業にも参画し、晩年には同社の株を深い親交があった朝日麦酒株式会社(現アサヒビール株式会社)初代社長・山本爲三郎に託しました。この縁が、現在の美術館へと受け継がれていきます。
 ビールとウイスキーという新たな文化をわが国にもたらした二人が紡いだ時代の糸は、やがて桂川、宇治川、木津川、三つの川が合流するこの大山崎の地でひとつになります。
 1954年に加賀正太郎が亡くなり、ついで加賀夫人がこの世を去ると、1967年に大山崎山荘は加賀家の手を離れることになりました。
 幾度かの転売ののち、建物の老朽化が進んだこともあり、1989年には山荘をとり壊し、大規模マンションを建設する計画が浮上しました。しかし、地元有志の方を中心に保存運動が展開され、京都府や大山崎町から要請を受けたアサヒビール株式会社が、行政と連携をとりながら、山荘を復元し美術館として公開することになります。
 アサヒビール大山崎山荘美術館は、歴史ゆたかな土地に建つ貴重な近代建築と、同時代の先端を行った芸術運動の遺産、そして国際的に活躍する建築家・安藤忠雄が手がけた現代建築の三つを擁して、1996年に開館しました。2004年には、「大山崎山荘」の6つの建物、霽景楼(せいけいろう)[現本館]、彩月庵(さいげつあん)[茶室]、橡ノ木(とちのき)茶屋、栖霞楼(せいかろう)[物見塔]、旧車庫[現レストハウス]、琅かん洞(ろうかんどう)[庭園入口トンネル]が国の有形文化財として登録されました。開館9年を迎えた2005年には来館者が100万人を越え、特色あるコレクションと建築、豊かな自然をともに楽しむことのできる美術館として、多くの人に親しまれています。

by sabasaba13 | 2019-06-14 06:27 | 京都 | Comments(0)

姫路・大阪・京都編(10):山崎(15.12)

 朝目覚めてベランダに出ると、残念ながら曇り空でした。まあ雨が降っていないので諒としましょう。湖上では、太公望たちが小舟に乗って釣りをしています。何が釣れるのだろう? バビロニアに、"人間の寿命は神が決めるが、決算の際、各人が釣りに費やした時間は免除され、差し引かれない"という格言があるそうです。
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 昨晩予約しておいた和食の店「おうみ」で、朝食をいただきました。自分で選べる焼き魚を頬張りながら、本日の旅程について山ノ神と相談。姫路城の紅葉がわりと綺麗だったので、大阪へ行くのはやめて京都の錦秋を愉しむことにしました。芋の子を洗うような混雑は嫌なので、大山崎の山荘美術館で紅葉狩りをして、西山をタクシーでめぐることにしました。
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 旅装を整え荷物を持ってチェックアウト、無料シャトルバスでJR大津駅へと行きましょう。そうそう、このホテルにはレンタルサイクルが用意されています、まだ利用したことはありませんが。
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 大津駅前には「かるたの聖地 大津」という立て看板がありました。『小倉百人一首』の第一首目の歌を詠んだ天智天皇を祀る近江神宮があるため、ここ大津でさまざまなかるた大会が開かれるのですね。大津駅から琵琶湖線に乗ると、森高千里をイメージ・キャラクターにした正露丸の広告がありました。
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 京都駅のコインロッカーに荷物を預け、JR京都線で山崎駅へ。マンサール屋根のキュートな駅舎はいまだ健在です。駅前にある妙喜庵には千利休が建てた国宝茶室・待庵がありますが、以前に拝見したので今回はカット。
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 「京都府観光ガイド」から紹介文を引用しておきます。
 羽柴秀吉が山崎城築城に際し、堺から呼び寄せた利休が、大山崎在住中に建てたといわれる小間の茶室、建物の端々に利休の非凡さが感じられる。
 建物は切妻造り、柿葺で、茶室では例のない地下窓をあけている。内部は二畳という極小の空間で、角に炉を切り、室床という独特の床の間をもつ、我が国数寄屋造りの原点といわれる。
 「待庵」は、愛知県犬山市の如庵・京都市大徳寺の密庵とともに国宝三茶室に数えられている。
 また十あまりの国における油の販売と、その原料の荏胡麻購入の独占権を持っていた大山崎の油神人の本所だった離宮八幡宮も近くにありますが、こちらも以前に訪れました。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-06-12 06:25 | 京都 | Comments(0)

『ニューヨーク公共図書館』

c0051620_13304733.jpg 小学生・中学生の頃は、ほんとに暇で時間を持て余していました。1960年代後半から1970年代前半ですので、スマートフォンはもちろん、コンビニエンス・ストアもカラオケもテレビ・ゲームもありません。テレビは一台しかないので自由に見ることは出来ず、小遣いも少ないので漫画もふんだんには買えません。そんな私を温かく迎えてくれたのが図書館でした。入館は無料、静謐な雰囲気のなか、司書の方に相談しながら書架の間を彷徨してさまざまな本や図鑑や写真集を渉猟した思い出があります。見たこともない動植物、聞いたこともない物語、行ってみたい国や地域、世界はこれほどにも豊かなのかと驚きました。私の数少ない取り柄のひとつ、無駄な知的好奇心を育んでくれた図書館、ほんとうに感謝しております。今でも旅をして古い図書館に出会うと、さすがに頬ずりや抱擁はできないので、写真におさめています。
 わが愛する図書館をテーマとしたドキュメンタリー映画が、岩波ホールで上映されているという耳よりな情報を得ました。巨匠フレデリック・ワイズマンによる『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』という映画です。さっそく山ノ神を誘って、いっしょに見にいってきました。

 まずは公式サイトから、本作の紹介文を転記します。
 世界中の図書館員の憧れの的であり、ニューヨーク有数の観光スポット。本作の主役は、荘厳な19世紀初頭のボザール様式の建築で知られる本館と92の分館からなる世界最大級の<知の殿堂>ニューヨーク公共図書館だ。この図書館は、作家サマセット・モーム、ノーマン・メイラー、トム・ウルフ、画家アンディ・ウォーホルなど文学、芸術などの分野でも多くの人材を育ててきた。またここは世界有数のコレクションを誇りながら、“敷居の低さ”も世界一と言えるほど、ニューヨーク市民の生活に密着した存在でもある。その活動は、「これが図書館の仕事!?」と私たちの固定観念を打ち壊し、驚かす。

