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福井・富山編(57):高岡(16.3)

 それでは金屋町へと歩を進めましょう。途中で「神棚の島原」「神棚と参宝 定塚」「佛壇うるし 大場」といった看板を見かけました。神棚や仏壇も高岡の特産品なのですね。
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 街角にあった小祠は、立派な銅板葺きの屋根でした。ファサードを、小紋の意匠による銅板で飾ったお宅を撮影してすこし歩くと、「恵比寿塔」がありました。
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 1922(大正11)年に設置された、中島川疎水荷揚場のための街灯だそうです。大漁をもたらす神・恵比寿にあやかっての命名ですね。
 銅製の二宮金次郎像があったので近寄ってみると、下記の解説板がありました。
高岡銅器研究会創立三十周年記念
 二宮金次郎(尊徳)は、江戸末期の農村改革の優れた実践家であり思想家。また、小田原藩をはじめ、各藩の財政立て直しを指導した。
 昭和の初め、報徳思想に基づく自力更生運動が全国的に推進されるようになり、この勤倹力行の少年像が全国の小学校の校庭に建立されるようになる。時代にもよるが、その九割までが高岡で制作されたものだったのである。二宮金次郎は、小田原の人だった。しかし、「金次郎像」のふるあとは、わが高岡なのである。
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 おっまた猫がいた。猫も高岡の特産なのかな。その先には「高岡鋳物発祥地位」という石碑がありました。
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by sabasaba13 | 2019-11-15 06:18 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(56):高岡(16.3)

 それでは土蔵造りの町並み、山町筋へ参りましょう。途中に鋳物でつくられた「坂下町通り」という道標がありました。そして鋳物とならぶ高岡名物「大人のラブおもちゃ」の貼り紙が…そんなことはありませんね、ごめんなさい。
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 山町筋に着くと、解説と地図があったので転記します。
 山町筋は、慶長14年(1609)に加賀藩第二代藩主の前田利長が、高岡に隠居城と城下町を建造したときに北陸道に面する商人の町として開かれました。
 その後、明治に入り、明治33年(1900)に高岡の大火がおき、市街地の約6割が焼失しましたが、その前年(1899)に施行された「富山県建築制限規則」により、山町筋などの繁華街については防火構造の建造物とすることが義務付けられていたため、当時の防火建築物である土蔵造りの建造物が建築されました。
 山町筋の土蔵造りは、二階建、切妻造り、平入、瓦葺の町屋で、黒瓦葺きの屋根と大きな箱棟、黒漆喰塗りの外観、二階窓に付けられた土扉など、重厚な外観をもつ反面、柱頭をアカンサスの葉などで装飾した鋳物の鉄柱、隣地境のレンガの防火壁など、華麗な装飾の中に洋風の意匠を取り入れていることが外観の特徴となっています。内部は、外観の重厚さとは対照的に繊細な数寄屋風の仕上げとし、主屋と土蔵の間にある中庭は建物と見事に調和し、市街地にあって緑の多い静謐な空間をつくりだしています。
 補足しますと、ここを中心に住まいする10町で高岡御車山祭を奉じていることから山町と呼ばれるそうです。
 ぶらぶら歩いていくと、土蔵造りのまち資料館(旧室崎家住宅)、菅野家住宅、筏井家住宅、赤レンガの富山銀行といった超弩級の重厚な建物が目白押し。神々が宿り給う細部にも目を凝らしながら歩いていると、時が経つのも忘れてしまいます。
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 井波屋仏壇店は、入口上部に並んだ半円アーチが印象的な物件ですが、これから訪れる木彫で有名な井波出身の方が始めたお店なのでしょうか。
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 途中に"童謡「夕日」のふるさと高岡"というプレートがありましたが、♪ぎんぎんぎらぎら夕日がしずむ♪を作曲したのが高岡市舟木町出身の室崎琴月だそうです。ちなみに作詞は広島県福山市出身の葛原しげる。
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 忘れられない建物がまだたくさんあります。本日の八枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-14 06:18 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(55):高岡(16.3)

