御殿場編(3):東山旧岸邸(16.5)

 足の向くまま気の向くままに歩いていると、水を張った田んぼに出会えました。しかし残念ながら富士は相変わらず雲の中、天辺だけがかろうじて見えるだけです。雲がなければ、見事な逆さ富士を映しているだろうになあ。再訪を期しましょう。
 そしてバスに乗って御殿場駅前へ。駅前の観光案内所で地図をもらい、電動アシスト自転車を借りました。めざすは東山旧岸邸ですが、小腹がへったので途中にあった「福乃家」で鶏天丼+うどんセットをいただきました。味は可もなし不可もなし、それにつけても金の欲しさよ。
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 笑う山と新緑をきれいに映す田んぼを撮影してしばらくペダルをこぐと、東山旧岸邸に着きました。いきなりエントランスが素晴らしい。檜皮と竹でつくられた塀、茅葺きの小さな門、そしてしたたるように瑞々しい竹林と樹々の新緑。思わず見惚れてしまいました。緑に包まれた小路を歩いていくと、旧岸邸があらわれました。公式サイトから引用します。
 東山旧岸邸は、首相を務めた岸信介の自邸として1969(昭和44)年に建てられました。その後、30年ほどのときを経て、2003(平成15)年に御殿場市に寄贈されたあと、一般公開されました。2009(平成21)年からは、和菓子の虎屋のグループ会社である株式会社虎玄が指定管理者として管理運営を行なっています。建築家・吉田五十八の晩年の作品であるこの邸宅は、施主・岸信介の生活に配慮しつつ、伝統的な数寄屋建築の美と、現代的な住まいとしての機能の両立を目指して設計されました。御殿場のゆたかな自然のなかで、歴史を刻みつづける邸宅と、敷地内の庭園とをあわせて、どうぞ、ゆっくりとお楽しみください。

 建築家・吉田五十八は、東京美術学校(現・東京藝術大学)卒業後の1925(大正14)年に当時あこがれていた新建築を肌でかんじるため、ヨーロッパを訪れました。しかしそこで、新建築よりも、その土地に生まれたひとが造る、その土地の伝統や民族に根ざした建築である初期ルネッサンス建築や、中世ゴシック建築などに魅了されたのです。帰国後、吉田はそれまで憧れていた新建築ではなく、自らの伝統的立脚点としての日本建築に目を向けました。そして日本建築の伝統的な様式のなかで、比較的新しい数寄屋建築を、独自の視点によって近代化した近代数寄屋建築を提案するようになりました。近代数寄屋建築は、洋風の生活スタイルが導入されつつあった当時の日本において、伝統的ながらもモダンさをうまく取り入れていたことから高く評価されました。こうして多くの設計を依頼されるようになった吉田は、日本建築の新たなスタイルを提案したことにより、建築家としては史上二人目の文化勲章を受章しています。岸信介邸は、1969(昭和44)年竣工の吉田の晩年の代表作品で、吉田の建築的特徴のなかから、工業生産材料の使用、各部屋の障子の荒組、また、食堂では押込戸、和室では吊束の廃止と欄間の吹き抜けなどをみることができます。

 本日の三枚です。
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# by sabasaba13 | 2019-12-27 05:46 | 中部 | Comments(0)

御殿場編(2):御殿場(16.5)

 その近くには「来るな!! オスプレイ!! NO!」という看板がありましたが、それはそうでしょう。これほど危険で高価な軍用機はそうざらにはありません。『オスプレイの真実』(赤旗政治部「安保・外交」班 新日本出版社)を参考にご説明いたしましょう。オスプレイ、正式名称はV-22、プロペラの角度を変えることによってヘリコプターのように垂直に離着陸でき、飛行のように水平に飛行できるアメリカの軍用機です。なお「オスプレイ(Osprey)とは猛禽類の一種「ミサゴ」のこと。2011年6月6日、米国防総省はオスプレイを沖縄県宜野湾市の米軍普天間飛行場に配備すると発表し、日本政府もそれを受け入れました。しかしこれに対して、沖縄を中心に反対の声があがっています。その理由は何でしょう。
 まずこのオスプレイは、アメリカでは「ウィドー・メーカー(widow maker)」と呼ばれるほど墜落事故が多いことです。米軍の資料によると2006~11年の五年間だけで58件、死者も出ています。これは人為的ミス(human error)ではなく、機体の構造的欠陥によるものだという指摘がされています。具体的には、強襲揚陸艦への搭載を可能にするため、二つの回転翼が小さいことが原因のようです。強襲揚陸艦で世界中のどこへでも殴り込みをかけるため、安全性を二の次にしたのですね。また軍事評論家のカールトン・メイヤー氏は、「オスプレイ開発に関わる企業が43社あり、配備強行の背後には議会や軍需産業の圧力がある。米軍最大のスキャンダルだ」と憤ります。なお「You Tube」で"オスプレイ 事故"と検索すると、衝撃的な事故シーンをみることができます。その危険なオスプレイが、「世界一危険な基地」と呼ばれる普天間基地に配備されました。そう、宜野湾市の市街地のど真ん中に、まるでドーナツの穴のようにある軍事基地です。アメリカ本国ではあり得ないことですが、「クリアゾーン(事故の可能性が高く、土地利用に制限がある地域)」が、住宅地の上に設定されているのですね。これまでに幾度も米軍機墜落事故にみまわれてきた沖縄の人々にとって、さらに恐怖と不安が増すことになります。
 また、敵レーダーに見つからないように飛行する低空飛行訓練が、日本全国で行なわれています。地上約60mで行なわれるこの訓練は、日本の航空法では禁止されているのですが、政府は容認しています。オスプレイの事故が起きる可能性は、沖縄だけではありません。考えられうる最悪の事態は、オスプレイが核(原子力)発電所近くで墜落し、深刻な事故(severe accident)につながることでしょう。