 映画には、リチャード・ドーキンス博士、エルヴィス・コステロやパティ・スミスなど著名人も多数登場するが、カメラは図書館の内側の、観光客は決して立ち入れないSTAFF ONLYの舞台裏を見せていく。図書館の資料や活動に誇りと愛情をもって働く司書やボランティアたちの姿。舞台裏のハイライトともいえる何度も繰り返される幹部たちの会議―公民協働のこの図書館がいかに予算を確保するのか。いかにしてデジタル革命に適応していくのか。ベストセラーをとるか、残すべき本をとるのか。紙の本か電子本か。ホームレスの問題にいかに向き合うのか。その丁々発止の意見のやりとりは、目が離せない。
 205分という長尺で、BGMも流れず、司書の方々の働きぶりや図書館を訪れた人たちの様子、そして幹部たちの会議などを淡々とフィルムにおさめた、静かな、ほんとうに静かな映画です。でもなぜ心を惹きつけられるのでしょう。
 冒頭、〈午後の本 Books at Noon〉という企画に登場した進化生物学者のリチャード・ドーキンス博士が、来館者を前に講演をして、「キリスト教原理主義者は無知である」と一刀両断に切り捨てます。お恥ずかしい話ですが、最近読んだ『サイコパスの真実』(原田隆之 ちくま新書1324)の中で、彼の業績を知りました。
 イギリスの進化動物学者リチャード・ドーキンスは、有名な『利己的な遺伝子』のなかで、進化のプロセスは、自己複製を最大の目的とする遺伝子が、その複製と存続に最も有利で利己的な方略を取ってきたものだと主張する。より正しくは、結果としてその遺伝子が存続しているということは、その方略が存続に適していたからだと言うべきだろう。(p.232)
 また映画の中頃では、〈公共図書館ライブ〉に出演したエルヴィス・コステロが、「敵だからといって、認知症で死んでくれとは思わないが、サッチャーが国にしたことは許せない。民主主義だから言う。これが僕の考えだ」と聴衆を前に発言します。彼のアルバムは、メゾ・ソプラノ歌手のアンネ・ソフィー・フォン・オッターとのデュエット『フォー・ザ・スターズ』しか持っていないのですが、『Spike』というアルバム所収の「Tramp The Dirt Down」という曲で、彼女と新自由主義を痛烈に批判していたのですね。知りませんでした。
 俺は長生きしてやる/あんたが死んで土に埋められた時に/墓の上を踏みつけるために
 うーむ、日本の公共図書館でしたら、まずあり得ない企画ですね。おそらく幹部たちは「政治的中立」という錦の御旗を振りかざして、政治や社会への批判を圧殺してしまうでしょう。最近、こうした行政による圧力をよく耳にします。護憲集会を、市や教育委員会が後援しなくなったという内田樹氏の話を読んだことがあります。常々思うのですが、「政治的中立」という立場はあり得ません。それは現状維持の別名であり、現体制を支持し、社会や政治を変えないということを意味します。体制か、反体制か、そのどちらかを選ぶしかないのにね。日本の社会がなかなか良い方へ変わらない要因のひとつが、ここにあるのかもしれません。
 この二人を映画に登場させたワイズマン監督は、批判を通じてアメリカの政治と社会をより良い方向へ変える触媒となるのが図書館の役割だというメッセージを込めたような気がします。

 映画は、司書や館員による地域住民のためのいろいろなサービスも取り上げていました。就職支援プログラム、中国系住民のためのパソコン講座、視覚障がい者のための住宅手配サービス、地域住民のための読書会(なんと、ガルシア=マルケスを読んでいました)、シニアダンス教室などなど。そこまでやるか!と唸ってしまいました。その様子を見ていると、勤務評定のためではなく、心の底から困っている人に手を差し伸べたいという思いがびしびしと伝わってきました。地域の核となって人びとを結びつけるという図書館の役割には、無限の可能性がありそうです。
 中でも、ある方が言った「孤立させない」と言葉が印象的でした。最近読んだ『東京新聞』(2019.6.6夕刊)の「紙つぶて」というコラムで、埼玉大教授の平林紀子氏がこう書かれていました。
 「孤独感が米国の分断を招いている」というニューヨーク・タイムズ紙のコラムが昨秋話題を呼んだ。筆者の米国シンクタンク会長アーサー・ブルックス氏によると、最近の世論調査では米国人の過半数が日常的に孤独感に苦しみ、あるいは自分の存在意義を認めてくれる人間関係の欠如、「居場所のなさ」に悩み、こうした「社会的孤立感」が世代を追うごとに深刻化しているという。
 職場の人工知能(AI)導入やリストラが頻繁な転職や雇用の不安定化をもたらし、職場や近隣のコミュニティーは以前のように安定的で厚みのある人間関係を供給しなくなった。「帰属集団」のよりどころを失った人々は穴埋めとして、考え方が似た、「激しい怒り」や、異なる政治的立場への「敵意と排除」の感情を共有する者同士の「コミュニティーの幻影」をソーシャルメディア上に求める。最初は幻影でも、運動組織として実体化することもある。近年の政治的分断、人種民族憎悪犯罪の増加は、これと無関係ではない。
 孤独な米国人を救う処方箋は、どこでも隣人を作れ、人を支える「社会関係作りに投資せよ」だと同氏は言う。日本も少子高齢化で地域社会は変質し、外国人労働者やAIで職場環境も変わる。「人生百年時代」に必要なのは、老後資金だけでなく、最後まで人々が支え合い認め合う社会環境である。米国を他山の石としたい。
 現代社会の宿痾、「激しい怒り」や「敵意と排除」を解消するために、ニューヨーク公共図書館も動いているのかもしれません。

