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福井・富山編(75):八尾(16.3)

 さてここから町の中心まで歩くと二十分強かかるそうです。時間節約のために、駅前にあったタクシー会社に寄ると、予約のため断られました。しかたがない、歩くことにしましょう。落ち着いた雰囲気の街並みの中を、田園風景や残雪をかぶる山々を眺めながらのんびりと歩いていくと、三十分ほどで井田川に面した町民ひろばに着きました。
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 川の向こうには、高い石垣の上に甍が連なる八尾の町が一望できます。河岸段丘の上にできた町であることがよく分かりますが、この石垣の圧倒的な迫力は半端ではないですね。禅寺橋を渡って、石垣に沿った善寺坂をのぼっていきます。「八尾町の小路案内」という解説板があったので転記します。
禅寺坂
 八尾町の開祖米屋少兵衛は、寛永13(1636)年の八尾町開町と同時に、甚九郎の渡し場から本町(西町・東町)に至る坂道をつくった。山田・保内・室牧の人や富山・高岡の商人が買い物や交易のためにここから町に入った。禅寺(宗禅寺)は寛文年間(1661)に宗圓寺として創立された。
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 途中に「狼地獄」という解説がありました。
 その昔、西町に迷い込んだ一匹の狼を、住民がこの崖下に転落させて退治した。
以後この一帯を俊敏な狼さえ命を落とす危険な場所として「狼地獄」と呼んで語り継いだ。
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 坂の上から後ろを振り返ると、高い石垣と坂道とお寺さんの大きな屋根と町屋の甍の波がほどよく調和して、ピクチャレスクな光景でした。通りに出るとバス停があったので確認すると、富山駅前行きのバスが一時間に一本ほど出ています。これはラッキー、利用することにしましょう。通りには「宮田旅館」がありましたが、ここに吉井勇が逗留したのですね。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2019-12-08 08:02 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(74):八尾(16.3)

 さあいよいよ最終日です。カーテンを開けると雨は降っていませんが、相も変わらない曇天。でもテレビで気象情報をみると、午後には晴れ間が出るとのことなので、一縷の期待をかけましょう。本日の旅程は、越中八尾(やつお)を散策して富山へ戻り、雨晴海岸へ。また富山に戻って市内の近代化遺産を見学。そしてタクシーで富山へ、その途中でイタイイタイ病を訪れるというものです。せめて雨晴海岸にいる間だけでも晴れてくれないかなあ、と淡い希望を胸にチェックアウトをしてホテルを出発しました。高岡駅からあいの風とやま鉄道に約二十分乗ると富山駅に到着、高山本線に乗り換えて三十分ほどで越中八尾駅に着きました。まずは『一度は訪ねておきたい日本の町100選 小さな町小さな旅 東海・北陸』(山と渓谷社)から、八尾のついての紹介文を引用します。
 毎年9月1日から3日までの間、富山市内やその近辺の宿は満室だそうだ。この3日間は越中八尾の「おわら風の盆」という祭りの日で、全国から観光客が押し寄せるのである。
 越中八尾は富山から髙山本線で20分ほど。8つの尾根が寄り添い、その中央部を幾筋もの渓流を集めた井田川が流れている。小さな町で、いつもは静かだが、この祭りの期間中だけは20万人から30万人もの人出であふれる。
 町中は数千のぼんぼりと万灯、まん幕で飾られ、揃いのはっぴや浴衣姿に網笠をつけて老若男女が踊る。これだけなら全国のどこかにもありそうだが、風の盆は胡弓の音色と三味線に合わせ「八尾よいとこおわらの本場 二百十日をオワラ出て踊る」と唄い、合の手が入る。その胡弓の音色が哀調を帯び、見物客の心を震わせる。また、胡弓が優雅な女踊りを一層盛り上げ、ぼんぼりの灯に浮かぶ舞姿の美しさを際立たせる。
 全国からわざわざやって来るだけの魅力が風の盆には確かにある。300年の歴史をもち、八尾の人たちはこの日のために並々ならぬ稽古をし、3日間踊り、歌い明かす。八尾の一年は風の盆で始まり、風の盆で終わるのである。
 町歩きを目的にするなら、風の盆が過ぎて静かになった頃がいい。まずは、駅から歩いて25分ほど、タクシーなら約5分の聞名寺(もんみょうじ)へ行こう。聞名寺は正応3年(1290)に本願寺第3世覚如上人が北陸巡行のときに創建した名刹。越中八尾はこの寺の門前町として栄えた。江戸時代には飛騨往還を行き交う物資の中継ぎ所で、富山藩の御納戸所と呼ばれていた。旅籠や酒屋が軒を並べ、遊郭もできたという。
 聞名寺から急勾配の坂を下って井田川に架かる禅寺橋に出る。振り返ると累々と積まれた石垣の上に家々が立ち並んでいる。その光景は圧巻のひと言。町中を歩いていると気が付かないが、川面よりはるかに高い河岸段丘にできた町であることがよく分かる。橋から再び坂を上りきり、吉井勇が逗留していた老舗の宮田旅館や福嶋酒造のある道から諏訪町へ歩く。諏訪町通りは日本の道百選に選ばれた石畳の道で、千本格子の家が続いている。(p.114~5)
 駅構内では、さっそく「おわら風の盆」のポスターが出迎えてくれました。古い木造の駅舎で、いま調べたところ、1927年9月の開業時に石川県の七尾線七尾駅を移築したものだそうです。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2019-12-07 06:22 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(73):井波(16.3)