 そこで安倍首相、提案なのですが、世のため人のため首相専用機としてご利用されたらいかがですか。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2019-12-25 06:10 | 中部 | Comments(0)

御殿場編(1):深良用水(16.5)

 とある雑誌に、冠雪を頂いた富士を映す、水を張った田んぼの写真が載っていました。綺麗だなあ、見てみたいなあ。岩波駅の近くで撮影したとのこと、インターネットで調べてみると御殿場の近くです。そういえば御殿場には行ったことがないなあ。こちらも調べてみると、岸信介や松岡洋右の別荘、秩父宮記念公園、富士を一望できる平和公園があるそうです。よろしい、日帰りで行くことにしましょう。というわけで、新緑にあふれる2016年5月上旬、御殿場とその周辺を散策してきました。
 池袋から湘南新宿ラインに乗って大船へ、東海道本線に乗り換えて国府津へ。そして殿場線に乗り換えて岩波駅へと向かいます。途中の足柄駅からは富嶽がそれはそれはクリアに見えたのですが、好事魔多し、御殿場駅のあたりでは下方から雲が湧き出てきました。岩波駅に着くと、富士はもうすっかり雲の中に埋もれ、天辺だけがかろうじて顔を出しています。いやはや、無念。ま、気を取り直して歩を進めましょう。駅の近くには「深良用水(箱根用水)の沿革」という解説板がありました。
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 後学のために転記します。
 深良用水は、箱根の芦ノ湖を水源とし裾野市・御殿場市の一部長泉町・清水町の灌漑用水として使用されている。郷土の大部分は富士山や愛鷹山から噴出した火山灰や砂礫に覆われていて水田が少なかった。
 深良村の名主であった大庭源之丞は、かねがね箱根山に満々とたたえる芦ノ湖の水を農地に導きたいと考えていた。駿府出身で新田開発の経験もあった江戸浅草の商人友野与右衛門等に工事をお願いした。
 工事はこの二人が中心となり、寛文6(1666)年に工事を始め、寛文10(1670)年に全長約1280メートルの隧道が完成した。深良側と芦ノ湖側の両側から掘ったと考えられ、取り入れ口と出口の高低差は約10メートル、中ほどの結合点には約1メートルの段差があり、これが水流の強さを変えるための人為的な段差なのか否(ママ)は分からないが、大変高度な堀削(ママ)技術を有していたものと考えられる。
 その後、いくつかの堰が造られ、市内の水田に潤いをもたらしている。
 大正11(1922)年にこの水を利用して水力発電所もでき現在に至っている。

 本日の二枚、上は足柄駅から見た、下は御殿場駅から見た富士山です。
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# by sabasaba13 | 2019-12-23 06:54 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(85):帰郷(16.3)

 そしてタクシーに乗って富山きときと空港へ。なお「きときと」とは富山弁で新鮮という意味だそうです。「とやま鮨」でシロエビとしめ鯖をいただき、17:00発のANA320便に搭乗して、空路、帰途につきました。
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 東京が近くなると、ゴルフ場に無残に食い荒らされた場所をよく見かけます。そうか、弱者を犠牲にした経済成長、企業人は傲岸不遜にも自然も弱者だと侮って犠牲にしているのかもしれません。それに対する自然の報復が、昨今多発する自然災害なのだと思えてなりません。自然を犠牲にした経済成長路線を続けるのかやめるのか、そういう意味でも私たちは大きな岐路に立っています。

 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2019-12-21 08:09 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(84):イタイイタイ病資料館(16.3)

 短時間でしたが、この資料館を訪れてよかったと思います。ただ加害企業はもちろん、被害を隠蔽あるいはできるだけ軽く見せようとした学者や行政に対する批判的な視線がもう少しあるべきではないでしょうか。以下、長文ですが引用します。