 朝目覚めてカーテンを開けると、空一面が雲で覆われています。テレビの気象情報を見ると、今日は曇りですが雨の心配はなさそうです。よろしい、それでは予定通りの旅程でいきましょう。まず高岡を散策して駅前に戻り、世界遺産バスに乗って五箇山・相倉集落へ、ふたたびバスで五箇山・菅沼集落へ。バスで城端(じょうはな)へ行き、城端の町を散策。JR城端線に乗って福光へ、棟方志功の「愛染苑」と「鯉雨画斎」を見学。城端線で砺波(となみ)に行きタクシーで井波へ。井波を見学してバスで福光駅へ、城端線で高岡に戻る予定です。
 まずは『日本の町100選 小さな町小さな旅 東海・北陸』(山と渓谷社)から、高岡についての紹介文を引用します。
 高岡の山町筋は国の重要伝統的建造物群保存地区。山町筋とは旧北国街道沿いの、江戸時代に商人の町として栄えたエリアである。山町筋のなかでも特に木舟町が顕著だが、町並みがとても重厚で、近寄り難い雰囲気。壁を黒漆喰で乗り込めた土蔵造りの町屋、屋根に大きな箱棟がある黒瓦葺きの切妻屋根、また、レンガ製の防火壁を設けた建物もある。これらは明治の大火の教訓で耐火構造を備えているのである。金屋町へも足をのばそう。ここはかつて鋳物師(いもじ)が集まっていた町だ。大半は郊外に移転したが銅片を敷き込んだ石畳の両脇に千本格子の家が続き、その歴を語り継いでいる。(p.165)
 それでは朝の高岡散歩と洒落込みますか。エレベーターの中に「大木白山社 年越大祓い護符」が貼ってありましたが、ワイヤーが切れて落ちたことでもあるのでしょうか。ちょっと心配だなあ。外へ出ると、塀の上の見返り猫と遭遇。はい、おはようございます。
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 まずは高岡大仏を拝見しましょう。伝統の鋳物製造技術によって造られた総高15.85m、重量65tの大仏は圧倒的な存在感です。近くに、1806(文化3)年に鋳造された大きな時鐘がありました。もともとは1804(文化元)年に高岡町奉行・寺島蔵人が鋳造させた鐘があったのですが、すぐに割れ目ができてしまったそうです。坂下町の鍋屋仁左衛門は、高岡鋳物の声価を傷つけたことを悲しみ、自ら多額の寄付をし、浄財を集め、工人を督励してこの大鐘を作らせたとのこと。郷土の産業への深い愛情と誇りを感じさせてくれる話です。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-13 06:21 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(54):高岡(16.3)

 1時間20分ほどで金沢に到着、IRいしかわ鉄道(あいの風とやま鉄道)に乗り換えました。途中で、車窓から「木曽義仲ゆかりの地」という看板が見えましたが、倶利伽羅峠が近くにあるのですね。また石動(いするぎ)という駅がありましたが、山岳信仰の拠点、石動山がこのあたりにあるのでしょう。いずれも未踏の地ですが、時をあらためて再訪したいと思います。
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 四十分ほどで高岡駅に到着、高岡は以前に訪れたことがあるので、今回は再訪となります。いきなり出迎えてくれたのが、鋳物でできたドラえもんのポストです。「ドラえもん」の作者、藤子・F・不二雄(藤本弘)氏はここ高岡市出身、藤子不二雄A(安孫子素雄)氏は近くの氷見市出身、そして高岡は鋳物の産地ということで、このポストができたのですね。
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 駅前に出るとこちらでも「ドラえもん」の登場人物が勢揃い。それにしても、ずいぶんと小奇麗に再開発がなされてしまったものです。「もののあはれ」を感じたあのキッシュで胡散臭い雰囲気を懐かしく思い出しましたが、「アドニスビル」という雑居ビルがひとり孤塁を守っているので諒としましょう。なお"アドニス"とは、ギリシア神話に登場する、美と愛の女神アプロディーテーに愛された美少年ですね。その名称と、「24H 泊1800円」「サウナ プラザ」「パチンコ№1」「喫茶アドニス」とどう関係するのか不明ですが、オーナーのセンスに頭を垂れましょう。おっ、越前国司としてこのあたりに赴任し多くの秀歌をのこした大伴家持像も健在でした。御慶。
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 それでは夕食をとりましょう。駅ビルにあった「イタリアントマト」で、ご当地B級グルメの高岡ナポリタンをいただきました。ナポリタンに目玉焼きをのせると何故高岡ナポリタンなのか、ご教示を乞う。近くの酒屋で地酒「若駒」を購入し、駅に置いてあった観光パンフレットをいただきました。なお高岡のマスコットキャラクターは「利長くん」、高岡城を築いた加賀藩2代目藩主の前田利長をモチーフとしているそうです。プロフィールによると身長は2m30cm、ただし日によって、10cm~15cm程度の誤差があるとのこと。
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 ホテルに行く途中、愛くるしい眼のを発見、写真におさめました。そして「あさひシティーインホテル」にチェックイン、シャワーを浴びてビールを呑み、「若駒」を一献傾けながら明日の旅程に思いを馳せていると、いつの間にか熟睡…

