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福井・富山編(46):中野重治記念文庫(16.3)

 佐喜眞氏が読んだ魯迅の文章とは、おそらく『魯迅選集 第十二巻』(岩波書店)におさめられている且介亭雑文末編(1936)「深夜に記す」でしょう。長文ですが引用します。
一 コルヴィッツ教授の版画、中国に入ること

 野外に、紙銭を焼いた灰が積っており、朽ちた土塀に、いくつかの画が書きつけてあっても、通りすがりの人は、大抵注意して見ようとはしない。しかしこれらの中には、それぞれ何らかの意義がこめられているのである。愛か、悲哀か、憤怒か、…しかも往々にしてそれらは叫び出されたものよりも一層強烈である。そしてまたその意義のわかる人もいくらかはいるのである。
 一九三一年-何月であったか忘れた-創刊後まもなく禁止された雑誌『北斗』の第一号に、一人の母親が、悲しげに眼を閉じ、彼女の子供を差し出している一葉の木版画が載った。これはコルヴィッツ教授(Prof. Kaethe Kollwitz)の木版連続画「戦争」の第一葉で、「犠牲」と題されたものであり、また彼女の版画が中国に紹介された最初のものでもあった。
 この木版画は私の寄せたもので、柔石が殺されたことの記念としようとしたものである。彼は私の学生、友人であり、共に外国の文芸を紹介した人である。とりわけ木版画を好み、かつて欧米作家の作品を三冊、印刷はあまり好くはなかったが、編集して刊行したことがあった。しかし、なぜか知らぬが、突然逮捕され、まもなく竜華で他の五人の若い作家たちと一緒に銃殺された。当時の新聞には何の記事も載らなかった。多分、載せることを憚り、また実際できもしなかったのであろう。しかし多くの人は、誰しも彼がこの世にいないであろうことを知っていた。というのは、これはよくあることであったから。ただ、彼のあの両眼盲いた母親だけは、私は知っているが、彼女はきっと、彼女の愛する息子が今日もなお上海で翻訳や校正をしていることと思っているであろう。たまたまドイツの書店の目録でこの「犠牲」を見出したので、これを『北斗』へ投じて、私の無言の記念としたわけであった。しかし、後に知ったのであるが、多くの人々がそれに含まれた意義を感じ取っていたのであった。もっとも、彼らは大抵、殺されたすべての人を記念したものと思っていたのではあったが。
 ちょうどこの時、コルヴィッツ教授の版画集はヨーロッパから中国への途上にあった。だが、上海に着いたときには、その熱心な紹介者はすでに地中に睡っており、我々はその場所すらも知らないのである。よろしい、それなら私がひとりで見よう。そこにあるのは貧困と、疾病と、飢餓と、死とである…むろん抵抗と闘争もあるが、割合に少い。これは正に、顔に憎しみと憤りとを泛べながらも、慈愛と憐憫との方がさらに多くうかがわれる作者の自画像と同じものである。これは、すべての「辱しめられ虐げられた」母親の心の画像である。こういう母親は、中国のまだ爪を赤く染めぬ田舎にも、よくいる。しかし人々は、母親というのは役に立たない息子ばかり可愛がるものだといって、彼女のことを嗤うのである。だが、思うに彼女は役に立つ息子をも可愛がるのである。ただ、すでに健康でしかも能力もあるから、彼女は安心して、「辱しめられ虐げられた」子供の方へ心を向けるのである。
 いまや、彼女の作品の複製二十一葉が、それを証明している。その上それは、中国の青年芸術学徒に、次のような利益をもあたえてくれる-
 一、この五年来、木版画は、つねに迫害を蒙りながらではあったが、すでに大いに広まって来た。だが、その他の版画は、ややまとまったものとしては、ツォルン(Anders Zorn)に関する本が一冊あるばかりである。今日紹介されたのは、すべて銅版と石版であって、読者に、版画の中にはこういう作品もあり、油絵などよりはるかに普及しやすいものであることを知らせてくれ、しかも、ツォルンとはおよそ異なった技法や内容を見せてくれた。
 二、外国へ行ったことのない人は、白色人種といえば、すべて人を見ればイエスのお説教をするか、商社を開き、美衣美食をして、少し気に食わぬことがあればやたらと皮靴で人を蹴飛ばすものと思いがちである。だが、この画集をもったことで、世界にはその実どこにも我々と同じ仲間である「辱しめられ虐げられた」人があり、しかもその上に、これらの人々のために悲しみ、叫びそして闘っている芸術家がいるということがわかる。
 三、今日、中国の新聞の多くは大口を開いて叫んでいるヒトラーの写真を好んで掲載している。撮された時は一時的な姿勢であったろうが、写真では永久にこの姿勢であるから、沢山見ているうちには疲らされてしまう。そしていま、ドイツ芸術家の画集によって、種類の違う人を見たわけである。それは、決して英雄ではないが、親しみやすく、心が通じやすく、しかも見れば見るほど、美しさを覚え、ますます人を打つ力をもっているのを覚えさせるものである。
 四、今年は柔石が殺されてから満五年であり、また作者の木版画が中国に姿を現わしてから五年目でもある。しかも作者は、中国式に計算してみれば、七十歳で、これも記念としてよいだろう。作者も今日、沈黙を余儀なくされているにもかかわらず、彼女の作品は、更に沢山、極東の天下に姿を現わしている。そうだ。人類のための芸術は、別の力をもっては阻止できないのだ。(p.7~9)
 魯迅も、ケーテと共に、辱しめられ虐げられた人々のために悲しみ、叫びそして闘おうとしたのでしょう。そして中野にもその一翼に連なってほしいとの願いを込めて、この版画集を贈ったのだと思います。
by sabasaba13 | 2019-10-31 06:20 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(45):中野重治記念文庫(16.3)

