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組曲虐殺

組曲虐殺_c0051620_21383636.jpg 井上ひさしの最後の戯曲、小林多喜二を主人公にした「組曲虐殺」をこまつ座が再演するという情報を得ました。井上ひさしが、小林多喜二をどう描いたのか、興味ありますね。さらに劇中の歌を作曲した小曽根真がピアノを弾くという豪華版。さっそく山ノ神を誘って、天王洲銀河劇場へと観劇に行ってきました。
 JR浜松町駅からモノレールに乗り換えて次の天王洲アイル駅で下車、すぐ目の前が銀河劇場です。客席数746、馬蹄形三階建ての劇場で、われわれは三階席。膝を痛めている小生としては階段をのぼるのに少々苦労しました。ぜひ2・3階へのエレベーターを設置するよう、関係者各位の善処を強く要望します。
 まずは劇場の公式サイトより、ストーリーを転記します。
 ときは昭和5年の5月下旬から、昭和8年2月下旬までの、2年9ヶ月。
 幼い頃から、貧しい人々が苦しむ姿を見てきた小林多喜二(井上芳雄)は、言葉の力で社会を変えようと発起し、プロレタリア文学の旗手となる。だが、そんな多喜二は特高警察に目をつけられ、「蟹工船」をはじめ彼の作品はひどい検閲を受けるだけでなく、治安維持法違反で逮捕されるなど、追い詰められていく。そんな多喜二を心配し、姉の佐藤チマ(高畑淳子)や恋人の田口瀧子(上白石萌音)はことあるごとに、時には変装をしてまで、彼を訪ねていく。瀧子は、活動に没頭する多喜二との関係が進展しないことがもどかしく、また彼の同志で身の回りの世話をしている伊藤ふじ子(神野三鈴)の存在に、複雑な思いを抱いている。言論統制が激化するなか、潜伏先を変えながら執筆を続ける多喜二に対し、刑事の古橋鉄雄(山本龍二)や山本 正(土屋佑壱)は、彼の人柄に共感しながらも職務を全うしようと手を尽くす。命を脅かされる状況の中でも、多喜二の信念は決して揺るがず、彼を取り巻く人たちは、明るく力強く生きていた。
 そしてついにその日は訪れる…。
 多喜二と、彼をとりまく人びとを描きながら、井上ひさし作詞・小曽根真作曲の歌が挿入されるという音楽評伝劇です。
 小林多喜二というと、つい残虐な拷問と凄惨な遺体を思い出してしまうのですが、この劇ではああえてそのことに深く触れず、多喜二の生きざまと、それを支える周囲の人びとに脚光を当てたため、たいへん見やすい作品となりました。彼の人生を貫くのが、貧しい人びとへの同情と共感、そして搾取する側への怒りであることを、よく表現しています。
 冒頭の、幼いときに見た、貧困に苦しむパン職人たちの場面もそうだし、「独房からのラヴソング」という劇中歌もそうですね。
おはよう 多喜二くん
ぼくは恋をしてるんだ
きみのうしろに
見えているひとに

夜明けの寮の ふとんの上で
咳き込んでいる やせっぽちの子
紡績工場で 三年あまり
布地をゴマンと 織りあげてきた
働きすぎとは 知らずにいたのさ
きのう工場で 血を吐くまでは
いとしいな あの少女は…
  ああ ぼくは片方だけの靴
  なんの役にも立ちそうにない

昼の長屋の 浅い井戸から
水くみあげる わかい母さん
腕に抱えた 三つのわが子
きのうもきょうも お水がごはん
父さんはいま 留置場にいる
工場の仲間と ストを打ったから
いとしいな あの母さんは…
  ああ ぼくは片方だけの箸
  なんの役にも立ちそうにない

夕暮れどきの たんぼの中で
念仏となえて 草つむおばあさん
稔らぬ秋の 小作人には
こめ一粒も のこってはいない
長生きをして もうしわけない
田の草よく煮て よく噛むしかない
いとしいな あのおばあさんは…
  ああ ぼくは片方だけのズボン
  なんの役にも立ちそうにない