 そしてマークス館長を中心とする幹部たちの会議も、良い場面でした。議題は多岐にわたります。この図書館は財源の半分をニューヨーク市から、半分を民間の寄付から得ています。どうしたら市からの予算を増やせるか。館長は「政治家を戦略的に利用する」と述べ、「政治家には“週6日開館”といったシンプルな主張が受ける」と発言します。この視点は、ぜひ参考にしたいものです。他にも、IT設備の充実や、デジタル・インクルージョン(包摂)、若者をいかに図書館へ呼ぶか、ホームレス問題、蔵書を収集する際に、電子本か紙の本か、一般図書か研究図書か、どちらを重視するのか、情熱をもって真摯に議論をしているスタッフの姿が心に残りました。つい日本を引き合いに出してしまい恐縮ですが、日本の会議を映画にしてもまったく面白くないでしょうね。

 そして映画全体を通して印象的だったのが、館員のみなさんの働きぶりです。過労死寸前まで必死に働いて、リストラされず、仲間を蹴落としてすこしでも出世と昇給を掴み取ろうという姿はありません。それぞれが持ち場で、仲間と議論をし助け合いながら、地域住民を孤立させないため、街の文化を変えるため、さまざまなアイデアを鍛え上げて実現していく。ちょっと羨ましくなりました。

 最後の場面で、〈公共図書館ライブ〉に登場した陶芸家のエドムンド・デ・ワールが自作のノンフィクションを朗読します。
 創作の過程は省いてはならない。物の作り方が人を定義するのだ。
 この映画を象徴するような言葉ですね。そして司会者が「音楽は、あなたの人生と創作に欠かせませんね。この曲も」と結び、グレン・グールドが演奏する「ゴルトベルク変奏曲」が静かに流れて映画は幕を閉じました。テンポが速いので、おそらく旧盤ですね。それぞれの声部が独立しながらも、響き合ってひとつの音楽を紡ぐ、この映画にふさわしい幕切れでした。

 各所にちりばめられた「図書館は民主主義の柱」「図書館は雲の中の虹」「規則や専門機関を設けるのも大事だが、最終的に変えるべきはこの街の文化だ」「図書館は本の置き場ではない。図書館とは人」「かつて“未来に図書館は不要”と言われた。彼らは図書館の変化に気づいていない」という言葉とともに、末永く記憶に残る映画になるでしょう。
 なおタイトルの「エクス・リブリス(Ex Libris)」とは、「~の蔵書より」という意味で、本に所有者の名前を記すときに使われるラテン語だそうです。プログラムに載っていたワイズマン監督の言葉によると、この図書館で起きたすべての出来事を見せたわけではない、ということを示唆したそうです。

 余談です。汗牛充棟、蔵書が増えすぎて難儀していますが、最近は近くにある区立図書館に寄贈するようにしています。せめてもの恩返しです。
by sabasaba13 | 2019-06-10 08:13 | 映画 | Comments(0)

『誰がために憲法はある』

c0051620_2201217.jpg 安倍晋三上等兵内閣が、いまだに改憲を獅子吼しておられます。安保法制によって、日本を戦争ができる国にしたのに、憲法を変えてさらに何を望むのでしょう。いやいや、まだまだ変えたいことが仰山ありそうです。自民党の改憲案については、内田樹氏が『街場の憂国論』(晶文社)の中で、鋭く分析されているのでよろしければご一読ください。要するに「強きを助け弱きを挫く」国を目指しているようです。これだけ多くの方々が、この内閣を支持するか、無関心か、無知でいる以上、実現するかもしれませんね。やれやれ… sigh…
 そうした中、日本国憲法を真っ向から取り上げた映画が上映されていることを知りました。井上淳一監督による『誰がために憲法はある』という映画です。これは見にいかなくては、山ノ神を誘って、ポレポレ東中野に行ってきました。余談ですが、この映画館は、地下に降りる階段の壁に映画のチラシがたくさん置いてあり、面白そうな映画の情報が得られるのも楽しみの一つです。今回いただいたチラシは、朝鮮学校を取り上げた『アイたちの学校』、東京裁判をテーマとした小林正樹監督によるドキュメンタリー映画『東京裁判』、巨匠フレテリック・ワイズマンによる『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』です。なおこの映画のチラシに「映画には、リチャード・ドーキンス博士、エルヴィス・コステロやパティ・スミスなど著名人も多数登場するが…」という一文がありましたが、リチャード・ドーキンス、どこかで聞いたことがあるなあ。…(沈思黙考)…はた(膝を打った音)、今回、地下鉄の友として持参した『サイコパスの真実』(原田隆之 ちくま新書1324)の中に、次の文相がありました。
 イギリスの進化動物学者リチャード・ドーキンスは、有名な『利己的な遺伝子』のなかで、進化のプロセスは、自己複製を最大の目的とする遺伝子が、その複製と存続に最も有利で利己的な方略を取ってきたものだと主張する。より正しくは、結果としてその遺伝子が存続しているということは、その方略が存続に適していたからだと言うべきだろう。(p.232)
 だから読書はやめられない。知のネットワークがつながる快感を与えてくれます。それはさておき、館内はほぼ満席、しかしいつものように若い方の姿はあまり見られません。
 まずは公式サイトから、紹介文を引用しましょう。
 井上ひさし、永六輔、立川談志も絶賛した、日本国憲法を擬人化した一人語り「憲法くん」を名優・渡辺美佐子が魂を込めて演じる!
 「ホントですか? わたしがリストラされるかもって話」
 「憲法くん」とは、井上ひさし、永六輔、立川談志も絶賛したお笑い芸人・松元ヒロが20年以上、日本国憲法の大切さを伝えるためユーモラスに演じ続けている一人語りである。「憲法くん」はこう言う。「わたしというのは、戦争が終わった後、こんなに恐ろしくて悲しいことは、二度とあってはならない、という思いから生まれた、理想だったのではありませんか」。そして、「わたしの初心、わたしの魂は、憲法の前文に書かれています」と憲法前文を一気に暗唱する。憲法に対する深い愛と洞察が込められたこの「憲法くん」を語るのは、「戦争を知る世代として、再び戦争の悲劇がこの国に起こらないように、この役を魂を込めて演じました」という、今年87歳になる名優・渡辺美佐子。文字で読む憲法と違い、本作で朗読される日本国憲法前文は、心の奥深くに突き刺さる。

