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福井・富山編(38):藤野厳九郎記念館(16.3)

 魯迅の親友であった内山完造が、藤野厳九郎に送った手紙も展示してありました。解説文を転記します。
 内山書店店主 内山完造(1885‐1959) 魯迅の崇拝者であると共に親しい友人であった。岡山県に生れた内山完造は、大阪と京都で徒弟奉公をした後、目薬の販売員として大正4年(1915)上海市北四川路に一家を構え、これが発展して内山書店となった。魯迅は1927年広州を去って上海に移ったが、まもなく内山書店を訪れるようになり、書店の客としてのみではなく、死去に至るまで内山完造と親しい交友を続けた。そのため、魯迅死去に際して、内山完造は日本人としてただ一人、葬儀委員に選ばれた。
 この手紙は、魯迅死去8年後に中国紙に載った、魯迅の日本留学時代についての記事の切り抜きを藤野厳九郎に送ったものである。記事の内容中、藤野厳九郎に関する部分は、小田嶽夫の『魯迅伝』(昭和16年(1941)筑摩書房)の記載によっている。
 戦後日本に引き揚げた内山完造は、日中友好に尽くしたが、昭和34年(1959)友人たちのすすめで病気療養のために中国へ渡り、北京で客死した。
 内山完造、記憶にとどめたい人物です。以前に『伝説の日中文化サロン 上海・内山書店』(太田尚樹 平凡社新書436)の書評でも書きましたが、内山書店が営まれていた1917年から1945年といえば、二十一か条要求、五・四運動、第一次国共合作とその破綻、北伐、満州事変と第一次上海事変、そして日中戦争と第二次上海事変など、激動の時代です。その中で内山完造は魯迅や郭沫若たちとの友情を育み、そして身を挺して国民党の弾圧から彼らを護りました。「友人を敵に売り渡さない人間は、日本人の中にだっていますよ」とは彼の言です。特に中国の独立を求めて闘い続けた魯迅にとって、情報の発信と入手、さまざまな援助、隠れ家の提供など内山完造の存在がいかに大きなものであったか。著者の太田氏は「親友であると同時に確固たる兵站部」と表現されています。
 その彼が、藤野厳九郎にこうした手紙を送っていたことをはじめて知りました。二人は知友だったのか、あるいは故魯迅の意を汲んだのかはわかりませんが、これも中日のひとつの架け橋ですね。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-10-22 07:38 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(37):藤野厳九郎記念館(16.3)

 まずは木造の主屋へ、藤野先生の人柄を偲ばせるような飾り気のない質素な部屋でした。彼が来ていた和服や、令息が遊んだ玩具などが展示してありました。
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 そして新館の展示室へ。藤野先生が使用した医療器具や魯迅の成績表などを拝見。
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 胸が熱くなったのは、仙台医学専門学校の授業で筆記したノートが展示されていたことです。藤野先生による懇切丁寧な添削の様子が、手に取るようにわかります。『魯迅選集 第二巻』(岩波書店)所収の「朝花夕拾」(1927年)中の掌編『藤野先生』にはこうあります。
 「私の講義は、筆記できますか」と彼は尋ねた。
 「少しできます」
 「持ってきて見せなさい」
 私は、筆記したノートを差出した。彼は、受け取って、一、二日してから返してくれた。そして、今後毎週持ってきて見せるように、と言った。持ち帰って開いてみたとき、私はびっくりした。そして同時に、ある種の不安と感激とに襲われた。私のノートは、はじめから終りまで、全部朱筆で添削してあった。多くの抜けた箇所が書き加えてあるばかりでなく、文法の誤りまで、一々訂正してあるのだ。かくて、それは彼の担任の学課、骨学、血管学、神経学が終るまで、ずっとつづけられた。(p.246)
 この後、魯迅が試験をクリアしたのは、藤野先生がテストの内容を事前に彼に教えているという噂が流れ、日本人同級生からのいやがらせがなされます。結局、友人の尽力で噂は立ち消えとなりました。中国に帰った後、魯迅はこのノートを三冊の厚い本に綴じ、永久の記念として大切にしまっておいたのですが、引越しの時に運送屋がなくしてしまったと本作の最後に記しています。しかし展示品の解説を読むと、1951年に、彼の故郷・紹興で発見されたとあります。嬉しいですね、彼岸の周樹人もさぞや喜んでいるでしょう。なおこのノートは複製ですが、原本は中国北京魯迅博物館に収蔵されており、中国の一級文物(国宝)とされているそうです。日中の架け橋となったこのノートを国宝に指定するところに、中国政府の高い見識を感じます。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-10-21 07:24 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(36):藤野厳九郎記念館(16.3)