破れ障子を 夜風が鳴らす
七輪出して おかゆたく姉さん
夜も給仕の 弟が帰る
円周率を 暗記しながら
温まったかゆは ひとり分だけ
姉さんはまた たべないつもりだ
いとしいな あの姉さんは…
  ああ ぼくは片方だけのメガネ
  なんの役にも立ちそうにない

おやすみ 多喜二くん
ぼくは恋をしてるんだ
きみのうしろに
見えているひとに…
 そして強者・富者が弱者・貧者を搾取する手口を、小説という言葉の力によって暴き、世の中に知らしめようとした多喜二。彼のセリフです。
 ぼくたち人間はだれでもみんな生まれながらにパンに対する権利を持っている。けれどもぼくたちが現にパンを持っていないのは、だれかがパンをくすねていくからだ。それでは、そのくすねている連中の手口を、言葉の力ではっきりさせよう…
 その彼の姿勢に共感し、彼を支えた姉の佐藤チマや恋人の田口瀧子、同志の伊藤ふじ子の思いもよく描かれています。特に前二者の方言をまじえたコミカルな演技には思わず頬が緩みました。多喜二をつけねらう特高の刑事たちが、じょじょに感化されていく姿も面白かったですね。
 そして何よりも小曽根真のピアノの素晴らしいこと。さすがは日本を代表するジャズ・ピアニストです。ある時はスイングして、ある時は情感を込めて、本作に深みを与えていました。

 なお多喜二を演じた井上芳雄が、インタビューの中で次のように語っています。
 これはよく言われていることでもありますけど、少し時代がこの作品に近づいているようなところもあって。初演の時には、「ああ、こんな時代もあったのか、自分たちだっていつそこに逆戻りするかわからないよね」くらいのニュアンスだったんですが、この10年でなんだか現実味を帯びてきているということは、きっと誰もが感じていると思うんです。ただ井上先生はおそらく、この今の状態も見越してこの作品を書かれていたとも思えるんですよね。だけど本当は僕たちとしては、再びこういう時代に戻すわけにはいかないんだ、と。演劇の力で何をどこまでできるかとなると、実際は本当に小さなことしかないのかもしれないですけれど。そういったことも考えながら、演じたいと思っています。
 権力者の暴走と国家の私物化、格差の固定と拡大、そして何よりも彼らによる言葉の無力化。既視感を覚えるほど、多喜二の生きた時代が復活しつつあることを、井上ひさしは鋭く感じ取っていたのでしょう。そして身の危険を顧みず、言葉の力で権力者に立ち向かった多喜二を演劇で蘇らせ、その姿をいつまでも忘れないようにいようと私たちに呼びかけているのだと思います。
 劇中最後の歌、「胸の映写機」にもそれがよくあらわれています。
カタカタまわる 胸の映写機
かれのすがたを 写し出す
たとえば-
…本を読み読み 歩くすがたを
人さし指の 固いペンダコを
駆け去るあれの うしろすがたを
とむらうひとの 涙のつぶを
本棚にかれが いるかぎり
カタカタまわる 胸の映写機

by sabasaba13 | 2019-11-30 06:25 | 演劇 | Comments(0)

福井・富山編(69):井波へ(16.3)

 それでは井波へと向かいましょう。駅に向かう途中に、志功が一時住んでいた舟岡家がありました。近くにあった、志功の作品が陶板で再現したモニュメントを撮影。
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 うっ… 見たくないものを見てしまった… 「経済で、結果を出す。一億総活躍社会へ。自民党」という安倍晋三首相のポスターでした。違うでしょ、"経済で結果を出したように事実をごまかす"、"一億総酷使社会"でしょ、と半畳を投げ入れたくなります。彼が目指すものは明々白々なのに、そしてその言動からとても信頼できる人物ではないことも一目瞭然なのに、東京新聞(2019.6.17)によると安倍内閣の支持率は47.6%、不支持率は38.1%です。やれやれ。『週刊金曜日』から、彼に対する人物評を紹介して警鐘を鳴らしたいと思います。
「金曜日から」 成澤宗男
 現在はそれほど極限状況ではないが、低能で虚言癖がひどく、幼児性丸出しの男が、かくも愉快そうに権力を弄んでいる様を見せつけられるほど気分が害される瞬間はない。結局その根源は、5回も国政選挙でこの男を喜ばせた「有権者」とされている人々の無恥と無責任さにある。(№1204 18.10.12 p.66)