 ギリシア風の古風な建物は井波美術館、1924(大正13)年に建てられた北陸銀行井波支店を利用したものです。作品の収蔵はしておらず、同人の方が持ち寄った地元の伝統産業である木彫、ブロンズ像や書などが展示してあるそうです。二十分ほどのんびり歩くと、豪壮な石垣が印象的な瑞泉寺に着きました。
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 石段をのぼると噂の山門がありました。山門を飾る精緻で躍動的な木彫のなんと見事なことよ、時が経つのも忘れて見惚れてしまいました。
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 それでは八日町通りを逆方向へ戻りましょう。木彫で飾られたさまざまな看板、電話ボックス、はてはバス停の標識。汲めども尽きぬ泉のように、種々の木彫があらわれて目を楽しませてくれます。
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 一心不乱に木を削る職人さんの姿も、外から見ることができました。
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 細い路地から見る八日通りの景観も風情があります。小雨が降ってきましたが、雨で光る石畳もまたいいものです。
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 交通広場の四阿では、軒にいる木彫の猫をお見逃しなく。あまり可愛くはありませんが。
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 というわけで、井波、いいですね。まだまだ見残したものがたくさんありそうです。先ほどの閑乗寺公園と併せて、必ずや再訪します。
 17:35発の高岡行きバスに乗り込み、一時間強で高岡駅前に着きました。夕食は、もちろんご当地B級グルメ二連発、ブラックラーメンと高岡コロッケです。幸い、駅前の「次元」というお店で両方食べることができました。ブラックラーメンは富山県で生まれたご当地ラーメン、戦後まもないころ。肉体労働者、食べ盛りの若者のための昼食として、"ごはんのおかず"になるような濃い味付けをしたのが始まりといわれています。醤油ベースの真っ黒いスープと大量にきかせた胡椒に舌鼓を打ちました。人によっては毀誉褒貶があるでしょうが、私は好きです。
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 高岡コロッケは、ものづくりの町として発展した高度成長期に共働きの家庭が増え、手軽で安価な惣菜として重宝がられたのが嚆矢のようです。ま、特別変わったコロッケではありませんが、それなりに美味しくいただきました。
 ホテルに戻ってシャワーを浴び、ビールと地酒を呑みながら明日の旅程に思いを馳せました。いよいよ最終日です。

 本日の五枚です。
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by sabasaba13 | 2019-12-06 10:19 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(72):井波(16.3)