 そして駅前に戻り、いよいよお目当ての「藤野厳九郎記念館」を見学しました。まずは彼と魯迅について、あわら市のホームページに、簡にして要を得た解説がありましたので紹介します。
 中国の北京に、今は亡き有名な作家魯迅の旧宅が残っています。
 魯迅とは「阿Q正伝」その他で、国際的に有名な中国を代表する文豪です。その家の中に一枚の写真が今も置かれています。
 その写真の主は、本荘村(現あわら市)の下番で、大正5年から昭和20年8月11日に亡くなるまで町医者として町民に親しまれた藤野厳九郎先生です。藤野先生は、明治7年に下番の医師下番の医師藤野升八郎の三男として生まれ、幼少より父に漢文を習い、8・9歳の頃中番にあった野坂塾で学びました。
 この漢学を学んだことにより、中国5千年の歴史に目と心が開かれていったと思われます。やがて先生は、龍翔小学校へ、ついで福井中学校を経て愛知医学校へと進み、優秀な成績をもって卒業しました。そして母校と東京帝国大学で、引き続き解剖学を研究して、明治34年に招かれて仙台医学専門学校講師となりやがて教授となりました。
 明治37年、清国(現在の中国)から1人の留学生が仙台医専に入学してきました。名前を周樹人(後の魯迅)といい、23歳の多感な青年でした。この青年が藤野先生の講義のノートを、先生に提出したことから深い師弟関係が始まりました。異国の地で学ぶ魯迅に、朱筆で誤字や脱字を直しながら、偉大な隣国の学生を育てていきました。
 時あたかも日露戦争の最中で日本は中国を軽視する風潮があったので、この藤野先生の魯迅への親切は、彼の脳裏に終生深く刻み込まれました。やがて魯迅は志を文学に変えて仙台医専を去りますが、2カ年の生活は後に魯迅選集の中の「藤野先生」として世に出ることになりました。
 そう、わが敬愛する魯迅の師であった藤野厳九郎の住宅が記念館として公開されているのです。今回の旅のひとつの目玉、さっそく拝見いたしましょう。当時の建物と、資料等を展示する新館がありましたが、主屋は昭和初期に建てられた木造二階建ての古武士のような建物で、有形文化財に登録されています。窓が小さく、その下に下見板を設けてあるのは、日本海からの寒風対策だそうです。
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by sabasaba13 | 2019-10-20 08:20 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(35):あわら温泉(16.3)

 まずは芦原温泉旅館協同組合のサイトから、芦原温泉の歴史について転記しましょう。
 その昔、芦原温泉中心部の温泉地帯は低湿な沼地でした。明治16年に町内堀江十楽のひとりの農民が灌漑用の水を求めて水田に井戸を掘ったところ、約80度の温泉が湧出したのが始まりです。翌明治17年には何軒かの温泉宿が開業し湯治客を泊めるようになり、明治45年に旧国鉄三国線が開通して以降、温泉街として発展していきました。その後、福井大震災(昭和23年)、芦原大火(昭和31年)など度重なる震災を乗り越え今日に至っております。
 けっこう新しい温泉なのですね。駅の目の前に藤野厳九郎記念館と藤野厳九郎・魯迅の銅像がありましたが見学は後回しにして、温泉街を散策しました。まずは登録有形文化財に指定されている老舗「べにや旅館」の外観を拝見。床の間や天井などに数寄屋意匠を施した、趣向を凝らした客室だそうです。ところがなんと、2018年5月5日に火事によって全焼してしまいました。幸い死傷者は出なかったそうですが、いやはや惜しいことをしました。サイトによると、解体作業が終わり、2020年の再建をめざしてがんばっておられるそうです。
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 石畳が敷き詰められた芦の湯通りの風情を楽しんでいると、三角屋根が印象的な瀟洒な洋館がありました。九頭竜川の改修や三国鉄道の敷設に尽力した杉田定一という明治時代の政治家の別荘です。洒落た佇まいなので、関係者各位にはぜひ内部の公開を望みます。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-10-19 06:22 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(34):あわら温泉(16.3)