『医学者は公害事件で何をしてきたのか』(津田敏秀 岩波現代文庫)
 1968年3月に提訴された第一審は患者原告側の全面勝訴となった。1971年9月に開始された控訴審の争点は、患者の症状とカドミウム曝露との因果関係が主なものとなった。
 この控訴審で、医学部教授という肩書きだけで、データにも基づかず不自然な学説を急に組み立てようとした学者がいた。金沢大学医学部教授、武内重五郎氏である。武内氏は、その後、数多く出現する学者の原型のような存在だった。イタイイタイ病弁護団は最初、イタイイタイ病カドミウム説を保持していた武内氏の論文を根拠にしていた。その武内氏が、突然自らのカドミウム説を捨てた。そして、イタイイタイ病の腎障害に関してはビタミンDの過剰摂取が原因であり、イタイイタイ病の骨病変に関してはビタミンDの欠乏によるものであるという、医学部以外の人が見ても極めて不自然な仮説を持ち出して、被告側が申請する証人として裁判で証言した。この仮説には裏付けるような医学的データはなく、武内氏が「そう思う」という仮説でしかなかった。しかし、現実の裁判ではそのような不自然な仮説が通用するものではない。反対尋問でビタミンD欠乏を否定された後、「その他に何がありますか」と尋ねられ、「他にもあります」と言い張るが具体的に挙げられないので、「家へ帰れば言えますか」と続けられ、「家に帰っても言えません」とまで証言せざるをえない状況に何度も追い込まれてしまった。彼はその後、東京医科歯科大学医学部教授に転任した。
 原告勝訴後もイタイイタイ病事件では、国と患者との間で、カドミウム曝露がどのような健康障害を引き起こすかについて長い論争があった。データからは明白な腎臓障害を、あくまで環境庁が認めようとしなかったのである。カドミウム問題では現在でも妙な動きが続いている。1998年、富山で開かれた国際シンポジウム(カドミウムシンポジウム)において、環境汚染による人体への影響を議論するための具体的データの揃え方や方法論をほとんど知らないのに、環境庁の後ろ盾で発言権を与えられ、学会や現場の議論とはほとんど関係のない発言をして議論を混乱させていた学者たちがいた。杏林大学医学部長、長澤俊彦氏と、東海大学医学部長、黒川清氏である。しかし彼らは、シンポジウムの報告書には自らが講演した内容を載せなかった。(p.229~31)


『近代日本一五〇年 -科学技術総力戦体制の破綻』 (山本義隆 岩波新書1695)
 水俣病にしろその他の公害にせよ、いずれも地元の献身的な医師や学校の先生、そして良心的な研究者の手によって患者の存在が確認され、原因とその発生源が突き止められてきたのだが、それから、実際に公害病と認定され企業の責任が問われるまで何年も、しばしば10年以上もかかり、その間にも被害が拡大し続けている。そしてこの過程には、かならずと言っていいほど「権威ある」大学教授や学界のボスの介入が見られる。時に「学識経験者」と称され、官庁や業界に関りをもつことの多いその教授たちは、企業サイドに立って、ろくに現地での調査もせずに、思いつきのような原因論を語る。富山のイタイイタイ病の場合も、地元の開業医・荻野昇医師の調査と研究でカドミウム中毒が突き止められたのにたいして、それを根拠もなく否定したのが、慶応大学教授で産業衛生の権威・土屋健三郎であった。(p.237~8)

 専門家と称する学者が、事故原因の隠蔽や患者の切り捨てに手を貸してきた歴史を世に知らしめること。その責任を追及し、きっちりと落とし前をつけさせること。私たちがそれをしていないがために、今また、同じことが福島でも起きています。
 そして広い視点からこの問題を見ると、近代日本は、弱者を犠牲にした経済成長に邁進してきたという事実に突き当たります。再び『近代日本一五〇年 -科学技術総力戦体制の破綻』(山本義隆 岩波新書1695)から引用します。

 歴史書には「慢性的な輸入超過により巨額の貿易赤字を抱えているなかで、輸出総額の5%を占める産銅業は重要な外貨獲得産業であり、日本最大の産出量を誇る足尾銅山に対して操業停止措置はとられなかった」とある。
 1905(M38)年1月23日、農商務省鉱山局長・田中隆三は衆議院鉱業法案委員会で「鉱業と云ふものは、其国家の一つの公益事業と認めている、随って其事業の結果として、他の人が多少の迷惑を受けるということは仕方がない」と明言している。そして1907年、鉱毒沈殿と渡良瀬川の洪水調節のためという触れ込みで計画された遊水池の予定地となった谷中村は、村民の反対にもかかわらず滅亡させられた。官民挙げての「国益」追及のためには、少数者の犠牲はやむをえないというこの論理は、その後、今日にいたるまで、水俣で、三里塚で、沖縄で、そして日本各地で、幾度もくり返され、弱者の犠牲を生み出してきたのである。(p.87~8)