 初恋を胸に語り継いだ 8 月 6 日。原爆朗読劇の全国巡演を続けてきた女優陣たちが語る戦後、そして未来へ託す思いとは-
 渡辺は初恋の人を疎開先の広島の原爆で亡くしたことを戦後35年目の1980年になって知った。彼の死を知った渡辺は中心メンバーとなり、現在まで33年間、鎮魂の想いを込めてベテラン女優たちと原爆朗読劇の公演を続け全国各地を回っている。しかし、その朗読劇は今年で幕を閉じる。本作では渡辺をはじめ、女優たちがこの活動を通じて抱くそれぞれの思いを映し出す。監督は『大地を受け継ぐ』(15)で原発事故により汚染された土地で農作物を作り続ける農家と、そこを訪れる学生たちの姿を真摯に見つめたドキュメンタリーを手掛けた井上淳一。同作でもタッグを組んだ弁護士の馬奈木厳太郎とともに、「憲法とは何か? なぜできたのか?」という原点を見つめ直すことができる作品を完成させた。子どもから大人まですべての人が日本国憲法について考えるきっかけを与えてくれる必見のドキュメンタリー!
 映画の冒頭は、女優・渡辺美佐子が「憲法くん」を演じる一人芝居で始まります。「70年間、わりとヒマでした」という一言は、バールのようなもので後頭部を殴られたような衝撃でした。護憲の立場からそれなりに尽力してきたつもりでしたが、その理念を実現するためにあなたは何をしましたか、と憲法くんに問責された思いです。
 そして日本国憲法前文の朗読が続きます。齢87歳の彼女は、これを暗記したそうです。さまざまな思いを込めながら、凛として語られるその言葉の力強く美しいこと。ちょっと胸が熱くなりました。誠実に真摯に論理的に語られる言葉の力というものに、あらためて感じ入りました。それに比べて、事実を誤魔化すため、責任を逃れるため、あるいは自分を良く見せるために安倍上等兵が紡ぎ出す言葉の、何と浮薄で浅薄で軽薄なことよ。『「安倍晋三」大研究』(望月衣塑子 KKベストセラーズ)に下記の一文がありましたので紹介します。
【浜田(※衆議院予算委員会)委員長】 総理、済みません、簡潔に願います。
 しかし、安倍首相は諦めない。
【安倍内閣総理大臣】 簡潔に申し上げますと、結果を出す上においては、まさに議論をしていく上においてだんだんこれが収れんしていくという中における一つの考え方として申し上げたところでございます。どうかその点を御理解いただきたい、こう思うところでございます。(2017年5月8日 衆議院予算委員会より)

 「さあ、いよいよ結論を言うのか」と思いきや、まったく関係ないことを、とにかくダラダラと話し始める。時間を使って相手を煙に巻く、ダラダラ話法だ。ちなみにこの答弁のなかで、「いわば」6回、「そこで」6回(中継では8回)、「まさに」5回(中継では6回)、「中において」2回が使われた。安倍首相が多用するこれらの言葉について、歴代首相の演説を研究してきた東照二氏(社会言語学)はこう分析している。
 「(安倍首相は)『まさに』や『つまり』といった言葉を使っている。これらの言葉は、同じ意味を繰り返したり、別の表現に言い換えたりする表現です。おそらく同じ意味を別の表現にしてはぐらかそう、自分を良く見せようとしているのではないか」(2018年6月2日 日刊ゲンダイ) (p.138)
 言葉の持つ力への敬意を一片も持ち得ないこの御仁が憲法を変えようとしているのかと想像するだけで、肌に粟が生じます。
 そして彼女が中心メンバーとなり、ベテラン女優たちと33年にもわたり続けてきた原爆朗読劇の様子が紹介されます。しかしその朗読劇も、2019年で幕を閉じることになりました。「言いたいことを言うと“左”と言われる」「もっと政治に関心を持って欲しい」「学校に招かれなくなった」といった女優たちの発言に、昨今の社会状況に対する苦渋の思いが滲みます。
 彼女がこの朗読劇を始めるきっかけとなったエピソードも紹介されます。小学生のころ、ほのかな恋心を抱いてた少年が、疎開先の広島で被曝して亡くなったのですね。彼と出会った思い出の地を歩き、そして広島平和記念公園を訪れて慰霊碑に刻まれた彼の名を指でなぞる姿が写されます。
 最後にふたたび日本国憲法前文を、渡辺美佐子が力強く朗読して、映画は幕を閉じます。

 プログラムに井上淳一監督のステイトメントが掲載されていたので紹介します。
 憲法くんは言う。「わたしと言うのは、戦争が終わったあと、こんなに恐ろしくて悲しいことは、二度とあってはならない、という思いから生まれた、理想だったのではありませんか」と。その理想がするりと掌からすべり落ちてしまいそうないま、表現にかかわる者の端くれとして、何もしなくてもいいのか。そういうやむにやまれぬ思いから、この映画を作った。元号が変わり、現行憲法最後の憲法記念日になるかもしれない日に、憲法に関する映画が一本も上映されていない国で、僕は映画に関わり続けることはできない。
 憲法は誰のためにあるのか。憲法は誰のために生まれたのか。その「誰」には、生者のみならず、戦争の犠牲になった死者たちも含まれるはずだ。いまはただ、ひとりでも多くの届かない「誰」かに届くことを願うのみである。
 嬉しいことに、終了後、井上監督が壇上に現われてお話をしてくれました。チェ・ゲバラをプリントしたTシャツが印象的です。そういえば、来日した際に、ゲバラも広島平和記念公園を訪れたことを思い出しました。
 話の中で『あたらしい憲法草案のはなし』(太郎次郎社エディタス)という本を紹介してくれました。1947年に文部省が中学生向けにつくった教科書『あたらしい憲法のはなし』と同じ体裁で、自民党による改憲草案の危険な内容を分かりやすく解説したいるそうです。はじめは、この本をもとに映画を作ろうとしたのですが、本気で支持しそうな人がいそうなので止めたそうです。また、沖縄と日本の加害行為を描けなかったことが失敗だったという言葉が心に残りました。
 終了後、プログラムにサインをしてもらい、「次回作を楽しみにしています」と言うと、両手で私の両手をしっかりと握って微笑んでくれました。腰の低さと、物言いの柔らかさが印象的な、素敵な方です。

 なお本作のプログラムは、たいへん充実した内容でした。中でも製作者にして弁護士の馬奈木厳太郎氏のコメントには、教えられることが多々ありました。「憲法についてQ&A」から二つほど引用します。
Q4 9条の平和主義はあまりに理想主義的なのではないでしょうか。もし、攻めてこられたら、そのときはどう対応するのですか?