「外交の場でもウソをつく安倍首相の「心の病」」 適菜収
 安倍晋三首相は「右翼」、「復古主義者」、「ナショナリスト」と誤認されていますが、その本質は違います。この国の利益などまったく気にせず、米国に言われる通りにナショナルなものを解体しようとしているグローバリストです。だから農業を破壊するTPPを推進しようとし、「規制緩和」と称して財界の利益に即した新自由主義政策をとる。
 それが自分の権力維持に好都合だからです。だから政策も主張も、一貫性がない。安倍首相は「保守」とは何の関係もないただの「アホ」です。すぐにバレるウソを平気な顔でつき続けてきましたが、最近は外交の場でも大ウソをつくようになりました。
 (中略) このような幼児性丸出しの人物が、6年近くも野放しにされているのは、日本は三流国家に転落したことを意味します。(№1206 18.10.26 p.17)

「首相は勝ち負けでしか物事を考えられない政治家」 金田一秀穂
 第1次安倍内閣発足の06年から自民党総裁選で3選を果たしたこの9月20日まで、国会答弁で「全力」を発したのは391回。学生を見てきた金田一は言う。「できのいい子は全力とは言わない。できる限りと言う。全力なんて四六時中出せるもんじゃないから」 「しっかり」は506回。18年6月27日、国家基本政策委員会合同審査会。「これが『しっかり』と消費に転じて、いい、これは好循環を回しながらデフレから完全に脱却をし、『しっかり』とこれは税収も増やしながら、また、出る、出るものも『しっかり』と点検をしながら…」
「まさに」392回、「~において」526回…。金田一曰く。「同じフレーズを使うのは、何かを言葉で表現するとき、よく考えていないということ」 (p.18)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-29 06:27 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(68):福光(16.3)

 地元資本らしき喫茶店「かんなり」があったので、珈琲を飲んで一休み。「ウィンナーコーヒー」には食指が動きましたが、ほんとうにウィンナーが入っていたらちょっと困るのでパス。
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 そして「愛染苑」に到着。ここは石崎俊彦氏(1912~2003)が多数の棟方作品と土地を福光町(当時)へ寄贈して設けられた記念館で、志功が福光で疎開生活をしていた6年8カ月の間に制作した作品を展示してありました。中に入って、しばし棟方志功の世界を堪能。なお「愛染苑」とは旧棟方住居の呼称だったそうです。パンフレットに下記の一文がありました。
愛染苑所以之記
 想いゆたかにして風光さかんな美しいこの所は心おなじくする愛ふかく想い大きく染むる人達を多く迎いおくり、また待ちつづけます。愛染苑と称ぶ所以であります。文豪谷崎潤一郎先生がもってそれを賛して命記の筆を執ってくれました。
昭和廿六年霜月十七日 棟方志功
 その向かいにあるのが、棟方志功の住居であった「鯉雨画斎」です。終戦直前、女医・松井氏たちの勧めによって福光に疎開していた志功は、まず光徳寺の「分家の家」、そして舟岡氏の別宅に移り住み、1946(昭和21)年12月に栄町の福光小・中学校庭の南西端に新居を建てて移り住みましたが、それがここです。本人・夫人と四人の子供が暮らすには手狭でしたが、志功ははじめて持った自分の家にことのほか満足し、アトリエとして使用していた8畳間の板戸に絵を書きなぐったそうです。その時に描いた「滝登りの鯉」「雨に打たれた鯉」に因んで「鯉雨画斎」となづけられました。それでは中を拝見いたしましょう。8畳間の板戸には、鯉や鯰が喜びにあふれたように踊っていました。驚いたのは、厠にも絵があふれていたことです。
 壁には満面の笑みを浮かべる菩薩、何と天井には妖艶な天女が描かれていました。写真撮影ができないのが残念でしたが、棟方志功の世界に包まれた、喜ばしきひと時でした。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-28 06:19 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(67):福光(16.3)

