<   2020年 01月 ( 13 )   > この月の画像一覧

信州編(5):軽井沢タリアセン(16.8)

 なおアントニン・レーモンドの名前が出たついでに、一つエピソードを紹介しましょう。[参考文献:『建築探偵 神出鬼没』(藤森照信 朝日新聞社 p.108~9)] 日本で活躍したレーモンドは1938(昭和13)年にアメリカに帰国し、軍が立案した計画に参加することになります。それは「空襲」という日本の木造都市だけに有効な世界初の戦略で、アメリカ軍もその実効性には疑問がありました。そこで日本の都市や建築事情を知悉しているレーモンドを招き、彼の指導でユタ州に木造の町が作られ、繰り返し燃やされたそうです。戦後、彼は再び来日し活動を開始しますが、当然の如く日本の建築家から強い批判をあびることになります。しかし彼はこの計画に参加した理由については、黙して語りませんでした。藤森氏はその理由について、こう推測されています。レーモンドはチェコ出身で、彼が建築の勉強のため渡米した後、ナチス・ドイツによる侵攻が行われました。その際に、彼の五人の弟と妹は、ある者は国外脱出をはかって処刑され、ある者は強制収容所に送られて消息を絶ってしまいます。彼は、ナチス・ドイツと手を組む日本を叩くことによってしか、自分たちは救われないという思いがあったのではないか。そして以下は私の推測ですが、戦後彼が高崎の音楽センター建設に献身的に協力したのは、ある種の罪滅ぼしの意があったのではないか。うーむ、建築の歴史あり、ですね。
 それはさておき、彼が別荘兼仕事場として軽井沢に建てた「夏の家」が、ここ軽井沢タリアセンにペイネ美術館として保存されているのです。ル・コルビュジェから、盗作だとして抗議されたいわくつきの物件です。実は、この夏の家はコルビュジェへのオマージュであり、発表時にレーモンドは「主室はコルビジエの南米山荘(エラズリス邸)計画に依る」と和英両文で書いたのですが、その注釈に目がいかなかったコルビュジェから抗議文が来ました。結局、誤解は解けて、最終的には自身の案の精神を見事に解釈した作品として称賛したそうです。

 それではじっくりと拝見させていただきましょう。下見板張りの木造二階建てで、地に根づいたような平たく質朴な外観ですが、逆三角形の屋根がいいアクセントになっています。大きな窓が印象的ですが、美術館として利用されているためでしょう、雨戸で閉ざされているのが残念でした。
 中に入ると、広々とした空間が拡がり、大きな窓や開口部を開け放つと、緑の木立が目に入り、高原の爽やかな風が吹き込んでくるのだろうなと想像できます。ただいかんせん、ペイネの絵を飾るためにすべて閉ざされているのが無念です。あと内部の写真撮影も禁止でした。二階へは途中で折り返すゆるやかなスロープでのぼりますが、洒落た工夫ですね。これもコルビュジェの影響かな。二階は製図室として使われたそうですが、ここで若き日の吉村順三前川國男が修行していたと思うと感無量です。
 ああ、ええもん見せてもろた。それにしても美術館として使うのは本当に惜しいものです。関係者各位への強い要望ですが、ペイネ美術館は別の建物として、ここは「レーモンド夏の家」として、往時のままに復元して公開していただきたい。ペイネの作品を、A・レーモンドの建築の中で展示する必然性などまったくないのですから。善処を期待します。

 本日の二枚です。
信州編(5):軽井沢タリアセン(16.8)_c0051620_2241275.jpg

信州編(5):軽井沢タリアセン(16.8)_c0051620_2242338.jpg

by sabasaba13 | 2020-01-29 06:21 | 中部 | Comments(0)

信州編(4):軽井沢タリアセン(16.8)