 いきなり肩すかしのようなことを申し上げるので、「回答になってない」とお叱りを受けるかもしれませんが、憲法に則って答えようとすると、憲法の平和主義は、「もし攻めてこられたら」という状況が起きないことを目指しているのであって、攻めてこられたときにどうするのか、という土俵(枠組み)には立たないことを明らかにしている憲法です。言い方を変えれば、この質問そのものが、日本国憲法の枠外からのものだということになります。
 そもそも、「もし攻めてこられたら」という設定は、いくつかの前提を無視しています。
 まず、国家と国家の間での戦争というのは、ある日突然始まるものではありません。ある国が戦争という手段に打って出るのには、そうなった何らかの理由と経緯があるはずです。実際、戦争を始めようとしても、戦争をすると意思決定をしてから、作戦を立案し、兵站を整え、部隊を派遣し、関係諸国に通告し、そうやって準備を整えて、ようやく始まるものですし、戦争をすると決める前には、二国間の交渉や、第三国や国際機関も交えた協議といった外交があって、そうした経過のなかで、なんらかの理由から戦争やむなしとなるわけで、こうした時間や理由を無視して、ただ単に「もし」を設定するのは、あまりにも非現実的です。
 また、この質問は「攻めて」くることを所与のものとしているわけですが、通常、「攻める」のには何らかの目的があるわけで、こうした目的を特定したり明確にしないまま、単に「攻める」ことが起きてしまうことを想定するのも、ナンセンスだと言わざるを得ません。資源もなく、国土も狭く、労働力もそれほど多くない日本に対して、いったい何を目的として「攻める」ということになるのでしょう。技術ということが目的だとしても、そうであれば、戦争ではなく友好的な関係を作った方が、よほど意味があるはずです。おそらく、考えられる唯一の理由は、米軍基地が日本にあるから、その米軍基地を叩くために攻撃するというものでしょうか。しかし、「もし攻めてこられたら」という設定を好む人は、日本にある米軍基地が攻撃を誘引する存在となっていることは認めたがらないでしょう。このように、「もし攻めてこられたら」という質問の土俵に乗ってしまうことは、憲法の平和主義とは異質の土俵に立つことを意味しているのです。(p.11)

Q5 日本の周辺には、日本に対して友好的ではない国々もあって、脅威に感じられます。憲法を変えて、脅威に対抗することも必要なのではないでしょうか。

 確かに、これだけ隣国の国々と友好的な関係を作れていない国も珍しいと思います。ただ、友好的な関係を作れていないのは、あくまでも政府間の話だということに注意する必要があります。しばしば、「反日デモ」が行われたとニュースなどで言われることがありますが、あの「反日」の「日」というのは誰のことなのでしょうか? 例えば、憲法9条を守らせようとか、安保関連法に反対しようと言っているような方が、あの「日」には含まれているのでしょうか? 私にはそうは思えません。国と国の話になると、急に「オールジャパン」対「オール〇〇」のような二項対立が作られますが、日本のなかも他の国も、そんなに一枚岩なわけではありません。むしろこうした二項対立的な構図は、過度なナショナリズムを煽ることにもつながりかねません。(p.12)
 極めつけは、井上淳一監督および赤坂真理氏(作家)との鼎談の中での下記のコメントです。
 今の話を聞いても、監督はすごく真面目な人だな、と思います。僕はもう少し醒めていて、変えられることはもちろん大変なことだとは思いますけど、憲法の条文がどうであるかより、国民の意識がどうであるかの方が重要だと思っています。だって、9条を持っている国でも戦争に参加するし、イラクに自衛隊出すわけでしょ。他方で、軍隊持っている国でもこれは間違った戦争だって考えれば、出さないわけじゃないですか。あるいは25条の生存権で、健康で文化的な最低限度の生活を保障するとか言っておきながら、今のような状況があったり、男女平等だとか言っておきながら全然そうではなかったりするわけですよ。だから、いかにも改憲されるとこの世の終わりみたいな、そういったのはある種の憲法フェティシズムみたいな話だと思っていて、それもどうかなと思う。要するに負けたと思うでしょ、変えられてしまった時に。でも、やっぱりそうした話じゃないと思う。むしろ、条文がどうとか言うより、自分たちがどういう意識でどういう国でありたいかということの方がよっぽど重要で、それが“生ける法”というか“生ける憲法”になる。憲法とはそういうものだと思っているので、条文に寄りかかるのはあまり好きではないですね。(p.18~9)
 憲法の理念や理想を蹂躙するような政策が平然と行われ、その政権を国民が支持している状態は、事実上の改憲がなされているということですね。第25条との絡みで言えば、『週刊金曜日』(№1233 19.5.24)に次のような記事がありました。
「権利」としての法制化を日弁連が提起 生活保護から「生活保障」へ (片岡伸行)
 生活保護利用者は現在、約210万人(約163万5000世帯)いるが、それは本来受け取る権利のある人の15%か16%。多く見積もって2割程度だとされる。欧米ではその捕捉率が50%あり、ドイツは70%以上、英国は80%を超えているという。その名称も「連帯所得」(フランス)、「基礎生活保障」(韓国)などで、国から恩恵や施しを受けているような印象を与える「保護」の語を使用している国はないとされる。
 しかも、安倍政権になって生活保護費の切り下げが続く。2013年、14年、15年に続き、18年10月から3年間かけて生活保護費が段階的に引き下げられる。「人間の尊厳と命を削るものだ」として全国で訴訟が提起されている。(p.9)
 こういう状況を放置する、こういう状況をつくりだした政権を支持する、国民の意識って一体何なのですかね。あらためて、憲法を護る、憲法を生かす、そして憲法を蔑ろにする輩に鉄槌を下す、そういう意識を持ち続けていきたいと思います。馬奈木さん、いろいろとご教示をありがとうございました。勉強になりました。