 そして厖大な蔵書をおさめた本棚を拝見。その読書量と関心の広範さには圧倒されました。おっ、『魯迅選集』が全巻揃っているぞ、彼は魯迅のファンだったのですね。
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 うっ 思わず息を呑みました。ある画集に、下記のような解説がありました。
魯迅編『ケーテ・コルヴィッツ版画選集』
限定103部の製本の第36番目。
重治の転向を残念がった魯迅が晩年、激励のために贈ったもの。
 魯迅と中野重治は知己だったのか… しかも失意の彼を慰めるためにわが愛するケーテ・コルヴィッツの版画集を贈っていたとは驚きました。それではケーテ・コルヴィッツとはどういう人物か、『ケーテ・コルヴィッツとの出会い』(佐喜眞美術館館長・佐喜眞道夫 「いい旅 いい仲間」№62 2017.1.1 富士国際旅行社)から引用します。
 ケーテ・コルヴィッツKathe Kollwitz(1867‐1945年)は東プロイセンに生まれ、二つの世界大戦の惨禍を経験したドイツを代表する版画家・彫刻家です。彼女は第一次世界大戦で息子を、第二次世界大戦で孫を失いました。私がコルヴィッツを知ったのは、学生時代に読んだ魯迅の文章でした。それから十数年後、「死んだ子を抱く母」(1903年)に銀座の画廊で出会いました。その絵の激しさに、最初は動物が子どもを喰っているのか、と思ったほどでした。あまりの悲しみで母親の顎は抱きしめている息子の胸に喰い込んでいるのです。これほど深い愛情表現を私は見たことがありませんでした。その後、なんとか工面してこの版画を手に入れ、画廊から自宅に持ち帰るときの心の高ぶりを今でも忘れることができません。この瞬間から私のコルヴィッツ・コレクションは始まり現在60点所蔵しています。
 彫刻作品「ピエタ」(1937/38年)は、ヒットラー政権下、次の世界大戦へと突き進む絶望的予感の中で制作されました。母親が戦死した息子をひざの間でひしと抱きしめ悲しみに沈んでいます。この像は、戦死した次男ペーターへの母としての二十年間に及ぶ長い悲しみと思索の果ての作品です。切なく悲しいその造形は、いま世界中で息子の戦死を哀しみ苦しんでいる母親の心とつながっています。コルヴィッツの作品は、いのちへの深い信頼に基づいているが故に、歴史の闇をも突き抜ける強さがあります。その強さは、現代のさまざまな問題をも照射し、暗黒の時代を生きた魯迅を励ましたように、いま私たちを励まし続けています。
 現在「ピエタ」像は、2mの大きさに拡大されてドイツの戦争犠牲者のための国立記念館ノイエヴァッフェに静かに展示されています。ドイツはこの芸術作品で戦没者を追悼しているのです。
 孫への手紙に「平和主義をたんなる反戦と考えてはなりません。それは一つの新しい理想、人類を同胞としてみる思想なのです。」と書いたコルヴィッツの思想をいまこそ、私たちはしっかりとかみしめなければならないと思います。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-10-30 06:19 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(44):中野重治記念文庫(16.3)