 実は、公害問題の深刻化とともに、1964(S39)年には厚生省に公害課が設置され、67年には「公害対策基本法」が制定されていたのだが、環境保全を「経済の健全な発展との調和」を図って行うという「経済との調和条項」が抜け道となり、それは、実効性の乏しいものであった。1970年に総理大臣・佐藤栄作は「日本の繁栄は経済成長によるものであり、公害が発生しているからといって経済成長の速度をゆるめることはできない」と開き直っている(『朝日新聞』 1970.7.29夕刊)。半世紀以上前、農商務省鉱山局長・田中隆三はまったくおなじ論理で足尾銅山を擁護した。経済成長を追い続けた近代日本の歴史は、つねに弱者に犠牲を強いてきたのである。(p.242~3)
 言うまでもありませんが、経済成長を追い続ける現代日本も、つねに弱者に犠牲を強いています。安倍政権によるメディア・コントロールは、この厳然たる事実を有権者の眼から隠すためという目的もあるのでしょう。誰かを犠牲にした経済成長路線を続けるのか、やめるのか。やめるとしたら、この国のあり方をどのように変えるのか。日本はいま、ほんとうに大きな岐路に立っています。それを決めるのは学者でも政治家でも官僚でもなく、私たちひとりひとりなのだということを銘肝しましょう。
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# by sabasaba13 | 2019-12-20 06:18 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(83):イタイイタイ病資料館(16.3)

 さて小腹がへったので何か食べますか。すぐ近くにあった「麺家いろは」にふらふらと入り、またブラックラーメンをいただいてしまいました。不安だなあ、社会復帰できるのでしょうか。ふと『包丁人味平』(原作:牛次郎 漫画:ビッグ錠)のブラックカレーを思い出してしまいした。たしかあのカレーには麻薬が入っていたのですね。
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 閑話休題。それでは「イタイイタイ病資料館」を見学して、富山きときと空港へ向かいましょう。アクセスがよくないので、タクシーを利用することにしました。富山駅前でタクシーに乗り、資料館に向かってもらいます。郊外へでると、勇壮な立山連峰がさらにくっきりと見えました。そして「イタイイタイ病資料館」に到着。
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 タクシーには駐車場で待っていてもらって見学することにしましょう。まずは「百科事典マイペディア」からイタイイタイ病についての説明を引用します。
 富山県神通川流域の農村に、頻回(ひんかい)経産婦に多く見られた骨軟化症様の病気。わずかな刺激で病的骨折が起こり、日夜苦痛を訴える。カドミウムの慢性中毒による腎障害から骨軟化症をきたし、これに妊娠、授乳、老化、内分泌の変調などによるカルシウム不足が加わって起こると考えられる。1955年、河野稔らがカドミウム原因説を学会に報告、1968年、厚生省は、三井金属鉱業神岡鉱業所(現・神岡鉱業)の排水中にカドミウムが含まれ、これによって汚染された農産物、魚類、飲用水を摂取したことを原因とする公害病との見解を発表。イタイイタイ病の認定患者は2011年末現在で196人、そのうち現存患者は4人。
 それでは入館いたしましょう。展示室は、①神通川とともにあった暮らしの原風景、②イタイイタイ病の発生と被害の実態、③原因究明、健康と暮らしを守る動き、④流域住民の健康を守り、患者を救う、⑤美しい水と大地を取り戻してきた環境被害対策という五つのコーナーに分かれており、ジオラマ、絵本、映像などを多用して子どもにも分かりやすいよう心掛けているのが印象的でした。そうですよね、私たちにとって唯一の希望は子どもです。
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 やはりその病状の恐ろしさにあらためて息を呑みました。症状が重くなると骨折をくり返し、全身を襲う痛みの中、ついに一人では動けなくなって寝こんでしまう。特に恐ろしいのは、寝こんでからも意識は正常なまま「イタイ、イタイ」と苦しみ、食事も取れずに衰弱しきって死を迎える… このような証言もありました。
 息を吸うとき、針千本か二千本で刺さすように痛いがです。

 痛くて痛くてかなわんで、はってでも行けりゃ、川へでも入って死ぬんやけれど。

 わずかな娑婆だと思っておりますけれども、こんな苦労をせんならんかなと思うと、残念やら悲しいやらわかりません。どれだけ涙を流しても足りません。
 骨粗しょう症の大腿骨と正常なそれの複製を実際に持てるコーナーがありましたが、その違いに衝撃を受けました。こんなに軽くスカスカになってしまうのか…
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# by sabasaba13 | 2019-12-19 06:18 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(82):富岩運河と中島閘門(16.3)