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-12 06:19 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(53):高岡へ(16.3)

 それでは福井へ戻り、高岡へと移動しましょう。京福バスの永平寺ライナーに乗ると、三十分ほどでJR福井駅に到着しました。駅ビルにあった「おそばだうどんだ越前」で、ご当地B級グルメのソースかつ丼と焼き鯖寿司をいただきました。特急「サンダーバード」の顔はめ看板を撮影し、北陸本線に乗って金沢を目指します。
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 さて、これで福井県とはお別れですが、最近気になるニュースが飛び込んできました。福井新聞(2019.3.11)の、"学力日本一の背景に「教員の犠牲」"という記事です。長文ですが引用します。
 午後8時を過ぎても、ほとんどの教員が職員室に残っている。残業が毎月100時間を超えるという福井県内の30代公立中学校教員は「現場の教員はタイムカードを切ってから仕事を続けたり、家に持ち帰ったりしている。自分が割りを食う分には文句を言われない」と話す。
 昨年9月の福井県教委の調査によると、県内公立中学校教員の平均勤務時間は平日1日当たり10時間51分。「休憩」の1時間を除いているが「休憩なんて全く取れない」。実働は12時間近いが、それでも2年前に比べ31分短くなった。土日の部活動を含めて月80時間以上残業する教員は26・8%。2年前から19・4ポイント減った。
 県教委は今年2月に働き方改革の方針を策定し、2021年度までに残業80時間超の教員ゼロを目標に掲げた。この教員は「県教委の方針に『これはしなくていい』という具体的な内容はない。学校の管理職も『早く帰れ』と言うだけで仕事の量は減らさない。調査の数字は実態を表していない」と淡々と語る。

 福井県内の公立中学校で働く県外出身の30代教員は、「福井の教育は教員の犠牲で成り立っている」と考えている。さらに「宿題をやり遂げる子どもの忍耐と家族の叱咤激励でも成り立っている」と続けた。
 「福井に比べ、宿題があまりに少なくて驚いた」。夫の転勤で子どもを県外の公立中学校に通わせたことがある福井市の会社員女性(35)は「福井に戻ってからは、子どもに全部やらせるのが大変」とこぼす。