 朝、目覚めてカーテンを開け、外をみると利休鼠の雨がしとしとと降っています。テレビで気象情報を見ても、やはり今日は一日雨模様のようです。ま、こんな日もあるさ。気を取り直して荷物をまとめました。本日は、あわら温泉、丸岡城、永平寺を経巡って、高岡に宿泊する予定です。幸い、すべて列車とバスで行けるのが、そう難儀はしないと思います。
 宿代を支払い、荷物をフロントに預け、ホテル近くにあった喫茶店「コロラド」でモーニングサービスをいただきました。
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 駅前でガードレール・アニマルをゲット。撮影した時はイルカかと思っていましたが、今よく見ると「FUKUI Juratic王国」と記してあるので恐竜かと思われます。ジュラシックのスペルは"Jurassic"ですけれどね。8番らーめんは、福井県でいちばん愛されているラーメン店だそうです。
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 そして福井駅からえちぜん鉄道三国芦原線に乗って、あわら湯のまち駅に向かいました。JR北陸本線の方が早いのですが、芦原温泉駅から温泉まで離れているので、こちらのローカル線を選択しました。車内に「キーボが走る」という吊り広告がありましたが、えちぜん鉄道で使用される、2車体連接の超低床路面電車のようです。ブラービ、ぜひとも、傍若無人に我が物顔で道路を独占するあの"悪魔の機械"から街を人間の手に取り戻してください。雨にけむる田園風景の中を四十分ほど駆け抜けると、あわら湯のまち駅に着きました。
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 "「ジャンジャン」がなったら、わたらないでください。"という掲示に頬を緩ませ、線路をわたると「ちはやふる」という映画のポスターが貼ってありました。いま調べたところ、競技かるたクイーンを目指す綾瀬千早らの青春を描いた少女漫画を映画化したそうです。物語の中で、千早を競技かるたへ導くきっかけを作った綿谷新あらた)の故郷として登場するのが、ここ福井県あわら市なのですね。新がバイトする書店「勝義書店」がJR芦原温泉駅前にあるそうですが、まったく興味がないのでパス。
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 顔はめ看板を二枚撮影して、それでは温泉街の散策と、藤野厳九郎記念館の訪問へと向かいましょう。
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by sabasaba13 | 2019-10-18 06:24 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(33):福井(16.3)

 それではホテル近くにあった蕎麦屋「甚右衛門」で夕食をいただきましょう。まずは「若狭さばへしこ」を注文。に塩を振って塩漬けにし、さらに糠漬けにした郷土料理です。若狭地方および丹後半島の伝統料理で、越冬の保存食として重宝されているとのこと。うん、美味しい。でもほんとうに若狭産の鯖なのかな。若狭の鯖に関してはちょっとしたトラウマがあるので、疑念を拭えません。
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 次なるご当地B級グルメは「竹田の厚揚げ焼き」。福井県は油揚げ(厚揚げ)消費量が全国第1位ですが、古くから永平寺の修行僧が食べる「精進料理」の影響だそうです。油揚げをはじめと大豆食品は貴重なタンパク源とされてきたからですね。越前・竹田村にある高級豆腐の老舗「谷口屋」がつくっているのが「竹田の厚揚げ」、大豆の旨味を十全に味わえる厚揚げ、かつおぶし、長ネギ、大根おろしの四重奏には舌を巻きました。これで「雪虎」をつくってみたいものですな。
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 そして福井名物、辛み大根のおろし汁をお蕎麦にぶっかけて食べる「おろしそば」がご来臨。蕎麦の風味と大根おろしの辛さが絶妙のマリアージュ。至福のひと時でした。
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 そしてホテルへと戻り、シャワーを浴びて地酒を飲みながら、明日の旅程に思いをはせているといつの間にか熟睡。
by sabasaba13 | 2019-10-17 06:30 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(32):福井(16.3)