 それでは富山へ戻りましょう。ふたたび氷見線に乗ると、藤子・F・不二雄氏と藤子不二雄A氏が出会った定塚小学校が見えるという車内アナウンスがありました。イタイイタイ病の舞台となった神通川を渡ると富山駅に到着。
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 飛行機の出発まであまり時間がないので、富岩(ふがん)運河の中島閘門を見て空港に向かうことにしました。駅構内には「富岩水上ライン運河クルーズ 水のエレベータを体験しよう!」というポスターがありましたが、時間の関係で乗ることができません。無念、再訪を期しましょう。となりには昨日訪れた井波八日町通りの観光ポスターがありました。
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 富山駅前からタクシーに乗って、富岩運河と中島閘門に到着。
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 まずは富山県のサイトから転記します。
 明治期までの神通川は、富山市中心部で大きく蛇行して流れており、洪水時にはこの箇所でよくあふれていました。このため、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの提案を受け、明治34年(1901)~36年(1903)、この蛇行している区間の西側にまっすぐな水路を建設し、川の流れを直線化する「馳越線(はせこしせん)工事」が行われました。いまの富山大橋から富山赤十字病院あたりの区間です。
 この工事は、川の中央に幅2m、深さ1.5mの細い水路を堀り、自然の力を利用し洪水のたびに少しずつ水路の幅を広げていくものでした。現在のように、完全に流れを移し替えたのは大正10年(1921)頃のことです。
 神通川の馳越線工事の結果、元の神通川はわずかに松川を残すのみで、広大な廃川地が富山駅と市街地の間に横たわり、都市の発展に大きな障害となっていました。
 このため、東岩瀬港から富山駅北まで約5kmの運河を作り、運河を掘ったときの土砂で神通川の廃川地を埋め立て、新市街地を作る計画が作成されました。
 この運河は、富山市と当時の東岩瀬町の両市町をつなぐことにより「富岩運河(ふがんうんが)」と名付けられ、富山県ではじめて都市計画事業として、昭和5年(1930)から建設を行い、昭和10年(1935)に完成しました。(中略)
 また、富岩運河の建設により、東岩瀬港と富山駅北が水路でつながり、舟による資材の運搬が非常に便利となり、運河沿岸は一大工業地帯を形成することになりました。
 富岩運河の河口から約3km付近に、上流と下流の水位差2.5mを調整するための施設、中島閘門(こうもん)が設置されています。
 この閘門は、富岩運河の建設にあわせて昭和9年(1934)に設置され、上流の工場へ原料を運ぶ船が運河を上り下りするのを助けました。(中略)
 昭和30年代から高度経済成長期になると、トラック輸送への交通手段の変化や周辺の宅地化により環境問題が厳しくなるなど、工業立地の優位性は低下し、周辺の工場では規模縮小や業種転換・撤退などが進み、運河本来の利用がされなくなりました。運河の水は汚れ、岸辺も草ぼうぼうの状態となり、昭和50年代には、運河を埋め立て、道路をつくる計画も作成されるなど、富岩運河は消滅の危機を迎えたのです。
 消滅の危機を迎えた富岩運河でしたが、物よりも心のゆとりや潤いが求められる時代を迎え、都市部の貴重な水面として見直され、昭和59年に、富岩運河は遺されることとなりました。そして、昭和60年以降、都市の水辺空間として再生を目指し、富岩運河環水公園の整備や「ポートルネッサンス21計画」による遊歩道などの環境整備、中島閘門や牛島閘門の復元工事が行われ、富岩運河は、親水空間としてよみがえったのです。
 なるほど、運河に歴史あり、ですね。文中に登場した明治政府よるお雇いオランダ人技師、デ・レーケ(1843~1913)は忘れられない人物です。淀川、木曽川、庄内川、吉野川、多摩川、木曽川等の河川改修にも深い関わりを持ち、四国の脇町では「デ・レーケの堰堤」と呼ばれる見事な砂防ダムをつくりました。いずれも難工事のうえ、伴った妻・息子・義妹を病で次々と失うという不幸にも会いながら、誠実に仕事をこなしたデ・レーケ、忘れられない人物です。なお彼のお墓はアムステルダムのゾルフリート墓地にあるそうなので、いつか機会があったら掃苔に行きたいものです。
 さて中島閘門ですが、上流と下流で水位差が2.5mあるため、二対の扉で閉じられる閘室に水を出し入れして舟を上下させる仕組みです。この「水のエレベーター」を体験できるのは日本ではここだけ、これはぜひ乗ってみたい。こちらも再訪を期しましょう。なお以前にオランダの運河クルーズで体験しましたが、ほんとうに楽しいですよ。
 なお当時の閘門操作室も残されていました。運河の水面が青空と雲を映す眺めも素敵ですね。それでは富山駅へと戻ってもらいましょう。駅付近からも立山連峰がみごとに見えたのには驚きました。
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 本日の二枚です。
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# by sabasaba13 | 2019-12-18 06:21 | 中部 | Comments(0)