 ここに来たお目当ては、ペイネ美術館です。いや、いつも寄り添う山高帽の男の子と愛らしい女の子をテーマにしたフランスの画家レイモン・ペイネの絵などはどうでもよく、この建物を見るためです。実はこの建物は、1935(昭和10)年に、アントニン・レーモンドによって設計された建築なのです。
 まずは彼のプロフィールを、エアスケープ建築設計事務所の「houzz」というサイトから引用します。簡にして要を得たすばらしい紹介です。
 チェコに生まれ、のちにアメリカ国籍を取得したレーモンド(1888-1976)が、フランス生まれのアーティストである妻のノエミ・ペルネッサンとともにライトのもとで働き始めたのは、1916年のことだった。1919年、帝国ホテル建設に携わるライトを手伝うため夫妻は東京にやって来る。それから40年以上にわたり日本で過ごすなかで、400件を超える設計を手掛け、レーモンド自身の仕事だけでなく、彼の事務所で働いていた吉村順三や前川國男らの仕事をとおして日本のモダニズム建築に大きな影響を与えることになる。
 師のライトと同じく、レーモンドも建物内で使う家具や照明すべてをノエミとともに設計しており、その土地の伝統や風土を尊重することが重要であると理解していた。1921年に独立して事務所を構えると、帝国ホテルと同じ現場打ち鉄筋コンクリートを使いながらも、その中に伝統的な日本の木造建築を思わせるディテールを加えるなど、ライトの影響下から脱する試みを始めている。またレーモンドは、1923年の関東大震災で多くの建物が崩壊してしまった東京で、フランス大使ポール・クローデルなどのために小規模な木造住宅をいくつか設計している。
 イタリア大使館別荘プロジェクトを引き受けたレーモンドは、ともに帝国ホテル設計にも携わっていた内山隈三、そして伝統的工法だけでなく新しい技術を取り入れることにも抵抗のなかった日光大工の名棟梁・赤坂藤吉と協働して作業を進めていった。赤坂は、オープンプランの間取りにも伝統的な尺貫法による間(けん)を用い、建材選びを助けたほか、天然の木材の扱いにおいて驚くべき能力を発揮した。モダンでありながら日本建築の伝統を反映したレーモンドのデザインは、用いた自然素材と絶妙に一体化しており、永久的に建物が周囲の環境に溶け込んでいるようだ。レーモンドはのちにこう記している。「日本は美しい国だ。ここでは、家のなかに自然を取り込んで人間がその恩恵を受け、身近に自然と触れながら健康的で現代的な生活を送るべきとされており、またそれが可能なのだ。」
 私は彼の建築が好きで、これまでもカトリック新発田教会聖パウロ教会東京女子大学群馬音楽センターイタリア大使館別荘を訪れたことがあります。
by sabasaba13 | 2020-01-27 06:18 | 中部 | Comments(0)

信州編(3):軽井沢タリアセン(16.8)

 それでは軽井沢タリアセンへと向かいましょう。緑の木立の間を走り抜け、中軽井沢を通り過ぎて一路南下、三十分ほどで到着しました。
信州編(3):軽井沢タリアセン(16.8)_c0051620_21522185.jpg

 塩沢湖を中心として、軽井沢高原文庫・ペイネ美術館・深沢紅子野の花美術館や遊戯施設、レストラン、ショップなどが集まった有料のリゾート施設です。なお公式サイトによると、「タリアセン」とは直訳すれば、ウェールズ語で「輝ける額」という意味です。もともとの語源はケルト神話に由来し「知恵者」であり芸術をつかさどる妖精「タリエシン」から、といわれています。しかし、どうしてもフランク・ロイド・ライトの住んだ地と、そこで営まれたコミュニティを思い起こしてしまいます。『帝国ホテル・ライト館の謎』(山口由美 集英社新書0054)から引用します。
 1911年、シカゴで住宅建築家として成功を収めた彼は、そのスプリンググリーンに一人の女性を伴って帰って来た。しかしそれは故郷に錦を飾る、というような性格の帰郷ではなかった。なぜなら、ライトは、その時、スキャンダルのさなかにいたからである。彼自身も、そして彼が伴っていた女性も、それぞれに家族がいる立場だった。
 今世紀初頭、しかもシカゴというのは、保守的な都市だったという。不倫の恋は、現在の私たちが想像する以上にスキャンダラスな響きを持っていたはずだ。ママー・ボーズウィック・チェニーというその女性は、ライトが住宅の設計を依頼された施工主の妻だった。
 そんな息子に、母アンナは二人が安心して暮らせる場所として、スプリンググリーンの土地を買い与えたのである。緩やかな起伏の小高い丘があるそこは、ジェームズ叔父の農場にいた少年時代のライトが、とりわけ気に入っていた場所だった。
 ライトは、その丘を「タリアセン」と命名した。
 「タリアセン」とはウェールズ語で、「シャイニング・ブロウ(輝ける眉骨)」を意味する。ウェールズの伝説に登場する吟遊詩人の名前でもあるという。神秘的で、でもなぜか耳に快く、不思議と記憶に残る名称である。
 以来、ライトは生涯、1959年に亡くなるまで、このタリアセンに生活の本拠をおいた。後に、彼はアリゾナのスコッツデールを冬の本拠とするようになったが、ここも「タリアセン・ウェスト」と命名した。さらには最晩年、ニューヨークに建設していたグッゲンハイム美術館のプロジェクトのための拠点として、セントラルパークにほど近いプラザホテルにも部屋を持ったが、それさえもタリアセンの人々は親しみをこめて「タリアセン・イースト」とニックネームのように呼んだのだった。
 すなわち、ライトが行くところ、住むところ、すべてが「タリアセン」なのであり、その原点となったのが、ウィスコンシン州のスプリングリーンだったのである。
 そして、スプリングリーンのその丘には、今もタリアセンがある。
 単に建物が建っているというだけの意味ではなく、生活の場として、さらには創造の場としてのタリアセンが、ライトの生きていたころ、そのままにある。どういうことかと言えば、ライトは、ここで建築家を志す若者を集めて学校のような共同体を運営していたのである。それが、ライトの死から四十年たった今なお続いているのだ。
 早くからタリアセンでは数人の弟子が同居するということはあった。たとえば、帝国ホテルのプロジェクトで助手として活躍した遠藤新も、1917年から18年にかけてタリアセンに滞在している。だが、共同体としてのタリアセンが本格的に機能するようになったのは、それを「タリアセン・フェローシップ」と命名した1932年からである。共同体の運営を後押ししたのが、三番目の妻オルギヴァンナ・ラゾヴィッチ・ヒンゼンバーグ。ライトと共にタリアセンで暮らした三人目の女性だった。
 かつての「タリアセン・フェローシップ」は、学校であって、学校でなく、卒業という概念もなければ、学位を取ることも出来なかった。でも、現在は建築の学位を取ることも可能だし、かなり普通の学校に近い形で運営されている。決定的な違いと言えば、そこで学ぶ者たちが「スチューデント(学生)」ではなく、ライト時代からの伝統に従って「アプレンティス(徒弟)」と呼ばれていることくらいだろうか。
 それでも、かつて、ライトのもとにつどった者たちが八十歳を過ぎてもなおタリアセンにとどまって、若いアプレンティスたちと共に暮らしているというのは、かなり不思議な光景だ。今は「フェローシップ」という名称で呼ばれる長老の彼らが若かったころ、タリアセンでは、農場で野菜を育て、家畜を飼い、自給自足に近い生活が営まれていた。毎日の生活を支えるための労働は、時に、建築の勉強よりも優先されたという。
 帝国ホテルをライトに発注した当時の支配人・林愛作の五男である林七郎は、1952年、ライトに招かれタリアセンに学んでいるが、彼はタリアセンという共同体の特殊性になじめなかったという。
 ニューヨークに林七郎を初めて訪ねたのは、95年の9月だったが、その時、彼はタリアセンのことを当時、世間を騒がせていたオウム真理教に喩えたことが、私には鮮明な印象として残っている。
 もちろん、タリアセンに、オウム真理教のような危険思想はないが、一人のカリスマ的人物を中心に、その思想と生活が一体化された団体ということでは、共通するものがあるのかもしれない。(p.22~5)
 ここまで意識はしていないでしょうが。ま、それはさておき、入園料を払って中に入りました。幸い好天に恵まれて、青い空と白い雲、木々と湖面の緑を楽しむことができました。
信州編(3):軽井沢タリアセン(16.8)_c0051620_2153887.jpg