 それでは瑞泉寺に続く石畳の通り、八日町通りを歩きましょう。曇り時々小雨のためか、はたまたまだ知られていないためか、観光客はほとんど見当たりません。静謐で情緒あふれる雰囲気を存分に味わうことができました。古い町屋と、家々を飾る木彫の数々、歩の進みもゆるくなります。
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 途中に史跡「翁塚と黒髪庵」があったので、立ち寄ってみました。解説文を転記します。
史跡 翁塚と黒髪庵
 庵の境内にある翁塚は、元禄13年(1700)に芭蕉の門弟であった井波の浪化が、師を慕って建てた塚である。
 瑞泉寺11代の浪化は、近江の義仲寺にある芭蕉の墓から小石三個を持ち帰り、この塚を建てた。台座に「是本本邦翁塚始也矣」とある。二年後の元禄15年には、芭蕉の遺髪も塚に納められた。この翁塚は伊賀上野の故郷塚、義仲寺の本廟とともに芭蕉三塚の一つとされている。
 黒髪庵は蕉門の心を不朽に残すため、北陸の俳人等が一板一柱を寄進して、文化7年(1810)に建てられた。
 ここでの句会には文台・硯・紙・水引だけが利用され、食事は茶飯と一汁一菜の簡素なものであった。町を訪れた俳人は、この庵で手厚くもてなされ、出発にはタバコ・鼻紙・ワラジが贈られた。
 その後、町の俳人達によって明治15年(1882)に芭蕉堂が建てられ、堂内に芭蕉像が安置された。

しつらひは 旅のやうなり 魂祭り    浪化
 いい話ですね。俳諧という芸術への敬愛、そして俳諧を通して結びついたネットワーク、江戸時代の民衆がもった文化的底力に敬意を表します。スマートフォンにうつつを抜かし魂を奪われ呆けた顔の現代人への、過去からの警鐘と受け止めましょう。
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by sabasaba13 | 2019-12-05 06:30 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(71):井波(16.3)

 閑乗寺公園から十分ほどで、木彫の町・井波に到着です。『一度は訪ねておきたい日本の町100選 小さな町小さな旅 東海・北陸』(山と渓谷社)から転記します。
 JR高岡駅から、果てしなく広がる砺波平野をバスで南下する。車窓に延々と映るのは屋敷林に囲まれた家が無数に点在する散居村の風景。見慣れぬ者にとってはじつに不思議な光景である。
 約1時間で井波に着く。ここは瑞泉寺の門前町として発展した町だ。
 瑞泉寺は室町時代前期に本願寺5代法王綽如(しゃくにょ)上人によって開かれた。越中一向宗王国の中心として370寺を支配し、「越中の府」といわれた名刹である。さすがにその構えは壮大だ。城壁のような石垣に囲まれ、山門は総ケヤキの重層伽藍造り。本堂と太子堂、鐘楼堂が広い境内に配置され、威風堂々としている。そして、何よりも圧巻なのは建造物に施されたおびただしい彫刻。特筆すべきは山門で、1階の屋根の上には模様の違う48枚の波板がはりめぐらされている。入口の頭上には今にも動き出しそうな精緻な「一疋龍」や仙人像があり、勅使門には親の深い愛情を表現した「獅子の子落し」が彫られている。
 瑞泉寺の門前、八日町通りは約200メートルも軒が連なる石畳の道だ。格子戸の町屋や袖壁をもつ家など古い町並みはしっとりとした趣がある。歩いていると窓辺には60本ほどのノミを並べている家があったり、また、4、5人の若者が獅子頭や欄間を黙々と彫っている工房がある。どこからともなく「トーン、トーン」と槌音も響き、別の家からの音も重なり、井波が欄間で名高い井波彫刻のふるさとであることを実感する。
 現在150軒もの木彫り師の家があり、全国から修業にきた若者も含めて約300人が伝統の匠の技を受け継いでいる。
 八日通りの数々の工房は透かしガラス越しに作業を見ることができ、見学が気軽にできる工房も多い。この"開かれた技の町"の光景は、はるばるやって来るだけの価値がある。通り沿いの家の表札はどこも木彫り。商店街の看板も、バスの停留場も、公衆電話も…。彫刻が湧き出てくるかと思うほど木彫りに囲まれ、一つずつ見ていると町歩きがわくわくするほど楽しくなってくる。
 そもそも井波彫刻の始まりも瑞泉寺である。宝暦12年(1762)の大火で瑞泉寺が焼失し、再建に際し京都の宮大工が棟梁として招かれ、24年の歳月をかけて完成した。その時京都から来たのが京都本願寺の御用彫刻師、前川三四郎らの彫り師であった。彼らは地元の宮大工とともに瑞泉寺の彫刻を手がけ、その技術が今に伝わっている。(p.120~1)
 タクシーに料金を払い、公衆トイレに駆け込み用を足していると、どこからともなく清新な香りが漂ってきます。その正体はネットに詰められた木屑、さすがは井波です。
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 近くにあった木彫をほどこしたモニュメントも見事のひと言。
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by sabasaba13 | 2019-12-04 06:30 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(70):閑乗寺公園(16.3)