 帰りに「十番」でタンメンを食べようとしましたがお休みでした。「タラキッチン」でカレーを食べようと足を向けると「パーム・ツリー」というお店があったので新規開拓、ボンゴレをいただきましたが、特記事項はなしです。そして「ル・ジャルダン・ゴロワ」でタルトの詰め合わせを購入して帰宅しました。
by sabasaba13 | 2019-06-08 06:23 | 映画 | Comments(0)

言葉の花綵190

 抗議しなければならないときに沈黙するという罪を犯すと、人は臆病になる。(エイブラハム・リンカーン)

 良い市民に生まれる人はいない。民主主義に生まれる国はない。(コフィ・アナン)

 自由なる人々よ、この言葉を忘れるな。我々は自由を得るかも知れない、しかし一度それが失われると取り戻す事はできぬ。(ジャン=ジャック・ルソー)

 自分の言うこと、すること、話す相手、創造や愛、友情の表現、そのすべてが記録される世界に僕は住みたくない。(エドワード・スノーデン)

 hostinato rigore 厳密な秩序の美しさ (レオナルド・ダ・ヴィンチ)

 退屈させたら失敗です。(鳥飼玖美子)

 種子を粉にひいてはならぬ。(『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』 ゲーテ)

 壁を作るよりも、話し合える大きなテーブルを作ろうよ。(カルロス・サンタナ)

 反ユダヤ主義は、自らの不幸と苦悩の原因を究明する力のない国民大衆の意識の低さの表れである。無知な人々は、自らの大きな不幸の原因が国家機構や社会制度にではなくユダヤ人にあると見る。(『人生と運命』 ワシーリー・グロスマン)

 私はただの人間を愛す。私を愛す。私の愛するものを愛る。徹頭徹尾、愛す。(『デカダン文学論』 坂口安吾)

 ただこれ強制に服する根性というものは、己れ以下の弱者に対しては、ただこれ強制する根性なのだ。この一人二役ぐらい文化に距りあるものはないのである。(『風流』 坂口安吾)

 原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。子供の遊びです。これをコントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、そういう限度を発見するのが、学問なんです。(『不良少年とキリスト』 坂口安吾)

 革命だの、国家永遠の繁栄のため、百年千年の計のため我々がギセイになる、そういうチョットきくと人ぎぎのいい甘ッチョロイ考え方がナンセンス、又罪悪であり、人間はギセイになってはならぬ。自分一人好きこのんでギセイになるなら話は別だが、個人としての自我とは別に、社会人としての我々は誰のギセイになる必要もない。(『新カナヅカイの問題』 坂口安吾)
by sabasaba13 | 2019-06-06 06:26 | 言葉の花綵 | Comments(0)

ドン・ジョヴァンニ

c0051620_21562229.jpg モーツァルトのオペラは、これまでに「魔笛」と「フィガロの結婚」を見ることができました。となると、次はぜひ「ドン・ジョヴァンニ」と「コシ・ファン・トゥッテ」を見てみたいものです。念ずれば花開く、新宿初台のオペラパレスで「ドン・ジョヴァンニ」が上演されるという耳寄り情報を入手しました。さっそくチケットを購入し、山ノ神と一緒に見にいってまいりました。指揮はカーステン・ヤヌシュケ、演出はグリシャ・アサガロフ、管弦楽は東京フィルハーモニー交響楽団です。ドン・ジョヴァンニ役はニコラ・ウリヴィエーリ、騎士長役は妻屋秀和、レポレッロ役はジョヴァンニ・フルラネット、ドンナ・アンナ役はマリゴーナ・ケルケジ、ドンナ・エルヴィーラ役は脇園彩、ツェルリーナ役は九嶋香奈枝です。
 そうそう、今回はオペラのために買った小さな双眼鏡を持参したのですが、これが大正解。歌手の表情や衣装、オーケストラ・ピットの様子まで手に取るようによく見えました。

 さて、はじまりはじまり。運河とゴンドラがあるところからすると、舞台はヴェネツィアに設定されているようです。
 第1幕。従者レポレッロを引き連れ、夜な夜な女性の家へ忍び込む、稀代の色男ドン・ジョヴァンニ。今宵はドンナ・アンナの部屋へ行きますが、彼女の父親である騎士長に見つかり、彼を刺殺してしまいます。アンナは婚約者ドン・オッターヴィオに、犯人を探して復讐してほしいと求めます。
一方、ジョヴァンニは通りすがりの女性に声をかけますが、それは昔の女ドンナ・エルヴィーラでした。彼女はジョヴァンニに捨てられてもまだ彼を愛し、彼を探していたのです。ジョヴァンニは大慌てで逃げる。後を託されたレポレッロは彼女に、ジョヴァンニはヨーロッパじゅうの2000人もの女性と関係しているのだから諦めるよう諭します。殺人や不倫など重い場面が多いのですが、このレポレッロの登場ですこし息がつけます。このコミカルなアリアも傑作ですね。
 関係ありません、金持ちだろうが、不美人だろうが、美人だろうが。はいてさえいればね、スカートを。あなたもご存じでしょう、あの方が何をするかは。
 なおこの場面で、ドレスを着た大きな女性の人形を、ジョヴァンニが上から糸で操りますが、面白い演出です。彼にとって、すべての女性は操作する対象でしかないということでしょうか。
 場面が変わり、近郊の村で農夫マゼットと村娘ツェルリーナの結婚式が始まろうというとき、ジョヴァンニが来て花嫁を誘惑しますが、すんでのところでエルヴィーラが阻止します。アンナは犯人探しの協力をジョヴァンニに求めますが、話すうち彼こそ犯人だと気づきます。村人たちを招いてパーティを開くジョヴァンニは上機嫌。そんな彼をアンナたちは厳しく激しく追及しますが、ジョヴァンニは下記のアリアで答えます。世界が終わろうとも女性を追い求めるというデモーニッシュなアリアを、ニコラ・ウリヴィエーリが熱唱してくれました。
 私の頭は混乱して、もはや分からぬ、何をすべきかが。そして恐ろしい嵐が、脅迫を、おお神よ、私に仕掛けている。だが私はこんなことではくじけない。惑うことも悩むこともない。たとえ世界が終ろうとも、何も私を恐れさせるものはない。
 休憩をはさんで第2幕です。ジョヴァンニはレポレッロと服を交換して変装し、エルヴィーラの小間使いを誘惑。マゼットと農民たちはジョヴァンニを殺そうとやってきますが、ジョヴァンニ扮するレポレッロに計画を話してしまい、逆に痛めつけられてしまいます。彼の服を着たレポレッロは命からがら逃げてきて、ジョヴァンニと落ち合います。すると、騎士長の墓の石像が、戒めの言葉を喋り出すではありませんか。驚く2人ですが、ジョヴァンニは臆せず石像を晩餐に招待します。夜、彼の家に本当に石像がやってきました。石像はジョヴァンニに悔い改めるよう迫りますが、彼は拒否。石像はジョヴァンニの手を取って炎の中へ引きずり込み、地獄へと落ちていくのでした。そして登場人物が勢揃いして大団円となるのですが、エルヴィーラが、地獄に落ちていったドン・ジョヴァンニの帽子を取り上げる姿が印象的でした。なお舞台の片隅に、第1幕でジョヴァンニが操っていた大きな女性の人形が、首がもげた状態で打ち捨てられていました。「操り人形であってはいけない」という女性へのエールなのでしょうか、ちょっと意味深ですね。