信州編(3):軽井沢タリアセン(16.8)_c0051620_21532393.jpg

by sabasaba13 | 2020-01-25 07:35 | 中部 | Comments(0)

信州編(2):軽井沢(16.8)

 練馬駅までブロンプトンで走り、折りたたんで輪行袋に入れて、ゴロゴロと駅構内を転がします。実は折りたたむと下部になるキャリア(荷台)に小さい車輪が四つついているので、転がせるのですね。いやはやよく考えられています。西武池袋線で池袋まで行き、JR埼京線に乗り換えて大宮へ、そして新幹線に乗ってまずは軽井沢に着きました。軽井沢駅構内にあった観光案内所で地図やパンフレットをいただいてざっくり読むと、近衛文麿らが過ごした洋風別荘が「市村記念館」として公開されていることを知りました。これはぜひ見たい、急遽、旅程に組み込むことにしました。
 それでは組み立てますか。輪行袋から出して、サドルを上げ、片方のペダルを元に戻し、折れ曲がっている部分二か所を元に戻して指で螺子を締めるだけで完成。ほんとうに一分もかかりません。ほんとうに優れ物です。駅前でブロンプトンを組み立てて一服していると、目の前に廃線となった信越本線の線路が残されていることに気づきました。1997(平成9)年、北陸新幹線の開業にともない、碓氷峠を越える横川駅-軽井沢駅間が廃止されましたが、その名残でしょう。新幹線の恩恵はたしかに蒙っていますが、のんびりと車窓を流れる風景を眺められる普通列車も運行していただきたいものです。それが"大人の国"ってもんじゃないですかね。
 さて、まず向かうは旧軽井沢です。清新な空気をすいながら軽井沢本通りを快走、いやあほんとにこやつはよく走ります。ういやつじゃ。♪みどりの風もさわやかに にぎるハンドル心も軽く サイクリングサイクリング ヤッホーヤッホー♪と、誰も知らないような歌をくちずさみながら十数分ペダルをこぐと旧軽にとうちゃこ。お目当ては軽井沢ユニオン・チャーチという教会です。何とも武骨で朴訥とした建物ですが、壁面を埋め尽くす窓が軽やかな印象をかもしだしています。軽井澤銀座商店会のHPから引用します。
 明治30年(1897年)軽井沢合同基督教会として、ユニオンチャーチが設立されました。国籍も教派も問わず誰もが集える教会として作られましたが当時は外国人のために作られたもので日本人の利用は有りませんでした。現在でも夏になると大勢の外国人の方が集っています。今でも設立当時の思想を守り続けている教会です。教会そのものは夏期以外は閉まっていますが、日本語学校は通年開校されています。有名な建築家ウイリアム・ボーリスの設計で改築されています。
 そう、実は私の大好きな建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが設計した教会です。上手く言えないのですが、住んでみたくなるような落ち着いた雰囲気の洗練された佇まいに魅かれます。以前に近江八幡でヴォーリズ建築めぐりをしたことが、懐かしく思い起こされます。すぐ隣にあるのが、上皇夫妻が出会ったというテニスコートですね。
 そうそう、本を忘れたので買わなければ。幸い、古本屋があったので入店し、しばし物色。何気なく選んだのがH・G・ウェルズの『透明人間』です。申し遅れましたが、ブロンプトンにはスタンドがなく、後部を折りたたんで停めることになります。その姿がけっこう愛くるしくて気に入っております。その姿を見た若い女性たちが、「きゃー、可愛い、犬のおすわりみたい!」と宣うではありませんか。どや顔で「もんだどんない」と呟くわたし。わかっております、偉いのは私ではなく、設計をしたアンドリュー・リッチー氏です。その近くには「世界一旧軽銀座に近い駐車場」という看板がありました。
信州編(2):軽井沢(16.8)_c0051620_21322084.jpg

