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福井・富山編(16):福井(16.3)

 そして左内公園へ、こちらには橋本左内の墓所と銅像があります。解説を転記します。
橋本左内 (1834~1859)
 橋本左内は、幕末の福井藩士です。
16歳のときに大坂に行き蘭学や西洋医学を学ぶなど、若い頃から熱心に勉強しました。
 左内は、24歳の若さで藩校「明道館」の学監同様心得に就任し、欧米の優れた学問を学ばせようとしましたが、「むやみにまねるのではなく、日本古来の道徳など精神的な学問を助けるものとして学ばなければならない」と洋学を学ぶ時の注意も忘れませんでした。
 将軍の後継問題が起きると、福井藩主松平春嶽の命令を受けて、一橋慶喜を将軍にしようと江戸や京都で活動しました。しかし、徳川慶福を将軍にしようとした井伊直弼が大老になると、左内は捕らえられ、安政6年(1859年)26歳の若さで処刑されました。
 また左内が15歳の時に自分の生活を反省して、自身を激励し言い聞かせる意味で述べた「啓発録」の五つの項目を刻んだ石碑もありました。
一 稚心を去る
一 気を振るう
一 志を立つ
一 学に勉む
一 交友を択ぶ
 橋本左内、由利公正、中根雪江、よくぞこれだけの逸材が越前藩に揃っていたものです。日本海を経由しての大陸・半島からの文化流入や、北前船による京や各地の文化の流入などによって、異文化への寛容さや、その結果としての文化の多様化が育まれ、広い視野をもつ人びとが多かったからなのかな、と勝手に憶測しています。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2019-09-28 06:18 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(15):福井(16.3)

 さらに走ると、由利公正宅跡の碑と、坂本龍馬の歌碑がありました。
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 後者の解説を転記します。
龍馬の歌碑
 文久3年(1863)5月、坂本龍馬は神戸海軍塾資金調達の為福井へ来た際に、ここ由利公正(三岡八郎)宅跡へ夜半にも関わらず、幸橋(文久2年架橋)を横目に小船に棹ざして福井藩政治顧問・横井小楠と共に訪れた。そこで、肝胆相照らす仲となり福井藩の挙藩上洛の話や、ニッポンの洗たくの話など熱い想いを歌に託し、この地にて謡ったと伝わっています。

「そこで三人が炉を抱へて飲み始めたが、坂本が愉快極まって-君がため捨つる命は惜しまねど心にかかる国の行く末-という歌を謡ったが、その声調が頗る妙であった。翌朝、坂本は勝と大久保に会いにいくという事で、江戸に向かった。」(『由利公正伝』より)
 日本の洗濯か… この時代に比べてこの国の汚れは、半年着続けた襤褸の如くひどくなっているようです。特に政治家・官僚・財界の腐臭には鼻が曲がるほどです。「ヤフー・ニュース」で知った、安倍晋三上等兵の醜態を紹介しましょう。
 2月13日の衆議院予算委員会でもこれが先進国の国会でのやりとりかと耳を疑うような場面があった。質問者は立憲民主党の本多平直議員だ。安倍晋三首相が改憲の理由としてたびたび使う「自衛隊員の息子が『お父さんは憲法違反なの』と涙を浮かべながら言った」という話は事実なのか、いつどこで聞いたのかを問いただした。(略)
 すると、安倍首相はいきり立ってこう言い出した。
 「本多委員はですね、私が言っていること、嘘だって言っているんでしょう? それは非常に無礼な話ですよ。嘘だって言っているんでしょ、あなたは。本当だったら、どうするんです、これ。あなた、嘘だって言ってるんだから!」
 本多議員が、「いつどこで聞いたのかって聞いてるんですよ。例え話なのか、実話なのかと聞いただけじゃないですか」と問い直しても、安倍首相はまともに答えようとせず延々とキレ続ける。
 「こんなに時間を使って私に対して嘘だと言っているというのは、きわめてひどい話だと思います。あまりにもですね、全面的に人格攻撃ではないかと思う……」
 そしてあげくの果てに、「私が嘘を言うわけはないじゃないですか!」と言い放つ。
 こういう御仁が、選挙によって内閣総理大臣の座に安住でき、相当数の方々が彼を支持するか、あるいは無知・無関心である国。トホホホホ… どう洗濯したらよいのでしょうか、龍馬さん、ぜひご教示ください。「おまんはごくどうじゃねぇ」と叱られるかな。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2019-09-27 06:23 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(14):福井(16.3)