 宿題の多さは、全国学力テストで福井の子どもたちが上位を維持する要因の一つとされる。特に中学では、学年共通の宿題に加え、各教科担任からも出される。福井県義務教育課の浦井寿尚課長は「宿題は教員が丸つけや添削をする必要があり、出せば出すほど教員にも負担になる」として、宿題の多さは「学習塾に通わなくても学びを定着させてあげたいという教員の熱意の表れでもある」と話す。
 現場には疑問もある。県外で勤務経験がある30代公立中学校教員は「宿題を全部提出できる子どもが基準で、個々の能力や特性に応じた内容や量になっていない」と指摘する。
 いやはや、福井県では学校のブラック化が相当苛烈な領域にまで入っているようです。それにしても、教員を、保護者を、何よりも生徒をここまで追い詰める全国学力テストって何なのでしょう。測定可能な断片的知識を生徒たちに詰め込んで、全国規模で生徒同士を、教員同士を、学校同士を、自治体同士を競争に巻き込むということだと思います。学力とは、本来「騙されない力」「嘘を見抜く力」「まともな市民として考え行動する力」だと考えますが、そうした力は一顧だにされていないようです。要するに政治家・官僚・財界など管理者(administrator)のみなさんは、子どもたちがまともな市民になっては困る、従順な国民になってほしいと願っているのでしょう。
 それでは管理者にとって、全国学力テストにはどのような利点があるのか。まず財政面です。テストの結果が思わしくない学校の予算を削る、担当した教員の給与を削る。数値という確固たる基準を根拠にするわけですから、反論・抵抗はきわめて難しいですね。
 次に、生徒を勉強嫌いにさせる。無味乾燥な断片的知識を競い合わせれば、嫌気がさすでしょう。大人になってテストがなくなれば必然的に勉強もしなくなる。問題は誰かがつくってくれるのではなく、自分でつくり、自分で学び考えて解決を見つけるのだということを知らない大人になってくれるでしょう。より良い社会を築くために、勉強は必要で、重要で、かつ喜ばしいものなのに。
最後に、生徒たちを多忙にさせる。スマートフォンと部活動と全国学力テストという"三種の神器"が揃えば、完璧です。多忙にさせることによって、読書の時間や考えるゆとりや政治への関心を奪えば、自立した市民ではなく利己的な消費者になるための素地をつくれます。
 香港の雨傘運動のリーダーの一人、周庭(アグネス・チョウ)氏が、初来日後のフェイスブックに次のように書き込まれたそうです。
 日本はかなり完璧な民主政治の制度を持っているが、人々の政治参加の度合い、特に若者のそれはかなり低い。日本に来て、私は初めて本当の政治的無関心とは何かを知った。
 香港では、強権を批判する約200万人参加のデモが起こり、日本では総選挙において半数近くの有権者が棄権する。日本人の政治参加の低迷と政治的無関心には、周庭氏をはじめ香港の方々はさぞ歯がゆい思いでしょう。民主政治の制度がある程度整っているのに、それを活用しない日本人。その理由のひとつが、この全国学力テストをはじめとする教育環境にあると考えます。政治に関心を持つな、政治運動に参加するな、政治的中立を保て[=体制を批判するな]、そんな囁きや有形無形の圧力が、日本の学校には満ち満ちているのではないかな。
by sabasaba13 | 2019-11-11 06:57 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(52):永平寺(16.3)

 苔むした石が並ぶ参道を歩いていると、気温が低いためもあってか、そこはかとない峻厳な空気を感じて背筋が伸びるようです。まずは一般参禅者が坐禅体験や写経体験をするための研修道場・吉祥閣(きちじょうかく)に入って、参拝料を支払い、ここから見学が始まります。
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 次は研修・宿泊のための部屋・傘松閣(さんしょうかく)、別名「絵天井の間」。2階に156畳敷きの大広間があり、その天井には昭和初期の有名な画家144人による230枚の日本画が埋め込まれています。
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 そしていよいよ七堂伽藍へ。山門、仏殿、僧堂、大庫院(だいくいん)、東司(とうす)、浴室、法堂(はっとう)という七つの重要な建物が回廊で結ばれています。山の斜面に合わせて建てられているため、建物は離れて建てられており、上り下りのある回廊をすこし歩くことになります。板敷からの寒気で気分が引き締められました。回廊を歩くにつれて景観が刻々と変わっていき、まだ降り続く雨の中、水墨画のように幽玄な風景を何枚も写真におさめました。時々すれちがう雲水(修行僧)の、凛とした佇まいに、あらためてここは修行の場なのだと感じ入りました。三月でこの寒さなのですから、厳寒の冬における修行の厳しさは想像すらできません。
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 というわけで、身も心も清新になれたようなひと時を過ごせました。これで鎌倉(新)仏教の中心寺院をすべて訪れたことになります。ちなみに、浄土宗の知恩院、浄土真宗の西本願寺と東本願寺、時宗の清浄光寺、日蓮宗の久遠寺、そして臨済宗の建仁寺です。なお『歴史の「常識」をよむ』(歴史科学協議会 東京大学出版会)のなかで、湯浅治久氏がこう指摘されていました。
 戦国仏教概念を提起したのは藤井学である。藤井は鎌倉(新)仏教の思想的革新性を認めながらも、その影響が鎌倉時代には限定されていたものであることを指摘し、鎌倉仏教の祖師たちの思想が社会全般に受容されるのは、むしろ室町から戦国時代であるという認識から、これを戦国仏教と呼ぶべきであると提唱した。(p.98)
 なるほど「戦国仏教」か。この永平寺も室町から戦国時代にかけてどのような活動をしていたのか、そして人びとの間に曹洞宗はどう浸透していったのか、興味があります。