 そしてすぐ近くにある坂井市立丸岡図書館に参りました。お目当ては、中野重治記念文庫です。まずはブリタニカ国際大百科事典から、彼についての紹介を転記します。
中野重治 (1902-1979)
 小説家、評論家、詩人。第四高等学校を経て 1927年東京大学独文科卒業。在学中から室生犀星の影響を受けて短歌や詩への関心を深め、また、林房雄らとの交友によりマルクス主義に近づいた。26年堀辰雄、窪川鶴次郎らと詩誌『驢馬』を創刊、『夜明け前のさよなら』(1926)、『歌』(26)などを発表。28年ナップに参加、検挙投獄、転向、執筆禁止などを経て、第2次世界大戦後は民主主義文学者の結集に努力、新日本文学会の発起人となった。47~50年日本共産党の参議院議員。64年党の方針と対立して除名された。『中野重治詩集』(35)、小説『歌のわかれ』(39)、『むらぎも』(54)、『甲乙丙丁』(65~69)、評論『斎藤茂吉ノオト』(40~41) がある。
 実はお恥ずかしい話、彼の作品は「雨の降る品川駅」という詩しか読んだことがありません。読もう読もうと思いながら、ここまで齢を重ねてしまいました。これを機に、ぜひ読んでみようと思います。

 丸岡図書館は大きな瓦屋根と白壁が印象的な平屋建て。中に入ると、図書館特有の凛としながらもどこか優しい雰囲気が漂います。図書館へのオマージュは『ニューヨーク公共図書館』の映画評で記したので、よろしければご笑覧ください。司書の方に、記念文庫を見学したい旨を申し出ると、鍵を開けて中に入れてくれました。この記念文庫には、福井県坂井郡高椋村(現在の坂井市丸岡町)一本田に生まれた中野重治の蔵書約1万3千冊が収蔵され、高田博厚作の中野重治胸像や原稿、愛用品などの遺品が展示されています。
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 万年筆、蕎麦猪口、矢立、室生犀星から贈られた木彫、『梨の花』原稿(複製)などを興味深く拝見。晩年、彼が外出の際必ず携行した定期入には、「私(中野重治)は耳、心臓に欠陥あり 万一のときは榊原記念病院へ運ばれたし 渋谷区代々木2‐5‐4 電 3751-3111 (代)」と記した紙片が入っていました。
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 また三冊の『中野重治詩集』がガラスケースの中に展示してありました。
ナップ出版部版 (1931年10月刊行) 警察に押収され発行を禁止された。これは伊藤信吉の手でただ一冊残されたもの。
ナウカ社版 (1935年12月刊行) 伏字あり。カット頁あり。
小山書店版 (1947年7月刊行) 伏字のない最初の詩集。
 当時、社会主義者の置かれていた状況を彷彿とさせます。なお「ナップ」とは、全日本無産者芸術連盟のエスペラント語Nippona Proleta Artista Federacio(NAPF)の頭文字を組み合わせた略称です。1928年、三・一五事件を契機に、それまで分裂していたプロレタリア芸術連盟(中野重治ら)と前衛芸術家連盟(蔵原惟人ら)とが合同して結成されました。5月に創刊された機関誌《戦旗》には、小林多喜二、徳永直、三好十郎らの新人が登場しました。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-10-29 06:19 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(43):丸岡(16.3)