 福井地方裁判所は、中央に聳える塔と、これでもかこれでもかと連続する縦長の窓が印象的な建築です。おっ、「白川静生誕之地」という記念碑があるぞ。漢字の碩学・白川静はここ福井の出身だったのですね。氏の著作は『中国の神話』(中公文庫)しか読んだことがありませんが、その該博な知識には舌を巻きました。
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 なお碑文はこう刻まれていました。
 遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。遊は絶対の自由と、ゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。「文字逍遥」白川静
 氏の好きな漢字の一つが「遊」だそうです。そうそう、最近氏のこんな言葉を知りました。
 一歩ずつ運べば、山でも移せる。
 その近くにあった信号の脇にスコップが置いてあり、こう記されていました。
 みどりのスコップひとかき運動
 信号待ちの時間、歩道の除雪にご協力をお願いします。
 福井土木事務所
 へえー、福井ってけっこう雪が降るのですね。そういえば、信号機も雪が積もらないよう縦型でした。
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 足羽川の土手を走っていると、由利公正の銅像と「議事之体大意」の碑がありました。解説文を転記します。
 由利公正は、幕末・明治期の政治家です。
 文政12年(1829)、現在の福井市毛矢1丁目に福井藩士三岡義知の長男として生まれました初め石五郎、後に八郎、公正と改名しました。また、明治3年(1870)以後は、先祖の旧姓の由利を名乗りました。
 横井小楠に師事し、藩の財政立て直しを含む、藩政の改革に貢献しました。
 明治新政府の成立後は太政官札(新政府の発行した最初の紙幣)を発行するなど、財政基盤の整備や、「五箇条の御誓文」の原案となった「議事之体大意」を作成しました。
 その後、東京府知事となり、銀座通りの整備等を行いました。
 また、民撰議院設立建白書にも名を連ね、明治42年(1909)に、81歳で亡くなりました。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2019-09-26 06:13 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(13):福井(16.3)

 それでは「橋本左内生家跡」へと参りましょう。途中で路面電車と並走、路面電車が走っている町ってどこかホッとします。道路は、あの「悪魔の機械」の独占物ではありません、断じて。昔懐かしいコンクリート製のごみ箱を見かけましたが、もう使われていないようです。
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 そして「橋本左内生家跡」に到着。解説を転記します。
 景岳左内先生は天保5年3月11日藩医橋本長綱の長男として此の地に生まれた名を綱紀・別名黎園(けいえん)ともいった。常盤の井は生ぶ湯の井戸である。
 幼少から学問を好み藩儒吉田東篁(とうこう)に儒学、大阪の緒方洪庵江戸の坪井信良杉田成卿等に蘭学を修めた。
 有名な「啓発録」は15才の時自戒のために書いたものである。
 嘉永6年ペルリ来航以来国事多難となり松平春嶽公の側近に加えられたが公の幕政改革は井伊直弼と相容れず安政6年江戸伝馬町の獄内にで26才の短かい生涯を終えた。
 なお「左内先生 初湯の井」がそばにありました。
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 その近くにあったのが「中根雪江宅跡」、解説を転記します。
 幕末福井藩の名主松平春嶽帷幕の老臣として知られた雪江中根靫負の宅跡である
 大学のゼミナールで、彼の『丁卯日記』を輪読した記憶がよみがえりました。松平慶永(春嶽)の片腕として、一橋慶喜の擁立、公武合体運動に奔走した側用人ですね、たしか。
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 なおまったくの余談ですが、『宇垣一成 政軍関係の確執』(渡邊行男 中公新書1133)を読んでいたら、春嶽の子息が、陸軍によるクーデター未遂計画「三月事件」(1931)に関わっていたことがわかりました。へえー。
 一見してお粗末な計画(※三月事件)だが、大川(※周明)はこの計画で「数万金を費した」し、その金の出所は「華族階級の者」であった。大川に金を出したのは徳川義親侯爵で、この三十七万円とも五十万円ともいわれる金は、戦後、日本社会党創立のために使われた(矢次一夫 『昭和動乱私史』)。
 徳川侯はあの幕末の賢侯越前藩主松平春岳の五男で、"トラ狩りの殿様"として有名だった。父の血をひいて革新好みの性格であったろうといわれる。(p.74~5)