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-10 06:43 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(51):永平寺(16.3)

 それでは永平寺へと向かいましょう。雨は小降りですが、いまだ降り続いています。やってきたバスに乗り込んで、車窓からの眺めを楽しんでいると、ちょこんと塔をのせた愛らしい駅舎がありました。古い駅舎かなと思い写真におさめましたが、いま調べてみると新しいものでした。古い駅舎は近くの「地域交流館」として再利用されているということなので、機会があったら訪れてみましょう。
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 そして三十分ほどで永平寺に到着しました。まずは『日本の歴史を旅する』(五味文彦 岩波新書1676)から引用します。
 鎌倉時代の北陸に新たな信仰をもたらしたのは曹洞宗であって、大陸に渡ってこれを日本に将来した道元が、比叡山の弾圧を受けたため、寛元元(1243)年7月、京の六波羅探題に仕えていた波多野義重の招きにより、その所領である越前の志比荘に移って大仏寺(永平寺)を開いた。
 それから十年、病のために永平寺を弟子の孤雲懐奘に譲って京に戻って死去するまで、「心の念慮・知見を一向捨てて、只管打座」という出家修行至上主義に基づいて、祈?や祭礼を否定し、礼仏や読経も余分なものと考え、信仰をつきつめていった。この永平寺の修行は峻厳なもので今に続いている。(p.94)
 なお松尾芭蕉が、ここに立寄っていたのですね。『奥の細道 朗読』から引用します。
【原文】 五十丁山に入て、永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避て、かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや。

【現代語訳】 五十丁山に入って、永平寺にお参りする。道元禅師が開基した寺だ。京都から千里も隔ててこんな山奥に修行の場をつくったのも、禅師の尊いお考えがあってのことだそうだ。
 白洲正子の『かくれ里』(講談社学芸文庫)にも永平寺のことが記されていました。
 越前へ取材に行った時、友達から、平泉寺にはぜひ行って来い、参道がいいし、苔も美しい。京都の苔寺の比ではない、とすすめられた。
 私は取材に行っても、いつも道草ばかり食う。編集者さんも心得ていて、快くつき合ってくれる。仕事はそこそこにして、平泉寺へ向ったのは、気持のいい秋晴れの朝であった。
 この寺は、勝山市の郊外にある。福井から九頭竜川を東へさかのぼると、三十分あまりで勝山に着く。途中、永平寺に立ちよったが、あまりの人込みに、早々にして退散した。こういう寺は、雪の時でもないと、ゆっくりお参りすることはできないかも知れない。(p.256)
 今日は雨模様のためかそれほど人込みもなく、落ち着いて参拝できそうです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-09 06:50 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(50):中野重治記念文庫(16.3)

 余談その二です。『世代を超えて語り継ぎたい戦争文学』(澤地久枝・佐高信 岩波現代文庫)を読んでいたら、中野重治に関する二つの文がありました。
澤地 それからもう一つ、五味川さんが日本の左翼運動に欠けていたと言ったのは、一田アキという女性詩人の「味噌汁」という詩の世界。
それは、人びとが暮らしから温かい味噌汁を奪われていることを書いたものです。アキは中野重治の妹の中野鈴子です。(p.62)