 気をつけて急な梯子を下り、それでは坂井市立丸岡図書館を訪れることにしましょう。途中に「日本一短い手紙」を列記した掲示があり、その近くには「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ 一筆啓上茶屋」という看板がありました。
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 どこかで聞いたことがあるなあ、この手紙。いま調べてみると、この手紙は、徳川家康の忠臣・本多作左衛門重次が、長篠の合戦(1575)の折、陣中から妻に宛てて送ったものだそうです。短い文章の中に大事なことが簡潔明瞭に言い尽くされているので日本一短い手紙というわけです。なお「お仙」とは重次の息子である仙千代、後の初代丸岡藩主になる本多成重のことです。
 そして日本で一番古い丸岡城に日本一短い手紙文があることを全国に知ってもらうとともに、活字やメールでは伝わらない本物の手紙文化の復権を目指すという目的で、1993年に始まったのが全国初の手紙のコンクール、一筆啓上賞というわけです。後学のために、2018年度の大賞のうち、私が気に入った作品を紹介します。お題は「先生」です。
「校長先生」へ
僕の事、知ってますか? 僕は全体の中の一人です。いつか見つけてみて下さい。
 うわお、永田くん、鋭い。All in all you're just another brick in the wall. 子どもたちを、壁を作るための煉瓦にしようとする教育を痛烈に皮肉るピンク・フロイドの「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール」を思い出しました。そして校長が全生徒のことを知らない/知り得ない、つまり十分な数の教員を配置して小規模な学校をつくろうとしない、教育予算を出し惜しむこの国のお寒い現状を見事に言い当てています。A-35は爆買いするのにね。
 生徒を管理・統制するために置かれた国家権力の端末、それが日本の教育における校長の役割なのでしょうね。でも違うやり方を採っている国もあるということは銘肝しましょう。以前に読んだある本にイタリアの小学校の校長先生へのインタビューがあり、「どうやって校長を決めるのか?」という質問に対して「教員が互選で決める」と答えていました。また「最も重要な教育の使命は?」という質問に対して、彼は「地域との連帯」と答えていました。嗚呼なんという高潔な志であることよ。日本の校長先生に同じ質問をしたら、きっと「偏差値の高い上級学校に一人でも多くの生徒を送り込むこと」とか「新聞ざたになるような/教育委員会に睨まれるような事件を起こさせないこと」と答えそうな気がします。
 気が滅入ることばかり書いて申し訳ない、永田くん。せめて励ましの意を込めて、西村伊作の言葉を贈ります。
 われわれの思想を、自由に実現することのできる文化学院が生まれるのを真によろこんで、まじめな芸術の精神をもってやろうとしている。
 芸術に生きる。強いない。画一的に人をつくらない。各々の天分を伸ばす。不得手なものを無理にさせない。機械的な試験をしない。競争的に成績を挙げさせない。
 身体と精神を損ずることのないようにする。
 生徒のみの教育ではなく、一般教育界の模範となり、参考となるように努める。
 小さくて善い学校。素人がよい。
 魯迅だったら、藤野先生にどんな短い手紙を出すでしょうか。
by sabasaba13 | 2019-10-27 08:10 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(42):丸岡城(16.3)

 まずは外観をしげしげと眺めて写真を撮りました。石の瓦と大きな鯱が印象的な、武骨で剛毅なお城です。さっそく入城料を支払って、中に入りましょう。入口までは急な石段で、この時点で城のやる気が伝わってきました。外観は二階建てに見えますが、内部は三階建です。内部は、飾り気のない板張りの広間となっており、「石落とし」や「狭間(さま)」が随所に見られました。驚いたのは、階段がほぼ直角に近い急勾配なことです。階段とよりは梯子ですね。設置されていたロープにつかまってやっと上ることができました。これでは攻め入った敵兵もさぞや苦労することでしょう。「かかってこい」というオーラをびしびし発していました。
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 最上階からは曇天のもと丸岡の街並みが一望できました。石瓦もよく見えましたが、これは福井県産の緑色凝灰岩である笏谷石(しゃくだにいし)を石工が加工したもので、天守にかかる重さは100トン以上になるそうです。
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 なお、この後で訪れた中野重治文庫でいただいたパンフレットに、丸岡出身の中野重治がこの城のことを綴った随筆「私の故郷・実用品の美」が掲載されていたので紹介します。
 この丸岡には柴田勝豊か誰かの築いた城がある。この城は朴訥でいい恰好をしていた。つまり工藝品、美術品としてでなくて、戦のために造られた城だということが素人眼にもわかる類のものだつた。私としていえば、子供のとき毎日のようにこの城を見ていたことが、美ということについてのある種の基礎を私にやしなってくれたかもしれぬと思う。
 この城そのものがつまり実用品なのだつたが、私の育つたのは農村でだつたから、そこにはまず実用品だけがあつた。実用品しかなかつたといつてもいい。それが私に実用品の美ということを教えた。またそんなものを作ることの楽しさ、美しさを教えた。臼とか杵とかいつたもの、鎌の刃の湾曲度といつたもの、釣瓶、自在、梯子、藁屋根の破風といつたものにたいする、その美とそれを作ることのすばらしさとにたいする讃嘆の念のようなものを子供に養つたと思う。昭和47年(1967)3月号『エキスプレス』より抜すい