 本日の二枚です。
信州編(2):軽井沢(16.8)_c0051620_21323942.jpg

信州編(2):軽井沢(16.8)_c0051620_21325178.jpg

by sabasaba13 | 2020-01-23 06:19 | 中部 | Comments(0)

信州編(1):前口上(16.8)

 やった。2016年7月、世界最高の折りたたみ自転車BROMPTON-M6Rを買いました。

 私には会社勤めをしている甥がいるのですが、彼は大の自転車好き。さまざまなタイプの自転車を購入・カスタマイズしてツーリングをし、自転車生活を満喫しています。私も自転車が好きなので、彼とは気が合い、酒の席ではその話で大いに盛り上がります。
 ある晩、飲み屋で例の如く自転車について話していると、彼が「おじさん、BROMPTONっていう自転車を知ってる?」と訊いてきました。ぶろんぷとん? いや、初耳です。彼が言うには、イギリス製の自転車で、折りたたみ・復元が約一分ででき、大きなコインロッカーに納まるくらいのコンパクト・サイズになるという優れもの。しかも走りも素晴らしく、階段の上か転げ落としてもびくともしない頑丈さだそうです。嬉々としてブロンプトンの素晴らしさを語る甥の目の輝きに、これは本物だなと直感しました。しかしお値段が約20万円という高額だそうです。しかし、どうしても欲しい。旅に行くと、現地で自転車を借りて散策をするのですが、レンタサイクルがない所がけっこうあります。また全て出払っていたり、整備不良で乗りにくかったりと、けっこう苦労することがままありました。ブロンプトンさえあれば、翼のある黄金のサンダルを履いたヘルメスのように、自由に飛び回ることができます。これはそそられる。家に帰って山ノ神の神託を得たうえで、一念発起、購入することにしました。
 数日後の休日、東京の荻窪にあるブロンプトンの専門店、和田サイクルに行き、即金で黒のBROMPTON-M6Rを買いました。内装算段・外装二段の変速機とキャリア付きで190,000円、カバーとサドルバッグ7,000円、ライト2,500円、鍵1,600円、防犯登録手数料500円。私としてはかなり思い切った買い物でしたが、まったく後悔はしておりません。良い買い物をしました。
 なおサイクルハウスしぶやという自転車屋さんのサイトで、ブロンプトンについての説明がありましたので、引用します。
 ブロンプトンは、アンドリュー・リッチーによって発明され、今もロンドン郊外のブレントフォードにある工場で、手作りに近い状態で生産されている。アンドリューは、ケンブリッジ大学卒業後、コンピュータや、コンピュータソフト関連のメーカーにエンジニアとして勤めた。その後、一転、造園設計の仕事についた。そこで、自然や環境汚染について考えるようになったアンドリューが、1台の折りたたみ自転車を思いついたのが75年のこと。それから10余年。86年に、初の量販車30台を発売。「ブロンプトン」という名前は、アンドリューが生まれ育ったロンドン市内のブロンプトン・ビレッジに由来する。当時から現在に至るまで、瞬時に小さく簡単に折りたためる方式を踏襲。また、年間16000台以上を生産するようになった現在も、パーツの80%以上を自社生産か、専用設計のものを使うことで、安定した品質をコントロールしている。06年モデルでは、軽量化を狙ったチタニウム・フレームや、チタニウム・パーツを使った新製品が追加され、はじめて10kgを切るモデルが誕生。現在は、都市部への自動車の流入が規制されるヨーロッパ各都市で電車やバスの交通網の隙間を埋める画期的な交通手段として評価され、年々需要が増加している。
 その意気やよし。イヴァン・イリイチも『シャドウ・ワーク』(岩波現代文庫)の中でこう言っています。
 都市の自転車交通は、徒歩の四分の一のエネルギー消費で、四倍の速さの移動を可能にする。ところが、自動車は同じだけ進むために、一人一マイルにつき百五十倍の熱量を必要とする。(p.141)
 都市部への自動車の流入がまったく規制されず野放図な日本、この後進国を少しでも良い方向へ変えるためにも、自転車をおおいに利用していきたいと思います。
 なおロンドンでは、このブロンプトンを地下鉄に持ち込んで通勤をしている会社員もいるそうです。さらにビジネス・スーツを着て走り競うブロンプトンの自転車レースもあるそうな。見てみたいものですね。