 城端線に乗って北上すること七分ほどで福光駅に着きました。ここ福光は、第二次世界大戦末期に板画家・棟方志功が疎開していたのですね。お目当ては、彼の作品を展示している「愛染苑」と、棟方志功のアトリエであり、家族との住居でもあった「鯉雨画斎(りうがさい)」の建学です。棟方志功の足跡は、これまでも青森の棟方志功記念館荻窪桐生などを経巡ってきましたが、今回も楽しみです。駅前に出ると、いきなり棟方志功に関する大きな石碑がありました。後学のために碑文を転記します。
祈りの山 『桑山』 志功 第二の故郷の山
棟方志功 躅飛沫隈暈発祥之地 題字 谷崎潤一郎
 棟方志功は「偉くなったら福光駅前に『躅飛沫隈暈描法?祥之地』という大きな碑を建てたい」と高坂貫昭氏(18世光徳寺住職)に語った この描法は 墨を含んだ水を勢いよく振りかけ 滲みの効果を巧みに活かした独自の技法で 昭和19年に襖絵《華厳松》(光徳寺蔵) 昭和21年には 屏風《松柏図》(福光美術館蔵)をこの描法を用いて描いている
 へえー、どういう効果があるのだろう、ぜひ見てみたいものです。
 歩いていると、志功に関する案内や解説が随所にありました。例えば「雑華堂絵所(ざっけどうえどころ)」という解説です。
 棟方志功は、昭和20年に福光へ疎開し、夏頃から、この東町鍛冶金物店二階の一間を借り、この表札を掲げて制作の場とした。
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 棟方志功の板画を陶板にしたモニュメントも、そこかしこで見かけました。その先には「福光の野球バット発祥の地」という解説文がありました。こちらも後学のために転記しておきます。
 波多栄吉は、明治31年(1898)この地で、波多善六の長男として生れる。昭和42年没、68歳
 若くして運動用具の将来性に着目し、名古屋市栄の山本商店にて木工技術を習得して大正11年から実弟卯吉とともに、ここで野球バットなどの製作を始めました。
 昭和13年、株式会社波多製作所を設立して、現郵便局一帯に全国一の木製運動具専用工場を建設し、野球バット、スキー板、卓球台などの大メーカーとなり、「バットの町福光」として全国的に名声をはせてきました。
 戦後~30年代、同社のスキー及びバット(大リーガー用など)はアメリカへ輸出されて、わが国の外貨獲得に貢献されています。また、栄吉は長年にわたり、全国木製運動用品工業会会長として、わが国スポーツ界発展の陰の立役者として活躍しました。
 福光の木製野球バットの生産は、最盛期は11社で全国シエア70%超でした。現在は6社で全国シエア60%弱、年20万本を生産する「日本一のバットの町」です。福光産のバットによって、多くの有名プロ野球選手がホームランを打ち、全国の子どもたちに夢を与えています。
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by sabasaba13 | 2019-11-27 06:22 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(66):城端(16.3)

 そして川島地区へ。川島橋に出ると、川越しに三角屋根が連なる機織り工場が遠望できました。吉村絹織物業の渡り廊下をくぐって通れる小道も趣があります。
 そしてふたたび西町通りの西側へ。現在は公民館として使われている警察署と浄念寺にはさまれた急勾配の坂は警察坂。こちらも石垣がいい風情を醸し出しています。それにしてもさすがは山田川と池川の合流地点にできた舌状台地、素敵な坂が目白押しでした。しかも御坊坂、ぼたもち坂、念仏坂、警察坂、桜坂、地獄谷の坂など、坂の名前がユニークです。近々「ブラタモリ」で取り上げられるのではないかな。
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 それでは城端駅へと戻りましょう。途中にあった教念寺の門前には「学ぶことの根は苦し されどその葉は甘し」という標語がありました。はい、肝に銘じます。その先には「太鼓張替 毛皮製造 定塚靴太鼓店」という看板がありましたが、革靴もつくっているということでしょうか。
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 というわけで、城端、いい町でした。まだまだ見どころもありそうなので再訪を期しましょう。