by sabasaba13 | 2019-09-25 06:21 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(12):養浩館(16.3)

 私がいちばん気に入ったのが櫛形ノ御間(くしがたのおま)。池に面して、花頭くずしの連窓となっていて、これが櫛を連想させることからこの名があるとされます。屋敷の中で最も池に張り出しており、窓辺に寄れば、跳ね上げ雨戸の趣向もあいまって、まるで屋形舟に乗っているかのような気分になります。写真でしか見た事がないのですが、小堀遠州の手による大徳寺孤篷庵の茶室・忘筌の雰囲気と似ているような気がします。また、池に面するところが、軒が室内に入り込んだ掛込天井となっており広々とした空間を演出しています。北側にも窓があって池を見渡すことができ、とにかく開放的な、そして心が広がって水に溶けていくような素晴らしい部屋でした。人水一如、しばし寝転んで胡蝶の夢を愉しみました。晴れた日に訪れて、掛込天井に揺らぐ水の影をぼんやりと見ながらうたた寝をしてみたいものです。本当に本気で再訪を期す。
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 鎖ノ御間(くさりのおま)の「鎖」とは、茶釜を吊る鎖、また一日の内に座を移って茶を楽しむために茶室と書院をつなぐ意味合いと言われ、茶室として使われた部屋です。板戸に描かれた鶏の絵は剥落がひどかったので、推定復原してものだそうです。
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 御湯殿(おゆどの)は、蒸風呂を備えた広々とした風呂場です。ここで汗を流しながら、お庭を眺められたらほんとに殿様気分ですね。
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 というわけで、庭から建物を眺めるもよし、建物から庭を眺めるもよし、まさに「庭屋一如」。至福のひと時を満喫できました。えてしてオリジナルのものを有難がる私ですが、たとえ復原とはいえ時代考証をしっかりと行ない、先人の美意識を理解し、優れた技術で再現すれば、十二分に感興を得ることができるのですね。目から鱗が落ちました。
 アメリカで発行されている日本庭園の専門誌「スキヤ・リビング・マガジン」で毎年発表される日本庭園ランキングで、第5位にランクインされたのも宜なるかな(2016年)。今にして思えば、今回の旅でもっとも感銘を受けたのが、この養浩館との出逢いでした。晴天、新緑、紅葉、暮色、雪景色、いろいろな表情を見てみたい、魅力的なお庭でした。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2019-09-24 06:24 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(11):養浩館(16.3)