 というわけで、二泊三日で信州を走り回る、ブロンプトンを持参しての初旅行を2016年8月に敢行してきました。持参した本は…持っていくのを忘れました。やれやれ、現地で買うことにしましょう。
信州編(1):前口上(16.8)_c0051620_20103037.jpg

by sabasaba13 | 2020-01-21 09:04 | 中部 | Comments(0)

御殿場編(11):二岡神社(16.5)

 それではJR御殿場駅に戻って、帰郷することにしましょう。途中に二岡神社という看板があったので、寄ってみることにしました。社務所もなく、鬱蒼とした古木が林立する荘厳な雰囲気の神社でした。「広岡浅子と村岡花子」という解説板があり、要領の得ない短い解説と数葉の写真が掲示してありました。
御殿場編(11):二岡神社(16.5)_c0051620_21534987.jpg

 どうやら広岡浅子がこのあたりに住んでいて、夏に勉強会を開き、そこに村岡花子らが参加していたようです。「小学館版 学習まんが人物館 広岡浅子(大谷じろう・原口泉 小学館)の解説が、簡にして要を得ているので紹介します。
 幕末に京都の豪商・三井家に生まれ、幼少期はおてんばで読書好きだったという浅子。大阪の豪商・加島屋に嫁いだ彼女は、加島屋のために、新しい日本のために、走り回ります。
 九州・筑豊での炭鉱事業、銀行の設立、大同生命保険の創業、日本初の女子大学校設立への尽力……まだまだ男性が中心だった社会で、どんな苦難にあっても決してあきらめず、さまざまなビジネスに挑戦し続けた彼女の座右の銘は「九転十起」でした。
 実業界引退後は、女子のための勉強会を主催、「赤毛のアン」の翻訳者・村岡花子や、女性運動家・市川房枝らが参加しました。
 浅子が創業に尽力した大同生命保険は、2017年に創業115周年を迎えます。広岡浅子が生命保険事業に託した「社会の救済」と「人々の生活の安定」という想いは、今もなお同社に受け継がれています。
 なるほど、その勉強会がこのあたりで開かれていたのですね、これは良い史跡に出会えました。帰宅後、インターネットで調べてみると、村岡花子はこの森が好きで、勉強会の自由時間にやってきて、手紙を書いたり、木陰で本を読んだりしていたそうです。また神秘的な雰囲気の森に魅かれて、映画・ドラマ・CMなどのロケ地としてよく使われる神社だそうです。黒澤明監督の『七人の侍』、北野武監督の『座頭市』、中居正広さん主演『私は貝になりたい』、テレビドラマ『JIN-仁-』などなど。久しぶりに『七人の侍』を見直したくなりました。

 そして御殿場駅前の観光案内所に自転車を返却、近くの公衆便所の男女トイレ表示を撮影し、帰宅の途につきました。
御殿場編(11):二岡神社(16.5)_c0051620_21551199.jpg

 本日の一枚です。
御殿場編(11):二岡神社(16.5)_c0051620_21561762.jpg

by sabasaba13 | 2020-01-19 07:26 | 中部 | Comments(0)

御殿場編(10):平和公園(16.5)

 そして富士山の眺望が素晴らしいという平和公園へと向かいました。ペダルをこぐこと約15分、ずっと上りの坂道だったのですが、電動アシスト自転車のおかげで苦もなく辿り着けました。1964(昭和39)年に、御殿場市出身の三徳の社長の堀内定良が私財を投じて開いた公園で、インドのジャワハルラール・ネルー首相から贈られた仏舎利が納められている仏舎利塔がシンボルです。肝心の富士山ですが…相変わらず山容全体がおぼろげに浮かび上がるのみ。ぜひ再訪を期しましょう。なお「人類之平和」と刻まされた勝間田清一の銅像がありました。
御殿場編(10):平和公園(16.5)_c0051620_21464690.jpg

 後学のためにインターネットで調べた彼のプロフィールについて転記しておきます。
勝間田清一 かつまたせいいち (1908―1989)
 政治家。明治41年2月11日静岡県に生まれる。1931年(昭和6)京都帝国大学農学部卒業。財団法人協調会、内閣調査局、企画院調査官を経て、1941年4月、大政翼賛会組織局九州班長当時、企画院事件に連座。1947年(昭和22)総選挙で社会党から当選(静岡2区)、以後1983年総選挙まで当選14回。片山内閣時代、和田博雄経済安定本部総務長官の秘書官を務めた。1967~1968年社会党初の戦後派党首となる。官僚経験を生かし政策通として活躍するほか、革命方式をめぐる1950年の森戸・稲村論争の調整役を果たし、社会主義理論委員会事務局長として構造改革論争も取りまとめた。1983年12月衆議院副議長となる。1986年に政界を引退。

 本日の一枚です。
御殿場編(10):平和公園(16.5)_c0051620_21471910.jpg

by sabasaba13 | 2020-01-17 06:26 | 中部 | Comments(0)

御殿場編(9):秩父宮記念公園(16.5)