福井・富山編(81):雨晴海岸(16.3)

 そして氷見線に乗ること二十分ほどで雨晴駅に着きました。駅から歩いてすぐのところに雨晴(あまはらし)海岸があります。
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 観光サイト「たかおか道しるべ」から引用します。
 万葉集に「渋谿(しぶたに)」と詠まれた雨晴海岸は、岩礁多く白砂青松の景勝の地で日本の渚百選の一つにも選ばれており、天候に恵まれれば富山湾越しに3000メートル級の立山連峰を望むことができます。「義経岩」は、源義経が奥州へ落ち延びる途中、にわか雨の晴れるのを待ったという岩で、地名「雨晴」の由来となっています。また、この景色は、松尾芭蕉が『おくのほそ道』に詠んだ由緒地であり、女岩と義経岩は「おくのほそ道の風景地」-有磯海-として名勝に指定されています。
 ここは以前に訪れたことがあるのですが、残念ながら立山連峰はかすかにしか見えませんでした。今回は…おおっ、完璧ではありませんが海ごしに残雪を戴く立山連峰を一望することができました。胸がすくような素晴らしい景観です。ま、これで諒と…いやいや、掲示してあった写真のような絶景を見るために、もう一度挑戦してみたいですね。
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 本日の一枚です。
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# by sabasaba13 | 2019-12-17 06:17 | 中部 | Comments(0)

『i -新聞記者ドキュメント-』

『i -新聞記者ドキュメント-』_c0051620_1019175.jpg 森達也氏の新作映画「i -新聞記者ドキュメント-」が公開されたそうです。氏の映画は「A」しか見たことがありませんが、『日本人と戦争責任』(高文研)、『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』(晶文社)、『戦争の世紀を超えて』(講談社)、『言論統制列島』(鈴木邦男・斎藤貴男・森達也 講談社)、『世界が完全に思考停止する前に』(角川文庫)、『世界を信じるためのメソッド』(理論社)、『悪役レスラーは笑う』(岩波新書)、『ご臨終メディア』(集英社新書)など、評論やエッセイは何冊か読んでいます。常識や先入観にとらわれず、自分の頭で考え自分の言葉で表現するその姿勢には学ぶところ大です。その森氏が、何と東京新聞の望月衣塑子記者を取り上げたドキュメンタリー映画を作られたとのこと。これはぜひ見なくては。山ノ神を誘って池袋のヒューマックスシネマで見てきました。
 まずは公式サイトから、本作についての紹介文を引用します。
 現代日本に大きな衝撃を与え大ヒットを記録した、権力とメディアの"たった今"を描いた衝撃の問題作『新聞記者』のプロデューサーが新たに世に問う。蔓延するフェイクニュースやメディアの自主規制。民主主義を踏みにじる様な官邸の横暴、忖度に走る官僚たち、そしてそれを平然と見過ごす一部を除く報道メディア。そんな中、既存メディアからは異端視されながらもさまざまな圧力にも屈せず、官邸記者会見で鋭い質問を投げかける東京新聞社会部記者・望月衣塑子。果たして彼女は特別なのか? そんな彼女を追うことで映し出される、現代日本やメディアが抱える問題点の数々。
 本作の監督を務めるのは、オウム真理教の本質に迫った『A』『A2』、ゴーストライター騒動の渦中にあった佐村河内守を題材にした『FAKE』などで知られる映画監督で作家の森達也。この国の民主主義は本当に形だけでいいのか、メディアはどう立ち向かうべきか。森監督の真骨頂ともいえる新たな手法で、日本社会が抱える同調圧力や忖度の正体を暴きだす。菅官房長官や前川喜平、籠池夫妻など、ここ数年でよくメディアに登場した渦中の人間が続々と登場し、これまでの報道では観られなかった素顔をも映し出す。報道では決して映し出されない、現代日本の真の姿。既存の社会派ドキュメンタリーとは一線を画する、新たな社会意識をもった前代未聞のドキュメンタリーが誕生した。
 冒頭のシーンから、キャスター付バッグをがらがらとひっぱりながら、精力的に取材をする望月氏の姿に圧倒されました。食事をとる場面も迫力満点、一食入魂です。会見を取材した後、単独行動をして建物内で迷ってしまったシーンのテロップ、「望月衣塑子は集団行動が苦手だ」「望月衣塑子は方向音痴のようだ」には笑ってしまいました。スクリーン狭しと取材し調査し質問し報道しまくる望月氏ですが、そこに貫かれているのは弱者・被害者への共感と、権力への怒りと不信、そして真実を追い求める熱意です。圧巻は、官邸の定例会見における、菅官房長官への質問です。「ご指摘には当たりません」「あなたの質問に答える必要はありません」と木で鼻をくくったような菅氏の対応や、「早く質問にうつってくださーい」と人を小馬鹿にしたような上村秀紀報道室長の質問妨害にも負けずに、質問をくりかえすその姿にはジャーナリスト魂を見ました。