 それで建物の中を拝見しましょう。せせらぎにかかる細長い巨石を石橋としていますが、水面から離して渡さずに、浅い流れにどっしりと据えています。これは珍しい。御座ノ間へと続く飛石の色合いも素敵です。公式サイトによると、薄い層が幾重も重なった紫色の流紋岩(安島石)や、ピンク色の黒雲母花崗岩、青緑色の緑色変岩など福井の名石が用いられているそうです。安島石は、一乗谷朝倉氏遺跡の館跡庭園にも用いられているとのこと。
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 靴を入れようと下駄箱を見ると…なんと先客はひとり。これは嬉しい、ゆったりとした閑静なひと時を楽しめそうです。まずは御座ノ間へ、藩主の座が設けられた屋敷の中心となる部屋です。しかし華美あるいは豪放な雰囲気は微塵もなく、美意識を駆使した上品で清雅な空間です。三寸一分という細めの磨丸太や面皮柱を多用しているためか、軽やかさも感じます。出書院に建て込んだ幅の細い組子による明障子と、桑の一枚板を透彫にした麻の葉模様の欄間が、粋ですね。壁は、越前襖紙を約10枚重ねて貼り、仕上げに越前鳥子紙を上貼りした張壁。天井はサワラの薄板を用い漆塗りの棹縁天井で、長押は杉丸太。解説にあったように、水面に反射する日の光が天井や張壁にゆらめく様は、素材そのまのの美しさを活かした造りをよく引き立てることでしょう。水面からの反射光が壁や天井にゆらめく美しさは、修学院離宮の窮邃亭カマキンで堪能しましたが、ぜひここでも見てみたいものです。社交辞令ではなく、本気で再訪を期します。
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 目を瞠ったのが、御次ノ間との境にある欄間。豪奢な彫り物で飾るケースが多いのですが、なんと山ウコギの皮付きの小枝を組んだ抽象的でシンプルな意匠となっています。たくさんの光を取り入れるためでしょう、あえて開放的なつくりとし、そこに自然素材の味を生かしたアクセントをつける。脱帽です。
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御月見ノ間は、南に突き出すように設けられた離れ座敷で、照る月や、水に映る月を愛でるための部屋です。三方から庭を眺めることができますが、欅の一枚板を雲形に繰り抜いた雲窓のある西側の眺めが素晴らしい。雲窓と障子を額縁として、池・木々・小亭・州浜を絵のように切り取った景色には見惚れました。よいアクセントとなっているのが、景石であるとともに、柱を受ける束石ともなっている巨大な平石です。
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 青貝入の螺鈿細工が施された脇棚の袋戸や、モダンな意匠の地袋の扉も印象的です。
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by sabasaba13 | 2019-09-23 06:51 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(10):養浩館(16.3)

 次のバスに乗って加賀温泉駅へ、北陸本線に乗って福井へと向かいましょう。なお近くの加賀橋立には、中谷宇吉郎の生家跡とお墓、「雪の科学館」、そして深田久弥の「山の文化館」がありますが、時間の関係で泣く泣くカット。再訪を記しましょう。
 途中の芦原温泉駅では、「ちはやふる 綿谷新の出身地」という大きな看板がホームにありました。特段、氏には関心がありませんが、芦原温泉は明日訪れる予定です。九頭竜川を渡ると福井駅に到着。
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 駅の観光案内所で観光地図をいただき、自転車を借りました。まず目指すは福井藩主松平家の別邸「養浩館(ようこうかん)」、数寄屋造りの屋敷をそなえる回遊式林泉庭園の名園です。江戸時代には「御泉水屋敷」と称されていましたが、1884(明治17)年に松平慶永(春嶽)によって「養浩館」と名付けられました。「人に元来そなわる活力の源となる気」、転じて「大らかな心持ち」を育てることを意味するようになった孟子の言葉「浩然の気を養う」に由来すると言われているそうです。1945(昭和20)年の福井空襲によって建造物は焼失しましたが、戦前の調査時の古写真や新たな発掘調査などをもとに復原整備が進められて1993(平成5)年に完成し、一般公開されました。以上、公式サイトを参考にした紹介でした。
 それではお庭から拝見しましょう。一見、すぐに感じたのは、このお庭の主役は池であることです。敷地のほとんどが池で占められ、しかもその中に中島がありません。広々とした水面が、得も言われぬ開放感を与えてくれます。ああ気持ちいい。そして池に浮かんでいるかのように建つ数寄屋造りの建物群。残念ながらこの日は曇天で少し風があったのですが、もし好条件でしたら、広大な池面が建物と青空を映す水鏡となって、それはそれは見事な景色でしょう。
 小亭「清廉」からの眺め、柱状節理の2本の岩柱による石組からの眺め、清水が湧く臼ノ御茶屋(現存せず)の蹲踞(つくばい)越しの眺めもいい景色です。まるで一幅の絵のようです。