 オペラの醍醐味を満喫いたしました。本作品ではほぼすべての登場人物がアリアを歌うのですが、みなさん粒ぞろいで歌の饗宴を楽しませていただきました。指揮者もオーケストラも文句なし。舞台装置も衣装もお金とアイデアをふんだんに使った素晴らしいものでした。
 それにしてもドン・ジョヴァンニの悪党ぶりには圧倒されます。たんなるプレイボーイではないのですね。殺人、暴力、虚言に甘言、最後に地獄へ落されるのも宜なるかな。最近、『サイコパスの真実』(ちくま新書1324)という本を読んだのですが、その中で原田隆之氏はこう述べられています。
 サイコパスを特徴づける要素はたくさんあるが、なかでも一番の中核的要素は、良心や共感性の欠如である。(p.43)

 良心の欠如、共感性の欠如からの当然の帰結は、冷淡さ、残虐性である。良心がはたらかず、他人の気持ちを思いやることができないのであるから、他人にはとことん冷たく、冷酷になることができ、残忍なことも平気で行う。(p.69)
 そう、ドン・ジョヴァンニはサイコパスなのかもしれません。でもどことなく惹かれるのですね。彼を「悪の権化」として全否定するのではなく、各人の内部にも「ジョヴァンニ的要素」があると思わせてくれるかどうかで、このオペラの成否は決まると思います。そういう意味で、ニコラ・ウリヴィエーリは見事に歌い切ったと思います。
彼に翻弄される三人の女性も魅力的です。品行方正で貞淑なドンナ・アンナ、嫉妬に狂い彼を憎むが憎みきれないドンナ・エルヴィーラ、そして朴訥だが小悪魔的なところもあるツェルリーナ。マリゴーナ・ケルケジ、脇園彩、九嶋香奈枝が、そのキャラクターをよく表現していました。時に重苦しくなる雰囲気を笑いでなごませるレポレッロを演じたジョヴァンニ・フルラネットもいいですね。そうそう忘れてはいけない、白い服を着て白いドーランを体に塗って石像に扮し、ジョヴァンニを地獄へ落とした妻屋秀和さんのドスのきいた歌いっぷりも見事でした。「ドン・ジョヴァァァァァァァァンニ!」、彼の声がまだ耳朶に響いています。

 おまけです。「ドン・ジョヴァンニ」とは関係ないのですが、帰りの地下鉄車内で、「JFC」というウェアを着た少年の一団が優先席を独占し、だらしなく座ってスマートフォンでゲームをしていました。どこかのジュニア・サッカー・チームなのでしょうか。良心と共感性の欠如だとしたら、末恐ろしいですね。
 実は山ノ神、チェコ旅行をしてきたばかりなのですが、プラハの地下鉄には優先席がなかったそうです。彼女が立っていると、目の前に座っていたけばい化粧をしていた少女が、慌ててすぐに席を譲ってくれたそうです。
 車内に優先席のある国とない国、横断歩道で人が待っていると、車が止まる国と止まらない国。ちょっと国を憂いてしまいました。
by sabasaba13 | 2019-06-04 06:21 | 音楽 | Comments(0)

木の上の軍隊

c0051620_811850.jpg 「父と暮せば」「母と暮せば」と並ぶ、こまつ座「戦後"命"の三部作」のひとつ、沖縄戦をテーマとした「木の上の軍隊」が新宿にある「紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA」で上演されるという耳よりな情報を入手しました。これはぜひ見たい。山ノ神を誘ったのですが、彼女は以前に見たことがあるとのことでパス。一人で、見てきました。