 それにしても、なぜタイトルを「i」としたのか。衣塑子の「i」であるとともに、一人称単数の「i」であることが最後に明かされます。そう、この映画のテーマは、メディアへの批判だけではなく、個人と組織・集団の関係なのですね。安倍政権がからむさまざまな事件や問題を手際よくまとめてくれた本作を見て、そうした事件や問題が、組織によって引き起こされたことが得心できました。森友学園の土地を値引きした財務省、加計問題に安倍首相が関与していたことを隠蔽した文部科学省、伊藤詩織氏に性暴力を加えた疑惑のある「アベ友」山口敬之氏を不起訴とした検察庁、辺野古埋め立てに赤土を使い宮古島では住民に知らせずに弾薬庫をつくろうとした沖縄防衛局。そして、普通の国だったらすべて倒閣につながるようなこうした事件を、徹底的に追及・報道しない新聞社。この映画を見て、不思議に思い、かつ怒りがこみあげてきたのは、官邸の会見で菅官房長官を舌鋒鋭く質問を浴びせる望月記者が孤立していることです。あの木で鼻をくくったような、国民を舐めきった菅氏の答弁に対して、なぜ他の記者たちは怒らないのか。望月氏を援護射撃しないのか。組織防衛のため、権力に睨まれるのを避けるためなのですね。日本には、新聞社の一員にならないと取材ができないという足枷があります。ちなみにドイツでは、ジャーナリストのギルドに入っていれば自由に取材ができることを本作ではじめて知りました。
 ラストシーンも印象的です。安倍首相の街頭演説に集まった、彼を支持する人々と批判する人々との間で沸騰する、怒号・罵声の見苦しい浴びせ合いです。このシーンに、有名なロバート・キャパの写真をつなげて、集団に埋没した「i」たちのおぞましさと恐ろしさを表現したのは見事な演出でした、
 個を一つに融合した組織・集団による不正・犯罪・不作為、そして組織・集団の威と力を後ろ盾とした個の残虐と没義道。近現代日本の問題点はここに凝縮されていると思います。最後のナレーションで、森氏自ら一人称単数の大事さを説いておられましたが、個として考え判断し行動しようというのが氏のメッセージであると受け取りました。そう、望月衣塑子氏のように。

 追記です。この映画評を書いていて、ふと「組織的な残虐性」という言葉が脳裡をよぎりました。誰の言葉だったっけ、手持ちのデータに検索をかけると朝日新聞(1994.12.31)のインタビューにおけるリー・クアン・ユーのものでした。以下、その一部と佐田智子編集委員のコメントを引用します。
【佐田】 新しい年に私たちは戦後五十年を迎えます。日本が過去にきちんと向き合えるかの大事な年でもあります。ご自身の戦争体験を話していただけませんか。
【リー】 私は、日本の占領による恐怖、ショック、ぞっとする思いを忘れることができません。突然、シンガポールが中世に、暗黒の時代に、戻ってしまったようでした。
 日本軍の侵攻から二、三日後に、彼らは切り落とした首、人間の首を、木のくいや横木にのせて、シンガポールの大きな七、八カ所の橋の上でさらしものにしました。私もその一つを、オーチャード通り(市の目抜き通り)の高層ビルの近くで見ました。首には漢字の札が下げられ、悪いことをすれば、同じように処理される、と書かれていた。
 また、日本兵の歩哨が、将校の車が通過する際、敬礼が遅かったというだけで、将校が車をわざわざ戻し、兵隊を平手打ちにし、空中に投げて、道路にたたきつけるのを見ました。
 私は、これは異なる文化だ、組織的な残虐性を信奉する、異なる人々なのだ、と結論しました。
 そしてその同じ残虐性が、五万人かも十万人かもしれず、だれもその数を知らない、私と同じ年ごろの、若い中国人男性の大虐殺を引き起こしました。
それは非常に恐怖にみちた体験でした。虐殺は戦闘の渦中にではなく、戦闘の後、勝利をおさめた後に行われたのです。それは冷血に、計画されたのです。