 本日の七枚です。
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by sabasaba13 | 2019-09-22 07:45 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(9):山代温泉(16.3)

 停留所でおりると「YAMASHIRO アートマーケット」という顔はめ看板があったので写真撮影。その近くに「男生水の名水」があったので、解説を転記しておきます。
 山背の七生水の歴史は開湯1300年の山代御温泉より古き3世紀以前と云われ 堂ノ上ノ生水 と呼ばれたこの生水は干天続きの真夏でも渾々と水を湛えて附近住民の生活用水として不可欠のものであった
 この恵みある生水を崇め 守護してもらうため地蔵を祀り だれ云うともなく 男生水 として親しまれ信仰されるようになった
 昭和12年5月の山代大火も ここで延焼をまぬがれ 又日参して子宝の授かった夫婦もあり ご利益あるこの男生水も地域開発の時代の波に押され昔日の面影なきまで荒廃したので 有志各位と地元保存会により 男生水 水掛地蔵 として再建するに至った
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 観光案内所が見当たらないので、「山代八景」という地図の看板を頼りに短い散策をしました。真新しい古総湯は、明治時代の総湯を復元したものだそうです。その周囲の街並みを、北陸では「湯の曲輪(ゆのがわ)」と呼ぶそうです。「はづちを楽堂」は、地域の賑わいづくりの事業や地域のコミュニケーションをサポートするための施設。
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 こちらには、山代大田楽と古総湯の顔はめ看板がありました。なお山代温泉のマスコットは「すぱクロくん」という三本足の霊鳥「ヤタガラス」でした。
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 さてこれで時間切れ。魯山人が刻字看板を彫った仕事部屋、書や絵を描いた書斎、山代の旦那衆達と語り合った囲炉裏の間、茶室・展示室(土蔵)などを公開している「魯山人寓居跡いろは草庵」や、彼の作品を拝見できる「あらや滔々庵」など見どころが多いので、再訪を期しましょう。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2019-09-21 06:24 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(8):山代温泉(16.3)

 それはさておきバスに乗り込むと、ふと途中にある山代温泉に寄ってみようかと思い立ちました。旅行前に読んできた『小さな町小さな旅 東海・北陸』(山と渓谷社)で知ったのですが、北大路魯山人に縁のある湯の町です。公式サイトから引用します。
 神亀2年(725年)、行基という名の高僧が霊峰白山へ修行に向かう途中、一匹の烏が羽の傷を癒している水たまりを見つけたのが山代温泉のはじまり。この烏が、古事記や日本書紀にも登場する伝説の三本足の霊鳥「ヤタガラス」とされ、現在までに受け継がれています。
 永禄8年(1565年)5月、傷を負った明智光秀もまた湯治のため、10日間にわたってこの山代に滞在したと伝えられています。光秀をはじめとした京都の人々にまで山代温泉の効能が知られ、全国から湯治に訪れたことが想像されます。このように全国各地から訪れた人々によって、山代の地に文化の香りがもたらされました。
 そんな歴史と文化の積み重ねが文化人を魅了する、いで湯の街を育んできました。「山代の いで湯に遊ぶ 楽しさは たとえて言えば 古九谷の青」と詠んだ与謝野晶子、「夢もおぼろな山代温泉」と記した泉鏡花、そして、食の世界・陶芸の世界でその名を知られる北大路魯山人の遊び心を刺激せずにはおかなかったのです。
 山代温泉と魯山人の関わりについては、前掲書から引用します。
 大正初期、魯山人が福田大観と名乗っていた頃、金沢の茶人細野燕台との縁で山代にやって来た。吉野屋旅館の当主・吉野治郎が吉野屋の別荘「いろは草庵」を提供した。魯山人が滞在中、山代の旦那衆が集まり、草庵は文化サロンのようだったという。陶芸の原点もここ山代であった。燕台の煎茶仲間だった須田菁華(せいか)の作陶に興味をもち、釉薬の調合からろくろ挽きのコツ、窯の焚き方などの基礎から、焼物の鑑賞上の見どころまで教わった。魯山人は「翁は当代陶磁界における第一の異才なり」と菁華を称えた。(p.136)
 ただ、この後の旅程が押しているので次のバスが来るまでの三十分間限定、タッチ・アンド・ゴー的徘徊しかできません。もう少しゆとりのある大人の旅をそろそろせねば、といつも自戒するのですが、結局は「あれもこれも見てやろう」ということになってしまいます。これも性なのでしょう。
by sabasaba13 | 2019-09-20 06:27 | 中部 | Comments(0)