 本日の四枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-26 06:22 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(65):城端(16.3)

 道はゆるやかに右に90度カーブして、西町通りとなります。竹の花入れに一輪の花をさした家をよく見かけましたが、清々しいですね。
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 善徳寺の豪壮な山門を通り過ぎると、1928(昭和3)年に建築された城端絹織物組合事務棟を利用したレトロな「じょうはな織館」がありました。江戸時代から加賀絹の産地として栄え、最盛期には、町の至る所で機織りの音が聞こえてきたそうです。なおこちらでは、織物体験ができるとのこと。
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 西へと路地を抜けると、今町通り。明治の豪商が建てた四軒の蔵が、ゆるやかにカーブする通りに沿って並び、フォトジェニックな光景です。なおこちらは「蔵回廊」として、城端の歴史・文化を展示する施設となっています。その近くにあるのが、マンサール屋根がキュートな銭湯、桂湯ですが、現在はクラフト小物を売るお店になっています。
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 そして西町通りへと戻り、東へと路地を歩いていくと坡場(はば)の坂です。現在の国道ができるまでは、こちらの通りが五箇山街道の本通りだったそうです。古い町屋が今も建ち並び、なかなか風情のある路地でした。三角屋根の工場は、いまも稼働しているのでしょうか。水路の上に廊下を渡したお宅もありました。
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 東新田町公民館https://sabasaba13.exblog.jp/14236280/は、細い縦格子が味わい深い町屋です。石垣が坂の両側に連なるのもいい景色。城端醤油は、石垣と縦格子と古い看板が見事に調和していました。赤レンガ造りの培菌室は残念ながら解体中、リフォームしてくれることを期待します。あるお宅は、石垣と生垣とむくり屋根の屋敷門がすばらしい景観をつくりだしていました。
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 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-25 07:28 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(64):城端(16.3)

 それでは街の中心へと向かいましょう。途中で、柳田國男の一文を記した垂れ幕がありました。
 城端は機の声の町なり 寺々は本堂の扉を開き聴聞の男女傘を連ね市に立ちて甘藷の苗売もの多し 麻の暖簾京めきたり 民俗学者 柳田國男
 屋根の上にのぼる梯子がかけてあるお宅がありましたが、冬の雪深さがしのばれます。
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 あるお宅の郵便ポストには「カギ かけんまいけ!」と記してありましたが、このあたりの方言なのでしょう。山田川を渡ると、残雪をかぶる山々が町を見守るように連なっていました。四囲に山々を眺められる町って素敵ですね。憧れます。道のわきに立派な祠があったので近寄ってみると、「延命地蔵」で、下記の解説がありました。
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 後学のために転記します。
 江戸期に、放生津(新湊)今石動(小矢部)城端の地にも曳山祭が盛んとなる中で、前田利長公拝領の由緒ある高岡御車山の車を真似てはならないという、権威護持の争いが起きた。
 この曳山訴論は城端の山車にもおよび、安永4年(1775)12月に荒木和助、塗屋治五右衛門、大桑屋の息子甚四郎、大工佐右衛門等7名が魚津の盗賊改方に呼び出され、詮議を受けることとなった。
 厳寒の入牢の身を案じ、出丸の大桑屋豊右衛門(父)は息子等一行の無事を願い、北野のかまてん坂に、延命地蔵を建てた。雪の降る中、延命祈願の列が絶えなかったという。
 翌年6月までには全員赦免されたが、御所車形式の車は明治期まで許されなかった。この後城端の曳山は、御神像や彫刻により情熱をそそぎ、独自の美の形式を目ざすこととなった。
 大桑屋の延命地蔵は曳山祭創成期の事件を今に伝えている。(尚、右脇の地蔵は身代り地蔵である。)
 山車というものが、その町の誇りだったことがよくわかります。城端の曳山祭、ぜひ見てみたいものです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-24 07:08 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(63):城端(16.3)