 北陸本線に乗ること十四分ほどで福井駅に到着。駅構内に「福井市宣伝隊長朝倉ゆめまる」というご当地キャラクターのポスターがありました。越前国を拠点とし、後に発展して戦国大名となった越前朝倉氏のことでしょう。
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 駅前には、虎(猫?)と狸のガードレール・アニマルがありました。
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 そして北の庄城址公園・柴田神社へ、戦国時代の武将・柴田勝家とその妻・お市(織田信長の妹)を祀る神社です。このあたりは勝家の居城であった北ノ庄城の跡地とされ、境内には発掘された当時の城の石垣も展示されていました。
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 なおこちらには、茶々、初、江の三姉妹彫像が設置されていました。兄である織田信長の命令で浅井長政に嫁いだ市が生んだ三姉妹ですね。やがて長政と信長は対立、1573(天正元)年の小谷城の戦いで敗れた長政は切腹、その後、市は柴田勝家と再婚し、三姉妹と共にここ北ノ庄城に入りました。1583(天正11)年の賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れて北ノ庄城は落城、勝家と市は自害し、三姉妹はそれぞれ数奇な生涯を過ごします。
 茶々(淀殿)は豊臣秀吉の側室となり、嫡男・豊臣秀頼を産みました。秀吉の死後は、秀頼の生母として豊臣家政を掌握しますが、大坂夏の陣で徳川方に敗れ、秀頼と共に自害したとされます。なお『考える日本史』(本郷和人 河出新書002)によると、秀頼は淀殿の実子ではない可能性が高いとのことです。以下、引用します。
 産婦人科の先生たちに聞くと、秀頼が秀吉の実子である確率は、まず天文学的な数字になってしまうのだそうです。あれだけ子どもに恵まれない秀吉なのに、たくさんの女性のなかで淀殿だけが妊娠した。これがまず奇跡的。しかも、その子どもが早逝した後に、さらに同一人が再び妊娠したとなると、これは天文学的な確率の出来事になる。だから医学的に見れば、まず秀頼は、秀吉の子どもではない。DNA的には血は受け継がれていない。
 しかし家の継承ということを考えるのであれば、秀吉が「この子は俺の子だ」と認めると、それはもう、豊臣家の後継者として、問題なく秀吉の子どもになる。
 週刊誌的な興味で言えば「秀頼は不倫の子?」というスクープになるのかもしれません。しかし歴史的にも、政治的にも、実際は誰の子であろうが、秀吉が後継者に指名した以上、秀頼は秀吉の子以外のなにものでもないのです。(p.57)
 初(常高院)は小浜藩主・京極高次の正室となり、高次に先立たれた後は出家して常高院と名乗りました。大坂の陣の際には、姉妹の嫁いだ豊臣・徳川両家の関係を改善すべく、豊臣方の使者として仲介に奔走しました。
 江(崇源院)は徳川秀忠の妻(御台所)となり、3代将軍徳川家光や中宮源和子(明正天皇の生母)を産みました。自らの子孫を後代に残せなかった姉二人とは対照的に、多くの子をもうけた彼女の血筋は現在の今上天皇にまで続いています。

 本日の一枚、左より茶々、江、初です。
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by sabasaba13 | 2019-10-16 07:50 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(31):鯖江(16.3)