 さて、秩父宮に関して、『昭和史発掘』(松本清張 文春文庫)の中に、気になる一文があります。

 宮廷の内部を知悉し、ときどきの情報を木戸より得ていた西園寺の云うことだから、いい加減な話ではない。しかも「賢い方だらうがとにかくやはり婦人」である皇太后に西園寺はそうする。
 どういう「憂慮するやうなことが起り」そうなのか内容は分らないが、およその推測はできる。その一つの参考となるのに、皇太后は秩父宮を溺愛していたという通説がある。
 二・二六事件発生後、弘前より急いで上京参内した秩父宮に対し天皇が大いに不機嫌だったこと、宮中からまっすぐ大宮御所に入った秩父宮が皇太后のもとにかなり長い時間とどまっていたということ、また、天皇が「叛徒の撃滅」に異常なほど熱心だったことなども、一つの示唆となろう。(⑧p.429~30)

 昭和天皇と秩父宮の関係、たいへん気になります。手持ちの歴史書を紐解いたのですが、詳しく分析したものはありませんでした。いたしかたない、論拠は不分明ですが、いくつかのサイトを参考にして、私なりにまとめてみました。

 兄の昭和天皇と一歳年下の弟の秩父宮は気性や性格が対照的で、幼少のときから意見の相違や対立があり、あまり親しいとはいえませんでした。研究者肌の天皇とは対照的に秩父宮はスポーツ万能の爽やかな長身の青年であり、かつて兄を"鈍行馬車"と評したように、俊敏で豪気な秩父宮には、"ゆっくりのんびり"で、「食事に一時間もかかるような」兄を、内心軽侮する気持があったようです。そして陸大を優秀な成績で卒業し、歩兵第3連隊時代には兵と共に泥まみれになりながら軍務に励むなど、軍人の信望を集めていたのは、昭和天皇ではなく秩父宮でした。
 そして昭和恐慌、満州事変、その前後に起きたクーデター未遂事件(三月事件・十月事件)など、激動の時期を迎えると、総力戦体制構築のための国家改造の動きが、軍部や青年将校の一部からわきおこります。秩父宮も西田税北一輝,さらには歩兵第3連隊の青年将校らの影響を受け、国家改造へと考えが変わっていきました。こうした動きを警戒した昭和天皇は、1935(昭和10)年に秩父宮を青森県弘前の連隊に異動させてしまいました。
 そうした中、二・二六事件が起こりました(1936)。中心となった青年将校たちは、秩父宮を擁立して国家改造・昭和維新を決行しようとし、秩父宮もこれに協力する意思があったようです。この際、昭和天皇は侍従に「決起したのは歩兵第3連隊か?」と尋ねました。侍従がそうです、と答えると「それは、かつて秩父宮が勤務していた部隊だな」と言ってから、「秩父宮は弘前の連隊にいるはずだが所在を確認してくれ」と命じました。
 ところが決起を知った秩父宮は、翌日の2月27日に弘前から上京の途についていました。この上京を知った青年将校たちは自分たちの維新がいよいよ果たされるのだと奮起します。しかしその動きを予め警戒していた天皇は秩父宮を監視していました。この時も秩父宮と将校たちを合流させないよう、憲兵を派遣して天皇の御所へと連れてきました。昭和天皇と会い、恫喝された秩父宮はここでクーデターを諦め、将校たちを裏切ります。後ろ盾を失った将校たちは意気消沈し、二・二六事件は鎮圧されることになりました。
 後日談です。秩父宮は1940(昭和15)年以降、長期療養生活に入りますが、昭和天皇はただの一回も見舞っていません。実は秩父宮が頑なに、見舞いを断りつづけていたのだと言います。そして1953(昭和28)年1月4日に逝去、享年50歳。その直前、秩父宮は「遺体は解剖するように」と言い残していました。これは毒殺されたと自身も思っていたからこその発言でしょう。この解剖結果は公表されていません。その葬儀に昭和天皇は出席しなかったことも付記しておきましょう。

 というわけで、何分研究書を読むことができなかったので、真相について確言はできません。ただ荒唐無稽の与太話でもなさそうです。いずれにしても、岸信介、松岡洋右、秩父宮といった戦前日本のキー・パースンたちがここ御殿場に別荘を構えていたことは興味深いですね。
by sabasaba13 | 2020-01-15 06:28 | 中部 | Comments(0)

御殿場編(8):秩父宮記念公園(16.5)

 それでは秩父宮記念公園へと参りましょう。途中に、湖面に映る逆さ富士の姿が美しいという東山湖という人造湖に寄りましたが、残念ながら薄雲のなかでおぼろげにしか見えませんでした。なおこちらはスポーツフィッシングのメッカとしても有名だそうで、太公望たちが釣果を競っていました。
 そして秩父宮記念公園にとうちゃこ。まずはデジタル版 日本人名大辞典+Plusから引用します。
秩父宮雍仁(やすひと)親王 (1902-1953)
 大正天皇の第2皇子。明治35年6月25日生まれ。母は貞明皇后。オックスフォード大に留学。昭和3年松平恒雄の長女勢津子と結婚。12年イギリス国王ジョージ6世の戴冠式に天皇名代で参列。登山をはじめスポーツ好きで知られた。20年陸軍少将。昭和28年1月4日死去。50歳。陸軍大学校卒。
 ここ秩父宮記念公園は、秩父宮雍仁親王夫妻が過ごした元別邸を整備、公開した公園です。元々は、血盟団事件で暗殺された井上準之助蔵相の元別荘でしたが、1941(昭和16)年に宮家が購入して秩父宮御殿場御別邸とされ、戦中戦後の時期をここで過ごしました。
 それでは中へ入りましょう。檜の並木をすこし歩くと、市内の農家から移築された1723年築の茅葺屋根の母屋がありました。その前にある、富士山に対峙する登山服姿の秩父宮像は、朝倉文夫作だそうです。
御殿場編(8):秩父宮記念公園(16.5)_c0051620_21293714.jpg