 そして12:06発のバスに乗って、12:50に城端駅前に着きました。砺波平野を縦断するローカル線・城端線の終着駅です。この沿線には味わい深い小さな町が点在しているので、午後はタウン・ホッピングと洒落込むことにしました。『一度は訪ねておきたい日本の町100選 小さな町小さな旅 東海・北陸』(山と渓谷社)から引用します。
 JR高岡駅から砺波平野を縦断する城端線は、散居村の景色を堪能できるローカル線だ。散居村とは各農家がほぼ100メートル間隔で独立して建ち、どの家も「かいにょう」と呼ばれる屋敷林に囲まれた農村形態である。
 この沿線に、味わい深い小さな町が点在する。高岡から約35分の福野は市の町として栄え、現在でも毎月2と7の付く日に朝市が立つ。近年、商店街の古い町屋や土蔵が空き家になりギャラリーとして再利用する「ギャラリー市の里」がすすめられている。駅近くの旧県立農学校本館・巖浄閣や町はずれの名刹安居寺は見逃せない。
 高岡から約40分の福光は天台密教の霊山、医王山の懐に抱かれた町。棟方志功が疎開し、6年間過ごした町でもあり、棟方志功記念館「愛染苑」や旧住居「鯉雨画斎」などがある。
 高岡から約50分、終着駅の城端(じょうはな)は沿線で最も旅情の濃い町だ。巨刹善徳寺の門前町で、五箇山と加賀とを結ぶ交易の基地として栄え、古い街並みと坂道が続いている。(p.122)
 まずは城端を散策し、福光で「愛染苑」「鯉雨画斎」を見学した後、城端線で砺波駅に行き、タクシーで井波を訪れる予定です。
 城端駅は1897(明治30)年に開業した古い駅舎でした。「越中の小京都 城端」という男女の顔はめ看板がありましたが、編み笠を持っているのは曳山祭りの扮装なのでしょうか。
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 駅トイレの男女表示も同じいでたちでした。調べてみると、1926(大正15)年に越中五箇山麦屋節保存会から伝授された麦や節を踊るときの衣装のようです。
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 駅前に「南砺市観光協会」があったので地図をもらおうと立ち寄ると、閉まっていました。今日は日曜日だというのに、ちょっと解せません。幸い、各所に観光案内地図が掲示されているので、不便は感じませんでした。
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by sabasaba13 | 2019-11-21 06:18 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(62):五箇山(16.3)

 なお菅沼集落には、江戸時代、五箇山の一大産業であった火薬の原料、塩硝の製造過程を展示する「塩硝の館」がありました。塩硝の作り方は、硝化バクテリアが寒い冬でも活動できるように、囲炉裏のそばに穴を掘って、1間四方ぐらいの空間を作り、わら、蚕のフン、ヨモギ、土を重ねて入れて、数年寝かせておき、土に成分が移った頃にその塩硝土を煮詰めて塩硝を抽出する方法だったそうです。
 ふと疑問に思ったのは、軍備縮小を進めていた江戸時代に、煙硝の需要はあったのでしょうか。各藩が鉄砲隊を常備していたという話も聞いたことがないし。『歴史の「常識」をよむ』(歴史科学協議会 東京大学出版会)を読んで、この疑問が氷解しました。中西崇氏が、「村の鉄砲-江戸時代の村に武器があった」の中で、下記のように指摘されています。
 豊臣秀吉が刀狩りで百姓の武器を没収したため江戸時代の百姓は丸腰であった、と一般には理解されているかもしれないが、これは誤りである。秀吉の刀狩りの最大の目的は、百姓の帯刀を禁止して、武士と百姓の身分を帯刀の有無で明確に分けることにあった。したがって、刀狩りでは百姓の刀の没収が徹底される一方で、それ以外の弓・槍・鉄砲などの没収は不徹底だった。
 そして実際、江戸時代の百姓は丸腰ではなかった。中でも鉄砲は、持っているだけではなく、生活の中で実弾発砲されていた。こうした百姓の鉄砲を在村鉄砲と呼んでいる。その総数は、武士の鉄砲が合計8万挺程度とみられる江戸時代中頃に20万から30万挺あったと見積もられている。
 在村鉄砲の用途は大きく二つある。一つは、鹿や猪、猿などのいわば害獣から農作物を守るため、もう一つは、猟師の狩猟である。山付きの村では獣が出没しやすく、山間部の村ではなお一層であった。また、熊・鹿・猪などを狩るにも、山間部の村が主であった。よって、在村鉄砲は平野部の村には少なく、山間部の村に多かった。中には、50挺以上もの鉄砲がある村もあった。(p.148)