 そして"かたい信用×やわらかいお肉"がモットーの「ミート&デリカ ささき」にとうちゃこ。お目当ては、ご当地B級グルメの「サバエドッグ」です。肉巻きおにぎりをフライにしてソースをたっぷりつけた一品で、人呼んで"歩きながら食べられるソースかつ丼"。コテコテのB級グルメでんがな。カプリ うーん、この安っぽい味が郷愁をそそります。メンチカツもなかなか美味でした。
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 誠照寺(じょうしょうじ)は浄土真宗越前三門徒派の中心寺院で、鯖江町形成の基となったとされます。1779(安永8)年に建てられたという四足門を埋めつくす木彫が凄い。今にも天に昇りそうな龍の躍動感に圧倒されます。匠の技ですね。
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 そしてお目当てpart2の恵美写真館へ。基本は和風ですが、玄関ポーチの開口部や軒廻りの装飾等に洋風のテイストを取り入れた和洋折衷建築です。ドア下部の意匠、上部のキーストーン付き半円アーチの中にしつらえられた鏝絵などに心惹かれます。
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 表門も、アーチ形の屋根がユニークですね。竣工はともに1905(明治38)です。
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 それでは福井へと戻りましょう。鯖江駅に向かう途中にあったのが、鯖江藩家老植田家長屋門です。「長屋門」とは、敷地の周囲をめぐらす長屋の一部を門としたものですね。白漆喰壁に黒塗りの柱や下見板が重厚な雰囲気を醸し、鯖江藩5万石の家老職にふさわしい風格を感じます。
 鯖江駅の近くには、舘ひろしと柴田恭兵が写っている「さらば あぶない刑事」のポスターが貼ってあり、「福井県民も飲酒運転とおさらばしようぜ! 福井県警察」と記されていました。福井県警にはきっと常識人が多いのでしょうね。「草食系より大阪府警。」「たれ込み歓迎!」という超弩級の力業を見せる大阪府警とはえらい違いです。
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 追記です。最近読んだ『地域をまわって考えたこと』(東京書籍)のなかで、小熊英二氏が鯖江のことにふれていたので紹介します。
 福井県鯖江市。日本のメガネフレームの九割を供給し、都市からのUターンやIターンで人口が増加している。そこがどんな土地なのか、どんな人が住んでいるのか。実際に訪れてみた。
 最初に思ったのは「ダークスーツ姿が目につかない」ことだ。また製造業は多いが、大規模な工場がなく、有名企業の看板も目立たない。市の北西部に電子機器の工業団地があるが、企業城下町などに比べればささやかなものだ。
 スーツ姿と大工場。つまり「会社員と製造業」、いわば「働くニッポン」の象徴だ。「日本人」といえばスーツ姿のビジネスマン、「日本」といえばハイテク工場というイメージは海外で根強い。
 これは外国ばかりではない。日本の人々自身も、スーツ姿の会社員になるか、大工場で働くことをめざす。だから多くの地方も、大手企業の誘致に懸命だ。昭和の時代に作られたこのステレオタイプは、いまだ強固なのだ。
 だが鯖江には、スーツ姿も大工場も目立たない。だが人口は増えている。それはなぜだろうか。
 じつは鯖江には、中小の製造業がひしめいている。その数は、メガネが約500、繊維が約100、漆器が約200。その大部分は中小規模で、田園風景のなかにとけ込んでいる。外見は日本家屋でありながら、中はリノベーションしてある例も少なくない。
 この「中小企業の集積」という形態に、鯖江の特徴がある。2004年から市長を務めてきた牧野百男氏によると、鯖江は「福井県で社長の数が一番」だ。これら中小企業が、協力と競争で「内在的イノベーション」を創りだしているという。中小企業の集積で革新的な気風を生み出しているところから、「日本のシリコンバレー」という異名もあるそうだ。(p.26~7)

by sabasaba13 | 2019-10-15 06:25 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(30):鯖江(16.3)

 また、最近読んだ、自衛隊の問題点に対する発言をいくつか紹介します。
 服従心を、もっとも短期間にそして徹底的に作り上げる場所は、いうまでもなく軍隊であった。
 軍隊こそ、若い青年たちを処罰という暴力の恐怖、昇進という利欲の誘惑にさらして、卑下と屈従と要領の怪物に仕上げる場所である。(南博)


「日大アメフト部に見る日本の軍隊的構造」 斎藤美奈子

 しかし、はたしてそれだけだったのか。危険タックルを犯した選手に同情が集まったのは、この種の組織(企業でも官庁でも学校でも)が日本中にあり、命令に逆らえない彼のような立場の人がじつは大勢いたからではないか。
「潰せ」と命じられ、追い詰められて特攻に赴く選手。上の意をくんで特攻を命じるコーチ。パワハラの限りを尽くしながら、自らは手を汚さずに君臨する監督。これって旧日本軍と同じなのよね。(『DAYS JAPAN』 Vol.15 No.7 2018 7月 p.46)