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-10-26 07:59 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(41):丸岡(16.3)

 それでは丸岡へと向かいましょう。幸い直通のバスがあり、一時間弱で丸岡に到着しました。なお次の目的地、永平寺までのバスにここから乗れるので発車時刻を確認。一日四本ですが、11時58分発のバスがありました。よろしい、それまでにこのバス停に戻りましょう。地図がないので、お城はどこにあるか地元の方に訊こうとうろうろしていたら、堀の向こうに天守が遠望できました。よろしい、あちらに向かって歩きましょう。途中にあったのが、丸岡城を模したのでしょうか、石屋根に鯱が乗った二階建てのド派手な電話ボックス。おまけに時計までついております。このお金を福祉や教育に使えばいいのになあ、利権の匂いがするなあ、と思いつつ歩を進めました。
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 そして現存十二天守の一つ、丸岡城に着きました。やった、これで現存十二天守はすべて制覇しました。まずは福井県坂井市Web旅ナビから、丸岡城の歴史について紹介しましょう。
 丸岡城築城前、この辺りの拠点は丸岡城より東方約4kmのところにあった「豊原寺」でした。豊原寺は、三千坊ともいわれる宿坊が立ち並ぶ大きな門前を有していました。
 1573年、織田信長は、当時越前を治めていた戦国武将「朝倉義景」を討ち、都があった一乗谷を焼き払いました。すると、豊原寺をはじめとしたこの辺りの一向宗の勢力が増したため、1575年、再度織田信長が「越前平定」のため越前に攻め入り、豊原寺などの一向宗の拠点を焼き尽くしました。
 その後、柴田勝家の甥「柴田勝豊」がその豊原の地に居を構えましたが、翌1576年「まるこの岡」と呼ばれていた現在の丸岡城の場所に城を移しました。
 江戸・明治・大正と丸岡の町のシンボルだった丸岡城は、昭和9年には国宝の指定を受けました。しかし、昭和23年の福井大震災により天守閣が倒壊してしまい、現在の丸岡城は、当時の建材等を使って昭和30年に再建されたものです。
 全国各地には、城やそれに関係する場所がいくつもありますが、現存する天守閣は全国で12しかなく、北陸では、丸岡城のみ。この丸岡城は、現存する最古の建築様式を有しているとされ、戦後に定められた「文化財保護法」で、天守閣は国重要文化財の指定を受けています。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-10-25 06:26 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(40):藤野厳九郎記念館(16.3)

 そして一番感銘を受けたのは、魯迅に贈られた藤野厳九郎のポートレートです。裏には「惜別 藤野 謹呈周君」と記されています。そしてこのポートレートが飾られている魯迅の書斎の写真。
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 ふたたび『藤野先生』から引用します。
 出発の二、三日前、彼は私を家に呼んで、写真を一枚くれた。裏には「惜別」と二字書かれていた。(p.249)

 だが、なぜか知らぬが、私は今でもよく彼のことを思い出す。私が自分の師と仰ぐ人のなかで、彼はもっとも私を感激させ、私を励ましてくれたひとりである。よく私はこう考える。彼の私にたいする熱心な希望と、倦まぬ教訓とは、小にしては中国のためであり、中国に新しい医学の生れることを希望することである。大にしては学術のためであり、新しい医学の中国へ伝わることを希望することである。彼の性格は、私の眼中において、また心裡において、偉大である。彼の姓名を知る人は少いかもしれぬが。
 彼が手を入れてくれたノートを、私は三冊の厚い本に綴じ、永久の記念にするつもりで、大切にしまっておいた。不幸にして七年前、引越しのときに、途中で本箱を一つこわし、そのなかの書籍を半数失った。あいにくこのノートも、失われたなかにあった。運送屋を督促して探させたが、返事もよこさなかった。ただ彼の写真だけは、今なお北京のわが寓居の東の壁に、机に面してかけてある。夜ごと、仕事に倦んでなまけたくなるとき、仰いで灯火のなかに、彼の黒い、痩せた、今にも抑揚のひどい口調で語り出しそうな顔を眺めやると、たちまち私は良心を発し、かつ勇気を加えられる。そこでタバコに一本火をつけ、再び「正人君子」の連中に深く憎まれる文字を書きつづけるのである。(p.250~1)
 中国脅威論だの反中だの、きな臭い話をよく耳にしますが、「オールジャパン」対「オールチャイナ」のような単純な二項対立に陥ることは現に慎みたいと思います。藤野先生と魯迅、この二人のように、たとえ異邦人であろうとも互いを人間として敬う、それが難しいのであれば人間として接する心を持ちたいものです。太宰治に、この二人を題材とした『惜別』という小説がありますが、その中で藤野先生はこう言っていました。
 「…何もむずかしく考える事はない」 先生は笑いながら立ち上り、「一口で言えるやないか? 支那の人を、ばかにせぬ事。それだけや」
 というわけで、たいへん充実した時を過ごせました。なお中国の方々が訪れていて、熱心に説明を聞いておられたのが印象的でした。私もいつの日にか、上海にある魯迅の史跡や、北京魯迅博物館を訪れてみたいものです。