 12月のシンガポールは雨期だった。着いて離れるまで、ずっと雨が降り続いた。熱帯の木々が茂る大統領官邸の別館に、かすかな雨の音と鳥の声に包まれて上級相の執務室はあった。
 指導者であり続ける人の大きな笑い声。欧米のマスコミに一方で「ソフトなアジアの暴君」と評され、一方で「アジアの賢人」と呼ばれる。雨の日の自室には賢者の雰囲気が濃かった。
 一番驚いたのは、日本と日本人がこの五十年間に少しも変わっておらず、しかも非常に特異な国と人々だと考えていることだった。国内的には「日本に学べ」と驚異の経済成長に成功し、日本社会と日本人の特質を「称賛する」という人が、同時に「これは違う文化だ、組織的な残虐性(システマティック・ブルータリティー)を信奉する人々だと確信した」と語る。胸に重かった。
 半世紀前の戦争の時代を目前に見るように聞かされながら、私が思い描いていたのは、日本で再び吹き荒れている学校でのいじめの問題、その光景だった。
 戦後五十年の日本、未来をつくる公教育の場で吹き荒れるシステマティック・ブルータリティー。教師たちの体罰、どこも同士のいじめ。人が人として尊重される権利、人権の侵害、という言葉が、それは最もふさわしい。
 辞書にはブルート(けだもの)、ブルータリティー(残忍、非人間的なこと)とある。
 リー氏は「死を恐れない日本の兵隊」とも言った。たぶん正確には「死を恐れないように教育された」人たち。生き続けるという人間の最も基本的な権利を自ら否定させられる者は、恐らく他者にもそう振る舞いやすいのではないのか。
 このシリーズの最初で後藤田正晴・元副総理は、あの戦争の後日本はなぜ手ぬるい反省しかできなかったかを、「要するに国家がまずあって、個が確立していないんですよ」と語った。
 直視し、清算しなかった過去は、未来を再生産する学校という場に凝縮して現れているように思える。
 日本という国が引きずる過去の深い淵をのぞき込むような気持ちだった。

# by sabasaba13 | 2019-12-16 08:25 | 映画 | Comments(0)

言葉の花綵199

 労働階級諸君、歴史は自然との闘争である。窮乏、無知、貧困、無力、および人類が歴史の始めに登場したときの我々の状態であった、あらゆる種類の不自由との闘争である。この無力の克服の進行、これが歴史の示すところの自由の発展である。(ラッサ―ル)

 一人を殺せば、不義の行為として、必ず死罪にされる。この論法でゆくと、十人を殺すものは、十不義を重ねたのであり、十倍の死罪にしなければならず、百人を殺すものは、百不義を重ねたのであり、百倍の死罪にしなければならない。ここまでは天下の君子の誰もがわきまえている。しかし、大きく不義を犯してひとの国を攻めると、非難しないで、名誉とし、正義とする。それが不義であることを全然ご存じない。それ故に私はこの書物を書いて後の者に残す。天下の君子は、義と不義の乱れを見わけなければならないのである。(墨子)

 一世紀にわたる政治教育のおくれは、十年でとりかえせるものではない。(マックス・ウェーバー)

 人権の無視と軽侮とは、人類の良心をふみにじる野蛮行為を生じさせる。(世界人権宣言前文)

 一口にいえば、私は経験によって、この世にあるどんないいものでも、われわれがそれを使える範囲でしか、われわれにとって価値がないことを知った。(デフォー 『ロビンソン漂流記』)

 そして私は誓うのだった。私の一切の力をもってこの憎むべき元凶と、戦争と、戦うことを、それを準備しそれで生活している者どもと戦うことを、戦争の永遠のギセイ者である人民を防衛することを! (トレーズ)

 思想というものはいつになっても、ドグマにも党派にも感情にも利害にも先入見にも、どんなものにも、それが事実そのものでないなら盲従してはならない。思想にとっては、盲従することはもはや思想でなくなることだからである。(ポアンカレー)

 貧乏人があまり貧乏になりすき、金持があまり金持になりすぎると、貧乏にはどうすれがいいかをしっている。(パール・バック 『大地』)

 ひとり徒歩で旅したときほど、ゆたかに考え、ゆたかに存在し、ゆたかに生き、あえていうならば、ゆたかに私自身であったことはない。徒歩は私の思想を活気づけ、生き生きさせる何ものかをもっている。じっと止まっていると、私はほとんどものが考えられない。私の精神を動かすためには、私の肉体は動いていなければならないのだ。田園の眺め、快い景色の連続、大気、旺盛な食欲、歩いてえられるすぐれた健康、田舎の料亭の自由さ、私の隷属を思い起させる一切のものから遠ざかることが、私の魂を解放し、思想に一そうの大胆さをあたえる。(ジャン・ジャック・ルソー 『告白』)

 少数者がきわめて富み、多数者がきわめて貧しいために、人びとの心がたえず自分の富もしくは貧困を考えざるをえないような社会は、じつは戦争状態にある社会である。その戦争が公然と行われているか、もしくはひそかに行われているかは問題にならない。…こうした社会は、その内部におけるさまざまの緊張状態のために安定をうばいさられることとなるから、自由な社会ではありえない。したがって、こうした社会は恐怖にみち、理性をもって事に処する力が保証されるような雰囲気がなくなってしまう。(ハロルド・J・ラスキ)
# by sabasaba13 | 2019-12-15 08:36 | 言葉の花綵 | Comments(0)