「国民の生命を考えるなら国防の前に災害救助でしょ」 斎藤美奈子

 6月28日から7月8日ごろまで西日本一帯を襲った豪雨災害は、15府県にわたる広い地域に大きな爪跡を残した。8月6日現在、死者219人、行方不明者11人。避難者も3600人に及ぶ。
 こうした大災害のたびに思うんだけど、日本政府の危機管理意識っておかしくありません? 冷戦時代はソ連の、その後は北朝鮮の攻撃やテロの脅威を理由に、日本の防衛費は上がり続けてきた。しかし日本列島では、地震、台風、豪雨、豪雪、火山噴火…外からの攻撃よりも自然災害に遭遇する確率のほうがはるかに高い。しかるに2018年度の防衛費の予算総額は約5兆円、消防庁の総予算額は154億円。国民の生命を本気で守る気があるんですかね。
 その象徴的な例が避難所だ。日本の避難所といえば学校の体育館や公民館。冷暖房設備はなく、仕切りもない空間で雑魚寝。それが嫌で非難を渋る人、車中泊を選ぶ人も少なくない。2年前の熊本地震で災害関連死と認定された人は200人弱。地震で直接無くなった50人の実に4倍だ。
 しかし、世界中がこうだと思ったら大間違い。現在、多くの国が難民や自然災害の避難民に提供しているのは緊急用のテントである。日本と同じ地震国のイタリアは避難所先進国。16年のイタリア中部地震の際にも、仮設トイレがまず届き、空調を備えた6人用のテントと人数分のベッドが48時間以内に設置され、巨大なキッチンカーが温かい食事を提供した。
 こうした避難所の設置基準になっているのが、国際的な「スフィア基準」だ。90年代に人道的な見地から紛争地帯の難民救済のためにまとめられた基準が、後に災害非難民へも適用された。
 国際赤十字が発行する「スフィア・ハンドブック」は、給水、衛生、食糧、栄養、シェルター、居留地などの分野別に、最低基準を示している。それによると、トイレは20人に1つ。女性用トイレの個室数は男性用の3倍。シェルターは世帯ごとに覆いのある生活空間を確保し、1人あたりのフロア面積は最低3・5平方メートル(畳2畳分です)。下着などの衣料品は1人最低2セットずつ支給。体育館に人を詰め込む日本の現状とのなんという違い!
 日本ではアルピニストの野口健氏が熊本地震の際にテント村をつくるなどの活動をしているが、それは例外。日本ではなぜこうした対応が進まないのか。災害救助法に基づく災害救助基準は、避難所を「原則として、学校、公民館等既存の建物を利用すること」としている。ネックはこれ?
 加えてもうひとつ、由々しき基準を見つけてしまった。避難所設置の支出は「一人一日三百二十円以内とすること」。安すぎじゃ。しかも金勘定が先かいな。だったらやはり防衛費を減らしていただきましょうよ。ちなみにコールマン社の4~6人用テントは1張2万5000~3万円である。100億円のオスプレイ1機分で、30万~40万張も買えるのだ。どっちが税金の有効な使い道か、考えなくてもわかるじゃないの。(『DAYS JAPAN』 Vol.15 No.9 2018 9月 p.47)


「新たな戦争態勢への移行か」 成澤宗男

 この種の「島嶼防衛」は、冷戦終結で「敵」の旧ソ連が消滅したため、陸自が苦し紛れに既得権維持目的で考案した「脅威話」であることは、すでに多くの識者が指摘している。こんな調子で今後軍拡を続けていけば、「抑止」どころか中国との無用な緊張をさらに高めるだけだ。(『週刊金曜日』 №1174 18.3.2 p.45)


「米国人から見た属国・日本の無知」 リラン・バクレー

 防衛が心配なら、「思いやり予算」の全額を投じ、自衛隊から武器をなくして、海外に災害があったら真っ先に駆け付ける救援組織に変えたらどうでしょう。そんなありがたい国を、どこが攻撃しますか。(『週刊金曜日』 №1192 18.7.13 p.19)

by sabasaba13 | 2019-10-14 08:56 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(29):鯖江(16.3)