 パンフレットによると、2010年4月に他界した劇作家・井上ひさしが亡くなる直前まで執筆しようとしていたのが本作だったそうです。戦争時、沖縄県・伊江島で、戦争が終わったのを知らぬまま、2年もの間、ガジュマルの木の上で生活をした2人の日本兵がいたという実話に基づいています。しかし井上の急逝により、この舞台はその初日を迎えることはありませんでした。そこで若手作家の蓬莱竜太が新たな戯曲を書き下ろし、井上ひさしがもっとも信頼を寄せた栗山民也が演出を手掛けるという、井上に捧げるオマージュとして完成したのが本作です。井上麻矢氏はこう述べられています。
 井上ひさしは戦争で日常を奪われた一人ひとりの物語を書きたいと言った。
 それらの人のかけがえのない人生を書くことが、自分が作家になった意味だと、60歳にして初めて分かったと言った。より沢山の人達のかけがえのない人生の物語を紡ぎたかったのだろう。
 本土出身の上官を演じるのが山西惇、伊江島出身の新兵を演じるのが松下洸平、語る女(ガジュマルの精霊)を演じるのが普天間かおり、ビオラで舞台音楽を奏でるのが有働皆美です。
 まずはあらすじを紹介しましょう。
 沖縄・伊江島。米軍と激しい戦闘の末、壊滅的な状況に陥った日本軍。ベテラン兵士の上官と伊江島出身の若い志願兵は敵の激しい攻撃のなか、命からがら、ある森の中の大きなガジュマルの木の上に逃げ込んだ。枝が太く、葉が生い茂るそのガジュマルの木は絶好の隠れ場所だった。木の下に広がる仲間の死体、日に日に広がって行く遠くの敵軍陣地。連絡手段もないまま、援軍が来るまで耐え凌ごうと、2人は木の上で待ち続けた。やがて食料もつき、心労も重なった時、2人の意見は対立し始める…
 舞台装置は巨大なガジュマルの樹。上り下りしやすいように斜めになっていますが、本物と見紛うような見事な出来栄えでした。その樹上に逃げ隠れているのがふたりの兵士、本土と沖縄を擬人化した上官と新兵です。軍国主義の権化のような上官、彼に絶対服従しながらも飄々とマイペースを貫く新兵。両者の対比を、山西・松下両氏がコミカルに演じていました。やがて飢えに苛まれ、アメリカ軍の残した食料を食べようとする新兵。しかし上官は、敵国の食糧を食べることを許さず彼を恫喝します。
 しかし日本の敗戦に薄々気づいた上官は、米軍の食料を食べて太るは、小銃の手入れを怠って錆びつかせるは、緊張感を失ってすっかり弛緩してしまいます。しかし降伏をしようとはしない。何のために戦っているのかを深く考えようとせず、思考停止状態となります。ガジュマルの精霊のナレーションが痛烈です。
 考えるのをやめた。そして言葉を失った。
 その一方で米軍の野営地はどんどん拡張され、軍事基地へと変貌していきます。大切な故郷を米軍から取り戻すために戦い続けようとする新兵。しかし上官は、安逸で宙ぶらりんな日々に満足し、伊江島を取り戻すために戦おうとしません。もちろん日本の援軍が来る気配もありません。絶望する新兵。彼の哀切きわまる言葉が心に残ります。
 どんどん大きくなってませんか、野営地が。

 だから一生懸命思い出すんです。あれがなかった時の景色を。

 守られているものに怯え、怯えながら…すがり、すがりながら、憎み…憎みながら、信じるんです…もう、ぐちゃぐちゃなんです。
 結局、本土は沖縄をまもってくれなかった。いやそれどころか、沖縄を米軍の戦利品として献上し、自分だけ生き永らえようとする。新兵が病気になったため二人はガジュマルから降りて投降しますが、その後、二人の再会はありませんでした。
そして衝撃のラストシーン、ガジュマルが二人を乗せたまませり上がり、ほぼ直立します。客席を睥睨するガジュマルと二人の兵士。まるで、あなたがたが忘れても、無関心でいても、見て見ぬふりをしても、私たちは見ていると言わんばかりに。
 ガジュマルの精霊が静かに琉歌を唄い始めると、それを掻き消すかのように轟く軍用機(オスプレイでしょうか)の爆音。恐怖心さえ覚えるような、今の沖縄人を脅かすその凄まじい音が、私たちを現実へと引き戻します。

 素晴らしいお芝居でした。ガジュマルの上を縦横無尽に動きまわり、沖縄と本土の関係を見事な演技で演じ切った山西惇と松下洸平の両氏に、心からの拍手を贈ります。ひさしぶりにスタンディング・オベーションをしてしまいました。
 そしていま、沖縄をふたたび犠牲にして辺野古での新基地建設を強行している安倍政権に、瞋恚の焔が燃え上がります。沖縄、福島、水俣、四日市、アイヌ、在日コリアン、ワーキング・プア、女性、子ども、誰かを、どこかを犠牲にしないと立ちゆかないこの国って、いったい何なのでしょうね。

 追記です。最近、与那国島や宮古島などに自衛隊を配備する動きが活発となっています。日本の多くのメディアの論調は、「海洋進出する中国への牽制」というロジックで自衛隊の南西シフトを報道していますが、どうも眉唾ものですね。『週刊金曜日』(№1233 19.5.24)の「自衛隊の「南西シフト」三つのポイント」 (本誌取材班)という記事で、その正体が見えてきました。
 まずアメリカの対中国戦略は、中国の弱点である輸出依存経済に着目し、いつでも中国のコンテナ船の運航を止めさせ、遠距離経済封鎖することができる誇示し、「現行の(米国の作り出した)国際秩序に従え」と中国を威圧するものです。言い換えれば、中国の「海洋進出」に米日が「対応」しているのではなく、逆に米日の「威圧」戦略が先行して存在し、それに中国が「対応」するかたちで軍事増強を進めている構図として理解すべきだと本誌は指摘しています。
 当然ながら、中国も黙ってはいません。経済封鎖網を「突破」可能にするべく、東シナ海沿岸における軍事配備を強化します。すでに、中国は地対地ミサイル等を多数配備していますが、このミサイルのターゲットは、中国への「威圧」のために南西諸島に配備された自衛隊の地対艦ミサイル等とされています。これに対し自衛隊の側も、こういった中国の「対応」を口実に、「島嶼防衛」を名目にしながら、実際には「経済封鎖可能な軍事配備」を維持するための配備を強大化していくことしょう。こうして「いつでも経済封鎖は可能だぞ」対「そんな経済封鎖など突破できるぞ」という対立構図のもとで、軍事緊張は常態化していきます。(p.25~7)
 また沖縄を犠牲にして、9条改憲、軍事費増額、排外的ナショナリズムの煽動、そして安倍政権支持率の上昇を目論んでいるのかもしれません。やれやれ、あのガジュマルの木と二人の兵士は、どのような思いでこの状況を見つめているのでしょうか。
by sabasaba13 | 2019-06-01 08:11 | 演劇 | Comments(0)