澤地 『川柳 東』の購読者に石堂清倫がいて、たいまつ社版『鶴彬全集』が出るとき、中野重治に紹介して推薦文を頼んだ。「鶴彬について、私は全くの無知ではなかった。…全像というべきものがぼんやり見えてきたのは、戦争のあと、それも近年、まつたく一叩人さんの力による」と書いています(「無知なままで」)。どんなに鶴彬が知られずにいたか。鶴彬のおかれていた状態と、一叩人の果たした役割をよく語っている中野さんの文章だと思います。(p.73)
 そういえば妹の中野鈴子に関しては、図書館に「坂井市の文学者」という解説がありましたので、転記します。
中野鈴子(1906‐1958)
 高椋村一本田に生まれる。中野重治の妹。
 小さい時から詩歌に強く興味を抱き、16歳の時に室生犀星の詩に激しく心を揺さぶられる。1929年に上京し、兄重治のもとでプロレタリア文化運動に参加、『味噌汁』『鍬』など多くの詩を発表した。その頃犀星との交誼が始まり、詩の創作活動を続けた。特に雑誌「働く婦人」の編集と発行に精力的に取り組んだ。
 1936年に結核治療をかねて帰郷。父母を助けて農業に従事した。1949年、有志とともに新日本文学会福井支部を結成し、1951年には文学誌「ゆきのした」を創刊。詩集にも『花もわたしを知らない』などがあり、『中野鈴子全著作集』が刊行されている。
1958年1月5日に肝硬変のため52歳で死去。
一本田の生家跡に、「花もわたしを知らない」と刻まれた文学碑がある。
 「味噌汁」という詩が気になって、インターネットで調べたのですが、一部しかわかりませんでした。
わたしはあなたの女房
わたしはあなたの女房なのに
逢ひに行けばガラス戸が下りてゐる
手紙を書けば消されてしまふ
わたしは時々泣く
わたしも下のおかみさんのやうに
あなたの茶わんに味噌汁がよそひたい
 うーん、いい詩ですね。労働運動により逮捕された夫に面会した時のものだそうです。庶民からささやかな団欒を奪う思想統制の苛烈さに対する、静かな嘆きと怒りが響いてきます。「中野鈴子」「味噌汁」、頭の引き出しにしまっておいて、何時の日にか巡り合えるときを楽しみにします。
by sabasaba13 | 2019-11-08 06:24 | 中部 | Comments(0)

言葉の花綵198

 残酷かつ無慈悲な敵軍に直面して、われわれの選ぶべき道は、勇敢な抵抗のみであり、しからずんばもっとも卑しい屈従しかない。ゆえにわれわれは、勝利かそれとも死か、と決意せねばならない。(ワシントン)

 動物にさまざまの種類があるように、人間にもさまざまの異なった種類がある。そして、人と人とのおたがいの関係は、異なった種類の動物と動物との、おたがいの関係によくにている。何と多くの人間が、罪のないものたちの血と命とで生きていることか! あるものは虎のように、いつも凶暴で、残忍だ。他のあるものは獅子のように、いくらか寛大らしい外観をもっている。またあるものは熊のように、粗野で貪欲だ。また狼のように、強奪をこととし、無慈悲きわまるものもあれば、狐のように、知恵才覚で生活し、ひとを欺すのを商売にしているものもある。(ラ・ロシュフコー)

 支配したり服従したりしないで、それでいて、何ものかであり得る人間だけが、ほんとに幸福であり、偉大なのだ。(ゲーテ)

 女性に完全な平等を許すことは、文明を見わける一ばん確かな目じるしであろう。そのことは人類の知力と、その幸福の可能性を二倍にすることであろう。(スタンダール)

 適当な秩序のある社会では、労働する意志のあるすべての人々には、次のことが確保されねばならぬ。第一、恥しくない適切な仕事。第二、健康にして美しい住宅。第三、心身の休息のための十分な余暇。…みなさんに考えていただきたいのだが、一方においてこの要求をみたすことが可能であると同じく、他方、現在の金権制度の下ではこれをみたすことは不可能なのだ。この金権制度はわれわれがこの要求を満足させようとするあらゆるまじめな努力を禁止する。(ウィリアム・モリス)

 つねに行為の動機のみを重んじて、帰着する結果を思うな。報酬への期待を行為のバネとする人々の一人となるな。(ベートーヴェン)

 孔子は申しました。「衆人が好んでいても必ず調べてみる。衆人が憎んでいても必ず調べてみる」と。(王安石)

 イタリアの野に草を食う野獣でさえも、穴と寝所とをもっていて、それぞれ自分の休み場としているのに、イタリアのために戦って死ぬ人びとは、空気と光のほか何ものも与えられず、妻や子供と家もなく落着く先もなくさまよい、しかも全権をにぎる将軍は戦場において、兵士に墳墓と神殿のために敵と戦えと励ましてウソをついている。実はこれほど多くのローマ人が、一人として父の祭壇も先祖の宗廟ももたず、他人の贅沢と富のために戦ってたおれ、世界の覇者と称せられながら、自分自身の土地としては土くれ一つないのだ。(グラックス兄弟)
by sabasaba13 | 2019-11-07 06:18 | 言葉の花綵 | Comments(0)