 それではサバエドッグをいただきに参りましょう。途中にあった「ヨコヤマ写真館」の建物は古いような、新しいような… でもドアの上の装飾が手づくり感にあふれた洒落たものでした。
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 下見板張が印象的な旧鯖江地方織物検査所は、1935(昭和10)年に竣工された人絹織物の検反所として建設された建物です。
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 こちらにも昔懐かしいコンクリート製のゴミ箱がありましたが、現役のようです。これなら烏のみなさんもそう簡単に食べ物をあされないでしょう。その近くには「JAPAN PRIDE 誇りを胸に」という自衛官募集のポスターが貼ってありました。
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 自衛隊を、宗教・イデオロギー・民族一切抜きにして、災害や事故によって危機に直面している人々を救うために、日本国内そして世界のどこへでもすぐに出動する国営国際救助隊「雷鳥」に全面改組すべきだという持論は変わっておりません。詳しくは拙ブログをご笑覧ください。以前に防衛庁(現防衛省)を訪れた時、「軍需産業を潤しキックバックをもらうために血税を湯水のように蕩尽し続けている利権の巣窟」と書きましたが、この不気味な組織の問題点を究明する本をフォローし続けています。最近読んだのが『経済的徴兵制』(布施祐仁 集英社新書0811)。安倍政権が強引な手法で安保関連法案を成立させ、集団的自衛権の行使に付随する「徴兵制」導入への不安が高まるなか、現憲法に反する強制的な兵役制度ではなく、グローバルに拡がる経済格差の余波を受けた貧しい若者たちを軍隊(自衛隊)に志願させる「志願制」、すなわち「経済的徴兵制」が水面下で進行しています。自衛隊における経済的徴兵の歴史と現状の詳説に加え、海外派遣に伴う本当のリスクを明らかにし、貧困にあえぐ若者がカネと引き換えに戦場に立たされる、この構造的な"悪制"の裏側に迫ったのが本書です。『自衛隊の闇組織 秘密情報部隊「別班」の正体』(石井暁 講談社現代新書2496)も面白かったですね。ロシア、中国、韓国、東欧などにダミーの民間会社をつくり、身分を偽装した自衛官を送り込んでスパイ活動をさせている、陸上自衛隊の非公然秘密情報部隊「別班」の実体に迫ります。首相や防衛相がその存在さえ知らされておらず、文民統制(シビリアンコントロール)がまったく効いていない「別班」。まるで関東軍が蘇ったようです。同書より、気になった文章をいくつか引用します。
 偶然の再会の15年ほど前、ある小規模な宴席で、この元将官と隣り合わせになった。当時、彼はまだ佐官級の幹部だった。二人の話題は東欧革命からソ連崩壊、さらには総選挙での日本共産党の議席増、躍進についてと展開していった。酔った勢いもあり、自衛隊幹部を困らせるような微妙な質問を私は発した。
 「日本共産党がどんな形にしろ、政権を取ったら自衛隊はどうしますか」
 すると、元将官はかっと眼を見開いて険しい表情を見せると、こう言い放ったのだ。
 「躊躇なくクーデターを起こします」
 酔った席での冗談とは到底受け取れなかった。二人だけの会話だったため、宴席の雰囲気には変化はなかったが、その後もこの会話を忘れることはなかった。(p.71)

 別班の海外活動について、次のように強く批判する自衛隊幹部さえいた。
 「総理大臣、防衛大臣も知らないなんて、シビリアンコントロール上、大問題だ。対外ヒューミントはどこの国でもやっており、絶対必要だ。しかし、アメリカのDIA(国防情報局)はもちろん、シビリアンコントロールが徹底している。中国の総参謀部(現・連合参謀部)情報部やロシアのGRU(参謀本部情報総局)でさえ、大枠で政治のコントロールが利いている。だからこそ、民主主義国家・日本にシビリアンコントロール下にない非公の秘密情報組織が存在することは許されない。独断で海外展開しているなんて。別班を関東軍にしてはいけない」(p.75)

 何しろ別班は、米軍が自衛隊の情報工作員を養成する目的で始まった、軍事情報特別訓練(MIST)を母体に創設された秘密組織だ。1975年、日本共産党は別班長の内島が週5日、米軍キャンプ座間に通勤していることを確認している。その誕生から、米軍が別班を育成してきたとも言えるのだ。未だにその関係が継続していても不思議ではない。(p.112~3)

by sabasaba13 | 2019-10-13 10:00 | 中部 | Comments(0)