 なお将校用防空壕が公開されているという掲示があったので、まずそちらへ行ってみました。
御殿場編(8):秩父宮記念公園(16.5)_c0051620_21312681.jpg

 コンクリートでがっちりと作られたいかにも頑丈そうなもので、これなら爆弾にも耐えられそうです。庶民のためにもこうした防空壕をつくれば、犠牲も減ったであろうに。それは無理だろうって? いや「国民を守る」という志さえあればできたはずです。実際、ヴェトナムではつくったのですから。『一人の声が世界を変えた!』(伊藤千尋 新日本出版社)から引用します。
 1972年12月の12日間にわたってアメリカ軍は首都ハノイを空襲した。…8万トンの爆弾が落とされ、市民1318人がなくなった。…東京大空襲…一晩で10万人が死んだ…爆弾は1700トンだった。
 それは防空壕の違いだ。ハノイの防空壕は、…トンネルのように深く掘られていた。しかも、道路のあちこちに防空壕が完備されていた。軍と市民が総出で空襲に備えたのだ。これに対して日本の防空壕の多くは役に立たなかった。防空壕として用をなしたのは皇居と陸軍本営だけだったと言われる。
 つまり、ベトナムと日本では、守るべき対象が違ったのだ。ベトナムは国をあげて国民を守ろうとした。しかし、アジア太平洋戦争当時の日本が守ろうとしたのは皇居と陸軍だけだったのだ。
 同じことを作家の司馬遼太郎氏が書いている。戦争末期に司馬氏がいた東京郊外の戦車隊に大本営から参謀が来て、敵軍が東京湾に上陸したさいの行動を示した。皇居を目指して進軍せよという内容だった。これに対して素朴な質問が出た。都心から逃げてくる市民が道路をふさいで戦車は通れないのではないか、というものだ。参謀は「軍の行方をじゃまするヤツは非国民だからひいて行け」と言ったという。日本の陸軍にとって国民の命などどうでもよかったのだ。彼らが守ろうとしたのは国民ではない。国体と軍隊だけだった。ベトナムは違う。国民を守ろうとした。
 国民を守ろうとした政府、この政府をもり立てて超大国に負けまいとした国民。ベトナム戦争で小国ベトナムが勝った理由はここにも見て取れる。国民に死ねと言い指導者のみが生き残りをはかるような政権を、国民はどうして心から支持できるだろうか。
 国家と国民が同じ意味になったときに初めて、人は自立して戦うのだ。(p.125~7)
 往時も今も、この"棄民"の国は変わっていないのですね。国民を犠牲にして権力者や富裕者が利権を貪り、そうした国のあり方に多くの人びとが疑問を持たない。国民の生命や生活や財産を守ることが国家の存在理由であり、その使命を全うしようとしない国家権力は首をすげ替えてしかるべきなのにね。そうそう、『週刊金曜日』(№1246 19.8.30)に、『暮しの手帖』の創刊者である花森安治の、「見よぼくらの一銭五厘の旗」という詩の一部が紹介されていました。
 民主々義の〈民〉は庶民の民だ/ぼくらの暮しを 何よりも第一にするということだ/ぼくらの暮しと 企業の利益とがぶつかったら 企業を倒す ということだ/ぼくらの暮しと政府の考え方が ぶつかったら 政府を倒す ということだ (p.18)
 なお秩父宮夫妻の防空壕は発掘・調査中で中には入れませんでした。解説板に、勢津子夫人が書いた『銀のボンボニエール』(主婦の友社)の一節が記されていました。
 七月三十日、空襲警報が鳴ったと思うと、御殿場駅の方角でドカーンという大きい音がつづけざまに聞こえてきました。私にもそれが爆弾の音だとすぐにわかりました。御殿場駅から東へ三キロのこの地もいよいよ危ないと思い、手伝いの者と急ぎ走って帰り、宮さまを皆で囲むようにして初めて防空壕に退避いたしました。後で聞くところによりますが、艦載機数機が御殿場駅構内を機銃掃射し、駅付近に五十キロ爆弾を八個投下したということです。
 そして母屋の内部を見学。囲炉裏のある座敷や椅子・テーブルのある洋間などを拝見しました。
御殿場編(8):秩父宮記念公園(16.5)_c0051620_21314353.jpg

 本日の二枚です。
御殿場編(8):秩父宮記念公園(16.5)_c0051620_2132538.jpg

御殿場編(8):秩父宮記念公園(16.5)_c0051620_21321965.jpg

by sabasaba13 | 2020-01-13 07:58 | 中部 | Comments(0)