 本日の三枚です。
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 追記です。前述の『魯迅選集 第二巻』(岩波書店)に所収されている、竹内好による解説を紹介します。
 1935年、佐藤春夫、増田渉共訳の『魯迅選集』が岩波文庫から出るとき、作品に何を選んだらよいか魯迅に問い合わせたところ、選集は勝手にしてよろしいが「藤野先生」だけは入れてほしい、という注文があった。藤野厳九郎氏の行方を魯迅は気にしていたのである。しかし魯迅の生前、その所在は確められなかった。歿後、魯迅の名がジャーナリズムに評判になってはじめて、藤野先生が当時まだ、福井県坂井郡雄島村に健在であることがわかった。(p.286)
 満州事変、「満州国」設立、華北侵略といった日本による中国侵略が押し進められているなかで、魯迅による日本の民衆への友好のメッセージも込められていたのではないでしょうか。そんな気がしてなりません。
by sabasaba13 | 2019-10-24 06:19 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(39):藤野厳九郎記念館(16.3)

 日露戦争幻灯タネ板(複製)は、1965年に東北大学医学部細菌学教室で発見されたものです。魯迅を大きく変えたあの幻灯は、この中の一枚だったのでしょうか。『藤野先生』にはこうあります。
 第二学年では、細菌学の授業が加わり、細菌の形態は、すべて幻燈で見せることになっていた。一段落すんで、まだ放課の時間にならぬときは、時事の画片を映してみせた。むろん、日本がロシアと戦って勝っている場面ばかりであった。ところが、ひょっこり、中国人がそのなかにまじって現れた。ロシア軍のスパイを働いたかどで、日本軍に捕えられて銃殺される場面であった。取囲んで見物している群集も中国人であり、教室のなかには、まだひとり、私もいた。
 「万歳!」 彼らは、みな手を拍って歓声をあげた。
 この歓声は、いつも一枚映すたびにあがったものだったが、私にとっては、このときの歓声は、特別に耳を刺した。その後、中国へ帰ってからも、犯人の銃殺をのんきに見物している人々を見たが、彼らはきまって、酒に酔ったように喝采する-ああ、もはや言うべき言葉はない。だが、このとき、この場所において、私の考えは変わったのだ。
 第二学年の終りに、私は藤野先生を訪ねて、医学の勉強をやめたいこと、そしてこの仙台を去るつもりであることを告げた。彼の顔には、悲哀の色がうかんだように見えた。何か言いたそうだったが、ついに何も言い出さなかった。(p.249)
 なお『魯迅選集 第一巻』(岩波書店)所収の「吶喊」自序で、この変化について魯迅はもう少し詳しく語っています。
 あのことがあって以来、私は、医学など少しも大切なことではない、と考えるようになった。愚弱な国民は、たとい体格がどんなに健全で、どんなに長生きしようとも、せいぜい無意味な見せしめの材料と、その見物人になるだけではないのか。病気したり死んだりする人間がたとい多かろうと、そんなことは不幸とまではいえぬのだ。されば、われわれの最初になすべきこと任務は、彼らの精神を改造するにある。そして、精神の改造に役立つものといえば、当時の私の考えでは、むろん文芸が第一だった。(p.9)

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2019-10-23 06:18 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(38):藤野厳九郎記念館(16.3)