 福光駅に戻り、城端線に二十分弱乗って砺波駅に到着。顔はめ看板を二枚撮影して、駅前でタクシーに乗り込みました。
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 そして井波を目指しますが、途中で二カ所、停車してもらいました。まずは二十分ほど走ったところにある井波町物産展示館です。まるでお寺のような威厳に溢れる重厚な建物ですが、実はかつて石動駅から庄川を結んだ加越能鉄道加越線の井波駅舎でした。瑞泉寺への玄関口にふさわしい建物として、井波を代表する宮大工松井角平恒茂(まついかくへいつねしげ)により、1934(昭和9)年に建てられました。1972(昭和47)年に廃線となったため、現在は物産展示館・バス待合所として利用されています。
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 そしてここから十分ほど坂道をのぼると、標高300メートルの高台にあり砺波平野の散居村を一望できる閑乗寺公園に着きました。タクシーには少し待ってもらって、展望台に行き写真を撮ることにしましょう。その前に、「となみ散居村ミュージアム」の公式サイトより、散居村についての説明を引用します。
 富山県の西部に位置する砺波平野は主に庄川と小矢部川が形成した扇状地です。
 およそ220キロ平方メートルの広さに屋敷林に囲まれた約7,000戸を超える家(農家)が点在する散居村が広がっています。
 砺波平野の散居村の成り立ちは、それぞれの農家が自分の周りの土地を開拓して米作りを行ってきたことに由来します。農地が自分の家の周りにあることは、扇状地上での田植え後の朝夕の水の管理、施肥などの管理、刈り取ったあとの稲の運搬など、日常の農作業をするためにはとても効率の良いことでした。
 また砺波平野の散居村の特徴としては、それぞれの家の周りに屋敷林をめぐらせてきたことです。この地方では屋敷林は「カイニョ」と呼ばれ、冬の冷たい季節風や吹雪、夏の日差しなどから家や人々の暮しを守ってくれました。スギの落ち葉や枝木などは毎日の炊事や風呂焚きの大切な燃料として利用されました。またスギやケヤキ、タケ等は家を新築する際の建材や様々な生活道具の用材としても利用されました。
 このように昔の散居村の人々は、自分の家の周りの農地を耕して米や野菜を作って生活し、日常生活に必要な資材を屋敷林から調達するという、きわめて自給自足に近い生活を送ってきました。
 散居村という集落形態は、砺波平野で暮らした先人たちが、自然に働きかけて自然との共生を図って残してくれた知恵の結晶といえるものです。
 なるほど、その土地の気候・地形・風土といった条件の中で、人びとが力の限り暮らしてきたという証なのですね。さきほどの合掌造りもそうでしたが、自然に逆らわない/自然と共に生きるということがポイントでしょう。私たちが学ばなければいけないものですね。
 しかしまことに残念なことに、曇天に加えて湿度が高く、散居村はぼんやりと霞みクリアに見ることはできませんでした。ぜひ晴天の日に再訪を期しましょう。とくに水を張った田んぼに夕陽が照り返す光景が見事なようです。ああ見てみたい。
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by sabasaba13 | 2019-12-03 06:21 | 中部 | Comments(0)