言葉の花綵197

 あなたがこの世で見たいと願う変化にあなた自身がなりなさい。(マハトマ・ガンディー)

 平和とは、どこかで進行している戦争を知らずにいられる、つかの間の優雅な無知だ。(エドナ・セントビンセント・ミレー)

 本を読むと、いけないことをしたとき、恥ずかしいと思えるようになる。(中根東里)

 火薬玉の発明だけで、ヨーロッパ中の人民が自由を奪われたという話です。それは一発の火薬玉で降参してしまうような町人どもに城の番をさせるのは危いというのが口実になって、大名どもはたくさんの軍勢を養い、さらにこの軍勢で人民に暴圧を加えたというのです。また火薬の発明以来、難攻不落の城塞などはなくなった。つまり、不正や暴力にたいするこの世における避難所がもうなくなったわけです。私はいつも心配するのですが、人間は、最後になにか秘密を発見して、ずっと手軽に人間を殺し、人民や国全体を滅ぼしてしまうのではないでしょうか。(モンテスキュー)

 人民が無気無力にて、すこしも自由独立の精神なく、そのうえ徒らに自分一人一家の事のみこれ知って、国家公けの事の上には一向心を向けることなく、何にもかも一つに政府に委ねまかし、自分に受持つ気象がなければ、その国は弱み衰えざるということはありません。さればあのように専制の政府で、勝手気まま政をなし…民の権利を重んぜず、圧制束縛もって人民の屈従するをのみこれ図り、徒らに政府の…威光十分に輝きたるもののごときは…決してほんまの強きにあらず、盛なるにあらず、ただ民の力を弱めたるのみの事なり。(植木枝盛)

 革命を成功させるのは希望であって、絶望ではないのだ。(クロポトキン)

 人を殺すため、あるいは人に殺されるために雇われるというようなことは、人間をたんなる機械や道具として他のもの〔他の国〕の手において使用することを意味すると思われる。これは私たち自身の人格における人間性の権利におそらく合致しえない。(カント)

 婦人を遇するの道は、その高貴なる品性をはげますにあり、その賤劣なる虚栄心に訴うるにあらず。(内村鑑三)

 学問は飛耳長目の道と荀子も申し候。この国にいて見ぬ異国の事をも承り候は、耳に翼できて飛びゆくごとく、今の世に生まれて数千載の昔の事を今日見るごとく存じ候ことは長目なりと申す事に候。されば見聞広く事実に行きわたり候を学問と申す事に候ゆえ、学問は歴史に極まり候。(荻生徂徠)
by sabasaba13 | 2019-09-19 06:23 | 言葉の花綵 | Comments(0)