 鉄砲の使用には弾薬が不可欠である。江戸時代の火薬は、粉末にした硝石と炭と硫黄をおよそ七対二対一で混ぜた黒色火薬と呼ばれる火薬である。黒色火薬は、ブレンド済みの物を購入する場合もあれば、材料の状態で購入して自らブレンドする場合もあった。江戸時代には、村で花火を作っていた事例が各地で確認でき、江戸時代の火薬の供給量は村の鉄砲の火薬需要を充分に満たすものであったといえる。越中国五箇山では黒色火薬の主要原料である硝石を大量生産していたが、19世紀初めには約1・2トンもの硝石を生産している。これだけの火薬生産・供給体制を生み出したのは、武家の鉄砲の火薬需要ではなく、在村鉄砲の火薬需要である。また、鉄砲にはたいがい弾を作る鋳型がセットで付いている。弾は百姓が鉛を囲炉裏などで溶かして鋳型に流し込み、自作していた。(p.150)
 ちなみに、こうした在村鉄砲が、百姓が一揆や打ちこわしで使用された事例はないそうです。中西氏によると、一揆は御百姓意識に基づく領主への御救要求行為であり、百姓らしからぬ行動は自制されていました。また、打ちこわしは富を抱え込む商人への制裁行為であり、借金証文や商売道具と破却することはあっても、略奪や暴力は厳に慎まれていました。両者とも、そもそも武器を用いる性格のものではなかったのですね。(p.149~50)
 また、17世紀の新田開発は、獣の生息域に人間が踏み込んでいく結果となり、獣害対策用の鉄砲が必要となったという指摘も銘肝しましょう。(p.150)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-20 06:07 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(61):五箇山(16.3)

 それでは菅沼集落へと移動しましょう。先ほどのバス停まで戻り、10:48発の高岡方面行きバスに乗って、11:03に菅沼に着きました。バスから降りると、道路から見下ろすように集落を一望できます。おっ屋根の葺き替えをしています。雰囲気から見て、村人総出というよりも専門業者の方々のようです。
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 それでは集落内の散策です。坂道を下って集落にの入口に就くと、合掌造りの立派な公衆便所がありました。
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 集落は庄川が蛇行しながら東へ流れを変える地点の右岸の、南北約230m、東西約240mの舌状に北に突出した河岸段丘、標高は約330mのほぼ平坦な地にあります。段丘の南背後は急傾斜の山地となっており、ブナ、トチ、ミズナラなどの大木が生い茂り、木の伐採は禁じられていて、雪持林として保存されています。菅沼集落の合掌造り家屋は9棟。これらのうち、2棟は江戸時代末期(19世紀前~中期)、6棟は明治時代に建てられたものです。このほか、1925年(大正14年)に新築されたもの1棟があり、この時代まで合掌造り家屋がつくられていたことがわかります。
 小腹がへったので、合掌造りのお食事処に入って山菜そばをいただきました。
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 そして合掌造りの写真を撮影しながら、集落内を散策。水を張った水田が各所にあり、その水面が、雪の残る山々や樹々や合掌造りを鏡のように綺麗に映していました。ブンダバー。

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2019-11-19 06:22 | 中部 | Comments(0)