 魯迅の親友であった内山完造が、藤野厳九郎に送った手紙も展示してありました。解説文を転記します。
 内山書店店主 内山完造(1885‐1959) 魯迅の崇拝者であると共に親しい友人であった。岡山県に生れた内山完造は、大阪と京都で徒弟奉公をした後、目薬の販売員として大正4年(1915)上海市北四川路に一家を構え、これが発展して内山書店となった。魯迅は1927年広州を去って上海に移ったが、まもなく内山書店を訪れるようになり、書店の客としてのみではなく、死去に至るまで内山完造と親しい交友を続けた。そのため、魯迅死去に際して、内山完造は日本人としてただ一人、葬儀委員に選ばれた。
 この手紙は、魯迅死去8年後に中国紙に載った、魯迅の日本留学時代についての記事の切り抜きを藤野厳九郎に送ったものである。記事の内容中、藤野厳九郎に関する部分は、小田嶽夫の『魯迅伝』(昭和16年(1941)筑摩書房)の記載によっている。
 戦後日本に引き揚げた内山完造は、日中友好に尽くしたが、昭和34年(1959)友人たちのすすめで病気療養のために中国へ渡り、北京で客死した。
 内山完造、記憶にとどめたい人物です。以前に『伝説の日中文化サロン 上海・内山書店』(太田尚樹 平凡社新書436)の書評でも書きましたが、内山書店が営まれていた1917年から1945年といえば、二十一か条要求、五・四運動、第一次国共合作とその破綻、北伐、満州事変と第一次上海事変、そして日中戦争と第二次上海事変など、激動の時代です。その中で内山完造は魯迅や郭沫若たちとの友情を育み、そして身を挺して国民党の弾圧から彼らを護りました。「友人を敵に売り渡さない人間は、日本人の中にだっていますよ」とは彼の言です。特に中国の独立を求めて闘い続けた魯迅にとって、情報の発信と入手、さまざまな援助、隠れ家の提供など内山完造の存在がいかに大きなものであったか。著者の太田氏は「親友であると同時に確固たる兵站部」と表現されています。
 その彼が、藤野厳九郎にこうした手紙を送っていたことをはじめて知りました。二人は知友だったのか、あるいは故魯迅の意を汲んだのかはわかりませんが、これも中日のひとつの架け橋ですね。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-10-22 07:38 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(37):藤野厳九郎記念館(16.3)

 まずは木造の主屋へ、藤野先生の人柄を偲ばせるような飾り気のない質素な部屋でした。彼が来ていた和服や、令息が遊んだ玩具などが展示してありました。
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 そして新館の展示室へ。藤野先生が使用した医療器具や魯迅の成績表などを拝見。
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 胸が熱くなったのは、仙台医学専門学校の授業で筆記したノートが展示されていたことです。藤野先生による懇切丁寧な添削の様子が、手に取るようにわかります。『魯迅選集 第二巻』(岩波書店)所収の「朝花夕拾」(1927年)中の掌編『藤野先生』にはこうあります。
 「私の講義は、筆記できますか」と彼は尋ねた。
 「少しできます」
 「持ってきて見せなさい」
 私は、筆記したノートを差出した。彼は、受け取って、一、二日してから返してくれた。そして、今後毎週持ってきて見せるように、と言った。持ち帰って開いてみたとき、私はびっくりした。そして同時に、ある種の不安と感激とに襲われた。私のノートは、はじめから終りまで、全部朱筆で添削してあった。多くの抜けた箇所が書き加えてあるばかりでなく、文法の誤りまで、一々訂正してあるのだ。かくて、それは彼の担任の学課、骨学、血管学、神経学が終るまで、ずっとつづけられた。(p.246)
 この後、魯迅が試験をクリアしたのは、藤野先生がテストの内容を事前に彼に教えているという噂が流れ、日本人同級生からのいやがらせがなされます。結局、友人の尽力で噂は立ち消えとなりました。中国に帰った後、魯迅はこのノートを三冊の厚い本に綴じ、永久の記念として大切にしまっておいたのですが、引越しの時に運送屋がなくしてしまったと本作の最後に記しています。しかし展示品の解説を読むと、1951年に、彼の故郷・紹興で発見されたとあります。嬉しいですね、彼岸の周樹人もさぞや喜んでいるでしょう。なおこのノートは複製ですが、原本は中国北京魯迅博物館に収蔵されており、中国の一級文物(国宝)とされているそうです。日中の架け橋となったこのノートを国宝に指定するところに、中国政府の高い見識を感じます。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-10-21 07:24 | 中部 | Comments(0)