武久源造頌

c0051620_22357100.jpg 東京の上野に奏楽堂という古い音楽ホールがあります。東京藝術大学音楽学部の前身、東京音楽学校の校舎として、1890(明治23)年に建てられたもので、2階の音楽ホールは、かつて瀧廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人による初のオペラ公演でデビューを飾った由緒ある舞台です。現在は台東区が譲り受け、一般公開され、また演奏会も開かれています。いつの日にか、このホールで音楽を聴いてみたいものだと常々思っておりました。なお設計は文部技官の山口半六と久留正道、山口は第五高等中学校本館(現・熊本大学五高記念館)も設計していますね。

 先日あるコンサートでもらったチラシを客席で見ていると、奏楽堂でJ.S.バッハの「適正率クラヴィーア曲集」の演奏会が開かれることを知りました。ん? 平均率ではなくて適正率? 原題の"wohltemperierte"とは、鍵盤楽器があらゆる調で演奏可能となるよう「良く調整された(well-tempered)」という意味なので、たしかにその方がより正確です。演奏者のこだわりなのでしょう、ちなみに武久源造氏というピアニストです。はじめて聞く名前ですが、どのような方なのでしょう。チラシに解説はなく、裏は白紙といく素っ気なさ。ま、目的はあくまでも奏楽堂で演奏会を聴くこと、バッハの名作だし、そこそこに弾いてくれればそれなりに楽しめるでしょう。最近、ピアノの練習に余念がない山ノ神を誘い、チケットを二枚購入しました。
 演奏会の前日、すこし気になったのでインターネットで、武久源造氏について調べてみました。すると、盲目のピアニストであることを知り驚きました。さらに鍵盤楽器についても造詣が深く、今回の演奏会で弾く楽器は、ジルバーマンという楽器製作者がつくったピアノの原型(ジルバーマン・ピアノ)のレプリカだそうです。どんな音がするのだろう、にわかに楽しみになってきました。チラシを読み直すと、小さな字で18:30からプレトークがあると記されていました。よろしい、自由席だし、すこし早めに行くことにしましょう。
 山ノ神と連れ立って奏楽堂に着いたのが18:15ごろ。ライトアップされた奏楽堂を撮影して、受付へ。係の方が「プログラムはありません」と連呼していたのが印象的でした。もしかするとその場で決めるということなのかしらん。そして二階のホールへ、定員310名のこじんまりとしたもので、そこはかとない暖かみを感じます。舞台正面に設置されているのが日本最古のパイプオルガンですね。鍵盤が見える左側の席をとって、武久氏が登場するのを待ちました。
 午後六時半、前を歩く女性の肩に手をかけて氏が舞台に姿を現わし、プレトークが始まりました。話題の中心は、バッハとピアノとの関係。いわゆるヴァイマル時代の1717年、バッハはドレスデンで、フランスの高名な宮廷礼拝堂オルガニストのルイ・マルシャンとクラヴィーアの弾き比べを行うことになっていました。ところがマルシャンが試合放棄して、バッハの不戦勝となります。実はこの時、ドレスデンにゴットフリート・ジルバーマンが滞在しており、彼が製作したピアノを弾いたバッハがアドバイスをしたという記録があるそうです。氏は、バッハはジルバーマンのピアノを気に入り、適正率クラヴィーア曲集第2巻はピアノのために書かれたと推測されています。
 また楽器の調整にもこだわる武久氏、舞台にあるジルバーマンピアノ(深町研太氏作)のハンマーにつける鹿の皮の違いで音色がまったく変わるそうです。エゾシカ、奈良の鹿(!)、外国の鹿といろいろ試されたとか。ときどき唐突に呵々大笑しながら、バッハについて、楽器について、そして音楽について楽しそうに話す氏の姿が心に残りました。
 なお「PTNA ピアノを弾く!聴く!学ぶ!」というブログに、氏による、バッハとピアノに関する詳しい話が掲載されています。