御殿場編(7):松岡別荘陶磁器館(16.5)

 東山旧岸邸から、自転車に乗って数分のところにあるのが松岡別荘陶磁器館、外務大臣を勤めた松岡洋右の別荘です。奇しくも「二キ三スケ」のうちの二人の別荘が近接しているのですね。もちろん二人は旧知の仲で、しかも血はつながっていないものの姻戚であるそうです。岸は、松岡の別荘を何度も訪れて御殿場が気に入ったとのことです。
 まずは日本大百科全書(ニッポニカ)から引用します。
松岡洋右 (1880―1946)
 大正・昭和期の外交官、政治家。明治13年3月4日山口県に生まれる。1893年(明治26)渡米し、苦学してオレゴン州立大学を卒業。1904年(明治37)交官となり、中国などに勤務。満蒙への勢力拡大に関心をもつようになり、寺内正毅内閣の時期には首相・外相秘書官としてシベリア出兵を促した。1921年(大正10)満鉄理事となる。1927年田中義一内閣により副社長(のち副総裁と改称)に任ぜられ、内閣の「満蒙分離政策」を支持して満蒙五鉄道建設を図ったが、内閣倒壊で挫折。1929年満鉄を去り、1930年政友会代議士となった。幣原外交を非難・攻撃し「自主外交」を唱え、満州事変後の1933年、国際連盟特別総会(ジュネーブ)に日本首席代表として出席、熱弁を振るったが、「満州国」が否認されたため退場した。1935年満鉄総裁となり、軍部と結んで華北侵略政策を進め、1940年第二次近衛文麿内閣の外相となり日独伊三国同盟を結び、1941年には日ソ中立条約を結んだ。敗戦後、極東国際軍事裁判でA級戦犯に指定され、昭和21年6月27日獄中で病死した。
 外観はハーフ・ティンバーに白壁の、瀟洒な山荘風のつくりです。それでは中を見学することにいたしましょう。館長らしきご老人がにこやかに出迎えてくれましたが、聞いてびっくり、松岡洋右の四男、志郎氏でした。一階は陶磁器の展示、二階に松岡洋右に関する品々が所狭しと並べられていました。
御殿場編(7):松岡別荘陶磁器館(16.5)_c0051620_21112349.jpg

 さて、日独伊三国同盟を結び、対米戦争への扉を開いた松岡外交をどう評価すべきなのでしょうか。『近衛文麿 教養主義的ポピュリストの悲劇』(筒井清忠 岩波現代文庫)から引用します。
 いわゆる松岡外交とそれをめぐる近衛首相の態度の評価は難しいところがある。すでに述べたように三国同盟は二重の意味でナチス・ドイツの詐術にかかった外交であった。松岡・近衛でなくても引っかかったかもしれないが、やはりこの二人だったから引っかかりやすかったといえよう。そして独ソ戦の開始を見抜けずに結んだ日ソ中立条約も日米交渉の停滞も松岡の責任であった。
 この二人の結果責任の大きさはいうまでもない。しかし、松岡が当時このような外交を実施することで国民的人気を博していたことも事実である。「彼のねらった後盾の一つは(中略)民衆の世論の力だった」「世論政治家をもって自任した松岡は、大衆の人気をあつめることにつとめた。事実、彼は人気とりが上手で、当時の政治家中彼ほど世間に人気のある者はなかった。(中略)彼の行くところ、沿道人垣を築くことは珍しくなかった」とは、側近(外務省顧問)として松岡外相を支え続けた人(斎藤良衛)の言である。松岡の演説会は大盛況だった。特に欧ソ歴訪の旅を終えて帰国した後の日比谷公会堂での第一声は「近衛をはじめ当時の政治家ひどくこきおろし」人気は高まった。
 そして、松岡はついには国民的人気を背景に近衛内閣に変わる松岡内閣まで構想するに至っていた。
 松岡のアクロバチックな外交は国民の好むところだったのである。それは指導者と大衆の合作によるポピュリズム外交の典型だったのであり、近衛による松岡の更迭は一人のポピュリストによる他のポピュリストの放逐なのであった。ただし、この時点では、残ったポピュリストはもう現実政治家としてそのポピュリスト性を薄めつつあったのではあるが。(p.239~40)
 "指導者と大衆の合作によるポピュリズム外交"、覆轍を踏まないようにしたいものです。「嫌韓」を煽る政府、政府にあおられて「嫌韓」を叫ぶ人びと、その支持を得るためにさらに「嫌韓」を煽る政府。かなり不気味な雰囲気の今だからこそ。
 そしてA級戦犯に指定されて獄中で死亡した松岡洋右と、A級戦犯容疑者となるも釈放され首相となった岸信介。二人の明暗を分けたのは何だったのでしょう。やはりアメリカの*を舐めたか舐めなかったかの違いなのかな。

 本日の二枚です。
御殿場編(7):松岡別荘陶磁器館(16.5)_c0051620_211329.jpg

御殿場編(7):松岡別荘陶磁器館(16.5)_c0051620_21131560.jpg

by sabasaba13 | 2020-01-11 06:28 | 中部 | Comments(0)