 五分間の休憩のあと、いよいよ演奏が始まりました。冒頭は第1巻の第15番。そのテンポの速さに思わず息を呑みました。しかも各声部をきっちりと弾き分けています。疾風怒濤のバッハ、凄い… 続いて、有名な第1巻の第1番では、ジルバーマンのまろやかで優しい音色を存分に楽しめました。微妙に揺れ動くテンポ、即興で入れる装飾にも心ときめきました。ああ、バッハをこんなに自由に弾いていいんだ。
 二曲弾いた後に、有益かつユニークなコメントが入るのですが、これは嬉しい。次は第1巻の第2番と第2巻の第1番。なお後者は、無人惑星探査機ボイジャーに搭載されたゴールデンレコード「地球の音」に選ばれた名作だそうです。
 そして第1巻の第4番はプレリュードなしでフーガのみ。「午後八時半には撤収しないといけないので」と楽屋話をされていました。前半の最後は第1巻の第5番、プレリュードはガヤガヤ、フーガは王の行進とコメントされました。楽しいバッハと、堂々としたバッハですね。なおフーガではチェンバロ・レジスターを使用して、音色をチェンバロに近づけたとおっしゃっていました。
 ここで十五分間の休憩。外に出て紫煙をくゆらしながら、ほてった身と心を夜風で冷やしました。何て素晴らしい演奏、後半も楽しみです。
 後半は何と、第1巻の第20番のプレリュードと第2巻の第20番のフーガという組み合わせです。そんなことをしていいのか。いいみたいですね、音楽として素晴らしければ。なお第2巻は、チェンバロよりもピアノが合うとコメントされました。
 続いて第1巻の第21番と第2巻の第22番。後者は悲痛な曲で、バッハは投獄されたことがあるのですが、牢獄の中で作ったのではとのコメント。
 第2巻の第23番は楽しいおしゃべり、そして最後となる第1巻の第24番は氏曰く「どはずれた曲」。なおこの曲には金南里氏のオイリュトミーが加わりました。オイリュトミー(Eurythmy)とは、オーストリアの神秘思想家・教育家であるルドルフ・シュタイナーによって考案された舞踊のことだそうです。
 そしてアンコールは、左手が叩き出す強烈なシンコペーションに乗って右手がスインギーなフレーズを奏でるノリのいい曲です。ニコライ・カプースチンの曲かと思ったら、なんと即興演奏でした。凄い…

 なおいただいた解説に、武久氏による興味深い考察が記されていたので後学のために転記します。
 さらに演奏面について言うなら、基本的に私は18世紀の常識に従って演奏しようと試みている。例えばそれは、演奏者による即興的な装飾法の実践である。そこにはフェルマータの装飾法も含まれる。フェルマータは、単に音楽の動きを止めるだけではなく、「良き趣味」によって、そこに何らかの装飾音型を適宜自由に挿入することができたのである。音符の外的な価値と内的な価値の区別もまた、大きな問題である。一般的に、18世紀の音楽家たちが重んじたこと、それは、およそ外的には同じ8分音符であっても内的にはその音価は異なるということであった。つまり、その音符が置かれた場所によって、また、曲の性格や表現される情緒によって、その長さは柔軟に変化させられねばならなかったのである。こうして各声部を自由に歌わせ、個々の音符の長さを柔軟に変化させると、その結果として、当然、各々の声部間にずれが生じ、縦の線は必ずしもそろわないということになる。特にバッハの対位法では、各声部の独立性と自由度が、他に抜きんでて高い。我々はこの自由度を可能な限り生かした演奏を心がけなければならないであろう。これによって生じる声部間の微妙で際どいずれこそは、18世紀において、高度な演奏の証とみなされていたのである。
 というわけで、素晴らしいピアニストにめぐり合わせてくれて音楽の神様、ありがとう。高度な技術と分析に裏打ちされた、笑うバッハ、泣くバッハ、瞑想するバッハ、疾駆するバッハ、ほんとうに素敵な演奏でした。

 本日の二枚です。
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 なおバッハに所縁のあるドレスデン市が、極右の台頭を懸念して「ナチス非常事態」を宣言したそうです。詳しくはヤフーニュースをご覧ください。
by sabasaba13 | 2019-11-06 06:22 | 音楽 | Comments(0)